時は淡々と流れすぎてゆく

某月某日 前回の日記に書いたごとく、時は淡々とながれ過ぎてゆく。本日は風が強く、ピアノを教え終わった後、菊地氏に紹介された某レストランへ行く。道中が冷え込む。月に一二度の贅沢は自分の、まあ名実共に肥やしである。居心地よく、料理もよく神経が行き届いた場所で、客層も悪くない。久しぶりに美味を堪能。過日、愛用のジッポーのライターをなくす。新しいものを買うため、用事を終えシブ地下にある喫煙道具店に行くと、もう半分シャターを閉めはじめていた。週末の人込みが地下道にワ~ンといった妙な反響音を出していて、どちらにしても長居は無用。無理やり店内に入ると、むかしは何か粋筋の仕事をしていたらしい店長が、もう閉店まぎわだというのに、ゆっくり選べといって、ひとつひとつ、ジッポーの形状や、特徴などを説明してくれた。これには買わないわけにも行かなくなり、前回持っていたものとは違い、全体が銀色ですべすべした、角に二本斜めに線をあしらったデザインの物を購入した。最近二回ほど連続してジッポーをなくしているので以後気をつけるつもり。ふたをあける時の音が、種類によって違うのは知っていたが、今回のものは、手ごたえとよい音とよい、いままで持ったもののなかではベストのものだ。過日、一日中ピアノを弾き作曲していたら、夜10時を過ぎに、近くに住む友人から焼き鳥を食べに行こうとの誘いの電話を受ける。練習ももう潮時かと思い誘いに応じる。頭のなかが思いっきり世間離れしている感じがしたので、熱い風呂に入ってからそのなじみの焼き鳥屋に行くこととす。焼酎お湯割り2杯めあたりから入浴効果抜群で、とにかく燃費よく酔って、その友人と夜道を帰る。少し足がふらついた。こんな経験は学生時代以来である。過日、朝早くからの用事をすませ、雑務をこなしながらその合間を見て、練習や作曲をしていたら、夜11頃になって、近来稀に見る健康的な睡魔に襲われた。導入剤を飲んで眠くなるとか、そういう人工的な眠気ではなく、快い疲労感からくる眠気である。何と充実した一日だったかとベッドに入り熟睡。どのくらい経ったのか、いきなり真っ暗闇でパチリと目が醒めた。窓の外が少し明るければ幸と思いつつカーテンをあけてみたが、まだ夜のようである。おそるおそる時間を見ると深夜午前3時前とわかった。週に何度かあるこの状態には辟易とする。こういう場合、なぜだか部屋のかたずけをするとか、仕事の先を進めるとか、そういった方向に頭が動かない。ぼんやりしているのに、どこかの箇所の脳みそがだけが猛烈に回転しているようなアンバランスさに襲われる。これはこういう状態になった人にしかわからないものだと思う。しかたなく、平成枯れすすきではないが、酒を売っている近所のコンヴィニエンスまで、鼻をすすりながら、徘徊するようにたどり着き、安酒を買う。こんなにひどい悪循環はまず無かろうと分かっていても、何か飲まなければ、脳内の、ある一部の猛烈なる回転のようなものはおさまらない。坂口安吾の妻ではないから、深夜薬局のシャッターをがんがん叩き、開けて下さーい、眠れないんですというわけにも行くまい。何しろ時代が違う。とにかく酒とともに家に帰り一息つく。ここで、深夜の静寂を利用して、人生だの、音楽の事だの考えはじめると、またさらなる悪循環に陥るのは経験上分かっているので、手近にある文芸春秋などを読む。社会面などで面白い記事もないではないが、経済の特集となるとお手上げである。それでもわからないながら読み進める。 某月某日 会う人ごとに、次の新作はいつ出るのかと聞かれる。例の、オラシオ「エルネグロ」エルナンデス(DS)とカーロス・デル・プエルトとのピアノトリオに、ストリングスオーケストラをかぶせるという趣向のものだ。このWEBのニュースの欄にも情報を載せている。しかし、これがどうもアレンジャーの方が、四苦八苦しているようで、まだアレンジが完成しておらず。当初5月には新作発売の予定が、5月以降に遅れることになりそうである。このアレンジャーの方は大変優秀な人であり、仕事がであるからこそ時間がかかっていると思うのだが。今年9月には我が盟友、デンマーク人のキャスパー・トランバーグ(COR)を日本に呼んでツアーする計画もたてている。ほとんどの仕込みは終わり、後は先方の方で、ぼくの与えた情報を元に、スケジュールやらなんやらの調整をしているところである。ということで、色々なことを待っている身となってしまった。忍の一字というところか。急いては事を仕損じる。これらの事と同時進行で、次回のGOTHERE!ダブルコンサートに向けて曲も書いているが、これも、音が出るまでは、海の物とも山の物ともつかぬ。自信無気な言い方だが、だからこそ演奏自体が面白くなるのであって、あとはその新曲の割り振りを考慮するのみ。待つのも忙しさの内なのか。いずれにせよ、これら待っている事柄が、3月後半あたりから答えが出始めると、怒濤のような忙しさが襲ってくるのは間違いなし。どう切り抜けるか。じっと待つ身には想像もつかない。 某月某日 3月9(火)10日(水)と、我がメインのグループであるGO THERE が、見てのとおり連日演奏することとなった。9日は横浜DOLPHY,10日は、新宿PIT INNである。普通仕事をとる時は、ある意味で日にちのヴァランスを考えるようにしているが、今回はなぜか、ダブルコンサートとなってしまった。関東平野をツアーしているような感がある。違うのは、ホテルに泊まらないということと、終電を気にしなければならないとうことだ。DOLPHY, PIT INN共々、色々な思い入れや思い出のある場所である。ということは、双方とも長いあいだ新宿と横浜という場所で、頑として動かざる空間をミュージシャンに提供してきたということである。最近の横浜は、みなとみらい線が開通したこともあって、横浜湾側の方がいっそう華美に見えるようになってしまったが、ぼくが駆出しのころ、横浜という街は、いまよりももっと、一種独特な雰囲気を持っていて、その空気が残っているのは、じつはDOLPHYのある宮川町方面である。東京とは違う猥雑さのなかに、なにかしらどうしても横浜の地にしか持ち得ない息吹のようなものが、まだDOLPHYのまわりには残っている。ジャズクラブDOLPHYは板張りで、少なくともぼくが共演したことのあるサックス奏者は、マイクを通さずとも得られるアコウスティックな響きに、みな好感をよせている。サックスにかぎらず、他の楽器の音もよく通るスペースである。食べ物も美味しい。同じ曲をDOLPHY,PIT INN とも演奏することになるだろうが、ぼくの曲がある種の雰囲気をかもし出せても、ジャズクラブDOLPHY自体、またそのまわりの本当の「ヨコハマ」が持つ雰囲気は、創造し得ない。いわんや、その独特な雰囲気に包まれて、どう演奏が変化するか、当事者ながら、楽しみなぐらいである。連日同じ曲を演奏することになるとしても、演奏する場所、ピアノのコンディションなどなどで、当然我々の音楽に対するアプローチは自然に変化をする。ピットインといえば新宿と、一種季語のように、少なくともぼくの頭のなかでは自然と反響してしまうほど、この場所に対しての思い入れは深い。このクラブの住所は新宿区新宿であり、新宿という、この語感が示すジュクという響きが二つも入っている。自然と、新宿の奥の方のジュクジュクした粘った雰囲気が、このクラブに何かしらの影響をおよぼさないはずはない。極端なことをいえば、PIT INNが田園調布にあっては困るのである。新宿PIT INNの入り口にさしかかるまで、我々プレイヤーは、充分と、この新宿のジュクジュクした外周を目の当たりにしなければならず、田園調布駅からクラブの入り口をくぐるのとはまた違い、何かしら総身が無意識の内に毛羽だっていたりする。少なくともぼくはそうで、このジュクジュクの突端というところがまた、かっこいい音楽をやるには最高のロケーションなのではないだろうか。新宿PIT INNでのステージ、もしくは音響のことに今さら触れることもなかろう。日本のミュージシャンのみならず、あらゆる国のビッグスターが、このステージの上で名演をくり広げ、不肖南ヒロシもその一端を担っている、と言うか担わせてもらっている。うれしいことではないか。我がグループ、GO THEREも変革の時をむかえつつある。今回のダブルコンサートでは、できるだけ新曲でのぞみたいと思っている。偶発した連日の演奏の機会を、充実したものとしたい。 某月某日 先日、ピットインにおいて行われた「佐藤充彦トリオ」を聞きにいった。共演にはもう既にぼくの次回作のレコーディングにつきあってくれた、ドラマーのオラシオ・エルネグロ・エルナンデス、べーシストのカーロス・デル・プエルトと、斯界の達人佐藤氏の組み合わせである。これはぼくがいかに出無精でも、ドアのカギをそっとかけて外出するしかない組み合わせであろう。演奏は意外に落着いた雰囲気で行われていた。何も特別ぼかすかやらなくても、音楽は成立する、と前から思っていたが、その典型のような演奏だった。しかし締めるところはちゃんと締め、良いコンサートだった。やはりドラムのダイナミックスが音楽の要だと思った。世界は広いな大きいな。突然気が狂ったようなコメントだが、彼らの音のなかには、太陽を思いっきり浴びて育った光の栄養素のようなものがピカピカ光って見えるようなサウンドで、それは曲調がマイナーであろうがメージャーであろうが変わらない。実にステキな演奏だった。佐藤さんもうれしそうであった。我が血には、ワビサビとか、谷崎潤一郎の言うところの陰影礼讃とか、梅雨の時期の湿気とか、この国土に育った土壌から受けた何がしかの影響があり、怨念、恨み、心中、といった感情は、歌舞伎の土台で、我が祖先が、ほんの一世紀ほど前まで持っていた独特の感覚である。オラシオ、カルロスのあっけないぐらいに明るいサウンドに、ぼくの神経はぴりぴりとした。しかし、彼らのそのあっけない明るさの裏には、とてつもない郷愁がこもっていることも事実である。この共通点なくして、少なくとも、ぼくは彼らと共演することは無理だと思う。しかし、この郷愁は、日本のじめじめした風土がもたらす左記のような感覚とは対照的だ。「ヴエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」という映画で、初めてキューバという国の街並などを見た。オラシオ、カルロス共に元々キューバ出身だ。映画のなかに出てきた高齢のピアニスト、ルベーン・ゴンザレスの演奏や言動にも感動したが、いちばんぼくをひきつけたものは、キューバの街並と、その街路に短パンで立っている若い衆から子供、老人が、みな余裕の表情を見せ、何とはなしに一人云々に存在感があるというその事実だった。彼らのようなプレイヤーが母国を出て帰らないということは、それなりの事情があるのだろうが、基本的に、空気を吸って、この地球に生きているという観点からものを見れば、日本とキューバは、いったいどっちが豊かなんだろうか。のんびりするという観点と、物事の厳しさという観点が、まったく逆の世界なのではないだろうか。その観点から音楽を始めると、ピカピカサウンドの裏に郷愁を含んだ、誰をも感動させ納得させるサウンドができあがるのかもしれない。キューバに行ったことがないから、これはすべて憶測でしかないけれど。でもみ~んなジャズが好きということには変わりない。第三時世界大戦をおこす土台をつくりかねなかった国でもあったにもかかわらず。 某月某日 忙しく一日を終え、何とはなく菊地成孔氏のサイトを見たら、僕の好物が、テンプラ蕎麦というふうに書かれていた。そういう会話をいつかしたかなあと彼とのつきあいの長さをを思った。然もあれ、まさに好物のひとつはテンプラ蕎麦でである。注文が入ってからテンプラを揚げてだす店は高級店である.天麩羅をどんぶりに入れ、その場ではいよとだされたテンプラ蕎麦はさすがにころももがさくさくとしている。そばつゆにひたっていない部分とひたっている部分を競ぶれば、ちょっと汁につかっている部分から、口のなかに半分海老の天麩羅などをくわえこみ、もしゃもしゃと味わう。もちろん最初につゆをぐびっと口に含んで味わってから後の行ないである。つゆにひたっていた部分とそうでない部分が陶然と口のなかで混ざりあう。これがテンプラ蕎麦の第一の醍醐味。後七色を少しかけ、つゆ、蕎麦、つゆ、天麩羅の変型二拍子をかたくなに守らず連動させ、すかっと席を立った時の汗の状態により、季節感も肌で感じることができる。浅草某庵では、海老のしっぽがどんぶりから飛び出すぐらいでかく、また注文されてから天麩羅を揚げるのがうりの場所がある。ちょっと前まではわざわざそんなところまで足をのばしたものだが、最近は極度の出無精と多忙のため、食味紀行などというオツなことする時間すらない。ふたたび然もありなん、近所の蕎麦やでのベストワンを探す結果となる。海老の天麩羅意外に、ワカメなど添えてだす店があるが好きにはなれぬ。茄子の天麩羅がそえてあるぐらいなら許せる範囲だ。ひどいところになると、ころもばかりがばかにでかくて、なかの海老が四分の一に切られていたという蕎麦やもあった。ちゃんと海老のしっぽはついている。じゃあどうやって四等分するのか。しっぽも四で割ってンのかなあア、あいうソバヤは。やはりずぶとい海老が一本、かりかりのころもに包まれて出てくるのが理想である。僕が天麩羅好きとのたまった菊地成孔氏と、来る2月14日、横浜の老舗ジャズクラブ、AIREGINにてDUOで演奏する。テンプラ蕎麦好きと、正真正銘の味覚通の対決である。 某月某日 これは僕が銀座でピアノを弾いていた頃の話だ。銀座でピアノを弾き初めて1年ぐらいたつと,立ち振る舞いがその界隈の男達のそれと同じになって来る。クラブのユニフォームであるダブルのスーツも,入店が決まった時バンマスと近くのテーラーにいって新調したものだが,最初は全然似合わなかった。鏡に写った自分の姿を見て笑いをこらえていると,鏡の後ろでついて来たバンマスが爆笑していたほどだ。しかし一年もたつと,黒いエナメルの靴から,キンピカぼたんのダブルのスーツまで,体の一部のように着こなしている自分を見て唖然としてしまう。銀座通りから,日航ホテルの裏あたりにかけての一帯を,そのカッコでタバコを吸いながら,少しつま先を投げ出すようにして歩くと,もう立派な銀座のバンドマンである。話す言葉の語尾もはすっぱになり,太陽光線をあびているより,銀座界隈のネオンの明りをあびている時間の方が長くなる。誰もが僕を,近所のクラブのママを含めて,クラブRのピアノの先生として認知するようになっており,どこへ行っても「ハヨーゴザイマース」と一言いえば,大方の事はゆるされる状況が,その銀座一帯には用意されていた。その当時,ちょうど86’年から89’年頃,俗に言うバブルの絶頂期であり,銀座界隈は,それまでにまして大勢の人達で賑わっており,僕が後年住むことになるNYなどよりも,はるかにある種の活気に満ちていた。僕がピアノを弾いていたクラブRは,その中でもダントツに女の子の質がよく,料金も最高だった。最初は腰かけのつもりで銀座の世界に入った僕だったが,無意識の内に,妙なプライドが芽をだしていて,僕はこの界隈で最高の場所で演奏してるんだなどと思うこともしばしばあった。実際その界隈でしのいでいるミュージシャン達は,戦後はやったハワイアンからこの世界に入った人達が多く,音大出身で,少し深く音楽理論に長けているというだけの僕でさえ,ちやほやされてしまう土壌がそこにはもともとあったのだ。銀座の店で演奏する機会をえたのも,もう今は忘れてしまったが,誰かのサブで出かけて行ったのが最初であった。そのときに,その場所のバンマスにいたく気に入られて,ハコにはいる話が持ちあがったのだった。その当時僕は印刷やでバイトをしていたので,ピアノを弾いてお金をもらえるならと,二つ返事でOKをだしたのだが,半年ばかり後,同僚のべーシストがかけ持ちしている先の店のピアニストが倒れて,僕の所にもかけ持ちの話が舞い込んだのだった。そしてそのあたりから,僕の生活が180°変わりだした。実際普通のサラリーマンの月給の3倍稼ぐように成ると,いかにミュージシャンとは言え,最初のうちは目の色が変わる。しかし,マトモな神経の持ち主ならば,俺は本当にこのままでいいのかという,根本的な問題に突き当たる。逆に見て,銀座でかけ持ちをするようになると,これは外国に留学する資金をためるのも不可能では無いと言うことも見えてくる。だが,留学するためだという名目で日夜ピアノを弾いていても,鏡に写る自分の姿を見ていると,ユニフォームがやたらいたについてきて,タバコの吸い方まで,ミズっぽくなっている自分を見てまた唖然としてしまう。銀座一年目という時期は,そういう時期でもあったのだ。けっきょく銀座では,3年ばかりピアノを弾いていたのだが,時間がたつにつれて,自分の変化と現実の谷間での葛藤が増してくるのである。実際,我々の心の中には天使と悪魔が共存しているものだが,その当時,その二人が同時に僕自身に囁くのである。悪魔がこう言う。「なあ,もういいじゃんか,難しいこと考えなくてヨウ,好きなことやって,いっぱいお金がもらえて,毎週末普通の勤め人が食えないようなウマイもの食ってサア,何が問題あるんだよ。人生気楽に行こうぜ。」別に悪魔の声といっても,ある意味では真実なのである。思い悩んでいると、同時に天使の声も聞こえてくる。「あのね,音楽高校を半分放校のような形で追い出されて,小岩や松戸のキャバレーでしごかれて,六本木のスナックで弾くようになって,やっとここまで来たんじゃないの?ジャズが好きで,本物を見てみたい。アメリカの連中とセッションしたい。それには金がいる。そうして今までがんばってきたんじゃない?そうだからこそ,かけ持ちすることにOKして,ライブの仕事も自由に出来ない状況を自ら選んだのでしょう?ここでへこたれてはダメだよ。最後まで自分の目標を貫かないと。」僕はかろうじで,本当にぎりぎりのところで天使の言葉に耳を傾ける状態で,銀座の演奏仲間には秘密で,留学の準備をこつこつと進めて行った。申込書を送り,学生ヴィザの申請をし,身体検査を受け,アメリカ大使館に学生ヴィザのスタンプをもらいに行った。ボストンにあるバークリーから,入学の許可証が届いた時は,ポストの前で飛び上がって涙がでた。もう少しだ。もう少しだ。そんな日々が半年ばかり続いた。幸いにも,全ての準備が整った。飛行機のチケットも買い,渡米の日まで決定した。銀座でピアノを弾く後釜も探した。後は,銀座の人々に告白するのみと言う日がやってきた。僕の仕事の全般を,バンマスの内縁の妻の兄貴が仕切っていた。彼はとある団体の幹部であった。彼を裏切ることに成ることは百も承知で,ある日,銀座のミュージシャンのたまり場に成っているその名もボストンという喫茶店で,やめさせて下さいといった。兄貴は表情一つ変えず,「ギャラが少ないっていうんなら,はっきりいえよ。俺が店にかけやってやる。」と,思わずこちらが涙を流すような台詞をはいた。世話になって来たのは分かっている。留学できるのは全部この人達のおかげだというのも事実だ。僕にできることは,自分の気持ちを正直に相手に伝えることだけだった。「長い間,大枚のお金をいもらっておいて,こういうのもなんですが,僕は本物の音楽を,どうしても勉強したいんです。そのためにはアメリカにいって勉強してみたいのです。この場所で稼がせてもらったからこそこんなことを言えるということは,充分承知です。お願いです。僕にチャンスを下さい。」兄貴は,この世のものとは思われない,ものすごく恐い顔をした。周りの空気が凍りつきそうだった。僕は美味しそうなケーキが陳列されているショーウインドウに視線を落とした。そこにあるケーキは,全種類何度も食べたものばかりだった。しかも店につけて食べたものばかり。その当時はそういうことがゆるされていた。俺は本当に,どっぷりとこの世界に浸って生きて来たんだ,と瞬間的に思った。嫌なヤツにならなければ。「僕は,もう一度,自分の可能性を試してみたいんです。ここ銀座では,それができません。ぼくはやめます。代わりのピアノの人も探してあります。べーシストも彼の事は気に入っています。お願いです。アメリカに行かせて下さい。」新しいピアノの人が来るまで後一週間あった。針のむしろだった。最終日に喫茶店ボストンに呼び出された。顔見知りのミュージシャンが全員集まっていた。僕は,ぼこぼこにされることを覚悟していた。指だけは勘弁して下さいと言うつもりだった。兄貴がその真ん中に座っていた。「まあ座れよ。」と兄貴は言った。僕が座ると,懐から茶封筒を出して,テーブルの上においた。「何かの足しにしてくれよな。アメリカから帰って来たら,顔を出せ。」封筒の中を見ると,一万円札が10枚はいってた。とたんに涙がでてきた。銀座の皆様,お世話に成りました。10年以上前の話。 某月某日 先日、新宿ピットインにて演奏す。平日にもかかわらず、客席は8割方埋まった。うれしかった。すでに我がバンド、GO THERE !のレパートリーも半分は新しいものとなった。もっともっと作曲しなければならない。曲をつくるということ事体、練習や、人前で演奏するといった行為よりも、もっともっと深い部分で難しい行いである。イメージさえ明瞭ならば、あとは、それを譜面に書き表わすのみで事足りる。イメージがあるけれど、いざ書き出してみると、それが元のイメージと如実に異なったフィーリングのものになってしまうといったことも多々ある。元のイメージの原形を感知しているのは、全世界でぼくだけだから、これがぼくのイメージだ、というそぶりで自作を披露することも不可能ではない。しかし、そういう曲は、自然とある段階から演奏しなくなってきてしまう。逆にいえば、そのそぶりで事足りるようになることが、良いのか悪いのかぼくには判断しかねる課題でもある。なぜかといえば、そういう曲のほうが、お客さんの受けが良かったりする時もままあるからである。これは不思議なもので、このギャップの秘密を押さえることが、芸道に勤しむものの生き残りの術かもしれぬ。しかし作曲したぼく自身が、その状態に心から納得していないとすれば、それはそれでまたある意味問題であろう。これは音楽が好きとか嫌いとかそういう次元の話ではなく、ぼくの存在意義にかかわる問題だから、軽々しく考えたり演奏したりすることは少なくとも控えたいと思う。また。あまりまじめに考えすぎてもいけないというのもまた真理であって、こう考えてくると、音楽をすること事体が恐ろしくもなってくる。まあ、音楽を演奏すること以外にも、この世の中には恐ろしい物、出来事だらけで、それにくらべれば、ぼくの作曲に対する悩みなど、取るに足らぬママゴトめいたものであるのも事実で、実際ぼくの曲を聞いていきなり嘔吐したり、即死したりする者がいないのだから、自分を肯定するしかないのかもしれない、、、、、、閑話休題、落語が好きである。日本人に生まれて良かったと思えるのは、落語が楽しめることと、好きなテンプラ蕎麦が電話一本で出前可能というこの2点のみである。後は廃棄物がいずれこの国土を充満させ、にっちもさっちもいかなくなる時を待つのみになりそうでとても悲しい。アメリカに留学時、何とはなしのに持って行った落語のテープが大いにぼくの心を慰めてくれた。外は-20度にもなるボストンの冬は厳しく、練習を終わり部屋に帰ると、まず落語のテープを聞いた。ジャズのCDでもなく、いち早く選ぶのは落語のテープであった。三遊亭圓生、金馬、古今亭志ん生、林家三平、春風亭柳朝などがぼくの好きな落語家で、とくに春風亭柳朝の、端切れの良いテンポ感のある江戸前で生っ粋な語り口調には、ものすごく憧れた。どんな芸でも、うまい人は独特のグルーヴ感を持っており、落語も例外ではない。夜、仕事で疲れきっているような時は、落語のテープやCDを聞くのにかぎる。今年初めの三ヶ日のある日、新宿の末広亭に落語を聞きに出かけた。ぼくはあの建物が大好きで、新宿ピットインに行く道すがらでもあり、たまに演目を見るだけで通り過ぎてしまうのだが、三ヶ日ぐらいは生の落語を聞きたくなり出かけたのである。トリは重鎮、桂文治師匠の高座であった。題目は失念したが、梅毒になった殿様が鼻がもげ、しゃべりが鼻から空気がぬけてしまうので、滑稽きわまりない。だが、家臣に対しては、高圧的で無理な命令を出したりしていまだ家来を困らせる。しかもみな、殿様の語り口があまりにもこっけいなので、笑いをこらえての謁見である。ある意味当時の権力者を揶揄した内容で、我々のような現代人には古いネタのように思われがちだが、さにあらず。ぼくなどは笑い過ぎて涙が止まらなくて、三ケ日の最後の日を楽しませてくれたと いう満足感でいっぱいであった。しかもこのネタはテレビでは放送禁止だろう。しかし悲しいかな2月に入って、桂文治師匠の訃報を新聞で知った。おどろいた。あの1月の高座の時は元気に所作をまじえ、江戸落語の本道をおもしろおかしく語っていたあの人が急に亡くなるなんて。思えば、あの時の高座も、これが最後と必死だったのかもしれない。自分の病状を知りつつ、高座に上がられたのかもしれない。しかし、そういう不安げな態度はみじんも見せなかった。僕はただ客席でげたげた笑っていたのである。今から考えると、貴重な瞬間に立ち会わせてもらったんだなあという感慨もひとしおである。またひとつ、東京のかっこ良さを体現できる者がいなくなってしまった。前向きにものを考えるってったって、これから先、電化製品などの性能は良くなるかもしれないが、それは殺伐として茫漠な空間を暗に目に見えないなんらかの方法で、人と人の間に立ちはだかりるものとなるであろう。そこには梅毒で鼻のもげた殿様の入りこむ余地はないけれど、僕の肌に合う好きなものが、歯が一本一本抜けるがごとく過去のものになって行くというのは、まったく淋しいかぎりである。こんなことを思っている時点ですでに歳をとった証拠といわれればそれまでだが。曲づくりの困難さなど、あの文治師匠の話にくらべれば、何のことはない。少なくとも、息絶える一月前までは、本物であり続けたのだから。僕がやっている音楽は伝統芸能ではないが、文治師匠から見習うことは多々ある。客席にいるお客さんの全員を巻き込み、染み入るような話っぷりであった。すごいと思った。 某月某日 あっという間に1月も半ばを過ぎ、昨年から計画していた、2004年,HIROSHI MINAMI 大飛躍計画を練るという計画が遅々として進まず。風邪をひいたりだらだらしていたのがその原因だが、それがなぜ進まないかを考える計画をたてたら、その計画も計画倒れとなり、何か歯車のあわない感じ。誇大妄想にならずにすんだ代わりに、昨年まで積み上げてきた色々なことを、新鮮さを加味して再起動することもできなくなった。一年の計は元旦にありというが、もう中旬すぎであり、今からでも遅くはないと自分に言い聞かせて、何かまわりの人全員にべネフィットが行き渡るような良い計画はないかと、考えられるようになったのがごく最近だ。しかし、深夜、運動不足のために毎日散歩をしていたら、それが元で2回目の風邪をひき、近くの街医者に行くと、その医者は、南さんは運が悪いようだねえ、とにやにやしながら見覚えのある薬を白い袋にいれつつ、安静にね、安静に、といった。だが、その日の晩はちょうど吉祥寺サムタイムで演奏する日であり、安静もヘッタクレもない。しかもサムタイムは3sets,つまり3回演奏しなければならない。薬を飲むためのような食事をして吉祥寺にて演奏。これが不思議なのだが、演奏中ハナが垂れたり、咳が出たりしないのだ。元来不器用だから、何かに集中しだすと、風邪の症状はいったん体内のどこなんだか奥の方に引っ込んでしまうのか。演奏後、かなり汗をかいていたりして、ああ、これで風邪の毒素もでたでた。はな垂れ、咳の症状もなく頭も重くない。よしナオッタと思って明日目覚めると、また風邪ひきの症状にもどっている。ひつこい風邪だ。この新種の風邪が、治ったんだか治らないのかさっぱり良くわからないという状態が続いた後、やっとどうにか体が軽くなってきたと思ったら、YOKOHAMA MOTION BLUE で2DAYSの仕事がはじまった。仕事の質と興奮度数30%、新しい試み、そしてそれによって生じるほんとの意味での一発勝負度数40%、この40+残りの30%は、まったく違う環境で自分をどう出すか、どうするのか考察するエネルギー度数という割り振りで、2DAYSの演奏をのりきった。初日はパードン木村、水谷浩章、藤井信雄菊地成孔の5人編成で、我々の演奏を瞬間瞬間パードン氏が音をDUBして行くという趣向。我々ステージで演奏している者には、モニタースピーカーの音しか聞こえない。客席に向いたスピーカーから、我々の演奏をDUBしたものが流れ出る。ということは、演奏者と観客が同時に同じ音を聞いていないことを意味する。この試みに参加するのは二回目で、一回目はこのアイデアと趣向をまったく理解しておらず、戸惑いのうちに演奏が終わってしまった感が強かったが、今回は、逆にさらなるこの試みの可能性さえ予感してしまうほどだった。もちろんこの音楽をプロデュースしたのは菊地成孔氏であり、演奏曲目、またそのアレンジも彼の手によるものだ。アコウスティックな音を総括して機械類がそれを変化させる。これはバンドのなかにキーボ-ドを導入して新しいサウンドを想像しようという試みとは大きく違う。今までぼくが携わってきた音楽のやり方に風穴をあけられた感じだ。菊地君の頭脳に乾杯といいたいところだ。変わって2日めは、菊地氏とぼくのサック&ピアノのでのデュオである。前日と打って変わってかぎりなくアコウスティックに近い状態でサウンドチェックをし、演奏に臨んだ。またこれがMOTIONBLUEに置いてあるピアノがスタインウエイの極上もンで、普段からあまりよいピアノに恵まれていないぼくにとっては、夢のような幸せ。しかし、菊地氏がデュオ用に用意してきた曲がこれまた何と、エリントン、ストレイホーン、ミンガスなどの曲ばかりで、あまりにもいい曲なばかりに、あまりにもコード進行その他が難しく、一瞬あっと思った。愛するメロディーばかりであるが、しかしやるしかあるまい。幸せは、つらいこととの裏返しにできてるもんなんだなあ。とつくづく思っていたら演奏時間だ。鍵盤に触れてみるとさすがに上物の気配、音を出すときれいに倍音が中を舞い、この楽器でできないことなんかあるはずないと、菊地氏と二人で、お互いをよく聞きあったり、わざと無視して違う方向にいってみたり、曲とぜんぜん関係ないコードをはさんだり、一番単純なハーモニーを提示してみたり。そういうことがうまくからみ合ってくると、あまり曲の難易差なんて関係がなくなってきてしまう。1時間をたっぷり過ぎるSETを2回、クールダウンのため演奏終了後、バーコーナーにてハイボールを作ってもらう。横浜でハイボールなんてちょっとスカシテンな。帰途はワリカンでタクシーにて。我々の住居は、近所である。タクシー運転手さんのぜんぜん分からない業界の話など菊地氏としゃべりながら第3京浜を突っ走り帰る。 某月某日 冬の一日。不思議にこれといってやることのない日であった。一日中ピアノを弾いたりしていた。良い曲が一曲できた。部屋にこもりっぱなしでは体に悪かろうと駅前の本屋に行き、田中小実昌著「田中小実昌エッセイコレクション6、自伝」を購入。缶詰カレーの夕食を終え、早速読んだらコレがまたひっくり返るほど面白い本で、気分良し。食後少し練習し、夜、いろんなところに電話をかけて仕事の算段をつける。時計を見ると12時をまわっていたが散歩に出ることとす。このままでは本当に運動不足だ。外の新鮮な空気を吸いながら歩く。ふと空を見上げると星が綺麗だ。「 TURN OUT THE STARS」という曲がある。不世出のピアニスト、ビル・エヴァンスの曲だ。そのメロディーを思い出しながら、東京の星空を眺めつつ散歩する。そういえば、「TURN OUT」とはどういう熟語なのだろうか。思った途端意味が知りたくなり、近道をして散歩を終了。辞書でしらべてみた。とある辞書にはこうある。「TURN OUT」 (せん・スイッチをひねって)止める, 消す; 裏返す, からにする, あける; (大挙して)出る, 集まる, 外出[出勤]する; 繰り出す; 結果が…となる, …だと判明する ((to be; that));… >>>

