海で

波打ち際に来ないと、最近頓に安らげないことに気づきました。海を見て、波音を聴いていると、真の意味で頭の思考が止まってくれる。こんな簡単なことに、どうして今まで気づかなかったのでしょうか。思考を止めるとは、禅のマスターが悟ることで、一般人にはできないと思い込んでいました。考えることは大切ですが、いつもその結果、私の納得する哲理が表出するわけではありません。そこに生まれる不条理が私のみならず、人間を悩ます根源でしょう。それにともなって、心理学の本も沢山読みました。フロイトは古く、ラカンが新しくてどうしたこうした、云々の論争に文章の中だけで巻き込まれ、ヴィクトール・フルランクルだけが唯一、少し共感できる部分がありましたが、収容所体験なくしては、本を読んだからといって、少なくとも私には実践できるものではないです。 散歩と読書が唯一の趣味でした。古本屋で三百円ほどの古典を買えば、いろいろなことを知ることができます。つまり人間はいかに科学が発達しようが、昔の人と同じような悩みを持ち、同じようなことで友と喜びあい、同じようなことでずる賢く、人をだまして、別の事例でしっぺ返しを食らう。鴨長明、シェークスピア、挙げればきりがありません。昔も今もそれは変わらず、我々人間がやってきたことは畢竟同じであることが、古典を読むと分かるのです。それは確かに事実であり、そう思い込むにふさわしく、人間は哀れな側面を持っています。古典文学と現代の共通点があまりにも似通っているので、人間はそういうものだという時点で、私の思考はそこで停止していました。ですが、その私の心境に変化がおこりました。 タフビーツというレーヴェルのイヴェントにて、最も敬愛するジャズヴォーカリスト、与世山澄子さんの伴奏をさせて頂いた後のことです。演奏場所は横須賀先の穏やかな海岸にある海の家でのことでした。勿論のこと、与世山さんの歌は、いつもの通り、なにかしらの天啓を伝えんが為、ジャズなどという言葉の持つ虚しさを蹴っ飛ばすがごとくの、ものすごいサウンドを紡ぎだすものでしたが、オオトリでそのイヴェントを締め括ったのは、沖縄民謡の大家、大工哲弘氏でした。都内のライブハウスでは一度拝聴したことがあったのですが、波音と共に聴く大工氏の蛇皮線の倍音と、その上を揺蕩う歌そのものが、波音と同期して、私は思わず砂浜にひっくり返ってしまいました。数々の古典文学が表現したことも事実です。しかし、この大地と空の間になぜか生きている人間という生物の、「生」そのものの喜びを讃歌することが音楽なのだと、氏の歌声によって悟った瞬間でもありました。希望、夢、など頭で考えた概念では、人間はどうにも方向を失うのだということが、大工氏の音楽から伝わってきました。我々は素朴に生きようとすれば、過不足無く生きていける。感謝に値する恵みがこの空と地面の間に沢山の自然が用意してくれている。陽が登り沈むというサイクルの中で、唯々生きていることを満喫できる。そのことを私に指し示して下さったのが、大工氏の音楽なのでした。それからというもの、私は少なくとも週一回、海辺に行って、波音をじっと聴いている時間が必要となったのです。波音のリズムは、極端な例ですが、月の重力、もっと飛躍して、この太陽系の惑星の動きにも直結している筈です。 波音だけを聴く為に、先日、小遣銭を切り崩して、下田まで行きました。近くのホテルで、私がもっとも敬愛するピアニストが演奏していることも一因でしたが、そのピアニストの演奏の中にさえ、波音を感じていたことも事実です。下田の海で波音のシャワーを浴びました。再度思考が飛躍しますが、この海はリオデジャネイロにつながっていて、そこでボサノバが生まれたのが解ったような気にもなりました。ボサノバは、決して山奥で出来上がった音楽ではないと思います。波のリズムなのではないでしょうか。そして、沖縄民謡ともどこか繋がりがあるはずなのでは、などと妄想を膨らませることができるのが下田の海でした。生物学者でなくとも、誰もが知っていることですが、我々の命は海から生まれてきたのです。羊水も海水に近いと聞きます。仄聞するところによれば、海水を飲めばあらゆる病気が治るということです。 我々人間は、ずっと海を汚してきて、核物質まで垂れ流してしまいました。それは私自身のせいではないと、心の中で整理をつけても、毎日の生活の中で使っている、洗剤や、トイレ掃除のサンポールみたいなもの、あれらの化学物質は、皿を洗い、トイレを流した後、宇宙の果てに消えるものではありません。よく考えれば、掃除すること自体、つまりは海を汚しているのです。自然は、とんでもない浄化作用を持っていると、何となく信じたいのですが、これだけ人間が豊か?になるために海に我々が今までにしでかしてきたことを思うと、海を含めた自然が怒るのも当たり前だと思わざるを得ません。それが津波や台風となるのではないでしょうか。自然のフトコロは大きいですが、限度もある筈です。我々人間は、すでに自然に対する限度を超えた存在に成り果てていると思います。実際、この定理も思い上がりなのでしょうが。 話がそれるようですが、私の父は、京都の先斗町、四条河原町近辺の生まれ育ちであり、母は新橋で育ちました。私は子供の頃、母方のおばあちゃんの家に行くと、二階の物干し場から東京タワーの夕暮れを見て、その後夕ご飯を食べてから、銀ブラなどをするのが、私にとっての「自然」でした。ネオンの灯りが大好きでした。父が里帰りの折りには、先斗町にある叔母の家で、迷路のようなあの辺りを駆け巡るのが、私にとってやはり「自然」でした。高瀬川に映る、ゆらゆらと見える提灯の灯り、祇園の大人びた雰囲気が大好きでした。 私が「夜」というものは、真にこの世が真っ暗になることを知ったのが、高校二年の時、福岡から上京していた友人と行った、久留米の外れにあるお寺でのことです。暗闇で、よく地面が見えないので、歩こうにも一歩足を踏み出せないでいる高校生の私を見て、そのお寺の住職さんは大声で笑っていました。あんなにたくさんお星様が空にあることを知ったのも、その時が初めてで、蛍などという生物がこの世に存在するということを知ったのも、お恥ずかしながらその時が初めてでした。それから幾歳月、私は東京に住み、全国いろいろなところにツアーに行きましたが、結局演奏場所というものはどの街に行っても繁華街の中にあり、大工氏が謳いあげる、「自然」からはほど遠い生活をずっと送ってきたのです。そしてまったくお恥ずかしい限りですが、今更ながらにして、私は海が好きになりました。 海辺に行くと、砂浜に座りこんで、長い間海を見つめることにしています。そういう時は眼鏡も外します。景色がぼやけてもいいのです。私の自然な視力で見るべき景色なのです。眼鏡も便利なものですが、見えないものを矯正しているガラスであることも事実です。 近隣国と関係が悪いと聞きます。皆海沿いに近い国々です。そして海域で国境を分けていますが、そんな馬鹿げた権利が、この地球という惑星に対して、人間に許される事なのでしょうか。全国民が大工氏の歌を聴くべきです。近隣国の海辺の民にも必ず沖縄民謡に匹敵する音楽がある筈なのです。隣同士の国が沖合に船を出し、お互いに唄い合えばいいではないですか。「俺はこの海を愛しているぞ」「俺だって愛しているぞ。では一緒に大切にしよう。今度はどんな歌を歌うんだ?そっちがそういう唄ならこっちはこうだ。あれ、その節回しはオレ達のものと似ているぞ。なんだ、オレ達仲間じゃないか」 こんないとも簡単な意思疎通が、どうして出来ないのでしょうか。基本的な争いそのものを馬鹿げたものにしてしまう何かを音楽はもっているはずです。隣国と争うなどまったく下らない。海上でのど自慢をすれば良いのではないか、と波音を聴きながら海にそっと謝りました。 音楽にはジャンルは関係ないし、良い音楽とそうでない音楽があるだけだ、と喝破したのは、巨匠、デューク・エリントンです。海に関することは、また次回書くことにしましょう。 >>>

