哲学者、池田晶子氏

某月某日 前回の日記にも記したとおり、いまだ哲学者、池田晶子氏の文章に考えさせられるところあり、長く日記を中断した。氏は毎日新聞社刊「考える日々」2刊の中でこう述べている。日本の「エッセイ」は「身辺雑記」となりがちなことに対し、本来のエッセイとは「試論」であり、思考と言葉さえあれば、特に書くネタを探す必要はないと。慧眼である。もともと我々ミュージシャンの日記の欄は、ライブのお知らせとかその活動内容を、時にはおもしろおかしく書いたり宣伝したりするものであるが、不特定多数の人が読むということを念頭におけば、やはり言葉というものを、もう少し大切にしなければいけないのではないかと、はたと考えこんでしまった。今までのぼくの文章は、それこさ「身辺雑記」であり、またそれを書き記すことに、何の疑問ももっていなかった。多少今までの文章を肯定、または居直る風にとらえることができる考えの隙間は、ぼくは文筆業ではないということである。池田晶子氏は、もちろん哲学者であるが、自らを、文筆業と称している。これに免じて、自分自身の言葉に、少し甘やかしを含めても良かろうと思い、また書き出した次第だ。そう、前述したとおり、宣伝をまずします。新しいCDの発売日が決まりました。9月10日、タイトルはまだ未定。前回の「TOUCHES&VELVET」の続編の要素を持ちながら、雰囲気は全然違うとだけ記しておきましょう。詳細はまた日記によってお知らせします。うむ、このぐらいの文章ならば、自分の言葉に責任が持てるな。ではもう少し書いてみようかな。宣伝を続ける。7月には、再度ビコペンハーゲンジャズフェスティバルに、デンマークのトランぺッター、キャスパー・トランバーグのグループにて出演する。その前後に、EWEの協力を得て、我々の三枚目のCDを録音する算段となっている。このことも、また日記において詳細をお伝えしよう。新しいCDのジャケットのデザインをどうするか、今EWEの担当者と話し合いをしているが、ぼくが見つけて来た某写真家の作品に、これだ!という写真を発見し、今その担当者が、著作権のことに関して奔走している。ジャケットの出来も乞うご期待である。さあ、次回から、少し池田晶子コムプレックスを脱して、また日記を不定期ながら書いてゆくこととしよう。 某月某日 また長く日記の更新が遅れた。それにはいろんな理由があるが、主な理由として、哲学者、池田晶子氏の一連の本に入れあげていたということがもっとも大きな理由だ。池田氏はいう。言葉はロゴス(理念)ではならなければならないと。氏の本を読み続ける程、ぼくの中の言葉の意味が曖昧になってしまった。ぼくは哲学者ではないから、そこまで考えなくていいのかもしれないが、いまだ気軽に文章を書くという気にはなれないのも事実である。自分なりに納得するまで、あまり文章は書くまいと思っている。いずれまた自分の中で文章というものに納得できた時点で、この日記を再開したいと思う。しばしお待ちを。 某月某日 さて、今晩も眠れそうにない。時間は午前二時半。デューク・エリントンは夜中じゅう曲を書いていて、昼はねていたそうだ。ぼくも時どき真夜中に曲を書いたりするが、毎晩てわけでもない。真夜中に起きていて何もできな時の方が多い。元もと一人暮しなのだから、なんだかんだと干渉する人はいないのだが、それでも夜中ともなれば、自然と思考は内向的となり、禅でいうところの、妄想はいずるに任せよ、去るに任せよといった状態となりがちだ。この人生というやつ、これからどうなってゆくのであろう。いずれにせよ、終わるまではつきあわねばならぬようだ。自分が自分でつきあえそうな人生を過ごして行かねばならない。文章では一言でこう記すことができるが、実際それを選択しながら生きるとなると、膨大なエネルギーが必要なのは必須で、さて、それをどこから捻出するか。夜中に起きて手すさびで、妙な日記を書いていたって、どうにもならないことだけは分かっているんだが。昨日の天気のせいも有りあまりテキパキとは動けない。珍しく、東京の空が、北欧の空のような色をしていた。なぜかカラスの数も少なかったような気がする。寒いのがいやなのではなくて、寒いということが自体が面倒くさくなってきた。だからといって春を待ちわびる心境ではない。花鳥風月の月だけがぼくの慰めで、花、鳥、風は東京に住んでいると、なかなか体感できるものではない。少なくともぼくのまわりでは。そうそう、自己宣伝を忘れてはいけない。今月10日にデンマークのトランペッター、キャスパー・トランバーグとのCDをEWEからリリースした。タイトルは「SOCIAL AID AND PLEASURE CLUB OF COPENHAGEN」EWCD0090, ? http://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=685詳しくは、フリーぺーパーの「JAZZ DODAY」を見てください。音楽的にものすごいことが起こってますよ。また、今週末にはピアノトリオ+ストリングスの第二段目の弦楽器のレコーディングも控えている。まあ、ものごとは、何となく先に動いているというわけだ。 某月某日 いつもこの日記の冒頭に、某月某日と書き込んでいるが、さしたる意味はない。日時がはっきりしていたとしても、生きているという連鎖の中では、その日が何日であり、何年であるかは、あまり用をなさないと思うからだ。少なくとも僕の感覚でいえば、連鎖の中のある一断面を、フィクションであるかノンフィクションであるかのあいまいな線で、いろいろ書いているわけだから。日記はその日起こった事実を書き、そこに筆者の感想を入れるというのが正しい書き方なのだろうが、現実に起こったことを、完璧に、一分の隙もなく書き表わすというのは、少なくとも僕にとっては無理な話である。そして、僕の気持ちの根底にあるものは、いったいこの国はこれからどうなってしまうんだろう、という不安定さが今まで書いてきたこの日記を支えている。どちらかといえば、これは負の思考であって、あまり物事を、明るく、希望に満ちて、というスタンスはとっていない。だからこの日記に関しても、二日に分けて書いているといった仕儀で、思い浮かんでくる言葉は、その間々々に湧き出たものであり、トータルとしての文章を考えれば、何となくまとまっていればいいと思っている。 >>>

東京の雪

某月某日 東京の雪も、たまには風情があってよろしい。転んで怪我した人がこの文章を読んだらいい気分はしないであろうが、自然界がその自然を自然に装うのだから、ある意味ダイナミックでもある。またこんなことを書くと、大雪に苦しむ北国の人に怒られそうだが。その雪が残りかたく固まった路傍を避けて、恵比寿ガーデンシネマへウッディ・アレンの映画「ENITHING ELSE」を見に行った。邦題は、僕のニューヨークライフという。やはりうーんと唸らされた作品であった。アメリカのショウビジネスの底の深さには毎回感嘆とする。都会的粋なウイット、そしてどこか人生を傍観せざるを得ないという、ウッディ・アレンの映像と視点。今回のその傍観感覚は青春物語としてストーリーが組み立てられているが、傍観の苦味はやはりすこぶるビターでであった。ほとんどのウッディー・アレンの映画を見ているが、一番好きなのはやはり「MANHATTAN」だろう。あの頃の視点から一貫しているこのビターな味を映像でなぞること自体が快感になってしまった。年一作程という生産量もちょうど良い。しかし同時に、アメリカ人に生まれなくて本当によかったと思う節もある。あそこまで言葉、言葉、会話、会話が無いと、人と人とのコミュニケーションに支障があるのだろうか。身ぶり手ぶりを交えてである。アメリカに住んでいたこともある僕だが、あそこまで大げさに何かを表現しなければコミュニケーションに支障をきたすということであれば、やはり、ニューヨークっ子でさえ、江戸時代の日本人の「粋」にはかなわないのではないだろうか。これは負け惜しみかな。例えば、「よっ、待ってました、いわずと知れたことを言うのは不粋ってえもんだあね、ひとつあっしにまかしといておくんなせえ。」の一言ですむものを、今回の映画の登場人物は、永遠にその瞬間瞬間思ったことを相手にぶつけ、しゃべり続ける。まあ、LA製のFOUR LETTER WORDばかりの、ドンパチカーチェイス物より、今回のような映画の方が好きだけれども。誰かウッディー・アレンの映画の粋さ加減と江戸っ子のそれとの対比、という論文でも書いてくれないだろうか。と、高踏遊民のようなことばかり書いてしまったが、現在、新しいCDの曲順を決めるので大変である。演奏より大変だと言ってもやぶさかでない。プロデューサーである菊地君と、時間をかけて根を詰めたやり取りをしていて、生みの苦しみと喜びを同時に味わっているところだ。発売は5月あたりだろうか。この情報はまた追って日記に書きたしたいと思っている。 某月某日 朝、ふらっと起きる。本当にふらっとする感じで。しばらく経ってから沐浴。アメリカの生活が長かったのか、冬でも朝シャワーを浴びるのみ。風呂にはなぜか入らない。後、近くのCAFEにて朝食のような昼食のような食事。産經新聞を読む。相変わらずテロのこと、金成日の中国訪問だの、本の書評など読みながら食事を終える。こんなことをこんな風に書いてしまっては、批判はあるかもしれないが、僕には国際問題、株のこと、経済政治のこと、ひとつとして自らが変えられないことに改めて気付く。日本ははたして独立国家なのか。後、岸田秀著、「唯幻論物語」を少し読んでからピアノの練習にはいる。この本は、小谷野敦著「すばらしき愚民社会」でやり玉に挙がっていたので、逆に読む気になった。坂口安吾は今年中に読み終わればよい。(前の日記に記した通り、坂口安吾全集を買ってしまった。)いわんや、今年中でなくても、じっくり読んで損の無い本、芸術である。ピアノを練習などと、日記にあからさまにその状態を書くことこれ即ち、カッコウの悪いことである。普段遊びほうけ、ぶらぶらしているようにしか見えない輩が、一旦ピアノを弾くとなるとピカ一であるというのが理想ではないか。僕も日記上ではそう書きたいものだが、いかんせんそうは行かぬ。午後からこもって練習。内容は秘密、というか文章で表しきれない。葛藤、黙考を繰り返しつつ、フィジカルな拷問トレーニングをこなす。これを夜10時ぐらいまで続けると、とにかく外に出たくなる。なじみの居酒屋にて、ポン酒四合飲酒。ざまあみやがれってんだあという気分と共に帰宅。今日も、世界中で餓えている子共を救えなかった。ジャワ島大地震の基金に2円入れた。お笑い下さるな。僕に何ができるのか。明日は我が身ではないか。部屋の空気を入れ替える。何も無い一日であったが、何かある一日でもあった。僕のまわりで世界は動いており、僕はそのことと関係したりしなかったりする。人の世は基本的にFUCKである。しかしその中にも、FUCKでないものを探し出したいという欲求はいまだ枯れてはいない。たぶん明日もふらっと起きるのであろう、否、そう願いたい。 某月某日 今週末の1月15日(日)、鎌倉にあるクラブ「DAPNE」でボーカリストのギラ・ジルカと演奏する。DAPNEはもともとパン屋さんらしく、料理もうまい。店の雰囲気も、スイスのコテージ風で、鎌倉の隠れ家という言葉に匹敵するいかした場所だ。お時間がある方はぜひ聴きにきてください。さて宣伝はさておき、去年末から家の電化製品がぶっこわれまくって往生ししている。まず電話が壊れ、洗濯機が壊れ、安くない出費にて新品を購入。年末故、経済的にあっぷあっぷになってしまった。しかしそれで話は終わらない。新年そうそうエアーコンディショナーが壊れた。リモコンの運転/停止ボタンを押してもうんともすんともいわない。手動でスイッチを入れても途中で止まってしまう。しょうがないので修理の人に来てもらった。まずリモコンがいかれたといったら、修理のおじさん、リモコンのボタンをぐっと強く押した。スイッチが入った。つまりリモコンが古くなっていて、相当力を入れなければ運転/停止ボタンが作動しないというただそれだけの理由であった。一応エアーコンディショナーの中も点検してみたが、特に悪いところはないようで、リモコンのボタンを強く押すということのみに、修理代、出張費あわせてウン千円支払わねばならなかった。何たる不条理な。ボタンを強く押すということのみに支払わねばならなかった料金は、決して安くはない。どうせ壊れるならもっとダイナミックに壊れてくれれば良いものを。そういえば新年早々メガネも壊れた。どうしようもない。また悪いことに、「日本の古本屋」というサイトを見つけた。衝動的に坂口安吾全集を買ってしまった。インターネットは恐ろしい。目の前のボタンを押すだけでどんどん散財する。今度壊れるものは何か。僕の頭は修理できないので、たぶんコンピューターの番だと思っている。 某月某日 今晩は、なぜ酒を飲むのかということを考えながら、酒を飲んでいる。正月この方、夜半からトロトロと酒を飲む習慣がついてしまって、ここに適当なツマミと落語のCDを聞くことができれば、後は何も必要ない。こんなことを書くこと即ち、正しい正月ばなれができない証で、別に誰にも迷惑はかけていないが、少なくとも日本国家のために成っているともいえまい。困ったものだ。 某月某日 下の段には、あけましておめでとうなどと書いてはあるが、刻一刻時間は先に進み、また日常世界の軌道へ、僕自身だんだん近付いてゆくような気がしている。正月は寝正月だと書いたが、同時にたくさん落語のCDも聞いていて楽しかった。僕は春風亭柳朝のファンだが、やはり、志ん生、圓生にも敬意をはらいながら聞く。小今亭志ん生の本「びんぼう自慢」を読んだ後、彼の話しを聞くのも、アジがあってよろしい。日本人に生まれてきて良かったと思えるのは、落語を聞いている30分前後の時間である。あとは、電話すれば即座にドアまでテンプラ蕎麦、寿司などが出現するというところぐらいだろう。 某月某日 あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願い致します。 某月某日 と書いても、今日はすでに1月5日であり、この日付けから察しがつくと思うが、文字どおり、寝正月で三が日を過ごした。何もしないということはかえって難しいが、それを実践した三が日であった。この日記も書き込むのに相当な時間がたっており、今年からはなんとか書く機会を増やそうと思うところである。いずれにせよ、今年ぼくがかかわる音楽のプランについて簡単に述べたいと思う。今年の春には「TOUCHES&VELVETS」の第二弾のピアノトリオ+ストリングスのアルバムがリリース予定である。同時に、デンマークの盟友、キャスパー・トランバーグとの三枚目のアルバムもリリース予定だ。今年夏はまたコペンハーゲンに行ってジャズフェスティバルでの演奏も決まっている。今年のメインテーマはこのあたりにありそうだ。元来正月の時期をどうおくるか、苦手なたちである。こちらが仕事をしたいと思っても、関係各所は休みとなる。サラリーマンではないから、自主的に休みの時期を設けなくてはならない。新年仕事始めもまた然り。しかし、新年そうそう午前二時からピットインにて年越しライブの演奏をした後、昼夜が完全に逆転し、正月から外が薄暗くなってから起きるような生活パターンになってしまった。これではドラキュラかゾンビの如くであるが、このサイクルを打ち壊しそうなハプニングが生活の中で起こりそうもないので、たぶん今年一年はこういう仕儀なのだと自分勝手に思いlこんでいる。太陽から見放された男である。昼夜逆転の時空の中で、仕事初めのきっかけをつかまなければならない。まあ、昨年末に次期アルバムのレコーディングが無事済んでいるので、この企画のプロデューサーである菊地成孔氏と、自然一月はこのことで忙しくなると思われるが。次期アルバムのことは、またこの日記の欄でもお知らせしようと思っている。乞うご期待。 某月某日 新宿PIT INN での3DAYSが終わり、人心地つこうと思っていたら、ピアノを教える約束をしていた人が普段より多くやってきたので、それにも対処していたら疲れきり、ある意味エアポケットの中に入ってしまった。二日ほど読書をして体を休め、新たに12月に向けての準備が始まる。話が飛ぶようだが、今公開中の映画、「大停電の夜に」が松竹、東急系列で全国ロードショウ中だ。そして何を隠そう、この映画で重要な部分でピアノを弾いているのは誰あろうぼく自身だ。まだ映画を見ていない人に配慮して書けば、というのも、ストーリーそのものをあからさまに書くと興ざめであるので、ぼくがソロピアノを弾いている部分だけを紹介しよう。まず子共の生まれるシーン。妊婦を担いでトンネルの中から出てくるシーン。ローソクに火を灯すシーンなどでぼくのソロピアノが場面を盛り上げている。少し舞台裏を明かせば、これらの各シーンは、スタジオにおいて、これらのシーンの抜粋を見て、即興で演奏したものであり、新しいタイプの仕事だったので楽しかった。今までの邦画のイメージを大きくしのぐ、素敵なできばえと成っている。興味のある方は、是非御観覧あれ。もちろんサウンドトラックはEWEから発売されている。詳しくは、EWEのサイト、http://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=656を参照して下さい。ビクター・ヤングの名曲、「MY FOOLISH HEART」も演奏しています。全ての人に素敵なクリスマスが訪れますように。また「TOUCHES&VELVETS」の第二段のレコーディングが決定した。次回作は、来年の春にリリースされる予定。もちろんピアノトリオプラス、ストリングスというコンセプトは、前回の作品と同じで、プロデューサーは、同じく菊地成孔氏です。詳細はまた追って情報をこのサイトに掲載します。 某月某日 毎日家にたてこもる形で多忙である。「TOUCHES&VELVETS」の次回作の作曲、及び、新宿ピットイン11月の3DAYSに於ける作曲、構成で頭がいっぱいだ。畢竟、家事雑事をこなす能力は落ち、脳みそが音楽のことばかり考えているので、ある意味世捨て人のようである。世間の動きにも疎い。久しぶりにインターネットでニュースを見たら、コント55号の萩本欽一が,何か難しいことをしゃべっているなあと思ったら、何やらその方は村上さんといって、阪神をどうにかするらしい。まったくぼくには関係ないことだが。ピットインのスケジュールに3DAYSに関して短い文章を書いてくれと頼まれた。以下その文章をここにも掲載する。「3DAYSをまかされることとなった。人間一寸先は闇である。特に我々ミュージシャンなど、1ミクロン先が漆黒なのだから、この文章を書いている現在の9月に、11月の事を説明するのは難しい。あえて今の下馬評を発表するとすれば、17日は、ギラと共に、80年代ポップスをアレンジし、ピットインの高級ナイトクラブ化を図る。18日には、新生トリオによって南博自己解体化を図る。18日のGO THEREの演奏は、過去の曲にさかのぼって、自分が勝手に決めつけているヒット曲アーカイブ化を図る。11月末まで、地震よ、くるな。」手短な紹介ではあるが、あえてこの日記の欄で書き足すとすれば、ピットインに於いてボーカルと演奏するということは、特別なことと捉えざるをえない。その演出の難しさをひしひしと感じてもいる。ピットインはご存じの通り、椅子が全てステージに向いている。ここでナイトクラブ的な雰囲気を出すには、ある意味チャレンジングな何かがないと面白くないことは解っている。まあ、もうその下準備はできていて、是非皆様、聞きにいらして下さい。面白くなりますよ。二日目のトリオについても、新しい顔合わせだけに、アレンジをどの範囲までするかということが大きな焦点となろう。これも面白くなりますよ。3日目のGO THERE!では、以上に書いた如く、いままでの新旧まぜあわせたレパートリーでのぞむつもりである。今のメンバーが、過去の曲をやったとしても、そこにはもう、膨大な時間が経過しているという事実が間に挟まるわけだから、過去の、という表現が感じられないような演奏ができるに決まっている。もうすでに形は整っている。後は天災が来ない限り、この三日間は盛り上がるであろう。今から自分でも楽しみだ。さらに、冒頭に書いたように、御好評いただきました「TOUCHES&VELVETS」の第二段も画策中である。前回と同じく、プロデューサーは菊地成孔氏であり、綿密なるアイデアの交換によって、また新たなる音楽が出来上がりつつある。これにもご期待下さい。無意味に居職の生活をしているのではありませんから。うむ、だんだん空が白んできた。今回はこれにて。続編 駆け出しの頃当時僕がピアノを弾いていた銀座の○○○クラブという店は,その界隈でも一番料金が高く,女の子の質もダントツに高いことで有名であった。客筋も、テレビ雑誌で有名な方々が毎晩のようにやって来て,かなり華やかな活気を呈していた。僕はそこで,ピカピカひかる黒塗りのグランドピアノで,カントリーアンドウエスタンからナットキングコールまで,バンマスの気が向くままくり出されるメロディーにその場で伴奏をつけ,必死の思いで生きていた。金をためて外国へ留学してやろうと内心たくらんでいた。月頭に成ると,バンマスのスーツの内ポケットからキャッシュでギャラが支払われた。給料というものは,本当の意味で我慢料だということを,その頃悟った。バイトではけっして味わえないことだった。グランドピアノの上には,大きな白い花瓶がのっており,そこには,名も知らぬ,色々な種類の花が,天井に向けて扇状にいけてあり,その花達がスポットライトに照らし出されてきらきらしていた。鍵盤から顔を上げると,いつもその花々が目に入った。なぜか分からないが,何だかとても哀しかった。リ-ジェントのホステスでT子という女の子がいた。キレイどころが集まっていたリージェントでも目立つ子だった。目が大きくて,一見お嬢さん風のいでたちをしていた。T子のファンも多く,彼女のまわりはいつも華やかだった。一見ホステス風で無くても,少し酒が入り,テーブルの客共々盛り上がってくると,彼女の言動はやはりザギンのステホスそのものに変身した。彼女は他のホステスよりも,テーブルからテーブルへ,クルクルと動き回り,彼女は他のホステスよりも,僕が曲を弾き終わると拍手をした。「センセ-,ピアノうまいんだ-,あたし子供の頃ちょっと習ってたんだけど,チェルニ-の練習曲ぐらいでめげちゃってー。続けとけばよかったな-。」素の顔でのそういう彼女と,客と対応している時のホステス然としている彼女とのギャップが,さらに彼女を魅力的にしていた。とにかく,どこかちょっと,他のホステスとは風情が違っていた。銀座界隈でピアノを弾く時,一つだけ守らなければならないことがあると,バンマスに諭されたことがある。銀座を初めてまだ日も浅い頃だ。つまり,お店の女の子とのおつき合いは厳禁。ウエイターとホステスがデキルというのはよくある話だが,ばれれば銀座界隈から所払い。当然店もクビ。女の子がその筋の方と懇意であればただではすまない。「ミナミちゃん,悪いことはイワネエ,遊ぶんだったら金もって,どっかほかんとこでやってくれよな。」冗談をいってるような表情でバンマスにいわれた。でもその目はまじだった。掛け持ちの仕事というのは,実際時間との戦いだ。8時29分に,例えばナイトクラブAから飛び出す。8時30分にはナイトクラブBのピアノの前に座っていなくてはならない。また,8時59分にBを飛び出して,9時きっかりにAに戻るのだ。それを8時から午前1時まで,月曜日から金曜日まで続けていた。小便するひまも無かった。○○○クラブは××ホテル横のビルの2階にあり,エレベーターが運よく1階に止まっていればそれに駆け込んで二階にあがる。エレベーターがどこか上の階に行って使えない時は,横の階段をかけのぼる。エレベーターがまっている時の方が少なかった。エレベーターを使うのは,お客さんや我々ミュージシャンだけではない。○○○クラブからお客様が帰る時,何人かのホステスが必ずビルの1階の踊り場までお見送りをしていた。皆で嬌声を上げ,手をふって,「またきてねー!」とやるためだ。ある日僕は,いつものごとく小走りで○○○クラブに向かっていた。走りながらユニフォームを着替えることもしばしばあった。○○○クラブのあるビルの前まで来ると,運よくエレベーターが1階に止まっており,ドアが開いていて,中には誰も居なかった。エレベーターの中に滑り込み,ネクタイの曲がりぐあいを直しつつ2階のボタンを押した。ふう,今回は階段を駆け上がらずにすむ。ドアがしまり始める。すると向こうから人陰が手を降りながら近ずいて来るのが見えた。T子だった。「せんせー,まってー。」反射的にドアを開けてまっていると,彼女が滑り込んで来た。ドアがしまる。エレベーターの青みがかった蛍光灯の明りに,変に上気した彼女の顔が浮かんでいた。女の人のこんな表情を見るのは,生まれて初めてだった。じっと目を見つめられた。いい気持ちだった。実際並んで立ってみると,店の中で見るより彼女は小柄だった。エレベーターの中には鏡がはってあり,そこに彼女と僕の姿が写っていた。小柄とは言え,今まできづかなかったが,彼女のスタイルは抜群にいい。ちらっとその鏡に目をやると,彼女のムチャクチャ形のいい足が,もう少しで僕の体を挟みそうだった。周りの空気が濃密になったような錯覚を起こした。彼女と二人っきりに成るのはもちろん,これが初めてだ。彼女は,少し唇を押しつぶしたような表情で,上目ずかいにじっと僕の目を覗き込む。「せんせー,わたしいつも,センセ-のピアノすてきだと思ってたんだ-。」すっと手が伸びて,ユニフォームであるダブルのスーツの胸ポケットに紙片を滑り込ませる。その手つきたるや,どんなマジシャンでもかなわない。あっという間の出来ごとだった。実際全てのことがあっという間の出来ごとだった。たかだかエレベーターが1階から2階まで上がる間の瞬間である。しかし驚くべきことは,ドアが開く頃,彼女は僕と向き合っていなかった。ちゃんと店の方に顔を向けていて,ドアが開くや否や,彼女は店の中に,実際見事な身のこなしで滑り込んで行った。ドアを開けて待っていた僕のエレベーターに滑り込んで来た時の同じリズム感がそこにはあった。エレベーターを出た2階の踊り場には,バンマスと同僚のべーシストが,出番を待って立っていた。死ぬほどドキッとした。今あったことを表情で悟られまいと思い,思わず視線をそらせた。彼らは店の中の,チェンジのピアノの人の方を見ている。助かったかな?店の中からは,気の抜けたピアノのアルページオが,我々のいる階段近くの踊り場まで流れてくる。否応なく,毎晩聞いている音だ。「アノウ,まだ時間かかりそうですか?」「あいつヨウ,何時だと思ってンだよ,とうに時間過ぎてるだろう,急いで来たこっちの身にもなれよなあ」「あのバンマス」「なんだよ?」「小便してきていいっすか」「すぐ戻ってこいよ」トイレに駆け込んだ僕は,中に誰も居ないことを確かめてから,胸ポケットの紙片をそっと取り出す。クラブのロゴの入ったメモ用紙に,「こんど電話してね。T子」と走り書きがしてあり,下に電話番号が書いてあった。いそいで○○○クラブのロゴ入りの紙をスーツの内ポケットの奥の方に捩じ込んだ。急に銀座の,○○○クラブの,変にごてごてしたトイレのシャンデリアが,ものすごく高級で明るい,何というか全てが幸福で明るく,活気に満ちて見えた。鼻歌が出そうに成るのを押さえつつ,ピアノを弾くべくトイレを出た。20年以上前の話駆け出しの頃 六本木のバーに,今はもう誰か忘れたが,人の紹介でピアノを弾く仕事を頼まれた。僕は19歳ぐらいだった。カラオケスナックと,バーの中間みたいなその空間は,そのての場所を見たことも無いその頃の僕にとって,全く妙な感じのする場所だった。後年銀座のナイトクラブ,それもバブル花やかしき頃,三年掛け持ちでピアノを弾き,あの手の商売の裏の裏を目のあたりにしようとは,夢にも思わなかった頃のことだ。その頃僕は,まだ初心者の域をでていなくて,小岩のハリウッドチェーンという場末のキャバレーで習い覚えた,簡単なコード進行が読める程度であった。半分クラシックピアノにも未練がある頃で,ガ-シュインのピアノ曲,三つのプレリュードなどもさらっていた。六本木での仕事という言葉のひびき自体,下町のギャバレーで演奏していた身にとっては,その頃は何か,一段上に上がったような,何かちょっと自分自身成功したような,体のどこかをくすぐるようなうれしさがあった。実際六本木の街は,小岩,松戸のキャバレー街よりも,相当華やかに僕の目にうつった。僕がピアノを弾く事ことになる店は,できたてのビルの中にある,できたての店で,カウンターもイスも,お酒のグラスも何もかも,全て新しくピカピカしていた。「君,ミナミちゃン,ねえ,待ってたんだよ,よろしくね,この店サア,俺もバーテン長いの。やっと自分の店もったていウ感じ。ウン,がんばっちゃうよ-オレ。あのさあ,お客のリクエストが無い時は好きなの弾いてていいんだけどサア,リクエストきたら,ねえ,やっぱし伴奏しなきゃあ,ね,演歌でも何でも。それがプロって言うモンでショ。バンドの方々ってさあ,ジャズやりたいんだよねえ。でもそれだけじゃねえ。最初にピアノ弾きたいって来た人,演歌は出来ませんて言うからさあ。ことわっちゃったんだよね。バカいってんじゃないよう、ホントにい。」マスターは50がらみの痩せぎすな男で,妙に蝶ネクタイとビロウドのチョッキが似合う体型に,ものすごくエラの張った顔がドンと肩の上に乗っているような男だった。ひっきりなしにタバコを吸い,えらく沢山の氷の入った水割りグラスをぺろぺろ舐めている。髪型は,これでもかと言う感じで油がついていて,ヘアースタイルそのものが,小岩に来ていた売れない演歌歌手みたいだった。扁平な鼻に,妙に垂れ下がった目尻がこちらをなめるように見る男で,職業柄,長年自分の本心を隠していたが為に,とうとう自分でも何を感じているかわかんなくなってしまったような目の色をしていた。会ってすぐさま,唐突にこう切り出すマスターに,僕は何も言えなかった。こういう人種とどう話ていいかなんて,その頃の僕に知る由もない。ただ言えることは,その店に僕を紹介した人が言った,「ミナミちゃんねえ,あそこは演歌やらなくていいからさあ,すきなの弾いてていい店紹介するからさあ。」という内容とはずいぶん違うなあと言うことだった。演歌弾かなきゃいけないのかア。「ミナミちゃんねえ,お客がいない時は,好きなもの飲んでいいからねえ。」その頃の僕は,究極的に初心だったので,イエイエけっこうです,演奏中呑むなんてそんな,という感じて呑むことはことはったが,実際,冷たそうな水割りと,タバコをひっきりなしに吸うその店のオーナーは,仕事前から呑みはじめていた。店に雇われた女の子達が出勤してきて,一瞬和やかな雰囲気になったかなと思ったら,客がどやどやと入ってきた。オーナーはカウンターの向こうに走り込み,僕はピアノの前に座る。何を弾こうかな。その当時そんなにレパートリーも無いくせして,わざともったいぶって新調の上着の丈を気にしつつ弾き始めた。しばらくのあいだは何ごとも無く過ぎて行った。客達は僕に無理なリクエストをするでも無し,店のオーナーも酒作りで忙しそうで,これは楽な仕事かも知れないと,一瞬気持ちがゆるんだ矢先だった。客の一人が,しかもそうとう酔っぱらったオヤジが,ピアノを弾いている僕の方にふらふらと近づいてきた。「ねえねえセンセー,伴奏してくれないかなあー。」客は「思えば遠くへ来たモンだ」を歌いたいという。通称「アカホン」と呼ばれている歌謡曲,演歌集の譜面をめくる。「せんセ-ね,音楽のことよくわかんないから,どのキーで歌っていいかわからないの。適当に伴奏付けてよ。」客はマイクを掴むとおもむろに歌いだした。イントロ無視,メロディも音程というものがないただのガナリ声のようで,キーも探せなければ,この手の曲を一人で伴奏することにも慣れていなかった僕は,どんな素人目に見ても,全然なってない演奏をしてしまった。店の中は演奏前と同じ状態だったが,ホステスのおね-ちゃん達の視線の方がなぜかきつかった。ホステスとこういうバーのピアノ弾きの関係は微妙である。お互い雇われている身で,お客の要求におこたえするというスタンスは同じだが,精神的な意味で,店側からの束縛という意味において,ホステスさん達の背負っているものは,僕などと比較に成らない。変な伴奏をされた客をいなすのは彼女らの役割である。客は酔っているとはいえ,思いっきり歌えなかったストレスを抱えて,ピアノのそばから去る。憮然とした表情だ。客が口を開く前に,ホステスがその瞬間をすくいあげるようにしゃべりだす。「センセイ,今日初めて来たのよ-,このお店に。まだ若いんだしさあ,応援してあげましょうよう。」ホステスという人種は,本当に何というか,考える前に口が動く人種であり,まあそれでその場のぼくは救われたのだが,何か釈然としない空気が店の中を漂い始めた。その客はしばらく大騒ぎをしながら飲んだくれ,一時おいてからまたピアノの側にふらりと近ずいて来ると,ピアノの上においてある「アカホン」を,自らめくりはじめた。オヤジの選んだ曲は「銀座の恋の物語」であり,ホステスの中の一人がデユエットに加わる。そうこうする内に夜はふけて行き,閉店の時間となった。終電ギリギリの時間だ。帰り支度をしていると,店のオーナーに呼ばれた。「ミナミちゃんさあ,もっとちゃんとやってくんなきゃ困るよう。一生懸命なのは分かるんだよ。だけどね,演奏してる内容がお店にそぐわないわけよ,分かる?お客さんの伴奏をする時はもっと愛想良くしなきゃ,二コッとしたりサア,分かるでしょ。」ぼくは終電に間に合うことだけが心配で,かれの小言は頭の上を通り抜けて行く。結局,松戸,小岩でひどい目にあって,やっと六本木の方まで抜けてきて,要するに内容はおんなじなんだ。町の景観はずいぶんましかもしれないけど,やってる事は,下町とかわんない。やっと小岩や松戸のキャバレーから抜けだせたのになあ。僕はなぜか,小学校の頃から学校の成績が悪くて,最初は落ち込んだものだが,成績が悪いことで,挫折感なるものを味わったことが無かった。しかしその日の夜は,何というか,茫漠とした寂しさと挫折感が,胸のあたりで固まりに成っているようだった。付属の音楽学校から,大学に行く道を自ら断って,半分家出状態で,大きな夢を持って世の中にでたはずだった。これから一生演歌の伴奏するのかなあ。いやだな~。帰りの電車の中で,窓に写った自分の顔を見て,どうしようかなと,自問自答した。思ったより,先は長そうだった。20年以上前の話。 某月某日 過日、JR某駅を歩いていた。雑用を数件こなす必要があった。汗だくでもあり、なんとか雑用を早くすませ、すぐ家に帰りたかった。すべての雑用をこなす、つまり、郵便局、銀行などは、ミュージシャンの活動時間とは違い、しかも手続きの面倒くさいものもいくつかある。暑い日中にいかに効率良くこれらの場所をまわるか、家を出る時は何となく頭の中に点と線を結ぶ地図のようなものがあったのだが、外に出たとたん、暑さのために頭がぼーっとしてきて、そのなんとはなしの取り決めも宙に浮いてしまった。そういう状況の中でJR某駅の前を歩いていたら、なんと女性から声をかけられた。「あの、南さんですよね。」ぼくは暑さと取り留めのない雑用の最中で、ぼんやりと彼女に答えた。「そうです。」「私この前、新宿のバーで、南さんにハッピーバースデーを弾いてもらったAです。」ああ、あのときの。暑い中記憶がよみがえってきた。そういえば弾いたな。「どうもありがとうございました。また弾いて下さいね。」「弾きたいけれども女性は歳をとらない方がいいんじゃないですか。また聞きにきてくれて、その時が君の誕生日なら、喜んで弾きますよ。」と言うのがやっとだった。社交的とは言えまい。しかしどこかしら、心の中で少しうれしかった。彼女は軽く会釈をして駅の雑踏の中に消えていった。ミュージシャン冥利に尽きる。一瞬暑さを忘れることができた。 某月某日 このWEB SITEのニュースの欄に、MEMBER 与世山澄子(VO)南 博(VO)という誤った情報を書き込んでしまった。一週間ばかりの間だろうか。申し訳ありませんでした。僕を個人的に知っているファンや仲間ならば、ああ、また機械オンチの南がバカやってる、ですむでしょうが、本欄を初めて見た方、僕を個人的に知らない方には改めて訂正します。私は8/10にTUFF BEATから発売されるCD,「INTERLUDE」では歌を歌っておりません。ピアノを弾いています。もし僕が与世山さんと歌でDUOをしたら、これは犯罪と同等です。天鳴り響き、地は裂けて、僕は地獄へと地割れの中へ吸い込まれてしまうでしょう。よく見積もっても、毎回試聴者にこちらから100万円払いながら我慢して聴いて頂くという、逆転資本主義的行動が必要と予測されます。もう一度言います。僕がお金をとって歌うという事は犯罪です。逆にいえば、もし歌を歌えたならば、ピアノなど弾きません。体ひとつで資本のかからないVOCALというのは、まことに僕のあこがれの職種で、調律の狂ったピアノを強制的に、仕事と成り立たす線で弾かなければならないという苦労が、まずありません。もう一度いいます。僕はピアニストです。ご容赦下さい。スペースシャトルだってすぐに飛ばないんですから。休みの日にしか日記を書けないのは、これはもう日記ではありません。日記は毎日書いてこそその意味合いや滋味が読者に伝わるものなのですから。それでも前回の日記から(日記ではないと自からがいいながら、日記と記すこのバカさかげんよ。まあよろしいとして下さい。世の中にはこれに比較にならないくらいの不条理とそれを諦観せざるを得ない事象がいっぱいあるのですから。)起こった事を書き記そう。7月の第一週、コペンハーゲンに行って演奏してきた。コペンハーゲン ジャズ フェスティバルにデンマーク人のトランぺッター、KASPER TRANBERGと共演のためだ。日中の気温25°、空は午後10時になっても、青く晴れわたり、気温も15°となる。風が吹くと汗が乾いてしまうような乾燥度。日々すばらしかった。もともとデンマークにデンマーク人として生まれたものが、誇りを持ってCOPENHAGENという街の美観をつつがなく保存していることが分かる。僕のようなエイリアンにとっても、この美観を壊すものに怒りをおぼえるであろう。コペンハーゲンと東京を比較する事自体が無理な相談である。僕の理想は、山口晃画伯が描くところの東京圓が僕が考える東京の理想図であり、戦禍さえなければ、このデカダンな東京が、よりいっそう面白い建物に囲まれて画伯の絵のような状態を呈していたかもしれない。残念だ。おっと話がそれた。演奏は、コペンハーゲンにあるグラスハレン(鏡のホールといったような意味)という場所で行われた。皆さんご存じのKASPER TRANBERG率いるグループでの演奏だ。このグループでは、2003年にレコーディングを東京で行い、「MORTIMER HOUSE」というタイトルで、EWEからCDを出している。詳しくは EWEのサイトhttp://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=118 を参考にされたし。このグラスハレンというホールで演奏することは、このフェスティバルの中でも栄えあることだ。毎年、世界のビッグネームがこの舞台で演奏する。今回は、超巨匠のドラマー、ロイ・へインズ(84歳、マジかよ)・グループの前座的演奏であったが、舞台に立つだけでもワクワクするような場所で、何かしらここで演奏したミュージシャンのソウルのようなものが漂うっているような、そんな舞台だった。演奏も上出来で、かなり危険なアプローチがバンドの中を行き交い、それを起爆剤にして我々はその瞬間の先々を、手探りで、あるいは無意識的な体の反応によって、その起爆剤の中の火薬の分量を増やし、ここだという一点に向かって放出する。デンマーク人を主とした客席がその舞台での反応に吸い込まれていくのがよく分かる。そんな演奏であった。今年の10月、このグループでの、二枚目のCDがEWEからリリースされる。タイトルは「SOCIAL AID AND PREASURE CLUB OF COPENHAGEN」今回の新譜にはベーシックなセプテットに加え、ギター、バスクラリネット、フルートを擁した重厚なるブラスアンサンブルを聴くことができる、かなりヒップなサウンドだ。ご期待下さい。そしてまあ、いつもの手続きで東京に帰って来たわけだ。飛行機に乗ってすぐ睡眠導入剤をのんだので、幸い行き帰りとも、機内の印象はあまり今回の旅には付加していない。飛行機は嫌いだ。もっともこの歳になっても、いまだファーストクラスさえ体感していないので、一概に嫌いと言い捨てるのも危険かもしれないが。返す刀で代官山YUNITで菊地成孔率いる「南米のエリザベス・テーラー」Pepe Tormento Azucararと演奏。6日に帰ってきて7日の演奏で、時差ぼけを心配したんだけれど、あまりそれを体感することなく演奏できた。たぶん、東京の生活自体が時差ぼけなのであり、あちらコペンでも、夜の活動が主体となっていたので、ぼけ×ぼけ=空虚という、もう自分で自分が分からなくなったことさえ忘れた自分がいることも分からない自分、という状態になってしまったのであろう。その後もいくつかの演奏をこなし、作曲してアレンジして、という生活が続いているのだが、あ、そうそう、津上研太率いるBOZOのCDが、おなじくEWEから今秋発売です。今年はサイドマンとしてのCDが3枚出るぞ。いやあ、長い間だったなあ、アメリカから帰ってきて10年ぐらいたつけど。まあ、これから先はぼやきになるので文章を自粛。明日はまた陽がのぼる。 >>>