霊園

某月某日 12月に入り、少し時間があいたので、両親と墓参りに行くこととす。僕の父親は京都出身で、自然と新幹線に乗ることとなる。父はもう引退の身だが、前の職業が、会議をプロデュースしたり、人と人とを紹介し、その間を取り持つこと、また科学関連の雑誌の編集などをしており、つまりだんどり通りに物事を運ぶことを長年職業としてきた人だ。だから、だんどり通り物事がたち行かないと、きげんが悪くなるのである。にもかかわらず、墓参りの前日、吉祥寺サムタイムで演奏し、帰宅後三日間におよぶ旅の支度をして寝たら、見事に両親と東京駅での集合時間に遅れ、すべり出しから父親の機嫌をそこねてしまった。父親にとっては、午前10時など、僕の体内時計と比較すると午後3時くらいの感覚なのだろうが、寝坊したことには変わりない。墓参りの前に行くはずだった京都の某寿司屋に1時間遅れでなんとか到着。そこの寿司屋は、かの有名な、池波正太郎氏が絶賛したという曰く付きのところであり、おそるおそるその寿司屋の扉をガラガラッと開けてみると、そこの寿司ネタが大いに気に入った様子の父は、大変御満悦で、まずはすくわれた気分。カウンター6席ほどの小さな場所だが、実はこの場所、池波正太郎氏の食味エッセイに書いてあったものを、僕が両親に教えておいたのものである。独りでススッとこういう店に入れるほど、まだ僕には度胸が無いので、ある意味両親をダシに使ったわけである。本当の意味での不肖の息子だ。出てくるネタは近海ものばかりで、その寿司を握る技も驚嘆に値する。江戸前とはまた違う作法と味付けによって、いわゆる「仕事」の施されたネタが絶妙のタイミングで握られて出る。マグロなど、いままで食べたことのない歯触りで、筋がしっかりとマグロの芯の部分を押さえてい、しかもトロッとして噛みにくいということはとはない。絶品の握りである。一通りの寿司ネタに加え、魚のネタは何だか忘れてしまったが、その握りに千枚漬けを巻き付け、昆布で形を整えたオリジナルのものは、またその冷たい千枚漬けの舌触りと、中のネタ、酢飯のヴァランスが新鮮んな驚きをも喚起する味わいで、今年の疲れもこのひとにぎりの寿司によって吹っ飛ぶかと思われたくらいであった。最後に出されたゆで卵の中身を海老のおぼろと黄身をまぜ、ゆで卵のからっぽになった部分に酢飯とともにそれを握りこんだものが出た。口直しにもよし。しかもさっぱりとしており、外側の白身が、ちょうど我々の満腹感にふたをする形となり一巡り終わった。すばらしい食後感である。あまりにもうまかったので、頭がぼーっとして、店に荷物をおいたまま外に出てしまうていたらくであった。後、そのまま京都寺町にあるお寺に墓参りをしに行く。その某寺のまわりは、これはもうなんとも言えずごたごたとしており、ピンクサロンやらキャバレーやらポルノ映画館やらがひしめき合っている場所の中に、ぽつねんと我が先祖の眠る墓がある。お寺自体が、浮き世の喧噪に囲まれて建っているのである。これでは御先祖様方も、死してなお、さぞかし騒がしい思いをなさっておられるのであろうなと罰当たりなことを思った。そのお寺の囲いの向こう側は某デパートの裏の壁で、なんとも圧迫感のあるやるせない雰囲気をもかもし出してもいる。とにかく両親と三人で、お墓にお水をかけて浄め、花を飾り、お線香を立て、三人三様ここは神妙に手を合わせる。お寺の方に挨拶をすませ外に出る。そこから錦、新京極、四条河原町、先斗町と夕暮れの中を三人でふらふらと散歩。あまりの街の風情の変わり様に、この界隈で生まれ育った父は、ただただ目を見張るばかり。これはむちゃくちゃやなーを独り言のように連発しながら、独り先を歩く。齢80才を超し、ステッキをついているにもかかわらず、ちょっと目を離すとあらぬ方向にずんずん歩いていってしまう。父の頭の中には、ちゃんと父なりのだんどりがあるのだろうが、耳も遠くなった父は、こちらの質問にはただ馬耳東風で、僕と母親は、いつもおいてけぼりで、ただただ父の後から追い掛けるようについて行くというのが、今回の散歩の形態である。父の複雑な心境と、せまい路地をくねくねと歩きまわる父の気持ちは、僕でさえ、まあ十分の一ぐらいは分かっているつもりでいる。子供の頃、夏休みといえば、新橋の母方の祖母の家に行くか、京都に行くかしか選択はなかった。父には、キャンプに行ったり、ドライブ、ゴルフといった趣味はなく、休暇といえば京都の親戚に会いに行くことであった。小学生にもならない時分から、この界隈は、ぼく自身も、もうこの世にはいない叔母やら叔父やらにつれられて歩いた場所であり、高瀬川は、枝垂れ柳が微妙なる木屋町の提灯の明かりがおぼろげに写し出されるかわいらしい水の流れを呈した川だった。歴史と大人が同居する界隈でもあった。今はまあ、何というか、ギンギンギラギラの新宿と大差がないような気がしてならぬ。まあ、たまに来て文句をつけられたら、その界隈で商売をしている人達に失礼というものだろう。皆必死に時代の流れとともに変化を余儀なくされているわけだから。しかし、その考え方を包容しつつも、父の複雑な心境とある意味での落胆は、親子だからこそわかる何かしらのテレパシーのように僕に伝わってくるのであった。前にも書いたように、せっかちでだんどり優先の父であるから、歩くとなると、自然父の後ろ姿を見る機会の方が多い。僕などよりも健脚なのはけっこうだが、その後ろ姿に一抹の淋しさを漂わせていたのを、僕は忘れることはできない。人間にとって故郷というものは、理屈抜きで大切なものなのであろう。 某月某日 京都二日め、朝8時起床という異常事態。既に父はホテルのロビーにて、本日のだんどりを敢行する体勢。早起きにも、午前中歩くということ事態にも慣れぬ不肖の息子は、ただただ棒立ちの状態。ホテルを出て、だんどり通り、有名な京都のEカフェにて朝食。ここもかの池波正太郎氏が愛でた場所なり。京都人なら知らぬもの無しの場所。本日これからのだんどりは、最後の紅葉シーズンを逃さぬという主題の中に、なるべく多くの紅葉スポットを日没までできる限り歩き回るという副題が縦走する。縦走といっても歩くのだが。とにかくEカフェを後に出発。まずは清水寺へ。父の知る秘密の坂道から本流の坂道へと合流する。秘密の坂道には、修学旅行や、おばさんの団体が居ないのである。しかし最後にはその本流に流れ込まないと、清水寺にはたどり着けない。昨日と同じく、父は、ステッキをふりながら我々の遥か先を歩いて行く。父の頭の中には、ぼくの想像し得ぬあまたなる思い出や感慨があるだろうから、それを邪魔しないように、後ろからそっとついて行くことにする。しかし母の方は、何かと土産物屋の方にも目が行き立ち止まることが多く、ぼくは両親のつなぎ目役として、二人の間がはぐれぬよう手をふったり、止まれの合図を父の方に送ってみたり、何だかわけのわからぬ役回りが自然にできあがってしまった。母が不定期的に土産物屋をのぞくという行為は、父のだんどりの中には無かったと見えて、ぼくはとにかく、父のだんどりと、母の購買意欲に挟まれつつ、景色を見、紅葉を楽しむことも忘れないように歩いた。たまの休日もやることは忙しい。清水寺の坂の途中にあったお菓子屋だったか布地を扱う店だったかが消えてなくなっており、そこがまた古くからその場所で商いをしていたこともあって、父の悲観の種がまたひとつ増えてしまった。ああ、やっぱりなくなっとるわい。この場所に間違いないんや。どうしたのかなあと父は淋し気な目つきで、その影も形もなくなってしまった過去の記憶の像と現実の店とを頭の中で見比べて、目を細め、なぜか薄笑いを浮かべている。人間は、ほろっと悲しくなった時は苦笑せざるを得ないのかもしれぬ。とにかく清水の舞台へ上がる。最後の紅葉シーズンである。もうほんとにギリギリの。木々にはまだ葉っぱはぶら下がってはいるが、その地面も既に赤い絨毯だ。しかし天気には恵まれて、この時期の京都にしては暖かい気温でもある。しかし、だからといって、気ままに休日を過ごすという気分には成れない。とにかく父の頭の中に描くだんどりにそって行動していかなければならぬ。清水寺を後にし、坂を下りて八坂神社を通り抜け、平安神宮前に移動。これはさすがにタクシーを使う。父の姪、ぼくの従姉妹にあたるひとが、この神宮前でレストランをやっている。そこで昼食と休憩をするというのが父のだんどりである。その従姉妹は、東京の女学校に通うため、一時ぼくが小学生の時、東京のアパートで同居したことがある人である。ばりばりの京都弁が、父とその従姉妹の間を飛び交った日々でもあった。父は東京の大学に入るため若くして京都を離れたため、ぼくが生まれてからこの方、いわゆる東京の言葉を家庭の中では使っていた。例外は、まず京都の親戚から電話がかかってきた時と、阪神タイガースをテレビ観戦する時だけであった。しかし従姉妹が同居するようになり、京都弁を使う頻度が格段に増し、ぼくは小さいながら目を白黒させた思い出がある。表現が相手に直に突き刺さるような言い回しがあるかと思えば、何か思わせぶりな、裏になにか魂胆ありげな表現を微妙な頻度で織りまぜてしゃべるのが京都弁の特徴のような気がする。しかし、音声が全体的にソフトなため、耳触りが良いし、美しくもある。京都弁を女性に例えれば、実際女性的な言葉でもあるが、ファム・ファタールそのものだ。なんだかんだ言って言葉の歴史の長さが違うのである。加えて、四季折々の楽しみがこれだけ多様な街も珍しい。食べ物も、長い間の叡智により磨きがかかったものが多くある。妙な自負心など必要のない文化が京都にはあるのではないだろうか。そういった四季折々の出来事や味覚を、すべて直な言葉で表現するのは不可能だし格好が悪い。京都弁はそういったことを絶妙に表現するために練り上げられたひとつの日本語の姿のような気がする。従姉妹と父の会話をそのレストランで聞いていてそういったことを思い出したり考えたりした。楽しいひとときであった。後、さすがに再度タクシーにて、真如堂というお寺に移動。紅葉の名所らしい。ここからが父のだんどりというより、行軍と言った方が適切な紅葉めぐりがはじまった。真如堂から会津藩士のお墓がたくさんある細い山道を抜け、黒谷金戒光明寺へ、最後の紅葉を左右に見ながら歩く。京都は何度行っても、知らないお寺や場所がひしめいていて、歴史的風景の褪せない場所だ。先斗町界隈は変わっても、このあたりの山すそにある寺社は長い間変わっていないのであろうし、これからも変わらないのであろう。司馬遼太郎の本をいくつも読んではいるが、この会津藩士の墓が、いつどういう戦いによって死した者達を葬ったものかが、かいもく見当がつかない。いずれにせよ、その場所は静かで、100%日本的で、120%京都的で、150%の哀愁を漂わせる霊妙なる地であった。両親ともなにかしらを感じているらしく、さすがの父も、もう名前など読めなくなっている墓標をまんじりともせずに眺め入ったりしている。父のだんどり行軍を差し止める何かがその地には在ったと言うことだ。三者三様なぜだかしんみりとしたまま、哲学の道を目指す。ここで父の記憶が曖昧になってくる。長年訪れていない故郷の道筋は、父の記憶に在るものとは違って見えるようで、途中、人に道を聞きながら歩く。光明寺からかなりの距離を歩いて、やっと哲学の道なる場所にたどり着いた。ここもギリギリだが紅葉がすばらしくきれいで、まあ、年に一回こういう時間があっても良いなという気分となる。ぼくの仕事は、東京を離れること即ツアーという職業である。実際、前の晩は、早々にホテルに引き上げて午後10時ぐらいに風呂には入ったりしたのだが、何だか落着かない。自分の家以外の場所で、午後のこの時間に風呂に入っているということはめったにない。体がもうそうできあがってしまっているのであろうか。午後10時で東京に居ないとなれば、それは演奏をしている時間を意味する。という意味で昨晩はあまりくつろげなかったが、さすがに京都二日めの午後になってから、体が休暇モードに入ってきたもようだ。身銭をきって新幹線に乗るのも久しい。とにかく、哲学の道から永観堂というこれまた紅葉で有名なお寺に行くというのが父のだんどりであり、ぼくと母親はその父の後をついて行く。かなり長く歩いた。この時点で父のだんどりが少し崩れた。というのも、哲学の道に行くのに時間をくったため、永観堂は閉まっていた。来るのが遅過ぎた。ぼくはもうじゅうぶん紅葉を楽しんでいたので、永観堂だかなんだかが閉まっていても別段何も感じなかったが、父は残念そうである。母は足が痛いと言出し、父は最初のだんどりが外れたので次のだんどりを模索中。三人で道ばたに突っ立ってああでもないこうでもないと言い合う。らちがあかないので、ぼくがかってに偶然通りかかったタクシーをとめ、両親をその中に押し込んでしまった。とにかくまた四条河原町の方にと運転手にいう。この界隈に戻れば、だんどりがつかずとも、何かしらの方策は立つとみたからだ。思ったとおり、祇園を散策の後、父の良く知る京都風居酒屋に入る。今晩は昨晩のごとく午後10時にホテルにて入浴する気はない。やはりそわそわしてしまうだろうことは予測していたからだ。ちょうどその日の夜は、大阪に住むトランぺッターのM君が京都の音楽学校に教えに来ている日であることを、携帯電話にて確認済みであった。両親は午後10時頃寝てしまう。いくら朝から歩き通しとは言え昨晩のようにホテルでそわそわするのはごめん被りたい。両親と少し飲んで食事をした後、M君の教えている学校に行く手筈をしていたのであった。その旨両親に伝え単独行動。なんとM君が教えているその学校は、お墓参りをしたお寺の真ん前の道を30メートルほど行ったポルノ映画館の真ん前にあった。これには御先祖様もびっくりであろう。久しぶりに会うM君とその学校が経営する喫茶店にて談笑。お互いの情報交換をする。喫茶店にはヴォ-カルの先生とその生徒の女の子もくつろいでおり、M君の進言でセッションをすることになる。音楽から離れていたのは一日半であった。やはりこういう成りゆきの人生の過ごし方、時間の過ごし方しかぼくはできないようになっているようである。御先祖様が眠るお寺から30メートル離れた場所で、ヴォ-カル、ピアノ、トランペットによる演奏がはじまった。スタンダードなどたくさん弾き、大汗をかいたら、酔いがいっぺんに醒めてしまった。またまたM君の進言で、皆で近くのジャズクラブに遊びに行こうということになった。このパターンは、もう既に休暇でも墓参りでもなく、東京や、色々な区々の夜にくりひろげてきた百鬼夜行の日々の再開である。そのジャズクラブは、ビルの地下の駐車場わきにあり、なんだか秘密の隠れ家を思わせるかっこいいところで、中ではピアノトリオがシブイ演奏を繰りひろげていた。大汗をかいて生酔い状態だったので、ハイボールをがんがん飲んだら、急に酔いがまわり、いつもの夜の、いつもの調子になり、そわそわしなくなり、トリオの演奏が終わればイエーといいつつ拍手をし、しかも遊んでいって下さいなどといわれて一曲弾かせてもらって、良い気分になって、またウイスキーを飲んで、へらへらしていたら夜も12時近くになっていた。京都弁で言うところのアホである。この先はもう全国区的、全世界的規模でぼくがしてきたことと同じことを京都でしたまでである。つまり飲んだのである。飲みながら考えた。こんなにたくさんの寺社があるこの地で、何で俺は他の場所でしてきた事と同じ事しかできないのであろうかと。そしてさらに考えた。こんなにたくさん寺社があっても、結局それらが建てられた後々、我々人間はちっとも変わっていないじゃないかと。ではあの寺社は何のために存在するのか。我々親子は墓参りと言う、美しい行ないをした。しかる後、色々な寺社を訪れたが、それは紅葉を見るためであり、それら寺社が建てられた意義、その後もそれらが大切に残されているという存在意義さえ考えなかった。少なくとも俺は考えなかった。これは人間として自堕落なやはりアホな行いなんだと思うと、酒をおかわりしたくなって、何だかわけがわからなくなってきて、ホテルに帰り寝た。翌朝も父のだんどりは朝食をEカフェで三人で再度食べるということであった。もちろんぼくはその朝ひどい二日酔いであり、8時どころか11時のチェックアウトもギリギリというテイタラクで、ロビーにて再会した父の目は逆三角形になっていた。だんどりどころか、それ以前の父の意志をもめちゃめちゃにした、しかも自分の分身である息子という存在に対する怒りで、ロビーの温度さえ上がりそうな怒気が、父からは立ち上っていた。ぼくはアホである。と同時に、11時までになんとか荷物をまとめてロビーに現れたのだから、いいではないかという言い訳がましい発想が頭の中によぎったが、父には目でごめんねというつもりでもう一度顔を見たら、父はもう冷静になっており、次のだんどりを模索中のようであった。さすがに大人だ。とにかく最低の気分を引きずりつつ、地下鉄に乗って東福寺の紅葉を見に行く。とにかく無理に歩いて水を飲んでいたら、気分もだんだん良くなってきた。父も冷静である。昨日の夕方までと同じ休暇モードのまた体が変身す。二日酔いで何も食べておらず、頭もぼーっとしているので、昨晩考えた、寺社の存在意義云々はもうイイじゃないかという気分になっていた。あ~きれいきれい、紅葉がきれい。ああ~今日もお天気で良かった。両親も機嫌がなおった様子。ああよかったよかったと、こんどはまた徒歩で東福寺から三十三間堂へと移動。ここの場所ではものすごい衝撃を受けた。ものすごい衝撃、ものすごい衝撃、ものすごい衝撃!!クレイジーである。ファンキーである。SF的である。人間捨てたもんじゃないと思わせてくれるヴァイブレーションがいっぱい。それがぼくにとっての三十三間堂だった。あらゆる寺社の中でもここは格別にヤバい。昨夜のネガティブな発想が全部吹っ飛んだ。手作りの怨念のこもった3D、なんでこんなにいっぱい手が生えてンだ!パンフレットによると、40本の手と11コの顔を持った観音立像が1001体並んでいるのだという。手が40本あったらどんなピアノが弾けるっていうんだ?そう考えると気が狂いそうだ。ファンキーさも極めを知らずといったところだ。最高に最高にかっこいい空間だ。しかもその観音立像の前に、28体の仏像が並んでいて、その中にはドラマーとギタリストまでいやがる!!けへースゲエ、日本人万歳、人間万歳だ。各々仏像の詳しい名前は難しいから今は忘れてしまったが、それぞれインドのゾロアスター教などの言葉を漢字に無理やりあてはめたものが多くあった。とにかくだ、すげえインターナショナルじゃないか。すごい発想の広がりじゃないか!俺は三十三間堂を二週した。二週目はもっとこまごまとしたところも見えた。その細かいところは文章にできない。文字では著せない、とにかく脳みそとハートを直撃するスーパーキックのような力がぼくの体を刺しつらぬいた。とにかくクレージーな物事が究極となると静謐な空間が生まれるということだ。物凄いのに静謐。対極の一致。ぼくも音楽をやるんだったらここまで狂って静謐になってみたいもんだ。でも多分そう成るには、40本の手が生えてこないとできないだろう。いまから、この俺の体から、40本の手が生えてきたら多分演奏する前に発狂してしまうだろうけれど。まあそれもよかろう。//帰りの新幹線でも、三十三間堂の衝撃は消えず。ショックをやわらげるという名目でビールを飲む。となりの席では父も飲んでいる。さすがに両親とも疲れた様子だ。東京から京都へ行くのに要する時間は2時間半前後である。便利だなと思うと同時に、早すぎるなとも思う。父の帰郷の際、そう、ぼくが小学生のころから新幹線で京都へ行っていた。あの頃は4時間ぐらいかかったような記憶がある。ビュッフェと称するレストランが、ちょうど列車のまん中あたりにあって、窓の外の風景を見ながら、チキンライスのようなものを父と食べたような思いでもある。各列車には、速度計がついていたような記憶もある。小学生低学年のぼくにとって、当時新幹線に乗るということは、夢のような出来事だったのである。そしてその速度計が200キロを超えるのを見て、ひじょうに興奮したような記憶まである。子供ながらに、自分は今、250キロで移動しているのだという夢のような実感があったのである。今は、残念ながら、新幹線に乗っていても、何の感慨もわかない。この東京から京都までの所要時間が、近い将来2時間半前後より短くなると、京都に行くという心の準備ができないうちに京都に着いてしまうような気がしてならない。京都というところは、ぼくにとって、心の異次元であって欲しいのだ。異次元に行くには、ある程度の物理的時間差と、そこへ行く心構えをする時間も必要だ。東京から鎌倉まで横須賀線で遊びに行くのとはまた違った時間差がぼくには必要だということだ。贅沢な発想であることは百も承知ではあるが。いずれにせよ、時は進む。これは誰にも止められないし、どうしようもない事だ。回顧主義的発想で物事をとらえるにも、限度というものをしっかり設定していなくては、悲しくなるばかりである。善し悪しは未来の人々が決めることと発想を転換しひろげなければならぬ。いずれにせよ、また近い将来、ぼくは京都に墓参りに行くのである。 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前日の夜から微熱