「告白と告知」

「豹変」という熟語がどうも腑に落ちません。よく考えてみると不思議な漢字の組み合わせであることがお分かりでしょうか。分かって頂けなくても、私にはやはり、誰がどういうきっかけでこの漢字を組み合わせたのかが分からないのです。元々豹などという動物は、この日出ずる国に住んではいなかった筈なのです。象牙という熟語もありますが、インド周辺から絵のようなものが伝わってきて、それを元に創られた熟語なのではないでしょうか。いずれにせよ、象ならアジアにも生息していそうな気がしますが、豹となると、これはアフリカにしかいないような気がしてなりません。または中国の奥地に生息し、伝聞でその姿を聞いた者がいる可能性もあります。 いずれにせよ、不思議な漢字の組み合わせであり、この不思議さを私は逆手に取っています。 江戸から明治に時代が変わる折、西周が、人間、愛、哲学、などという訳語を創案したと記憶していますが、豹変、も西周の手によるものなのでしょうか。どちらにしても言い得て妙です。この熟語のニュアンスは豹柄のように変化するという意味合いなのでしょう。それも人間の感情が変化を起こした時に使われることが大方のような気がします。豹変した自動車、豹変した松の木、猫が豹変した、という文章を、少なくとも私の読書歴でお目にかかったことはありません。やはり、彼は豹変した、いきなり豹変した態度を取り、等々、人間の感情に関する言い回しの方が多いことは明らかなようです。私の属する音楽業界では、これをジャガーチェンジと言い表す者もいます。その筋でいけば、私は「トラウマ」という外来語を、虎馬、トラとウマ、タイガーホースと斯界の慣用に倣ってダブルジャガーチェンジしても、国語辞典を編纂する訳ではないし、個人のレヴェルで、しかもそれが有用であるのであれば、使って良いのではないかと思っています。実際に、私はこの言葉を、時々ではありますが、心中で唱えております。 それはなぜか。 トラウマは、おなじみのフロイトが規定した心的外傷のことです。多分ギリシャ語が語源でしょう。いずれにせよこのトラウマが、いじめ、暴力、精神的苦痛という現象で継続してしまいますと、心的障害後ストレス障害に次第に変化するようです。所謂PTSDと言われるもので、Posttraumatic Stress Disorderの略です。直訳すれば、精神の傷痕を苛み続けた後の機能不全ということになるのでしょう。機能不全を私に当てはめ 更に分析してみると、多くの感情を含んだ過去の出来事を追体験することが、まさにPost云々そのもので、その症状の現れ方は、この病に悩んでいる他の人と代わりはありません。ですが、多分他の人との相違点は、そのような同じ体験をするとせつなくなる、ということです。つまり苦しみのみではないことが、逆に大きな問題たり得るのです。そのせつなさは、パニック症候群のようなものではないのですが、なんともほろ苦い、黒目が下を向きうなだれてしまうたぐいのものです。しかし、難儀なことに、そのほろ苦さが、何とも言えない甘い郷愁に満ちた感情と同居してしまうことが更にまた難点なのです。 健常な人でも、この体験、またはこの感覚をまったく持っていない、または感じたことのない人はいないのではないでしょうか。もしいたとするならば、それは落語に出てくる与太郎です。或る人はそれを忘れることが上手であり、或る人はそれを精神力で克服し、或る人はそれを引きずってしまい、心療内科のお世話になってしまう。私の場合は、それが突然表出するというのが特徴です。フラッシュバック、発火後、いーひえーきわりお、再び逆ダブルジャガーチェンジするとこういう言い回しがよいのでしょうか。どちらにせよ、上記のごとく、私の心中にも、ある種特定のタイガ〜ホ〜スが居座っています。それがなんと、自分が今生業としている音楽ジャンルの一部分なのです。これは大事なのです。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、これは私の精神の均衡に関わる問題であり、それだからこそ、トラウマという概念を、虎馬、トラとウマ、所詮タイガーホースだと自分に言い聞かせ、これまでしのいできました。つまり私は私にこう言い聞かせてきたのです。虎の柄は、豹とは違い、なにげにシンメトリカルなだけではないか。馬など、白、茶色しか見たことがない。故に、私が自分のトラウマ、もとい虎馬、所詮タイガーホース、などという概念に苛まれる訳がないと、このように段階的に言葉を置き換えて、これまでの自分自身をなだめてきたのです。心的苦痛を感ずる事があると、タイガ〜ホ〜スタイガ〜ホ〜〜スと心の中で唱えてきたのです。まるで落語の考行糖、こう〜こう〜とう~こう〜こう〜とう〜であるかのように。何事も気の持ちようである、とは良くいったもので、こう〜こう〜とう〜ならぬ、タイガ〜ホ〜スと何度も唱えていると、不思議と上記の苦しみと郷愁から逃れる心的構造が私の心中に出来上がってしまいました。しかし、気の持ちようがどうしようもない時もあります。人間の心中が複雑怪奇でることは、新聞の紙面を見れば明らかでしょう。しかし、なんだ、所詮動物園の一部ではないかと思い直してもどうにもならない類いの感情が全くない人間がいるのでしょうか。そして何を隠そう、その心中複雑怪奇なもの、それは私にとって、大有名スタンダード曲に対してなのです。