書かなくなった本当の理由

某月某日 いつごろからこの欄で、日記を書かなくなったのかと思う。ずいぶん前のようだ。自分自身で深く考えても、書かなくなった本当の理由は見つからない。以前は、今の時期より忙しい時にも日記を書いていたから、多忙という理由はあてはまらない。長期入院していたわけでもない。いずれにせよその間に、季節は変わり、仕事の内容も微妙な変化をみせ、今この時に至っている。この文章を書きながら、長らく日記を書かなかった理由を、キーパンチしながら考えている。思えば、人前で演奏するという行為自体があまり上品ではないという感覚が僕にはある。畢竟、不特定多数の人々に、まだ本格的価値判断がなされていない電脳ネットで文章を書くということが、どういう効果をもたらすかという恐怖ににた感覚があったからだと今思いついた。上品でないのは、演奏する時で十分ではないかという気分もある。しかも、この欄で本気で僕の思想、世界観を書きだしたら、たぶん誰かに殺されるという、あいまいな観念が無意識のうちにはたらいていたのかもしれない。浮き世のしきたり臭く書くと、ただで不特定多数の人間に誤解をもたらしたり、ただで書いてなんらかの問題にまきこまれるのがいやだという気もあったかなとも思う。盟友菊地成孔氏の日記を読んで、さすがに知名度と人気の順列はわきまえてはいるものの、なんとくだらんことでこの電気代を払っているのかと思ったことも、日記を書かなくなった一因だとも思う。この欄は、実際演奏の宣伝と、その感想について書くだけでいいとは分かっていても、なんとなくそれだけではすませたくない。しかし、それ以上のネタは、不特定多数の人々の目にとまることは避けたいという、なんとも微妙な心理状態に今あることが、この日記の欄の延滞につながっているのだとつくづく思う。矛盾が矛盾を育てているような理由だが、以上のごとく、しばらく日記の欄をほっぽりだしていた。そのことが、良いのか悪いのか、効果的なのか無駄なのが、いまだに考えあぐねている。といった理由において、明日から連日書くかもしれず、また長い延滞を知るかもしれず、自分でもよく分からない。ひとつ言えることは、電脳ネットをどう有効に扱うか、というなんらかのディシプリンを、自分の中に持たなければならないということだろう。便利なのか不便なのか、そこが一番の分かれ目だと思う。 某月某日 5月6日に大阪に行きます。大阪梅田JEUGIAで、「TOUCHES&VELVETS」のプロモーションのため演奏します。翌日大阪ブルーノートに出演する菊地成孔氏も出演します。演奏場所がJEUGIAと聴いた時、大阪にも十字屋があったのかと思うほどの大阪オンチですので、演奏だけはオンチにならずやってのけたいと思っております。詳しくはスケジュールの欄を。 某月某日 生まれて初めて沖縄に行ってきました。与世山澄子さんという伝説のジャズボーカリストと共演するためです。まだ行ったことのない土地への、甘酸っぱい想念は、出発が近付くにつれ盛り上がりました。青い海、青い空、純白の砂浜。しかし沖縄に着いてみると、そういった甘酸っぱさはどこかに消えてなくなってしまいました。まあ、仕事できているのだからしょうがないのですが。案の定、ホテルとレコーディングが行なわれた与世山さんの店、「インタリュード」を行き来するのみと成りました。東京側のメンバーは、南博(ピアノ)菊地成孔(テナー・サックス) 安ヶ川大樹(ベース)ZAK(録音&ミックス)パードン木村(プロデュース)という、個性豊かな布陣です。沖縄に対する最初の甘酸っぱさが消えたのは、那覇空港から我々の宿泊地である国際プラザホテルへの道すがらの光景でした。マイクロバスに乗り、空港を出発したのですが、最初は昔の横浜本牧にいるのかと見間違うような風景でした。そのあとの行程は、なんだか第一京浜を思わせる風情で、まるで羽田を出発した飛行機が、ぐるっと回って羽田に再度着陸したんじゃないかという錯覚に襲われました。そしてあっという間に国際通り。これは那覇の原宿的な場所で、我々はそのど真ん中に宿をとったわけです。四泊五日の旅でしたが、通常の観光客が朝起きて、観光をして、泡盛を飲んで寝るというスタンスは、レコーディング初日から我々には無縁でした。レコーディングの場所、与世山さんが経営する「インタリュード」のセッションはピアノの調律が終わる午後7時頃から開始され、終わるのが午前2時半あたり。自然と、お天道様との相性は悪くなります。録音場所がスタジオでない、すなわち、皆が疲れ果てるまで良いテイクを求めることができる。反面、終わりの見えない時間が陶然と流れていくと言った調子です。畢竟、初日から四泊五日と言う概念は、沖縄滞在中、ぼくの体の中には存在しませんでした。しかし、これだけゆったりとした環境にて音楽に淫することのできる機会もまた稀なことでした。と言うわけで、この日記には、何月何日に何をやったときっちりと書くのが難しい。もう既に、沖縄での記憶が団子状に成ってしまっているからです。と書きつつも一度だけ、菊地君につれられて市場で食事をしました。一階の魚屋で自らが食べる魚、エビ、蟹類を選んで、それを二階の食堂で、作りたてを食べるというものでした。この時ばかりは、少し観光気分にひたれました。魚はあげてあるものが多く、これは中国に近いからではないかと思いました。7時過ぎに「インタリュード」に毎晩向かいます。与世山さんは、非常に親切な女性で、この島の誰もが持っている優しさと、マイペースに物事を行うゆったりとした時間が、彼女の体からにじみ出ていました。純粋な少女のような声で歌詞を大切に歌を歌います。何か聖なるものを感じる歌声でした。この方は、小学校六年生から、米軍キャンプにて、テネシーワルツを歌っていたということです。これはもうベテランとか、そういう言葉で表すことさえ気恥ずかしい、一種の威厳をもその歌声から聞取ることとができました。歌なのに、不思議と語っているようにも聞こえるその音楽の奥深さは、何か現代に失われてしまった時間や間をしっかりと持っているような気がしました。一日目にセッションでは、彼女のゆったりとした鷹揚さについていけず少し焦りました。しかし、その合わなさの根源が二日目には飲み込めるようになりました。要するにこちらの土地の人のように優しく鷹揚に彼女と対すれば良いということです。東京のような、ちょこまかした、やけに忙しい雰囲気をこちら側が排除し、ただただ彼女の時間の流れに身を任せることにしました。ということで、二日目のセッションから、お互いが歩み寄り、だんだん音楽の密度が双方溶け合う様に成ってきました。そんな中から、僕は与世山さんから多くのことを学びました。超一級のボーカリストと仕事をするということは、こちらにも絶妙のセンスを要求されるということです。僕は、沖縄流マインドに成りきったつもりで、毎晩2時半頃まで、彼女の歌と絡み合ったのでした。スタジオでないというメリットは、ゆったりと時間が取れるということですが、逆に、表の通りを車が走ろうものなら、その車の音が途絶えるまで、ピアノの前で待機していなければ成らない。車の音がとだえるまで、鍵盤にそっと手をのせて、スタンバイしている。車の音はいつ途切れるやも知れない。しかしこちらも演奏する前の緊張感を持続させなければ成らない。そんな夜が四回続きました。演奏が終わればへとへとで、ホテルで体を横たえる。気付けば次の日の午後です。飯を喰って国際通りをぶらぶらしていると、仕事の時間と成る。沖縄的景色には、触れることができませんでしたが、沖縄的時間の流れは、与世山さんの歌の流れから感じることができた。負け惜しみではありませんが、景勝の地に行くよりも、さらに深く沖縄的な時間の流れを体感した僕は、もっとも沖縄という場所に近かったのではないかと思われます。素敵な時間でした。録音スタッフも、演奏する側も、皆同じ気持ちに成っていたと思います。この歌声を、最高の音質で、最高の演奏で録音したい。広いとはいえない「インタリュード」店内には、それら男達の願いと、それに答えようとする少女のような与世山さんが、がっちりと一体に成り、お互いのコンセンサスがぶつかりあう良いテンションが生み出されていました。最後の録音が終了し、なんと与世山さんが料理したおいしい料理で打ち上がりました。不覚にも、僕はその宴会の途中で眠ってしまい、起こされたのは、ホテルに帰り、パッキングするだけの時間しか残っていない時刻だったので、あわくってホテルでパッキングしていると、ちょうど窓から、強烈な日光が差し込んできました。沖縄到着以来、ずっと曇りだったのです。晴れた日に帰らねば成らぬとは。少しへろへろで那覇空港に到着し、早朝の便で東京に帰ってきました。東京は相変わらず、時間の流れが速く、たかだか四日間の滞在にしても、僕の心をささくれだたせるには十分な人の量と、空気の隙間の狭さを感じました。このCD,8月頃発売予定です。タイトルは今のところ「インタリュード」(仮)。自分自身、沖縄でのタイム感覚が、どう演奏に影響しているのか、完成が待ちどうしくてなりません。 某月某日 またしばらく日記を書かなかった。日記というものは、毎日書くから「日記」という字があてはまるのだろうから、はたしてこの欄は日記ではないと言えなくもない。まあ、少しでも日記の体裁を繕うため、前回書いた日記から特筆すべきことを二三書き込もうと思う。今年のクリスマス時期に公開される某映画の音楽製作に加わり、ピアノを演奏した。この映画の内容、その他は、制作者の側からあまり書くなと言われているので、これ以上ここに記することは出来ないが、僕のピアノの音が、重要な位置をしめていることが確かである。クリスマス時期まで、しばらくお待ち下さい。いずれにせよ、僕のピアノの音が、全国の映画館で鳴り響くことは、僥倖である。その後、胃腸にくる風邪をひき、めったに風邪をひかないので、逆に身の処し方、処置の仕方が分からず、しかも普段低体温なので、少しでも微熱が出ると、普通の人以上にドタバタする仕儀となり、往生した。そういう日に限って演奏の仕事が夜あったりする。お粥と、ビタインゼリーを吸いながら、クラブに到着。演奏中汗が吹き出し、それが功をなしてか、風邪の症状はおさまってしまった。良いことではあるが、何かの因果を感じた。なぜなら、ちょっと手前味噌だけれども、その夜の演奏は評判が良かった。辞書で因果という項目を見てみると、「今ある事物が以前の何らかの事物の結果であり、また将来の何らかの事物の原因であること。」とある。近い将来、何が原因で、何がこの身に起ころうというのであろうか。風をなんとか退けた後、津上研太ひきいるBOZOのセカンドアルバムの製作に参加した。スタジオでの演奏中、よくも悪くも色々な音楽的ハプニングが続出。それらのことを逆手に取って、良いTAKEが各曲いくつかレコーディングされた。発売予定は今秋半ば。そしていつも通り、と言うか予定どおりのような気もするけれども、深夜になっても眠れない。時々起こる不定愁訴。不定愁訴と仲良くする術を最近身につけたので、前よりは精神的に楽である。不定愁訴と仲良くする術と書くと、難しいことをしているように感じる方もいらっしゃるかもしれないが、とにかく、不定愁訴な自分が本来の自分と思い込んでしまえば、それで良いのである。不定愁訴な状態が、本来の自分ならば、その状態以上に元気な時はめっけもんと思えば言い訳だから。自分の意志でコントロールできないからこそ不定なのであって、不定愁訴さえ取り込んでしまえば、それは不定愁訴ではなくただの愁訴と成る。これが僕の論法だ。まあ、どっちにしても楽しいことではないけれども。今の時代において、元気にはつらつと、輝かしい未来を信じ、日夜ばく進している人というのは、どこかおかしいのではないか、というのも、逆にいえば、僕の精神の安寧をもたらす効果になっている。かろうじて読書が僕の精神を安定させてくれることに、感謝したい。その多くの作家たちの逡巡を含めて。 某月某日 MOTUOM BLUEの演奏二日間を終えて、また仕事のない日々がいくらか続く。庭先には、春の訪れとも思える小さな鳥達が、木々の間を、まるで自然界の幾何学を会得したような調子で、あらぬ方向に飛び去り、我が庭先の木々にも寄り添うようにしてたたずんで、何かしらきれいな声で歌ったかとおもうと、またさっとあらぬ方向へ消え失せてしまう。春の訪れの前兆なのだろうか。よくもまあこの東京に、カラス以外の鳥が生息しているものだと思う。こうまで書くと、まるで隠居の文学のようだが、これから一年、また西東へと忙しい日々を送りそうな企画が目白押しではあるのですが、今は少し仕事上中だるみ状態ではある。しかし人間には休みというものも必要で、僕も例外ではない。今日は静かに、冬の一日を、じっと暮らす所存です。意識的に、仕事関係のことはしない。掃除も洗濯もしない。ただ時の移ろいに身を任せ、食事は全て店屋物。目は半眼にしてじっと窓の外を見ているのみ。冬の空は気温に反して、なんだか暖かみを感じさせる時さえあり、雲間から太陽が顔を出すと、あと少しで春の訪れを告げそうなその光の中に、何やら人心をほっとさせる何かが含まれているような気がします。前に書いたように、今年も何が起こるか分からない企画が毎月のようにあるはずで、そのつど、NEWSの欄にてお知らせを出しますので、どうか注目してして下さい。 某月某日 眠れない夜。今晩は横浜のクラブ「JAZZ IS 」にて、井上淑彦氏(SAX)のグループで演奏。なぜだか全てのサウンドが決まりまくり、なぜだか演奏は留まるところを知らず、なぜだか全てが思うがままに行ってしまった一夜。帰宅し、少量の食事をし、さて寝るという段になっても、脳みその回転が止まらない。好きな本を読む気もしない、大好きなマグリットの画集を見てもあまりピンと来ない。立っても座っても落ち着かない。タバコを吸っても意味がない。明日に向かって建設的計画を立てようにも、アイデアが浮かばない。その方面の脳が動かない。深酒は悪循環であることは、もう何回も失敗をしているので、なるべくそのことは考えないようにしているのが精いっぱいである。居ても立ってもいられないというわけでもないが、他の仕事をしようと思っても手につかない。ぼんやりしているようで、色々な想念が、何の脈絡もなく浮かんでは消える。その浮かんでは消えるという状態にも疲れているのに、それが止まない。相対的にあまり居心地の良い状態ではない。いずれは眠れるだろうという楽観的考えを持つ余裕もない。音楽も聴きたくない。何もしたくないが、ぼーっと起きていることだけというのもいやだ。何かが落ち着かない。疲労しているのかしてないのかさえ良く分からない。こんな状態で、キーボードを打っていること自体マイナスな筈なのに、何か書くということだけはかろうじて負担にならない。秋の夜長にはまだ遠い。 某月某日 本日は嵐のような天気であった。雪が降るという予想に反して、叩き付けるような強い雨粒が、終日窓の外を乱舞していた。かのような天気の中、外に出るのが億劫であったので、日がな一日練習していた。夜を迎えるにあたって、鬱勃たる気分になる要素は、今日一日の中に詰まっており、こういう日を何度もやり過ごしてきたから、夜、どういう結果を迎えるかということは先刻承知であった。だから覚悟して家にこもっていた。日がな一日と言ったって、昼過ぎから始めた練習は、やはり夜10時過ぎまでは、神経が保たない。さあこれからが本当の意味での自分との戦いの時間である。指を動かすということは、相当脳に刺激を与えているようで、練習を終えたからとて、体は休まるどころか、真空のような状態となる。こういう時こそ自分自身が自分自身を用心しなければならない瞬間なのだが、どうしても余計なことばかりを考えてしまう。いったい僕には、この世の中に存在する意義や意味があるのだろうか、などという、答えがないと分かっていることをズーンと考え込んだりしてしまう。気分転換にニュース番組などを見ても、世の中ろくなことは起こっていない。後はスポーツだが、全く興味がないので感想は書けない。なぜニュース番組は、事件、政治経済、討論その他の後にすぐスポーツとなるのだろうか。その間に少し、音楽のことに限らなくても良い、何らかのアートに関する時間を、短くてもはさむべきではないか。という具合に、ニュースを見ても鬱勃たる状態は、さらにその深みを増すので、好きな本を読むことにする。しかし、僕の好きな作家というのが、世の中の真をついていたり、鬱勃たる作家が、鬱勃たる情念で、その鬱勃たる思いを吐き出しているものが好きなので、これまた鬱勃たる自分に、良い効果はもたらす筈はない。かといって読むのをやめることも出来ない。それらの作家の本の体裁は、エンターテイメントであるからである。読後感の脳みそは、なんだかいやな感じで雨の音を聞いたりしている。ニュースを見ていると、いま一番地球にとってもっとも必要なことは、この世の全ての人間が、次の瞬間一人もいなくなることなのではいかという、壮大にしてとんでもない思惟が頭をよぎったりする。この世から、全ての自我が無くなる。まったくもって自然な世界ではないか。健全なんて言う立ち腐れた言葉より、無になるということは、すばらしいことではないか。まあ、こんなことをぐるぐる考えていても、ピアノが弾けるという第一点のみにおいて世の中に引っ掛かっている僕だから,難しいことは、その筋の専門家にまかすしかあるまい。というのが、今のところ僕の思考の限界点で、この時点でのコンプロマイズである。しかし、あるとき、この限界点を超えたならば、僕はいったい何を考えどういう行動を起こすだろうか。自分のことが気が気でならない。まあ、いずれはこういうだるい苦悩も、永遠には続かないという救いはあるにしても。 某月某日 新年三が日を過ぎたら、仕事始めのことを日記に書こうと思っていたのだが、タイムフライズの言葉の通り、もうすでにいくつかの演奏の仕事をこなしてしまったし、今年一年の先行きを何とはなしに計画立てている時期と成ってしまった。新年は、ぼくがCDを出しているイーストワークスエンターテイメントへの年賀により始まった。ついこの間のような気もするが、もうすでに1月半ばである。だからといって、時がいつも思いっきり早く自分のまわりを通り過ぎて行くかというと、そうでもない。時間が長く感じられる時も無数にあるわけで、そういう要素を含みながらのタイムフライズの日々である。熱いラーメンは熱いうちに喰わねばまずくなるし、気長に待った方がうまく行くこともいくつかある。これは日々日常全般を含めた僕の感想だが、なぜかこのフラジャリティに反するものが一つある。それはお金のことである。以前の日記にも触れた通り、12月はなぜか出費が増えるということを記した。しかし、今年はどうしたわけか、この一月でさえ、もうすでに、なぜか出費がかさんでいる。このことに関して、時間に関するフラジャリティには、生活の中に緩急を求めることができるが、お金に関してはそうはいかないらしい。どうも今年はそういう巡りをかいくぐる年なのかもしれない。ギャンブル、株、その他諸々のことに何の縁もない僕であるが、将来の布石に、将来のためにと使うお金ばかりがふところから流出して、へその位置にあったズボンが骨盤まで下がってしまったような気がする日々が続いている。いったいいつまで自分の布石のために身銭を切らねばならぬのだろうか。骨盤までさがったズボンをずりあげながら、散歩をしていると、また不運にも幸運にも、新しい古本屋を見つけてしまい、さがしていた本がそこに売っていたりしてしまう。ズボンが骨盤より下がれば、これは自分だけの問題でなく、社会現象的に制帽をかぶった人にしょっぴかれるという事態にあいなるが、それを承知のうえで、またなけなしの金で古本などを買ってしまう。死んだ作家をその人が死んだ後に惚れ込むほど、はかなく悲しげなことはあるまい。新作を待つという期待感を持てぬからだ。しかし、古本屋には、たとえそれが新作でなくとも、見も知らなかった贔屓の作家の埋もれた一冊を見つけることができるという効能がある。これは逆に言って、新作を待つよりもうれしいことであるのかもしれない。当然出るべく新作を待つ期待感より、思いもかけぬ旧作である新作を手にする喜びには、新作をあたりまえに手にする以上の喜びがある。しかし、そういう旧作の新作を見つけた時にかぎって、ズボンが骨盤のまわりを囲んでいる時なのだから、うれしいやらやるせないやら。なんだかんだ考えたって、どうせ体はその本に吸い寄せられ、ページをめくりにんまりとし、気が付いたら金を払って買ってしまうのは目に見えている。いま僕の贔屓の作家は、ある詩人なのだけれど、この人の詩は、自らの身を削り、多感だからこそニヒリスティックに世渡りせずにはいられなかった人のもので、共感するところが大いにあり、目下熟読中。ずり落ちそうなズボンを両手で押さえつつ読んでも後悔しない内容の本が手に入った。まあここで、生活の中の時間の緩急と、お金とのウ゛ァランスがとれればもっとも理想的なのだが。なかなかそうは問屋が卸さないようだ。 某月某日 去年から、買ったままうっちゃっていた本のページをめくる、というのが、本式に正しい正月の行いではないだろうか。松岡正剛著「遊行の博物学」という本を去年からほっぽってあったので読み出した。正月の単調さをもてあますことの無きよう用意されたごとき書物である。こんなことを言っては著者に失礼かとも思うが、一行一行考えさせられる知識や内容が、ページをめくるごとに現れでて、僕の知りたかったこと、知らなかったことがずいぶん書いてある本でもある。たとえば、文化の対称性という項目には、平城京の朝は、水時計によって時間が示され、奈良朝の生活は、夜明けの一時間ほど前から始まっていたとある。このように、朝に仕事をすることから、朝廷、王朝とかいう”朝型”の名称が生まれたと書いてある。なるほどと、膝をたたきたくなるような内容。こういう歴史の授業を中学時代にうけていれば、成績の方も、どうにかなったのではないかと思うほどの快さ。いずれにせよ、支配者は、大勢の人間を朝早くからこき使うことができたということであろう。現代と変わらぬではないか。僕などこのシステムから逃げ出したいがゆえに、夜型の仕事を選ぶ人間になってしまったような気もするが。この本は、世が静かなうちに読み終える予定である。再びジッポーのライターをなくした。しょうがないので、今度は、新宿のとある喫煙具を売っている店に行き、新しいデザインのものを購入した。新宿はたいした人混みで、破魔矢などを持ったカップルが大勢うようよしていた。紀伊国屋書店の地下で食事をす。ここに並ぶ食堂は、全部安くなかなかいける。なぜかこの地下道だけ僕の大学時代からあまり値段が変わらぬ。ナポリタン大盛りで700円以下である。ナポリタンといえど、ケチャップの味ではない、が、ベーコンとタマネギ、ソーセージの輪切りなどが入っている。いずれにせよ、すかしたイタリアンレストランより秀逸である。なんだかんだ言ったって、ワインの知識も、イタリア料理に関する知識にしても、いまだぼくにとっては曖昧なもので、子供の頃から食べ慣れているナポリタンが、スパゲッティーミートソースと並ぶ、定宿のような味なのだ。粉チーズをいくらかけようがおかまいなし。蕎麦のようにすすりこんだって誰一人としていやな顔をする客もなし。この場所は貴重だ。アメリカでの生活を含め、財布、金、貴重品の類をなくしたことも、落としたこともない。なぜかジッポーだけが身に付かぬ。あれは去年の暮、EWEのT氏とミーティングをし、そのまま何軒かハシゴをして、途中からなぜかEWE子飼いのキューバ勢と合流することとなり、軽く酩酊しながら飲みなおし、タクシーに乗り帰還後、タバコを吸おうと思い、あらゆるポケットをごそごそと探したが、ライターだけ消えていることに気付き、ああ、またなくしたんだと思いつつそのままその日は寝てしまった。翌日の夜、覚えている限りの立ちまわり先に電話をかけたが、どこも、そういう落とし物はないという返事であった。初めて、なくしたということの現実に直面した気分で悲しかった。日本に帰ってきてからこのかた、三度ほど私のジッポーは行方知れずとなっている。今回新しく購入したものも、いつまで僕の身のそばで灯をともしてくれることか。いずれにせよ、100円ライターで灯をつけるタバコの味は、やはり100円の味がし、綺麗な女性がつけてくれるタバコには、また独特な味わいがあり、僕のほんの少しの贅沢を、できれば一日でも続けられるようにしたいものだ。たかがタバコ、されどタバコ。 某月某日 新年早々、新宿ピットインにおいて、芳垣安洋(DS)水谷浩章(B)と三人でトリオで演奏した。幸い、年末にはあまり仕事が無かったので、この仕事に向けて十分な準備をすることができた。ピットンから話があった段階でスタンダードをプレイすると申し出た。ある意味で自分に対する挑戦であった。三者三様のアビリティーを惜し気もなく演奏の中に盛り込み、同時に、スタンダードチューンの枠組みを大切にするという試みが、僕の狙いであった。日本の音楽にありがちな、おどろおどろしい湿気た音の要素も排除したかったし、途中から不自然にフリージャズとなる展開も避けたかった。同時に、舶来の音のみで音楽をするのも何か気が引けるところがあった。これらの要素を同時に考えあわせれば、演奏内容のチョイスは自然狭まるような印象を受けるかもしれないが、僕はそうは思わなかった。何かが起きる、もっと違う方向があるはずだというイメージがあった。華々しい試行錯誤の末、曲順を決め、簡単なアレンジメントを決めて、セッションでありセッションでないような道行きを曲間の随所に埋め込んで本番の場面を想像した。新宿に向かうべく山手線に乗る。頭の中で自分がある程度組み立てたアレンジメントを反すうしているうちに、JR原宿駅と代々木駅の中間で新年を迎えた。なぜか殺伐たる瞬間でもあった。カウントダウンとか、2005年になったという感慨も、何もわかないうちに新宿駅に着き、ピットインに向かった。思ったっ通り、思った通りに行かず、それが狙いであったので、演奏していて非常に楽しかった。音楽の成り立ち、進行その他が、ぜんぜん僕の想像していたものと違った方向に向いていったからである。同時に、僕の心の中の企みは充足したのだった。思ってもいなかったことをすることを思っていたからである。正月早々絵に書いた餅が、本物の餅になって、頭の上にぼたぼたおっこってくるようなエキサイティングな内容だった。無意識に自分自身を裏切ることの楽しさを満喫できたとも言い換えられる演奏。新年早々ピアノの鳴りは絶好調であった。今年も綺麗なピアノを弾きます。ご期待下さい。  某月某日 過日、少し早めの大掃除をはじめたら、夜中の三時過ぎまでかかってしまった。いかにロマンティックなピアノを弾こうとも、日常生活から自分を切り離すことは出来ない。況んや、綺麗な環境でないと、良い曲も浮かばない。これは凡才の限界を示しているのかもしれない。坂口安吾の小説の口絵の写真など見ると、見事に散らかった日本間に、一人安吾が原稿用紙に対峙しているものをよく見る。この手の写真をよく見ると、散らかり方が見事だ。戦後すぐの状況を鑑みても、こういう風に散らかすにはある一種の才能が必要であろう。僕にはその才がない。こういう日は不思議と来客もなく、また電話の本数も少なく、ただ黙々と、普段住んでいる空間を磨きあげる。色々な掃除用具を買ってきてはみたが、やはりぞうきんがけというものが一番効力を発揮するようで、特にスティームクリーナー等、やはり落ちない汚れは落ちない。丹念に掃除するということが、やがては大きな効果をもたらすことを知る。しかし、いかにぞうきんがけが万能であろうとも、風呂場の掃除はある種の科学洗剤に頼るところが大きい。壁に根を張るカビ等の汚れは、腕力と根気ではどうにもならない。科学洗剤を使いながら妙な発想を繰り返してみたくなる。科学洗剤とともに落ちた汚れは下水管を通り、紆余曲折の後、いずれは海に到達する。その条件の元で魚は育ち、日本酒でいっぱいやりながら食べる刺身には、遠い、僕の大掃除の記憶が味にしみついるのではないか、云々。かといって、あまりにもこのことに対して神経質になると、掃除自体の効率は下がる。科学洗剤を使うところは思いっきり使い、ぞうきんがけが有効なところはぞうきんをかけて、黙々と働く。夜になって腹が減ったのでおかめ蕎麦を出前にて注文し、丁重に手を洗いすすり込む。蕎麦を喰ったことによって出た汗をタオルで拭きながら煙草など吸っていると、年末の雰囲気がでてきた。おかめ蕎麦はかまぼこがたくさん入っているので好きだ。あれは日本製ハムであろう。体を動かしていると、つゆの塩分が体に沁みるかのようだ。農作業はわざとゆっくり体を動かすという。あまりテキパキと体を動かしていると、昼過ぎにはくたびれてしまうらしい。それに習って、ゆっくりと掃除をしていたら、あれよあれよという間に午前12時を過ぎてしまった。これから先は、一軒家ではないので、なるべく音をたてないように隠密年末大掃除モードにきりかえなければならない。やれることが狭まると、逆にやることが見えてくる。夜中のカラスの声を聞きながら、思わぬところにたまった汚れやゴミを丹念に掃除をしてゆく。普段自分がいる場所、僕の仕事は居職の面もあるので、丹念に掃除しなければならぬところは、自然と毎日気付いている場所であり、そういう所を綺麗にしてしまうと、まわりももっと綺麗にしないとバランスがとれなくなってきて、いくら時間があっても足りなくなってきてしまう。一日中無言である。音楽もかけない。一応ケリをつけ、見違える様になった室内を見回しながら一杯のむ。今日は28日だから、たぶん、大晦日にはまた簡単な掃除をしなければならなくなるであろう。東京は、他の都市に比べ、ホコリの多い街に思える。これを恨みに思っては、東京の生活は成り立たない。 某月某日 本日は、菊地成孔氏とEWEの高見一樹氏とのミーティングがあった。最初に落ち合う場所は、新宿風林会館のパリジェンヌである。久しぶりに多種多様な→の方々を真直で見た。銀座のナイトクラブでピアノを弾いていた頃のことを色々と思い出した。「TOUCHES&VELVETS」の第二弾についての相談と、今度菊地氏と双頭プロデュースすることになったとある映画音楽の話、「TOUCHES&VELVETS」の興行の件について話は始終し、後、場所を変えて、近間にある某中華料理屋で、三人で忘年会状態となった。忘年会というもの自体、僕はあまり好まないけれど、それも飲む相手によるのである。紹興酒が進むにつれ、言わなくても良いことをべらべらしゃべり出したのは、お恥ずかしながら僕自身であり、この国難の時期、わが国はどう行動すべきか、何を一番大切にすべきかと言うことを、辛い中華鍋を前にべらべらしゃべりまくり、文化人の誰と誰がエセ左翼で、誰と誰が本者だとかいったたぐいのことまで、独断と偏見でしゃべり続け、件の二人はその持論に笑い転げるので、さらにまた下らん講釈に熱が入り、ああでもないこうでもないと言っているうちに、あっという間に3時間ほど経ってしまった。我ながら不覚である。答えの出ないことに時間を費やすほど無駄なこと無しと普段思っているくせに、アルコールが脳内に回るとそのことを忘れる。しかも、ばりばりの中国人がやっている中華料理屋の中において、中国原潜の不法侵入について熱く語っている俺はいったいなんなのだ。よく食い物に毒を盛られなかったものだ。たぶんもっとタチの悪い客が多い店なのだろう。そうでなかったら、今頃豚の骨といっしょに、ポリバケツの中で「海ゆかば」などを絶叫し、制服のお兄さんたちに連れ去られているところだ。しかし、相手が相手だけあり、座は和やかで、議論紛糾することなく、よたよたと店を後にした。一番大切な仕事の話をほっぽらかして、ナマな憂国論などぶちあげるとは、根本的に真面目なんだか不真面目なんだか自分でもよく分からない。なんだかんだ文句を言おうと、中華料理屋の味は絶品であった。 某月某日 本日はひさしぶりに、我が家のピアノの調律をした。このピアノを購入してからずっと同じ調律師に頼んでいる。その方が、ピアノの癖や、摩滅の段階が時期を追って分かるのではないかと思い、意識的に他の人に変えることをしなかった。さすがはプロであり、ピアノの音は見違えるように磨きぬかれた。調律する姿を横で見ていて不思議なことを考えた。僕の脳みその調律はできないのであろうか。それは何を基準に、誰がするかというところが、大問題となること必須であろうけれど、弦の張率を安定させるがごとく、脳内も安定した張り具合になれば、この世の中に僕自身として、もっと住みやすくなるのではないか。健康優良児、優性遺伝の轍を踏めば、ナチスや、50年代のアメリカのわけの分からない差別へとつながる。ヒットラーユーゲントの青年たちの目は輝いていた。皆同じ目の輝きである。これは異常だ。薬に頼らず自分の脳内をうまく調律できれば、イライラの原因となる世のあれこれともっと調和して生きてゆくことができるやも知れぬ。一番安易な、そして安易な方法は酒を飲むことで、酩酊すれば、調律の狂いに気が付かぬようになる。しかし根本的な調律の狂いの修正にはおよばないだろう。僕は精神科にかかるほどの、体調的、精神的な問題が今までなかったので、その門をくぐったことはないが、そういう場所に行ったら行ったで、何かしらの病名をつけられるのは必須であろう。山本夏彦氏の随筆の題に、健康人は本を読まないとある。この一言を持ってして、僕は健康ではないということがよく分かる。精神的に健康な人は音楽を必要とするのだろうか。 某月某日 年末が近付くにつれ、世の中もざわざわしてきて、繁華街などの人出も自然と増えてくるようだ。毎年この時期に思うことだが、12月はなぜか持ち金の減るのが早い。特に他の月とかわった行動をしているわけではなく、豪遊などは夢の夢、クリスマスも来週からが山場となる。なのになぜか、月々使う分の持ち金が、他の月と比べ、ひゅーひゅーと我が身から離れてゆく。そういえば最近木枯らしが吹いたなあと感じることがなくなった。異常気象のせいであろうか。木枯らしが吹けば、温かい家庭に焦がれることになり、自然と家路をたどる時間は早まる。畢竟、金の使いどころが減るというのが理であるが、一人暮らしの気軽さ手軽さは、この点、善くも悪くもある。そこいらを意味もなくほっつき歩いたり、衝動的に古本などを買ってしまったり、その本を読みながら一杯どこかで飲みたくなってしまったり、帰りに寝酒を買いに酒屋に寄ってしまったり、こんなことをしていると、木枯らしが吹こうが吹くまいが、財布はどんどん軽くなってしまう。金というのはあれは確かに、札に印刷のある通り日本銀行券であり、既に兌換紙幣でなくなって何年経っているのか知らぬが、皆が一律に、これは一万円だと思うから一万円であるという、ひじょうに確固とした、そしてもろい概念の上に成り立っているような気がする。だからって、ただで一万円ちょうだいといわれても、あげたくないという心理は働くのだから、始末に困る。さらに、お金をあなどると、信用もなくるし、精神的にも貧しくなる。困った代物だ。閑話休題、実は僕にはお金に関して一つ困っていることがある。二千円札の裏の和歌が読めない。例えば、外国から来た友人に、「ヒロシ、コレハナンテ書イテアルンダイ?」なんて聞かれた日にゃ、私は日本人をやめねばならない。自国の札の文字が読めぬということは、ひじょうなる恥なのではないだろうか。インドの札には何種類かの言語が印刷されているようだが、それは理由を説明すればすむことだ。わが国は、日本語で成り立っているのだから。あれ何て読むんだろう。 >>>