某月某日 さて、どこから日記を書き足せばいいのかわからないぐらい、色々な事柄が、11月末までに、数珠つなぎに起きて、まずそれを順を追って整理せねばならない。11月の第四週に、我がGO THEREのメンバーと共に、甲府、名古屋と短いツアーに出かけた。ツアーに出かける前日の夜から微熱を発し、これはぼくにとって大変に珍しいことで、だから逆に微熱であっても、熱を出し慣れていないので、なんだか大事のような気がして、しかも短いとはいえ明日からは演奏旅行である。意気消沈。不思議と風邪の症状である、喉の痛み、咳鼻水などは出ず、ただ体がだるいのと、関節が痛むのみ。要するに疲労しているのだろう。微熱でも、調子が悪いと、頭の中の発想も悪いことばかり考えてしまって、悪循環である。翌朝、甲府に向かい出発。集合場所のピットインに行く。バンドリーダーだから、皆の様子に気を配らねばならない。しかしこちらも微熱を発しているので、本調子でない。あまりよくないすべり出し。とにかく移動しなければならぬ。体調がどうあれ今晩は最高の演奏を甲府のクラブ「KIPS」で披露しなければならない。そうでないとこの僕の存在意義自体がなくなる。甲府のホテルに到着後、演奏開始。演奏で汗が出て体が軽くなる。風邪や体調不良は演奏によって治るということか。お客さんが楽しそうに我々の演奏を聞いている。この瞬間が一番良いモーメントである。とにかくアンコールをいただくまで演奏し、軽い打ち上げ。甲府には、元ピットインのマネージャーであられたT氏がおられる。僕がピットインの朝の部や昼の部に出ていた頃、夜の部に君臨しておられた、我々ミュージシャンの虎風荘寮長のような方である。そのT氏がサウンドチェックから終演まで我々GO THEREに張り付き、色々と面倒を見て下さった。何とありがたい。体の事がどうとか言っていられない。しかも、リーダーがショボッとしていると、ほかのメンバーにもその雰囲気が伝わってしまう。水谷浩章(b)芳垣安洋(ds)竹野昌邦(sax),それぞれが我がグループのみならず、各々のグループや、色々なシーンで、多角的に活躍する百戦錬磨の頼もしい面々であるから、グループの屋台骨が、僕の体調によって崩れ去るということはないにしても、リーダーが元気であって悪いことはひとつもない。この夜はホテルでの入浴は避け、熱いタオルで体を拭き就寝。 某月某日 甲府から名古屋に移動。我がGO THEREの面々、まったく頼もしいメンバー達である。水谷氏は、度外れた精神力と体力を有し、演奏中も含め、全ての行動において、要所要所一番大切なところを外さない知性と洞察力を持ったべーシストである。竹野氏は、その豪快な性格で、いつもグループをもり立ててくれる。しかしその豪快な行動に反して、サックスの音色はひじょうに美しく繊細で、特にソプラノサックスの音色は、彼の独壇場であろう。僕はいつも彼のソプラノの音をイメージしながら作曲をしているくらいだ。彼は、水谷氏、芳垣氏も同じく、ツアーの経験がぼく以上にあるので、移動中のぼくは、まったくたよりない存在となってしまう。移動はほとんど自動車で行われるが、毎日仕事で運転している水谷氏と竹野氏のドライヴィングテクニックは、相当なものであり、ぼくはほとんど運転席には座らない。全ておまかせ状態だ。そこに、ふっと見ると強面でもある芳垣氏が加わる。グループ内ではアニキと慕われている。慕われるに充分な底なしのやさしさをアニキは持っている。当然の事ながら、音楽の事は非常に詳しく、しかもマニア的でない観点から、その音楽の一番よい核のような部分を、瞬時に感知し、それを自らの演奏に即順応させることができる、やはり知性と洞察力を持った人物である。ぼくにとってはもったいないくらいの、満艦飾の面々である。だから微熱がどうのなどと言ってはいられないのだが。本日は名古屋のクラブ「JAZZ IN LOVELY」での演奏である。あらゆるスターがこの店を愛し、巣立っていった歴史ある演奏場所で、ここでも下手なことをすることは許されないのである。名古屋のホテルに到着後少し休憩、シャワーを浴びてしまう。今回のツアーは二回だけの演奏で今晩が最後だから、演奏後体がどうなろうとどうでもよろしい。まず風邪なのか疲労なのかわからねど、汗を流すこととした。これが裏目に出て、体にさらなる悪寒が走り、気分的にも絶不調の域にはいってきてしまった。しかし、そ知らぬ顔でサウンドチェックをこなし、またホテルにてしばしの休憩。この休憩時間から演奏時間までのぼくのホテルの部屋で何が起こったかについては、ここでは割愛する。人間、どんなに根性と気合いを持ち合わせていても、絶対勝てない二種類の発作がある。その二種類の発作を演奏時間までに鎮めなければならない。しかし、鎮めなければと言う発想があまりにも先行すると、心理的に焦りというもうひとつの厄介な精神状態を招く。気持ちを演奏に向けて前へ前へ押し進めようという精神状態は由としても、それが焦りとか、微熱による最悪な状態を想像する段階になってしまうと、どこも見栄えが同じに出来ているビジネスホテルの一室で、悶々と時を過ごすはめに陥る。とにかく、現地集合なので、ホテルから歩いて10分ほどの距離にあるラヴリ-に向かおうとするとふらふらっとした。これもぼくにとっては珍しことで、綺麗なおネイサンが目前に現れないかぎり、普通はこういう状態にはならない。タクシーをとめる。一方通行が多いので歩いた方が早い場所に、少し遅れて到着す。開演8時ということだったが、15分ほど時間を押しての演奏とのこと、ラヴリ-のマネージャーから言い渡される。何でも12件の予約がはいっており、ぼくが遅れてラヴリ-に入った時点で、客席は満杯であった。何たる僥倖。しかしこのぼくときたら、荷物や譜面をいれたリュックサックの中身をいきなり床に落としてしまったり、とにかくやること成すことに一貫性を欠いていた。これではいかんなあと思いつつ演奏時間となる。調子が悪くてもピアノの前に座ると、ぼくの体の奥底から、何か得体のしれない意欲とエナジーのようなものがふつふつと湧いてくる。我々の演奏に対し、お客さんはものすごい集中度で聞き入ってくれている。それっと勢いよく次々に曲を演奏し、無事最初のセットが終了。店内を見渡すと、何と、ジャズ界では知らぬものなしの、あの綾戸智絵をメジャーに押し上げた人物、U氏が見にきていた。嬉しいことに、盛んに演奏を誉めて下さった。こうなれば、体調がどうとか言ってはいられない。二回目のセットの最後には、リズム隊の前で無茶苦茶な踊りを披露しながらメンバー紹介をすると言う暴挙にまでいたって、全ての事が無事終了。二回目のセットの途中で帰るけど気を悪くせんでくれと言っていた大御所U氏も、最後まで聞いてくれたのだった。嬉しかった。さあもう後は体調が如何にぼろぼろでも帰るのみである。演奏後、水谷氏、アニキと一緒に、以前世話になったクラブ、TOKUZO に遊びに行く。しかし体力もここで尽きた感じになり、午前1時ぐらいにぼくだけ退散。ホテルにて、シャワーで頭を洗ってやけくそで就寝。 某月某日 短いツアーだったが、印象的な出来事が多かったことも確かである。翌朝、ホテルのロビーに水谷氏とだけ集合。他の二人は、朝早く別の仕事のため新幹線に乗って、すでに東京に向かっている。ロビーに現れた水谷氏、昨晩の鯨飲のためか、人相まで変わってロビーに現れる。聞くところによると、朝の9時まで飲んでいたとのこと。であるからして、今の状態は二日酔いではなく、まだ酒に酔った状態だとのこと。昨晩早々に退散したのは正解であったとしみじみと思う。とにかく、ラヴリ-に置きっぱあなしになっている、ベースその他の楽器を水谷氏の自動車に搬入して帰途の準備。二日酔いでなくまだ酔っていると言う水谷氏の自己申告により、ぼくが運転そして東京を目指すこととなる。帰路、水谷氏は助手席で大いびきをかいて爆睡。豪快な男らしい人物だ。ぼくにはまねできない。とにかく、富士山が見えるあたりから、ぼく自身もだんだん運転に疲れてきたが、合方が爆睡しているので、休憩もとらぬまま一路東京に向かいハンドイルを握る。もうこうなったら、体調がどうの、微熱がどうの言っていられない。無駄な時間を過ごすと言うこと自体、無駄にいただいたギャラを消費することを意味する。東京についた頃には、不思議と体調も元に戻っていた。短いが内容の充実したツアーであった。 某月某日 名古屋から帰った後、二日連続でピアノを教え、11月の最後の週となる。なぜかこの週は、大切な仕事が毎日のようにあり、少し緊張ぎみ。24日月曜日には、鎌倉ダフネでヴォ-カルのギラジルカと演奏。翌日火曜日には、大泉学園IN F .にて山田譲(SAX)太田恵資(VLN)との三人で異例のセッション。山田氏とは、ボストン時代以後初めての会合となった。翌26日は、菊地成孔氏のリーダーアルバムのためのレコーディング。我がGO THEREの面子に加え、色々な人が出入りして、スタジオ内は騒然となっていた。スタジオは新大久保にあり、久しぶりであの界隈を目にしたのだった。菊地氏到着後、早速作業の開始。GO THEREのメンバーとぼくは、菊地氏の指示によって、テンポがバラバラのアンサンブルをしたり、ぼくはぼくでソロピアノを弾いたりで、多彩な内容を予感させる。そして本当に久しぶりに、スタジオにあったスタインウエイを弾いた。おお、スタインウエイ。同じピアノと名が付くものでも、他のものと比べ、やはり別嬪さんである。教養も知性もないどうしようもないスベタと放蕩の限りをつくしていたやさぐれが、ある日、どういう成りゆきか、原節子とデートをすることになった、という、これぐらいの差がこの楽器にはあって、自分に今、この楽器に対して何ができるのか、何ができないのかが最初のうちは、不明瞭になってしまう。しかし、この困惑は逆にいえば、ピアニスト冥利に尽きるというもので、こういうタッチでこういう音が出るのじゃないかな、とサラッと弾くと、そのとおりに楽器が鳴ってくれる。この楽器と一緒であれば、長丁場のレコーディングも気が楽だ。更に、今回のレコーディングを新しい方向性へと導く意味でも、今回、綾戸智絵さんのツアーに参加している、DEEP RUMBAでもおなじみのヨスバーニ・テリーがこの菊地氏のリーダーアルバムに参加したことであろう。菊地氏の用意した素材、つまりリズムパターンと芳垣氏とのコンガ類とのコラヴォレーションで、ヨスバーニはすばらしいプレイを披露した。こんなもの聞いたこいとも見たこともないよっていうようなことを彼はやってのけた。これは後日ピットインにてオラシオ・エルナンデス、ロビー・アミーン、プラス、ジョン・ビーズリ-トリオで彼が演奏したものをはるかに凌駕したものだった。フレージングのリズムは変幻自在。音色は最高で、滑らかなレガートさの中に彼本来の猛々しさが少し顔を見せるが、一瞬にしてプロデゥーサー菊地氏の求めるイメージを汲み取り感知する。トータルで音楽的な観点からも吹きすぐることなく、ヴァランスのとれた演奏となった。菊地氏のリーダーアルバムのひとつのポイントを彼が作るあげたことは誰も否めない事実となるであろう。ヨスバーニが、スタジオにいる全員の賛美の声の中帰った後、現れたのは、カヒミ・カリイ姫であった。長くパリに在住していたヴォーカリストで、前に一曲だけ、彼女のアルバムに参加したことがあるから、初対面ではないにしても、その彼女の発する雰囲気は、いままで居たヨスバーニのものとは対極的で、つやつやした良質なフェミニン空気をスタジオにまき散らせていた。自らが歌う曲のオケづくりにプロデゥーサー席に鎮座する菊地氏の横にちょこなんと腰をおろし、我々の動向をうかがっている様子。菊地氏の作曲したアップビートのヴォサノヴァの曲を、我がGO THEREの面々とI氏という若いギタリストの手によって、まず完成させなければならぬ。しかし例によって、その場の雰囲気でわたされた譜面の内容、くり返し、各々の楽器の役割などが、菊地氏の指示にしたがって変幻自在し、わたされた譜面は、書き込みでぐしゃぐしゃになって行く。スタジオブースと録音をする側の部屋の隔たりをつないでいるのは、マイクの声の受け渡しのみで、菊地氏の音声でしか、彼の本当の意図をくみ取るのが難しい状況でもある。3takeほど録音し、プロデューサーのOKが出たので無事終了。僕の出番はここまでである。午後1時すぎから11時半までの長丁場であった。家に帰ってみたら、口がきけないくらい体が疲弊していることに気付いた。飯を食うにも口を開けたり噛んだりするのも面倒臭いほど。眠気も襲ってくる。これは僥倖である。何しろレコーディングの後は一番不眠症に陥りやすいからだ。いずれにせよ、とてつもなくユニークなリーダーアルバムができあがることだろう。 某月某日 翌日目覚めたら、何と10時間も寝ていたことが分かった。10時間も寝たことなんて、小学生だった時以来ないんじゃないか。体の疲れはおおかたとれたと見えて、体が軽い。その分なぜか、家にある電気のコードに足をからませて倒れそうになったり、テーブルの角に足先をぶつけたり、つまり寝過ぎてふらついているのである。寝過ぎる、という状態をしばらく経験していなかったので、自分の体が今どういう状態になっているかも良くわからない。頭も妙にはたらかず、これだったら寝不足や不眠の時と、大して変わらない。とにかくタバコを吸う。今日はピットインにて、オラシオ・エルナンデス、ロビー・アミーン、カルロス・デル・プエルト、プラス、ジョン・ビーズリー、ヨスバー二・テリーなどが演奏する。僕はそこへゲストで1曲だけ出演することとなっている。     (詳しくは http://www.ewe.co.jp/topics/index.php?id=45)オラシオとカルロスと僕とでは、既にぼくの次回作となるトリオのレコーディングはすんでいる。ヨスバー二とも、昨日の菊地氏とのレコーディングの際、二言三言ことばを交わして、なんだかとってもいいやつだなという印象を受けている。ジョン・ビーズリ-とは、3日ほど前、つまりIN Fに演奏に行く前、新宿厚生年金ホールで綾戸さんのコンサートのリハーサルの間をぬって会っていたのであった。この日彼らは、ピットインで演奏する曲目のリハーサルも兼ねていた。そこに僕も短時間お邪魔をして、一緒にやる曲をちょっと演奏してみたりした。一曲といっても、ゲストだからといっても、大切なことには変わりはない。にもかかわらず、僕のやる曲の譜面はないとのこと。お願いしてジョンに曲間のキメの部分のみ譜面にしてもらったが、このパートがいつ出るかわからない。ジョンの指示はこうである。適当にファンクのリズムのコンピングをしていて、最初の方はなんにも弾くな。わたしたパートを挟む時は俺が合図を出す。このパートが終わった後は、ヒロシ、お前のソロだ。ソロが終わったらまたこのパートを挟むかもしれない。俺の方を注意深く見ておけ。キューを出したり出さなかったりするから。ユーノー !という、説明になっているのかなっていないのかわからない説明を受けてはいた。10時間やすませた脳みそをフル回転させ、まずはウオームアップから練習にはいる。ピットインに行くのは午後五時以降だ。やっと今日の準備ができるということだ。譜面がないし、渡されたCDにも入っていない曲なので、曲自体の練習はできない。一曲だけというのも、やりにくい感はある。時間はあれよあれよと過ぎ去って、5時半すぎにピットインに行ってみたら、まだ機材類を組み立てている最中であった。色々とどたばたし、なんとか開演直前に一度だけキメのパートをあわせるというだけのリハーサルが出来た。川嶋哲朗氏もサックスでゲスト出演だ。彼の方は僕とは逆で、譜面のある曲を演奏するようだが、彼のリハーサルを聞く限り、何だかむちゃくちゃ複雑なテーマをヨスバー二と吹いている。譜面があればイイってことでもない。なんて思っていたら、あれよあれよと開演時間になり、たくさんの人がなだれ込んできて、立ち見まで出る大盛況となった。僕は居場所がなかったので、入り口近辺で演奏を聞いていたのだが、最初はジョンのトリオからはじまって、ヨスバー二が加わりクワルテットとなり、アコウスティックなジャズを演奏。後半に川嶋氏もゲストで参加。知的なフレーズからだんだん盛り上がりを見せ、最後のテーマまで自分の音楽を表現し得た力量は、さすがイーストワークスの筆頭若頭である。休憩を挟んで後、二部の後半に僕もゲストとして参加。僕はピアノを弾き、ジョンはキーボ-ドを担当。最初は弾くなと言われていたので、じっとジョンの方を見ていたら、彼は演奏に集中しているようで、あまりこっちを見ない。あっと気がついたら例のキメを皆が演奏している。乗り損ねたが、後半を弾いた。ヨスバー二が楽器を口から離したので、僕のソロかと思い、まず何か弾いて、相手の音を聞いて、って言うのをくり返そうと思ったら、まあ、最初の何コーラスかはそういう状態だったのだが、この世界一のツインドラムによる変幻自在のリズムの最中で気持ちが良くなってきてしまい、後半は弾きすぎた感があり。川嶋氏が筆頭若頭なら、ぼくはちんぴらの鉄砲玉といったところか。たくさん弾いてしまっったと思っているにもかかわらず、不完全燃焼な感じでステージをおりた。短い間だったが、彼らのサウンドが体の隅々までしみ込んだ。ビート感は力強いのに、サウンドは絹のような繊細さを持ち、決してドカスカ余計なことを叩かない。バンドに何が起ころうとも、それをがっちり受け止める無限大の余裕がその間をぬっていて、僕は見事にそれにほだされ、翻弄され、のせられたのだった。この感覚は忘れられない。終演後、ピットインの向いにある居酒屋の打ち上げに参加。そこには、ロビー、オラシオ、ジョンなどが参加したのだが、お互い歯に衣を着せない反省会をおっぱじめた。キューバンスパニッシュと、スパニッシュ訛りの英語で、お互いが言いたい放題音楽について語っている。この真摯な態度に度胆を抜かれた。あれだけすばらしい演奏をしつつも、まだ上を見ているということである。個人的な感想をいえば、僕はオラシオの人間性と音楽、ドラミングに、強力なシンパシーを感じており、それは、前回スタジオでいきなり初顔合わせで録音したトリオの演奏の時に感じていたことだが、今回のゲスト出演による短い時間の中での共演で、その親近感は決定的なものとなった。嬉しい限りである。彼らはジャズのことをアメリカンミュージックと呼ぶ。健康的な発想だ。たとえそれが半分ジョークだとしても。何れにせよ明日も仕事なので僕は早々の引き上げることとした。意義ある一日だった。 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妙に頭が冴えた感じ

某月某日 充実感いっぱいで寝たのにもかわらず、体の随所がゴキゴキした感じで、ひじょうにだるい朝の目覚め。風邪かと思い、近くの町医者に行く。薬をもらい、微熱もあるため、一日安静にしていようと思うのだが、雑事がぼくを追い立てて、なかなか休むことができず。夜になって睡眠導入剤を飲んでも何の効き目もなし。体に耐性ができてしまったのかもしれぬ。週に二回は襲ってくる不眠症。逆にどんなに外で活発に体を動かせた後でも、眠れない時は眠れない。じゃあ、その間に掃除、雑用、練習、何でもすればいいではないかと言われる事が多いが、これがまた、体と脳がそういう方向に動かないように不眠症というものは出来ているようで、ただまんじりともせず、床やら天上を眺めて、ああでもないこうでもないといった余計な想念を払い除け、秋の風の強い晩に光る星々のような心持ちには、どうしたらなれるのかなアなどと考えつつ、タバコを吸いながら、家の中をいったりきたり徘徊するのみ。前にも書いたように、ならばなぜ、その時間を利用して、企画をたてたり、練習したりできないのかと思われる方もいるだろう。いかんせん、体も脳も疲れきっているのである。だが眠れない。ただひとつできそうでできないこと、それが睡眠で、頭も体も疲れているのに、妙に頭が冴えた感じになる時もあり、始末に困る。 某月某日 やっと体が休まったと思ったら、音楽的に重要で、更にエキサイティングで、来年の我が活動の活路を予感させるに充分な仕事が週末に二日連続してあり、そのために体調はまたもとに戻り、意識はどんよりとして、終日神経のおさまる時無しといった状態になってしまった。最初の活路を予感させる仕事は、菊地成孔氏との横浜エアジンでのデゥオである。ベースがいないということ事態、普段使わぬ何がしかの神経をふる回転させる必要が有るのに、それにもまして、菊地氏の選ぶ曲が、ビリー.ストレイホーン、チャールズ・ミンガスといった、幾何学的美とも言える作曲作品なのだから半端ではない。ドラムやベースのダイナミクスを気にしなくても良いという側面があるにはあるが、その普段鳴っている音を架空のものとして脳内や黒人のいうところのソウルの部分で鳴っているつもりとして、つまり創造して、しかもそこにお互いの接点にあまりにも大きなずれが生じてもいけない。なんせ二人だけなのだから。親密度を高めることに成功すれば、四人でやるよりその親密度が増すのに対して、お互いの接点が噛み合わなければ、お祭りの夜店で朝の牛乳を一気飲みしているような、生ぬるい甘口の日本酒を、冷めたピザをつまみにチビチビ飲んでいるような、そんな感じの不快感のみが残されるだけである。それらはお互いに避けたいし、気が合うと思うからデュオで共演するのだし、元々お客さんがそんな冷めピザ日本酒甘口なサウンドを求めているはずがない。だからはずせないところは絶対はずせない。だからはずさなかった。菊地氏も要所要所は見事にはずさず、さすがであった。またその菊地氏による饒舌性と客との言葉による駆け引きには、小悪魔的絶妙さがあり、まったくぼくは置いてきぼりをくってしまう。まあ、あれだけ人前でしゃべるのがうまいものに対しては、嫉妬とか、チクショウとか、そんないやな気分になる暇も成し。前にも書いたことではあるが、ぼくがこなした、またはこなしているサイドマンのバンドで、しゃべりが格段にうまい人がなぜだか多い。綾戸智絵さんしかりである。菊地氏との芸風やしゃべる内容はまったく異質ではあったが、この二人、やはりただ者ではなく、マルチなタレントを持ち、世に認められ、多くのファンを持っているというところも共通している。それに比べてぼくときたら、次の日のピットインでのお客さんに対するしゃべりでは、メンバー招介以外支離滅裂で、最初のセットの最後でTWO SETめを終わりますと言ってしまったり、別段あがっているわけでもないのだが、気がついたら話が横道にそれていたり、だいたい演奏中はなぜか言語中枢に血液が充分まわっていないような気がしてならぬ。サックスやヴォ-カルは、演奏中にも口唇自体を使うから、こなれているということも推測できるのだが。世の中には、バカもおりこうさんも、優しい人も、おっかない人も、危険な人も、安全な人もいるわけで、そういう人達に向かってニュートラルな話題をふるということはほとんど不可能な気がする。そこに政治理念や宗教が挟まればもっとお手上げだ。だから、ああどうしようと思って曲間にしゃべっているのが残念ながらぼくの姿のようだ。今演奏した曲は云々、次はこの曲を演奏します。といった説明調でも、何だかこれだったら無い方がましのような気もして、がんじがらめの疑心暗鬼に陥ってしまう。しかし、しゃべりとは対照的に、翌日ピットインでのGO THEREの演奏は、音楽も含めてひじょうに充実したものとなった。来年への活路がしっかり見出せる内容の空間を、音では演出できた確信がある。これしかないのである。ぼくには、扇状の札束を瞬時に数える能力もなければ、便意をもよおさずして、東横線を渋谷から桜木町まで運転する神経も持ち合わせていないし、オフィスと呼ばれる蛍光灯のギラギラした中で一日中机に座ってはいられない。自律神経、副交感神経などなどが、妙な具合に絡まってショートし、今以上に始末におえない人間になるのは目に見えている。ピットインから帰還後、冷蔵庫がからのため、近くのローソンで、適当に見繕って喰って寝た。食いものはダメでも、充実感はいっぱいである。 某月某日 津上研太BOZOの九州ツアーから帰った後、秋葉原のGOOD MANでGO THERE !,横浜エアジンで井上淑彦QUARTETと仕事が続き、本日やっと体を休めることができた。疲れが澱のように溜まっており、これはもう、風呂に入ろうが大酒を飲もうが、時が経つにつれ回復を待つしかない。と言いつつ、本日は、床屋に行った後、約午後4時半頃から酒を飲みだし、だらだらと夜遅くまで飲んでいて、自分が自分自身を好きとか嫌いとか、そういう観点がわからないぐらいの酔いかたを維持しつつ、久しぶりに友人宅でテレビなどを見る。ぼくにも投票用紙が配られるこの国を、すばらしき民主的国家と見るか、惰性で機械が年令とデータによって配った紙ッピラをもって投票させられたのか、定かではないなあと思いながら投票結果などを閲覧。これ以上の個人的な考えは、公共の場では割愛。食料の供給が滞ったりすれば、投票率は100%となろう。 ○ BOZO 津上研太(SAX)水谷浩章(B)外山明(DS)九州ツアー日記詳しい九州ツアーの日記を書こうと思っていたが、短くまとめる事にした。気力がない。某日羽田から飛行機にて宮崎まで飛ぶ。パスポートを携帯せずに飛行機に乗るのは、何だか落着かない。宮崎空港に降り立ってすぐ、陽のひかりの強さ、空気の清浄さに感嘆とす。建物や、全ての物がはっきりと見える。お決まりのビジネスホテルに荷物をおろした後、宮崎「LIFE TIME」にて演奏。メンバーはBOZO,津上研太(SAX)水谷浩章(B)外山明(DS)、それにマネージャーのO氏。違った環境での、違った客筋に向かっての演奏は、このバンドにさらなる力強さのようなものを与えた様子。席はほぼ満杯。酸いも甘いもかみわけた店のオーナー、K氏の心尽くしも加味し、コンサートは大盛況。初日ながら、長時間の打ち上げとなり、新鮮な食べ物をいただく。翌朝、熊本に移動。今夜は演奏がないので、宮崎に詳しい外山氏の案内で、海岸沿いをドライブし、きれいな砂浜へつれていってもらった。まったくもって海も雲も、申し分ないほどの豊かさで、砂浜に目を落としてよく見ると、たくさんの、そして色々な種類の貝殻が、くだけて砂浜となっている。こんなに素敵な場所は、東京近辺であれば、伊豆の裏の方に行かねばなるまい。湘南とはまったく違った景観に、我を忘れて波の音を聞いていた。ものすごいサラウンド方式によるステレオサウンドがあらゆる方向から聴こえてくる。ここに2~3時間も居れば、不眠症など事もなくなおるような気が本能的にする場所である。波の音は太くて重量感があるのだが、それが砕けて波とちる瞬間は、なんとも爽やかな音に変わる。そういう繰り返しが、右前方、左の奥の方、など、あらゆるところから不定期的にに聴こえてくるのだから、単純な意味において不思議である。一昔前の人は、一生涯の間、この音を聞きながら生きたのだろうから、なんともうらやましい。さて、宮崎をあとにして、人吉というところで地元の温泉に入り、熊本の繁華街のど真ん中にあるホテルにて荷物をおろした。まず街を散策。全てを知る事は短い滞在中不可能ではあるが、人々の動き、たちふるまいなど、どうものんびりと見える。これはひじょうにうらやましき事で、つまり繁華街のつくりは東京とさして変わらないのに、人々の動きが東京とはまったく異なる。環境に影響されないだけのなにかしらの長い歴史と文化があるからこそのものであろう。繁華街の一角にある「TWO FIVE」という翌日演奏する店に顔をだし、店のオーナーに挨拶をする。首の座った見事な顔だちの御仁で、ぼくも好感をもった。店のつくりもなかなかオシャレである。まわりには、男の欲望を刺激するあらゆる種類の店が乱立しているが、情報がないほど悲しい事はない。一気にホテルに引き上げその日はそのまま就寝。翌日、熊本城見学などに出かける。いままで色々なところに行って演奏してきたが、こういう観光などできる時間のあるスケジュールのツアーはめずらしい。姫路に行った時には、姫路城を車の中から3秒やそこらおがんで次の演奏場所に移動した記憶もある。今回の熊本城巡り、もしかしたらはじめての城めぐりかもしれない。城そのものより、全体のデザインと、城壁そのものに驚嘆す。二階屋の並ぶ当時としては、この城の存在は、さも巨大なものであったのだろう。熊本城を出て、夏目漱石内坪井旧居に行く。見事なる日本家屋。その時間訪問者はぼく一人であった。なんたる幸運。熊本城と違い、余計なBGMや団体客なども居らず、時間をかけてその空間を楽しむ事ができた。ここに漱石が暮らしていたのだと思うだけで自然と笑みがこぼれる。長年読んできた著者の、それもめったに訪れる事のない空間。静かな家だった。少しその空間で頭をぼんやりさせた後、すかさずホテルに引き返し休憩の後シャワーなど浴び気分を転換。ネオンギラギラの空間をクラブまで歩いて行き演奏開始。クラブ「two five」では、ドラムが真後ろにあるセッティングとなる。外山氏の叩き出すあらゆる種類のリズムが、体を震わせるぐらい近い。モニターなどを通さずとも空気を振動させて伝わる彼のリズムに興奮し、こちらもそれに瞬時に反応し、そこにベースも絡まって、研太氏もおおいに発奮。宮崎のときと同じく、初めて演奏する場所での、初めての客筋に向かっての演奏、これがプラスに作用さえすれば、東京のクラブで演奏している時とはまったく違う音楽の展開が見られる。同じ日本とは言え、右も左もよくわからない場所での演奏は、我々を一丸にし、いい意味でのスタイリッシュな、いい意味で頑固な、そしていい意味でのエンターテイメント性を同時にサウンドの中にこめるとができる事を知った。初めての客筋がよく演奏を聞いてくれているのが演奏者にも伝わる。こうなったらあとは、このよい状態をずっと保ちつつ演奏を続ければ、成功である。演奏後、店のオーナーW氏から、好きなだけ飲んで遊んでいって下さいと言われた。最大の賛辞と受けとめた。我々にとっては、憲法9条よりありがたいお言葉をたまわったが、ぼくだけ退散。アーケードの路上にて、お兄さん、マッサージどう?わたし台湾式のすごい技知ってる。気持ちいいね、などという勧誘を振り払い、ホテルに帰って就寝。翌日、阿蘇にある「山頭火」という阿蘇神社の近くのクラブで演奏の為、昼過ぎに出発。行程の景色がきれいであるとは聞いていたが、車内で今回のマネージャーO氏としゃべっている間に今晩宿泊するホテルに到着してしまった。荷物をおろし、かえす刀でクラブ「山頭火」にむかう。まず店のオーナーに挨拶す。25世紀の仙人のような方で、とても優しそうな目をしておられる。サウンドチェックに時間がかかった。この店自体、古い家屋を改造してできたもので、どういうバランスで、どういう配置で、どこに各々のモニターを置き、どのくらいのダイナミクスが許容範囲かという事を、少しづつ試して、又ホテルに戻る。お客さんが入ると、サウンドチェックした時の状態よりも、音が沈んで聞こえる事のほうが多い。思ったとおり、お客さんの入った後では、ステージ内の音のヴァランス、聞こえ方が少し変わってきているようだ。九州では一曲めをはじめやすい。我々は我々で、演奏の音楽的意味でのヴォルウテージを上げ、お客さんはお客さんで、酒にうまい食いものを注文してヴォルテ-ジを上げ、双方が飽和状態となっったあたりで演奏は終演。力を出し切って、ワインなど飲んでいた我々バンドのテーブルに、見も麗しい皿に乗って出てきたものが馬刺し。今まで見た中でダントツに新鮮なやつ。それをあっというまにBOZOのハイエナ軍団が一気に食べつくしてしまった。女連れでもないのに、我々このように精をつけてどうするつもりなのか、と思うほど、馬肉の栄養素が体内に吸収される原始的快楽に地酒が出れば、もう後はどうにでもなれってエ感じで夜も深け、馬肉の後に出る揚げだし豆腐などにも舌鼓を打ち、ホテルに帰還。いずれにせよ東京に居たのでは体感できない事ばかりである。翌朝、津上研太氏と二人で福岡、博多に移動。他の二人は東京に仕事があるとかで一旦帰る事となった。博多までの行程で、うまく仕事がつながらなかったので、我々二人は福岡で3~4日時を過ごさねばならない。こういう事は起こり得るもので、特に誰かを非難するわけにはいくまい。一瞬先は闇である。とにかく、久しぶりにぼくが車を運転しつつ阿蘇から福岡へ向かう。しばらく車を運転していなかったので、最近のの車の性能のよさに吃驚してしまう。アメリカから帰ってきてからこの方、いすゞジェミニにのって仕事をしていた。もちろんマニュアルである。妹が早稲田の自動車部と言う事もあり、その妹のシブイ選択によって、そのジェミニを借りて運転していたのであった。タイヤもハンドルも全てレカロでキメて、目立たないながら、良い車であった。ドライヴィングの醍醐味自体を楽しむ事ができた。今回のツアーで借りた車は、レンタカーのトヨタで、車名は失念したが、とにかくだ、ハンドルから何から全てがやさしーくやさしーくできていて、スラスラと勝手に真直ぐ走る。しかも、ナヴィゲーションシステムも搭載されており、これも初体験であった。目的地の電話番号などを入力すると、何とスケの甘ったるい人工音声が右だ左だ車線に気をつけろだの言う。ここまで至れり尽せりだと、ドライヴする事自体の楽しみや、人間のカンみたいなものが、全てにぶっちまうんじゃないかと思ったのであった。しかし、今回はドライヴを楽しみに九州に来たのではなく、道に迷う事なく目的地に決められた時間に到着する事が優先されるツアーである。あっという間に博多、福岡に到着。地元の人に言わせれば、川をはさんでこの双方の呼び名が変わるという。九州に来たのは久しぶりで、しかも土地カンもないので、ここの地名を今この日記でどう表記するか少し迷っている。あまり福岡ラーメンとはいわないところを見ると、博多が繁華街で、福岡がビジネス街なのかと勝手に解釈し、この地名を言い分ける事とす。その日は車で福岡の薄暗い地域にあるお決まりのビジネスホテルに宿泊。蛍光灯の明かりが苦手なぼくに、蛍光灯の明かりしか無い部屋にぶちあたった。暗くなっても薄暗い中部屋で過ごすのもしんどいので、研太氏と共に、洗濯をする事となる。洗う方は難無く終わったのだが、乾燥機がいつまで経っても廻り続け、1時間以上経っても中の洗濯物は生乾きで往生した。部屋に居るより、ロビー横のテレビのある簡易応接間みたいなところの方がくつろげるという、なんともやりきれない状態である。研太氏とともに、そこにある簡易応接セットのソファーにぐにゃりと腰をおろし、永遠に洗濯物が乾くのを待つ間、急に今までの疲労感が体のそこから沸き起こってきて、二人とも口元ダラアリ半眼状態となる。前にも書いたとおり、いくつかのキャンセルが出て、福岡で4日間過ごさねばならない。観光すればいいではないかと思っていたが、いざ到着してみると、その気もおきず、ホテルから一番近いラーメンやへ行き、夜は夜で、一番近い繁華街、確か天神だったかでマネージャーのO氏、研太氏としこたま酒をのみ、蛍光灯をつけずにすむ状態に自らの体をごまかし、就寝。翌朝、ホテル移動の為ロビーに集合。これから何度か博多福岡滞在中ホテルを変わらねばならぬ難民の身である。その日のホテルは昨日のものより数段上で、とにかく蛍光灯の明かりがない部屋に入れたので安心。本日は、福岡のラブFMなるラジオ番組に出演の予定。BOZOの宣伝の為である。それまでマネージャーのO氏、研太氏と三人でぶらぶらする。仕事もせず、雑用もなく、演奏もしなくてよくて、ピアノも教えなくてよくて、右も左もよくわからない土地で、ただ午後までぼーっとしているというのは久しぶりなことだった。色々と考えねばならぬ事はあるはずなのだが、脳が機能しなくなってきて、ああ、今日は晴れてよかったなあ、傘もってないもんなあなんて事しか頭に浮かばない。体を動かすと持ち金も減る。これは資本主義社会の根幹である。喉が乾けば自動販売機にコインを入れねばならず、だいいち歩いていると腹が減ってくる。何かを食べた後はタバコが吸いたくなる。という事で小銭といえどもバカにはできない。みるみる内に持ち金が減る。とあるカフェに行き着き、三人でそこを動かない事とした。何か頼んで飲み食いすれば、身の置き場も確保できるというのが、もうひとつのカフェの機能であるという事を初めて体感。キャナルシティーなるおしゃれな総合ビルのような場所の中にそのカフェはあり、ただただ道行く人をぼーっと見ているなど、一日だけ隠居した気分。夕方、ホテルからタクシーに乗ってラブFMのスタジオのあるデパートに向かう。ミュージシャンであるという事自体、すでに曜日の感覚が希薄なのに、ツアーに出て、同じ土地で何もしないでいる時間が長ければ長いほど、今日が何曜日の何日かがわからなくなりやすい。今回のツアーのこの瞬間、タクシーで移動中のぼくは、そのことを痛感した。タクシーに乗って、マネージャーのo氏につれられるまま、ただタクシーの後部座席に生き物として座っているのである。今までのツアーは、ほとんど自分で計画をたて組んできたので、行き先、到着時間など、自分の頭の中に刻み込まれていたものだが、今回はマネ-ジャーつきなので、だんだんとぼくの意識はもうろうとなってきた。痛感と書くぐらいだから、どこかが痛くなってもよさそうなのだが、曜日、日にち、時間、今居る場所、全てはっきりしなくなっても痛くもかゆくもない。ホテルでもらった博多福岡の地図を見て、今どの方面に向かっているのか地図を広げようとしたが、手はポケットの中の地図にのびない。どうでもいいのである。自分の存在自体がどうでもよい、という感覚。しかしこの感覚は、不思議と、怠惰、やる気なし、愚鈍、間抜け、アンポンタン、アホ、という状態でも更にない。自然と身についたツアー中という神経のギアーは、ちゃんと3速ぐらいに入っているし、タクシーの窓の外に展開する人波や見なれぬ街の風景から、本能的に何かの情報を得てはいる。しかし時間的感覚だけが妙にブレているといった状態。快適でも不快でもないが、楽しくも悲しくもない。完全に分裂ぎみの精神の状態。にもかかわらず、ラジオの本番がはじまれば、研太氏とふつうにしゃべり、DJの質問にジョークを交えて答えている自分とはいったいどういう生き物なのか。この生き物は、ラジオの収録後、マネージャーのO氏、研太氏の前から姿を消し、街を放浪しはじめる。彷徨いはじめる。神経のギアーはツアー中に入ったままぶらついていると、どんどん自分自身がなくなってきて、もっと無くそうと思い立ち、もっと彷徨っているうちに、不思議とホテルの前に歩き出た。駒が出たと思った。そのまま部屋に帰り就寝。資本主義にさからい、その日の晩は歩いているだけで、一銭も金を使わなかった。翌朝、まだ精神的には生き物ぎみで目覚める。ホテルとは不思議な空間である。ベッドは家のものよりサイズが大きいので快適だが、入室すると、必ず掛け布団が枕側を除いた三方、かたくかたく敷き布団だかマットレスの内側に縛り付けるようにベッドとの間に挟んである。なぜこういう事をするのか。掛け布団を剥がすのも、なかなか力がいる。ホテルが良くなれば良くなるほど、その縛りはかたいような気もする。なぜふつうに敷き布団の上にかけておかないのか。たとえば友人の家に泊まりに行き、自分の寝るふとんがホテルと同じ状態であったなら、これは意地悪な行為と思われても仕方ないと思う。もうひとつ、全てが洋式のつくりなのに、なぜ寝巻きだけが浴衣みたいな、丹前みたいな、よくわからないキモノなのだろうか。簡易パジャマのようなものは、そんなに用意したり洗濯したりし辛いものなのだろうか。ぼくの場合、寝る前にちゃんと結んだ帯は、朝起きると必ずほどけており、帯だけが胸に絡まっていて、そのキモノ状の浴衣は背中の方で丸まっているという状態がほとんどだ。起き抜けに自分の姿を鏡にうつすと、完全に惚けた明治時代の浮浪者のような格好になっている。これで帯を引きずりながら道を歩けば、完全なる人格喪失者である。生き物として起床した自分自身が、更にこのような姿となり、それを自分自身が鏡にうつして見てしまうと、思わず、おう、と自分に挨拶したくなった。と、くだらん事を考えている暇は、今日はない。今日は、研太氏のお姉様が博多郊外に住んでおられるので、そこで軽く演奏を、という事になっている。仕事が吹き飛んでも何とかするところがカタギでない我々の甲斐性というものだ。研太氏と二人で地下鉄に乗り、郊外へ出た。そのお姉様、近所の知り合いや、息子さんが通う学校の同級の親達を自宅に招き、キーボードをどこかから借りて、弟の為に、サックスとのデュオで、サロンコンサートを企画してくれたのであった。昨晩ラジオの収録以後、ぼくは姿を消していたので、詳細は郊外の地下鉄の駅まで車で迎えに来てくれたお姉様から聞いた次第。ここで単なる生き物であったぼくが少しずつ人間になりはじめた。そのキーボードとはいったいどんなものなのだろう。もしカシオトーンのような、鍵盤の小振りなものであれば、ぼくは巨人の惑星の巨人側になってしまう。小さい鍵盤を、うまく操れるかどうか。こういう発想は、人に何かを演奏する→よい音楽をクリエートしたい→自分が演奏する事になるキーボードの形状及びコンディションをきにする→とにかく新しい事態に対してベストを尽くす、といった順番で脳がはたらき始める。これは単なる丹前のお化けから人間への変身を意味する。お姉様の家には、ゆったりと広いリヴィングルームがあり、そこにはすでに、茶菓子などを前に談笑するマダム達が寄り集まっていた。その前には立派なキーボードが。宿敵巨人の惑星にならずにすんだ。早速いくつかの音をためし、エレクトリックピアノの音を選びだし、サックスと少し音合わせの後演奏開始。午後のサロンコンサート。マダム達はまんじりともせず、我々の演奏に聞き入ってくれている。ここで更にぼくは、元の人間である南博、43才、血液型Aに戻ったのだった。演奏しないと人間に成れない。妖怪人間のようだ。二回に分けて演奏し、マダム達を釘付けにしてしまった。もっていったCDも、ほとんどのマダム達が買ってくれた。更に投げ銭方式で、幾許かのお金までもらった。しかもお姉様自ら料理したスパゲッティなども御馳走になり、1・5秒ほど、はなれ瞽女の気分。久しぶりに会った研太氏とそのお姉様、尽きぬ話に花がさき、マダム達が三々五々帰った後も、お二人とも楽し気な様子。ぼくはコーヒーをすすりながら、久しぶりの家庭的雰囲気の中で一息ついたのだった。その日の晩は、我々も三々五々何となく解散し、ぼくもまた何となくホテルのまわりを放浪し、就寝。さて、そして、やっと、翌朝、クラブで演奏する日が来た。ホテルのロビーには、東京に帰って仕事を終えた水谷、外山両氏がいる。神経のツアーモードを3速から4速にギアチェンジし、クラブ「ニューコンボ」に皆で向かう。こうこなくっちゃならねえと思いながら勇んでクラブに突入し、夜8時から演奏開始。件のマダム達と研太のお姉様も演奏を聞きに来て下さった。これだ、あれだ、それだ、なんだ、どこだ、これか !というようなコミュニケーションがスムーズにバンド内で行き交って、絶妙なるアンサンブルとなる。よい演奏をすると、当然ながら良い気分となり、それがお客さんにも伝わって、時間の流れが止まったようになる。ツアー最後の曲を終わり終演。長いような短いような、満たされたようなそうで無いような、ナヴィゲ-ションの人工スケの声にも聞き飽きたような、そんな気分の中、皆で打ち上げ。翌朝、ホテルを出て空港に向かう。寄り道はしたけどね。その場所と内容は、我々しか知らない。空港に行ったら、飛行機が遅れているという事態に直面したが、マネージャーO氏のはからいで、別便に乗る事ができた。機内でビールをたのんだら、五百円とられた。暴利である。この飛行機のチケット代が一万円ならば、ビール20本と同じ。小便で動くエンジンを開発すれば、ビール会社、環境保護、酒好きの乗客にはもってこいである。いかんせん、飛行機会社はもうからない。だから五百円なのか。高尾山のコーラが二百円なのと同じと考えて、二本飲んだ。ビールを飲んでマイレ-ジをためる事ができる、という企画を誰かがたてるべきだ。これなら、全ての関係者に利潤が行き渡るはず。などと考えていたら、すぐに羽田に到着。コペンハーゲンやNYも、このくらいの時間で飛べないものかなと思う。無理だろうな。今世紀中は。というか、来世紀が有ると断言できるものは誰も居ないだろう。コペンハーゲンに一時間で到着するような世界が出現すれば、九州ツアーは、ツアーとして成り立たなくなり、山手線で新宿ピットインに行くような感覚で、LIFE TIME, TWO FIVE、山頭火、ニューコンボなどに演奏に行けるようになる。という事は、我々の稀少価値も下がり、全国区的に娯楽が増える結果となるから、やはりコペンハーゲン、NYは13時間ほどかかって行くのが正解のようだ。少なくとも、羽田を国際空港にするのが先であろう。 >>>