曰く「My Way」「Unforgettable」「Love」「Star Dust」「Quizas Quizas Quizas」「Love Is A Many Splendored Things」「Smile」「Fly Me To The Moon」etc,,, なんだ、要するにナット・キング・コール、フランク・シナトラ、ホーギー・カーマイケルなどの持ち歌ではないかと思われるでしょう。そのとおりです。ここから拙書の宣伝になってしまうかもしれませんが、私はこれらの曲を、二十代後半、バブル華やかなりし頃、銀座のナイトクラブにて、一晩に下手をしたら八回以上演奏していたのでした。それが月曜から土曜日まで、三年あまり続いたのです。何故かといいますと、掛け持ちをしていたからです。掛け持ちとは、ナイトクラブA19時半〜20時、ナイトクラブB20時〜20時半のローテーションを指します。それが午前12時まで続きました。お客さんが入れ替わると、自然に同じリクエストが来るような状況でした。そしてこのタイガーホースを助長する作用を促したのは、私の演奏が拙かったことが原因でもありますが、誰も聴いていなかったということです。そして、どんなに好きなことでも、何万回か、後で計算してみますが、リクエストに逆らえず弾かされるという体験を毎晩何回も味わうと、人間は、特にミュージシャンであれば更に、どこかがおかしくなってきます。 若かりし頃、最初はこれらの曲を演奏することに夢中でしたが、そのような心的動機はすぐに消えてなくなります。いずれにせよ、どのような素晴らしい曲も、約8×6日=48,あれ、一週間に?48×900(仮に)=43200回?あわわ、あわわ、あわわわ、、、、タイガ〜ホ〜スタイガ〜〜〜〜ホ〜〜〜ス、、、、、、、お分かりでしょうか。私は銀座でしこたま貯めた金を握りしめてアメリカに逃げました。留学という名目でしたが、もうあれ以上耐えられなかった、という方が正しい理由かもしれません。誤解をされると困りますので解説します。これらの曲は名曲であり、私が死んだ後にも残るメロディーの数々です。そして、更に皮肉なことに、これらの曲を効果的に弾く方法を教えてくれたのは、バークリー理論でもへったくれでもなく、その筋の方々、そしてクラブのバンマスでした。感謝すべきことでもあります。特に「My Way」の歌詞などは、今の齢にならないと分からない深みがある事も重々承知しております。その他の曲の歌詞も同様です。だがしかし、私は最近まで、ナットの、シナトラの、ホーギーのこれらの曲を聴くことが怖くてしょうがなく、と同時に大好きという、正にタイガーホース状態でした。そして、どうしてもこれらの曲を弾かなければならない状況の時には、タイガ〜ホ〜スタイガ〜ホ〜スと唱えながら演奏していました。何故かといって重複しますが、数々のほろ苦い想い出と、華やいだ銀座の風景、ホステスのお姉さん達の優しさ、女気という言葉はあるのでしょうか、とにかく、お世話になった方々、バンマスの鋭い視線、グランドピアノの上に活けてあった名も知らぬ高価な花々、スポットライト、とにかくそれらの想念がぐあっと私の心中に押し寄せてきて、どうすることもできなくなってしまうのです。幸いなことに、この想念は、暴力やいじめによるものではないのですが、言ってみれば、これらの曲の歌詞を地でいっていた銀座のチイママやバンマス、その他の方々の心中がいまさらながらに偲ばれて、居ても立ってもいられなくなってしまうのです。演奏しすぎた、という側面も確かにあります。と同時に、名曲演奏にも限度というものがあるということもしっかり学ばせて頂きました。このタイガ〜ホ〜スは多感な時期に経験したからゆえの音楽的宝であると共に、私の心中にしっかりと別の意味でのタイガ〜ホ〜スを植え付ける役割を果たしました。ゆえに、長い間、これらの曲を聴くこと、演奏することを無意識の内に避けて来た部分もあります。ですが、人間とは不思議なものです。私は今の齢になって、やっとこのタイガ〜ホ〜スを自身の気持ちと共に制御しつつ聴けるようになってきたようです。まだ完全にではありませんが。そして多分、今の私がこれらの曲を演奏したならば、僭越ですが、聴いている人が泣き崩れるほどの演奏ができるのではないかという妄想を抱いております。でも滅多にやりませんが。何故かと申しますと、私もやはり演奏しながら泣き崩れる恐れが、残念ながらまだ残っているからです。なんだ、言っていることが矛盾しているではないかと思われるかもしれません。しかし、完全に感情を制御した音楽が人に感動を与えられるでしょうか。このように、まだ心中複雑なのです。お分かり下さい。約43200回前後のこれらのメロディーが私の指と耳から身体に染み込みました。そして、これまた不思議なことに、矛盾しているようですが、なぜかこれらの体験を自らの感情から追い出したいという思いが未だにあると同時に、猛烈に演奏したいという、相反する欲望が私を苛むのです。タイガ〜〜〜〜ホ〜〜〜スタイガ〜〜〜〜ホ〜〜〜ス、、、、、いずれにせよ、もう少し時間をください。誰も頼んでいないよ、といわれればそれまでですが、あともう少し経てば、私の心中に居座る虎と馬は、どこかに走り去っていくような気がしています。そしてそれが実現すれば、涼しい顔をして、最高の「My Way」を演奏するでしょう >>>