電脳空間がいっぱいのため

某月某日 電脳空間がいっぱいのため、日記が更新できません。しばしお待ちを。 某月某日 とある仕事で、BILL EVANSの名演で知られる「MY FOOLISH HEART」を録音する事となった。この曲の入っているCD,「WALTZ FOR DEBBY」は、1961年のとある一日、神様がシニカルでいるのを一瞬やめにして、薄いかすかな微笑みをマンハッタン島に向けた瞬間に演奏されたのではないかと思われるような、はかなく、そして後世に残る名演の一つである。このCDの一曲目の「MY FOOLISH HEART」、読んで字の如く、ジャズを演奏するという事自体、実はバカみたいな事なのである。才能があればあるほど、また才能がなければないほど、どちらにしてもたどる道は同じだからだ。答えの無い日常をもがくのは、ミュージシャンでなくても、人間ならばそこそこ経験している事だが、ミュージシャンはそのもがきのエントロピーが拡散的だ。エントロピーが拡散すれば、これはバカにならざるを得ない。同じ淫するなら、才能があった方がいいに決まっているが、才能があったらあったで、それなりに、常人には伝わらぬ屈託があるはずであり、なかったらなかったで、これまたそれなりの屈託があるに決まっている。この曲のすごいところは、才能如何に関わらず、聞く者をもってして、「愚かなりし我が心」と、万人をして感じさせうるメロディーラインを持っているところであろう。淫するがためにおこる屈託、もがきたくなくても、もがかざるを得ない日常。世の中から、自分も大人として見られなければならないという暗黙の枷もこの屈託に加わるだろう。もしこの世がこれだけの要素で構成されているならば、またこれまでも構成されていたならば、我々人間はあまりにもみじめっぽくしょぼくれた生き物であろうしあったろう。しかし我々には音楽があるのである。音楽をになう要素の一部として忘れてはならないもの、それは激しいネオテニー的な衝動だと思う。世の屈託、大人としての枷を取っ払ったもろい部分を前面に押し出しても安心できる空間。それは良い音楽を聴いている時なのではないだろうか。 某月某日 世の中では人々が目まぐるしく働いていて、僕の仲間達も目まぐるしく音楽の分野で活躍をしている。そんなこのことは今日に限ったことではないけれども、僕は活躍などまったくせずに、今日一日、あまり外にも出ず、掃除をし洗濯をしていた。のろのろと家事をするということは、気分転換以外の余計なことを考える時間を作るということでもある。余計な考えは大抵ネガティウ゛で、なんだか生まれてからこのかた、何の意味の無いことをずっとしでかして来たような気分となって、暗胆たる気持ちにいつも陥る。自己を肯定する何らかのよりどころというのも、所詮は妙な思いこみから始まっていることの方が多く、確固として前に進むだけの力強さに欠けているように思えてならない。かといって、混迷をきれいに取り去った社会というものが存在するかといえば、そこは人間のすみかでは無いであろう。北朝鮮にも混迷があるぐらいなのだから。暇にかまけて、「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」という映画を見にいったが、まったく、がくっとくるように無意味な映画で、何の感動も感慨もわかない僕は、どこか精神的に異常なのだろうかと思ったほどだ。たぶん僕の感性がにぶっているのが悪いんだろう。少なくともフランス映画であるから、お涙ちょうだいもリキュールの味程度の抑制があるが、なんでこんな映画作る気になったのか、全然分からない内容だった。ハリウッド映画のドンパチもいやだが、こういう映画もいやだ。畢竟、気分転換に映画を見るという楽しさも奪われた気分である。僕の生活する環境のまわりで、特出して冴え渡っている何かを見つけること自体が、贅沢な欲望なのかもしれない。後はきのきいた居酒屋がどこにあるかというような情報を、近所に住む友人と交換するぐらいのことしかないのかもしれない。それはそれで良いことなのかもしれないが、酔えば酔ったで、後は全ていっしょこたである。地球の自転と時間の流れは、そんな僕の生活の中でも容赦なく、先へ先へと進んでい行き、これに逆らうことはできないし、たとえ生活自体が昼夜逆転だからといっても、過ぎ去るものは過ぎ去り、僕の意志とは関係なく明日はくる。すべてがお手上げだ。なす術もなし。きれいにした部屋等もいずれまたよごれる。意味を見いだすまでもなく営み自体は続くのである。ヨーロッパに行きたい。たぶんあそこは日本よりホコリの量が少ない。 某月某日 またしてもずっと日記を書かなかった。多忙だったという理由があるが、詳しくは、その多忙中に行動をともにしていたベーシスト、水谷浩章氏の日記に、その動向が詳しく書いてあるのでそちらを参照されたい。(リンクの欄に彼のWEB ADDRESSがあります。)こちらが音楽三昧で浮かれているうちに、地球上ではいろいろなことがおこっているようでして。なんとなく毎日いやな気分で過ごしているありさま。国内も国外の情勢もろくなもんじゃない。「人の世は 地獄のうえの花見かな」という僕の好きな川柳があるが、最近は花見さえも許してもいらえないということなのかもしれない。地獄の上に地獄があったら、死んでも意味がないじゃないか。この世が即地獄ならば、生きているかいがいしさも空回りだ。世界一強い国が、なんで戦車と機関銃で戦争するのだろうか。やはり人間はドンパチが好きなんだろうなあ。僕も含めて。人間であることがいやになる。同じ地球上で。双方皆親があり、兄弟があり、友人があり、そのことには変わりなかろう。こんな中学生の作文みたいな文章書いたって、大局は何もかわらないのは百も承知。だいたい、人前で演奏すること自体が、少なくとも上品な行いとはいえまい。そのことも承知のうえだ。だいたい、こんな日記書いて、不特定多数の人に読む場を提供していること自体上品とは言えない。このことも承知のうえだ。でもひどすぎるなあ。人間の所業。下手をしたら、人間は二本の足で糞とゲロを支えている動物以下の動物だと前の日記に書いた。それでもう下品さにおいては十分なはずなのに、それ以上の下品な行いを、キリスト生誕以前から営々と続けている我々はいったいどういう種族なのだ。いかんせん国益という立場に立てば、脱げないパンツもずり下ろすしかないのであろうが、もっとお互い、考えるべき人間の問題がたくさんあるんじゃないのか。もっと人類として、考えるべきことが山積しているはずだろう。勘違いしないでほしいんだけど、僕はただ単に戦争反対を叫ぶ者ではない。いざとなれば、撃たれたら撃ちかえす事もあるだろう人間の一人として、その自分自身を悲しみながら憤っているんだな。戦争の核心は擬制資本ではないのか。それともたがのはずれた本能の狂乱なのか。どちらにしても、僕が想像していた以上に、この世紀は暗黒だな。 某月某日 11月1日、午後8時より横浜にあるクラブ、「DOLPHY」にてGO THERE !の面々と演奏する。クラブ「DOLPHY」は、JR桜木町駅と、京急日ノ出町駅のあいだに位置する。正確に住所を記せば、宮川町というところにあるクラブである。この近辺、ぼくは横浜の住人でないので、あまりえらそうなことは言えないが、このままずっと、誰の手も入ることなく、ひっそりと、そしてそっととっておきたいなあと思わせる場所である。まずこのあたりは時がいまだ昭和の雰囲気であり、港町につきものの猥雑さがひしめきあっている。JR線をはさんで反対側の未来都市との差は、計測する思想も基準も持ち合わせないくらいの違いだ。いずれにせよ、ぼくにとって居心地のいい方は、なぜか日ノ出町駅、宮川町近辺であり、桜木町から宮川町へ歩くルートに立ち並ぶ、港町には必須のアイテムを道の両側に見ながらクラブに向かうこと自体が楽しい。必須のアイテムとは、ここにあえて記すこともないだろうが、全ての、と言っていいだろう、昭和ロマン歌謡曲の中の歌詞に出てくる名称が、ここにはあるのだ。バー、スナック、ソープランドにはほとほと見えない「トルコ」な風俗店の数々。スターバックスからはほど遠い喫茶店など。(ちなみにぼくはスターバックスが苦手である。なぜかって?タバコが吸えないからに決まってる)、ラブホテル、エプロンを着たおばさんがやっている一杯飲み屋、書きだしたらきりがない。また、かの伝説のジャズ喫茶「ちぐさ」や、「DOWN BEAT」などが、まだ顕然と存在しているのも、横浜という港町の特徴だ。そういった、一般にはネガティブに使われる言葉、しかしここではぼくにとっての褒め言葉である「猥雑」な一角に、クラブ「POLPHY」は、何気なくたたずんでいる。東京のジャズ喫茶という空間が全滅したのにもかかわらず。これも横浜という港町の持つ特徴なのだろうか。もともとジャズってこういう感じのあたりで演奏されていたんじゃないだろうか。ジャズの歴史の本を読んだ知識などで、SPEAK EASYと呼ばれた禁酒法時代のもぐりの酒場、そういったあたりで、黒人のミュージシャンがジャズを演奏していたということは知っている。しかし、それはあくまでも文字から入ってきた知識にすぎない。しかし、桜木町駅から川沿いにDOLPHYまでの道をたどれば、そんな本の知識なんか屁でもないような景観が広がっていて、ひじょうに小気味良い。どの都市にもガス抜きは必要であり、それは東京にも言える事ではないだろうか。町のつくりは全然違うのに、その道すがらを歩いていると、よく新橋に住んでいたおばあちゃんの家に遊びにいっていた頃の事を思い出す。そのあたりを歩いてまわった子供の頃のことだ。印刷工場のガチャンガチャンという音とともに、当時の新橋近辺の記憶が宮川町あたりとなぜか重なる。その記憶の中にあるものは、やはり、バーやスナック、喫茶店、町工場、袋小路にまたたく春雨の流れのようなネオンの明かり。みな昭和40年代の東京の風景だ。新橋に川は流れていなかった。しかし、当時と同じにおいが宮川町近辺にはある。当然、そして必然的に、そこで演奏される音楽は、東京の山の手にあるクラブで演奏するものと比べて、全然別もののバイブレーションを帯びてくるに違いない。また、そうでないとしたら、我々の演奏するものは、ジャズではなくなる。 某月某日 大切な仕事の合間を縫って10月だというのに台風ばかりが空にたれこめ脳内は泥濘のようになり頭の上には漬物石をのせたような背の縮まるような日々が続きいやな気圧の関係で思い付くこと考えること全て大切な仕事向きの内容でなくニコチンの量が倍アルコールの量も倍となり夜はさらに眠れずこのじとじとした大気を部屋に入れまいと閉じこもれば閉じこもるほどに悪循環さらに倍加し薄い呼吸をしているのがやっとで食欲もなく10月の爽快な秋を夢想する気力も失せたあの東京でも一番透明感のある秋の雰囲気を一日でも削がれるということは東京に住んでいるという事実自体の意味を遠ざけるまた、高飛びするだけの金も暇もなし時々どこかでとんかちを二回、三回たたくような音が聞こえるがこれは頭の上の漬物石のせいなのか頭の血管に欠陥があるのか幻聴か秋よ来い[MUSE;オフェーリアの化身」 ドラマー、オラシオの笑顔の中には、ミューズが宿っていた。このリズムの天才の、しかも繊細な彼の笑顔の中に。MUSEはギリシャ神話に出てくる神様の一人である。MUSICの語源であろう。ぼくなどは、たまにしかそのミューズに遭遇しないのだけれど、オラシオの笑顔の、その中の瞳の奥の、そのまた奥の魂全体に、ミューズが住みついていることが見て取れた。10月18日、スイートベイジルに於けるトリオ演奏の最初の音を聴いた時にである。陰茎に血液が集中するように、ぼくの魂の中のどこかしらに隠れていた、自分さえ気付かなかったミューズに、オラシオはその第一音で、そのミューズの頬がバラ色になるような息吹を吹き込んだ。”!!!!”こいつは化け物だ。そう、怪物。怪獣、人間じゃ無い。俺自身が気付かなかった俺の魂の中のミューズを叩き起こしやがった。しかも笑顔で。そのミューズは、有名なオフェ-リアの絵から抜け出してきたような妖精に見えた。例の、ジョン・エベレット・ミレイ作の有名な絵の中のオフェーリアだ。ハムレットの筋書き通り、狂っていて、小川に浮いているにもかかわらず、バラ色の頬をしている。絵の中のオフェ-リアは無表情で蒼白だが、ぼくの中のオフェーリアは、小川からすくと立ち上がり、唄をうたっている。そして、ぼくの魂の中にあるミューズ、すなわちそのオフェ-リアは、こちらがよだれをたらしそうになるような、ある意味ものすごく陰媚な、そして同時にものすごく清楚な微笑みを浮かべている。演奏が進むにつれて、彼女は、ぼくの魂の中で、信じられないようなセクシーな表情で、唇をつぼめたり、少しだらしなく開いたりしている。深紅の唇。演奏が盛り上がるにつれ、彼女は何かぼくに囁きかけてくる。かの夏目漱石が初めてこの絵を見た時の感想とはまた違った、何語かわからない、しかし、非常に切れ味の良い、そして響きの良いアクセントで何かぼくに語りかけてくる。もしそれが本物のオフェ-リアならば、シェークスピア時代の古い英語の筈だが、そのサウンドは英語ですらない。いずれにせよ、その言葉の韻の中に吸い込まれそうになる。身体が半分彼女の方に持っていかれそうになる。だが、ギリギリのところで、完全に吸い込まれはしない。何故かって答えは簡単だ。このオフェ-リアはオラシオがあやつっているのだ。何ということだ。あのごっつい顔のキューバ人が、俺の魂の中を良い意味で掻き乱している。あいつはブ-デゥ教の呪い師か何かなのか?オフェ-リアがぼくをセデュ-スしている。音楽が、オラシオのサウンドが、カルロスの野太いベースの音が、ミューズが、オフェ-リアが、同時にぼくの聴覚、ピアノのタッチ、アイデア、ソウル、魂、何でも良い、全部一時に襲ってくるのだ。それは死と直面するスリルにも似ている気がした。だから気持ちが良いんだ。よ-し死んでやる。オラシオよ、お前は天才だよ。だけど俺にだって矜持ってもんがあるんだよ。俺の魂の中に眠っていたミューズ、すなわちオフェ-リアを叩き起こし、俺の音楽的なある部分を開眼させたことは確かだ。だからって、そっちの誘惑だけで音楽を進行させるわけにはいかない。だってこれは俺のコンサートなんだ!あ、くそ、またオフェ-リアがぼくをモノスゴク誘惑してきた。オラシオよ、少し待ってくれ、俺にも準備ってもんが必用、、、、あ、今すげえ事が起きた。演奏中にだ。これは俺とお前がいっしょにやったもんだからな。お前のブーデゥ-教か何かシランが怪しい呪いの力だけじゃ無いんだぞ。しかし、うっ、またすげえ音楽的に言って大きな波が来た。喜んで溺れ死んで見せましょうぜ、オラシオさんよう。俺だって伊達にピアノを今まで弾いてきたわけじゃないんだ。俺が銀座のナイトクラブで悲しい気持ちで演奏していた時、おまえはゴンザロ・ルカルカバなんかと世界ツアーしてたんだろ。人それぞれだ。だけど今は、死なばもろとも。俺もお前の中のミューズと同じくらいピアノを弾くことが好きなんだよ。ほら、わかんだろ、そうそう、その通り、ドウドウドウ、少しゆるやかに行かない?何て言おうとしたらまた大きな津波が。オフェ-リアも、カルロスも、オアラシオのミューズも、ぼくの中のミューズも、そのサウンドの津波の中にどっぷりと沈み込んだ。ものすごい官能が全身をしびれさせる。オラシオよ、一瞬だったが合体したな。俺達。カルロスもさ。これが2曲目のトリオ演奏での感想だ。3曲目からはSTRINGSを交えての演奏だった。三曲目からの感想はって?「TOUCHES&VELVETS」を買って聴けばわかりますよ。『病的に病的な自分: 新譜「TOUCHES&VELVETS :QUIET DREAM」発売に寄せて。』10月21日に発売されるぼくの新しいCD、「TOUCHES&VELVETS :QUIET DREAM」の宣伝を、早くもプロデューサーである菊地成孔氏のSITEでやってもらっています。このSITEより有名だから無駄かとも思いますが、一応彼のSITEのアドレスをここに記すことにします。(http://park10.wakwak.com/~kikuchic/)そして以下のアドレスは、10月18日に演奏する JAZZ TODAY 2004の情報です。(http://www.ewe.co.jp/jazztoday2004/)勿論、TRIO PLUS STRINGSという構成です。この期におよんでは、ぼくも何か次回の新譜に関して書かざるを得なくなった気がします。以下の文章は、プロデューサーである菊地成孔氏、そしてEWEの全ての関係者への感謝の念と共に書いた、前口上です。新しい音楽を表現し、それを世に向けて発表することは、大変嬉しいことです。しかし同時に、今回は少し複雑な心境でもあります。今回のこのCDの製作、コンセプト、宣伝などに関して、我が友人でもあるプロデューサー、菊地成孔氏に全てを一任するつもりでいたからです。もちろんこういう文章を書くことも含めてです。実際に、演奏前から新しい音楽を創るにあたっての会合、最初のトリオ録音の進行の時も含めて,ぼくは菊地氏の言うことに一言も反論しませんでした。彼に全信頼をゆだねると決めて製作にはいったからです。ですから、ある意味で、この「TOUCHES&VELVETS」は菊地氏の夢が現実のものになったと言っても過言ではないでしょう。このような理由で、今この時点から、このCDのことを文章として、初めて自分の意志を通して語ることは、ひじょうに難しいのです。もちろんトリオ録音中においては、自分の「意思」無しでは音楽は創作できません。しかし、その意思さえも、菊地氏の鋭敏なる頭脳とセンスにあやつられていた感があります。ただでさえ、自分で自分の音楽のことを文章に書くことは、下手をすると、手前味噌になる嫌いがあり、逆に、あまりに日本的謙譲の美徳を振りまわすと、なぜ創ったんだと言うことにもなってしまう。うまく書けてもそれは短編の私小説的なものになるしかなく、うまく書けなければ、それはただの駄文と化してしまう。畢竟、この文章を書くにあたってただひとつ残る道、それはぼくがバカ正直になり、自分が普段考えていること、思っていることを文章でさらけ出すしかないと考えました。ですから、この先に記する内容は、ある人にとってはひじょうに不愉快なものになるかも知れません。何故このCDを気合いをこめて創り込んだか。答えは簡単明瞭です。我々の住んでいる環境、我々が日々目にするもの、耳で聞く音の実に八割以上はそれこさ汚く不愉快なものです。少なくとも僕にはそう感じられます。一歩ドアを開けておもてに出る。道のまん中に妙に間延びしたカタカナで「止マレ」などと書いてある。実に不愉快です。変な白線が路上、車と人間の合間を定めているようですが、何の為に白線が必用なのかわからない箇所が街には沢山あります。空を見上げると、電柱とその間にこんがらかったケーブルが、風景の中に、蜘蛛の巣みたいに張り付いている。駅へ行く。「おさがり下さい」「携帯電話の電源をきりなさい」「足下に御注意下さい」日本は母系社会だからこういう親切がまかり通っているのかも知れませんが、僕にとってはただの雑音です。見たくないものに対して、目は閉じられますが、耳は閉じられません。蛍光灯の使用量も、各場所であまりにも多すぎます。蛍光灯、これは既に害悪であり公害です。人間を明き盲にし、脳に色彩というセンスを伝えないようにしてしまいます。渋谷、新宿などはもう、本当は恐ろしくて近寄りたくもないのですが、CDを買ったり本を買ったり、仕事をする場所でもあるので、しかたないので出かけます。僕の知っている東京という都会は、もっとモダンで、未来への可能性を充分に含んだ豊かな都市であったはずです。しかし、この頃の東京は、何かがずれ、何かが決定的に欠落し、何もかも途方もなくうるさい場所に成り果てました。デューク・エリントン、ビリー・ストレイホーン、マイルス・デイヴィス、その他書ききれない、燦然と輝く彼らの音楽は、その彼らの住んでいた時代と、その街の一番クールなフィーリングを、音楽を通して我々に伝えています。時間を通り越し、時空を超えて。では今ミュージシャンとしてのぼくが、東京という場所に住んで、どんな音が創造できるのか。現実を見たら、ぼくにとっては絶望的です。無味乾燥な音楽が東京で盛んなのもそのせいでしょう。言ってみれば、無味乾燥な音楽こそ今の東京のヴァイブレ-ションを体現しているのかも知れません。僕には全く恐ろしいことです。しかし、ぼくには自分自身が理想とする東京が、確固としてイメージのなかにあります。少々アナクロニズム的なイメージですが、たとえば、両親と銀ブラした時の思い出。子供の頃、デパートの屋上から見た東京の風景。歌舞伎座近辺。夕暮れの東京タワーの上からの眺め。ぼくはこれらのイメージを土台とし、今の東京の音を創造します。誰もが自分が生まれ育ったところを愛したいと思う気持ちには変わりないでしょう。この時点で、菊地氏のイメージとぼくのものが合致したと感じられた瞬間、それは何度もくり返した会合の中での一瞬でしたが、ぼくは菊地氏の指示に全面的信頼をおくことに決めました。我々に今必要なもの、それは審美眼と文化、芸術です。音、味、匂い、色彩、服装のセンス、全てにおいて優美な、ロマンスを感じさせる微妙な何かが自然と生活の中に組み込まれていることが、我々には必要なのです。しかし今はこういった条件がひじょうに生活の中に乏しい。人間二人居れば、もうそこには濃い情の世界が生まれ出ます。またその反作用も人間ならではです。そこに、文化と芸術の意味が絡まってくるのではないでしょうか。これらの文化、芸術が我々の生活にすんなりと属していないとどうなるか。これは考えても恐ろしくおぞましいことですが、我々はゲロとクソをニ本足で支えている、動物以下の動物になってしまうということです。動物以下です。動物は、黙って我々の為に死んでくれて、食料と成リます。核爆弾も作りません。ぼくもピアノを弾かなければ、単なるゲロ袋です。そういう自分の存在も自分自身が許せない。では何ができるか。センスのある、フィーリングのある、すてきな音楽をピアノを通して奏でるしかないのです。まず人間として。そういう思いが、この「TOUCHES&VELVETS」には込められています。そして、この音こそが、東京で生まれ育ったぼくが、はじめてこの街にストレートに突きつけた音楽でもあリます。何の短絡も、自己とその意思の間に横たわる逡巡さえ無しに。これはプロデューサーの采配のおかげです。この場を借りて菊地氏には大いなる感謝の念を送りたい。音楽を始めてこの方、ここまで来るまでに考えぬいた事、いままでやってきた音楽、そこから生じるいろいろな紆余曲折。血だらけ火だるまの時もありましたが、いまやっとスタートラインに立った気がしています。誰が何と言おうと、このピアノの音は、東京に生まれ育った日本人の、南博のピアノの音です。 某月某日 三日続けて演奏の仕事をこなした。別段珍しいことではないけれども、いつもの三連チャンとはまた違った趣のある三日間であった。一日目が通常のクラブギグ。横浜JAZZ IS でサックスの井上淑彦氏のグループで演奏。そしてこの三日間の中日が、横浜ジャズプロムナード主催の、横浜ドルフィーというクラブでの演奏であった。ちょうど台風が関東に牙をむいていた時間帯にだ。幸い我々が演奏していた午後五時前後が一番ひどい状態だったようで、突風と雨はまぬがれたが、リハーサルのため一時半に横浜ドルフィーに到着すると、なんだか外の空気感が重くたれ込んでいるような気がした。しかし、雨風は以外にも静かであった。嵐のくる前触れなのか、なんだか世の中全体をも含めて、逆に大気が静寂に包まれているようで無気味であった。台風が助走をつけていたことは明らかである。前記のごとく僕は一番ひどい状況の最中に演奏をしていたわけだが、クラブに来てからなぜか体と心がざわざわし、いても立ってもいられないような落ち着きのなさが体の中を行ったり来たりしているような気分だった。これは本能的に何かがおきる前兆を予期していたのであろう。普段とは違ったテンションを張り巡らして、ピアノを弾きまくった。台風の前触れを察知したとはいえ、相乗効果というにはあまりにも過分なエナジーが体の中から吹き出し、自分でもびっくりしてしまった。三連チャンと記したが、実はその中日の夜十時から午前一時まで、井上淑彦氏をリーダーとして、ジャムセッションのホストをつとめるという仕事もあったので、日付けをなしに考えれば四連チャンである。午後三時半からの演奏後、体の中では、音楽を演奏するという概念が消失していた。これは長年演奏してきて、一日で、演奏は2回をこなすということが体に染み渡っているせいだろう。次がいくらジャムセッションとはいえ、体の状態や集中力を、音楽のどこの近辺にすり寄せたらいいのか皆目見当がつかなかった。しかし、また考え方を変えれば、貴重な体験となるはずだとも言えよう。実際、セッションの進行、音楽の中身は僕の思った通り貴重な経験となった。プロムナードに招待されてきた大勢のオランダ人と、一緒に演奏した。中に異常に体がでっかいピアニストがすごい演奏をするので、なんだこいつはと思って聴いていたら、どうもこの人は、オランダのジャズシーンではNo.1の、ミケル・ボルストラップという人らしい。欧州全土に、少なくとも一人ずつこういう奴がいるのかと思ったら気が遠くなってきたので、気が遠くなってきたということを理由にワインをがぶ飲みしてやった。こいつらにできないことを、俺は見つけなければならない。今から毎日ステーキ喰ったって、身長は伸びないであろう。かといって妙な浪花節は大嫌いだし、しっけた音を出すのもいやだ。たぶん答えは、オランダ人とか日本人とかそういったことを飛び抜けたところにあるはずである。僕の発想を裏打ちするが如く、ミケルとサックスの井上氏、ドラムの久米雅之氏が互角にわたりあった、打々発止のそれこさセッションは大変な見物だった。二人とも本当にすばらしかった。良いミュージシャンにカコマレタ僕は幸せ者だ。それでまあ、それやこれやで当初の午前1時セッション終了は案の定のびて、プロムナード実行委員がとってくれたホテルに帰ったのは午前2時過ぎとなり、ベッドの上に僕ものびてしまった。さて、三日目はパーティーの仕事であった。ベースデュオにてあるオシャレな輸入家具などを扱っている会社の展示場にて演奏。通常のクラブギグ、延長戦でこなしたジャムセッション、そしてパーティーでの演奏だ。すべてにおいて、演目も違えば、演奏自体の雰囲気も変えなければならず、同時に南博である自分が演奏しているということもアピールせねばならない。この変化をつけることは、そう大変なことではないが、演奏後の疲労感は普通のクラブギグを三日連続で演奏するよりやはり疲れる。ということで、明日はお休み。 某月某日 長らく日記を書かなかった。これほど暑い夏も珍しいもので、その中をくぐり抜けるようにして、いろいろな事をやり、いろいろな演奏をし、音楽を中心に夏が廻っていった。前の日記にも書いたように、7月から半月ほどコペンハーゲンに滞在。気温15度前後という世界に居り、帰国して降り立った鴬谷駅で、それこさウグイスの幻聴が聞こえてきそうな暑さに苛まれ、8月は新譜のジャケットの撮影のため訪れたNYも。気温26度前後という適温であり、帰ってきてまた身体に日本の夏の暑さと湿気がずしんときた。デンマークへ行って、NYに行って、逆にデンマーク人達を日本に呼び寄せ、日本ツアーをしたのであるから、書く事には事欠かないのだが、それらのネタは全て、EWEの発行する次号の「JAZZ TODAY」に記事として書いてしまった。これらの経緯に興味のある方は、「JAZZ TODAY 09号」を読んで下さい。確かにこの二つの事は、いろいろな演奏の間に挟まった夏の大行事であったが、ここでは、その影に少し隠れた、しかし大いに意味のあるすてきな仕事のことを書きたいと思う。NY帰国直後、しかも一番暑い盛りに、大久保のスタジオにて、水谷浩章(B)、芳垣安洋(DS)というメンバーで、一曲だけレコーディングをした。このメンバーでは初めてのトリオ録音である。ヴァイナルソユーズというレ-ヴェルからの依頼に賛同し演奏したものだ。コンピレ-ションアルバムである。まずは、ヴァイナルのプロデューサー、清宮陵一氏の意見をここに記したいと思う。ドメスティックジャズコンピレーション(仮)について。コンセプト「様々な局面で世界的に変革の時期を迎えているまさに今、日本で起きている事」これまで何度も大きな時代のうねりと戦ってきた「ジャズ」という音楽。2004年という時代の空気を「ジャズ」という切り口で長きに渡って伝えられるような盤を製作したいと思っておリます。ジャズとはかくあるべし、ということを無視するところに今のジャズがある。今回ご参加いただきたいと思った方は、そのボーダーラインを飛び越え、今までの枠を大きく広げてみせてくれるパワーがある。その枠を超えようとする姿に、私を含め音楽が好きな人間はみな惹かれるのだと思います。また、この作品はバンド全体と言うよりは”ミュージシャン個人に焦点を当てる”構成にしたいと思っておリます。日本のジャズの最も面白いところは、各音楽家それぞれ個人の強力な個性によってグループが支えられ、さらにそれがパラレルにリンクしとてつもなく強固な基盤を築いているところです。コンセプトの違う様々なバンドで演奏し、毎回見るたびに違った新鮮な衝撃を与えてくれる。音楽の現場として最も魅力的で、原始的で、本質の部分を持ち合わせている「ジャズ」をもっといろいろな人に、いろいろなカタチで知って欲しいと思っておリます。このCDをリリースするというひとつのスタートラインを機に、現場により足を運ばれるような、様々な活動を微力ながらさせて頂きたいと思っておリます。参加をお願いしている方々(50音順)大友良英 NEW JAZZ QUARTET勝井佑二 ROVO菊地成孔 DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN外山明+大儀見元PERCUSSION DUO不破大輔 渋さ知らズ水谷浩章+菊地雅章 BASS DUO芳垣安洋 VINCENT ATMICUS南 博  TRIO                     清宮令陵一タイトルはまだ未定であり、ぼくのトリオが最後ということ以外曲順もいまだ未定。だが、発売は12月中旬を目指し、清宮氏は今、その総仕上げに奔走中だ。そうそうたる布陣である。上記のコンセプトについては、演奏後に説明を受けたものであるが、いずれにせよ、このようなコンセプトの仲間入りができることだけで嬉しい。しかし、レコーディング当日は、スタジオまでたどり着くこと事体で精一杯であった。粘り着く時差ぼけ、急激な気温の変化による体調不調。帰国後次の日にも演奏があり、その次の日がこのレコーディングで、しかも集合は午後1時。さすがのぼくも首筋がまっすぐにならないような状態で、腹時計は夜中を指しており、外界は、マレに見る炎天下。食欲なし。だが、一瞬そのスタジオのピアノに触れた瞬間、ぼくの体内で何かが起った。すばらしいスタインウエイがそこには用意されていたのだ。コリアン、チャイニーズのレストランを両側にかわるがわる見ながらたどり着いた大久保のスタジオには、純正ヨーロッパのサウンドのするピアノがあった。低音域はダブルベースを、中音域はチェロを想起させ、高音域から上は花々しいピアノの音に彩られたそのピアノは、コリアンとチャイニーズの行き交う道の裏にぽつねんと置かれていた。東京はこういうところが奥深い。とにかく、すばらしいサウンドに恵まれたその日のぼくは、時差ぼけだ何だ言ってられなくなってしまった。我がバンド、GO THEREで、いつも最後に演奏する「PRAISE SONG」という曲をトリオで演奏した。PRAISEとは、賛美するといったような意味だ。神への賛美という意義にも用いられる。ぼくはノンポリで、宗教政治に関してはフリーである。しかし最近の人類の動向を見ていると、もうロクなもんじゃない。「BOWLING FOR COLUMBINE」も見たし、「Fahrenheit911」も… >>>

身体が暑さに慣れてきた

某月某日 やっと体がこの暑さに慣れてきた。魂が行方知らずになってしまう瞬間がまだ少しは残っているが。今週はライブが立て込むので、気を張ってしかもリラックスしなければいけない。老舗という言葉に対する概論は三者三様であろうが、明日、8月10日に演奏するジャズクラブ、横浜エアジンは、誰もが、どこかで、少なくとも、ジャズの老舗として認めざるをえない歴史と貢献を、我々音楽の世界の人間に与えてきた、貴重な場所であることは確かだ。出演メンバーは、井上淑彦SPECIAL QUARTETである。他のメンバーは、ベースに水谷浩章、ドラムスに田鹿雅裕である。文句なしだ。井上氏はご存じの通り、自らのレギュラークアルテットを持っている。このスペシャルの方は、僕が井上氏と演奏がしたいが為、グループを組んでいるといっても過言ではない。井上氏の優しさは滋味となって体からあふれている。それがサックスの音に影響をおよぼさぬ筈がない。優しさの中には、荒々しさも、ダンディズムも、孤独も、懊悩も、全てが包括されているけれど、その全てを、自分の音楽とともに一度乗り越えた一人の男が、粛然とサックスを吹いている。僕はこれがジャズという音楽のひとつの魅力であると思う、と同時に、サックスという楽器が、ジャズという音楽に使われた主な理由ではないかとも思ってもいる。上記したような感情を、時には同時に、時には個別に表現することが可能な楽器であるからだ。井上氏はサックスそのものであり、サックスも、井上氏そのものである。レンチャンにて11日には、新橋にあるジャズクラブ、SOMEDAYでも演奏する。当然のことながら、場所が変われば、演奏も変わる。楽器の鳴り方が違ってくるし、観客とプレイヤーの物理的距離も異なる。そのことを計算に入れたり入れなかったりして、我々はその場その瞬間を最大限かっこいいものにしようと演奏する。これが我々のミッションである。12日は、我がグループ、GO THERE !での新宿PIT INN公演である。思わず公演という字を選んでしまって、何か大仰な言葉だなと思い、辞書を見てみたら、「公演:多数の観客の前で、演芸、音楽などを演ずること」とあった。そう、公演とここに書いた以上、我々は、「多数の観客の前で」音楽を演じなければならない。分かってると思うけれど、演芸は無しだよ。先月の半分を、コペンハーゲンで過ごし(詳しくは過去の日記参照)、新しい曲を一曲書いたので、それを初演するつもりである。メンバーは言わずと知れた、ベース、水谷浩章、サックス、竹野昌邦、ドラムス、芳垣安洋である。このグループはすでに五年近く同じメンバーで活動しており、自分ながらそういう長いスタンスでグループのリーダーをつとめるのは生まれて初めてであるから、これからどうなるかは誰にも分からない。まあ、そんなこと言出したら、世の中一寸先は闇である。自分のグループだからといってこれを庇護するつもりもないが、演奏を聴いていただければ一目瞭然ならぬ、一聴瞭然であることがある。それはまだこのグループがさまよっている状態にあることである。言い換えればドリフタ-ズである。あ、少し演芸に話が近くなったかな。いずれにせよ、少なくともこれは僕にとっていい徴候である。同じ曲を何度やっても、同じアプローチはとらない。メンバー全員、演奏中のその瞬間に、一番面白そうなことを探し、また突発事項が起きないか、てぐすねひいて待っている状態が、演奏中に横溢していると思う。僕はもう全てを彼らに任せて、好き勝手をやっているだけである。幸せだなあと思う。皆のおかげである。新曲は、コペンハーゲンの清涼なる空気の中で発想を得たものであるから、このどろどろの湿気と熱帯夜の東京に、それがどう響くか分からないが、とにかく演奏してみるつもりだ。その楽曲が、その場にフィットしないと言うことさえも、面白くしてしまえばいいのであるから、余り心配はしていない。さて13日は、再度、井上親分のグループで、横浜のJAZZ ISというクラブにて演奏する。このクラブには、ものすごく性能の良いアンプとスピーカーが有って、普通の家では聴けないものすごく良い音のジャズが聞ける。巨匠の前達の音々が、まるで目の前で演奏しているような臨場感と共に。自分が演奏しに行っているのに、ほかの音に聞き惚れてどうするんだと言う原始的怒りの声がお客さんから聞こえてきそうだが、事実なのでしょうがない。良く知っている名版などでも、聞こえない音と言うものが、今まで沢山有ったのだなあと思わせるほど、JAZZ ISの幕間に聞こえる音楽は、レヴェルが高い。井上氏はここの臨場感と、音の鳴り方が好きなようで、よく僕も仕事に誘ってもらうのである。またエアジンとは違った意味で、魅力ある空間である。しかし、似通っていることもひとつある。場所が横浜ということだ。横浜の空気にはなぜかジャズが自然とフィットする。港町というところは、良い意味で危険をはらんでいるのだろう。 >>>