昔の恩師の写真

某月某日 机の中を整理していたら、昔の恩師の写真がでてきた。元芸大ピアノ科名誉教授であり、日本のクラシック界の重鎮でもあり、ある意味昭和デカダンスを音楽で体現したピアニスト、作曲家の宅孝二氏の写真である。偉大なる人物であった。当時ぼくは19才で、通っていた音楽高校のピアノの先生に、ジャズを聴いていることが発覚し、それが元で喧嘩状態となり、学校をかろうじて卒業後、どうしたらジャズピアノが弾けるようになるのかと、そのことばかり考えていた。先行きの見えない、ひじょうに不安な心理状態で、今から考えると、本当に中ぶらりんな状態であった。音高から音大へという通常の道は断たれていた。そんなとき、とある親切な知人の紹介で、宅先生のマンションにレッスンに通い出したのは、世の中をやぶ睨みして、どうとでもなれという状態の時であった。当初の情報では、クラシックのみならず、ジャズもいける人だと言うことぐらいしか、ぼくは聞いていなかった。当時五反田に住んでいた宅先生のレッスン初日から、ぼくは色々なことに開眼し始めた。ピアノの演奏技術のみならず、宅先生の存在自体がぼくにとっては巨大であった。当時のぼくは、ただ単にはんちくなバカな若僧であり、とても宅先生自体に近付ける存在ではなかったと思える。が、しかし、宅先生は、ぼくを同等に扱ってくれたのであった。特に威張るのでもなく、先生の持ち味をそのままぼくの目前で、演奏で披露した。ぼくは宅先生が大好きになった。当時の宅先生とぼくの関係は、距離に例えれば地球を2週して追いかけても姿さえ見えないぐらいの差があったと思う。しかしなぜか、ぼくの当時の心情に通じ合う何かが、宅先生の中にもあった、先生も決して世の中をストレイトには見ていなかった。そこには底なしの優しさも混在しているのだが、宅先生の中には、野太い反骨精神のようなものがあって、それをぼくが嗅ぎ付けたのではなかろうか。宅先生の部屋には、楽譜とグランドピアノ、ハモンドオルガンがあったのみのような記憶がある。あとは可愛がっていた白い猫。何もできない、何も弾けない当地のぼくの後ろで、粋なオルガンで伴奏をつけてくれたり、南君、この曲はノン・シャラントに演奏するものなのだよ、そうねえ、この言葉に値する日本語はないねえエ。まあ、こいういう感じと言って弾きだすそのピアノの音の中には、19才のバカな若僧の耳にもわかる、何だかとてつもない本物の音が響いていた。それまで拮抗していた、音楽学校の授業やレッスン、その当時もっていたクラシック音楽の概念を、一発で粉々にするような音だった。と書くと、なにやら激しい爆発的印象を与えるが、決してそんな音ではない。優雅でエレガントで、ある意味退廃的でとてもカッコがよい音としか、文章では著せない。宅先生は50才を過ぎて、突然ジャズピアノに開眼し、芸大の職を追われてもヘイチャラで、若者に混じってジャズピアノを弾いていた。当時既に70を過ぎていたと思う。とんでもない巨星である。半年ばかり習ったきりだが、ぼくは、その時間の長さに関係なく多くの事を宅先生から学んだ。レッスンに通うということ自体が楽しみになるなんて、当時経験したことがなかった。色々な思い出がある。でもここには書きたくない。なぜだか、この日記には書きたくない。宅先生を尊敬するがゆえである。ひとつだけ披露すると。ある日、ぼくは宅先生のレッスンを受けるべく駅から先生のマンションに向かって歩いていた。駅からマンションまでは一本道であり、坂を上がる格好になる。ちょうど駅からマンションの中間点にさしかかった時、宅先生が前方から歩いてくるのが見えた。腕を組み、何かを真剣に考えている様子で、でかい黒のサングラスをかけ、ぼくが上がって来た坂を駅の方に向かって歩いてくる。すれ違う瞬間に、ぼくは声をかけ損ねた。何か声を書けてはいけないムードが先生の廻りに漂っていた。先生はぼくの事にも気付かず、すたすたと駅の方へと歩いていった。ぼくは宅先生のマンションのドアの前で1時間ほど立って待っていた。待っていることがなんだか嬉しかった。宅先生は本当にかっこいいなあと思った。なぜそう思ったかうまく文章では言い表せない。あの、何かを考えている姿こそが、ぼくにとっては今日のレッスンだったのだと思った。ノン・シャラントとは、フランス語で、気ままにとか、軽快にといった意である。それを演奏で教えてくれた宅先生が、ぜんぜんノン・シャラントではない時もあるのだということを先生が体現したことで、その日は充分満ち足りた気分であった。宅先生はヘビースモーカーで、レッスンが乗ってくると、自らピアノを弾きだして止まらず、灰が鍵盤にぱらぱらと落ちる。その姿の見事だったこと。後にぼくがピアノを弾くと、白鍵が灰色になっていたりした。19才の音高脱落者のぼくにとっては、見たことも聴いたことも想像したこともない存在が宅先生であり、神秘的な存在だった。宅先生に習っているという気持ちの張りがなかったら、あの当時ぼくはどうなってしまったのかと今だから思える。宅先生は大正末期から昭和の初めにかけてだと思うが、パリに留学しておられた。当時のパリに居たということ自体、音楽にかぎらず、あらゆる分野の最頂点を体感したはずであり、宅先生の演奏にも、それは聴き取れるものだった。もちろんぼくは戦前のパリなど行ったことがない。しかしなぜだか宅先生のピアノの音の中にはそういう要素がいっぱい詰まっていることが聴き取れた。音楽はすごいと思った。ある日、レッスンが終わってふと壁際を見ると、古いレコードが床にころがっている。よく見ると、昔の字体で近衛某指揮、東京帝国管弦學団演奏、ピアノ宅孝二、チャイコフスキー・ピアノコンチェルト日本初演なんて書いてある。これは少なくとも戦前の録音であり、ひじょうに貴重なものと思えたので、先生、これ貴重なもんじゃないんですか、大切にしまわないでいいんですかとぼくが問うと、宅先生は顎をさすりながらにやっとしただけだった。何だかとてつもない、ものすごい人にピアノを習ってるんだなあと思った。嬉しかった。半年ほど習った後、経緯は忘れたが、なぜだかぼくはキャバレーや、色々なところで演奏している状態となり、演奏の中で何かを発見するごとに、なるほど、これが宅先生の言っていたあれだ、これだと、レッスンの内実と現実がシンクロナイズしてきて、またまた嬉しくなってたまらず、もう少しうまくなったら宅先生のところに会いに行こう。また後ろでオルガンを弾いてもらおう。ぼくが少しうまくなったとこを見せてやろうと、もう少し、もう少し、と思っている矢先、宅先生は突然死んでしまった。その知らせを聴いた時、ぼくは本当に悲しかった。こんなに悲しいことってあるかと思った。なぜもっと早く宅先生に会いに行かなかったのか。ピットインの朝の部に出られるようになりました、ぐらい挨拶しに行ってしかるべきだろう。偲ぶ会のようなものが、宅先生のマンションで開かれるときいて、顔を出しに行った。宅先生は、レッスンの時、ぼくの演奏を非難もしなければ誉めもしなかった。そんなことはレッスンを受けている時はどうでもよかったのであった。その会合に参加した愛弟子の一人から、南君は時間をかければ良いピアニストになるよ、と宅先生が言っていたと言う話をきいた。眼球が落っこちそうになるぐらい涙がでてきて止まらなくなった。滝のように涙がでた。その一言が、間接的ではあるが、どんなに今までぼくを支えてきたことか。いまでも机の前に先生の写真を飾っている。誰が撮った写真かわからない。笑顔の、薄いサングラスをかけた宅先生が微笑んでいる写真で、後ろに、よく伴奏してくれたオルガンのレバーがうっすらと映っている。もう、20年以上前の話である。 某月某日 NHK教育いう番組で、R・ヘルフゴットというオーストラリア出身の天才ピアニストに関する番組を見た。何やら愛は病を癒すとかなんとかお決まりのタイトルがついていたが、画面上のヘルフゴッドの動作言動が、昔見たセロニアス・モンクのドキュメンタリーととても似ているように思えた。天才の脳みそはたぶん、一部がものすごく有能に働き、その他は子供前後で、下手すると自閉症ぎみで、そばに誰かが随時付き添って面倒を見ていないと何もできない人が多いのだろう。二人とも、音楽のジャンルは違うけれど、まったく同じ立ち振るまいと動向をしているようにぼくには見え、うらやましくもあり、複雑な心境でもあった。金の事も、諸事雑事にも気を取られず、ずっとピアノだけ弾いていて、まあ才能があるのだからまわりは放っとかないのだろうが、それにしても飢え死にもせずああやって活動をして、ある意味幸せそうにも見える。天才でないぼくが見ると、ああなってみたいなあと思いう強い願望の反面、自分で稼いだお小遣いで好きなものを買ったり酒を飲んだり、まったく意味のないクダラナイ遊びに耽ったりすることができる自分が、負け惜しみでなく、やはり捨てがたい自分の流儀であるとも思える。まあ、この二人と自分をくらべること自体、ノンセンスの極地であるが、彼らができないことを、微々たる事でも自分がやってみたいなあと思っているのだから致し方ない。とにかく、モンクのピアノ同様、ヘルフゴット氏の演奏にも、眼球が眼鏡を吹き飛ばし、3メートルぐらいぼよよ~んとなるぐらい興奮した。たまにはテレビを見るのも良いものである。 某月某日 クアトロでの演奏を終わり、しばらく演奏の仕事なし。かといって変な形で、しかも妙に毎日が忙しく、じっとしている暇はない。本当に何もやることがない状態ということがあり得るのだろうか。二日酔いで寝ている状態がそれに近いかもしれない。しかし水を飲んだりトイレに行ったりするので、やはり死んだ状態が、何もしていない、やろうにもやれない、動こうにも動けないということなのであろう。死のことに関しては、実はある時期頭がねじ切れるぐらい深く考え、悩み、抑鬱状態になったりした。いくつか読んだ哲学の本も、その著者自体が自殺したり狂い死んだしているのだから、お手上げである。新渡戸稲造著「武士道」はとても気に入った。切腹の事を書いた部分が面白かった。自殺がいけないことと考えられるようになったのは、明治以後のキリスト教の影響が強いのではないか。それまで侍は、自己に恥じる部分があれば、誰にも強制されること無く、自ら進んで腹を切った。これを自死と言う言葉に置き換えると、何となく自殺と言う言葉との違いとニュアンスが浮き彫りになる。一神教の無い国であるので、他国との死に対する概念もおのずと違うものであろうし、時代や文化によっても受け入れられる様は異なろう。まあ、いずれにしても、死ぬまで生きるということには変わりない。脳内にはどこか、今日中に必ず死ぬんじゃないかとか、明日には必ず死ぬんじゃないかといった、何の根拠もないが、しかし根源的な生の部分の恐怖心をぼんやりと忘れさせてくれる器官があるような気がする。そうでなければ日々身がもたぬ。それで、え~話が戻りますが、そうで無いと、明日死ぬのではとばかり考えていたら、将来の為になるような仕事や雑用は意味を無くし、高級和服を見に纏う旦那となりて、銀座の高級寿司やで思いっきり冷えた辛口の樽酒と雲丹や時価のさしみを破産するまで食べつくしてしまいそうだ。まあ、ある意味ケチな発想ではあるなあ。しかし大体人間なんてこんなもんじゃないだろうか。 某月某日 、と書いても、クアトロでの演奏は昨夜の出来事であり、あまり某日などと書いても神秘性はかもしだせない。良いピアノに良いエンジニア、良い共演者に良い客に囲まれて、時間オーヴァ-で演奏してしまったのだった。腕を組んで足下に視線を落としぐっとこらえて聴いている客や、ゆらゆらキャンドルライトのテーブルに座っているカップルなどに演奏し慣れていたぼくは、オールスタンディングというシチュエーションに、どう対処したものかと最初少し戸惑ったけれども、立ち見というのは、言ってみれば、自分が一番聴きたい場所に曲の演奏中ですら、自らの体を動かすことが可能な状態なので、何もこっちが心配することはあるまいと思い立ち、いつもどうり演奏したら、お客の集中力がグアーッとこちらに盛り上がってきたので、普段出さぬ技なども惜し気もなく披露し、演奏は好評だったようだ。楽屋で、次回作のピアノトリオの事で、菊地氏と少し話す。今回は前回の「CELESTIAL INSIDE」のように、曲によって彼のプロデュースした物をはさむのではなく、全面的100%菊地氏プロデュースによる作品となる。共演は、今を時めくオラシオ・エルネグロ・フェルナンデス(ds)カルリートス・デル・プエルト(B)等によるもので、もう録音は済んでいる。しかし菊地氏のクルクルと回転するすばしっこい頭脳には、この録音をもっと壮大なものにする計画があったのだった。このトリオにストリングスなどをかぶせると言うのが、その野望である。しかもハリウッドのスタジオ・ミュージシャンを使うというおまけつきだ。同時に、年末に発売予定だったぼくのトリオのCDが、来年春以降の発売となるということでもある。もうこちらの演奏は済んでいるので、後はeweの方々、菊地氏などにまかせて、様子を見るつもり。菊地氏自身のアルバムにも参加することになっており、この一年ひじょう有意義なものとなってきたような気がする。なんてね、気を抜いてると足すくわれるのが世の常だから、期待を胸に、しばらくじっとしていることとする。 某月某日 デンマーク人達が、今日帰国した。突風のようにやってきて、これまた突風のように去っていった。それほど今回のツアーの行程は長くもあり短くもあり、暇でもあり忙しくもありで、何だかわけのわからないものとなった。しかし、彼らは彼らなりに、東京に一週間の滞在中、彼らの感性が東京の街が持っている何かを感知したはずであり、ぼくはぼくで、彼らのアンサンブル能力の高さ、音楽自体の持つ厚みと奥行きを、改めて確認することができた。なんて書き出しはかっこいいのだが、そういう有意義な時間は瞬間的なものであり、残り時間の大多数は、一緒にゴクゴクとビールをかっ喰らっていたというところが事実である。さあ、明日10/16からは、EWE主催、BODY ERECTRICのコンサートが控えている。気分一新、渋谷クアトロの演奏順は、GO THERE, GOTH TRAD, TOKYO ZAWINUL BACH,VINCENT ATOMICSである。19:00開演。このオーダーだと、我々がまず、ツカミはOKとし、客をこちらに引きつけ、ステージをあたためるという意味においても、大役である。明日の演奏寸前まで何をやるか決めないということにしようと思っている。客筋を見てから曲を決めるということ。色々と楽しいことが起これば良いなあと今からやる気満々である。 某月某日 昨夜、デンマーク大使館で演奏し、後に、デンマーク人の好きな寿司屋にくり出して、飲むは騒ぐはの爆裂状態となり、あまりのものすごいビールの消費量に、店側もびっくりするやら嬉しいやらで、少なくとも彼らの胃袋は、日本の不景気に大いに貢献したことだけは間違いなし。翌日、EWE企画の映画「10ミニッツ・オールダー」イメージ・アルバム製作にデンマーク勢のキャスパー・トランバーグ(TR)トーステン・ホーク(AS)マース・ヒューネ(TR)を麻布のさるスタジオにつれてゆく。 菊地成孔氏、作曲アレンジ、テナー&アルトサックス、ハモンド B-3、セレスタ、 CD-J)大友良英氏(エレクトリック&アコースティック・ギター)菊地雅晃(エレクトリック&アコースティック・ベース、エレクトロニクス)藤井信雄(ドラム)南博(ピアノ)の面々が演奏したものの上に上記のデンマーク勢が、音をかぶせるという趣向。出来栄えとしては、ほんとに無茶苦茶so coolで、菊地氏はスタジオのブースでにたにた笑ってる。ぼくが聴いても、各々の音のクオリティーが、絶妙なるハーモニーを生み出し、ソロとなると、各自が菊地氏が編曲した音の上で、これまた絶妙なるソロをとった。なぜヨーロッパの演奏家の音は、ドドメ色の浪花節にならないのだろうと思わず菊地氏に話しかけると、それは彼らがヨーロッパ人だからでしょう、という簡潔な答えが返ってきて、まそうだわな、いずれにせよ、ぼくはこのデンマークのバンドの一員でいられることがひじょうに嬉しいことには変わり無い。この映画のイメージアルバムは、「10ミニッツ・オールダー」と「人生のメビウス」二本のオムニバス映画のイメージアルバムとして、EWEから12月発売予定である。映画と共に楽しんでいただければ本望です。 某月某日 ずいぶん前の日記に書いたことと思うが、だいたい海外から秋のコンサートを準備する場合、だいたい3月ごろから行動を起こさねばならない。しか四に入ってから皆さんご存じのとおり、イラク戦争、SARS等どちらもどういう形でいつまでに終焉の日を迎えるやも知れず、テロやわけのわからない伝染病に我がデンマーク人の仲間を、危険な状況に近付けないため、今年は彼らとのツアーは一旦休憩ということにするはずだった。しかし今回は先方からら東京の仕事を振られたので、リーダーのキャスパーはデンマーク、主催者側のデザイン会社は日本にいるデンマーク人、というパーティー形式の仕事が飛び込んできた。その影で楽器調達その他采配を振るわざるを得なくなったのがこの俺。このデンマークパーティーギグに関しての詳しい情報のやり取りが、e-mailにより各自にサーキュレートされるという、今まで以上に複雑な作業に着手しなければならぬはめとなってしまった。あれよあれよという間に時は過ぎ、大切ないくつかの事項を決められない段階で、デンマーク勢6人が成田にやってきた。半分はホテル、半分は我が家に滞在という、最初にイメージしたリッチなバジェットの元に行われる企画ものではないことがだんだん露見してくる。彼らと共に、来日したその日の夜にデンマーク大使館にて演奏。デザイン業界の方々、在日デンマーク人のお偉方に向かって大使館の中庭で演奏す。皆を興奮のるつぼにお誘いしたのはいうまでもない。2年前東京で録音した「KASPER TRANBERG MORTIMER HOUSE」http://www.ewe.co.jp/artists/detail.php?id=32の内容を、更に一新するサウンドと曲が揃っていた。デンマーク大使も演奏をひじょうに気に入って下さり、一緒に写真まで撮ってしまった。これから体育の日まで、彼らの面倒を見るのである。自分でオーガナイズしたツアーでない分、戸惑うこと多し。しかし、これからの活動において、最重要人物達に演奏を披露できたことは、将来決して無駄にはならないであろう。文化そのものと、音楽そのものを愛することを知る人々である 某月某日 前回に書いたデンマーク勢の襲来に加え、菊地成孔氏とのヴェルトリッチ、ゴダ-ルなどの映画に対するイメージアルバムの仕事がからんできた。これにも、ちょうど良い機会なのでデンマーク勢もぶち込んで何かするつもり。これはスタジオでの密室状態の演奏で、他のデンマーク勢の演奏も、デンマーク大使館内でのコンサートなど、一般の人が入れないこれまた密室状態の演奏状況となり、今回はあまり一般の方々には演奏を披露できないのが現状である。すみません。なにしろ今回のスポンサーがデンマークのデザイン会社で、僕自身がツアーを組んでいるわけではないので。しかし、前記のイメージアルバムには、EWEもかかわっているので、将来的に何か発展があると見て間違いはない。とにかく前に書いたように雑用がおてんこ盛りの状態で、しかも来週末は横浜ジャズプロムナードなどもあり、休む暇なし。(デンマーク側は総勢6人、二人我が家に逗留し、他はホテルに滞在。)デンマーク人にかぎらず、友人の普段気付かなかった、自分には当たり前な日本の諸事情、事柄に対しての、彼らなりの鋭い指摘などあり、良い意味で神経が刺激を受け、同居することはまんざらやぶさかでない。脳内の大掃除を彼らと共にするつもり。まだ決定せぬ案件など有り焦る心持ちではあるが、彼らの来日が待ち遠しいことに変わりはない。どうなることやら。 某月某日 突然デンマークから大勢の仲間が来日することとなり、雑事がおてんこ盛りとなってしまった。今回は僕の仕切りで呼んだわけではなく、さるデンマークのデザイン会社のイヴェントのための来日ということである。しかし、日本で演奏する楽器等のレンタル及びその運搬は、自然と僕の役回りとなり、自分で企画してないからこその齟齬がいたるところに生じ、海を越えてのe-mailで、キャスパーとああでもないこうでもないと、お互い第二外国語の英語をあやつって、何とかこの仕事のスムーズなる流れをつくり出すのに、いま四苦八苦している状態。何をかくそう、僕はデンマーク人によるセプテットのただ一人の日本人ピアニストである。興味のある方は、このWEBのCD欄をご覧あれ。このバンド結成以後、毎年デンマークのセプテットを日本に呼ぶことを自分の内なる課題としてきた。この日記の読者も御存じのとおり、2002年10月に、EWEから「MORTIMER HOUSE」EWCD0047 ewe recordsを発売している。しかし、今年前半、何やら不穏な空気が世界をおおっていた。SARS、イラク戦争、だいたい秋口のツアーは、3月頃から行動を起こさないと、形に成らない。その時期に、何時終わるやも知れぬ疫病とテロに、我がデンマークの友を巻き込んではならないと判断し、今年はツアーなど計画せず、おとなしく秋口には栗でも食っていようかと思っていた矢先の、先方からの急なオファーである。イラクの戦争は、内紛を抜かせば、まあ気にしなくても良いかという状態で、SARSも、今のところおさまっている。こんなことなら、最初から、件のデザイン会社と結託してもっと大きな何かができたのになあとお思う反面、彼らが来日するまでの準備に追われる僕自身、やはり何と言えば良いか、今年も栗なんか食って京番茶すすってる暇じゃないよと言うどこからかのお達しなのであろう。実際演奏のメインがデザイン会社のパーティーの仕事であるので、過去通常演奏してきたし新宿ピットイン等などでは演奏しません。デンマーク大使館の庭とか、そういった内輪の仕事ばかりですが、なんとか一度だけでも、ふつうの日本人にこのサウンドを聞かせたく思い、期間ギリギリまで奮闘中といったところです。何か新しい動きがあれば、DM等でお知らせを出します。また、この日記を呼んで興味を持った方は、是非こちらにメールを下さい。詳しい情報を届けます。ツアー中何日か空いている日があるので、急遽どこかでゲリラ的に演奏するかもしれないなんとも微妙な状況です。まだKASPER TRANBERG SEPTET(KASPER TRANBERG :CORNETJAKOB DINESEN :TENORSAXOPHONE MADS HYHNE :TROMBONEHIROSHI MINAMI :PIANO NILS DAVIDSEN :BASSANDERS MOGENSEN :DDRUMS)を聴いたことの無い方、これはもう、言ってみれば我々の北欧というプレコンセプションを根底からぶっ壊すようなバンドなのです。北欧と言えばECMですが、もちろんこの手のサウンドも踏襲し、そこにえも言われぬモダンな音楽に対するアプローチと、日本人の感覚では得られない空間の扱いのうまさ。ロック的なフィーリング。しかし全体的には非常にアコウスティックなアンサンブルで聞き手を圧倒する。こんなバンドなんです。今回、一部かぎられた場所でしか演奏できないのが大変残念ですが、いずれまた、皆様の前に、彼らの音楽を表現する機会が訪れると思います。いずれにせよ、この日記の欄と、NEWSの欄、お時間のある時にチェックしてみて下さい。デンマーク大使館以外の仕事も、彼らの滞在中あるやもしれません。 >>>