銀座と映画

雑用というものは、時に必要事項をかたづける上でとても実用的なことだが、雑用が雑用を作り出してしまうと、それは害虫と等しく、湧いて出てくることが多い。これには殺虫剤を用いることもできず、たとえ雑用リストにそれを噴霧したとしても、その文字が滲むだけで、有効ではもちろんない。このような時には、気分転換に有効な趣味などが身に付いていれば、何らかの心情の変化が見込まれるのであろうが、読書意外に私の気分転換は、今のところ見つかってい ない。ジムに行くのもいいのだろうが、家事をしていると、自然に体を動かすので、無駄なようでもあり、わざわざ腹を減らすというのも、ジムの費用と相まって、何かしら解せないものを感じてしまう。 読書の他にも気分転換が必要であることは痛感していたので、しばらく離れていた映画鑑賞をすることにした。映画鑑賞から離れてしまっていたのにも理由がある。アメリカ映画に限らず、最近のスクリーンには、拳銃をぶっ放したり、カーチェイス、流血、拷問、暴力、死体などが大写しになることが多い。私は真っ暗なところで夢が観たいだけなのだ。これらのことは、この浮き世のみで沢山なのである。それを大画面でこれでもかと観せられたら、たまったものではない。ということで、お金を払ってまで観るのが嫌になってしまっていたのであった。しかし、ここは音楽と同じく目利きになればよろしい。 ただ、目利きというのは、よいものを探す審美眼と、時間が必要となってくる。趣味に淫する、とまで時間を割けない私は、そこで躊躇してしまっていたのであるが、今回、映画に詳しい友人が特別なものを選んでくれた。タイトルは、「GIGOLO IN NEW YORK 」。ジョン・タトウーロ(すみません、ウの小さい方の文字が出てきません。ウを小文字のつもりで読んでください)、ウッディー・アレン、シャロン・ストーン、きらびやかなキャストに粋な会話とストーリー。宗教とヒューマニティー、これ以上書くと、まだご覧になっていない方に迷惑がかかるので書かないが、特筆すべ きは、音楽の良さであった。ジーン・アモンズの「CLOSE YOUR EYES」が何とも効果的に使われていた。最近の映画館は、サウンドシステムが秀逸で、この点だけは映画の内容はともあれ、嬉しい側面である。映画を観ていて、何度も笑い、何度も吐息をもらした。人間とは、やはり生活する上での人間関係の中に、さまざまな齟齬、いきづまり、言葉で言い表せない複雑な感情が生じる。そこをなんとかうまくやって行くには、ユーモアとペーソスがやはり必要なのだということを、お説教抜きのストーリーに仕立て上げたこのタツーロという人は、やはりただ者ではない。長尺な台詞まわしもなく、只々NYの、あっ、これ以上、書くのは止そう。 映画館を出て、やはり映画を見るのは銀座かな、とふと思った。上映館はTOHOシネマズ。有楽町の裏にある映画館であったが、JRの高架線を渡ってからが銀座なのか、帝国ホテルがある辺りが有楽町なのか、地図とは違った観点での私の意識は曖昧だ。しかし、件の映画館は、私の意識の中では銀座に位置していたのであった。とにかく、時々行く渋谷の映画館で、久々によい映画を見たなあ、と外に出てみると、街の風景自体が豚骨スープに見えてきてしまうことが多々あり、これも映画鑑賞から私を遠ざけていた一因である。映画の詩情も、美しい画面の印象もだいなしになってしまう。これは映画館の責任ではないのだが。ウイーンのオぺラハウスを出た後に散策する小径のようなものは望めないことは分かっている。しかしである。やはりいただけないものはいただけない。その点、銀座は、過去の私の記憶と相まって、映画館の扉を開けた後、心地よく深呼吸ができる雰囲気がまだ残っているような気がする。このような感慨を持つのは私だけなのであろうか。やはり、ピストルバンバンしなくても、映画は創れるではないか。ここは、池波正太郎の代表作の一つである、梅安シ リーズに共通点を見出せる。たとえ殺しの場面でも、それは一瞬であり、後味がよい。ジョン・フォードの西部劇も、決してインディアンをなぶり殺しにしたり、体中弓矢だらけで悶絶している者などは写さなかった。世の中がささくれ立っているからこその芸術ではないのだろうか。人の機微、人情をべたべたせずに描写することが、Coolなのではないのでしょうか。タトウーロ、アレンも、この映画自体で、静かなる反抗を試みているのかもしれない。地球に隕石が落ちてきて、NYがまっぷたつになる映画を撮れば、客の入りはよいのでしょう。私は観たくありません。そういう手のも のは苦手です。そのようなことは、重複しますが、この浮き世で起きている現実が、隕石落下を上回る哀しいことだらけなので、わざわざ、その哀しみに油をそそぐ必要は、少なくとも私にはないのです。ドキュメンタリー映画の中の現実や、悲劇が悲劇のまま終わる映画があってもいいと思うのですが、そこにはやはり、人種を超えた人間の心根が、灰汁ぬけて表現されていないと、どうしても私は拒絶反応を起こしてしまうのです。お前は映画評論家か?という声が聞こえてきそうなので、もう書くのを止めますが、これはオススの一本です。 >>>