コペンハーゲン紀行完結

デンマーク紀行完結。 後半を書き終えた。バックナンバーから読み始めた方が面白いので、この日記を初めて読む方は前に戻ることをお薦めする。 某月某日 日々の疲れが出て昼過ぎまで寝る。寝られたというべきか。日々これすでにUP SIDE DOWNなので、早起きをしたような気分。だいたい前に書いた通り、午後9時を過ぎないと外が暗くならないので、その影響もあろう。本日はオフであり、コペンハーゲンの街を散策した後、ア-マッド・ジャマル(P)トリオのコンサートに行く。本筋の、本物のプロの、余裕に満ちた、豊かなサウンド。こんな贅沢をしていて良いのかしらとふと思う。東京ではめったにコンサートにも行けぬ。東京で聴くより五分の一の値段で、しかもト-ステンの家には、歩いて帰れる距離である。ローカルなミュージシャンのすばらしい演奏も多々見たが、このコンサートは別物であった。コンサートの場所は、TIVOLIという、なんというか遊園地の中の、グラスガーデンという建物であった。TIVOLIとは、夏季は午前1時まであいている大人も楽しめる遊園地のようなところで、コペンハーゲンの中心部のそのまたど真ん中にある。豊島園が、銀座四丁目にあるようなものだ。不思議な国である。うっすらと白夜の中、コンサート開場を出ると、そこはお伽の国という摩訶不思議な空間であって、大人も子供もはしゃいでいて、しかもバーがそこいら中にあるから、ビールを飲むところに困らない。何度も書くが、コペンハーゲンとはいったいどういうところなのか。先祖の時代から親しまざるをえなかった白夜の夏の夜の時間のすごしかたを、現代に於いて凝縮したのがこのTIVOLIという場所ではないか。ト-ステンの家に帰っても、また誰もおらず、寝坊したのでまた明け方まで眠れず、鳥の声を聴き、段々空が白んでくるその空の色を楽しんでいたら、明け方の静寂をぶちやぶるようなミドルイースタンミュージックが、閑静な住宅街に突然響き渡った。何ごとかと窓を開けてみると、タクシーが停まっており、その中からトーステンが千鳥足でおりてきた。コペンハーゲンのタクシー運転手は、NYの例にもれず、大体がトルコ系などで、トーステンは、それ系の運転手に、ラジオかテープか知らねども、演奏後の帰途、多分音楽をフルヴォリュ-ムでかけろと無理難題を運転手にいったに違いない。白夜の夜明けと中東のサウンド。ミスマッチでクレイジーな瞬間だった。また、最もトーステンらしい御帰還とも言える。ドアを開けて入ってきたトーステンは相当できあがっていた。こういう場合、忍び足で逃げるに限るが、あいにくまだ起きているところをトーステンに目撃されてしまった。「ア~ヒロシ、レッツリッスウントゥ ア グウド ミュジック 」などと言いながら後ろから迫ってきて、僕の眼前でニコッと笑った。何が彼の身に起きたかは推測しかねたが、いま彼は非常に淋しい状態にあるということが一瞬にして察知できた。居候としてこのオファーにノーとは言えぬ。長い明け方となりそうな予感がした。彼は、ジャズ、ロック、民族音楽、クラシック、あらゆる種類の、しかも厳選されたレコードやCDを持っていて、まずこの夜明けにはこれを聴かねばといった調子で、GILL EVANS &STEVE LACYのデゥオアルバム「PARIS BLUES」をターンテーブルにのせた。ものすごくタイミングのあった選曲だった。白々と明けて行く薄いブルーの夜空に、この二人の希代の音楽家の音が溶け込んでいった。鳥も鳴いている。次はデゥーク・エリントン、次は現代音楽のモートン・フェルドマン。あまりにも選曲がその瞬間瞬間の空気にあっているので、僕はもうベッドに辞退すること事体あきらめて、ずっと夜があけるまで、トーステンと無言で、微笑みあいながら、ちょっとクラシックなテーブルとイスをはさんで、止まってしまった時間を共有した。二人とも今までも友人であったが、この瞬間、二人の間にはある共通のシンパシーのようなものが生まれた。つまりダチになったのである。お互いのコミュニケーションは、第二外国語である英語によってなされていた。が、この瞬間、二人の心の中の共通点を、音楽が見事に浮き彫りにした。共通して好きなサウンドにお互いが反応し、微笑みあう。こういう場合嘘はつけない。長い長い夜明けをトーステンと共に過ごした。新しい、真の友達ができた瞬間でもある。彼は真の意味で自分の世界を持った才能ある芸術家で、そこに彼のクレージネスが加味されると(これは僕が他のミュージシャンに送る最大限の賛美の言葉だ。)、その瞬間、コンサート会場の次元がよじれるような演奏をする。この文章で彼を言い表わすのは難しいので、トーステンのウエッブアドレスを紹介しておく。(http://tshoeg.dk/)彼は、菊地成孔氏の「10minutes0older」にも参加している。詳しくは、(http://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=418) 某月某日 明け方まで起きていたにもかかわらず、本日は大切な日である。ホテル、KONGARUTHER(コングアータと発音する。)に於いて、デンマークジャズ協会、コペンハーゲンジャズフェスティヴァルのアートディレクター、その他、海外から演奏に来ているミュージシャンが集まるレセプションがあるのだ。ここに於いて僕は、日本のジャーナリストと共に出席し、取材を手伝い、フェスティヴァルのこと、新しくレコーディングするCDのことなどを、お偉方と話し合わねばならない。アポイントメントはとってある。5つ☆ホテルの清々しい中庭に於いて、そのレセプションは開催されており、もちろんジャムセッションなども角のほうでやっている。くつろいだ中よい意味の緊張感を持って、ディーセントなイングリッシュをしゃべらなくてはならぬ。キャスパーや、他のミュージシャンとしゃべる時など、同類という意識から、あまりきれいな英語はしゃべらないが、今日この場所に於いてはそれは許されない。またもやフリーで飲み物、食事が供される。良い国柄ですな。食事には寿司なども含まれていて、あわやこちとら餓鬼道に陥りそうになったが、ここはぐっと我慢して、コーラなどを飲みながら、日本から来たジャーナリストと、フェスティバルの主要メンバーと歓談。後は日本でこのことが良い雑誌に良い意味で記事になることを期待するのみ。こちらも日本、デンマークの文化交流の未来について話し合う。後、CHRISTIANHAVNという地域にあるBEBOERHUS(ベボーフスと発音する)に、ニルスのリーダーバンドを聴きに行く。数日後、僕もここで演奏する予定だったから、偵察の意味もあった。彼のグループの名前は、JUMPNGGEMINIという。ニルスらしいグループ名と演奏であった。ぶっ飛んでいそうで、ジャズの伝統には充分配慮しつつ、またそれをぶち壊して前に進むといった,ニルスの分身のようなグループで、長年彼を知っているから微笑ましかった。前にも書いたがデンマーク人はロウソクフェチである。絶妙な箇所に、細工の良いキャンドルスタンドにロウソクの火がともったそのクラブは、暮れなずむ午後10時の空の色と相まって、居心地が良い。残念ながら客の数が少ない。僕がメインの客のように成ってしまっているところもあり、ステージの真ん前で、声援を送って仲間を鼓舞した。客数はなぜか少なかったけれど、それなりに僕は贅沢な時間を過ごした。貸し切り状態に近かったから。その後僕は、街中にさまよい出ることにした。時々東京にいる時でも、ふとどこか見知らぬ路地などを探索したくなる。コペンハーゲンはそういう欲求を満たすのにもってこいの街である。あらゆる看板や、店先のメニューなど、読める字は読めるし、読めない字は読めない。読めない通りの名前もあるし、読める通りの名前もある。方角がぜんぜん分からなくなる時もあるし、ふと見覚えのある通りなどに行き当たると方角が分かる時もある。そんな時間を当て所もなく歩くことの爽快さ。見知らぬ街が永遠に続いていたらどんなに楽しいか。僕はヨーロッパの街並が大好きだ。CHRISTIANHAVNから運河を橋でわたり、CITYの方に歩んで行く。某日某日 今日は、STUDENTERHUSET(スチュ-デンターフゼット)というところで演奏。「MORTIMERHOUSE」で共演した仲間と瞬時にサウンドを作り上げる。ある程度の時間いっしょに演奏していなかったが、長年何度もいっしょにやっていることも事実で、第一音目から、さっとバンドサウンドに変化する。お互い体のどこかに何度も共演した時のヴァイブレーションが残っており、それが即表面化するのだろう。加えて、いままで彼らが演奏してきた様々な音楽的要素が新たにに加わって、我々の演奏は天井知らずと言ったところだ、特にキャスパーの音楽に対するアプローチの斬新さがよりスケールの大きなものとなっており、さすが隊長格。バンドを制御しながら、その場その場でソロイストを状況によって振り分けて行く。一曲一曲も、長過ぎず短すぎず、どんどん前に進んで行く。ピアノはグランドだったが、あまり良いコンディションとは言えない代物だったが、とにかく空気が乾燥しているのでよく楽器が鳴る。スチュ-デンターフゼットは、クラブの名前を見れば分かるように、近くにある大学の学生のたまり場だ。キャスパーの絶妙なアナウンスによって、客がぐんぐん引き付けられる。といっても、僕には彼が何を言っているのか分からないけれど。我々の演奏の後、比較的若い世代のミュージシャンがジャムセッションをすることとなっており、彼らにピアニストはいるのかと聞いたらノーと言う返事だったので、ジャムセッションに僕も参加した。非常に楽しい経験だった。ジャムセッションなど何年ぶりだろうか。曲が終わるごとに、前列の客席から、「アリガトー、アリガトー」という声援を何度もうけた。有り難い限りである。他国に於いて母国語で声援を送られるなど、なんともミュージシャン冥利に尽きる。後、初日に演奏したSTENGAREにキャスパーの参加するバンドを見に行く。演奏後も、前にいた通りのFUNKYPUNKYで、後深夜帰宅。7月2日から11日のあいだ、コペンハーゲンの各クラブ、バー、コンサートホール、野外ステージで、同時に色々な音楽が演奏されている。キャスパーなどこの間、28もの違ったグループでの演奏をこなしている。僕だけが、へたれることは許されない。 某月某日 先日、ニルスのバンドを聞きに行ったBEBOERHUSというクラブで演奏。今日はなぜか客が満員御礼である。BEBOERHUSというクラブはCHRISTIANSHAVN(クリスティアンズハウンと発音する)という地域にあって、位置としては、港に近いお台場的ロケーションだ。古くから人が住んでいる落着いた感じの地区だ。BEBORHUSも古いカフェであり、この近辺に住んでいるあらゆる階層の人々が、何げなく立ち寄り、話をしたり、情報を交換したりする場所らしい。どうも客層が今までとは違ったと思ったら、そういう理由があるのかもしれぬ。毎週ジャンルは異なるが色々な音楽をやっていて、その中には演劇も含まれるという、つまり地域に人に愛されるべく存在する空間なのであろう。マイク、モニタースピーカー類がない場所なので、自然と、まあ演奏の内容は別にして、元々ジャズが演奏されていた状態と同じ条件となる。一曲目を始める。何もないのだからサウンドチェックなどしなかった。しかし幸運なことに、ステージか店の入り口に面した窓側を背にしており、もちろん天井は高い。ナチュラルなりヴァ-ブ効果が、我々の演奏に加味された。こういう場合どれだけ楽器を鳴らせるか、どれだけダイナミクスをコントロールできるかが、我々演奏者に要求される。その分の緊張感が音楽に良い効果をもたらすと、演奏は次々と飛躍して行く。僕もその中にいた。ピアノはアップライトの非常に古いものであったが、とにかく空気が乾燥しているので楽器が鳴る。グループ全員一体となって、キャスパーの出すキューや指示を待つ。窓の外が段々暗くなって行き、店のそこかしこにあるキャンドルの光が、主な光源となってきて、まあ、これ以上の雰囲気は望めないなと思っているうちに、客にも演奏者側にも適度なビールの心地よい酔いがまわってきて、全体の雰囲気がぴたりと一丸となった。僕はこの場でピアノを弾いていることに非常なる満足を覚えた。機械的操作の入らない演奏とは言え、意外と奥のほうの客席まで音は響く。時間がゆっくりと流れて行く。 某月某日 身繕ろいに時間がかかる。朝起きた時がその良い例である。トーステンの住まいの風呂場には、なぜかシャワーカーテンがない。しやがって、どう工夫しても、バスタブの外の床に水が飛び散る。長年そのまま使っていたのか、排水口に向かう水の流れの線の中は、何かしらぬるぬるしているので、上手くまたがったり、タオルなど落とさぬように気をつけなければならない。床には水たまりのようなところもあって、そこは水分に含まれている石灰かカルキかなんだかしらないけど変色している。階下に水がもれないのだろうか。ある日、トーステンがシャワーを浴びた後、そっとのぞいてみると、僕より水が床に飛び散っていた。家主のやることを見習うのが居候の礼儀である。後々、盛大にシャワーを浴びることとした。気兼ねなしである。朝飯もまた、準備まで一苦労である。最初はデンマーク名物のオープンサンドなど外に買いに出ていたが、毎日が同じ店だとつまらぬし、かといっていろいろと試す金もそうないから、自分で作ってみることにした。外国のスーパーマーケットに行くのは、旅の楽しみのひとつで、デンマークの場合、ばかでかい肉やソーセージがすぐ目に着くが、他にもいろいろと見たことのないものが並んでいる。何かの魚の酢漬けの缶詰めや瓶詰め、パンにぬるペイストなどの種類がやたらと多い。まけずにチーズもいろんな種類がある。これらを適当に見繕ってきて、茶褐色のパンにのっけて食べる。パン事体、麦とか何かの種とかが豊富に含まれていて、酸味が強く、これだけでも何枚も食えるほど気に入った。この上に、好きにトッピングをして食べると、自然外で売っているオープンサンドに近いものができあがる。日に一度は暖かい飯が喰いたいと思ったこともあったが、節約のため、ほとんど毎日三食これでしのいだ。何度も書くが、パンが旨すぎる。 某月某日 PIERREDORGEという人物に会う。なぜこの名前をアルファベットで記するかというと、いまだに苗字の表記がカタカナでは不可能だからだ。Oに斜め線/が入るので、母音が5つしかない言語には表記不能だ。これからはピエールと呼ぶことにする。彼は、NEWJUNGLEORCHESTRAという10人編成のビッグバンドを運営しており、キャスパーもそのメンバーの一人である。今年11月にデンマーク嬢王が来日されるそうで、このNEWJUNGLEORCHESTRAも、レセプション、パーティーなどで演奏するため、嬢王と共に日本に来るということが決まった。僕がデンマークに行く前、ピエールから直々に電話がかかってきて、どこかこの人数で演奏できる場所を紹介してくれという。キャスパー経由でここに連絡先が来たのだろう。いくつか紹介してメールを送ったら大変喜ばれ、コペンハーゲンに来たらぜひ会いたいということになっていた。ある日の午後直に彼と会ったら、いっしょにディナーでもと誘われた。今回のこのフェスティバルを取材しているジャーナリストといっしょに、モルドヴァ料理を御馳走となる。彼らの来日は11月。 某月某日 友人のピアニスト、ミヶの家で練習させてもらうことにした。レコーディングまで2日空いた。演奏はもう終わった。フェスティバルの他のグループを聴きに行くというのもやめて、予定を入れず、この2日間で、レコーディングにたえるフィジカルな部分を取り戻さないといけない。ミケの家は大金持ちで、日本の国会議事堂にあたるCHRISTIANBORGPALACEという名の建物の裏の通りに居を構えている。ミケからこれは裏側だと説明されたが、僕にはどうも表にしか見えず、実際表側も見たことはあるが、いずれにしろゴジラが思いっきりぶっ壊したくなるような代物ではない。ヨーロッパの一国の政治をになう建物としての威風堂々たるものである。ミケの家の建物に入ると、中庭に私設のスタジオがある。住まいはCHRISTIANBORGPALACEに面した一室を所有しているということだ。スタジオにはグランドピアノであり、斜めの屋根に窓をはめ込んだそのスタジオは、曇り空ながら自然に明るい。夢のような環境である。このスタジオには何度も来たことがある。たぶんコペンハーゲンに最初に来た時も、ここに遊びに来たのではなかったか。我がバンド、GOTHERE!がデンマークツアーを敢行した時にも、デンマークのミューシャンンと、日本のミュージシャンでどんちゃん騒ぎをした。しかし今日は僕一人である。ゆったりソファーなどに座っていると、そのまま動きたくなくなる。ここでも鳥の声が昼間でも聞こえる。議事堂の裏でである。窓から外をのぞくと、中庭に面したその場所からは、三方の壁に、きれいな草が絡まっていて、なんとも良い眺めであり、なんとも心地よくもあり、そこに来た目的を忘れてしまうに充分な環境が、そこにはあった。誰も邪魔しない空間であるので、5時間ほどぶっとうしでトレイニングをしたら、使ってない筋肉が悲鳴をあげはじめ、午後7時頃GAVEUPして、母屋のほうに入るミケに電話をかけ「OKIGAVEUP」と言ったら、こっちに遊びにこないかと誘われた。このオファーにもノーとは言えまい。スタジオは、昔馬や牛を飼っていた時のものを改装して建てたものだそうだが、こんど始めて行くミケのアパートを見て、さすがの僕も飛び上がった。まさしく窓の真ん前にはCHRISTIANBORG PALACEがパノラマのように窓をすかして見え、その左側には運河と、その端に建つ古いパートのコペンハーゲンの街並が一望できる。ここら辺は観光客も少なく、僕の格好の散歩道だが、この眺めは散歩では得られない。ここまでロケーションの良いホテルもなかなかないであろう。ミケの住まいは4階だ。19世紀の舞台装置のような階段を上がった。階段の手すり、壁の模様、全てが優美である。ドアをノックするとミケがニコニコ顔で迎え入れてくれた。部屋は優に12畳ほどのものが三部屋あり、その他に、広いキッチン。かっこいい間接照明がそこいら中に趣味良く置いたり天井から釣ってあったりする。暮れなずむ空の向こうを、窓を通してみてみると、街の尖塔などが、曇り空にふっと浮いているのが見える。ミケはワインを運んできてくれ、かけた音楽が、マイルス・デイヴィスの「INASILENTWAY」であった。ここまで気分が良いと、自然とだらしなく微笑んでしまう、ミケのほうを見たら、彼も大差なし。国会議事堂のすぐ裏で、しかも高級アパートメントで、マイルスのサウンドをスエーデン製の高級スピーカーで聴いている僕は、いったいだアれ?僕はコペンハーゲンと、ミケが住んでいる地域を誉めると、昔はもっと良かったんだという返事が帰ってきた。子供の頃はCHRISTIANBORGの外堀で釣りもできたし泳ぎもした。いまでは水質が少し汚くなりそれが出来なくなった。と、ふっと淋しい顔になった。こんど東京の川を見に来いよ。と言ってやったら少し二コッとして、白ワインも開けちゃおうぜ、な、ヒロシなどと言ってキッチンのほうに消える。彼はあらゆるゲームが好きだと言う話をキャスパーから聴いていたので、考えた末、矢の先がマグネットになっているダーツをプレゼントした。これにはミケも幸い御満悦で、プレゼントしたその日から矢の持ち方、距離や投げ方、自分だけの秘策について研究を始めている。白ワインをのみ終えた頃、完全に日が暮れた。11時すぎである。ダーツとこの歓待では、さすがに交換条件がこちらに負が生じるような気がした。いくら友達とは言え、ここまでの親切にどう礼を言えばいいのか。最初はそんなことばかり考えていたが、ワインを飲むにつれ、ミヶも楽しそうだし、もうどうでもいいやという気分になった。国会議事堂の裏の高級アパートメントで、ジャズを聴いてミケとはしゃいだ。世の中なるようにしかならないと、いつも少しペシミスティックな僕だが、今日、今晩は、こういうふうになるようになった。たまにはいいだろう? 某月某日 トーステンの家で洗濯しようと思ったら、洗濯機の扱いを教わっていないことを思い出した。しまった、聞いておくのだった。洗濯機は中のドラムが横に回転するもので、ダイアルにkとかIとかCとか書いてある。なぜか説明書が洗濯機の上に置いてあった。持っている本人もたまに分からないことが有るのだろう。そんなものが扱えるのか。しかもその説明書は、デンマーク語、スエーデン語、フィンランド語で書いてあり、英語の表記がない。後は、たまに出てくる図解などを参考に適当にやるしかない。ダイアルに、オレンジ色の線が入っていたので、ここが終着点と目星をつけ、そのオレンジ色の線から一番遠いところにダイアルをひねり、スイッチを入れてみた。はたして給水が始まり、ドラムも回転を始めた。30分ぐらい経ってからのぞきに行くと、洗濯のプロセスは最初のままである。また三十分ぐらいして見に行くと、なんだか永遠に中のドラムがまわっているように感じた。早く脱水に行きついてほしい。適当にダイアルをオレンジの線の方までひねった。途端に洗濯機の動きがぴたりと止まり、一瞬後、排水して給水を始めた。コレハなんだか最初のスタートラインに戻ってしまったようだ。そういう最悪のことだけは良く分かる。とにかくほっておいたら、洗濯機はずっと僕のパンツをグルグルまわしていた。外国に来ると、一時が万事こういった調子である。 某月某日 翌日もまた、ミケの家にピアノを借りに行く。本日は都合上、ミケのスタジオではなく、彼のお兄さんの部屋で練習させてくれるという。ミケのお兄さんもピアニストとは知らなかった。ミケのお兄さんはミケのアパートメントの階下に住んでおり、家の間取りもまったく同じだが、屋内の装飾はそれぞれ個性があってまったく違う。やはり部屋は三つ有ったが、ピアノの置いてある部屋がクリーム色、次の部屋が、黄色、白、寝室が淡いブルー と壁の色をぬり分けている。遠近法をうまく取り入れたおしゃれな場所であった。これは洋画の伝統を取り入れているのか、もともとこういう家の中で絵を書いていたのか。とにかく、広い場所が更に広く見える。もちろん窓の外にはCHRISTIANBORGPALACEが一望できる。議事堂の裏で練習するなんて一生のうち最初で最後だろう。しかもピアノはスタインウエイであった。こんな親切をダーツのおもちゃひとつで享受していいのかと思ったが、とにかく今は練習しなくてはならない。しかし、おお、スタインウエイ!天井の高い、本当の意味の洋間で弾くピアノは、部屋中に鳴り響いた。いつも防音の部屋で練習しているので、この聴覚の格差は大きく僕の気持ちを揺り動かした。元々こういう場所で弾くべくできあがった楽器なんだなあとつくずく思った。畳の上に絨毯をひいて、その上で無理に弾いたってな。しかし、昨今のピアノコンクールで、日本人や韓国人が上位に入るのは、何かしら涙ぐましい訓練をしているのに相違ない。この音色で、音の強弱や、モーツアルトや、ベ-トーべンが生気をよみがえらすのだろう。しかもこのタッチ、他のピアノとはぜんぜん違うしっかりとして柔らかなこの感触。楽器を持ち運べないというハンデを考える閑など、ピアノを習い始める時に考えるべくもない。ピアニスト以外の楽器奏者は、ピアニストの苦しみを知らない。特にジャズの場合、どんなコンディションのピアノに対しても、折り合いをつけなくてはならない。スタインウエイは、スケールを弾いても音楽的に聞こえる、魔法の楽器である。原節子から恋文をもらった時のような優雅さも兼ね備えている。僕はミケに、このピアノと結婚していいかと聞いたら、兄貴がゆるさないだろうと笑ってこたえた。この瞬間こそ、日本に帰りたくないなあと思った。デンマーク嬢王の住まいの近くでも、鳥の声が聞こえる。なんたる静けさか。強力な軍隊も国教も持たぬこの国を支えているのは、このゆったりとしたゆとりであろう。後100年経つと、統計的に見れば、日本人はこの世からいなくなってしまうのだという。50年ほど先に、人口が500万人ぐらいになって、日本も自給自足できるデンマークのような国になるのは不可能なのか。そういう具合に国に人口が減っても、そうぼやぼやしていられないのが現状であろう。無理だろうな。右肩上にはロシアが、右腰下には中国があり、ウエストの横には北朝鮮で、これが国状だ。対象的に、デンマークは、ノルウエイ、スエーデンにはさまれたNATO加盟国である。お互いの国の文化言語は似通っており、スエーデン語の番組を見ても、デンマーク人でも理解できる範囲だ。ハングルと日本語ほどの差はない。少し天気がよいと、海の向こうにうっすらとスエーデンが見える。距離は30キロほど。