静謐な一日

某月某日 静謐な一日だった。そもそももう夏の太陽とひかりと雲とは言いきれぬ色彩が空全体を彩って、雲が風に吹かれて二重にも三重にもなってバラバラな方角に進んでゆく。各々最新のモードのような色彩と形状で、目を離したくなくなるような素敵な青空の中を、それらの雲がただよっている。湿度は低いし、風の音がまた微妙な一日で、夜半になるにつれ少し強めに吹いてきた。朝昼兼用のもり蕎麦をかっこんだら、後は散歩と練習の繰り返しである。誰にも会わず、黙々と、体を動かし、練習をしていると、途端に暗闇せまり、虫の声が大きくなってくる。ずっと鍵盤の前に座っていることは苦痛ではない。にもかかわらず、これほどに御しにくい楽器もめずらしいと思いながら、自分との葛藤は続く。蕎麦一杯で半分空腹がよく、眠くもならず、ただただ色々と弾いてみる。教本、理論書など、巷にいくらでも売っている。その巷の書をどう扱うかがひとつのポイントではあろう。しかしこれは、だからといって、僕の音楽を聴いてくれた人に何らかの、言葉はベタだが感動なり、何がしかの表現を伝え得るとはかぎらない。聴衆も無し、第三者のいない練習という行為、以上をもってして、本番にどれだけ役立つか見当がつかぬ。まあ逆に言って、こんなことでこの浮き世の風にかろうじて吹き飛ばされずにいられるのだから、恩徳というものかもしれぬ。などと秋の夜長にぼーっとしていたら、急遽我が盟友であるデンマーク人、KASPER TRANBERG(COR)が来日するとの知らせが入った。さるデンマークのデザイン会社主催のパーティーなどで演奏するため、EWEから発売中の彼のCD「MORTIMER HOUSE」の面々と東京都内だけでコンサートを開くという。もちろん僕も参加する予定だ。途端に忙しくなってきてしまった。詳細は次回の日記にて。 某月某日 薄暗く、何やらどんよりとした世相のせいか、日々これ多少うれしいことがあったとて、時間がたつにつれ、その喜びの感覚が薄れてゆく早さが、何となく定かでない。未来への不安に対するうすぼんやりとした感じ。まあ、薄ぼんやりとでもしていなければ、たちまちあらゆる神経症の原因が我々の廻りにうじゃうじゃあるのだから、これは世相から反影した人間の本能的な防御策なのかもしれない。今年もまた薄ぼんやりと暮れてゆくのかと憂鬱な気分でいたところに阪神タイガースの優勝を、我が家のスクリーンで目の当たりにした。嬉しかった。快挙である。18年ぶりである。このうすぼんやりしたいやな空気を一瞬でもぬぐいさった彼らの功績は大きいと思う。僕自身東京生まれの東京育ちではあるが、僕の親父が京都の出身で、物心つく頃から、阪神ファンになるべく育てられたというよりも、培養されたという言葉のほうがしっくりくる。テレビの野球放送の勝ち負けに、家庭内の明暗が左右されるのだから。阪神対巨人の試合などで、大きく阪神がリードしている時など、父は御満悦で、それはそれで良いのだが、それが阪神の内野手のへまなどで逆転されたりしたらもう大変。酒の入った親父の罵声が、当時住んでいた長家のような公団住宅の200m四方に聞こえるのではないかという大きな声で、阪神いったりいー!たかがまり投げやー!と怒鳴るのだからたまらない。家族皆ことの成りゆきを見守るしかない。こちらにその怒りのとばっちりがこないことを祈りつつ。ひろし~よーみとけや、ここで三振とらなンだら、こいつアホやで、と親父がいってるそばからその投手は致命的ヒットに矢折れたりする。だんだん親父の顔がどす黒くなってくる。怒りと酒との相乗効果。こういう家庭であったので、無意識下という意味でも、トラウマという意味でも、阪神が好調だと、僕自身精神の均衡が保たれる。家庭というものが、子供に対していかに大きな影響を持っているかという、くだらない査証である。川に身を投げたり、阪神グッズを身にまとっての大騒ぎは、僕の本当の阪神好きとは少し違って、僕の場合は、心の中で静かにムフフとほくそ笑む種類のひねたファンである。気分的に何か物事に対してすっきりとした気分を味わえたのは僥倖。しかし、この阪神優勝ということだけでは、僕のうすぼんやり感は残念ながら止まない。こういうの日々に、如何様に意味付けすれば、充実した精神というものが去来するのだろう。追記:もし僕のピアノの音が好きで、同時にジャイアンツその他の球団のファンの方がこの日記を見たら、たぶん御立腹なさるだろうと思います。これは、野球好きとか、阪神命とか、そういう命題ではなく、あの縦じまのユニフォームを見ると、京都の親戚との思い出、、過去の父親との追憶ががーんと僕を阪神フリークにしてしまうのです。ですから、逆にいえば、浜中おさむが怪我で今シーズン出場できなかったとか、誰々の打率は何割だとか、そういうデータはまったく頭の中になく、阪神が好調であれば精神状態も好調というまことにシンプルなファンです。道頓堀から飛び込んだり、応援で死人が出るほどの野球チームのカッコよさは充分認識しています。ですが、僕はそこには加味していません。でも今期の優勝は心の底から底から嬉しいことにも間違いがない。どちらを本当のファンと言うかは、江戸川乱歩の少年シリーズではないけれど、読者諸兄にまかせようとおもいます。 某月某日 新曲を演奏するために費やしたエナジーは相当なものであった、まあ、演奏自体はメンバーの音楽性と芸達者な部分に支えられ、昨夜のピットインに於いての演奏は無事終了した。燃え尽き症候群の自分が、また新たなる境地を切り開こうともがきにもがいた後の結果は、これからもこの音楽をいけてるように演奏することができるという確信であった。しかし、燃え尽き症候群の後にまた微々たるエナジーを絞り出したので、何日かは人との会話が成り立たないほど疲弊す。そういう日は黙々と家事に勤しむ。本当は、気分転換にでもNYでふらふらしてきま~すてなことが書けた方が、格好が良いのだろうがそうは行かない。床を拭いて、ワックスをかけ、トイレ風呂などもピカピカにして、出前のおかめ蕎麦をすすり、冬支度の為の押し入れの整理と、家の中で修繕しなければならないものを探すとけっこうな数となり、東急ハンズなどに出かけ、必要なものを買い、帰宅後修繕にかかった後、必要な服を買いに出る。幸いsecond handのものと新品のパンツが見つかり、(パンツってズボンの事です)予算以内だったのでビールを飲み、時計を見たらもう夜9時頃であった。本日は雑用仕掛人として、家のまわりをぐるぐると歩いた。家事をやっていても、買い物をしていても、不思議なことに音楽の事は一瞬たりとも頭から離れない。実際練習の時のようにピアノの前に座っていなくとも、ふっと見た台風後の空の風景や、風の音、そして急に冷え込んだ今日の気度が、僕に何か新しいイメージをもたらしたことは確かである。こもって練習ばっかりしていると、こういう情緒的な事はあまり身の回りで動かない。この二つの事がバランスよく進行すれば、今以上に練度の高いサウンドが作れるのだが。一日休みといっても、なんだカンダ雑用があると、日が暮れるのが早い。そしてまたも外食。友人らと新しくできた近所の居酒屋で焼酎を飲む。染みるんだねエこれがねえエ、胃の腑に落ちる前に気化してんジャねエかって感じのスイ飲で、まあ、明日の演奏の事もあるから、とにかくここらでということで友人達とも解散。普段よりは運動量が多かったはずなのに、またも眠れず。岸田秀著「日本人はなぜかくも卑屈になったか」を読み出したら、ヤバいヤバい、面白過ぎてこれは徹夜になりかねんと放り投げて沈思黙考。今それが終了の後にこのような文書をかいているのである。今日の日記はあまり面白く書けなかった。 某月某日 菊地成孔氏と大泉学園にあるクラブ、IN F で再びデュオで演奏す。前回エアジンで演奏しているので、予定調和という言葉からちょっとそれたところにある安心感のようなものがあり、二人の息もぴたりと合った演奏となった。満員御礼で、クラブにもお客さんにも感謝したいと思う。曲目も前回エアジンの時とさして変わらず、ビリー・ストレイホーン、マイルス・デーヴィスの名曲などをちりばめて続けざまに演奏。曲間にお馴染みの菊地氏による絶妙なトーク、その場の空間がいい意味でのどこか音楽学校の講座風になったりと、とにかくお客さんを我々の世界へ充分に引きこむことができたようだ。ただ話のネタが、お互いが使っている薬に関することに成ると、このことに関して、どこまでが冗談で、どこまでが真剣に語るベきものか判断がつかず、僕の方は何とか答えを曖昧にしていたが、この世の中、色々と病んでいる方が多いと聞くし、遠回しな薬ジョークも、わかる人にはわかるものなのだろう、会場からクスクスと笑いがもれていた。僕はなかなか神経質なところはあるが、まだ幸いにして、電車に乗れないとか、過呼吸症候群などになった事は無い。医者の出す薬もギャンブルみたいなもので、その人の体質、その他諸々の条件が一致した後、症状が快方に向かようである。しかも複数の錠剤をまぜて飲むことがあるので、どれが有効か、そうで無いかの見きわめも大変難しいような気がする。レコーディングの後、いわゆる燃え尽きシンドロームの状態となり、あれよあれよという間に、今月19日(金)新宿ピットインで演奏することとなった。いまはその準備の真っ最中で、精神衛生上、良かったり良くなかったりで、結局のところ、自分で判断はつけられない。いずれにせよ、新曲三曲を演奏するつもり。こう御期待。 某月某日 体力の消耗は、なかなか体の中から抜けず、我ながら苦笑を禁じ得ない。もう歳だなどと思う前に、あれだけの演奏とその準備に費やせば、致し方ございません、と自分を納得させ、しばらく何もせずに休んでいようと思い、ここ何日か、散歩の他には外にもでず、家の中でジッとしている。一回だけ、ヴァ-ジンシネマにて「ターミネーター3」を見に行ったが、特に何の感想もなし。ドカーン!バキューン!ズドーン!グワシャン!という効果音で暑気払いをと思ったのだが、アメリカの女は逞しくて強くて、アメリカの映画制作者は核というものに対してあまり本当の怖さを知らないのではないかと思っただけだった。核を扱うにも、キューブリックの「博士の異常な愛情」ほどのブラックなユーモアになら、納得できるけれども。しばらくは人前で演奏する機会もなく、雑用は生きているあいだつきまとうものであるが、そういうことからも意識的に目を外し、さて何をしようかと思った途端、いつも暗然とした気分になる。趣味は無し、読書もさえも、今回は疲れて集中できず、そう、ほんとに暗然とした気分でカウチに寝そべってタバコを吸って、店屋物を喰って、日暮れの街を少し散歩して一日が終わる。ぴあなど買って読んでみると、このメガロポリス東京では、多種多様な催しが、毎日行われており、たまには美術館でも行ってみようかと、そのページを開くと、 その情報の多さに、行く場所を選びだす段階でもう疲れてしまって、外出する意志さえ萎えてしまう。これは現在問題になっている引きこもりの始まりなのだろうか。一人でいると、難しいことをとことん考えたり、その手の本を買ってきて、それだけでは飽き足らず、同じ種類の本をまたどっさり買ってきて、明け方まで読みふけり、昼夜逆転し、あげくの果ては不眠症と成る。というのが、こういう何か大事をやりとげたあとの、今までの過ごし方だった。夏目漱石の家を筆頭に、坂口安吾、金子光晴、壇一雄など文章を書く方々は、よくお互いの家にいきなり訪れたり、何かの会を催したり、一匹オオカミ同士ではあれ、なかなか交流が盛んだったことが、それら小説家や詩人のエッセイなどを読んでいるとよくわかる。まあ昭和の戦前戦後の話だし、今とは時代が違うといえばそれまでだが、何となくうらやましくもある。とは言え、まわりに人がおらず、ただ独りまんじりともでずに時を過ごしていること自体、ある意味で贅沢なのかもしれない。 某月某日 昨日、レコーディングが終了。今は,前の日記に書いた蝉の抜け殻みたいな状態で、体が透けそうな気がするほど消耗した。大げさだと思われるかもしれぬが、脳内がロンパリみたいな気がしていることは確かである。こういう日記を書くこと、不特定多数の人に自分の心情を吐露していること、況んや、人前で何やかんや演奏したりしていること自体、疚しいことはなはだしいと、一時期そう思いつめてしまっていた。そういう事情で、しばらく日記をここに書き込むことをやめていたのだった。その当時の僕であれば、レコーディングの事などを書き込むこと自体、何だか、著しく、そしてはなはだしく、無意味で疚しく自分自身の気分が悪くなるものであったろう。しかし、そんな気分を一発で粉々にする経験をしたのである。そのことによって、自分がそういう鬱々とした状態に追い込まれていた原因であった音楽そのもにも、日記を書くことも、疚しさを感じなくなったのだった。それは今回のレコーディングセッションがきっかけである。そんなすごいレコーディングセッションが、僕の前に立ちはだかっていたのだ。前回の日記にも書いたことだが、プロデューサーは我が盟友である菊地成孔氏、共演者は最近EWEで綾戸智絵さんなどとの共演で有名な、DEEP-RUMBAのリズムコア的存在、オラシオ・へルナンデス、ベースは,今月のMt FUJIJAZZ FESTIVALに綾戸さんと出演したカルリ-トス.デル・プエルトである。この僕を含めた三人で菊地氏のアイデアによる、ちょっと見た目は普通だけど、良く見るとこれは何かすごい事が起きてるんじゃないかという音楽を創作することが今回の主旨である。スタジオで二人で演奏する前に、このキューバ出身の共演者とは赤坂の某飲み屋で会っていた。しかし、スタジオに入るまで、互いに演奏するのは初めてである。オラシオ、カルリ-トス共々、生の演奏、CDなどでは聴いてはいたのだが。今までは、例えば我がGO THERE など、何度かクラブなどで演奏し、どこがどうなっても何とでも成るわいというところまでグループ自体を形作ってからレコーディングに臨んでいた。しかし、今回は本当の意味での初顔合わせであった。スタジオでドラマーのオラシオの顔をみた瞬間、ああ、これはうまく行くなっと思った。何故だかわからない。ただ、彼の男気、優しさ、気持ちの広さがスタジオにも僕の心にも染み渡っていたがごとくだった。ベーシストのカルリ-トスも、これは女に持てそうだなと思わせるスイートな奴で、すぐに友達になってしまった。プロデューサー菊地氏を待つあいだ、短いながらリハーサルをする。ヘッドフォーンから彼らのサウンドが脳内に解けて流れ込んできた。聞こえてきたって書くよりこういうふうに表現した方がリアルだからあえてそう書く。涼し気なサウンドで、意外に控えめ、オレがオレがという嫌らしさもみじんもない。瞬時に曲の雰囲気を掴んで、それを何気なく僕に提示してくれる。音が透明で涼しい。特にオラシオのシンバルやブラシの音の中には、やさしいやさしい海の波のような要素が含まれているような気がした。決して暑苦しくはないけれども、パーッと輝いている太陽みたいな空気感。録音がはじまってもその感じは持続した。おいおい、いいサウンドをお互い創ってどこか見たこともないようなところに一緒にいこうぜ、って言ってるようなベースとドラムの音だった。ここに彼らと一緒にいるだけで嬉しかった。泣き言をここで書いてもしょうがないけれど、今まで音楽をやってきてファックなことも何度か有った。でもピアノを演奏してきて良かったなと思えるモーメントであった。オラシオのドラムはそれだけものすごかった。各曲1か2TAKEで何の問題もなく全曲を終了。オラシオとカルリ-トスと抱き合った。俺達は一晩でバンドになったんだって言う気がした。彼らは世界レヴェルのプレイヤーだから、毎回共演者にそう思いこませるだけの何かが有るのは確かだけれど、それ以上のsomething elseが音楽にあった。音楽はそういう点、ある意味で非情で正直であるのですぐにわかる。曲目はいずれ、このレコーディングの企画が先に進んだ後明らかにしたいと思う。相手がキューバ人だからといって、全てラテンな曲をやっているのではない。オラシオはNY,カルリ-トスはLA在住である。 某月某日 作曲だ、アレンジだ、練習だ、家事だ、洗濯だ、掃除だ、気温は高し空は青。以前、めったに見ないテレビを見ていたら、ゲストとして作詞家のなかにし礼氏が出ておられた。別の出演者が、どうやってこんなにたくさんの良い作詞を創作する事ができるのですか、となかにし氏に問うた。氏は一言、「絞り出すんですよ」と答えた。番組なんか吹っ飛ぶような真にせまった天才のお答えであった。胸を打たれた。天才でない僕も、レコーディングが迫るにしたがい、身を絞っているのだが、マルセル・マルソーのパントマイムの「淋しさ」とかいう題名の格好みたいのをしているだけで、別段目が爛々となるようなアイデアはそうそう絞りでない。このまま自らをしぼりあげても、爪楊枝程の役にもたたぬ。まわりの人に迷惑がかかるのみ。話は前後するが、菊地成孔氏プロデュ-スで、新しくCDを出す事となり、レコーディングは今月末である。内容、共演者その他諸々は今のところ企業秘密である、が、前回のエアジンの菊地氏とのデュオの時、彼がその秘密をしゃべっていた。あの日あの時エアジンにいなかった人にはまだ秘密なのである。その秘密の内容が、いままでにない企画と斬新さ、菊地氏ならではのスイートなユーモアにも満ちたもので彩られている。これはこれミュージシャン冥利に尽きるのだが、アイデアだって時には尽きてしまうのである。四苦八苦していると、以前見に行ったマグリットの展覧会のパンフレットがふと目についた。なんとなく目を通していると、こんな言葉があったのだった。「~アイデアに悩まされていてはダメなのです。大切なのはイメージだけなのですから。~」この前後の言葉をすべてここに掲示するとなんらかの問題が生じそうなので避けるけれども、目の醒める思いがしたことは確かなのだった。表現できるできないの問題を除けば、万人これイメージは持ち合わせているはずで、この僕にだってイメージはあるのである。もう少しだ。 某月某日 ピットインでのBOZO、吉祥寺SOMETIME,そして横浜エアジンでの井上淑彦QUARTETの演奏が三日間続いているうちに、本格的に暑くなりはじめ、阪神はやはり連敗し、全国でわけのわからない殺しなどがあり、世界では自爆テロが続き、こうやって演奏して毎日生きてるだけみっけもんなのかも知らぬ。レコーディングがまじかに迫り、譜面を書き練習してからクラブなどで演奏すると、一日が終わりには、脳内にはもう、セニトリンだのノルアドレナリンだのドーパミンだのなんだのカケラも残っておらず、床に這いつくばって、低い位置から部屋の中を見渡したりする。虫の焦点と世界。日中外の空気を吸うために、炎天下にタバコなどたずさえ出てみると、蝉がないている。ミーンミーンが通常4回。何度かに一遍はミーンが6回続く時もあり。蝉はすごい。自分が蝉と言う存在であるという意識もなく、ただ鳴いている。こっちは、こういうふうにしたらカッコよく聞こえるかなとか、ここのコードをなおしてこことここを繋げりャあもっと曲自体がまとまるなとか、日がな一日やっているのである。自分は自我のガリガリ亡者である。蝉より劣る。否、蝉よりなどと書く事自体おこがましく、疚しい。元々蝉の方が自然であり、ただ季節が来たから鳴き、たぶん死という概念もなく力つきたら木からポロッと落ちて終わりである。なんとシンプルな。蝉がたくさん鳴いている木陰に立っていると、蝉のなき声がうるさいのに何故か静かな空間にいるような気がしてくるのはなぜなのか。 某月某日 ひさしぶりに、菊地成孔子氏と横浜のエアジンにてデュオで演奏。我が家でリハーサルをしてから桜木町へと向かう。小雨降るなか傘をさし、よたよたと目的地にたどり着くと、そこはもう超満員であった。うれしい限り。トイレ裏の階段が急きょ楽屋代わりとなり、タイル張りの床に腰をおろし、最後の打ち合わせをす。菊地氏の用意してくる曲、しかもデゥオでの演奏でこれだけの味濃いレパートワ-は、何やらあまりにもジャズ演奏としてストレートで、それはそれ嬉しくもあるのだが、さて、これらの天才のメロディーを、どう自分なりにサウンドさせるか、と腕を組まざるを得ない。「SOPHPSTICATED LADY」「CHELSEA BRIDGE」「PRELUDE TO A KISS」「ISSAFAN」等々、デューク・エリントン、ビリー・ストレイホーンの名曲ぞろいで、才能のある人が作ったものには、素直に全身で乗っかってかかるというのが得策ではないかと瞬時に思い立ち、リハーサルでああでもないこうでもないと考えた事はいっさい切り捨てる事とす。ビリー・ストレイホーンは天国を垣間見てしまった男である。これはアーティスト、特に作曲家としては至極ラッキーな事ではあるが、彼が、一般社会の人間として生活する段においては、ひじょうに厳しくきついものであったであろう。何しろこの世は地獄の要素で満ちているのであるから。だからこそ彼は美しいメロディーを、天上界からの音を身をよじって引き寄せ、音符に書き込む行為を意識のあるあいだ中していたに違いない。作者が死んでいるとは言え、否だからこそ、その天上界の音を自分なりに表出せねば、これこそ地獄の二乗である。菊地氏はといえば、飄々としていて、こちらが真剣になにやら思いを巡らせているのとは対照的な態度。しかしこの演奏前の緊張感の違いはあるものの、お互いの中に、ストレイホーンのメロディーは、天国の調べなのだという合意が暗黙のうちにあるのが察知できる。演奏するという事自体、これはある意味、自分をペテンにかけねばならぬ行為である時がある。誤解をさけるために書き加えるが、聴いている側をペテンにかけようというのではない。つまり、ピアノの椅子までたどり着くまでは、ある意味非情なる現実主義的でなければならぬ。しかし一端ピアノの前に腰をおろした後は、対照的に非情なる観念論者に成らねばならぬ。相手の音をよく聴くという部分では、ただただ観念論的なだけでは相手の音をよく聴くということがおろそかに成りがちであるが、共演者も同じ境地にいれば、これは不思議とお互いの音が共鳴しあうので、問題は起きない。より良い意味で観念と観念がぶつかり合える。なんだか難しい事を書いてしまったようだが、つまりだ、演奏によって、これら名曲が指し示している天上の世界にどれだけ飛んでいけるか、近付けるかという事がいいたいのである。もちろん聴いて下さっているお客さんと共に。という観点からすれば、今回の演奏、マサイ族にもヒケをとらない跳躍力があったと思う。こういう良い演奏をした後は、不思議と体が軽く、あまりドンヨリとした疲労感は感じない。エアジンのマスターU氏も今回の企画痛く気に入った様子。11月にまた同じメンバーで演奏する事が決定した。帰りの電車も菊地氏と方向はいっしょで、何やらこむずかしい精神分析の事や、プライヴェートな部分での悩みなどを話しながら帰る。各駅最終電車はあっという間に多摩川を越え都下へ。話は尽きぬが、どうも次回の菊地氏がプロデュースするぼくのCDの打ち合わせの話題はついぞ出なかった。一番大切な事なのにと気付いた頃は、お互いそういう事はまた元気な時にやろうやという目線が両者の間に交わされた。お互い御意のままに。充実した夏の世であった。 某月某日 二日目のMOTION BLUE YOKOHAMAでの仕事である。今日は昨日と違い、十分なサウンドチックをし、その合間に三曲の新曲を試す。最近僕は、曲の構成より、ソロの部分でのハプニング性を重視したいと思うようになって、テーマは譜面に一度目を通せば、さっと行くようなものばかり。後はメンバー同士アイデアを出し合い、よりよい進行と、ソロの順番を何となく決めて、そこに兄貴のドラムがうまく噛めば、その後は、本番でやってみて、曲全体の流れの風通しの良さを確認できればそれでよし。その曲は、飽きずに何年か我がGO THEREのレパートリーのひとつとして存在する事ともなる。ピアノが良いので全てがさくッとうまく行き、演奏時間まで控え室にて逼塞す。控え室とはいっても、昔キャバレーをやっていた時代に押し込められていた家ダニの巣のような場所でなく、心地よい空間である。コーヒーの入れ替えも不定期的に来てくれる。今番の演奏のできは、自分でいうのもなんだが秀逸であった。ピアノが良いのでトリオの曲も2曲演奏した。「SCRAPPLE FROM THE APPLE」「B MINOR waltz」。何んだか今回の日記は、正しいイミュージシャンのライブ報告となってしまった模様。まあ、これがミュージシャンのサイトの日記の王道というもの。たまにはいいか。 某月某日 MOTION BLUE YOKOHAMAにて、我がGO THEREのメンバーと演奏。色々な条件で演奏してきた我々だが、ここほど演奏のしやすい所も少ない。なにしろまず、ピアノは極上物だ。そうなんだよ、この瞬間に、このイメージで、この音色が出ればどんなに良い事か、と余計なカタルシスを普段溜め込んでいるせいで、脳内のセロトニンが疲弊してしまうのだ。しかしMBのピアノは、これらすべての僕の想念を軽々しく現実の音として奏でてしまう一品で、そうなってくると、今まで練習したり感じてた事は正しかったんだなどと、僕の人生にはあまりない観念と現実との一致が体験できる。本当は、こういった心配なしに、つまりこういう事ができるという事を前提にして、いつも演奏を始めたい。きれいな音楽を作りたい。この初日の日曜日、野外のコンサートが台風の影響で延期になり、我々の演奏時間と重なってしまった。MBのある赤れんが倉庫のすぐ横で野外フェスティバルなどやっており、爆音が店の中まで響き渡っている。店側のマネージャーと相談の上、こちらの演奏を夜9時から遅らせて始めるという事となる。サウンドチェックなどやってる暇などなく、どんどん演奏を始める。それはそれで、その場の状態でベストを尽くすしかなく、僕も含めメンバー以下自分のやりやすいベストの状態でないにもかかわらず、よいサウンドが瞬間瞬間表出する。メンバー共々さすがである。頼もしい限り。各テーブルにはキャンドルライトがともっており、ヨーロッパのクラブで演奏しているようで気分良し。二日連続の演奏であるので、明日が楽しみだ。 某月某日 再度日記を書く気になった梅雨明けの夜である。東京電力には申し訳ないが、部屋の中は空調にてかなり温度を低くしている。日中の雑事、練習などによってかいた汗はもう一滴も出したくないからである。ミュージシャンなんて、さぞかし気楽な生活をしているのだろうと思われる方もいらっしゃるかもしれぬ。が、以外にそうでもなく、況んや生きているだけでも大変だと言う観点から見れば、皆同じであるかもしれぬ。今日は朝から仕事の調整やらですぐ昼飯時となり、パンをかじりつつ右手で傘の上の土瓶をまわしつつ左手でワープロを打つようなウルトラZな午後を過ごし、さすがに暗くなるにしたがって疲弊す。ピアノを少し教え少々実入りがあったので、焼き鳥を喰うこととす。ラーメン、蕎麦、寿司などは庶民の食べ物であるべきで、気軽に飲んでさくッと喰ってヘイごめんよと帰るのが理想だ。焼き鳥屋もその範疇であるべきだ。近所に行ったことのない一件の焼き鳥屋があり、ふだんから気になっていたので入ってみた。まず変な演歌の有線などを流していないのでほっと一息。メニューを見ると、有楽町駅下の焼き鳥街の1.8倍の値段がずらり。それでもうまければと、鶏レバー焼きと葱まに焼酎サワーにお新香をたのむ。なにしろ妙な有線の音楽がないということが、まず僕の合格ポイントであり、チビチビ焼酎サワーをなめていると、一品目が出てきた。サイチイである。つまり各焼き鳥のネタが小さい。僕のカンも鈍ったものである。最初の一品を見てこりゃダメだと思った。味はそこそこであるが、なにしろ、この焼き鳥、ミクロの決死圏から登場したのかと見間違うほど小さくて、チビ飲みサワーで麻痺した脳みそも、どうやって早く帰ろうかなあモードにきりかわってしまった。こうなってくると、オーダ-したものを早めにたいらげ、絶妙のタイミングを見計らって、この店を後にすることだけを計算するのみである。勘定をすっと払いすかさず行きつけの焼き鳥屋に直行。最初からこうすればよかったのである。まあ、こんなもんだ。と思いつつ行きつけの店でレバーなどを堪能し、帰宅後また雑事をこなす。初回の店の出費は学校で習わない事として心にとめ、深夜また次回のコンサートの準備をたらたらとする。世はままならぬ。 某月某日 長いあいだ日記を書く事から遠ざかっていた。音楽のこと、生きている意味などを考えていたのだった。それなりの逡巡があり、苦悩があり、それらを経て後、思考の深淵の奥底までたどり着いたと思ったら、それその奥底にあった答えが、まったく意味をなさぬものであったり、パラドキシカルな要素を含んでいたりと、一向に考えがまとまらず、文章を書く気力も失せ、このように長いあいだ日記が更新できなかった。以前どこか前の日記に書いたように、こういうミュージシャンの日記というものは、例えばの話、どこそこへ行って演奏しました。いやあ、皆すばらしい、お客さんもご機嫌でイエイなんてな事を書いているのがいちばん無難なのであろうが、どうもそれだけでは僕の場合、物足りなくなってしまう。と言いつつも、昨夜の演奏を簡単に報告する事としよう。やはりどうも僕の考えている事は矛盾だらけのようだ。鎌倉ダフネと言うクラブにおいて、ギラ.ジルカ、水谷浩章、芳垣安洋という異色のカップリングで演奏した。御存じピアノ、ドラム、ベースは我がGO THEREのメンバーであり、GO THEREでは、僕のオリジナルしかやらないので、昨夜は、芳垣兄貴と「ONE NOTE SAMBA」やら「MISTY」などのスタンダードを演奏する機会はそうざらにはなく、さらに、いわゆるウタバンなど3年以上やッていないなどと謙遜する兄貴のプレーに、惚れ惚れとしてしまったこともあって、楽しい一夜であった。いわゆる予定調和のジャズドラマーという規格にはまらぬ面白いアイデアが、絶妙のタイミングで歌とからみあい、そこに水谷のベースが、「いい感じ」な事をすいすいと当てはめて近年稀に見る満足度の高いパフォーマンスとなった。まあ、こういう演奏ができる日ばっかりであれば、よけいな事も考えないのですむのだが。… >>>