朋ありCPHよりきたる また楽しからずや

過日、デンマーク人のジャズギタリスト のカーステンから突然にメールがあり、今、京都に滞在している、明日から横浜に一日だけ寄ることにしたので、案内をしてくれないかというのがその内容であった。詳しい話を聞いてみると、彼の奥さんであるアニーが社会学者で、京都で開催された何やら大切な会議が終わり、なぜか横浜を夫婦で観光したいというのが大意であった。つまりは、その会議に出席する予算をうまく使って、アニーにくっついて、はるばる日本にやって来たということのようだ。いずれにせよ、旧友との突然の再会が嬉しくない訳がなく、二つ返事で承知した。カーステンは、コペンハーゲンの友人の中では少し年配の、おとなしい人物で、更に、彼のギターの音から、心根の優しさは分かっていたので、ここは一肌脱がざるを得ないという思いも、多忙な週末を割く気になった一因である。雑務の多い週末を無理矢理に調整し、落ち合う場所をランドマークタワー内のカフェに決め、その旨カーステンに伝えた。先方に土地勘がなくとも、ランドマークタワーであれば、嫌でも目に入る筈である。こういう場合、落ち合う先がずれてしまうと、すべてがうまく行かなくなる。さて、その先はどう横浜を案内すればよいかと思案したが、アニーが社会学者という事を考慮し、横浜の様々な側面を見せて歩くのが一番ガイドブックのお決まりのコースから外れていて面白かろうと想像したが、当日の天気にも左右される事でもあり、詳細は決めないことにした。また、突然の連絡であったので、あれこれ考える暇もなかった。 数日後、約束の時間にランドマークタワー内のカフェで落ち合い、カーステンと再会のハグをしてから、奥さんを紹介してもらった。アニーは大学教授であり、他のデンマーク人のミュージシャンのように、ヘーイメン、ではすまされない人品骨柄であることは、その出で立ちから瞬時に推測できた。だが、一旦アイスコーヒーなどを飲みつつ話し始めると、アニーは、カーステンと同年輩ながら、とても親切で、もちろん知的で、しかも美人であり、カーステン、この幸せ者めが、という事が一目で分かった。再会を祝った後、早速タワーの展望台へと二人を案内した。まずは横浜360°を眺望してもらい、二人が興味を示したあたりを散策するのが得策であると大体の筋書きは描いていたのである。しばらくして、私の思いが大体ではあるが、的中したことが分かった。アニーは、さすがに社会学者の目で風景を眺めているようで、港湾地区から山の手、その他の場所を指差し、あそこはどういうあたりなのか、あの建物だけどうして古いのか、などと訊ねてくる。私は浜っ子ではないが、20代の頃から横浜で演奏したり遊んだりしていた事が幸いし、少なくともデンマーク人が二人で観光するよりも、ガイドブックには載っていない横浜の側面を、彼らに説明することができた。同時に、私自身も、横浜観光を楽しむことにした。要するに、パリジャンが、週一回エッフェル塔にのぼるかと考えれば、そうではなかろう。 展望台の外の景色をご夫婦で仲睦まじく、薄曇りの空を互いに眺めながら、なにやらデンマーク語でお喋りを始めたので、邪魔をしないように、二人からそっと離れて、私自身も久しぶりの眺望に、日常の雑多なあれやこれやを頭の中から消し去りつつ、ちょっとした感慨にふけった。思えば、タワーの周りも、昭和の時代には、怪しげな赤提灯の呑み屋や飲食店が雑多に乱立していて、あの頃の横浜の方が、僕にとっては居心地が良かったなあ、とぼんやりとした。私の中の横浜が「横濱」であった頃の記憶をたどりつつ、彼らのお供をしていると、展望台を一周するのに三十分とかからない。さてこれから、彼らをどこに連れて行けば喜んでもらえるのであろうか。アニーとカーステンの顔を見ると、微笑みながら私の目を見つめているのみである。とにかく今できることは、展望台から一階に下りることであり、その後、タクシーをつかまえて、そのとき思いついた地名なり町名なりを言えば何とかなろうと思い、実際その通りにして、気がついたらタクシーの運転手に、かの有名なジャズ喫茶、「ちぐさ」を知っていますか、と訊いている自分がいたのであった。無意識に、この伝統ある喫茶店を思い立ったのだが、他の部分の意識のなかには、少しだけ、こういう思いもあったのも確かだ。つまり、カーステンはジャズギタリストであるから、日本にこのようなすばらしい場所がある事に驚き、音楽も楽しめるであろうし、アニーにとっても、社会学的検知から、日本にしかないジャズ喫茶という文化に、興味を持ってもらえるだろうと、判断していたのである。 ちぐさ、に入る前に、ここは伝統あるジャズの聖地であり、大きな声で喋ってはいけない事を二人に言い含めてから、店内にすべりこんだ。さすがに民度の高い国から来たお二人、その場の雰囲気を察知し、偶然かかっていたマイルズ・デーヴィスに、まるで別の会議に出席しているかのように聴き入り始めた。二人の顔を見ると、まんざら嫌そうでもない。カーステンは、レコードの多さに驚いているようであった。私自身もずいぶん長い間ご無沙汰していた場所であり、良い音で聴くジャズは、やはり格別で、また一人の世界に入りそうになりかけたが、やはりアニーは社会学者であり、何かの記録の為だろうか、そっとカメラをあらぬ方向に向けようとしているのが目の端に入った。これは店長にお断りしなければと、カウンターに身をひるがえし、小声で許可を求めたところ、要するに撮影は駄目です、という思いどおりのお答が帰ってきたので、再度身をひるがえして、できる限りの小声で、写真撮影禁止の旨アニーに伝えると、ステキな微笑みを浮かべつつ、そっとカメラをポーチにしまってくれた。やれありがたや、と私も音楽に集中し始めた矢先に、今度はカーステンが、小声ではあったが、キース・ジャレットをリクエストできるかと、眼鏡の奥の青い目で私を直視しながら訊いてくるので、私は答えに窮してしまった。ちぐさ、とキースのサウンドは、ジャズに詳しい方ならお分かりの通り、どこかかけはなれたものを感じたからである。いずれにせよ、小一時間ほど静かにしていたのであるが、やはり、ささやきを一言も発しない事は無理であり、キースの一件もあり、ここが潮時と、彼ら二人に目配せを送りつつ、店長さんにそっとお礼を述べてから、そそくさと店外にすべりでた。 外に出た瞬間から、アニーの薄いグリーンの目は、その周りの店の軒先などを観察し始めているようで、ランドマークタワーの周りと、日ノ出町、黄金町界隈の雰囲気の違いに、興味津々の様子であった。私の好きな横浜は、実はこのあたりの方だと彼女に伝えると、案内して欲しいという。カーステンは我関せずと、ちぐさ、の看板などを写真で撮影した後、棒立ちしているので、アニーのリクエストに従うことにした。奥さんを喜ばせれば、旦那も文句なしということは、世界共通であろう。特段、黄金町などのあたりは、残念ながら、普段行く理由も無いので、土地勘共に詳しい訳ではなかったが、デンマーク人観光客が、案内なしにこの界隈に足を踏み入れる事も通常はおこりえないことであろうと思い、京急、日ノ出町駅の方角に、二人を連れて行くことにした。 焼き肉屋、ラーメン屋、中華料理屋、時計修理の店、昭和40年代に建てられたであろうアパートとスナック等が合体したコンクリートの壁むきだしの建物などを、アニーの鋭い視線が逐一観察していることが、素人の私にも一発で伝わってくる。もしかして、私は最上の横浜ガイドなのでは、と一瞬思い上がってしまうほど、その界隈は、アニーにとって、すばらしく魅力的なようであり、私にとっても、横浜とはこういうあたりの雰囲気が、やはり落ちつくのであった。 川沿いに黄金町界隈から日ノ出町へと、何とはなしに歩きつつ、次は、港の見える丘公園辺りに連れて行き、私の知る横浜を見せてあげようと思っていたら、カーステンがじっと川を覗きこんでから、私にジョークを飛ばした。「Can you drink this water?」「Nej Tak」と、少しキザだったが、デンマーク語でノーサンキューの一言をかえしたら、二人とも大笑いをし始めた。やはりこの界隈に連れてきたことは正解だったとのだろうかと、少しだけ安堵した。 その内、ソープランドが林立する通りに入った。