これらのことも彼らに余計なストレスを与えないひとつの理由であろう。外国かぶれと言われようが、これが事実である。いずれにせよ、僕には年齢的に関係無いことである。生きいている間に、東京に大地震がこないことを望むぐらいが精々だ。練習を始めると、脳と指先が分裂を起こしていることに気付く。まずどのくらい分裂しているか、自分で計測しながら練習を進める。練習するにはあまりにも恵まれた環境と、時間の流れと、優れた楽器、この三拍子が揃って、気がついたら6時間ぐらい経っていた。もうひとふんばりして、上の階に住むミケに電話をする。「OK,IGAVEUP」昨日と同じ台詞だった。上に上がってこいということに再度なった。今日はこのあとキャスパーの家で、レコーディングのこと、その他のことで会う約束をしていた。そう言おうと思ってドアをノックすると、ミケのびっくりしたような顔が目に飛び込んできた。お前、大丈夫か、あんなに長く休みなく機械的な練習ばかりして。俺はここでコンピューターで作業をしていたんだけど、君の音が止まないから、心配してたんだ。腹は減ってないか?何かいっしょに飲もうか?僕は途端に恥ずかしくなってしまった。豊かさの違いは彼との経済的格差だけではないらしい。気持ちの上ででも、こんな機会はめったにネエや、などと思いながら、弾き続けてしまったのだった。気分が貧乏性のちょこまかしたジャパニーズである。こんなに豊かな環境に居ても、効率とか、時間配分とか、要領よくとか、そんなことしか頭にない。ヨーロッパの人と同じパンツをはいて、同じシャツを着て、同じ楽器を弾いていても、頭の中はぜんぜん違う。豊かな環境の中では、その豊かな時の流れに身を任せればいいものを。これは音楽性の中にも確実に影響をおよぼすな。自分自身を反面教師と考えねば。さっきまで、スタインウエイを自由に弾けて、本当に気分が良かったのに。豊かさとは何か?話はそれるが、ぼくは作家の曾野綾子氏のエッセイが好きである。キリスト教者として、どんな僻地までも踏み込み、我々日本人が想像できないような貧困、人種差別などに体当たりしていらっしゃる。そういう観点から見れば、僕は恵まれているのだろう。しかし、コペンハーゲンの街のそこかしこにかかげられたデンマークの国旗などを見ていると、どうしても自分の国と比較せざるをえなくなる瞬間がある。日本の観点からいえば、この街は右翼結社の集まりでできあがっているということになる。ケーキの上にも楊子でできた国旗が刺さって出てくる国である。どちらが精神的に健康と言えるのか。僕などは、一介のミュージシャンだから、その基準を定める資格はぜんぜんない。そんなことは百も承知だ。しかし、豊かさの本質はどうもこういうあたり、ここらへんのメンタリティーにあるのではないだろうか。至極当然なことを当然としない事、すなわち真の豊かさから遠のくのではないか。ミケには、重ね重ね礼を言い、三拍子揃うことなんてなかなかないんだ。練習という場にはもったいない、いい経験をさせてもらった。ダーツ以上だと言うと、俺もピアニストだから君の気持ちが良く分かるよと、二人で握手した。また友達ができたなあと思った。いまの僕にミケにしてあげられることは何もない。でもこのカリは忘れない。ミヶよ、ありがとう。腹も減ってないし喉もかわいていていないよ、と嘘を言ってその場を辞した。そこで飲み食いすることは、あまりにも礼儀違反だし、キャスパーの家に行く時間に遅れてしまう。外はなぜか冷たい風がびゅーびゅー吹いていて、あまり観光客などの姿もない。キャスパーの家の方角に行くバスの停留所をあらかじめ調べてあったが、それがうまく見つからない。腹減った。CHRISTIANBORGPALACEを横に見て、運河沿いを、簡易コートに身を包み、首をすくめてとにかくも、バス停どこかとうろたえた。しかしこのとき見たCHRISTIANBORG沿いの運河の眺めの美しさは、いままでデンマークで見てきたどの眺めよりも優ったものだった。灰色の雲の下にたたずむ運河も、空の色を反射し、強い風にさざなみを立て、決して絵葉書になる景色ではない。その時の僕の個人的な気分と、天気と、時間と状況が、偶然同じ方向に重なりあったのだろう。何とかバス停を探し出し、キャスパーの家についてみると、キャスパー自身も疲弊しきった様子で、疲れた声で、TAKEOUTのタイ料理を食べてから話し合おうと言うことになって、僕はビールを飲み始めた。腹に染みた。タイ料理のTAKEOUTがまた、日本で言う3人前ぐらいのヴォリュ-ムがあり、食べ終わった二人は、もう、金の換算とか、レコーディングのコンセプトについて語るような血液が、脳みそには廻っていなかった。10日間で30箇所の仕事をこなしているキャスパーは、僕なんかよりずっと疲れていたのであろう。今日はとりあえず帰るよ、と言うと、キャスパーは、「Goodidea,Hiroshi」と言ってウインクした。    某月某日 本日は、キャスパー達と、EWEから発売予定のに二枚目のレコーディングをする日である。コペンハーゲンジャズフェスティバルは昨日でそのお祭り騒ぎはおさまった。街中から音楽が消えた。ちいさいとは言えども、ヨーロッパの一国の首都で、あらゆるところでジャズ演奏を許可し、それをスマートに執り行うということ事体、僕には驚異だったが、祭りの後のうら寂しさなど風流なことを考えている余裕はない。 某月某日 と書いたが、今日は7月13日であり、14日午後の飛行機に乗らねばばらない。スタジオセッションがはじまるのが、13日の午後6時からである。スタジオのスケジュール、メンバーのスケジュールを考えても、この13日夕方から14日明け方、下手すると昼までという時間しか取れなかったのだ。とにかくすべてが一発勝負である。帰国延期という手もあるが、それはそれなりに事務上の手続きが難しい。なんとか終了まで漕ぎ着けなくては。スタジオの名はグラニ-スタジオ。機械オンチの僕でも、ありとあらゆる機材で充実していることぐらいは分かる。案の定、時間どおりにいってみると、キャスパーしか来ておらず、譜面の手直しなどしている。こういう時に、日本人的なイライラ感がつのると、場所はどこであれ自分が一番損をすることは、彼らとのデンマークツアー及び日本ツアーの時でいやというほど経験している。これは皆適当に三々五々集まってくるとふんで、近くの中華屋にTAKEOUTをたのむ。これを喰い終わるまで全員は揃わないだろうという判断である。ゆっくりと流れるコペンハーゲンの時間。なんと今回の共演者は、我がキャスパー・トランバーグ・セプテットのメンバーに、新たに4人が加わり10人という編成だ。だからといって皆が全員演奏するという曲はない。ちらちらと集まったメンツで演奏できることは先にしてしまうという方式で、やっと録音がはじまった。最初は、僕が参加する曲が主だったが、すべて1stTAKEにてOKがでる。一曲一曲どんどん進める。だが、うかうかしてはいられない。キャスパーの用意した曲は11曲。今回キャスパーがこの企画のプロデューサーであり、演奏者を集め、曲を書いて準備した。僕の場合は、このプロジェクトを日本から持ってきたということで、COPRODUCERという位置にある。EWEに頼んでこのCD製作をまかされているので、下手なことは出来ない。しかしみるみるうちに帰る日は今日となる。あっという間に午前12時を過ぎたからだ。さすがにこの頃になると、出演者全員が集まっており、皆それぞれ好き勝手なことをやって自分の出番を待っている。出前の中華を喰ったりビールを飲んだり、それぞれ気ままだ。自然とまとまりがない。皆、今晩僕が、つつがなくレコーディングを終わらせて帰らなければならないなどということには、おかまいなしといった様子である。これも豊かさの発露なのか、と思いイライラしないようにする。ちょこまかしたジャパニーズにはもうなりたくない。だから、じっとキャスパーの采配に目を配っていた。だらだらと時が流れているように一見見えたが、良く皆の動向を観察していると、やることはちゃんとやっている。皆楽器がめちゃくちゃうまい。改めて書くようなことではないが、改めて書きたくなるようなつわもの揃いだ。その中に混じって、いっしょにジョークを言ったり、演奏者に歓声を送ったり、僕はとても幸せだった。こんな遠い国に仲間が大勢いる。いっしょに音楽を創っている。お金のことさえ考えなければこれほどオモロイことはない。東大でたってできることじゃない。劣等生だった俺だからこそできることなのかもしれない。自分でレール敷いてるんだからな。おり番(曲によって演奏しないプレイヤー)の皆と、スタジオ内の演奏に歓声をあげたり声援を送ったり、またこちらがそれを受ける側にまわったりする。実際モノスゲ~!音楽が次々と録音されていった。モノスゲ~!としか書き表せない。興味がある方はぜひCDを買って下さい。モノスゲ~!から。プロデゥ-サーとして曲の進み具合をチェックし、キャスパーと終了時間を暗算しつつ、ビール飲んでピアノ弾いて、タバコを吸ってビール飲んでピアノ弾いて、歓声をあげ、皆とハグしあって、ビール飲んでピアノ弾いて、タバコ吸っていたら、また更にモノスゲー!演奏が録音されて、ビール飲んでタバコ吸っていたら午前3時をまわっていて、少なくとも飛行機には間に合う時間にすべて録音が終了する目安がたってきた。外はまだ透明なブルーの空に星がチカチカと瞬いており、前に書いたように、空の裏側までもが見通せるようなその濃さが、興奮した気分を少し静めてくれた。空が段々明るくなるにつれ、我々の創造的作業も最終段階に入る。デンマーク人は、ロウソクフェチであり、このスタジオとて例外ではない。照明はもちろん間接照明だし、ランプシェードから光の影まで生まれでる。あらゆる照明が重なって影を織りなすからだ。各奏者が三々五々帰った後、キャスパーとベストテイクを選ぶ作業をす。これはあまり時間がかからずに終わる。全てほとんどが1stTAKEでOKだったから。くり返し書くようだが、これは2年前に東京で録音した、日本のレーベルからの第一弾、キャスパーの「MORYIMOREHOUSE」の第二弾として今回こんどはコペンハーゲンで録音したものである。今回の録音で、この二年間の各々のレギュラーミュージシャンの音楽的ひろがりには目を見張るものがある。付加的に書けば、後はミュージシャンが音楽に対して、すごくリラックスした状態でものすごいことを連発するようになった、というところが、前回のアルバムとの大きな格差を生み出している。このレギュラーセプテットを含めた十人編成の今回の録音は、「MORTIMORHOUSE」のCDの帯びにある、ユーロジャズの最先端という、光栄な表現を更にぶち抜くものであった。叙情性はECMのそれではなく、ヨーロッパフリーの過激な側面、たとえばチェーンでピアノの弦をブンナグルといった猛禽獣的過激さとも違う。後は僕らの音楽を聞いてもらい、このことをあきらかにするしかない。とにかく、三管からなるホーンセクションのアンサンブルは、他に類を見ない。しかし、どんな過激な展開になっても、そこにはヨーロッパ人としての根底的な気品が漂う。このことは、やはりヨーロッパ発という土台をしっかり持った音楽であるということが言える。そこに日本人の僕が加わるのであるから、概念のみならず、先入観が入る余地さえも無くなっている。これはインターナショナルとかいう使い古された言葉では定義できぬ、何かの予兆である。このレコーディングがいつCDになるかは、今までのEWEの動向を見ていると、今年の冬か、来年にわたって、皆様の手元に届くこととなるであろう。後は、僕らの演奏に生で触れて、ジャズという音楽の限り無い広がりを感じて頂くしかない。我々は一体となって。お互いがお互いの国で仕事を取り合い、すでに10年弱が過ぎた。今年もかえす刀で、9月、彼らを日本に招いて、新しくレコーディングした曲も含め、日本ツアーが確定した。NEWSの欄には情報を載せたが、再度ここでも、宣伝したいと思う。KASPERTRANBERGSEPTET 9月 日本上陸 ツアー決定!   9月(11)土(12)日 MOTIONBLUEYOKOHAMAhttp://www.motionblue.co.jp/13(月) NAGOYABLUENOTEhttp://www.nagoya-bluenote.com/14(火)15(水)新宿 PITINNhttp://www.pit-inn.com/     電脳チラシ:http://www.shinya.comm.to/minami.html    帰りはキャスパーと二人でタクシーに乗る。9月のツアーの打ち合わせもしたかったが果たせなかった。だいたいレコーディングの打ち合わせもろくにやってなかったんだから。二人とも言うべき事は沢山あるが、二人ともものすごく疲れており、酔っぱらってもいる。「SeeyousooninJapan,Kasper.」「IlikeyourgreetingHiroshi.」かたい握手をかわして僕はタクシーを降りた。トーステンの住んでいるホテルのネオンが、明け方の空の下チカチカと目に眩しい。なんだか映画のバクダッドカフェのワンシーンみたいだ。部屋に上がって気付いた事、それは僕がものすごく酔っぱらっているという事だった。二日酔いは睡眠の後に、ああ、まだ気分が悪いとなる。しかし今の状態は、まだ酔い状態で、床がぐらぐら見える。こんな事になるだろうと、あらかじめ、しらふの午後4時頃、基本的なパッキングは終わらせておいた。飛行機の離陸時間は午後3時45分。いまの時間は午前五時過ぎ。寝てしまえば飛行機を逃すのは必須。しかし寝ずに何をして時間を潰せばよいのか。中途半端な時間である。ソファーに腰をかけて酔いがさめるのをじっと待つ事にした。今までも、彼らの狂乱に巻き込まれて、さんざん痛い思いをしてきた。自然と巻き込まれない術を身に付けていたが、最期にしてやられた。あれだけモノスゲ-!音楽が目の前でどんどん展開されれば興奮せざるをえない。ここで冷静さを保てるか保てないかの境目が、もしかしたらPRODUCERの資質なのかもしれない。やる事は全部終わらせた。PRODUCERとしても。しかしとんでもないおつりを背負い込んだ。気が抜けると共に酔いは増すばかり。とにかく空港に行きさえすれば、別に俺が飛行機を運転するんじゃないんだし、全身オコノミヤキ人間になろうが、それはフライトアテンダントが、学校で習った通りの処置を俺にするまでだ。ゆっくりと忘れ物がないかチェック。トーステンの家の中をゾンビのごとく徘徊する。泊まらせてもらった部屋を少しかたずけきれいにしたり、台所の汚れ物を洗ってきれいにしたり、なんだカンダ思い付く限りのことをしたが、時間はまだ6時過ぎ。段々日が昇ってきた。帰る日にお天気なんて皮肉なものだ。後、バスルームの便器に二度ほどお世話になり、体の中はカラとなる。カラとなっても酔いはさめぬ。そこへトーステンが帰ってきた。彼もどこかで明け方まで飲んでいたのだろう。相当できあがっている。藁をもすがる気分で訴えた。昼になったら起こしてくれないか?目覚まし時計を貸してくれ。トーステンは人の話など聞きもせず、レコーディングはどうだったとか、いろいろと質問してくる。昼過ぎまで質問事項があるなら答えていてもよいが、おたがい酔っ払ているので、SECUREな事柄はひとつもないし望めない。いずれにせよ、今日彼は12時に家を出て、デンマーク第二の都市、ア-フスに仕事で出かけなければならない。だから寝ないという。だいじょぶかなーと思ったが、トーステンを信用して仮眠する事にした。起こされたのは12時であった。トーステンはすでに出立の準備を終え、ニコニコと僕の部屋の入り口に立っていた。ヒロシがいたおかげで毎日が楽しかった。いつでも遊びに来てくれ。君は出発までここにいてよろしい。カギはドアのポストから投げ入れてくれれば万事OKだ。僕は寝ぼけまなこでトーステンと抱き合った。言葉が出なかった。トーステンのみならず、沢山の人の援助があってこそ、ここまで色々な事が可能になったのだ。デンマーク人のミュージシャンシップに乾杯と言いたいところだが、こちとらまだ二日酔いである。仮眠したので二日酔いに成れたといったところだ。名残惜しさは共に人一倍であったが、彼もすぐ出発せねばならない。最期は手を降って別れた。トーステンは颯爽と住まいであるホテルの階段をかけ降りて行く。なんだかよく分からない手続きを終え、空港内に入った。予定の時間より2時間も早く来てしまった。あのままトーステンの家にいたら寝てしまいそうだったので、僕も家を飛び出してきたのだ。TAXREFOUNDというのがあって、300KR(クローナ)以上の買い物をした観光客は、その値段の内に含まれる税金を、空港の事務所で返すしくみとなっている。冷夏だったので、僕もジャケットとジーンズを買った。いくら戻ってくるかは知らねども、一応その事務所の前に行ったら何人か並んでおり、日本人と思しきネイチャンんが、なんかもめている。近くには、土産だかなんだか、買ったものがいっぱい積んである。何をあんなに買う必用があるんだ。そのネエチャンのおかげでずいぶん待たされた。たまにふらっとした。俺はゾンビに近い存在なんだぞ、もうタックスどうのこうのは忘れてどっかに座ろうかと思ったら、ネイチャンが消えて、順番のめぐりが早くなり、僕の番でも五秒ぐらいで済んだ。レシートみたいのにスタンプをもらった。こんなハンコもらうのに、なんでこんなに時間がかかるんだ。まあ、逆にいえば、体調は最悪なのに自分自身せこい奴だということだ。いくらかでも現金が欲しいからこそ吐き気をこらえて列に並んでるんだから。あのネイチャンをバカにはできまい。そのハンコ紙を別の窓口に持っていったら3000円くれた。高いんだか安いんだかよく分からん。どういうしくみで何%税金が戻ったのか。この状況で俺はどういう得をしたのか、ぜんぜん分からない。まあ、成田から東京に帰る電車賃は確保されたということだ。出発ゲートには、あらゆる種類の土産物屋が軒を並べ、牙を剥いて、観光客を待ち構えている。外国のお札は、何かの札(ふだ)か、時々子供銀行券のように見える。100$が620KR前後である。算数が苦手な僕は、売っているものが高いのか安いのかよく分からない。ドル表示があると大方価格が推測できるが。日本銀行発行の1000円券で3日暮らせといわれれば、策を講ずる事はできる。経験上1000円で何ができて何が出来ないか、どこに行けば何を売っているか知っているからである。では1000KRで何ができるかというふうになると、頭の中がうすぼんやりしてしまう。何度もデンマークに来ているが、やはりまだ感覚的にクローナの価値を掴んでいないのだろう。そこを見て取った商人が、空港内にパラダイス的空間を演出し、あらゆる国の人々の、旅の浮かれ気分プラス、まあいいや的気分に便乗して、いらっしゃいませをしている。かく言う僕も、これらの商人に何回かつけこまれ失敗している。別に莫大な散財をしたわけではないが、つまンない物を買って、そのまま日本ではぜんぜん使わなかったりとか。しかし、このコペンハーゲン空港の商人達は、この空港のあまりにも優美なデザインに、無償の益を得ているといっても過言ではなかろう。ふと疲れて座る椅子なども、ポール・ケアホルム、ヤコブセンなどのものであり、待ち時間ということ事体が楽しめる。他の空港の殺伐とした印象に比べ、コペンハーゲン空港は、くつろげる空間である。採光を考えつくした窓のデザイン、機能的だが不思議と冷たい感じがしない椅子やテーブル類。これが贅をつくしたごてごてのものなら成り金趣味となってしまうが、高価ながら、これらのものは調度品の範疇におさまる品の良さをまわりに醸しだしている。憎たらしく思うほどの居心地の良さ。空港という機能第一主義の場所におけるこの心配り、則ちデンマークの豊かさと直結しているように思う。土産物はのもっぱらタバコしか買わ?。免税店で売っているタバコのパッケージには、「SMOKINGCANKILL」だの「SMOKERDIEYOUNGER」などとでかでかと表示してある。興醒めである。全ての無駄を無くし、全ての事が健全に行われる世界、そんなところ、タバコを吸をずとも息がつまるであろう、人間だったら。2時間も早く出発ゲートにたどり着いてしまった。近くのSMOKINGAREAに行き、出発までタバコでも吸いながらのんびりしようと思い、ある席に腰をおろした。2時間は長いが、ぼーっとしてればいずれ出発時間は来る。二日酔いも少し醒めてきた。SMOKINGAREAにいると、あらゆる人種の人々が、それぞれの国のタバコを吸い、それぞれのスタイルでくつろいでいる。最初に僕の前に座ったのが、イギリス人らしいおばあさんで、ミステリーの本を読みながら、ゆっくりとタバコをくゆらせていた。そのおばあさんのタバコのパッケージにも、「SMOKINGDIEYOUNGER」と書いてあった。おばあさんにそんな事知らせたってしょうがないじゃないか。そのおばあさんのタバコの吸い方は堂に入っていた。まず唇の端にちょこッとタバコをはさみ、さっと鼻から煙りを出す。ページをめくるごとにその動作はくりかえされ、多分このおばあさんは、本を読む時にはこういうふうに吸っているのだろうなあと思った。空港のスモーキングエリアでも、イングリッシュガーデンのまん中で、お茶の時間でも彼女の所作は変わらないだろう。ひとつの型があった。スモーキングエリアでの2時間は、このイギリス人風のおばあさんに限らず、世界中の人のタバコを吸う所作の展覧会のようであった。あるスカンジナヴィア系の中年過ぎの男性は、ゆっくりと、紙巻たばこを吸っていた。煙りを口のまわりに漂わすような吸い方で、目を細め、窓の外のあらぬ方向をじっと見つめていた。その目つきは、いやに黄昏れていて、生気も覇気もないその体からは、逆にタバコを吸う時間というものが、いかに貴重なモーメントであるかを指し示すがごとく、顔の真ん前を煙りだらけにしていた。イワン大帝みたいなロシア人が前に座った。タバコのパッケージの文字がロシア語だったから、かってにそう判断したのみで、もしかしたら、モスクワに商用に行った別の国の人かもしれない。品のいい手さばきで、タバコをすぽっと唇のまん中にくわえ、慣れた手付きでライターで火をつけてすっと煙りを吸い込んだ後、なかなか煙りを吐き出さない。しばらくして、口の端から上に向けて、濃い紫煙をすっと吐き出す。顎ヒゲをさすりながら、ゆっくりその動作をくり返していた。スモーカーの観察をしていたら出発時間となった。帰りたくないという思いと、帰りたいという思いが交錯する、なぜだろうか。ふと財布を開けると、コインで50KR残っている。50KRはお札に変えられるから、片っ端からそこいらの人に交換条件を持ち出した。「Ihaveabigfavorforyou」なんて言いながら作り笑いで、空港関係者にも聞いたが、誰も50KR紙幣は持っていなかった。前にも書いた通り、50KRが何円になるかはわからぬ、が、換金所でコインは受け付けぬ。金とはいったい何か?機内にて、かっこいいデザインのデンマーク製温度計を購入。全てコインで払ったから、これで差引ゼロとなる。東京が暑い暑いと、国際電話の向こうで皆が言うので、この目で確かめてやろうと思ったのである。 某月某日 帰国。温度が倍ある。湿度は倍以上であろう。昔の人は、暑さ寒さを感じないところを極楽と定義したが、日本はいったいなんなのでしょう。成田からJR鴬谷駅に降り立つ。成田からの車内で短パンとサンダルに着替える。デンマークでクールな事を成し遂げてきても、帰国すれば裸の大将だ。やはり帰ってくるのではなかった。家に帰らば15日分の雑用が待っている。一日の雑用を一日でこなすのも難儀だというのに。まず全てのスーツケース類を開け、洗濯するものは洗濯、電話をかけなければいけないところには電話をかけ、つまりとにかく何かやっていないと、気が狂いそうに暑い。逆に狂うことができればしめたものだ。パンツをずり落とし、小指を口の端にはさんで、そこいらをいざりとして徘徊すればよろしい。その方がなんぼか楽だ。どうあれ失うものはない。会社の課長がそれをすれば、会社をクビになるのみならず、社会的に放逐されるだろう。僕は平気さ。その体験でイイ曲を書いて皆に披露すれば喜ばれるという利点もある。日本人は自らの「型」を失って久しいので、俺は俺流に、俺に合った型をつくるのみである。後の事は大方知らんことにしていないと、ますますストレスが溜まる。投票は海外に行く前にちゃんと済ましたけれど、どこかの政治家が四国遍路の旅に出立したというニュースがいやでも目に入った。今は21世紀じゃないのか。これから何を精神のよりどころとして暮らしをたてたらいいんだ?この暑さは、そういう疑問を浄化する自然の力かもしれない。思考力が落ちるから。とでも思わなければ、帰国したという事実を受け入れる事も難しい。 >>>