惑星直列的大惨事

某月某日 散歩と読書がわが脳みそをかろうじて惑星直列的大惨事から守ってくれている。情ない話であるが、この二つの人生のアイテムは、ほかの暇つぶし、趣味に比べ安価である。良書は精神の地図と言え、千円で釣りがくる。しかも、生きているうちに、世界の良書をすべて読破する事は不可能だ。ということで、飽きもこない。東京という場所は、店鋪のみならず、その土地にあるビルごとある日消えて無くなるので、ある意味散歩も飽きがこない。ひいきの店が突然消滅することはショックではあるが。地震、天災、空襲もないのに、建物がこつ然と消えて無くなるのは、なにやらこっけいだ。手品をみている感じである。同じ道筋を散歩していると、そういった空き地がポツポツと目につき、しかも驚くほど早く新しい建物ができあがる。景観もへったくれもあったものではない。新しいビルを眺めながら、ハーと最上階を見上げ、また歩き出す。本日も音楽ネタなしの味もそっけもない日記となってしまった。仕事がないんだからしかたがない。 某月某日 音楽とはあまり関係のない日記をだらだらと書いてきたので、3月に入ってから、我が音楽生活を真面目に書き記す文章をと考えてはいたが、なにしろこの月は、稀にみる演奏の回数が少ない月となり、今年後半に準備しているツアーやその他の雑事は通常どおりこなしているものの、演奏に附随する花々しいレポートなど書けない状態である。この回の日記も、前回に続き下らぬ挿話に終止しそうであるから、我ながらナサケナシ。いくら雑用その他があるとはいっても、日がな一日家に籠っていると、自ら鬱な気分を発酵醸造していることとなるので、夕方近くになると、強制的に小銭を持っておもてに出る。何やら風強く、薄ら寒く、目的も無くおもてに出た我が身を、ぴーぷーと風があおる。ボストン時代のマイナス20度に耐えたこの顔面、と思いつつふらふらと街を散策。禁治産者である。寒いので、自然脳内は暖かい快楽を求む。妙なレジャー施設や、お台場にできた大温泉ビルに比する快楽が我が住まいから徒歩30分のところにある。その名も○×△湯。都内も深く掘り下げれば温泉が出るらしい。温泉の事は詳しくはないけれども、サウナ、露天風呂完備で、帰り道はタクシー基本料金の距離でもある。行きは徒歩、帰りは湯冷め防止の意味でタクシーで帰るとして、まずは番台に料金を払う。タオルその他はすべて完備した場所だ。ロッカーにて眼鏡をはずすので、湯煙の幽玄な空間が、輪をかけてぼんやりして見え、まことに好都合。他人のあそこをがちょんともろに見るにがにがしさを味わわずともすむというメリットまである。体を洗ったのち、湯舟にて体をあたため、サウナ、露天風呂、湯舟という順番でもうろうとしてくるまでこれら巡回し、髪をかわかした後、下のフロアーにてビールを呑んでタクシーをつかまえる。せこいんだけど、なにげに王様気分で帰宅。冷蔵庫の食材で簡単な料理。本日はふろふき大根とシシャモ。自前の味噌だれを大根に塗りながら一日の後半を終了。こんなことしていて良いんだか悪いんだか。 某月某日 ぼくの数少ないファンの方からときどきメールが来る。嬉しい限りだ。その中でいちばん多い質問は、最近の愛聴盤はなにかというものだ。これはかなり答えるに難しい質問で、一挙一投足には回答できない。最近は、そのいわゆる愛聴盤として、音楽自体を聞けなくなってきているというのも、即答できないひとつの理由となってしまった。新しい、しかも興味深い新譜を買って聞く場合、ぼくの耳はどうしても分析的になってしまい、なあるほど、こんなことやッてらあ、すげエ、こんな技もあったのか、こんないい音でとれるスタジオとそのエンジニアはいったいどういう人なのだろう、等々、つまり、音楽自体をリラックスして聞くことができない。悲しい習性である。まだジャズを聞きはじめて日の浅い頃の、わくわくとして、聞きはじめたら心がドカ~ンと破裂しそうな、あの心の動きは近来あまり感じない。これは新しいCDを聞く時のみならず、音楽を聞く機会ごとに感じる最近の正直な感想だ。ということで、愛聴盤というものは、最近さらに特定できなくなってしまった。しかし、強いていえば、毎回聞いていて飽きのこないものがひとつある。それはCDではなく、ラジオ番組なのだった。その名もNHKラジオの「ラジオ深夜便」だ。夜中に譜面を書いたり、作業をしている時、この番組が、もっともぼくの脳内を静かな状態にしてくれる。こんなことを書くと、もうこの俺も、どこかの田舎の隠居おじいさんみたいだが、事実なのでしかたがない。バイリンガルの女の子が、威勢よくしゃべるほかのFM番組も、料理をつくっている間など聞くことはあるが、黙々と単純作業をくり返さなければならない深夜などは、やはりラジオ深夜便にかぎる。その単純作業中に、刺激的なCDなど聞いてしまうと、耳と神経がそちらに吸い寄せられてしまい、いかに単純な作業とは言え、仕事そのものに集中できなくなってしまうのだ。ラジオ深夜便は、ああ、まだこの国はなんとか、クレージーな人間ばかりで構成されているわけではないんだなと安心させてくれるという、別の安堵感もぼくにもたらしてくれる。「リクエストの時間がやってまいりました。本日のお葉書は、○○県××郡字△村にお住まいの、農業、×山◇太郎さんからのお便りです。寒くなってまいりました。いかがお過ごしでしょうか。本日は妻の誕生日です。結婚前、二人でよく行ったダンスホールでの日々を思い出したく、タンゴの名曲、ラ・クンパルシータをお願いします。妻と二人で楽しく番組を聞いております。」てなぐあいだ。平成の世に昭和の息吹が深夜に流れていると、子供のころ、少し夜更しを許された日々を思い出した気分になれる。たぶんこれは精神的退行なのだろうけれど、精神的安寧にはもってこいの番組ではある。 某月某日 前々回の日記にて、蕎麦屋のことを話題にしたら、各方面から大絶賛を受け、(うそです)なるほど、食い物の話題ならば、反応があるのだなと学んで、またここに食の話題について書くことにする。ミュージシャンのくせに、音楽のことに触れない日記など書くべきでないかもしれない。いずれにせよ、音楽のことは次回にゆずるとする。ディテールが面白ければ、この日記のコンセプトとは相反さない。食についていえば、今回の新しいCD「CELESTIAL INSIDE」に三曲の楽曲を提供した菊地成孔氏には、及びもつかない。いつだったか何年か前、デンマークで演奏するついでに、ちょうどその時期パリで演奏する仕事があった菊地氏をたずねたことがある。彼は毎晩のように、ぼくを、調べつくし選びつくした、そして値段も妥当なレストランにつれていってくれた。見も知らぬ料理が眼前を通り過ぎ、見事なる注文の順序によって、はたはた感心するヴァランスのよさで、毎回の食事を堪能できた。残念ながら、それらのメニューの名称、成り立ち、レストランの名前、それらはすべて記憶にない。これは本当の食いしん坊でない査証である。パリのはずれにあるヴェトナム料理屋にも、同じ時演奏の仕事でパリに来ていた水谷氏と食いにいった。これも水谷情報がもとで、僕はついていっただけである。実をいえば、91’年の冬から夏近く、6ヵ月にわたり、ぼくはパリを放浪していたことがある。事情を書くと長く成るので割愛するが、その当時、住んでいたアパートには同居人もいたりして、(この件の詳しいことは原稿料が発生するところでも書けない)毎日色々な事情でにっちもさっちもいかなくて、金もなくて、寒くて、フランス語もほとんど分からなくて、住んでいた部屋の窓はワレテいて、暖房器具がぶっ壊れてて、という、住環境へレンケラー状態であったから、レストランに行くなんて、とてもじゃないがそう頻繁にはできなかった。だから、パリの道筋には、記憶と経験で探りを入れることができたけれども、その道筋にあるレストランの扉をあけるには、我が同胞の助けが必要だったというわけだ。91’年パリ彷徨生活の食生活は、なんだかわけが分からない。まず朝はクロワッサン二個。あと小ぶりのどんぶりみたいな容器にカフェオレ。昼は食わぬ。夜はといえば、角の安カフェで安ワインをガブと飲み、胃をごまかしてからアパートに帰り、パテとフランスパン。パテとは、鴨かなんかのペーストで、そこいらの食料品やで安く売っているもの。外側にゼリーみたいのがかぶさっていて、これをあの長いフランスパンにぬったくって食らいつくと、その場の飢えはおさまってくる。まあ、同居人に、日本食をつくってやるとわけの分からぬことを言って金をふんだくり、パリにあるチャイナタウンにもよく行った。日本食などつくれるはずもない。材料があっても器具がない。向こうの人にとっちゃア日本も中国も区別はねエだろうてえんで、ずいぶんインチキなものをつくっちゃ食わせた。こっちは醤油の味さえすればよかったんだから。チャイナタウンに行くと、なぜだか、タイやヴェトナムに輸出されたであろう出前一丁など売っている。文字があのクルクルピョコンだから東南アジア用とわかった。胡麻ダレもちゃんと付いていた。これを大量に買込んで、オイスターソース、鶏ガラだし、醤油にてあらゆる種類の野菜を混ぜてバッと火にかけて、金の余裕のある時はちょっと肉などのっけて、はいようパーコー麺などと嘘八百ついて、同居人に食わせていた。もちろん俺も食った。窓の外は、フランス風アパートの並みいる甍と、その屋根から無数にはえてる煙突と煙り。夜なのになぜか薄明るい空に、なんだか妙に低い位置にある大きな雲が、カゼに乗ってあらぬ方向からあらぬ方向へと流れていて、その景色をみながら食する、タイ仕様の出前一丁は、ミスマッチな味だった。同居人はうまく騙されてくれて、「ボン、ボン」言いながら食っていた。パリに行ったのには理由があって、まあ、理由って言ったって、ぼくは哲学者ではないから、誰かにツッコミを入れられたら、さしたる根拠も開陳できない。ひとつ言えることは、ぼくはパリに住んでやろうと思っていたのだった。無謀である。フランス語なんか分からないのに、フランス人の友達が数人アメリカでできたから行ってしまった。ぼくの脳みその中には、この衝動に加えて、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」「南回帰線」、数々のフランス映画、エディット・ピアフの歌、その他諸々の憧れがごちゃごちゃしていて、英語さえ分かればなんとかなるジャンなんて思っていたのだった。真性のバカである。実際、行ってみたら、誰も英語を喋ろうとせん。ヘンリー・ミラーを筆頭に、ぼくの知っているパリのことを、パリに住んでいるフランス人はあまり知らない。いま考えると当たり前だけどね。ぼくだって毎日東京タワーには登らないんだから。まあ、そういった理由に加えて、パリに到着してその直後、なんだか湾岸戦争がはじまりやがって、パリの街も暗い雰囲気になってしまった。ある日、小銭を持って今日は久々に外食だ、なんて街を歩いていたら人っ子一人おもてに居ないなんてこともあった。後で事情を聞くと、テレビニュースで外出は控えるようにと言っていたのだそうだ。劇場、メインのメトロの駅、デパートなどに、テロリストが爆弾をしかけたという情報が当局に入ったからだそうな。フランス語の分からない真性バカのぼくは、さすがパリの夜景は絶賛に値する。金がなくとも環境からえられる文化は値千金、なんて気分で人気の居ない路地をうろうろしていたんだから。まあ、それで、メインの華やかなところは歩くんだけど、懐具合を考えると、だんだん場末まで寒い冬のパリをとぼとぼ歩いて、変にチンケなカフェなんだかレストランだか分からないような店に入るわけだ。店の前の看板の文字は読めないけど、数字は分かるから値段は察しがつく。そういう店にかぎって白人のフランス人はあまり居ない。皆ヒゲ濃い系のアラブ、アルジェリア系の人々で、まあ、それなりに親切な人達だったからいいんだけど、安いメニューの王様は、クスクスという、とうもろこしの粉を蒸してツブツブにした、地中海沿岸地域の主食と、なんだか酸っぱいサラダが定番。安くてうまくて、凍えた体にふ~っと栄養が行き渡るあの瞬間がたまらなかった。クスクスはあまり味付けがされていない。横に添えてあるサラだの酸味をまぜて、卓上の塩、コショウでいただく。まあこんなのは、グルメもへったくれもない。一般のフランス人はこないような店である。やたらエネルギーを持て余したのっぽのアラブ系青年が、店の中にあるピンボールをだんだんと叩きなながら真剣に遊んでおったり、カウンターの奥のオーナーであろう乃木将軍みたいなヒゲをはやした首の太い親父は、店の天井の角を、視線の定まらない漆黒のメンタマでボッと見ているような空間。他のテーブル席には、ぼく以外にもうひとりぐらいしか客が居なくて、それが、すっぽりと中東風ネッカチーフを頭から首まで巻き付けた、異様に目が大きくてきれいなアルジェリアかどこかの美人だったりする。どう注文したのか、ぼくとは違うまそうなものを食べていたりする。それはナンだと問うてみると、フランス語も分からないのに、なんだか、アルジェリア語でナンチャラという料理の名を言った。ふ~ん、値段も安いし、おっし、オーダー追加して太っ腹ジャポネになってやろうって勢いで、同じものを追加注文しようとしたが、あの時はたしかやめた。食後の酒代しかなかったから。ふだんクロワッサンとパテと出前一丁の毎日に比べ、ぼくの中では、このアルジェリア系レストランでのものが、星三つなのだった。まあ、月一回ぐらいだったけどね。後年、日本に帰ってきてみたら、何やら高級なパン屋が増えており、クロワッサンなども簡単に手に入るようになった。しかし、毎朝寒い冬のパリの路上を、てくてく歩いて買いに行ったあのクロワッサンと同じ味に、まだ出会えないでいる。戦争前夜の状況とか、沈んだパリの街並も、相乗効果があったのだろうけれど、それにしても、あのクロワッサンのしっぽのところのカリッとした食感が、日本にはないような気がするんだがなあ。あの味、もう一度味わいたい。バターの香りがほんのりとするのだが、べとついた感じはしない。あの朝の食感、もういちどシルヴプレ。 某月某日 TOWER RECORDがつくっているMUSEEという雑誌において、僕のインタヴューを載せることとなった。インタヴューも、その聞く側によって、こちらの主張が同じでも、記事自体は変化するものだ。今までにも、様々な人に、様々な国と場所で、あらゆる状況を含め、インタヴューを受けてきた。その際たるものは、91’年、日本でグリーンカードを取得するべくアメリカ大使館でのインタヴューであろう。グリーンカードは抽選で当たった。当たったのだから、当たった日から市役所などに出向きさえすれば、あのパウチッコ作りのカードが、その場で即給付されると思っていた。当たった当初は舞い上がり、当時住んでいたボストンのワル仲間と飲めや歌えの「青い招待状」取得ばんざいパーティーなどやらかした。カード取得に様々な技を駆使してくれた、移民専門の弁護士の送ってきた注意事項を読んでるやつなど、その場には一人もいないで、後日よくよく見ると、永住権を得るには、かなり面倒な手続きが必要である事がだんだん分かってくるというテイタラク。条件の中には、アメリカ大使館でのインタヴューが含まれていた。一旦日本に帰り、指定された病院にての身体検査を受ける。健康診断の後が、本命のアメリカ大使館でのインタヴューという事である。このインタヴューは、ライターの人がアーティストなどに行うものと内容は大違い。要するに、「面接」という日本語を当てはめた方が分かりやすいかもしれない。健康診断をパスして行ったアメリカ大使館、この「面接」の事は一生忘れないだろう。その当時の僕は、日本に帰る気などさらさら無く、なんとかアメリカに永住してやろうという思っていた。その面接は、アメリカ大使館内の窓口にておこなわれた。「アメリカが好きか?」「アメリカの音楽芸術を尊敬していて、それで長期滞在望むのだな。」「あなたの友人、両親、または親戚、それらの中に、過去におけるナチ、およびネオナチの活動に参加し、また、サボタージュ、スパイ、人種差別等の行動を計画、実行したものはいるか」などが主な質問だったような記憶がある。特に最後の質問は、アメリカに入国の際、飛行機の機内で配られるカードの裏に書いてあることと、大使館での質問内容を、混同しているかもしれない。グリーンカードの申請をしたのは、たしか92’年頃だったので記憶が曖昧だ。しかし、やはり同じようなことを聞かれたような気がしないでもない。親戚にナチがいないのかという質問だが、例えばぼくの親父が、ゲシュタポの将校の格好をして、新宿の呑み屋で、ナチ風の長めのブーツを、横の空いた席にひっかけて、「すんません、ヒレ酒熱いのもういっぱい」という図を瞬間的に想像できない。もしそのような場にぼくが居合わせたとしたら、ああ、もう南家はお終いだ、とその場で気絶するだろう。いずれにせよ、このインタヴューは、ぼくの人生の中でも、最も緊張する瞬間であったことには変わりない。最近受けたインタヴューで、身体的にも肉体的にも極度に緊張してしまったのは、去年の冬、デンマーク各地を我がGO THEREのメンバー、そしてピアニストの板橋文夫氏とツアーした時に受けたものである。コペンハーゲン到着後、その日の夜、ジャズのラジオ番組に、板橋氏とぼくという二人のピアニストだけでゲスト出演してほしいと、このツアーを組んでくれたデンマークジャズ協会の人にお願いされた。ジャズ協会が作成し、わざわざ日本まで送ってきてくれた綿密なスケジュールには、件のラジオ番組出演という欄はない。急遽決まったのであろう。到着直後のぼくの気分としては、まず着替えてシャワーを浴びて、ホテルの一回にあるバーカウンターでビールでもかっ食らって、時差ぼけを吹き飛ばしたかったところだが、かの地においては、まな板の鯉になるしかない。板橋氏と共に、目をしばしばさせながら、ホテルから車で15分ほどの放送局へ送り込まれた。建物の中には入った途端に、グオアーという感じで眠気が襲ってきた。第一次jet lag奇襲攻撃のはじまりだ。番組を収録するスタジオ内が、程よく暖気されていたというのも裏目に出た。ホテルのロビーで、慌ただしく荷物をほどいてフロントに預け、すぐさま放送局へ行く体制を整えている時、皆のすきをついて、ビールを盗み飲みしてしまっていたのだった。スタジオの暖気と、時差ぼけの疲れた体に染み渡るビールによって、急に脳みそ自体がモツ鍋になったような眠気である。かろうじて、この小さい細長の目を真ん丸くして、笑顔をつくり、番組のDJの人と挨拶。生番組らしく、間抜けな解答、質問の後に生じる音無の空間、これらをしない、つくらない状態で、心身共にシャープでなければならない。しかし、実際のこのぼくときたら、机に突っ伏して寝てしまいそう寸前という状態であった。番組がはじまり、まず板橋氏、HIRIOSHI MINAMI GO THEREの新譜が番組のオープニングとして使われた。DJ氏は、たくみにデンマーク語と英語を使い分け、デンマーク語の時はリスナーに向かって、英語の時は、我々に向かってと、さすがにプロの采配。こちらに対する質問も、ひじょうに洗練された、しかもリスナーという第三者が電波の向こうで聞いているという状況を包括した、見事なもので、こちらとしても、質問内容はもちろんの事、リスナーに対しても、呼び掛けになるべく答えなけれればならなくなった。しかし、その時まさに、そして最悪なことに、その時のぼくの「時差ぼけ」は、「爺さんぼけ」に近い状態になっており、とにかくDJから発せられる質問に、間をあけずに対応するのが精一杯。加えて、こういう場所で英語を喋るのは何年ぶりかといったおまけまでついて、さらに、先輩である板橋氏の言ったことを補足しなければならないのだった。まあ、リスナーの方としても、御苦労さんにも極東からわざわざデンマークまで来て番組に出て、なんだかしんないけど一生懸命しゃべっている日本から来たミュージシャンがいらあ、ぐらいに思ってくれれば、オンの字だった。国文学者で、イギリスに関してのエッセーなどを書いていらっしゃる林望氏は、インタヴューの極意というものは、寡黙でいることだとなにかの対談で言っておられた。ぼくの場合、爺さんぼけが高じて寡黙にならざるをえなかった。意図的に寡黙になるのと、寡黙にならざるをえないということ、この二つのコンテクストは表裏一体ではあるが、意味合いは全然異なる。ゲシュタポの格好をした親父が頭の中に出現したり、、お互い第二外国語で、しかも間を空けてはいけない生放送で、雄弁になれというのが、ぼくには土台無理な話なのだった。ぼくのインタヴューが載る次回MUSEEは、3月末入稿予定である。ここでのぼくは、はたして寡黙であったか、寡黙にならざるをえなかったのか、それは記事を見てのお楽しみということにしよう。 >>>

読書は辞めない

某月某日 一週間近く何もせず過ごした。ここ一年ほどまとまって休んだことはない。休みをとる期間をもうけることも大変だったので、その間遊びに行く準備をする暇などさらになく、ただただ家で本を読んで過ごしていた。4日ほどたって、夜12時を過ぎると自然に眠くなるようになってきた。ここ何年か、この時間帯は演奏直後なのであり、脳内の回転が一番早いころだったのだが、それが少し修正されたような気分。さらに二日ほどたつと、夜になるとさっと眠れるようになって、やはり不眠症のもとは演奏とストレスかななどと考えているうち、気が抜けてしまったのか、風邪をひいた。ここ何年も風邪はひかなかったし、ほかの病で熱をだしたこともあまりない体に、微熱と喉の痛みが発症し、ひさしぶりに臥せった。熱をだすこと自体になれていないので、どうしてよいのか分からぬが、とりあえず、家の中でも厚着をして、首にタオルを巻き、対決前の力石徹のような格好をして、さらに読書を続けた。朝起きて、シリアルに牛乳をかけて食べ、昼は店屋物、夜は適当に冷蔵庫の残りで末日的食事をこしらえ、ジッとしていたら、外界とコンタクトをとらねばならない日がきた。我がバンド、GO THERE !の雑誌取材で、駒沢公園にて撮影および取材をする日が来たのだった。雑誌の名前は、後日トピックスの欄にお知らせをだすつもりだが、所定の場所、駒沢公園に行ってみると、時差ぼけのメンバーが、もうすでに集まっていた。水谷、芳垣は、昨日までの大友良英NEW JAZZ QUINTETによるシカゴ公演から帰ったばかりで眠そうである。竹野だけがいつもどうり元気そう。ぼくとしてはリーダーとして、カメラマンのU嬢にもこちらが風邪であるということを知られたくはなく、平然と言われるがままにポーズをとっていたが、からだの芯から来るだるさと微熱、風邪薬によるぼんやりした脳みそでの撮影に、腰が悪寒でブルっと震えた。できあがりが楽しみだ。今回のCDのタイトルは、「celestial inside」とした。celestialは、天上の、天界のという意味であり、この世のものではない、ぼくのイメージする天界の音をCDの中にしまいこむというつもりで名付けた。その後インタビュウー、風邪薬のためか、合理的な解答を質問者に対して提示できないもどかしさを意識しつつ、それでも一生懸命にしゃべった。せっかく長く休んだのに、風邪とはいえ体調をくずすとは、損な性格である。撮影終了後、早速家にかえり、ワインを燗してちびちび飲み、体をあたため、少しまた横になる。そのあと、昨日作ったすき焼もどきの残りに、ソーメンを入れて茹で、腹の足しにし、時計を見たら10月最後の日となっていた。喉の痛みは引いたのだが、微熱と倦怠感がとれない。と言いつつ、着膨れしながらも読書はやめない。いまは、金子光晴の「西ひがし」「金花黒薔薇艸紙」「自伝、詩人」「絶望の精神史」「人間の悲劇」などの詩、論評を読んで、精神が深く脳膜の奥に沈潜。これほどの感性と、デカダンな魅力をそなえた日本人が過去にいたことに感激すると共に、自分の襟をただす思い。金子光晴は、詩人という枠に捕われない、一人の思想家と考えてもよいだろう。思想書にありがちな、ガチガチした文章は、この人の書くものにはなく、詩的表現を用いた思想解明の手管手練は、ぼくの情緒にひじょうに合うのである。まあしかし、ものの例え、作中の現象を問えば、時代が違うからしてすべての文章が現代にフィットするとは思えないけれども、根本的な問題点、人間のことに言及している部分は、いまなお色褪せておらず、教えられることが多い作家だ。40才を過ぎてからこの人に触れたことを感謝したい。30代では分からなかったことが多かったと思う。良書は一生の糧となりうる。 某月某日 デンマーク人が帰った直後から、コンピューターの様子がおかしくなりはじめて、最終的には、CD-ROMがコンピューターの中から取りだせなくなってしまった。取りだせないとなると、画面上普段してきた事柄が一つも行えなくなって、説明書を読んだけれども、自分の問題がどの箇所にあてはまるのか、見当がつかぬ。Macサーヴィスセンターなるところへ電話してみると、なかなかこれが大変な作業で、担当者に通じるまで、大変な手続きをふまなければならなかった。しかも、ものすごく長い時間待たされた果てに、その担当者なる見ず知らずの人が電話口にあらわれて、CD-ROMが出てこないというと、爪楊枝で入り口の右端を押してみろという。これだけのことを聞くために、クレディットカードの番号を聞かれ、5千なんぼの金がかかるということである。しきりに爪楊枝を入り口の右端でつついても、CD-ROMは出てこない。しょうがないので、修理にだすことにした。さいわい、いちばん長い保障に入っていたので、発送の時点から無料である。静かなる日々が舞い戻ってきた。コンピューターなどなくても平然と暮らせる。ただ、海外、特にデンマークからのメールを密にチェックしないと仕事に差し障りが出るので、友人宅などで、むりをいってなんとかメールチェックを何度か行った。今年はもうすでに働きすぎの感があり、6月、7月にかけてのツアーと、夏のレコーディングとピットインの3DAYS,日にちとして換算すればたいした日数ではないにもかかわらず、準備期間、アイデアなどを練る暇、それを実現するための労力を換算すると、我ながら大変な量であり、脳みそが疲れきって、コンーピューターがいなくなったことをいいことに、ちょうど演奏の仕事も、ピアノを教える日々もなく、怠惰な日々を過ごすことにした。とにかく臥せって読書三昧。読書は毒書であり、始めたらきりがなく、読んだ内容をその場でスラスラ頭の中に残らず忘れてゆくのに反比例し、字面を追うこと自体が快楽で、文章を読んでいるというそのこと自体を瞬間瞬間受け入れて日々を過ごした。便所と簡単な食事しか起居しない。ぐうたらを通りこして、頭の中の盲点が寒々としてくるくらいジッとしていることによって、やっと夜半になって眠くなってくることができた。普段のぼくの仕事は宵の口から始り、ふつうの人々のいうところの夜半に終わる。眠れるのは、明け方近くだったらラッキーな方である。それがやっと、ここ何日かでひとまわり地球の自転と自分が合致してきたわけである。そう思っていたら、ある日修理が終わったコンピューターが宅配便にて戻ってきた。大仰なダンボールの箱に入って。台所の包丁で切り裂き開けてみると、何やらくねくねした発泡スチロールに見覚えのある自分のコンピューターがはさまっている。この発泡スチロール、捨てる手間が大変だった。包丁で切り裂こうと思えば何やら床に細かい屑が落ち、だからといって、東京都指定のゴミ袋には、原形のままでは入らぬ。いずれにせよ、大いなる無駄である。かといって、部屋の中に前衛オブジェを飾る余裕もないので、屋外でそのスチロールを切り裂き、ゴミ置き場へ持ってゆく。でかいダンボールも細かくしてゴミ置き場へ。ちょっとしたコンピューターの不都合で、これだけの無駄をだすとは夢想だにしなかった。しかも、爪楊枝でつっつくという、なんとも原始的なアイデアに五千何ぼすでに支払っている。便利なんだか不便なんだかよく分からない。 某月某日 半年以上準備をしてきたデンマーク人とのツアーが今日から始まる。今年EWEから発売になったCD,KASPER・TRANBERG「MORTIMER HOUSE 」の、発売記念ツアーを一週間ばかり計画したのだ。途中から、デンマーク大使館も協力してくれることとなり、話が飛躍的に前に進んだことは、明記に値することだろう。参考のため、公演企画書をここに掲載する。 公演企画書   公演名:KASPER TRANBERG “ THE YAKUZA ZHUFFLE” “MORTIMER HOUSE”アルバム発売記念ツアー   アーティスト名 KASPER TRANBERG(COR,LEADER) キャスパー・トランバーグ   JACOBDIENESEN(TS) /HIROSHI MINAMI(P)  ヤコブ・ディーネセン 南    博    NILS DAVIDSEN(B) / MARDS HYNE (TR) / ANDERS    MOGENSEN(DS) /  ニルス・デヴィッドセン マース・ヒューネ  アナス・モーゲンセン  主旨  1997年、”THE YAKUZA ZHUFFLE”は、コルネット奏者キャスパー・  トランバーグによって結成された。既にこのユニットにおいて3枚の  CDがレコーディングされ、その発売にからめて、コペンハーゲン・  ジャズフェスティバル、横浜ジャズプロムナード等をメインに、主に  デンマーク、日本の各地を4年間にわたり演奏している。  これらの活動が2001年から、日本、デンマークの文化的音楽交流に  発展し、2001年横浜ジャズプロムナードに於いて、マース・ヴィ  ンディング・ピアノトリオ、上記”THE YAKUZA ZHUFFLE”,デンマー  ク・国営ラジオオーケストラ等が演奏。2002年にはデンマークで催  された、”WINTER JAZZ FESTIVAL 2002″に南 博クアルテットが  参加,デンマーク各地をツアーした。双方のプロジェクトにおいて、  大勢の聴衆が音楽、文化交流そのものに関心を持ったばかりでなく、  キャスパーと日本のCDレーベル、イーストワークス・エンターテイメ  ントの間に、CD製作の契約も成立し、キャスパー自身の楽曲で構成  された”MORTIMER HOUSE”も、2002年4月21日発売予定である。  キャスパーの音楽は、あらゆるジャンルの要素を取り込んだユニーク  なもので、その中にポップな音が混じりあっており、あらゆるジャン  ルのリスナーにアピールできるものとなっている。  昨晩は恥ずかしながら、遠足に行く前日の幼稚園児よろしくよく眠れなかった。ふだんからしてよく眠れないのであるから、本当によく眠れなかったのである。彼らの来日は今回が初めてではないため、空港までむかえには行かない。一番安い交通手段であるリムジンにのり、恵比須近辺のホテルまで来るよう指事を出しておいた。夕方薄暗くなってからホテル前で彼らと再会。もうすでにホテル前の歩道をうろうろと徘徊しており、目につくもの、耳に入るものに眉をひそめたり、瞠目したりしている。これからが僕の正念場で、つまり、ピアニストとして彼らのバンドに参加するというメインの仕事意外に、通訳、ツアーコーディネーター、マネージャー、ローディー、その他諸々、はてはポンピキまがいの芸当まで必要とされる日々が始まったということだ。皆とひさしぶりの再会にかたい包容をかわす。長旅に疲れているはずなのに、みな寿司を喰いに行きたいという。恐ろしいばかりの食欲と好奇心は以前とかわらず。さっそく恵比須近辺の知った寿司やに電話をかけ席数を確保。まず最初にやったことがそもそもポンピキまがいである。みなでぼくの馴染みの寿司やになだれ込む。他に客はなし。せまい店である。デンマーク式の乾杯をビールですませ、まずはみなに握りの中を注文し、様子を見ることとする。最初からお好みで注文しては破産である。僕は彼らと行動を共にすることが、心のそこから好きで、しかも楽しいことではあるのだが、彼らの食魔ぶりと飲みっぷりにいい気になってついてゆくと、こちらのからだがもたない。自然、どこか自分を客観視する態度を身につけてしまうこととなった。案の定彼らは、轟々といった呈で生ビールを何杯も飲み終えた後、熱燗の日本酒に切り替え、その頃にはもうすでに、握り一人前など跡形もなく、寿司ネタを指さして大騒ぎである。ああ、それはアバロン、サーモン、シー・アーチンと説明しても、どうしても英語名の分からぬネタがある。主人に英語のメニューはないかと聞けばないという。これらみなうまいから、とにかく喰えとヴァイキング達に言い渡す。僕もプロの通訳ではなく、寿司の味を楽しみたいのである。先が思いやられると思いつつ、遠き国からわざわざ演奏にきてくれた友の顔をまじかに見て、嬉しくもあり頼もしくもあり。僕が最初にコペンハーゲンに行ったのは、もうすでに4年程前のことであり、今回と同じような状況で、演奏後、深夜レストランになだれ込んだことがあった。僕が現地に行く場合は一人きりの日本人で、あとはデンマーク人である。あたりまえだが。軽食にと思ってたのんだサーモンのその量は、軽食とはいえないもので、これでもかというほどのおてんこ盛りであった。処女の内膜のような色合いのサーモンのスライスが、およそ日本の感性では考えられない方式で何枚も重ねられており、美しいもりつけではあるが、内心見ただけで辟易としてしまう種類のもので、全部は食べきれなかった。これが軽食である。少なくとも、ふつうの日本人とくらべても、ぼくは健啖家どころかぜい弱な部類にはいる。その他現地の地酒、アクアビットという強い酒を、皆と同じぺースで飲んでしまい、カウンターから立ち上がれなくなるまで泥酔するという失態までやらかした。その悪魔の酒は、翌朝はなんの二日酔いの徴候を体に残さないのだが、午後を過ぎるとなぜか昨晩と同じ種類の酔いが猛然と再び体内を循環しはじめ、そのざる酔いの後味の悪さに、その日の夜行われるコンサートイでただピアノの前に座っているという状態をしてから自重している。まあそれにくらべ、この5人のメンバーの食に対するする奔放さと、後先も考えずの飲みっぷりに、再度感心した次第。大方の寿司ネタをみなで試したあと、さすがに時差ぼけが表に出てきたか、解散の時間となる。初日から嵐のような夜であった。 某月某日 一夜あけた。今日から本番である。出だしから日本食を喰いまくり、日本酒を飲みまくった彼らの体調や如何に。杞憂であった。ホテルのロビーで待ち合わせた彼らの血色は見事なほどで、晴れ晴れとした印象さえ受ける。おべんちゃらで日本食につきあっているのではない。彼らは心底、寿司、蕎麦、その他の食べ物が好きなのであり、厳しい態度のヴェジタリアンがいるアメリカ人のグループよりなんぼか扱いが楽である。しかし、行動を共にすることによって、彼らのペースに知らず知らずの内にまきこまれると、こちらの胃腸が悲鳴をあげることとなる。さて、今回のツアーは一週間という短い期間であり、今日この初日が一番忙しいスケジュールと言える。まず彼らを恵比須から池袋へと先導し、池袋のタワーレコードにてインストアライブを敢行。速攻であと片付けをし、銀座ソニービル8FのソミドホールにてEWE主催のショウケースに出演するという算段。午後の早い内からタワーにて演奏。ピアノがないためEWEの用意したエレクトリックピアノを弾く。手ごたえよし。当夜ソミドでやる曲のリハーサルもかねてしまう。曲を追いつつ彼らとのからみ方を思いだす。何しろふだん気軽に一緒にはできない距離にお互い住んでいるのだから致し方ない。しかし、だからこその面白い展開も演奏中にあり。この感じを夜の演奏にいかすことの了解がデンマーク人と僕の間で、音楽を通して交換される。地下鉄に乗り銀座へ急行しサウンドチェック。今回のEWEのショウケースのメニューの中でも、我がバンドはひときは異質であると思う。日本でも有数の主流派グループや、今を時めく綾戸智絵氏などなど。並みいる評論家もデンマークジャズというカテゴリーはある意味?マークの物体でしかなかろう。枠外である自分自身が小気味よい。それだけでも我々は予定調和の産物ではない。実際我々のサウンドはECM的でも、破壊的ドイツのフリージャズの形態とも異質なものであり、しかもショウケース初日の一番目の出番。サウンドチェックを終え、楽屋に待機する時点から彼らビールを飲みはじめる。ビール缶がそそくさと、しかも凄いスピードでテーブルの上に並んでゆく。日時と場所お構い無しの彼らの物凄いパワーが、閉息した楽屋の中に充満して、危険だが楽しい充実感が空気の中に溢れ出る。演奏が始まると、サウンドシステムのなかったタワーレコードの売り場での演奏とはうって変わって、空気が対角線上にばらまかれるような演奏がステージ上で繰り広げられた。このサウンドの奥行きは、しばらく体験していない上質なものだ。ドラム、ベース、トロンボーン、サックス、コルネットなど、各々凛として存在していると同時に、いざアンサンブルとなると、その凛とした音の柱がギリシャの建築物のように、数学的美を構築するがごとく出そろって、一気にバンド全体のビートを前に前に押し出してゆく。その中でピアノを弾いている僕の至上の喜びもまた格別であり、うねる空気の中で、演奏は何度もピークをむかえる。演奏を終え楽屋にかえると、対バンの我がバンドのべーシスト、水谷氏の持参した焼酎の差し入れが。今宵もまたただではすまぬ気分。この乱痴気騒ぎに巻き込まれぬよう廊下をうろうろして、今度は我がバンド「GO THERE !」の演奏。モニターその他に慣れていたので、演奏は好調。彼らデンマーク勢も舞台そででジッと演奏を聞いている。全て終了し楽屋に戻ると、すでに焼酎のびんはあらかた中身が無くなっており、次の出番の石井彰トリオの面々の目も点になっている。はやめに退散した方が良いと判断し、我がバンドの竹野の車とタクシーに分乗し、とにかく恵比須方面へと移動。深夜4時までやっている近所のびっくり寿司へとなだれ込む。僕を含め全員カウンターに一列となる。ここには英語のメニューが充実しており、一つ僕のやることが無くなった。開放感からばくばく寿司を喰う。連日寿司を喰うなぞ普段はしないことだが、この際よけいなことを考える暇はなし。彼らも片言の日本語を駆使し、ふつうの日本人が絶対頼まないような、刺身おてんこ盛り風呂桶仕様のようなメニューをじゃんじゃん注文している。勘定が思いやられるが、もう知ったことではない。何やらサーモンをガスバーナーでさっとあぶる調理法をキャスパーがいたく気に入り、それを注文してやる。外人用の目くらまし料理かと思いきや、なかなかいける。夜は深けるが、彼らデンマーク勢、一向にホテルに帰る気は無いようす。ビール、酒、焼酎を順番に飲み下しつつ、あらゆる寿司ネタに今晩もターゲットをあわせ、飲めや歌えの大騒ぎ。僕の体は今後もつのだろうか。 某月某日 本日新宿ピットインに於いて演奏。恵比須から彼らを引率し新宿へ。やりなれた場所だけに彼らのサウンドの切れ味の良さが非常に際立つ。昨日各々の音の存在感を凛としたという言葉で言い表わしたのだが、今日のピットインの演奏では、そこに音楽の多面体的奥行きが加味され、深みのある演奏が、テンポ感に関わらず、揺るぎなく表出される。互いの楽器の距離感は非常にはっきりしているのであるが、いざここ一番と全員でテーマその他の決め所をあわせる時など、そのサウンドの奥行き感がどっしりと音楽の裏に構えていて、早いテンポの曲なども、安心してその奥行きに身をまかすことができる。そして楽器を扱うテクニックの上質な部分を駆使した思いがけないユーモアの感覚。普段の生活からもそうであるが、彼らデンマーク人の中に流れる心的時間の流れのようなものが、非常にリラックスし落ち着いたものに感じられる。もちろんそういう感性は音楽の中にも反映されるのであろう。日本とは比べようもないが、あらゆる社会保障によってせこせこ生きる必要の無いということはうらやましいことである。一年に一度、彼らを日本に呼んでツアーを初めてはや5回目であるが、音楽全体の進歩自体、目を見張るものあり。終演後、我がバンドのべーシスト水谷、竹野らとピットインで軽く打ち上げ。前回のデンマークツアーで、みな仲良くなっている。ぼくはドラムセットを一旦家に運び込まなければならないので、水谷、竹野にヴァイキング軍団を任せ、先に家に帰る。去年ピットインで演奏した後行った蕎麦やが、彼らのお気に入りで、そこの「TOWER SOBA」つまり、ざる七段のことなのだが、新宿二町目にある蕎麦やのK亭まで水谷に引率を頼んだ。その蕎麦やでもかなりの「宴」が催されたそうで、この不況下、彼らデンマーク人に飲み食いされた飲食店はラッキーである。とにかくよく飲む。デンマーク語で乾杯を「SKAL」という。スコールと発音するのだが、これは英語の頭蓋骨という単語の語源であるという。昔彼らヴァイキングの先祖が、戦争で勝利の祝杯をあげる時、たおした敵の頭を半分にそぎ落として、その頭蓋骨に酒をそそぎ乾杯したことが語源となっているという。まあなんて残酷なと思うやも知れぬが、日本の戦国時代も、敵将の首をとるのが勝利のあかしであり、腹切りなどという儀式もあったわけだから、どっちもどっちであろう。違いといえば、もともと日本人の80%が農民であり、酔ってつぶれてそこいらでごろ寝してもさしたる生命の危険が無かったことに対し、昔のデンマークでは多分、ヴァイキングとして海戦を続けるうえで、酒に弱い者は自然に淘汰されたのではないだろうか。宴会のあとの夜襲など、酒の弱い者は抵抗する余裕さえなかったであろう。人種的にも、アルコールを分解するなんたらいう肝臓の酵素の量が違うように思われる。何れにせよ、逞しいということは、頼もしいということであり、こちらもツアーのスケジュールその他さえ心を配っていればいいわけで、ある意味楽である。まあ、楽といっても、一歩東京を離れると、駅、道の表示等ローマ字で書かれているものが少なく、やはりヨーロッパの福祉の行き届いた国からきた連中には、文化的に奇異に見えるものが多く、各々集団行動にも慣れていず、ちょっと目をはなすとすぐその場でバラバラになる傾向が強い。時間通りにあるポイントまで彼らを運んでゆく、しかも安全に、というのも、ぼくの大切な仕事であって、修学旅行の引率の先生の哀しみがよくわかるようになった。ぼくも修学旅行では悪さをしたくちだから、因果応報である。 某月某日 今日から地方への演奏に赴く。最初の目的地は名古屋である。一番大きいワゴン車をレンタカー屋で借りて、一路東名を西に向かってひた走る。今晩の演奏場所は名古屋のクラブ、JAZZ IN LOVELYである。サウンドチェックの後、ホテルにてひと休み。みな名古屋でも寿司、蕎麦、とんかつなど、過去日本ツアーの折食べたことのあるうまいものの場所をぼくに聞きただす。名古屋は詳しくないので、適当に皆をあしらっていると、宿泊先のホテルの横に偶然とんかつ屋があった。値段と注文のしかたを一通り教えひとり部屋へ入り休憩。まさに酒とバラの日々ならぬ酒と音楽と食い物の日々である。演奏時間前に全員現地集合。演奏は前日ピットインの演奏をはるかに越えるラディカルさに満ちており、デート目的のカップルなどの反応も、最初の心配をよそに、もう口説きそっちのけで声援をおくっているといった状態になる。デンマーク人ども、よほどLOVELYというクラブが気に入ったらしく、演奏後も居座り、ビールから始まって、焼酎、お客様からの差し入れられたテキーラ、などなど、ぐんぐん飲んで、出されたまかないの夕食に喰らいつき、女の子のいるバーに行きたいと生命力がまことに横溢としている。演奏でくたくたになった我が身をひきずるように、居残って飲んでいる現地のお客さまに名古屋の風俗関係の情報を集める。面白気な店は12時をさかいに閉店するとのこと。これもポンピキのすることである。デンマーク勢にこの旨伝えると、意外に、あっそうてな感じで飲み続けておる。酔った勢いで基本的にわけのわからぬことを言って、故郷から遠く離れているという実体を忘れ去りたいという心理の一角が、このような言動となっているのは確かで、ぼくも、デンマークのツアーに参加した時など、現地の風俗店でなくとも、何かしらの憂さ晴らしがしたいと思ったことは一回や二回ではない。彼らの気持ちがよくわかる。閉店まで飲み続けるというメンバーを置いて先にホテルに帰り就寝。長い一日。 某月某日 本日の演奏場所は岐阜県笠原町。そこにstudio Fというホールがあり、当地で開業医をなさっているDR.Fが経営している。名古屋から2時間弱の距離。くねくねと田舎の道を行く。昨夜さすがに飲み過ぎたらしく、デンマーク勢のほとんどがげっそりした顔をしており、特にトロンバーンのマースなど、火星を全力疾走した直後のような顔色をしている。道すがらの薬局にて、キャべジンを買い与えてわたす。演奏までには地球人になってもらわねばこちらが困る。DR.Fは温厚な優しい紳士であり、我々人種混合わけのわからぬ白黄色混成バンドを快く受け入れて下さった。諸事待遇は申し分なし。しかも、お客さまを90人以上集めてくださっていた。感謝感激。そのむねデンマーク人らに伝えると、むくむくと蘇生しだし、控え室にて楽器をあたためるやら何やら、急に底力を見せ始めた。控え室に用意されたサンドイッチなどもバクバクと口にはこび演奏の準備に余念がない。さあゆくぞ。いざステージにあがれば、大勢の人々の注視の的であり、演奏前からすごい熱気である。これはただではすまされまい。デンマーク勢もものすごい熱演をくりひろげ、グイグイと観客をひきつけてゆく。ピアノの状態が絶妙で、たびたび秋吉敏子さんのソロピアノコンサートが開かれているというのも納得がゆく。CDもたくさん売れて、車で十分ほど離れたイタリアンレストランにて打ち上げ。デンマーク勢、お目当ての日本食にありつけないと知りつつ喰うわ飲むわの大騒ぎ。短い行程であったが今日がツアーの最終日。皆しこたま飲み食いした後お開きとなりホテルに帰還。… >>>