慌てて二人に断りを入れる。カーステンは良いがアニーはレディーなので、ここから先はこういう辺りで云々と説明すると、アニーの方がぜひ見学したいと言い始めた。 アニーはソープの看板をまじまじと眺めつつ、60分3万円、90分3万5千円の意味を私に問うてくる。私の英語力にも限界があるので手短に説明した。売春は日本では違法であること。ここは、公式には女性が男性の体を洗う場所であること。そして突然二人は恋に落ちること。恋愛感情は法律では取り締まれないこと。これがソープランドのシステムですと、締め括るしかなかった。アニーはじっと私の説明を聞いて後、「70分の恋愛と90分の恋愛、この20分の違いは何かしらね。いずれにせよ、お店をでたとたんに失恋するわけね。」とぼそっとつぶやいた。何やら格言めいていた。 この辺りで場所の雰囲気を変えた方が良いと判断し、かねがね計画していた通り、再度タクシーで港の見える丘公園に河岸を変えた。 少し曇った横浜港を、二人のデンマーク人は茫洋と眺めながら、なにやら再びお喋りを始めたので、私は少し離れたベンチで一服することにした。思えば、この公園に、何度足を運んだことだろうか。車を持っていた時代、夜中にここに乗り付けて、一人暗闇の横浜港を眺めながら、粋がってヨウモクなどをくゆらせていた若造の時代から、この公園は、とてもステキな場所なのである。 公園を出て外人墓地の方に歩を進めた。この辺りはお金持ちの家が多く、インターナショナルスクールもあって、などという私の説明は百も承知といった面持ちで、アニーはあのステキな微笑みを私に返した後、まったく違う観点の何かを、 先ほどまで居た界隈と比較しているようであった。私はカーステンとデンマークの音楽事情等の情報交換をすることにした。その話しの内容を要約すれば、新しい芸術基金団体がふえたこと、ミュージシャンの為に、半官半民が経営するビッグバンドができた事、等々、我が国と書きたいところではあるが、やはりこの国の現状とはあまりにもかけ離れた彼の国の真の意味での豊かさに、溜め息を隠すのに精一杯であった。 アニーの顔が少し疲れて見えてきたので、咽が渇いているか聞いてみると、公園の前に自動販売機が設置されており、これ幸いと、皆で飲み物をがちゃんと買い求めて、缶コーヒーを歩き飲みしつつ、外人墓地の方に向かった。 カーステンがぽろっと喋りだす。「ヒロシ、京都でも東京でも自動販売機の横には必ず空き缶用ゴミ箱が設置してある。それもプラスティックボトルとカンを別々に捨てるようになっている。最初はグレートだと思っていたが、よく見たら、場所によって、ゴミ箱の中で両方とも一緒になってしまうことに気がついた。どうして二つを分けて捨てなければいけないか、意味が分からないよ」とこぼすので、「ああ、ボクにも日本で分からないことは沢山あるんだ。でもそれは、まるでジャパニーズ・ガヴァメントの仕組みにそっくりだ」くだらないジョークを言ったつもりであったにもかかわらず、これを横で聞いていたアニーが腹を抱えて破顔一笑。社会学者なのだから、私よりいろいろな事をもっと知っているのであろう。 外人墓地から元町への坂をゆるゆると下りながら、カーステンが、イタリア、フランスに行った時の話等を聞く。こういった情報は、インターネットやテレビのそれとは違い、値千金なのである。友人、特に外国の朋友が体験した様々な事柄は、新聞などに載るネタではないが、良い意味で生々しく、そしてなぜか美しい。 一見すれば分かる事であろうかと思ったが、ここ元町は、お金持ちがショッピングするあたりです、などと余計な説明をしていたら、私のお気に入りの喫茶店がこの通りにある事を思い出した。あそこに二人を連れて行けば喜ぶのではないかと思い立ち、更に歩を進めた。 本物のコーヒーを注文し、一息ついた後、雑談を始めた。まずアニーが、さすが大学教授だと思わせる的確な質問を私にぶつけた。 「ヒロシは何度もデンマークに来たわよね。カーステンから聞いているわ。日本とデンマークの違いを一言で言うと何かしら?思い当たる?」私は思わず、 「デモクラシー」という言葉が、無意識に口をついて出そうになったが飲みこんだ。民主主義にもいろいろな種類があるであろうし、野暮ったい側面も否めない。何か答えなければいけなかったので、 言葉をそえるように、一言で答えた。 「男と女が人間として平等であるという点が、大きな違いではないでしょうか。それぞれの国の歴史も違うと思いますが」私の答えに覆い被さるように、アニーが「その他は?」と更に訊くので、「すべてのメディアが透明であること。それと、ボクがコペンハーゲンに行った時に滞在した地区の区長が30代ということは、日本ではありえないかもしれない」と答えた。私の知る限り、これは事実である。アニーは興味深げに私の顔を好奇心いっぱいの目つきで眺めながら、最近上梓した自著について語り始めた。それはなんと、江戸時代中期から明治に至るまでの、日本人の契約と信用に関するもので、私の与り知らぬ商人の口約束や手形がどうのとこうのといった、正に専門的な内容であり、江戸期の日本の歴史に対する造詣の深さにも、舌を巻いた。会った時からインテリジェンス溢れる女性であることは分かっていたが、まさかここまでとは思いもよらず、私はこのような女性を、何の計画性も無いまま、引き連れていたということになる。何とはなしに引け目を感じていると、それを察知してか、カーステンが私に微笑んでくれた。そして同じ微笑みをアニーに向け、そっとうなずいた。アニーもカーステンに微笑みを返し、二人そろって私に対し、今日は本当に楽しかった、と最後に一言お礼を言ってくれたのであった。 私も横浜のごく一部ではあるが、案内できた事を嬉しく思う旨彼らに伝えたが、急なことであったとはいえ、もう少し計画的に彼らにもっと効率よく横浜を案内できたのでは、という思いでいっぱいに成り、目の前のコーヒーに視線を落とした。そういえば、港の見える丘公園の掲示板に、偶然にもその夜、山下公園で花火大会のお知らせを目にしていたので、何気なく誘ってみることにした。二人はちょっと顔を見合わせてから、私に対してとても丁重に、半日歩いて少し疲れている、ホテルに帰ってパッキングしなければならない旨私に説明した。ここでおひらきということである。本物の大人に久しぶりに出会った気がした。 こういう邂逅の別れ際は、あっさりしている方が良い。元町駅から地下鉄に乗り、私は次の駅で降りると釈明してから、再会の握手をし、手を振って別れた。そこはかとない寂しさが尾を引いたが、お別れはお別れである。 次の駅で降りた理由は、人ごみがあまりひどくなければ、花火を見るのもたまには良いかな、と思ったからである。花火を見るなど何年ぶりだろう。本当は二人も連れて行きたかったが、無理強いは迷惑というものだ。一人、日本大通りを横浜港の方に歩く。大桟橋の端にたどり着いたら、すでに花火はあがっていた。「ドーン、パチパチ」人もまばらである。しめた。 大音響の倍音が空気に直接伝わり、爆発音が耳に心地よい。レンガのベンチに腰掛けて、まずは一服。眼前は、色とりどりの、うたかたの夢である。にもかかわらず、あらぬ嫌な妄想が頭をかすめた。火薬の爆発音は、花火大会だけにしてほしいな。 帰りの地下鉄の車内では、お決まりの浴衣を着た若い男女が楽しそうにお喋りをしていた。私は思った。大袈裟ではあるが、遠い国から来たあの二人は、いったいどのような感慨をもってして、横浜という大都市を眺めていたのか。特に、アニーの日本に対するあの豊富な歴史観が、ちぐさ、又はその他の場所をどう捉え、どのようにあれらの事象を把握していたのだろうか。そして、私の思いつきツアーガイドもどきが、彼らに、本当のところはどう受け止められていたのか。思いに耽っていたら、降りる駅に着いてしまった。 家に帰り、カウチにねそべって、今日起きた様々なことを反芻していたら、アニーからのメッセージが届いた。 「ディア、ヒロシ。今日は本当に楽しかったわ。もっと現代の日本の政治や文化の話しをしたかったけれど、明日の早朝、成田に行かなければならなかったのよ。 またお会いましょう。ありがとう」 そのメッセージには、三人で、ちぐさ、の前で撮影した写真がそえられていた。 >>>