コペンハーゲン

某月某日 コペンハーゲン・ジャズフェスティヴァルで演奏し、同時に彼の地でデンマーク人とCD製作のため、スタジオセッションをしてきた。今回は演奏のみならず、PRODUCERとしての使命もある。EWEからこの企画を相談の上実現する事になったのだ。よって演奏のみならず、レコーディングもすみやかに終わらせなければならない。初めてこの日記を読む方用に少し説明を加えるが、僕はデンマーク人のジャズセプてットのメンバーであるのだ。CDも日本で録音したものが発売されている。(詳しくは http://www.ewe.co.jp/artists/detail.php?id=32)毎年日本とデンマークをお互いが行き来して、今回は僕が彼の地に行く順番となった次第。15日間、ジェットコースターに随時乗っているような日々であった。時間は前後するが、デンマークにいる間に起きた出来事を記したいと思う。飛行機は苦手である。あのせまい空間に大勢の人間が乗っていて、飲んだり喰ったり排せつしたり、時にはげっぷ、屁、ひどい時にはゲロ、人いきれ、体臭、すべてどこに行くのだろうか。フライトアテンダントとは別に、プロの芸者を乗せたらどうか。三味線を弾いたり、踊ったり。つまり機内で最高級の宴会をひらくのだ。成田行きの飛行機には、そういう余興があるほうが、飛行機会社は儲かるんじゃないだろうか。ついでに幇間もいたりして、「よ、にくいヨ旦那、こんなに飛行機が揺れてんのに顔色ひとつ変えず泰然とビールなどすすっていらっしゃる。前からただもんじゃアねえとは思っていたんでげすが、こっちの見込みどおりだ。ひとつこちとらも飛行機の羽根の上でひと踊りッていきたいところだが、どうにもこうにも外にでられねんでさあ。困ったもんだね、飛行機なんて、あれ、綿菓子かと思っったらあらあ雲だよ。」なんて言っているうちに現地到着ってもんが粋ってもんだ。機械に囲まれて、イスに縛り付けられて、タバコも吸えず、今モスクワの北を飛んでるとかアナウンスされても、だからどうだっていうのか。ゴルバチョフのヴォルガの舟歌でもコサック姿で見聞きできるんならまた別だが。飛行機が飛ぶ前に、タバコを吸うなと言うアナウンスがあって、その後前の座席の背もたれにあるビデオでも吸うな、というださい映像がながれる。トイレに行くと、「SMOKING IS STRICTLY FORBIDDEN」などと灰皿の上に書いてある。飛行機会社は、そんなにタバコを吸われる事が怖いのだろうか。タバコの火がもとで、飛行中機内が火事になり、墜落したという事実は何回あるんだ。以前はスモーキングシートがあったではないか。煙りの嫌いな人の為の、エアーカーテンとか、そういうテクノロジーを駆使して少し高めの料金にしたらどうか。俺ならたかくともそっちの席に乗るな。その方が飛行機会社はまたまた儲かるんじゃないのかなあ。逆に、エコノミークラスの下のクラスってもんが有ってもいいと思う。はっきりと四等切符として、切符の値段は五分の一とか。そのかわり吊り革につかまったまま、ぐうの音も言わないと念書にあらかじめサインし、水だけもらって食事なしだったら俺は四等で外国に行くね。それと大して変わらないもの、エコノミーなんて。誰がこんな中途半端な名前考えたのだろうか。一昔前の日本人ビジネスマンがエコノミックアニマルと言われていた頃、そのビジネスマンでいっぱいだったから付いた名前なんじゃないかとか余計な事を考えていたらコペンハーゲンに着いた。 某月某日 湿気のない世界。思ったより早く、体がこの環境に慣れるなという本能的な思い。何度も来ているにもかかわらず、新鮮に見えるコペンハーゲンの街並。日がさしているのにすごい雨がふったりして、デンマーク人自身も困惑している。彼らにとって三ヵ月の短い夏の意味は大きい。その他の季節は薄ら寒い曇り空の世界だからだ。今回は友人のト-ステンの家に泊まる事となっている。彼はミュージシャンでもあり文筆家でもあり、コペンハーゲンではちょっとした有名人だ。なぜかホテルの最上階に住んでいる。住んでいる建物が、後からホテルとなり、彼が移転を拒否したのか、ホテルであったところに、彼が無理やり住みついたのかは定かでない。僕には関係ない事だ。階下がホテルという事は利便性に於いて普通のアパートより優る。レセプションに行っててタクシーを呼んでくれといえば即座に呼んでくれるのだし、急遽の事体にも対処が早いと見た。いずれにせよ自分の部屋は確保された。 某月某日 時差ぼけをかかえながら、翌日深夜から演奏。壮麗なキャスパー・トランバーグのビッグバンド的企画に参加した。基本的なメンバーは、日本のEWEから発売されているキャスパーのリーダーアルバム「MORTIMER HOUSE」のメンバー、JACOB DINNESEN(SAX)、ANDERS MOGENSEN(DS)、 NILS DAVIDSEN(B)、MADS HYHNE(TB)という、日本に何度もツアーに来ているお馴染みのメンバーだ。フェスティバルなので、あらゆるデンマークのプレーヤーが、町中のどこそこをいったり来たりしている。彼らとて同じ事で、リハーサルもまばらである。最初からいたメンバーが途中から他の仕事のためにいなくなる。どこかで演奏してきた者が途中から我々のリハーサルに参加する。同じような理由で、途中からリハーサルに参加し、途中から抜けて行く者もある。結果、全員が揃った時がひとときもないという変わったリハーサルとなった。キャスパーは、その事を最初から百も承知で、そこにいない人間がなにをするかについて、そこにいる人間に言葉で説明したり、たまたまブラスセクションが全員集まった時だけ、ベース、ドラム抜きで音合わせをしたりしている。全てを目撃していたのは、他に仕事のない僕とクリス・スピード、フィンランド人のミコ・インネマンだけだった。クリスもミコも、今晩の企画で。キャスパーが海外から呼び寄せた人達である。フィンランド人といっしょに演奏するのは今回が初めてだ。聴いた事のない音色の、聴いた事のないトーンの、落着いた中に有る野獣性のような、不思議な感覚を持っている。ミコはシャイなんだか大胆なんだかよく分からないけれど、好感の持てるミュージシャンで、ゆっくりと話す英語の内容も、非常に知的に充実したものであり、デンマーク人とはまた違ったスカンジナヴィアの側面を見た気がした。クリスとは、僕が企画した日本ツアーでジム.ブラックというすばらしいドラマーといっしょにアメリカから呼んでいっしょに演奏した仲だ。5年前ぐらいの話だが。クリスはあいも変わらずアメリカ人であったが、そのプレイは鬼気迫るものがあり、数年前の記憶しかない僕には、彼がどれだけどういう状況で鍛えられてきたか、気の遠くなるようなインプロヴィぜーションを客席に提示した。すごかった。特に彼のクラリネット演奏は秀逸で、まるで、極彩色の蝶々が、沢山空を舞っているようなサウンドを出す。この夜の演奏場所はSTENGADE という場所にあるクラブで、(ステンゲ-アと発音する)夜になると外は寒いくらいなのだが、一旦家屋に入ると熱気で汗だくとなる。つまりどっと客が押しかけた。立錐の余地もないほどの立ち見状態で、ステージの上は天井からぶら下がっている照明機器によって蒸らされている。皆汗だくだ。全員で通しでリハーサルをしていないが、曲によって、全員が加わらないもののほうが数多く、つまりキャスパーはその事も頭に入れて一番効果的な時間の使い方をしていたという事だ。一曲目から立ち見の客がワ-ッと声援を挙げて飛んだり跳ねたり大変な事になってきて、演奏はその声援の相乗効果で分厚く、激しく、フリーキーな、キャスパーワールドを形成していった。僕のソロにも客が騒いでくれて、時差ぼけの頭でもやはり来て良かったなと思った。皆汗で蒸れた体で楽屋に戻る。楽屋には冷蔵庫が置いてあり、デンマーク産で有名なカールスバーグ、ツボルグを筆頭に、いろいろ見た事のないビールでいっぱいになっていた。それを皆で水のように飲む。いかに汗をかこうが、空気が乾いているので、いくら飲んでも足りません、ていう顔をみんなしている。ビールの次はハバナクラブでデンマーク、アメリカ、フィンランド、そして日本のミュージシャンがハイエナのごとくビールを飲み干してゆく。テーブルの上は一瞬にしてビ-ルの空き瓶でいっぱいになり、酔ってテーブルの角にぶつかる奴などいると、テーブルの上のビンがガチャンがチャンと床に落ちる。誰も気にしない。第二回目の乾杯をすれば良いのだ。時差ぼけで、今ここにいる時間は深夜だが、腹時計はまだ朝の僕も、この激しいお互いを讃えあう為の乾杯の儀式の中からは抜けだせない。デンマーク語で乾杯のことをスコール!という。これは英語のSCALP(頭皮)という言葉の語源的らしい。話によれば、ヴァいキングの時代、敵の頭をまっぷたつにして、中の脳みそを書き出し、そこに酒を注いでスコール!とやっていたのだそうだ。さすがその末裔達。飲む量が半端でない。良く考えるとこのビール代はタダである。店側がかってに飲めと、冷蔵庫をビールで満杯にしたのだろう。国情の違いは初日のビール盛大にタダ飲みというところからはじまった。デンマークでは午後9時頃にならないと空が暗くならない。時差ぼけ、天候の違い、深夜の仕事、初日からのばか騒ぎで、先行きはだいたい読めた。とにかく這ってでもレコーディングを終わらせ、帰りの日は定刻に空港までたどり着かないといけない。(レコーディングは滞在中最終日に予定)当り前まえの話のようだが、どうもこの初日の様子からすると、それさえも難しそうだ。三々五々皆帰るモードになり外に出たら、深夜だという事もあり、相当寒かった。着るものに困りそうだ。夏の物しか持ってこなかったから。気温は15度前後。相変わらず湿気なし。何かジャケットのようなものを買わねば。気温は日本の半分であろう。月某日某翌日の夕方、レコーディングのミーティング方々ディナーに招待するとキャスパーから連絡あり。トーステンと共に出かける。もちろん二人で沢山のビールを買込んで彼の家に行く。キャスパーはすでに二人の娘の父親となっていた。奥さんはアフリカ系だがデンマークで教育を受けた、まったくのヨーロピアンである。オーヴンでやいたチキンと、リゾットが供された。食べたすぐ後で、時差ぼけでどうにもならず、早めに退散。打ち合わせどころではなかった。しかしト-ステンの家に帰ると、さっきの眠気はどこえやら。結局明け方まで悶々とする。 某月某日 ガッチャマンも、ウルトラマンの隊員達もそうだが、人間が5人揃うとなぜ、ハンサム、肥った奴、全体のまとめ役的雰囲気の奴、二枚目半、チビが揃うのだろうか。キャスパーのバンドは6人編成だが、ハンサムなのはサックスのヤコブ、肥っているのがキャスパー、なぜか日本アニメの従来のしきたりをやぶり、彼が隊長格だが、二枚目半はベースのニルスであり、まとめ役はドラムのアナス。もちろんチビは僕である。居ないのは女性隊員のみ。彼の地に行くと逆ガリバー状態となる。だからショッピングなど楽しめない。服でも靴でも何でもかんでも、かっこいいと思ったものは、すべてサイズが合わぬ。向こうのMサイズはこちらのLサイズであり、レストランに入ってもそれは同じで、乏しいデンマーク語の知識でなんとか注文をすませた後、優に日本で3人分は有るかというものすごい量が出てくる。しかし食べ物に関しては、彼の地で3日も経つと、食えるようになってしまう。しかしそれに比例して体は大きくならぬ。自然ウインドウショッピングの達人となる。偶然入ったコペンハーゲン中心部に有る中華料理屋の前で、演奏がはじまった。目前の広場に野外ステージが設けられていて、ベースのニルスが、サックスプレイヤーのジョン・チカイなどと演奏している。何日経っても天候すぐれず、日が差したかと思ったら、さっと大雨が降ったり、毎日その連続で、良いサマーシーズンとは言えない。この日も雨が降ったりやんだりで、野外コンサートを聞いている人々は、傘をさしたりつぼめたり、中にはびしょぬれの人もいる。中華屋は屋内だから、自然高みの見物となってしまった。海外にいてこういうタイミングの良い時はめったにないので、内心ほくそ笑んだ。後、やはり中心部にすてきなカフェを発見、すてきなウエイトレスもいる。異国にてこのようにくつろげる場所を探し当てる事は重要で、いつでも立ち寄れるよう、オープンとクローズの時間を聞く。毎日が演奏、レコーディングの打ち合わせ、その他諸々のことで多忙ではあったが、東京では経験できない事が多数あった。コペンハーゲンは一国の首都であるが、中心部からバスで三つめの停留所にあたる距離のト-ステンの家で、朝4時ぐらいになると様々な鳥の声が聞こえる。東京ではカラスの声しか聞こえない。コペンハーゲンが自然に近い都市なのか、東京が異常に自然から遠いのか。おそらく後者だ。時差ぼけでまんじりともせず、ベッドに横になっていると、北欧独特の、暗くなりきらない、空の裏側も透けて見えそうなブルーの空に、星が瞬いていて、それが少しだけ明るくなってくると、まず何かしらの種類の鳥がピーと鳴き始める。それを合図のように、段々空が騒がしくなる。鳥の声は美しい。なぜだろうか、多分悲壮なる何かが鳥の歌の中に込められているからだろう。我々には決して理解できない感情を、同類に伝えるべく鳴いているに違いない。生きる術を全力で同類へ。それが人間の耳にはきれいに聞こえる。という事は、人間とは、とんでもなく残虐な、どうしようもなくシニカルな、どうにもならないほど冷徹な、まとめていえばはなはだ下品な心の持ち主と言えるのではないか。僕は自分自身人間だという事が、鳥の声を聞いていて恥ずかしかった。だってきれいに聞こえるから。きれいという事は恐ろしい事なのかもしれない。そこで我々にできる事は、多分音楽しか残されていないのではないか。鳥達へのせめてもの信号。残虐でシニカルで、どうしようもなく冷徹で下品な人間のせめてもの救いは、きざなようだが少なくとも、言語ではあるまい。すばらしい月夜の晩もあった。深夜ト-ステンの家に帰ると、トーステンは演奏中とみえて不在で、彼の広いリヴィングルームに暗闇の中歩み入った。目が少し慣れてくると、そこは真の暗闇でない事に気付き、ふと窓の外に目をやると、そこには満月が瞬いていた。ヨーロッパの屋根の向こうに。これも深夜の出来事である。冷蔵庫からビールを取り出し、ただ満月をまんじりともせずずっと眺めていた。コペンハーゲンで風流を気どってもしょうがないけれど、あまりにもその月は美しかった。僕は視線を固定して、じっと月を見ていた。窓の枠、トーステンの住んでいるホテルの屋根の線、それらは動かないけれど、月は少しづつ少しづつ左から右へと動いている事が見て取れた。もしかしてこの世の中は、ものすごく微妙なる重力のもとに成り立っているのではないかと本能的に思った。忙しい東京の暮らしの中では見い出す事の出来ぬ、また時差ぼけがあってこその一人の贅沢な時間だった。月を眺めるのに料金はいらぬ。(旅日記、不定期的に更新予定。) 某月某日 今日も日本晴れ。青空というものがまだ東京にある。智恵子抄の智恵子さんはそうは思わなかったのだろうが。昼からマスタリングのため、東銀座にあるスタジオに行く。心にどかヘルを被せ、耳はヨイトマケとなり、何度も自分の演奏を聞く。主観的に自分の演奏を聞いてしまえば、作業自体無意味であるが、自分で演奏したものであらばこそ、なかなか客観的態度はとれない。どうあれ客観的に聞き分けて、エンジニアの方々に、短い言葉で指示を出さねばならぬ。自分のイメージを機械を通して実現するのは、こちらに機械の知識がない為、どうしても発言が主観的になるがこその客観的態度が重要なのだ。自然、ふだん音楽を聞く耳とは違った耳と心が必用となってくる。何度も聞き込むので、以上のような表現となった。何はともあれ無事終了。次期新作のタイトルも決定した。「TOUCHES & VELVETS」。このタイトルから彷佛させるに能わぬ音なし。後は発売を待つのみ。10月初旬か9月末というEWEのお達しがあった。詳しくはまたニュースの欄で報告することとしよう。 某月某日 今晩、というかもう明け方だがまた眠れず。梅雨入りである。気鬱になりやすい天気のはじまりでもある。エルヴィン・ジョーンズ、レイ.チャールズ、スティーブ.レイシーが相次いで死んじまって,この世からソウルが欠け落ちるようだ。個人的知り合いでもないし、葬儀は海の向こうであろうから、参列することは出来ないが、無信教ながらうつむく。うつむいていたら、晴れの日が続き、梅雨はどこへやらという毎日となり、それはそれで調子が狂う。季節の変わり目は地球規模なのか、彼の三人も変わり目に逝った。明日は、9月に発売予定の音が完成する日である。マスタリングという最終段階のことをする。曲順、曲間などを決める作業が主だ。製作に一年近くかかってしまった。これも、全ての行程に於いて細心の注意を払ってここまでもってきたからこそのやむを得ぬ延滞。ということで、自然に、しかも同時に内容の濃いものとなる。濃いと書くと少しおおげさだが、つまり丁寧に作り込んだということだ。新しい船舶の船出に、その船尾をシャンパンで叩くのが発売日とすれば、明日は艦船の最期のヴォルトを締める作業である。 某月某日 今日の日付けだけ、僕の手帳のカレンダーの欄が一段下になっている。何の書き込みもない。5月は、休みがなかった。今日は五月の中で最初で最期のお休みの日だ。窓をあけると、心地よい風が吹いていた。隣の敷地にある木々が心地よい音をたてている。どこかで芝を刈っているのか工事をしているのか、ある種の機械音がずっと低音で鳴り響いている。その音はどうもGの音のように聴こえ、その通奏低音の上に、木々の葉がさらさらと風にざわめく音が乗っかっている。心地よいのやら悪いのやら良く分からない。空気の入れ替えがすめば、残念ながら窓は閉ざすこととなるだろう。5月はいろいろと違ったことを、たくさんこなしたので、その後片付けのような雑用が、三々五々ちらばるように残っている。こういった雑用は、無理にでも忘れてしまいたいものであるが、逆に言うと、休日という時間を利用してこなさなければならない種類のもでもある。本当に上手いこと、残骸のような雑用が、ちょうどきっかり、五月最期の日に残ったような形となった。雑用の本質は、いますぐにでも手をうたないとまわりの人に迷惑がかかる、と言った種類のものではないが、溜まってくると、相対的に色々な人や事柄、自分の仕事に影響をおよぼすといったものである。だから、雑用が溜まりそうだと思った時は、即行動に出ないと、本当に溜まってしまうのである。始末に困る。雑用魔の三角地帯である文房具屋、郵便局、銀行への道筋とそこに行く目的をはたすのに必要なものを携行し、外に出る。ポストに何やら届いている。雑用をすることによって生まれでる別の種類の雑用、雑用をこなそうと勇んで外に出た時ポストの中に垣間見る、雑用の種となりそうな封書類。頭の中は雑用だらけだが、青い空を見上げると、大きな雲が悠然と流れて行く。宮崎駿のアニメーションのバックによく出てくる風景を思い出した。昨日は遅くまで僕の最新作であるCDのトリオの音にストリングスをダヴィングする作業をした。といっても、僕は編曲家のN氏の譜面を見ながら、ああでもないこうでもないと、注文をつけるだけの役割であったが。しかし、久しぶりに聴くクラシックの弦の音色の荘厳さに陶然とす。弦楽器奏者のプロ魂を見せつけられた思いで、すばらし録音がいくつも上がった。スタジオの外に出てみると、こちらが中心になってスタジオで演奏、録音する時とはまた違った疲労感があることを知った。その余韻を味わう閑もなく、あっちこっち歩いていたら、5月中の疲れがどっとでた。今日はこれにて午後から休憩。 某月某日 某月某日 と書いても、今回だけはその秘匿性は意味を成さぬであろう。2004年5月24日新宿ピットインに於いてHoracio”El Negro”Hernandez(DS),Carlos Del Puerto(B)と共に、トリオで演奏した。重複するが、前の日記に書いたとおり、今回このメンバーでCDを製作するための演奏は終了している。その上に、豪華にもストリングスを被せるという趣向だ。しかし、プロデゥーサーである菊地成孔氏の意向で、全体を30分前後のもにしようということだったので、急遽決まったピットインでの演奏には、曲数がたらない。これはこちらが演奏日まで曲を選り抜き、アレンジをするものはアレンジし、当日演奏前に行われるリハーサル、二時間足らずの間に全てをまとめあげる、ということを意味する。あらかじめ、資料の譜面やテープなどを、EWEを通して彼らにわたしておいたのだが、いざリハーサルの時間になると、ホテルに忘れてきたとか、あっけらかんとしてい 某月某日 今日も日本晴れ。青空というものがまだ東京にある。智恵子抄の智恵子さんはそうは思わなかったのだろうが。昼からマスタリングのため、東銀座にあるスタジオに行く。心にどかヘルを被せ、耳はヨイトマケとなり、何度も自分の演奏を聞く。主観的に自分の演奏を聞いてしまえば、作業自体無意味であるが、自分で演奏したものであらばこそ、なかなか客観的態度はとれない。どうあれ客観的に聞き分けて、エンジニアの方々に、短い言葉で指示を出さねばならぬ。自分のイメージを機械を通して実現するのは、こちらに機械の知識がない為、どうしても発言が主観的になるがこその客観的態度が重要なのだ。自然、ふだん音楽を聞く耳とは違った耳と心が必用となってくる。何度も聞き込むので、以上のような表現となった。何はともあれ無事終了。次期新作のタイトルも決定した。「TOUCHES & VELVETS」。このタイトルから彷佛させるに能わぬ音なし。後は発売を待つのみ。10月初旬か9月末というEWEのお達しがあった。詳しくはまたニュースの欄で報告することとしよう。 某月某日 今晩、というかもう明け方だがまた眠れず。梅雨入りである。気鬱になりやすい天気のはじまりでもある。エルヴィン・ジョーンズ、レイ.チャールズ、スティーブ.レイシーが相次いで死んじまって,この世からソウルが欠け落ちるようだ。個人的知り合いでもないし、葬儀は海の向こうであろうから、参列することは出来ないが、無信教ながらうつむく。うつむいていたら、晴れの日が続き、梅雨はどこへやらという毎日となり、それはそれで調子が狂う。季節の変わり目は地球規模なのか、彼の三人も変わり目に逝った。明日は、9月に発売予定の音が完成する日である。マスタリングという最終段階のことをする。曲順、曲間などを決める作業が主だ。製作に一年近くかかってしまった。これも、全ての行程に於いて細心の注意を払ってここまでもってきたからこそのやむを得ぬ延滞。ということで、自然に、しかも同時に内容の濃いものとなる。濃いと書くと少しおおげさだが、つまり丁寧に作り込んだということだ。新しい船舶の船出に、その船尾をシャンパンで叩くのが発売日とすれば、明日は艦船の最期のヴォルトを締める作業である。 某月某日 今日の日付けだけ、僕の手帳のカレンダーの欄が一段下になっている。何の書き込みもない。5月は、休みがなかった。今日は五月の中で最初で最期のお休みの日だ。窓をあけると、心地よい風が吹いていた。隣の敷地にある木々が心地よい音をたてている。どこかで芝を刈っているのか工事をしているのか、ある種の機械音がずっと低音で鳴り響いている。その音はどうもGの音のように聴こえ、その通奏低音の上に、木々の葉がさらさらと風にざわめく音が乗っかっている。心地よいのやら悪いのやら良く分からない。空気の入れ替えがすめば、残念ながら窓は閉ざすこととなるだろう。5月はいろいろと違ったことを、たくさんこなしたので、その後片付けのような雑用が、三々五々ちらばるように残っている。こういった雑用は、無理にでも忘れてしまいたいものであるが、逆に言うと、休日という時間を利用してこなさなければならない種類のもでもある。本当に上手いこと、残骸のような雑用が、ちょうどきっかり、五月最期の日に残ったような形となった。雑用の本質は、いますぐにでも手をうたないとまわりの人に迷惑がかかる、と言った種類のものではないが、溜まってくると、相対的に色々な人や事柄、自分の仕事に影響をおよぼすといったものである。だから、雑用が溜まりそうだと思った時は、即行動に出ないと、本当に溜まってしまうのである。始末に困る。雑用魔の三角地帯である文房具屋、郵便局、銀行への道筋とそこに行く目的をはたすのに必要なものを携行し、外に出る。ポストに何やら届いている。雑用をすることによって生まれでる別の種類の雑用、雑用をこなそうと勇んで外に出た時ポストの中に垣間見る、雑用の種となりそうな封書類。頭の中は雑用だらけだが、青い空を見上げると、大きな雲が悠然と流れて行く。宮崎駿のアニメーションのバックによく出てくる風景を思い出した。昨日は遅くまで僕の最新作であるCDのトリオの音にストリングスをダヴィングする作業をした。といっても、僕は編曲家のN氏の譜面を見ながら、ああでもないこうでもないと、注文をつけるだけの役割であったが。しかし、久しぶりに聴くクラシックの弦の音色の荘厳さに陶然とす。弦楽器奏者のプロ魂を見せつけられた思いで、すばらし録音がいくつも上がった。スタジオの外に出てみると、こちらが中心になってスタジオで演奏、録音する時とはまた違った疲労感があることを知った。その余韻を味わう閑もなく、あっちこっち歩いていたら、5月中の疲れがどっとでた。今日はこれにて午後から休憩。 某月某日 某月某日 と書いても、今回だけはその秘匿性は意味を成さぬであろう。2004年5月24日新宿ピットインに於いてHoracio”El Negro”Hernandez(DS),Carlos Del Puerto(B)と共に、トリオで演奏した。重複するが、前の日記に書いたとおり、今回このメンバーでCDを製作するための演奏は終了している。その上に、豪華にもストリングスを被せるという趣向だ。しかし、プロデゥーサーである菊地成孔氏の意向で、全体を30分前後のもにしようということだったので、急遽決まったピットインでの演奏には、曲数がたらない。これはこちらが演奏日まで曲を選り抜き、アレンジをするものはアレンジし、当日演奏前に行われるリハーサル、二時間足らずの間に全てをまとめあげる、ということを意味する。あらかじめ、資料の譜面やテープなどを、EWEを通して彼らにわたしておいたのだが、いざリハーサルの時間になると、ホテルに忘れてきたとか、あっけらかんとしている。先にわたした譜面等に目を通していないことは明らかだ。ぼくの持参した譜面をEWEの担当の人に再度コピーをお願いしてリハーサルを再会することとす。オラシオは、そのリハーサルスタジオのドラムの音が気に入らないらしく、2~3曲演奏するうちに、レストランに行きたいとか、腹がヘッタと気もそぞろになってきてしまい、とにかくかく曲の概要と内容を相手に伝える以上の事は、あきらめて、リハーサルは短時間で撤収。後はピットインに於いてのサウンドチェックをしながらのリハーサルに頼るしかないという状況となった。ピットインでのリハーサルは、音のバランスその他、リハ-サルスタジオより格段に優ることはいうまでもなし。やっと三人のトリオの音としての輪郭が見えてきた。はっきりと。しかし、オラシオ、カルロス共に、さっき伝えたはずの各曲の概要も、なんだか勝手に形を変えて演奏している。要するに、聞こえてきた音に反応しあってお互い楽しくやればいいじゃないのというスタンスだ。「ドンヲーリ-ヒロチ-、イッツOK!」これはオラシオの口癖である。ああ-心配しないよ、オラシオ、心配してる閑なんて、どっちにしたってもうないじゃないか。客入れ時間となり、サウンドチェックにおまけのようなリハーサルを終了。カルロス、オラシオ、共々好きな酒を呑んだりしておる。とにかくこのぼくは、今回のこの仕事を、今年の上半期のメインに位置付けていた。世界レヴェルと自分がどこまで渡り合えるか知りたかった。もちろんお客さんの方でもめったに見られないこのコンビネーションに興味を抱くだろう。しかし、いざ演奏がはじまってみると、選り抜いた曲とその構成、またその曲順などという準備段階に逡巡したことなどあっという間に吹っ飛ばされるような演奏がはじまった。一言でいって演奏していること自体快楽であった。麻薬である。オラシオのドラムプレイは、グルーブしてるだのノッテルだのといった表現を超越して、ステージや、ピットインの内部全体に、彼の音が飛翔しているという感じだった。どこまでもふところが深く、ぼくが何をしようとも、あらゆる方便でそれを最高の音に瞬間的に飛ばせてしまうのだ。一番音楽のかっこいいと思えるツボへと。カルロスも、唯我独尊で好きなようにひいているようだが、ちゃんとその飛翔の瞬間にはオラシオのボトムを支えている。ぼくは二人に愛を感じた。音楽への愛。共演者に対する愛。ぼくも二人を愛してしまった。演目が変われど、このスタンスは変わらない。僕の体のまわりには、オラシオ独特の柔らかーいビートが大きな円を描いてまわっている。円だから、どこからなぞっても、その起動から外れることはない。その円を構成しているオラシオのサウンドには、総てオラシオの登録商標が貼ってあるがごとく、それはオラシオ独自のものでもある。ずっとこのまま演奏していたかった。快楽というより快楽(けらく)とう語感に近い親密度が増してきて、ぼくは本当に本望だった。だからこのまま心臓が止まってもいいと思った。彼らのやさしさ、音楽に対する姿勢とその深み、総てが全部僕の体の中に、一瞬にして流れ込んでしまった。オラシオの方をちらっと見ると、そこにはニコニコした八手観音が座しており、一種悪魔的迫力で、おい、次はナンダと問いかけてくるような感じであった。カルロスは最初から最期までマイペースであるが、決して大切な瞬間を逃さぬ野性のカンを有した、やはり悪魔的な何物かであった。自分自身、彼らにもみくちゃにされているという意識はなかった。ただ、いつもより格段と、自分のピアノの音が冴えて聴こえたのは確かである。意外な自分の内なる発見であった。お客さんもこれまでに書いた状態を一瞬一瞬目の当たりにし、客席が波打つようになっているのがわかった。ここまで音楽というものはパワーがあるものなだということを体感した。最初のセットが終わって楽屋に行くと、酒のコップを手にしたオラシオが顔をのぞかせて、僕に向かってにやりとし、「ユーテークア、キリング、キリングソ-ロ、ヒロチ-、イッツキリングマーン、ウイ-シュッドメーク ア レコード アゲイン、キリング、キリング、ソ-ロ!!」としきりに言い寄ってくるので、僕はすっかり嬉しくなってしまった。セカンドセットは、一回めに比べ、またそこに熱い炎がボウと燃えたような状態が加味された。その状態が最高潮に達して演奏終了。僕の中にはオラシオの円型のビートがもう入ってしまった。言葉では上手く言えないが、この感覚は僕が死なない限り消えない。次にオラシオと演奏する時は、すぐこの円型のフィーリングが僕の中から飛び出してくるだろう。僕は最高のサイクルをオラシオからもらった。嬉しくてしかたない。兎に角、後厄ぬけの大きな仕事は絶好調の内に終わった。 >>>