緊張の三日間

某月某日 ピットイン3 DAYS初日が終わった。なにしろ先週録音を終えたばかりであり、準備するにしても時間がなかった。とはいえ、天下のピットインにおいて3日間親分を張るのである。なまじのことでは許されない。芸達者な面々の良い面を最大に生かしながら、しかも全体の流れに意味あいと変化をつけなければならぬ。ただただ曲のアレンジがうまいというだけでは良いショーにはならないのだ。かといって考えすぎてもこれまた音楽は学問ではないので、余裕のないものになってしまったりする。当日のみのリハーサルである。短時間に最大効率をあげる準備をしてのぞまないともくろみ事体水泡に帰す。今晩の演奏は、この三日間のメニューの中では、上記のようなことがらが、最大限問われる企画であったため、ある意味緊張した。すばらしき仲間のおかげで、演奏事体にもハプニングがあり、幕間のしゃべりもなかなかのものだった。みな菊地氏とのかけあいを漫才だと評するけれども、あれで精一杯しゃべっているのであった。本人としては漫才をしているつもりは全くない。菊地氏のしゃべりのタイミングには何度も救われた。じっさい菊地氏との共演はひさしぶりだった。作曲したバラ-ドを演奏。これは先週行った新しいCDにも入る予定の曲である。菊地氏のジャズに対する夢のようなものがいっぱい詰まったフレージングによって構成された曲である。皆の楽曲に対するアプローチの随所から、思わぬハプニングが生まれでて、すばらしい展開となった。この一曲を含め、初日の演奏は、ひじょうに硬質でソリッドなサウンドに終始したように思う。 /// 3DAYSの二日目は、大友良英氏率いるONJQとの共演であった。このグループは、いまの日本の音楽界において、ダントツに冴えている。ぼくも一ファンとして、何度か演奏を聞きに行っていた。そしていつも思ったことは、音楽的内容を含め、このグループには、ピアノは必要ないということだった。ピアノのようなコード楽器は、大友氏のコンセプトを疎外すると感じた。だからこそ、今回の3DAYSにおいて、共演を申し込んだのである。自分自身の、無意識下にあるマンネリな部分をぶちこわしてみたかった。だから予定調和は許されない。その瞬間瞬間に聞こえてくるサウンドに反応し、しかもそこには自分独自のテイストがなくてはならぬ。加えて、ピアノが参加することによって、ONJQのサウンドに、新しい何かが生まれねばならない。そういう思いで演奏した。自分自身をぶちこわすだけに大友氏のグループを利用したなどと思われたら、いわゆるそれは名折れである。グループのメンバーにも、できれば新しい刺激を与えたかった。リスキーな挑戦だった。この緊張感こそがぼくにとってはジャズの神髄なのだ。(なんちって)うまくいったかどうかは、聴衆にまかせたい。しかし、満杯のピットインの聴衆が、最後まで帰らず聞いてくれたという事実は、ぼくにある一種の自信をもたらした。 /// 最終日はチラシにあるとおり、「夏の夜魅惑のスイング」である。銀座界隈のジャズでもなく、中央線沿線のジャズでもない、しかもヴォ-カルのはいった、ただただ楽しくきける演奏がしてみたくて組んだものだ。オーソドックスなスタイルと書くと、何を基準にオーソドックスとするかが問われるところだけれど、ぼくにとっては、この三日目の演奏が、ジャズの中央通りなのであった。無理に盛り上がることを旨とせず、たんたんと演奏をすすめる。凝ったアレンジもなし。そう、こういう演奏をピットインでやるってことが、実はいちばん難しいのであった。いざとなれば、井上氏を支柱にし、そのおまかせ感の中から、新しい展開を待てば、少なくとも間は持つという甘えた気分も少し有った。それにしても、井上氏のヴォ-カルのメロディーにからむオヴリガードはどうであろう。すばらしいの一言に尽きる。田鹿氏のドラミングも、特筆に値する。全体のサウンドを包みつつ、ビートはいつも、音楽が進むべき方向をハッキリ指し示している。音も粒立ち、ピアノの音によくからむ。この三日目にかぎらず、今回協力してくれた仲間達の賛辞を書きはじめると、きりがないのであるが、特に、裏3DAYSとなった盟友水谷浩章氏のサポートはすばらしかった。 /// 緊張の3日間が終わり、背中と肩がガチガチとなり、最近指摘されはじめた、口呼吸しかできない若年層のような顔になって朝起きた。今日は本当に、強制的に休みをとらねば、脳みそがイカレそうである。 某月某日 昨日は、長いあいだ準備を重ねてきた録音が終わり、行きつけのバーなどに行き痛飲。一仕事終わったあとの酒の味はまた格別である。なんてね、なんだかんだ言って毎日飲んでいるのだが。こういう時は危険だ。演奏後もそうだが、とくに録音のあとというのは、脳みそがなかなか休まらない。からだ事体は疲れているのだが、脳がクルクルと動きっぱなしなので、自分の酔いがつかめない。だから量を飲んでしまう結果となる。普通のクラブでの演奏より、スタジオでは、ヘッドフォーンから共演者の音が全てクリアーに聞こえてくる。人工的に作られたベスト以上の状態が、多くの情報をぼくの耳に運んできて、それだけ集中力も必要となる。音楽をする楽しさで全てを忘れ、ときの流れも意識の中にはない。ふと気がつくと、体が綿のように疲労しているといった具合。昨晩は酒を二杯にとどめ帰宅。しかし眠れぬ。脳内の神経が、まだいままで聞いていたサウンドに反応し、ぴりぴりと痙攣しているかのよう。かといって他の雑事をやるほど体力は残っていない。酔いはまわっている。読書しかあるまい。金子光晴著「ねむれパリ」をゆっくり読む。この本は自分の中での大ヒット作である。良書に出会えた時の喜びは、何にも変えがたい。もちろん、イイ演奏をした時を抜かしてだけど、この夏いちばんの発見であった。40才をすぎるまで、なぜいままで金子光晴に触れる機会がなかったのか、自分でも不思議と思う。氏が戦前パリにての貧乏生活を淡々とかいたものなのだが、もう面白くて仕方ない。この時期には、岡本太郎、ヘンリ-・ミラーなども、パリを彷徨していたはずである。ぼくの聖書的存在であるヘンリ-・ミラーの「北回帰線」も、ミラーが赤貧のパリ時代を文章にしたものだ。だれあろうこのぼくも、 6ヶ月ではあったが、10年ほど前パリでぐうたらを決め込んでいたことがあり、いつもこの「北回帰線」のストーリーが、パリにいる時分、ぼくの頭の底にたよたよと漂っていた。あの時分、金子光晴のこの本を読んでいれば、また違った角度でだらだらできたはずなのにと思うと少し悔しい。ヘンリ-・ミラー、チャールズ・ブコウスキー共々、無頼でパンクな作家であることは誰もが承知をしていることだろう。ぼくとしては、この二人にある一種の羨望がある。体力を含め、この二人のデタラメさとタフさ、これは白人特有のドロップアウトのしかたであり、しかもそれを文章にするという感性が、日本人にはないものと思っていた。日本の私小説は、これらの作家の描く世界とは対極的で、どこか湿っぽいのだ。しかし、金子光晴は、あくまで日本人的感性を保ちながら、この二人のアメリカの作家に負けず劣らずの無頼さ加減とタフネスを持っている。同胞として勇気づけられる。こんな御仁が日本にも作家としていたとはなあ。読書は本当に楽しいものだ。しかしまあ、戦前に、ぼくの想像を上回る数の日本人が、パリに住んでいたことを知ったのも驚きだ。そして誰もが、岡本太郎のように、現地の人々と交わり、その文化を真の意味で吸収することに成功したのではないことをこの本は伝えている。それはそれで、まあ、人の営みなどそんなもんだ、と言えばそんなもんなのだが。本日は久しぶりの休みである。本の続きを読んで脳内をリセットすることとする。 某月某日 菊地氏を交えて、彼の楽曲と供に録音終了。我がバンドのメンバー、菊地氏を含め多大なる協力のうえに、全てが無事に幕を閉じた。真夏という季節も加味して、充実しながらハードな、そして幸せな三日間であった。前の日記にも記したとおり、今回は、まとまりなく色々な要素をCD一枚の中にぶちこんで、自分自身リスクをはらい、メンバー各自のさらなる可能性を開拓するということがおもな狙いなのである。この先を文章で説明するとなると、かなりの時間をくうので割愛するが、全て共演者のストレートな協力があってして実現したことで、皆には、ことばに尽くせない感謝の気持ちでいっぱいだ。少なくとも、CD盤事体ぼくより長生きなはずであり、自分が死んだあと、妙な風評をたてられぬことはないだけの自信は、少なくともある演奏がこの三日間に凝縮されたのだった。まずはめでたし。 某月某日 「GO THERE !」(これが我がクアルテットの新しいバンド名、詳しくは昨日の日記を)の録音二日目である。昨日の取り残しの曲、もう少し良くなりそうな曲を再度演奏。夜7時頃には全て終了した。あとはいくつかのTAKEの中からベストのものを選ぶのみ。明日は菊地成孔氏が参加し、彼の楽曲を録音する。疲れたのである。近所のお好み焼き屋で友人とめしを喰う。後、パンツ一丁の姿になり、今までの出来上がった演奏をDATでき聞く。いくつかある良い感じの演奏が、テークがいくつかある場合、一晩中本番のCDにのせるべく、セレクトしなければならない。 某月某日 GO THERE ! 第二弾レコーディングの日である。昨夜遅くまで練習したり、譜面の整理などで寝るのが遅くなり、あまり時間の余裕もなく東銀座にあるスタジオに30分前に到着。スタジオのあるビルの一階に、喫茶店があり、朝飯抜きであったので、ビーフシチュウかけライスなるものを注文。ひとくち食べて口がカモメのような形になる。煮込みすぎたかなんだかひじょうに塩っぱい。大して期待などしていなかったが、ちょっと朝一発目の食事としては妥当ではなかった。銀座エリアに来たのだから、何かしらもっとうまいものを喰いたかった。もう少し時間に余裕があればの話だが。別に遊びに来てるのではないからこれでよしとする。コーヒーで口内の味をリセットし、いざ7階のスタジオへ。前回のCD「GO THERE !」のときと同じ優秀なスタッフがそろっていた。すでに各自準備万端。とにかく集中してが-っと演る。が-っと。残暑のおり、各自持久力は平均より落ちているのだし、まあ、じっくり演るところはやるけれど、レコーディングの流れ事体のテンポ感をうまくキープしつつ、がーっと、がーっと。と、気付いたら8時間程経過している。バンドメンバー各自、ハラぺーニャ・デ・アロッソとなったので、EWEのとってくれた店屋物を味わって食べる。豪華幕の内弁当。久方ぶりの海老フライ。ケケケ、べろドラム(舌鼓の21世紀的表現だ)を打つ。休憩後、最後にバラードを一発。一日目にして、録音予定曲をほとんど演ってしまう。がーっと。体が綿のように疲労す。 /// 今回から我がクアルテットの名称事体を「GO THERE !」 とする事に決めた。EWEの中に新しく、「BODY ERECTRIC」というレ-ヴェルができたのである。菊地氏と坪口氏の主催する「東京ザヴィヌルバッハ」のようなバンド名がぼくにも必要だと思ったので、一枚目のアルバムのタイトル事体をバンド名とした。「GO THERE !」,ことば事体に動きを感じるし、自分でも気に入っている。ということで、今回はバンド「GO THERE !」による初の二枚目の録音となる。前回のCD,「GO THERE !」は、全曲4人が一丸となって演奏し、長年のコラヴォレーションの集大成という形となった。今回のCDのコンセプトは、自分自身が先行きを模索していること事体を形にすべくアイデアを練った。加えて前回のものは、イケイケイテコマシタレ~度120%全開であったので、今回のものは、渋くダークに迫ることとした。少しだけ内訳を書いてみると、デンマークツアー時にクアルテットのために書いた曲などが4曲、トリオが2曲、残りの2曲は、「BODY ERECTRIC」の中心人物であり、長年の盟友である菊地成孔氏の楽曲を2曲加えることとした。今日の段階で、菊地氏の楽曲をのぞくほとんどの録音をすませたことに成る。今回のCDの内容に関しては、最初からイメージは強烈であり、やりたいこともハッキリしていた。しかしそれを具体化する準備たるや、相当な時間がかかった。ポップスなどの録音とは違い、1曲の録音に数週間を要するというわけではないが、がーっとやるにはやるで、が-っとやれるようにする準備が必要なのである。まあそれも、各メンバー、水谷浩章、芳垣安洋、竹野昌邦の驚異的なサポートがあってこそ。みな本当にすばらしい音楽を提供してくれたのであった。 /// スタジオ内は、楽器のメインテナンスと、多くの機械類が熱を発しているためか、ひじょうに冷房がきつい。ぼく自身冷房はだいだい大好きだが、演奏して汗をかき、プレイバックを聞いているうちに体が冷えるということを何時間もくりかえして外に出ると、湿気と温度差の急激な変化で、脳みそのひだがするりとめくれるような感覚に襲われる。録音終了し、帰りの地下鉄の中でまた中途半端なゆるい冷房に体があたり、なんだかわけが分からなくなったので、隠れ家であるオデン屋にしけこんだ。ここはラジオしかかかっていないところで、殺人的有線や、大騒ぎする泥酔者もまれな店で、とにかく一服。明日の録音に備える。 某月某日 さすがにレコーディングの日が近づくと、練習にも熱がはいる。練習といっても、ただただピアノを弾いているだけでもない。自分が作曲した曲なのだから。うまくいってあたりまえなのだが、マグリット曰く、大切なのはアイデアではなく、イメージなのだ。だから、その不定形なものを、共演者に理解してもらい、CD制作を容認している会社の担当者も含めて、前回にないものを創造し、実際サウンドでその事を示さなければならない。特にサウンドが音楽事体を突き上げているいという状態にする事が優先課題だ。突き上げるとは妙な表現かもしれないが、実際音楽が次の段階のトビラをひらくのは、その突き上げる衝動が必要不可欠である。そして、演奏者がそれに気付いて邁進していたら、リスナーにも、その胎動が、ハッキリと感知できるはずなのだ。これらのことも含め、明日レコーディングにのぞむのだ。リーダーなのだから。今回の企画は、EWEの中に新設されたレ-ヴェル「BODY ERECTRIC」(以下BEと略す)という名称の部門から発売されることとなり、この名称の発案者は誰あろう盟友、菊地成孔氏である。すでに彼のバンド、「TOKYO ZABINUL BACH」が第一弾で、今年1月に出したGO THERE !がその新しいレ-ヴェルの第二弾となる。明日から始まる我が南 博クアルテット改め「HIROSHI MINAMI GO THERE !」が第三弾だ。 BE的要素を我がGO THEREsecondによどみなく組み込む為、菊地氏の楽曲を2曲加える事とした。もちろん前回のような竹野、水谷、芳垣が一丸となって演奏する曲もあるのだが、今回はそれに加えて、トリオ、デゥオなどの曲も演奏予定である。前回のGO THERE!が全曲4人で一丸となって演奏した次のステップのものとして、なんらかの差違を設けることが重要なのではないかと思い、このイメージを明日のリハまでに、準備するのである。やたらめったら譜面をたくさん書くといった行いではない部分での、逡巡が辛い道のりの連続。現場処理のほうが良い結果をもたらす場合もある。どうあれこう演奏するという決めごとと、メンバー各自の持つイメージにゆだねて演奏するべき場所との見切り、この両方をリーダーとして采配をふるえたら、これはもう嬉しさの極みであろう。明日からの三日間、そういうモーメントが少しでも長くスタジオの中に満ちている事を切にのぞむところだ。 某月某日 腰痛をおして吉祥寺サムタイムにて、ヴォ-カルのギラ・ジルカと昨夜は演奏。朝早く目覚める。夜中に近くで一匹ミンミンゼミが鳴りやまなかった。いっそ、散弾銃で音のする方を無闇メッタラ乱射してやろうかと思ったほど気にさわった。蝉って太陽が出ているあいだだけけたたましく鳴く昆虫じゃないのか。ぼくはあらゆる種類の昆虫が大嫌いである。夏になると、東京近辺の子供達が、クワガタ、カブト虫などをお金で買っているようだが、ぼくとしては、ゴキブリもそれらクワガタも同質のものに見えてならない。茶色くて、節々がギザギザしており、触覚が不気味に前後左右に動いていて、逆にいえば、なぜクワガタなどが珍重され、ゴキブリが忌み嫌われるのか、その境界線は何処にあるのか。昆虫はえてしてとんでもない冷血なまなざしを持っている。同じ地球上の生き物として絶対近くにいて欲しくない生き物ではある。家賃も払えないくせして、小汚い出で立ちで、しかも無断で人の家に入ってきて、思いもつかないようなすき間から突然飛び出してきたりする。全生命体がこの地球で生きて行くヴァランスというものを考えれば、彼らもなにがしかの役目をおびて草むらや木の幹などに潜んでいるのだろうが、だからといって気分的にやはり姿形を見るのはいやだ。こう暑いと虫も狂うのであろう。外出は苦行と言い換えるべきで、帰宅も避難と言い換えるべき時期である。津上研太氏によると、最近の東京はシンガポールなどより暑いそうだ。書くだけで不愉快になるネタだ。自分の体をそっとそっと扱いつつ、レコーディングのための準備。もちろん練習も含め。腰痛と昆虫に苛まれつつ。 某月某日… >>>