江ノ島へ。あるピアニストへのオマージュ

過日、ある素晴らしい音楽を聴き、その中に波の音、海の静けさを聴いた。その素晴らしき音楽を何度か聴いた後、この音楽は、分析、又は、ピアノで真似る前に、まず久しぶりに海を見に行くことが、より大切なことのなのではないのかと瞬時に察知した。その音楽が大きく、そして静かにうねっていたからだ。海と言えばなぜだか江ノ島のみが頭に浮かび、気がついたら、大船駅に降り立っていた。次に江ノ島に行く為に乗った電車は、否、電車ではなくモノレールであったが、なにやら中学生の作った夏休みの美術の宿題でこしらえたような、窓枠やら手すりやらが幾何学的でない、なんとも味のある乗り物であった。低い山々の木々の中に点在する、日本独特のバラバラなデザインの家々を眺めていたら、いつのまにか本江ノ島という駅に着いた。 改札を出ると、駅前の情景は、丸ごと昭和であり、ボブマーリーのTシャツ千円吊るし売り的洋品屋等が軒を並べていた。それを横目に、長い距離の橋を渡りつつ、江ノ島を目指した。橋の両側に見える海は、天気予報を確かめず突発的に家を後にしたことがたたり、靄が地平線を隠し、湿気が多かったが、その波の満ち引きと、打ち寄せるかすかな波音に、広々とした自然音が、私をここに連れてきた音楽と重なりあった。橋を渡りきると、鳥居が見えてきた。坂道と階段を上がり、頂上の展望台を目指した。高い所から海を見渡せば、また、あの素晴らしき音楽に対し、違うイメージが喚起されると思ったからである。しかし、江ノ島のてっぺんまで行き当たるには、あまりにも石段が多く、途中から、音楽のイメージを得る為というよりも、普段の運動不足を解消する仕儀となって行き、やっとのところで、展望台の上まで自らの身体を漕ぎ着けて、遠望遥か東京タワーや鷹尾山などを、霞を通して眺め入った。貴重な時間をこのように使うのも、なかなかオツな気分であった。更に、藤沢、町田などの一角も眺めることができた。思えば日本という国は、何とも小柄な呈を成している。このような、所謂首都圏と言われるあたりとその周りにあるこれらの区々で、人々は、毎日、ああでもない、こうでもないと右往左往していのである。かく言う私もその一人であるが、一般の堅気の方々からすれば、私の右往左往など、遊んでいるに等しいものなのかもしれない。 しばらくしてから展望台を降り、長い石段を下る。いつまでも江ノ島のてっぺんでぼんやりしているわけにもゆくまい。石段の経路の軒並みは、どこの名所旧跡でも同じであり、休憩の為の喫茶店、お土産屋などが軒を並べ、なぜだかブロマイド屋のようなものまであり、渥美清さんの笑顔がショウウインドウから微笑んでいた。 駅前のみならず、江ノ島の商店街も、昭和なのであった。更に下ってみると、その途中に、児玉源太郎神社なるものがあり、その鳥居の前を、中国人とおぼしき団体客が、声高に通り過ぎて行く。彼ら団体客は、この神社がどういうものなのか、理解しているのかとふと思った。私は思想的なことを訊かれると、右でも左でもありません。垂直です、と答えることにしているが、どうにも、心の中に何かがひっかかる光景ではあった。 石段を下りつつ、周りを眺めながら、先ほど駅から渡ってきた橋の袂に辿りついた。さすがに咽が渇いたので、何軒かある喫茶店兼土産屋の、一番昭和な雰囲気の一件を選び、一隅に腰掛け、煙草に火を点けてから、メニューを見てどきりとした。珈琲風情が、なんと750円。ぼったくりと言ってしまえば、逆に乱暴な値段だが、かといって、やはり安くはない。その店の軒先では、オッチャンが鉢巻きをして、焼き鳥などを焼いており、その煙が店内にも流れ込んでくる。珈琲の味と焼き鳥の匂い、何とも磯辺の一角らしい組み合わせだと思わざるを得ない。まあ、風情があっていいではないか。 いずれにせよ、江ノ島に来た目的である、海や波の大きな循環を体感できたのだから。あの素晴らしい音楽の大きなうねりを少しは体感できたかなと、珈琲を口にふくむと、ほろ苦さを通り越した妙な液体であることが分かった。どちらにせよ、その珈琲がとても美味しかったとしても、焼き鳥の匂いがそれを帳消しにしてしまったであろうことは確かだ。 焼き鳥珈琲を味わいつつ、再度海を眺望した。この大きなうねりを感じるがために、なぜか江ノ島にい る。ふと突然に、大学時代、ものすごく晴れた夏のある日、江ノ島に遊びにきた時の記憶がよみがえっ た。あの時は、確か水平線の遥か遠くのヨットまでくっきりと見えるような晴天で、空気もさわやかであった。既に三十年以上前のことを、なぜいま思い出すのかと、自分でも不思議であったが、予想もしなかった自分の中にしまわれていた別の情緒を感じることができたのも、ここまで足を運んだ甲斐があるということだ。 人間は不思議な生き物である。 焼き鳥の匂いを後にして、再び駅まで続く長い橋を渡りながら、再度、海を眺めた。 海は、私に何の問いかけも回答も示さないように見えた。否、実はものすごく大きな何かを私に語りかけており、それを私が感知することができないだけなのかも知れないとも思った。 帰りの足は江の電を利用した。車中から眺める海の表情も、なぜだか我関せず、といった風情であった。しかし、そこにはやはり、私が感じたかった、素晴らしい音楽の大きなうねりが、やはりその表面の奥に息づいていることに変わりはなかった。 実は、あるピアニストの音を聴いて、私は海を見たくなった。その人は、最初の私のピアノの師匠であ り、師匠でありながら何も教えてはくれなかったという、通り一遍では語り尽くせないような御仁であるが、ジャズピアノを弾かせたら、右に出るものはいない。今でもいない。言い切れる。 タッチの切れ味の良さ、バラードのステキさ。こんな凡庸な言葉でしか表現できないくらいに、その人のプレーはハンサムなのである。つまり音楽が批評の枠を超えているとしか言いようが無い。 なぜだか私は、この最初の師匠のことをずっと忘れていたのである。そして最近、老境に入った師匠のピアノを聴く機会があり、私は涙した。師匠は師匠のピアノを弾いていた。ただそれだけのことだが、そこに海のうねりを感じたからこそ、私はぼそっと江ノ島に赴いたのである。師匠のピアノは、やはり海のようであった。 鎌倉駅で途中下車し、ハムサンドを食べて家路についた。 >>>