午前1時半

某月某日 また夜中に目が醒めてしまった。午前1時半である。5月15日、某月某日もヘッタクレもない。ぼくは44歳となった。別段なにかが変化したという自覚はない。後厄からも抜け出した。厄年なんて、ありゃアただの迷信だとタカをくくっていたら、40,41,42,43歳と、肉体的にも精神的にも大きな変化があった。体力が如実に落ちたり、急に老け込んだということではないが、肉体がある意味でひとつの折り返し地点に来た感あり。いま思い返せば、厄年の真っ最中、死の事ばかり考えていたような気がする。そういう男の季節なんだなと思う。論語にある有名な言葉に、40にして惑わずというのがある。次は50にして天命を知るだが、そんな先の事は考える余地なしで、40にしてもおおいに惑っている最中である。現在44歳で、死ぬことすら面倒臭くなってきてしまった。どうにでもなれという気分の中に、自分の死も,やもうえなく含まれているといった感じだ。何歳まで生きて、なにをするかはぼくにも分からないが、ただ糞をして飯を喰って寝るという人間にだけはなりたくない。この世の中に少しでも良いから美しいものを提供したい。 某月某日 いろいろと仕事の準備をやっていたら朝になってしまった。導入剤をのんで、眠くなり始めた時が潮時と思っていたら、いっこうに眠くはならず、頭がぼーっとするだけ。9月にデンマークのバンドを日本に呼ぶ算段、そして5月20日のMOTION BLUE に於けるパードン木村氏とのデュオのコンセプトやアイデアなども考えねばならない。5月24日には、ピットイン(もちろん新宿の方ね/)でHORACIO “EL NEGRO”HELNANDEZ(DS)と、CARLOS DEL PUERTO(B)とのトリオ演奏にものぞまなければならない。このトリオに、ストリングスアンサンブルが加わったものが、新譜として今年9月初旬に発売予定である。ピットインではストリングスは入らない。菊地プロデューサーの意向で、なるべく短い演奏時間のCDを作ろうということになった。6曲アレンジしたものをなるべく短く演奏した。トータルとしての時間は30分前後だと思う。これでは、ピットインのショウで演奏するには時間が短すぎる。既に録音した曲もトリオで演奏するが、もう5曲ほど揃えて2SET,既にレコーディングした曲とは別の雰囲気のものをそろえなければならない。まああまり心配はしていないが。彼らは世界レベルで上手いので、なにが起きようと、どんどんぼくの思いもしない方向に音楽を進めていってしまうかもしれない。自国を捨ててまでも音楽をやる決心をしている共演者に、この平和ぼけしたアンポンタンのぼくが、芸術の世界で挑むのである。上手い下手も重要なファクターだが、それだけでなく、音楽のために、自らの母国を出て来た男達の放つサウンドには、音の真の何かに、我々の知りようのないムチのような音楽的筋肉と腹の括りかたの重さが同居しているに違いない。いざとなったら、ぼくもそういうサウンドに、同等なかたちで挑めるだけのミュージシャンになりたい。何かと五月は多忙である。 >>>

夢の描写

某月某日 前回の日記には、自分の夢の事を描写してしまったが、聞く人によると、夢の描写は現実感の喪失につながるからよせと言われた。暖かいアドヴァイスは別にして、こん週末からの演奏の要を、今回は紹介することにする。この一文は、前の日記に書いたものと重複するのだが、日が迫ってきたと言うことで、あえて二重写しにした。これらは全てぼくが仕組んだ仕事なので、ぜひ大勢の人に聞きに来てもらいたいと思う。一:井上淑彦氏と初めて中目黒のクラブ楽屋に出演。ここのアジアンフードはかなりうまい。もちろん井上氏の演奏もうまい。初めての場所と言う設定も、ミュージシャンには演奏に火をつける要素でしかない。レッドチリペッパーとともに、井上氏のサックスの音を聞いて、皆で涅槃を散歩しましょう。こんなロケーションと演奏、身が二つあったら俺がお客で行きたいぐらいだ。中目黒近辺の人も、そうでない方もいざ楽屋へ。詳しくは楽屋http://www.rakuya.net/電脳フライアーhttp://www.shinya.comm.to/live.html二:ジプシー系ドイツ人のヴォーカリスト、MELANIE BONGと都内近辺にて短いツアー を企画した。知り合いの日本に住むドイツ人から紹介されたのだが、ブラジリアンのようなものも軽くうたいこなす、ちょっといい女である。(送られてきた写真を見ただけだけど。)声質がぼくの好みだったので、仕事をとってみた。詳しくは、MELANIE BONG http://www.melaniebong.de/ 電脳フライアーhttp://www.shinya.comm.to/minami.html以下彼女の経歴を簡単に紹介する。メラニー・ボング MELANIE BONG (VOCALIST, COMPOSER)ドイツに生まれる。現在はミュンヘン在住。彼女の父親はシンティ族というジプシであった。10代後半から歌いだし、「Melanie Bong Crew」という最初のバンドを結成する。学校を卒業の後、アメリカの有名なシンガー、シェ-ラ・ジョーダンに師事。 後、ドイツを中心に世界的に活躍の場を広める。(P)ウオルター・ラング(ドイツ),(B)デヴィッド・フリーゼン(USA)等を筆頭に、多くのミュージシャンと共演。彼女の最初のCD「SMILE」はモダンジャズ的なアプローチに満ちたもので、日本でも発売される。2001年、2枚目のCD「FANTASIA」は、彼女が作曲した曲が全編を構成し世界中で発売された。彼女のブラジル音楽への傾倒をはっきりと打ち出した内容のもので、作曲家としても認められる。ちょっとかたい文章だけれど、当日なにがハプニングするか分からない所が、今回の出色な部分で、いまから演奏者自身も楽しみでしょうがない。まず御来場を、そして、今月の南博は、大幅に予定調和の仕事がありません。いままでやってきた音楽も、この国の中では予定調和の部類に入らなかったと思うけれど、今回はさらにまた更にその部分から遠のく所存です。自分で考えても、今週末から来週にかけて贅沢な仕事させて頂く喜びでいっぱいです。 某月某日 今日は導入剤の助けを借りずに寝られると思い、坂口三千代著「クラクラ日記」を読んでいたら、本当に気付かぬまま眠ってしまった。しかし眠りは浅く、とんでもない悪夢を見てしまった。JRの駅だと思うが、それに似通った大きな駅に夢の中の自分は立っていて、その駅から仕事場へ、つまり演奏のために駅を出る。その演奏場所が凄まじくコンディションが悪く、共演者も初対面であり、高校時代けんかした奴にそっくりなベーシストなども居て、雰囲気も最悪。仕事が終わってやっと駅に戻ったら、見覚えのない表示と駅名だらけで、しかしなぜかここは東京の郊外、埼玉、千葉の方のような感なのである。とにかく電車に乗ると、そこには質の悪いサラリーマンの酔漢、どうしようもない、手のほどこしようもない高校生の不良グループなどが乗っている。誰かに帰りかたを聞くような雰囲気ではない。床には嘔吐された汚物が散乱し、次の駅で別の車両に移ることにする。とにかく今乗っている電車が自分の家の方に向いて走っていると言うことが知りたいのだがそれどころではない。気がつくと、前に乗っていた列車に貴重品、カバンなどを置き忘れていたことに気付き、また次の駅で、最初に乗った車両に乗り換える。カバンは床にぶちまけられた嘔吐物の上に、更にカバンの中身がぶちまけられていて、金品に変わるようなモノはみな無くなっている。スペアに使っている眼鏡も何ものかがふんずけたらしくガラス部分も粉々で、ぺッチャンコになっている。まわりを見渡すと、ものすごい視線が集まってきて、抗議するどころでない。今必要なのは、正しい家への帰り方である。次の駅でその電車は終点なんだか、全員おりることとなる。プラットフォームに降りてみると、非常に複雑な立体交差的線路が、頭上に展開されてい、その中のどれに乗ればいいか、皆目見当がつかない。これ以上家のある方角とは反対の電車には乗りたくない。プラットフォームにいる何人かのサラリーマンが急に駆け出す。ぼくも反射的について行くと、今まさに、ドアを閉めんばかりの別の電車が、出発する所であった。他のサラリーマン軍団といっしょに、ぼくもしゃにむにその電車に乗ってしまう。愚連隊のような奴等であふれていたさっきの車内より、こっちの車内の方がましだと思ったからだ。しかしこの電車が家の方向に走っていくものともかぎらない。車内にある路線図を見るが、この電車が今何線で、どこの駅に向かって走っているか、皆目見当がつかない。まわりの人に聞いても、なんだかはっきりした答えは出てこない。外の景色は見覚えも無し。その電車が止まった次の駅は、薄暗いながら、何らかのターミナルを要した巨大な駅で、ここでなら家の方に向かう電車がありそうな気がして飛び下りる。プラットフォームに駅員らしきものが居たので、まず、私はどこにいるのでしょうと話しかけると、あれを見なさいと赤旗を持った方の手で、薄暗い先を指し示す。そこはプラットフォームの先端部で、その先から、遊園地にあるような小型電車が、地中から何本も走り出してくるのが見える。利用客は、その小型電車の外側にへばりついたり、屋根につかまったり、振り落とされないように、必死な形相でつかまっている。しかし何人かの脱落者がぼくの目の前で振り落とされる。落とされると、電車とレールの間に引き込まれて血だるまとなって轢き飛ばされる。駅員はぼくに、あれに乗りなさいと言う。一旦次の電車が地中から出てくるのをプラットフォームから線路に降りて待つことにした。次の電車はすぐ来た、電車の側面に、沢山の人間が、必死の形相でつかまっている。しかし、大きな駅に到着するためなのか、その小型電車は速度を落とす。今がチャンスかと思い、まずその小型列車を走って追っかけて、最後尾の隙間に何とかしがみついた。何人もの脱落者がゴロゴロと線路際に血だるまになってころがってくる。最後尾なので、列車の両側を流れる強い風を避けることはできたが、何かの拍子にぼくも転げ落ちるかもしれないと思うと、生きた心地はしない。やっと次の駅についてみると、前の駅にも増して複雑な構造の駅に立ち降りたことに気付く。天蓋の向こうには、沢山の電車が走っており、ぼくはどこかの地下にいるようだと言うことがわかる。天蓋の向こうの電車に乗り変えるには、階段などなく、みな高熱でグニャヤ二ャまがった鉄柱をそれぞれの力量で、登ろうと必死になっている。ぼくも天蓋まで行けば、家の方に向かう電車があるような気がして、グニャグニャになって折り重なった鉄柱を手足を使いながらよじ登りはじめる。やたらと体力と気力を要するということが、登り始めてから分かった。地下の駅と天蓋の駅は相当な高さで離れてい、手を滑らせたら落っこちて死ぬだけである。鉄骨のジャングルジムと格闘しながら、やっと天蓋の駅に登りつめて頭を出すと、そこは、線路のまくら木のあいだであった。前方から電車がフルスピードでやってくる、、、、、、そこで夢から醒めた。午前二時頃である。寝覚めも悪く、気分も悪く、明け方までまんじりともせず過ごした。 某月某日 世はゴールデンウイークである。誰がこのような「ゴールデンウイーク」なる名前を命名したのだろうか。黄金週間。金色に輝く日々。むかし貨幣は、兌換紙幣といって金と交換することができたそうだ。いまは信用だけで成り立っているらしいが、そこから先の事は、経済オンチなので分からない。ただ、紙幣には日本銀行券と書いてあって、お金が欲しいなあとは思うが、券が欲しいなあとは思わない。いずれにせよ、この黄金週間のあいだ、この銀行券が労働者からサービス業、運搬業の方に流れ移るということは確かだ。だから命名者はサ-ヴィス業に関与している人達が考え出したのではないだろうか。ぼくの職業は、まあサ-ヴィス業と言えるかもしれないが、そう100%言えない部分もあり、この何日かは、ゴールドが頭の上を飛び交うのを、じっと家で眺めている。労働者は、決まった祝日しか休めない。我々は、仕事がなければ即その日が何曜日であろうと休みである。わざわざ人混みのなかに身を投じるのは、逆に我が特権をダイナシにしていることと同じであり、だから遠出など仕事以外しない。特に散財もしないし、行きつけの店は、それこさ休業していることが多いから、じっと鍵盤などを見つめている。どうしても解せない不思議なことは世の中に多々あるが、これだけ不況だ不況だと騒いでいて、どうして高速道路が渋滞したり、海外に遊びに行く人々で、成田空港がいっぱいになるのであろうか。ああいう所にいない人が、逼迫した生活をしていると言うことなのか。ぼくは留学という名目でアメリカに住んでいたことがあるが、海外とは、観光客には甘い口をきくが、いざ一旦住む者にはとてつもなく厳しい場所である。毎年ヨーロッパに行くが、それも仕事であり、時差ぼけのなかを何とかかいくぐり演奏をしたりしている。遊び、観光という目的で外国に行ったことがないので、よく分からないが、現地でも観光者はゴールドを落とすのだろう。本当に不況なのか。何をしていったい豊かというのかが良く分からぬ我が国は不思議な国家である。と言いつつ、このぼくも、ゴールデンウイークの初日だけ、普段とは違う行動をした。先日、生まれ育った世田谷の団地を、カメラとともに訪れたのだった。従姉妹が世田谷の役所に勤めていて、ぼくが物心つく前から小学校5年生まで住んでいた公団住宅が、再開発のためとり壊されるという話を彼から聞いたからだ。あまりむかしの事に固執するタイプではないが、なんというか、言葉の選び方のセンスが悪いのを承知で書くと、心の原風景みたいなものが無くなる前に、フィルムにおさめておこうと思ったのである。その団地は、新宿から京王線に乗って行く場所にある。懐かしいはずの駅前は、改札口が地下になっていたので、あまり懐かしさの感慨はわかなかった。遠足の時の集合場所であった駅前の広場も、なにやらどこでも見かける弁当屋などが商売をしており、なんだか土地を細分化してさらに細分化して、色々な商売を林立させるという、東京にありがちなごちゃごちゃ感が駅のまわりを支配していた。母親からいつも、渡る時は車に気を付けてといわれていた駅前の通りも、なんだか非常に狭く小さく見えた。子供のころには大通りに見えたのに。ぼくが生まれたのは1960年、ちょうど日本が高度成長期という時代をむかえた時だ。経済が上向きになるのに比例して、ぼくは育っていった。テレビ、洗濯機、掃除機が三種の神器などと言われていた時代で、ぼくはこの団地で、確かアポロが月に降り立ったのを白黒テレビで見ている。あの日だけ、特別のよふかしを許されたような記憶がある。駅から住んでいた団地への道をたどって行くと、よく野球をして遊んだりしていた広場がフェンスで囲まれているのを発見した。何か建物が立つのだろう。その場所には、当時の雰囲気は残っていないが、ぼくの心のなかに、当時夢中になってボ-ルを投げていた野球遊びの後の爽快さや、名前は忘れてしまったが、当時の近所の友達の面影がスっと頭をよぎった。その広場の横は団地の集会所で、保育園も兼ねていて、ぼくもそこに毎日かよっていた。当時のままの佇まいでその集会所はあった。太陽が真上にあって、ものすごく天気の良い日で、だからこそ光と影の差が激しく、カメラの絞りを設定するのに逆に難しいぐらいで、とにかくその集会所をフィルムにおさめた。集会所から住んでいた団地、5号館への道は変わりはてていた。流れていた小さなドブ川は埋め立てられてい、工事中のフェンスのようなものが、川沿いを囲っている。当時ドブ川の向こうには、とある化粧品の工場があり、なんだかわけのわかんないどろどろしたものが、排水口からそのドブ川に流れていた。ドブ川の上には、1メートルおきぐらいに、細いコンクリートの四角い棒のようなものが架かっていた。幅は30cmほどのもので、根性だめしとかいいながら、よく綱渡りの芸人よろしくドブ川の両端を行ったり来たりした。たまに足を滑らせ、ドブ川にはまる者が出る。ぼくも何度も落っこちた。下半身はどろどろとなる。どろどろをひきずって家に帰ると、母親はその場に立ちすくんだものだ。なんだか強力な科学物質とばい菌があの水分には含めれていたような気がするが、当時はなにが起きてもへいちゃらだった。ドブ川のみならず、広場として記憶にあるあらゆる場所が、すべて駐車場と化していた。5号館が目に入った。懐かしい。しかし4号館はもう無かった。恐ろしいほど巨大な公団住宅が5号館にのしかかるように建っていた。もう少し来るのが遅ければ、5号館、そう、ぼくの子供のころ寝起きしていた公団住宅は無くなっていたに違いない。5号館に近付く。雪の日、かまくらを作って遊んだ団地裏のスペースは、もう巨大公団の敷地にのみ込まれて無かった。じっと5号館を見た。こんな小さい建物の、こんな小さい横幅の、こんな長方形の建物に、俺は住んでいたのか。しかも24世帯ぐらいが同じ屋根の下に同居していたのだ。たしかぼくの部屋のとなりは、スペイン語の大学教授だった。真夏の夜、汗だくになりながら、その隣の家で、スペインに行っていたその教授の写した写真のスライドを見た覚えがある。あれが初めての、ぼくにとっては生の外国の風景だった。確かスライドは押入れのとびらか何かに写し出されていたのだと思う。近所の子供がぼくと同じくすし詰め状態でそのスライドを見ていた。映写機と人間の熱気でムンムンしていた。そんな悲喜こもごもが、この小さな横幅で行われていたのかと思うと、感無量だ。ここで皆生活し、排泄し、交接もし、本当に何度も書くが悲喜こもごもがあったのだ、この横幅で。下の階には御夫婦とも高校の先生をしていらっしゃったKさんだったか、名は忘れたが住んでいた。沢山の本があった。こんなに沢山の本が世の中に有るとは当時、子供だから思わなかったので驚いた記憶がある。そこのうちにはお嬢さんがおり、当時高校生ぐらいで、いつも受験勉強をしてた。その彼女の部屋にも、沢山の本があった。あれは今から考えると、女性の部屋に入った初体験であったのだ。彼女から、ぼくにも読めそうな本を借りたことを思い出した。この5号館を目前にすると、もう書ききれないほどの、朝の、昼の、夜の、夜中の、日々の、春夏秋冬の思い出が渦巻いてくる。一言で団地と言っても、色々な種類の人々が、狭い区画のなかで、様々に暮らしていたのだ。あたりまえの事だが、すごいことだとも言える。あの横幅で。気がついたらシャッターをきりまくっていた。これが最後だな。故郷のないぼくの故郷のような所が、姿を消すんだ。ぼくの住んでいた5号館の階段の前にくると、もうそこには誰も住んでいないことが分かった。皆どこかへ引っ越したか、新しくその地に建つ公団住宅に入りなおすかするのであろう。階段を上がり、以前住んでいた部屋の、鉄のドアの前までいった。ここでぼくが赤ん坊のころ、このドアの真ん前で、正月に写真を撮ったのだ。親父に抱かれて。写したのは母親だろう。こんなに小さい建物の中に家族四人が一時暮らしていたのか。4号館には、集会所で知り合ったN君が住んでいた。N君がピアノを習いに行くというので、ぼくもついていった。なぜだか分からないけど一緒についていった。それが全ての始まりである。N君は高校受験のためピアノを習うことをやめたが、ぼくだけ極道に入ってしまった。思えばその団地から、読売ランドの先にあるピアノの先生の家までかよっていたのである。駅前の当時大きく見えた道からバスに乗って成城学園駅まで行く。そして小田急線に乗り換えて先生の家までたどり着く。このレッスンには、N君の向いに住んでいたHチャンも参加するようになった。ぼくはN君,Hちゃんと比べて、格段に覚えが遅かった。みながどんどん赤マルをもらってハノンを上がりチェルニーだブルクミューラーだと進んで行くのに、ぼくは、不器用だったのと、頭がボーッとしていたのとが相乗効果となり、みんなにどんどん間をあけられてしまった。なぜピアノのレッスンが続いたかと言えば、習っていた先生が好きだったという理由だけである。でも弾けないものは弾けない。この建物の小さな横幅のそのまた小さな部屋に、カワイだったか、電気ピアノを買ってもらって練習していたのだ。スイッチを入れると赤いランプのつく、小型電気ピアノだった。近所の事を考えてか、その楽器はヴォリュ-ムが調節できたから、夜になっても弾いていた。外で友達がローラースケートで遊んでいるのを窓越しに見ながら。なんという狭い空間での、出来事の多さだろう。記憶とはすごいものだ。この記憶を呼び覚ます風景や建物は、遅かれ早かれこの世から消える。一階には、名は忘れたが、近所の子供をまとめるガキ大将が住んでいた。一階に部屋があったからか、ベランダの前に犬を飼っていた。はたして、当時の公団住宅で動物を飼って良いのか悪いのか、そんなことは今となっては分からないけれど、その犬の名前はなぜか覚えている。ロンちゃんといった。皆でロン、ロンと呼んでかわいがっていた。4号館の裏にある給水塔は、5時になると鐘の音をならす。もちろん録音されたものだと思うけれど、それが家に帰る合図の音だった。その鐘の音を無視して外で遊んでいると母親にしかられた。実際に、給水塔はまだ建っていた。当時そのあたりでは一番高い建物だったのだが、ぼくが見たその時は、巨大公団住宅の横で、ちょこッと建っているマッチ棒みたいに見えた。ぼくは写真を撮りまくる。全てを、少なくとも画像に残しておきたいという、この衝動はどこから来るのか。給水塔も撮った。あらゆる角度から。鐘の旋律は今も覚えている。ラソファソ、ドソラファ、ファラソド、ドソラファ。毎日放送されていたこの鐘の音にぼくは今、何らかの音楽的影響を受けているのだろうか。どうあれ、毎日聞いていたことは確かだ。キンコンカンコーンという音だった。思えば不思議な現象ともいえる。役所や会社のように管理された空間では無いのに、毎日5時になると鐘の音がする狭い空間とはなんだったのか。他の音の記憶をたどってみた。家にはクラシック名演集のような小さい盤のレコードがあった。母親がたまに聞いていた。お決まりのモーツアルトとかああいった類い。ぼくにはあまりピンとこなかったが、今から考えると、習っていたことは、いずれこのレコードの中の音を再現するための技術と音楽性であった。親父といっしょに風呂に入ると、親父は必ず軍歌を歌った。この方がぼくの耳に残っている。後はトランジスターラジオの音質の悪い音で聞く野球観戦の音。タイガースファンの親父は、タイガースがホームランなどで逆転すると、隣の四号館にまでこだまするような拍手を風呂場で放った。その音の記憶の方が、正直に言ってモーツアルトより上だ。他は、テレビの人気マンガ番組の主題歌のソノシートを何枚か持っていた。持っていったフィルムはあっという間に使い果たしてしまった。これらの写真は、他の人にとっては何の意味も成さないものであろう。だがぼくには、この画像一枚一枚に、数えきれない思い出と記憶、感情、感傷、時の移り変わりに対する思い、それらがいっしょこたになっているものである。真昼時、まったく人影がない団地のはざまで、ぼくは闖入者と呼ばれてもおかしくない状況にあった。空き巣ねらいとして、警官に誰何されても返答に困るような状況でもある。さすがにぼくが以前住んでいた団地のドアを開けるようなことは差し控えたが、階段を登り、いろんな角度からシャッターをきったりして、夢中であった。まわりに人が誰もいないということから来る恐怖も感じなかった。誰か昔の知り合いがひょっこり顔を出さないかな、なんて、なんとも現実離れしたことを夢想させるほど、その日は天気が良く、写真を撮るには絶好の天気であった。難をいえば、フィルムをもう少し持ってくれば良かったということだけであるが、ある意味いくら撮ってもきりがないから、フィルムの無くなった時を潮時として、また駅の方に向かって歩き出すことに決めたのだった。その前に、もう一度、ぼくが住んでいた部屋のベランダをあおぎ見た。やはり誰も住んでいない様子であり、物音ひとつしない。声に出して「アデュー」といってその場を離れた。駅まで来ると、こんどは、通っていた小学校の通学路や、その小学校にもいってみようかとふと思ったが、やめることにした。ゴールデンウイークの初日の日の、午前10時から12時過ぎまで、ぼくは、過去自分が居た場所をさまよっていたのであった。きりがない。もう充分だ、と自分に言い聞かせ、京王線に乗って帰ることにした。フィルム代、電車賃あわせて1000円前後で経験したタイムトンネルだった。少し感傷的になったりもしたが、心の芯の部分では、何か充実したものが感じられた。ぼくのゴールデンウイークはこれにて終わりである。 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掛け持ち演奏の日