MORTIMER HOUSE

某月某日 多忙により長い間日記をさぼる。その間、キャスパー・トランバーグ(COR)セプテット「MORTIMER HO0USE」がEWEから発売となった。内容もさることながら、CDのデザインも秀逸。9月末には、EWEのSHOW CASEに合わせてツアーを企画している。その最後の準備に今大変忙しい。かえす刀で今週から井上淑彦QUARTET,ギラ・ジルカとの演奏などが重なってしかも不眠である。津上研太BOZOも、ジャケットのデザインの段階まできた。7月のチラシの準備もしなければならない。8月の新たなるクアルテットのレコーディングの曲作りも着手せねばならない時期でもある。こんなの日記じゃないなあ。ただやらなければならぬことがらを羅列しているだけ。お粗末様でした。 某月某日 雨模様。連休も終わり世の中が動き出したのでぼくも起き上がって仕事を始める。連休が始まると、家の近所も人の波で、どこかへ行く気など最初から失せてしまった。年明けからほとんど休んでいないので、簡単に家の掃除などをしたあと、ただただ体を休めた。食材なども少し買いに行ったが、あとは何もしない。連休の中日少し二日酔いとなった。こういう時は例によって読書をするのである。小便する以外寝床からでず、買い置きの本も無かったので、本棚から適当にみつくろったものを何冊かまくらもとに並べ、適当に読みあさる。これが二日酔いにはいちばんの特効薬である。薬を飲もうがもがこうが、二日酔いはそんなことではびくともしない。ただひたすら何かを読んで気をまぎらわすのがぼくの流儀。文章を読むことによって、脳が肉体の苦痛を受信するキャパシティーを自然に減らすのだ。嵐山光三郎著「文人悪食」、これは非常に面白い。夏目漱石から三島由紀夫などなどの文豪の隠れた面を、食べ物を通して追ってゆくという内容である。作家というものはバンドマンよりクルクルパーである。池波正太郎の料理の本は知っていたが、皆それぞれ食に対する流儀がしっかりとあり、特にぼくの好きな萩原朔太郎の好物などがわかっておかしい。三輪明宏著「紫の履歴書」「人生ノート」なども愛読書で、失礼ながら二日酔いのこういう状態の時にはうってつけの怪しい内容だ。三輪氏の本を読むまで、ぼくはあの方について何も知らなかった。あまりにも本の内容が面白いので、あとからCDなど聴いた。日本にもこういう方がいるというのは心強い。岡本太郎氏と同じく大好きな人である。若いころの写真を見ると、同性愛でなくとも吸いこまれるような美貌の持ち主で、しかもぼくと誕生日が同じなのである。あまり重い内容の書物をえらばないのも、二日酔いの状態には大切なことで、あまり難しい内容のものをえらんでしまうと、今度は脳事体が二日酔いのようになってしまう。 某月某日 連休直前までピアノを教える。後EWEの担当者と、キャスパーの日本ツアーに関する打ち合わせ。少し約束の時間まで間があったので本屋にいった。とある本がすっと目に入ったので衝動買いした。鍵盤奏者竹久源造著「新しい人は新しい音楽をやる」アルク出版だ。河合隼雄との対談というのが目に止まったので買ったのだけれど、またこの本がものすごく良い。エッセイ、対談、自己のCDへの文章、などが収められているのだが、なんという筆のたつ、しかも表現力豊かな人かと目を見張った。目からウロコのみならず、まつげも目くそもぽろぽろと落ちるような竹久氏の慧眼と審美眼に敬服。話題はバッハからリー・コニッツ、グレン・グ-ルドまで及んでいて、ひさしぶりに胸のすく音楽書を読んだ気分だ。EWE の担当者と新宿で落ち合ったあと、タワーレコードにて早速竹久氏のCD「鍵盤音楽の領域 VOL5」を買って、家で聴いた。ピアノの元祖であるチェンバロ演奏で、曲によっては左手でドローンな音(が-ッとクラスターのようなことをやるという意)などを演奏しており、非常に面白い。ピアノの前段階であるフォルテピアノという金属を使っていない楽器の演奏なども他のCDで聴けるようだ。この休みはゆっくり読書がしたいと思っていたのでまさに吉兆。氏の他のCDも探してみるつもり。 某月某日 典型的な休日であった。まず床屋に行き、近くの定食屋にて飯を喰う。まわりをブラッとして家に帰り何もしないでいようと思ったら、成り行き上、いろいろなところに電話をかけなくてはならなくなってきて、ずっと電話の子機をあごの下にはさんでいることとなる。後、脳を休める為テレビを見たが、休めるどころか、目を覆いたくなるような民度の低い事件やスキャンダルだらけで逆にイライラしてきたのでスイッチを切る。散歩する気力も残っておらず、どこかに遊びに行く気分でもなし。明日からゴールデンウイークで、またどうせどこもかしこも人だらけとなるのであろう。自由業の役得はこういう時にこそ人ごみを避けられるという点にある。少しは東京から人口が少なくなることを祈る。毎年、お世話になっているマーケットやレストラン等この時期閉まって不自由するが、なんとか静かに暮らすつもり。 某月某日 4月は本当に忙しい一ヶ月であった。昨日までで演奏の仕事は終わり。5月は第2週から演奏を始める。いくらピアノを弾くことが好きでも、しばらくのインターミッションが必要な状況だったのでちょうどよい。今日明日と演奏もティーチングもなし。手付かずでいたキャスパーのツアーの件を各方面にわたって電話をかけ、話を先にすすめることに専念する。午後、盟友菊地成孔氏と初対面のライターにしてサックス奏者の大谷氏と家のそばで会う。なにやら菊地君、音楽史と理論講座をミックスしたようなものを企画しているらしい。近所のレストランにてバークリー時代の話を少しする。講議する上で、もう少しバークリーの話しを聴きたいとのこと。菊地氏と一緒にいるとまことに気分良し。頭の回転が早い男が好きである。菊地君は存在事体がダントツに魅力的だ。こういう人間こそ音楽をやるべきなのである。他に世間とコネクトする手段が皆目わからないぼくから見ると、人前で演奏以外の事もちゃんとした形にできる彼の才能をうらやましく思う。各々音楽に対するコネクトのしかた、音楽に対する手法とかかわり方は異なるが、本能的に菊地君もぼくも根が同じところにあるような気がする。ということで、多少の意見の食い違い、考え方の違いがあっても、それらはお互いのなかで許容範囲を超えないのである。まあ双方の決定的な違いと言えば、菊地君にはポップスに対する鋭いイマジネーションがあるのにたいして、ぼくにはその感覚がまるで無いということだけ。うらやましい限りだ。講議は12回ほど続けるという。彼のウエッブにその詳細が既に文章化されていた。忙しいので全てを読んでいないが、まことに細かく面白い視点から音楽を捉えている。時間があればぼくも聴講したいぐらいだ。菊地君と別れたあとは、ツアーの段取りの続きである。みるみるうちに夜となり、一日が終わった。やはり休めなかった。 某月某日 昨日に続き本日もクアルテットで演奏した。1月にデンマークへツアーに行ってから初めての日本での演奏。昨日は鎌倉のダフネというクラブ。今晩は新宿ピットインだった。8月に新たなるレコーディングをひかえているので、新曲を三曲ばかり演奏した。どれもデンマークツアー中に楽想を得たもの。1月の北欧は、太陽光線の乏しい日が多かったのだが、日本と同じ島国であるため、フェリーで海峡をわたったり、悲しいかな日本ではそうとう東京から遠く離れないと触れられない美しい自然環境など、曲のアイデアを得る環境と時間はふんだんにあった。三曲ともピットインにて演奏前に簡単にリハーサルし、あとは本番にて様子を見ることとする。これもメンバーを信頼していないとできないことだが、あまりリハーサルで曲の内容を決め過ぎても、後々演奏回数に反比例して新鮮味にかける徴候があるのも確かで、ちょうどレコーディング時に、各々のメンバーが最高のイマジネーションをもってして演奏できる具合とその時間の距離をはかるのも、リーダーの役目と思っている。今晩新曲演奏は初日であったので、その距離とヴァランスのはかり具合はまだ不明だが、よい手ごたえだけは感じられたのでほっとしている。鎌倉と新宿のクラブは、いってみれば対極的な演奏条件を我々に二日間提示したことになるのだ。ダフネは基本的にレストランバーであり、演奏の音量をある程度おさざるをえない、それを見事に采配し、絶妙のグルーブ感を表出させたのがアニキこと芳垣安洋氏である。店の大きさも天井の高さも響きも異なるクラブでの演奏において、ドラマーのダイナミクス感覚が音楽のすべてを構築し、そして音楽そのものを担うのである。アニキのドラマーとしての感性は完璧であった。天井の低いダフネでは静かながら迫力満点のドラミング。ピットインでは冒険心あふれるのびのびとしたプレイを展開してくれた。リーダーとして嬉しいかぎりである。ピットインにはEWEでの担当者T氏などがわざわざ聞きに来てくれた。次回のレコーディングの話などを演奏後にする。「GO THERE !」のLP盤が出ることが決定し、その製作にあたる人物もピットインにみに来てくれて、色々とまわりの状況がおもしろくなってきていることを実感。早く自分のピアノの音をレコード針を通して聴いてみたい。 某月某日 雨の日は美しい。何年も母国を離れていたわけではないにもかかわらず、春の雨は妙に郷愁をそそる。冬場も忙しかったので、時間の感覚が去年から長く感じていたのかも知れない。歳をとると一日一日を短く感じるそうだから、吉兆かもしれない。とにかく、今日一日静かな雨の日。 某月某日 朝から多忙。雑用が山のようにある。考えてみれば主婦業に加え、マネージメント、プロディース、演奏作曲練習などしているのだから、やること多くてあたりまえか。8月には次回のクアルテットのレコーディングも決定した。おかげさまで前回の「GO THERE !」の評判がよく、立続けに出すことになったのだった。まだ未定ではあるが、盟友である菊地成孔氏に何曲か楽曲提供及び演奏を頼もうと思っている。5月22日にはデンマークの盟友キャスパー・トランバーグ(CORNET)率いるクインテットのCDが同じくEWEから発売予定だ。ジャケット、ライナー等の件でEWEの担当者と密に連絡を取る。バンマスは海の向こうだ。いくらメールがあるからといっても、自然ぼくがしなければ成らないことが多くなる。ジャケットはキャスパーの画家の父親の書いた幻想的な絵が使われることとなる。ライナーは、ぼくもデンマークに行くようになって友人になった、作家でサックス奏者のトーステン・ヒューによるもの。ジャケットもさる事ながら演奏内容もざっくりとおもしろい。コペンハーゲンの夏の夜を想起させる楽曲が多い。デンマークの音楽関係者もひじょうにこのCDには期待をしていて、今後の文化交流の助けになればと思う。新調したスピーカーにて津上研太(SAX)BOZOのミキシングの終わったDATを聴きながら、コンピューターなどで手紙を書いたり、なんだかんだやっていたら暗くなってしまった。練習の時間を取らねば。といいつつ夕方以降ピアノを教える。前にも書いたが、戦争状態の国もこの地球上にはあるのだ。新聞によると、ガスも電気も止まったままで一日パン一枚で生活しているという。今日一日またよしとしなければなるまい。 某月某日 午前中にて雑用をすます。午後は何もしないと決めて、ぼうっと過ごす。と言いつつ、次回のクアルテットのレコーディングの内容などを考えてしまう。外国人から見た、休むのが下手な日本人の典型的体質を、ぼくももっているのかも知れない。家にいると、何やらやることがたくさんありそうな気がしてきて休めない。つまり貧乏性なのだろうが、自分を急き立てて散歩に出る。見たい映画など色々と行動的になって、自分自身の目を肥やしたりするのが、本当の意味でのポシティヴな休日の過ごし方だろうが、繁華街を通過することを想像しただけで自然足がそちらの方向には向かなくなってしまう。ずぼらなのだ。指輪物語も見たい。美術館にも行きたい。色々としたいことはあるのだが、今までの仕事量で脳みそがくたびれているので、その脳への刺激を極力減らすというのも休むうちと,自分のずぼらさ加減に自分自身いいわけをしてそこいらをほっつき歩く。夕方家に戻ると、春の夜の香がした。何となくそんな空気が、ちゃんとしめて出た窓のすき間から漂っているような気がしたのだ。すべての窓を開け放し空気をいれかえる。何もないはずの一日であったのだが、夕方から夜にかけて写真撮影のあることを思い出す。友人のフォトグラファーが、個展をひらく為ぼくのような仕事をしている人間を何人か、その住んでいる街を背景に写真を取るというコンセプト。何を着て行こうか考えねばならないが、脳が休みのモードに入っているので、なかなか思い付かぬ。そわそわしているうちに、女性カメラマンが登場。即興でグレイのスーツに黒いシャツを内側に着たもので決まる.まずは中目黒の方面に二人でぶらぶら歩いて行く。撮影しながらからいろいろな質問を受ける。あなたにとってパラダイスとは何か、とか、東京は好きですか、とか、ここでずっと音楽をして行くつもりなのか、とかとかとか。こういう質問に答えている顔を撮るの何かしら意味があってやっているのかと思いきや、そんな毎数は撮られなかった。目黒川ぞいにて何回か。桜は散って天気も曇り。ぼくの撮影にはもってこいのシチュエーションではないか。そのまま白金にある某行きつけのバーにて撮影続行。一応よいものがあればこちらのプロモーションにも使わせてもらいたいと思っているのでできあがりが楽しみ。屋内だというのに、レインコートをはおって撮影。せっかく夏のスーツを着ているのに。 某月某日 昨日の疲れを引きずってまた朝遅く起床。晴天ではあるが体はあいかわらずだるい。近くのグロッセリ-ストアにてお気に入りのサンドイッチで昼食。不思議なことに、うまいだけでなくここのサンドイッチは外国の味がする。近辺に大使館などが多いという立地条件も含め、ヨーロッパ系の人々の出入りが多いからだろうか。店の入り口には簡易テーブルなどが置かれており、簡単にすわって食べることができる。妙なバックグラウンドミュージックがないので落ち着く。有線でジャズが流れているところは場合によっては居心地が悪い。こちらは耳を含めて休みたいと思って金を払うのにもかかわらず、聴きたくもない音楽をなぜ流すのだろうか。そういう店が多すぎる。演歌も苦手である。日本人の心といううたい文句は出所が怪しいと思う。明治時代に演歌などあったのだろうか。午後は目一杯ピアノを教える。ティーチング終了が9時。皆忙しい合間をぬってわざわざ習いに来てくれるのでこちらも気は抜かない。よって教え終わるとやはり疲れる。明日は久しぶりの休日である。休日とはいえ、銀行、郵便局、その他行かなくてはならないところが多々あり、あまり休めない。 2002年の春がきた。世界では戦争をしているところもあり、経済が崩壊してデモばかりしている国もある。なんにせよ今日ぼくは、東京で平和に一日を送ることが出来た。ありがたい。 某月某日 連日の疲れを引きずり起床。昼間に目覚める。ひじょうにだるい。季節の変わり目と、連日のレコーディングだのミキシングだの、デンマーク人のコルネット奏者、キャスパーとの10 月ツアーの準備、家事雑事などやることがおてんこもりで休むヒマ無し。無理に起きて冷蔵庫をあける。食材はそろっているものの、調理する気力無し。近くの定食屋にてむつ味噌焼き定食をむりやり喰って午後からピアノを教える。夕方6時に急いで着がえて横浜エアジンにて津上研汰BOZOにて演奏。何度も何度もスタジオで同じ曲を聴いていたので、メンバー各々曲がからだに染み付いていて、ものすごくよい演奏となった。ピアノを教えて後何も飲み食いする時間がなかったので帰りの電車の中で血糖値が下がり、ふらふらしてきた。ふだんからテレビの美味しいもの特集の番組を見つつ、日本人は飽食を通り越して無軌道な餓鬼地獄への道をまっ逆さまに歩んでいるとひとり頭をたれていたのだが、今晩に限っては、しゃぶしゃぶ、寿司、焼肉、もつ鍋、などなどのメニューが頭の中を走馬灯のようによぎる。ちゃんと食べているのだが、それ以上にエナジーを消費しているらしく、からだが自然にこれらの食を求めて止まない。しかし週末はどこへいってもわいわいガヤガヤうるさいので、家にかえってコンビーフの缶詰めとキャベツを炒め即席の夕食とすることにした。疲れている。 某月某日 超絶ウルトラ危険で狂気な、そして信じられないようなロマンスに満ちあふれた夢を見てはたと明け方に目覚める。こういうことがよくある。この夢は文章にできない。書くと相当ヤバイ内要となろう。今日というか、昨日もミキシングの続きをする。その後ピアノを教え、やっと夜ゆっくりとする時間があった。ぼーっとテレビなどを見ながらめしを喰い、少し呑んで就寝した。順当な市民の手続きをふんだにもかかわらず、脳みそがまだ変に疲労していたのか、妙な時間に目覚めてしまった。昨日、といってももう一昨日になってしまったが、これらミキシングの日々の合間をぬって井上淑彦氏(SAX)と六本木のアルフィーにて演奏。ピアノのチューニングも良く、音響もばっちりで、なんだかすごい演奏をしてしまった。バンドが一体となり、もうどうにでもしてくれってな状態が曲間に何度も見えかくれし、演奏後はすっきり爽やかという、理想的な状態が何度もあった。全て井上氏のすばらしい音楽のおかげである。さてと、こんな時間にばっちりと目覚めた時はどうすればよいのか。何度もこういうことがあり、いつも自分自身が手持ち無沙汰。練習したり仕事雑用は不思議とこういう時手につかぬ。 某月某日 本日は津上研太BOZOのミキシングの日である。ミキシングとは、演奏した各々の楽器のバランスや音色などを皆でああでもないこうでもないと言いながら、イメージしている音に近づける作業と言い換えてもいいだろう。当然津上氏が今回リーダーであるから、彼が最終決定をくだすのだが。水谷氏のレコーディング機材その他に対する知識はんぱでなく、彼が専門的言語において、我々の意志をサポートしてくれることが大きな助けとなる。ぼくはいつもレコーディングエンジニアのH氏に対して、超絶ウルトラ抽象的概念的主観論を日本語でないような日本語で表現するので、H氏はいつも頭を抱えてしまう。そういう場合、水谷氏が二言三言適格なテクニカルタームを用い、ぼくの言わんとしていることを助けてくれる。すかさず外山氏が、リズム、サウンド全般に対し絶妙なアドバイスをすることにより、演奏した内容が鋭くヴバランスのとれたものとなって行く。こういう行程を、演奏した曲を何度も聴きながら続けるのである。またまた気付いたら午前2時になってしまった。タクシーにて東銀座から帰宅。頭の中は疲労のためか石のようになった感じ。 某月某日 さて、津上研太BOZOの2回目の録音だ。先日やりのこした曲を一気に演奏。時間があまったので初日に録音した曲の中からいくつかを再度演奏しなおす。津上氏、初リーダーアルバム製作ということで気合いも気力も集中力も半端じゃない。べつにメンバーに妙なプレッシャーを与えるようないやな気迫ではないが、それならオレだってこんなこともしちゃうから一緒にイイもの作ろうぜといった気分にさせるバイブレーションを出している。必須これはよいリーダーの条件でもある。良い男だ。津上氏のキャラクターは、日本ジャズ界には珍しく陽性なところにあり、自然彼の作曲作品やプレイも陰にこもったものではなくなる。しかしぼくがその後ろで演奏したりソロをとったりすると、その持ち味を少しシブい領域にもって行き過ぎる傾向があって、少し心配していたのだが、プレイバックを聴いてみると、外山(DS)、水谷(B)両氏のひじょうに優れたサポートにより、サウンドが絶妙のバランスをとっていることが分かる。ほっとした。このふたり、なにがなんでもとてもすばらしい。ぼくはただ、雲の絨毯の上で好き勝手をしているだけのような状態。この二日めのレコーディングセッションも深夜までおよび、全員くたくたになり帰宅。明日はミキシングに入る。 某月某日 実は三月中にルパン三世の音楽のアレンジと演奏をしていたのであった。初期ルパン、峰不二子がいちばんセクシーだったころのアニメーションの音楽を作曲した山下毅雄氏の息子にあたる音楽プロデューサーにして作曲家の山下透氏の誘いにのってやったのだった。おなじみの「あし~~もとに~~、からみ~~つく~~」のデンディングテーマから、聞き覚えのあるメロディーを手を変え品を変えアレンジした。ボサノヴァあり、モーダル風のアプローチあり、バロック調のものもあり。同じテーマを、しかもサビなどもなく、「ルパン三世~~」を連呼するだけのモチーフもあり、変化をつけるのに苦労した。今回のこの仕事は、サブリミナルな部分でメロディー事体に親しんでいることが助けになったのではないかと思う。なぜかって、ぼくが中学生のころ、毎週かかさずこの番組を見ていたからだ。毎週無意識のうちに、何度も何度もこれらのメロディーを聴いていたことが、発想の根幹にあった。レコーディングメンバーは竹野昌邦(SAX)安カ川大樹(B)田鹿雅裕(DS)、ぼくがよく一緒に演奏しているおなじみのメンバーだ。加えて、ボストン時代からの友人であるエレクトリックベースの原武も参加した。曲によって、ミンガス風、コルトレーン風とサウンドのカレードスコープ状態にし、これでもかっていう感じの演奏だ。発売はVAPレコードから5 月の予定。詳しくはまたこのウエッブで報告するつもり。乞う御期待。 某月某日 9時に起床。ピアノで少しウオームアップ。今日は津上研太BOZOのレコーディングの日である。我がトリオ「3×1」「SONGS」クアルテットの「GO THERE!」などを録音した東銀座にあるスタジオに向かう。少し早めに出向き、津上氏の友人のフォトグラファーと、銀座四丁目近辺にてメンバーとおちあって、ジャケットやCDの中身に使う写真撮影。歩行者天国を利用し、いろいろなところで撮影す。歩行者天国というシステム事体、ひじょうに昭和の時代的産物に見えた。ということで状況は新鮮味に欠けるが、写真はよいものが撮れたのであった。件のフォトグラファー、デジタルカメラでも撮影したので、スタジオにていくつかノート型コンピューターで見ることが出来た。いろいろなシチュエーションで撮影したのだけれど、ひとつ銀座の路上にねっころがって撮ったものが、斬新でおもしろかった。採用されるかどうかは分からないが。2時ぐらいからサウンドチェックを終えレコーディング開始。クラブで演奏するサイズとは違う行き方で津上氏のオリジナルを演奏して行く。一曲一曲コンパクトにまとめ、曲数を増やしたいとのこと。時刻が10時をまわるころには、8曲ほどとり終えていた。おおかた一枚のCDをつくる時間に充分な時間を使ってしまった。やる気が先行したのか。外山(DS)水谷(B)の鉄壁な絨毯の上で、ぼくはただ好き勝手に、やりたいことをやりたいようにやっていたら、時刻が12時をまわった。10時間ほどスタジオにいたことになる。上々のできだ。帰りは津上夫妻とタクシーにて銀座から恵比寿方面へ。道が異常にすいている。戒厳令のような東京の日曜日。 某月某日 今日は春の最先端のような一日。夜何人かにピアノを教える。昼は少し奮発し近くの寿司やのランチにありつく。最近雑誌などで寿司通になる方法などを説くものがあるが、勉強して行くところでもあるまい。寿司やは家の近くに限る。さくっと行ってさくっと帰る。これができないと行く気がしない。とにかくちびちび酒をのみ、だらだらできない寿司やなど、あまり行く気がしない。神楽坂、銀座に何件か知っているが、そういう離れたところの寿司やには、特別な何かがある時しか行かない。とにかく、寿司を喰ったら、夜飯は和食が喰いたくなった。自分で調理する。筍をオーブンであぶり、こげめが付いたところに醤油2、みりん、日本酒各々1の割合いのたれをはけで塗り、もう一度あぶる。シンプルでうまい。焼酎のあてに最適。干し椎茸とそのだし汁に、醤油、みりん、日本酒を加え米を炊く。これも半分つまみとして焼酎を呑む。ベランダに面した窓をあけて静かにこれらの和食を前にして呑むことにした。夜風の向こうで草木がいきいきとして見える。季節が変わりはじめている。風がそよそよ、今年の夏も暑かろう。四月も仕事量と、それに比例して出入りが多い。こんなのんびりした夜もしばらくなかろう。寿司やのあとに、マーケットにいって食材は買い込んだ。春キャベツなど。これをコンビーフの缶詰めと炒めたり、カツオだしで味付けし、パスタとからませると美味しい。料理といえども、うまいもの屋でうまいものを喰った味を、短時間に簡単に再現することに腐心しているものだから、要するにインチキなのである。しかし、いざ凝りだすと、食材の料や種類、調理器具の種類を含めて膨大な量となり、時間もかかる。何れはこういうものを全て買い揃え、じっくりと調理したいというある意味いちばん贅沢な願望もあるのだが、いつ実現するやも知れぬ。揚げ物と魚をさばく事は、時間と金がいくらできてもしたくない。両方ともあとかたずけに時間がかかりそうだからである。調理しつつ、呑みつつ、洗いものもできる料理が理想で、ほろ酔い、満腹、台所ピカピカが美しいフィニート。要するに貧乏性か。 某月某日 風の強い日。鎌倉のダフネというクラブにおいてトリオの演奏。横須賀線に乗る。最近は普通車でも二階建ての車両などありちょっとした旅行気分を味わえる。北鎌倉に幼馴染みの親友が住んでいて、子供のころからよく遊びにいっていた。そのころの車両も直角のかたいシートでなかなか味があったものだが、いまはもう解体されてしまったのだろうか。最近は山手線のようなシートの電車も走っており、これに当たると旅気分も疎外される。本日は運がよかったのか。鎌倉近辺は大好きな場所である。日本中どこへいっても、主な都市の駅前には、カラオケ、サラ金、パチンコ屋、チェーンの居酒屋しかなくなってしまった。世相を反映しているのか、日本人が心底文化に対してどーでもよくなってしまったのかなんなんだか。特に悲しいのは京都駅のまわりである。ぼくが知っている京都は、もう少し情緒的であった。話がそれてしまったが、鎌倉駅の前はまだ昔のとおり。ひじょうに落ち着く。風が強い日であったから空気が清浄。小町通りも過度に華美とならず、歩きやすい。昔のとおり。この通りは車が無いのがよい。何かの雑誌で読んだのだが、作家、ミュージシャンなど、東京を離れ、鎌倉に住む人が多くなったそうだ。昔から作家の住まうのに適した場所である。東京と比べ、たぶん夜の時間の流れ方が違うのであろう。小町通りを歩いていてさえ、東京には無い静けさがある。いい感じ。ダフネは小町通りの横町をちょっと奥にはいったところにあり、よい雰囲気の場所である。食べ物も美味しい。幼馴染みの家族や親戚の方々がよく見に来てくれる。お天気が心配ではあったが、ほどほどに客が入る。演奏は好調。好調、というニュアンスにもいくつかの種類や状態があるものだが、本日鎌倉での「好調」は、その場の空気と小旅行気分、思い出深い街での演奏という条件が相まって、無理のない、自然に演奏を楽しめるものであった。外山、安カ川両氏とも、惚れ惚れするような演奏をする。その幼馴染みの親友の家には、おもに夏休みを利用して、1週間ばかり泊まり込みで遊びにいったりしていたのだった。ずっと東京生まれで東京育ちであったから、鎌倉の自然を前にして遊びくるった。小学校4年のころか。親友の家は山の斜面に建っており、お母さんが暮らしの手帳社に勤めている関係で、内装もひじょうにモダンで、中2階などある家の中でも、当時のぼくは探検気分を味わえた。もちろん外でも、洞くつ探検、虫取り、山登りと、団地っ子のぼくには楽しいことばかりであった。お寺なども再短距離にあって、歴史的なことは何も知らないくせに、親友の家族につれられてまわった。夜には小町通りなどにもくり出し、楽しい時を過ごしたものだ。こんなぐあいに、毎年恒例行事のように、夏休みになると鎌倉を訪れていたので、ひじょうにこの土地にはなじみがあるのである。まさか自分が将来この土地で演奏するようになるとは夢にも思わなかった。ダフネでの演奏は、いつも夜11 時すぎまで続く。畢竟終電に飛び乗らないと帰れない時間となる。演奏直後はからだが動かない。しかし無理をして腰をあげ、深夜の小町通りを小走りに鎌倉駅へ。誰もいない小町通り。駅にも人陰はほとんどなし。感傷にひたる間もなく、横須賀線には見えない横須賀線に飛び乗り東京方面へ。電車の車種が変わっても、鎌倉は変わらないでいてほしいものである。 某月某日 東京ブルーノートにブラッド・メルドートリオを見に行く。忙しいあいまをぬって時間をあけたのだった。かなりヤバイ演奏であった。たぶん彼はなんらかの方法によって、もうすでに常世の国を垣間見てしまったのであると確信した。薬物か、瞑想か、はたまた生まれつきそういう精神の持ち主なのか、彼にはもう死後の世界がじゅうぶん分かっている、そんな演奏だった。30才前後で、もうすでにあちらの世界を見つめることができ、それを自らの肉体を通してこの世に垣間見せるという技を身につけるとは。ある意味聴いていて苦しかった。いかに才能があるとはいえ、そこまでの事を体現するには、ぼくのような者でははかり知れない苦しさとリスクを払ってきたに違いない。彼の音楽は異常にバランス感覚に優れている。あんなバランス感覚はこの世のものとは思えない。しかし彼の審美眼と感性はそれを知っている。ぼくなんかがキタネ~ナ~ぐらいにしか思わないことも、彼にとってはハゲオヤジのゲロをまじかに見るより辛く感じられるに違いない。同じ悩みを抱えている第三者など、そう簡単に見つかるとも思えない、絶対的な孤独。彼はよく哲学書を読んでいるそうだ。ライナーノートにも自らの話を哲学的な語法で書いたりしている。しかし、彼の好みのタイプの女性とはいったいどういう人なんだろうか。ぼくは同性愛ではないので分からないけれども、あんなバラードを弾かれては、キャーステキと思う前に、ほとんどの女の人はおっかなくなって近寄れなくなっちゃうんじゃないだろうか。まあ、相対的に見て人類とは面白い存在である。スズキムネオもブラッドも同じ人間なんだから。 某月某日 再度機械に関することで恐縮だが、なんとADSLというすごい機能を導入した。新調したコンピューターにI-TUNESというソフトが入っていて、それを通して世界中のFM放送が聴けることをある日発見したのだった。ジャズのみならずクラシックなどなど自由自在に聴くことができる。しかし、アナログ回線では、音がとぎれてしまう。友人にADSLにすればとぎれないと教わってはいた。またあの複雑怪奇な手続きをふまねばならぬと思うと、最初は躊躇した。しかしとぎれとぎれに聴こえてくる良い音楽を聴いていると、焦れったくなってきた。気分は共産圏のジャズミュージシャンが西側のラジオ放送を密かに聴いているような感じである。もうすでに机の上はターミネーターのゲロ状態だからと思ったら、逆にふんぎりがついた。ええい、ADSLでもLSDでも矢でも鉄砲でももってきやがれ!スターターキットなるCD-ROMを入手し、申し込んで2~3日したらその申し込みが受理されたという封書が届いた。さらに10日ばかりたった後、メガビックギアーなる機械が送付されてきた。苦手な説明書を解説図を参考にまさぐるように作業を始めた。まず電話線との間に電話線を二股にするものを装着。今度はコンピューターに、説明書の指示に従っていろいろな数字を入れてゆく。この作業がもっとも苦手である。進んでゆくうちに案の定問題が発生。「ご利用の案内」に記載されているメールアドレスを入れろと説明書にはある。最初、説明書にそういう欄があるのかと1ページ1ページその言葉を丹念に探した。みつからない。メガビックギアーの入っている箱に何やら手紙が何枚か入っていて、「ご利用の案内」は後日また新たにそちらに送付するとあった。なぜ一緒に送ってくれないんだ?しかも、メガビックギアーとコンピューターを接続するのには、LANコードという太めのコードも必要らしい。二股コードは箱の中に一緒に入っていたのに。なんでRAN コードも入れといてくんないんだよ。またお目めチカチカ量販店に行かねばならぬ。これって、寿司の出前をとって、寿司やの小僧がおまちース、○○寿司デースなんかいって、ごくろうさんて寿司代払って食卓にもってきて、ふたを開けたら、握りずしのシャリの部分のみが整然と寿司おけの中に並んでいて、上にのるネタは後日出前しま~スっていう説明書が入っていたのと同じことなんじゃねえのカヨウ。これが実際寿司やだったら、○○寿司さんよう、おたくいったいなに考えてんだヨウの一言が電話でいえるのに、今回の事は、機械の知識がろくろく無いくせにこういうことに手を出すぼくがバカだという引け目が半分あって、イライラをどこに散らせば良いか、もう何かいやな気分。さらに日が過ぎて後日、LANコードと届いていたご利用の案内で作業を再会。作業開始から後半まではよどみなく進む。しかしあるページではたと動きがとまってしまった。説明書のコンピューター画面の絵と、実際に写し出されているコンピューターの基本設定の仕組みが違っていたのである。これには手も足もでない。幸い午後5時頃であった為、付録についてきた紙にあったテクニカルサポートなるところへ電話をする。どうせ長時間待たされるんだろうなあと覚悟していたら、意外とすぐに担当者がでてくれた。こちらの画面も見えないのに、ニ三言こちらの状況を説明したら、その担当者は、ささっとこちらがするべきことを答えてくれた。すごいなんてもんじゃない。どうなってんだろう。機械に詳しいことが即、何も知らんやつに指示を出すのがうまいとは言い切れないだろうに。画面の相違をクリアーした。お礼を言おうとしたら、その担当者、ちゃんとADSLにつながるまで、電話で指導すると言う。なんと親切な。最上級の礼と、恐縮している旨相手に伝えながら、作業再会。担当の方のおかげであとはすいすいと進み、じゃ~んと新しい機能をもったコンピューターに生まれ変わった。とにかく、なんでもかんでもものすごく早い。担当者に重々礼をいって電話を切り、即 i-tunesのラジオプログラムのジャズの箇所を選ぶ。ざっとでてきたプログラムは30種類ぐらいだろうか。RADIO… >>>

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