某月某日 本日は横浜にて通常のライブを行った後、渋谷のJZ BRATでの深夜の仕事という、銀座時代以来の掛け持ち演奏の日であった。一時期ぼくは、バブル最盛期のころ、午後8時から12時半までの銀座の仕事のあと、六本木のクラブでピアノを弾くという日々を送っていたことがある。さすがに三ヵ月もすると、からだがガタガタになったので、六本木の方の仕事は辞退させてもらったが。(何しろ、その銀座の仕事自体が掛け持ちだったのであるから。)その当時の記憶がよみがえるような一夜であった。NEWSの欄にも書いたとおり、電脳魔術師、パードン木村氏との初のデュオ共演を成した。菊地クアルテットでピットイン、横浜MOTION BLUEで、名実共に「共演」はしていたが、今回二人だけでやるというのは、まったく新しい試みであった。彼の出すノイズ、彼があらかじめ仕込んでおいたぼくのピアノの音、その場で演奏したぼくのピアノのハーモニーやフレーズを瞬間的にループさせ,その上でぼくが同時に演奏する。これらの条件の上に今回の演奏は成り立っていたのだった。まったく新しい経験だった。予定調和をなるべく避けるように「ジャズ」という音楽を演奏しているぼくだが、この晩のパードン氏との共演は、予定調和を避けるという事さえ意識できないほど、瞬間瞬間に聞いたことのないサウンドが随所に現れ出て、即それに対応するという、なんともはやエキサイティングで面白い出来事の連続だった。演奏時間は三十分、この間に、このデゥオの関係を多彩なものにしようと、打ち合わせもあらかじめしておいた。前半はカオス、つまり渾沌とした、生のピアノの音とノイズとの絡み。中盤はぼくがあらかじめパードン氏宅で録音しておいたジャズバラードにノイズを混ぜて、自分の演奏の上で、自分自身と共演するという趣向。つまり聞こえてくる音は、腕が四本で同時に入り乱れた調べを奏でていることとなる。そして、後半はパードン氏の曲にぼくが合わせて演奏するという三段階システムで演奏にのぞむというお互いの意見の一致が先にあった。前半のカオス的混沌のなかでは、叙情的なピアノを弾いて、ノイズとの対比を際立たせようと試みたが、立錐の余地なく立っているお客さんたちは、何か激しい、脳天を突き抜けるようなサウンドを出してクレーと待ち構えている様子で、そのヴァイブレーションが痛いほどこちらに伝わってくるので、最初からがんがんとピアノを弾き鳴らせてしまった。中盤はバラードを主として展開するので、ここで一端落着いてッとなどと思っていたら、お客さんの方が、場面の展開に気付いて、またもや、何かきついの一発聞かせてクレー状態になったので、思わず、しかも再度、ピアノをがんがん弾いてしまった。残りの十分ほどは、ぼくもパードンさんもデュオをやること自体に慣れてきたところがり、絶妙な間合いをお互いが察知して音楽を組み立てられるようになったのだが、その頃はもうコンサートの終盤であり、二人とも演奏が終わっても微動だにしないという状態で演奏終了した。ジャズクラブとは違い、お客さんの反応が良い意味で演奏者に伝わってくるし、演奏後、色々な人から握手を求められたりで、ある意味この企画は成功だったと思う。いままで行っている通常のジャズサーキットに加え、こういう場所での演奏も増やしたいと思っていた時だったので、大変嬉しかった。ちょっと弾き過ぎたかなと思った所もあるが、電子音、ノイズに対するアコウスティック楽器の対応は、、少し弾き過ぎたかなというぐらいがちょうど良いのかもしれない。パードン木村氏という人物は、思慮深く、静謐で、背の高い、どこかの国立大学の国文学の教授のような容貌の人なのだが、彼の創造する音楽は、この見かけとは程遠い。何はともあれ希有な才人であることに間違いはない。この二人の関係を、もちろんパードンさんが望むのであれば、またぜひ一緒に演奏するというかたちで継続したいと思っている。この演奏形態には、限り無い可能性が含まれている。それは、下手をすると、ジャズでいう即興性を凌駕した、そのミュージシャンが元々持っているセンス、テクニック、アイデアが「ジャズ」以上に剥き出しになる点にある。正直に言っておっかない企画なのだけれど、自分でも気付いていない側面がフッと外に出てくるやもしれず、また、パードン氏にとっても、今現在、瞬間同時アレンジャーという役割に興味を持っていることが幸いだ。できれば回数を重ねて演奏してみたい新しいひとつのジャンルが、ぼくの仕事に加わった。 某月某日 えーみなさん、ただいま色々なことが同時進行中であり、これら多種のことがその色々なことに少しずつ、または大きく関わってきて、一枚岩とはいかず。こちらの都合、相手の都合、それらもからみあって、ただピアノが弾けるだけじゃ何にも出来ないということを思い知りつつ、この何年か懲りずもせず、面白そうなことを準備してきました。まず、順番を追ってこれからの活動の説明をしましょう。 一:井上淑彦氏と初めて中目黒のクラブ楽屋に出演のため、フライアーを製作す。 ここのアジアンフードはかなりうまい。もちろん井上氏の演奏もうまい。俺がお客で行きたいぐらいだ。 詳しくは 楽屋 http://www.rakuya.net/ 電脳フライアー http://www.shinya.comm.to/live.html 二:ジプシー系ドイツ人のヴォーカリスト、MELANIE BONGと都内近辺にて短いツアーを企画した。知り合いの日本に住むドイツ人から紹介されたのだが、ブラジリアンのようなものも軽くうたいこなす、ちょっといい女である。(送られてきた写真を見ただけだけど。)声質がぼくの好みだったので、仕事をとってみた。 詳しくは、 MELANIE BONG http://www.melaniebong.de/ 電脳フライアー http://www.shinya.comm.to/minami.html 三:ぼくがメンバーであるデンマークのQUINTETのリーダー,キャスパー・トランバーグと、演奏すべく、来る7月にデンマークに行き演奏する。 詳しくは、 COPENHAGEN JAZZ FESTIVAL http://festival.jazz.dk/start.asp?l=2 CDに関しては、http://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=118 尚、現地コペンハーゲンで、我々の二枚目のCDを製作も企画中。EWEがスポンサーとなる。 四:かえす刀でデンマーク軍勢を日本に呼んでツアーを企画中。 詳細は5月連休中にはっきりする予定。 一、二、三、四の項目の合間をぬって、7月発売予定の新しいアルバム、(仮題)「HIROSHI MINAMI TRIO WITH STRINGS/TOUCHES & VELVETS」のアレンジメントの成りゆき等、プロデューサー菊地氏と、今後のプロモーションの仕方などで、定期的に連絡を取り合っている。うーむ、改めてこう書き出してみると、劣等生であったぼくが、よくここまでなんやらかんやらやっているということが良く分かる。もうこうなったら俺、誰が何と言おうと、行くとこまで行かしてもらいやす。ぺぺぺんぺんっぺんのぺん~♪ぼくのいちばん好きな川柳をひとつ。「人の世は 地獄の上の 花見かな」(作者不明)お後がよろしいようで。 某月某日 本日は強制的に休日にすることとす。1月からまいてきた仕事の種が芽をふきだして、進むことは進む、進めなければならないことは強制的にも進める。どうしても進められない事柄はその時期を待つといった状態で、自分がやりたいことを実現するにはいろいろと大変である。これらの事柄にずっと張り付いていると、則ちそれらのことが実現するまで休みがないということに成り、だからこそ今日は、演奏の仕事も何もなかったので、休むことと決めた。休むと決めても、なかなか頭の切り替えがうまく出来ない。まず朝寝坊をし、新聞を買い、近間のカフェにてそれを読みながら朝から家から出ることにする。ぼくはある意味居職だから、家にいたら、これもやらなきゃいかん、あれもやらなきゃいかんと、休みではなくなってしまう。だから家の外に出るのだ。なぜか今日は朝からカラスが沢山カーカー鳴いていて、生暖かい空気がドロッと吹く感じの天気で、なにやら不穏な雰囲気が漂っている。消防車やパトカーのサイレンの音もひっきりなしに響いてくる。いったいどういう春の一日なのだろう。新聞はイラク戦争の記事でいっぱいだ。ぼくより信心深い人が戦争をしているということが、いまいち解せない。神様というものは本当にいるのだろうか。もし全人類が消滅した後にも神様が存在するのだったら、神様は悪ふざけが過ぎるし、全人類滅亡と同時に神という存在が消えてなくなるのであれば、なんだ、その程度のものだったのかと見くびってしまいそうだ。お巡りさんと同じに、肝心な時に神様はいないようだ。戦争をなくすには、全人類が死に絶えるしかあるまい。これが一番シンプルで、難しい答えだろう。だから止まないとも言える。どちらにしてもろくなもんじゃない。一日中新聞を読んでいるわけにもいかず、カフェを出る。こういう日ほど、無趣味であることが身にしみる。映画を見に行くことにした。つまらない映画だった。まず映画館のなかの空気がひじょうに濁っていて、居心地が悪かった。映画の内容も、期待したほどのものではなかった。後はどう過ごせばいいのだろうと思いながら渋谷の街を徘徊。気がついたらビールを呑んでいた。戦争もろくなもんじゃないが、ぼく自身もろくなもんじゃない。休日というものをまともに受け止められない。だからビールを呑むぐらいしかやることがない。別にビ-ルを呑むことがことさら低級なことなのではない。他にやることがなくて、ぼーっとしながら呑んでいる所に、何か満たされない気分があることが、問題だなあと思いながら呑んでいることが問題なような気がする。映画は、中年男の淡い恋を描いたものであった。共感もできたが、できない所も同時にあり、ナンダ、こんなことだったら日々充分感じておるわいという内様だった。というか、普段感じていること以上に映画の内容のフィクション指数が高かったから、あんまり楽しめなかったという感じだ。前回見た映画、「ラストサムライ」も面白くなかった。要するに、インディアンが侍にすり変わった西部劇ジャンかと思った。明治政府に対抗する侍の隠れ家である山奥の村も、どうも日本の地形ではないと思いつつプログラムを買わずして盗み読んだら、オーストラリアでロケしたと書いてあった。もうこうなると、好き嫌い面白い面白くない以前に、しらけた気分となる。これいじょう渋谷にいてもしょうがないというしょうもない理由で東横線に乗る。明るいうちから呑んだので、電車に乗っていること自体になんとなく違和感あり。呑んで電車に乗るのは普段、暗くなってからだから。家で自分で調理する。夕飯を終えた後、近くの数少ない友人が来た。こちらはワインを呑んでおり、友人は焼酎を持ち込んだ。酔っぱらった上での世界情勢談義がはじまり、ああでもないこうでもないとしゃべっていたら、午前1時となった。友人も酔っぱらって帰っていった。一人残り何かしら悲しくなってきた。こんな所で世界情勢について自己の意見を述べても何も変わらんじゃないか。況んや、今日一日の過ごしかたはいったいなんなんだ。使ったお金5千円程度。精神的にも肉体的にも有意義という観点からは程遠いような気がしてきたら、やるせなくなってきて、映画鑑賞の後買った色川武大著「いずれ我が身も」(中央文庫)を読み始めたら、やっと気分が落着いてきた。雨がふってきた。 某月某日 タワーレコードへCDを買いにいったら、ちょうど本日が、菊地成孔氏の新譜、「デギュスタシオン・ア・ジャズ」の発売日であった。ぼくも参加しているから、大変うれしい。(詳しくはhttp://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=441)5階のジャズコーナーは菊地氏の宣伝一色で、良い徴候である。タワーレコ-ドの出している小冊子、museeに菊地氏のインタヴュ-が載っていて、ぼくの言いたいこと、考えていることを、彼はいともたやすく、しかも理論的合理的かつおもしろおかしく言い当てているので、今日の日記は書くことがない。ぼくの言いたかったことを、菊地氏はmuseeに全部しゃべってしまった。胸の空く思いである。目出度いこと目出度いことこのうえない。 某月某日 しばらく人前で演奏する機会がなかったが、今週の日曜と月曜、二日間続けざまにに新宿ピットインで演奏することになっている。日曜がサックス奏者、井上淑彦氏のグループのメンバーとして。そして月曜が同じくサックス奏者の津上研太氏のメンバーとして。双方同じサックス奏者だが、下世話にいえば芸風その他、これまたまったく内容を異にする。しかし同時に双方ともやっている音楽がジャズなのであるから、メンバーとしてこの二人の音楽を理解し、サウンドを抜群なものにもって行く醍醐味は、内容を異にするからこそ楽しい。井上氏との出合いは、もうかれこれ4~5年前に遡るだろうか。どういうわけか、井上氏がぼくがリーダーとしてやっているグループ「GO THERE !」のおっかけをしていた時期が一時あった。学生時代からそれこさ新宿ピットイン等で井上氏の演奏を聞いていたぼくとしてはとても嬉しいことだった。少なくとも、ぼくのやっていることが好きでなければ何度も聞きにはこないだろう。そうこうしている内に、ぼくの方から一緒にやりませんかと持ちかけたわけである。この持ちかけは良い結果をもたらせた。まずこの国に於いて五指に入るすばらしいサックス奏者の後ろでピアノをひく機会を得られたのである。もうこの国のジャズの中で風化しようとしているエレガンスとダンディズムを体現している人である。音楽のみならず人間性に於いても。ぼくなど想像だにできない数多のグループで演奏し、いろいろな経験もし、この業界の酸いも甘いも噛み分けてけているはずなのに、そういう長老的態度はまったくぼくのような若年者には見せない。クールである。カッコいいなと思うのである。演奏中に於いていちばん触発されるのは、井上氏の音楽に向き合う方角とでも言おうか。ぼくにはそれが直線的に見える。もうこのコーラスで井上氏のソロは終わりダナなどと思っていると、また次の波が、彼のサックスから放射される。一ッ直線である。前にも書いたとおり、井上氏は長老的態度は微塵も見せない。ただ一言だけポロッとぼくに言ったことがある。ジャズは全身で聴くもんだ、と井上氏は言った。その時はぼくと二人だけで向き合っていた時か、楽屋かなんかで、他のメンバーもいて雑談などしている時だったか、その一言を聴いた状況はまるっきり忘れてしまったが、その一言だけが、いまだに楔のごとく、ぼくの心の中に埋まってしまっているのである。深く考えてみれば、ひじょうに形而上的な言葉であるが、そこには理屈抜き、掛け値なしの真実がある。なぜならあの井上氏が普段言わないようなことをその時ポロッと言ったからだ。全身で聴く。全身で聴く。全身で聴く。といつもぼくはお題目のように唱えている。自分の調子が悪い時など特にである。バカの一つ覚えかもしれないけれど、その一言に凝縮した智恵と概念の広がりは良い意味で重く、逆に言えば、全身で聴いている人と共演していると言うことでもある。井上氏のエレガンスの上にこの言葉が成り立っている、ということが、この言葉の重みを更に意味深いものにしているとぼくは思っている。津上研太氏のことも書こう。彼との出合いは井上氏と個人的に知り合うよりもっと前で、ぼくがアメリカ留学前からの顔見知りであった。ピットインの昼の部にぼくのグループが昇格した時など、知り合いの竹野を通じて遊びに来て、何曲か一緒に演奏したりしたこともある。その後、ぼくはアメリカ方面に6年ほど消えるので、彼との親交も自然となくなった。3~4年前のことだったか、とあるクラブでセッションを組むこととなり、ベースに水谷氏、ドラムに外山明氏、そしてサックスに津上氏を呼んだ。このメンバーが揃えば面白いに違いないと思ったからだ。実際一曲目から、この4人は、あたかも何年も演奏してきたバンドのように、サウンドナイスでグルーヴしやがった。その場で津上氏はこの4人でバンドをつくると宣言した。グループの名前はBOZO。有名な野球選手だった彼の祖父のあだ名をそのままバンド名にしたと言う次第。いままで色々なミュージシャンと演奏したり出会ってきたりしたが、津上氏はある意味でひじょうに、そして良い意味で異色である。ミュージシャンと言うものは、これは多分にぼくの偏見も混じっているかもしれないけれど、一種独特の影があると思う。ぼくが影だらけだからそういう独断と偏見に満ちた意見を言えるのかもしれないが、とにかく、津上氏は良い意味で明るい。性格というものがものすごく輝いている。もちろんそれには彼の生い立ち、両親の影響などもあるはずだが、それにしてもだ。この明るさはこの業界の中で、良い意味をもってして稀有である。自然と、彼の書く曲も明るい。別にダークな部分がぜんぜん無いと言っているのではない。彼の性格、音楽の明るさの比率が、他のものを圧倒していると言うことだ。少なくともぼくには彼の音楽がそうであるように思える。もちろんのこと、音楽はちゃんとしたジャズであり、ぼくに、音楽の新しい側面を披露した大切な仲間である。このまま彼の音楽性が発展をとげ続ければ、ひとつの新しい日本のジャズの側面足りうるとぼくは思っている。と、こう書いてみれば、この二人がいかに、そして良い意味で芸風を異にしているかと言うことがお分かりかと思う。異にしているという言い方もあてはまるが、これはジャズという音楽の間口が広いとも解釈できる。この二日間のピットインでの興業、扱う楽器は一緒だが、音楽の内容はおびただしく違う 二人と共演する。しかしぼくはぼくで、二人の後ろで、ぼくのピアノを弾くのみである。それが彼らにとっていちばん好ましいことだと信じつつ。 某月某日 雑事をこなしてから、散歩の後練習しようと、中目黒川に桜の咲き具合を見に行った。ぶらぶらと坂をおりて中目黒方面に行ってみたら、平日の午後というのにもかかわらず、大勢の人が桜見物をしていてびっくりした。なかには、サラリーマン風の家族連れが記念写真などを撮っている。この時間、自由にできるのが我が職業の特権である。にもかかわらず、その特権を乱用している一般人のあまりの多さに辟易として散歩は急遽中止とす。暗くなるまで鍵盤の前で苦行をして後、夜10時過ぎに友人と再度目黒川沿いをそぞろ歩きした。薄暗いので人出はあまり気にならず。みなそこいらにビニールシートなどを敷いてかってに酒をのみ盛り上がっている。桜の方は七分咲きといったところか。もう少し鍵盤の前に居座っていたかったのだが、いかんせん耳が疲れてしまった。目黒川沿いの居酒屋及びレストランは大変な盛況で、なので大変うるさく、その中で食事をする気力はもう残ってはいない。しかし、新しい曲のアレンジのアイデアがどうしても頭から離れず、耳が疲れているとは言え、そぞろ歩きも気もそぞろといったところで、夜桜の枝を見上げても、頭の中では音楽のことばかり考えている。先日風邪をひいた時、行きつけの町医者が、運動する時間がないのだったらせめて散歩だけでもしなさいといった。こちとらそんなこたあ百も承知である。だからこうして夜桜を見たり、最近なるべく散歩するようにしているのだが、別にこれといった体調の変化は無し。夜も眠れず。2時間も歩けばくたびれて練習そのものがおろそかになるおそれもあるので、そんなに長くも歩かない。健康のため歩くというのもなんだか間が抜けているような気がする。余談だが、僕の祖母は何と1900年生まれで、今年で104歳になる。御多分にもれず、祖母の脳はあたかも、8次元の世界を万華鏡で眺めて、それをフィリップ・K・ディック的観点で言語化しているようである。歩いて健康を保ち、長生きして何になるかとも思うし、実際、いま死ねといわれても、ヘエ、そんじゃここいらでと、それこさ目黒川に頭から落下することもできない。すべて何もかも無駄で無意味に思える。散歩にしても、家を中心として四方八方歩いてみたが、もう歩きつくしてしまった感もあり。何も新鮮な感慨もなくただぶらぶら歩くのみ。ただこの時期は桜が咲くというだけで中目黒の方に足を運ぶことが多くなっただけである。だからまあ、残念ながらというか、天の邪鬼というか、ビニールシートを抱えて川沿いに行く気もしない。坂口安吾の小説に、「桜の木の森の満開の下」という名作がある。これを読めば花見など逆に僕にとっては無用な気がする。といいつつ、往来の中の一人がこの僕である。何も起きない夜の、気の抜けた、締りのない、そしてだらしのないなんとはなしの夜桜見物であった。 某月某日 本日はパーティーの仕事で横浜のさる高級ホテルでピアノを弾いてきたのであった。窓からみごとな横浜湾の景観を眺めつつ30分の演奏を二回でけっこういいギャラが出た。まあ、こういう日良き日もあってもいいと思うしかない。みなとみらい線ができたおかげで、横浜のウオーターフロントも、近づいたか感あり。みなとみらい駅も何だか巨大で、ホテルに向かう間のショッピングモールもアメリカ並みで、あらゆる種類の店がひしめいており、これはいくら金を持っていても散財せずにはいられないというしくみになっているようだ。ショッピングモールの天上が高いのは良しとしても、どこに何があるんだか分からないほどの店鋪の多さに、まるでオノボリサンさながらの気分であった。桜木町の駅がなくなり、横浜湾側の開発及び人出が激しくなったのであろう。大勢の人達が、案内図をのぞきつつぞろぞろと歩いていた。数々の高級ホテルと、ショッピングモールに精通するには、かなり時間がかかりそうだ。しかし、横浜の良いところは、東京のようにだだっ広くなく、地域を限定して楽しめるところにあるのだろう。これからの発展が楽しみな場所でもある。こういう場所や建物を見え入ると、何がどう不況なのかしらと思わざるを得ない。人が大勢いたって、あれだけの店鋪に金を落とす人が何人いるのだろうか。パーティー開場では普段食べられないメニュウを少しつまんだ。それだけではたりなかったらしく、帰宅後夜中に腹が減ってふと外に出てみたが、日曜日ということもあって、どこも空いてりゃしない。カラスの声が空の向こうから聞こえるのみである。不眠症がまた顔をだし、薬を飲んでも寝られない。中目黒方面に行けば何かあるかと思って歩いていったが、僕の嫌いなチェーンの居酒屋までしまっていた。まあ、しょうがない。午前4時を過ぎているのだから。いかにこの国が便利だとしても、この時間に飲み家が朝方まで繁昌していれば、それはそれ、全ての終わりが近いことを意味する。明け方にはまずカラスが鳴いてから、雀のチュンチュンという鳴き声がはじまる。その声を聞かぬ内に睡眠にはいらなければ、翌日の脳の動きは活発とは言えない状態となる。急いで家に帰る。 某月某日 また夜中に目覚める。午前4時である。3時でなくて良かったと思うしかない。昨日は日がな一日ピアノを弾いていた。なんと練習しなければならないことの多さよ。楽しいながらも苦行である。雨のため散歩も中途半端となり、中目黒の桜並木も、四分咲きといったところか。いつもの散歩コースを雨のためスキップすることにして家に帰る。運動不足である。気鬱でもある。次回のCDの件でEWEの担当者と先日会った。ストリングスアレンジメントが遅々として進まず、たぶん発売は6月に繰り越されるであろう、ただ待つだけの毎日というのも疲れるものだ。ぼくが物書きだったら、途端に放浪の旅にでるであろう。原稿はファックスなどで送れば良い。家のまわりの風景にも見飽きたが、かといって東京の中心部の雑踏へ行き先もなく足を踏み入れるのも気が引ける。こういう時期はじっとしているのが得策と思い、実際じっとしている。じっとしていられるということ自体豊かな社会だとも言えるかもしれないが、心は何か満たされないものでいっぱいである。もっと演奏がしたい。 某月某日 ドリフタ-ズのリーダー、いかりや長介氏が亡くなった。とても悲しい事実である。否、悲しいというより、侘しいといったほうが今のぼくの気持ちには近い。小学生のころ、「8時だヨ、全員集合」を毎週見ていた。その頃は、世田谷の団地住まいで、典型的な高度成長期でもあって、なんだか世の中がいい意味でワサワサしていた。そのワサワサ感に輪をかけて、基本的な意味でテレビ番組というものを楽しんだのが、この「8時だヨ、全員集合」だった。今ある番組では考えられないほど凝った趣向が毎週披露され、テレビ画面から、ドリフタ-ズの動きが飛び出さんばかりの勢いであった。小学生だったぼくは、それをあたりまえのように見ていたのであるが、いまこうして大人になって番組を思いかえすと、あの番組を毎週作るということについて、並み尋常でない準備が必要だったということがわかる。いかりや長介氏の著書「だめだこりゃ(新潮社)」は、何度も読み返した。ドリフターズも元々ミュージシャンであって、時代こそ違え、みな四苦八苦して生き残る道を探ってきた先達である。話は前後するかもしれないが、毎週土曜日の夜くりひろげられるメッチャクチャなアクションに、ある意味一週間というのサイクルの句読点をこの番組によって感じていたのも事実で、偉大なショウであり番組であったと思う。何しろ面白かった。本物のビッグバンドを使っているところも子供ながらに豪華に見えた。何もかもが活き活きとしていた。ぼくの家はくだけていたのか、家族全員で「全員集合」を見て笑っていた。良き時代である。シニシズムとか、テロリズムとか、オゾン層とか、温暖化とか、戦争とか、核の問題など考えなくても良い時代に、いかりや氏は、我々に最高の娯楽を提供したのである。これはぼくにとって、とてもとても重要で感謝すべきことである。いかりや氏のおかげで、良き子供時代の一端を過ごせたのであるから。いかりや氏のおかげで、楽しい子供時代を過ごすことができたのでもあるから。むかしは良かったと言ってばかりいては、先に進むこともできまい。しかし、人はいずれ死ぬというこが痛いほど分かっていても、やはり一時代、何かが終わり、何かがはじまるのだろうというところへ来たようだ。そう考えなければやりきれないほど、いかりや長介氏の死は、ぼくにとって悲しく、侘びしい出来事である。もう一度、子供の心で全員集合が見たい。 某月某日 菊地氏、我が家に訪ねる。遠方より友来る、また楽しからずや。と気どりたいところだが、彼の住まいは自由が丘なので遠方とは言えまい。ただ、お互いの住まいの距離とは別に、彼の多忙さを考えれば、遠方より来た感あり。この夜は、菊地氏プロデュースである我が新譜のタイトルについての打ち合わせであったが、まだトリオ演奏にかぶせるストリングスのアレンジが完成しておらず、タイトルはそれらが完成し試聴した後、新たに考え直すということになった。その後はぼくも参加している菊地氏の新譜、 「デギュスタシオン・ア・ジャズ」「シャンソン・エクストレット・デ・デギュスタシオン・ア・ジャズ」を聴きつつ、男同士の楽しい夜ふけとなってしまった。このアルバム、名作という前に、(もちろん名作には違いないが、)力作であり、彼の横溢たるイマジネーションと、彼の思う「ジャズ」への、あたかも野口晴哉著作の、整体入門にうたわれている人体の自由さと不思議さを模作するようなエナジーが全編を覆っているという、とてつもない内容でできあがったアルバムである。日本のジャズへのアンチテーゼというには、あまりにも比較の比重が軽過ぎ、軟弱に見えるほどの充実感と豊富さもそなえている。これが世に出た後、何がどう変わるかはいまのところ分からないが、菊地氏はこのアルバムによって、ひとつの新しい、日本のジャズシーンに対する岐路を指し示したということは確かな事実として残るであろう。また、そうでなくては、我々の求めていることに対する居場所がなくなること必須である。我々と書いたが、もし賛同するものなくしても、少なくともぼくにはそうだ。(詳しくはhttp://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=441) >>>

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