シブヤ

某月某日 所用ありやむなくシブヤに赴く。やむなくとは文字通り行きたくないという意思の表れである。いかに常世の常世の国じみた夏が過ぎ去ろうとしていようとも、最近のシブヤはやはり魔界じみている。誰かの箴言に、変化に順応するという者だけが生き残る、という意味のもの」があったが、あの魔界に身を置くことのできる順応性とは、一体どのような種類のものであろうか。多分、爬虫類に先祖返りする「進化」が必要なのかも知れぬと思われるほど、こちらには変化のめどが立たない。 とは言え、シブヤには行かなくてはならない所用が多いことも確かで、自然にハチ公の辺りを歩いてい る自分がいる。渋谷の待ちに、なんだかんだ言っても身を置いていられるということは、その時だけ、 その時だけ、こちらも爬虫類となっているのかも知れない。さて、その所用の一つに、短パンを買うという時季外れの用事が含まれていて、某デパートにて手頃なものを見つけたので、これ幸いと購入後すぐに着替えてしまった。残暑という言葉自体、もうそろそろ消え去るのではないかと思わせる湿気が辺りに充満しており、所用が終わればすぐにでもシブヤを退散するつもりであったが、一つ物を買うと、また必要な者が頭をめぐり、気が付いたら方々へうろうろする仕儀となる。その道すがら考えた。街にはガス抜きが必要不可欠であり、その意味でもシブヤという街にも悪所があってしかるべきである。だが、僕の目に映るシブヤは、見るだけで食欲を無くすような、ラーメンの拡大写真を看板にした飲食店や、迷路と化した東横線の地下道などと相まって、街全体が準世紀末的に見えてしょうがない。しかしここがこの街の魅力とも言い換えることはできよう。僕にしたところで、魔界だ世紀末だと騒いではいるものの、人里離れた山小屋に一人でいる事を考え合わせれば、やはりシブヤを闊歩していることの方が性に合っているようだ。しかし、このままシブヤの爬虫類かが進めば、いずれはこちらが爬虫類から魚類への逆進化を強いられること必須であろう。 >>>

CD発売記念ライブ

さて、ここで来る7月に発売される新しいCDのことに触れておこう。去年の夏、コペンハーゲンジャズフェスティバルにて、盟友ニルス・デヴィッドセン(B)アナス・モーンセン(DS)と演奏し、同時にレコーディングを行った。タイトルは「BIHAIND THE INSIDE」。ヨーロッパではどこぞのサイトからmp3で販売予定とのこと。このことは詳しい情報が入り次第お知らせするが、日本では、AIRPLAIN LABELからの発売となった。色々な事情が重なり、デンマークから二人のミュージシャンを呼ぶことができなかったが、7月3日、新宿ピットインにて、CD発売記念ライブを執り行う。メンバーは、吉野弘志(B)、芳垣安洋(DS),ご存じのごとく、両氏共斯界の手練れであり、今回のCDがフリーフォームであるため、デンマーク勢のサウンドをCDから、日本勢のサウンドをライブ演奏から聴くことも一興かと思われる。同時に四冊目の本も当日に発売予定だ。これは今までの自伝的エッセイの枠を超えた、大人のマンガを文章にしたような、しかも濃密で不思議な物語である。さて皆さん、この日本勢トリオ編成は、日本ジャズ界の歴史長しといえども、多分初共演ではないだろうか。まずはお二人の先輩に囲まれて、緊張して眉毛が逆への字に転換している我が崩れ緒形拳のような顔を見るだけでも、更に一興ではあるまいか。皆様のご来場、ずずいとお待ち申し上げておりまする。 おっと、日記を更新しようと思ったが、上段にあるとおり、7月の宣伝文を載せているため、ページを更新できない。やむをえず、ここに新しい内容を記すこととす。本日は小用あり、池袋に久しぶりに赴いたが、地下鉄の改札を出たとたん、おのぼりさん状態となる。あそこはある意味で魔窟である。地下道が色々な方向に永遠に続いているような錯覚を起こさせる。人々の無為な購買意欲と、何やら忙しげな勤め人、学校帰りの女学生が、その空間を埋め尽くしていた。皆入り乱れて歩いており、しかもその地下道の長い距離に辟易とした。いったいここの空気は何を含んでいるのだか、妙な臭いまでする。プラスティックをあぶったような陰気な臭いだ。改札を出て、一刻も早く地上に出るべく歩みを早めた瞬間、前方から、口をぽかんと開けた制服を着た小学生が、まっすぐこちらに突進してきた。なぜか首を左右に振りながらこちらに向かって走ってくる。さっと体を引き、正面衝突を避けたのだが、その弾みに、左横にいたおばあさんに、軽くではあるが、体をぶつけてしまった。とっさに失礼と謝ると、軽く会釈をして反対方向に歩み去っていった。まさに昭和初期、昭和戦後世代、平成のぶっ飛び世代の一瞬の邂逅であった。渋谷駅の地下もそうだが、東京という街はもう発展する場所も意味もないのではないか。これだけの飲食店、洋服屋などがあふれかえっていて、しかも電気を惜しげもなく使っているように見受けられる。おかげで、用事を済ませる前に体の芯からくにゃくにゃになったような錯覚に襲われた。資本主義は、今年より来年、来年より再来年と利益を上げ続けなければならないシステムのようだが、もう限界に来ているのではないか。オレは東京ッこだい、などと粋な科白を言えなくなってきて久しいような気もする。おかげさまで、家の近所に帰ってきて飲んだアイスコーヒーは、食道あたりから既に水分を吸収しているようで、とても上手かった。何だか、季節的にも、やるせない日々が続く。 {皆様へ} 明日のピットインでの演奏では、CDの発売のみとなりました。ご了承下さい。 >>>

世紀末の末

昨日は、学芸大学駅から徒歩三分の所にある「珈琲美学」にて、津上研太氏と演奏。音楽自体が充実しており、満ち足りた時を過ごした。さて、これから書こうとすることは、演奏前に小腹がすいたので、学芸大学近辺に何か一口食べられるものはないかとうろうろしていた時のことである。ある意味、食べ物屋の店舗が多すぎる。これを今日の日本の豊かさと気持の中で締めくくってしまえば、考察はそこで止まる。しかし、考察自体を止めようとしても、おいそれと止められる物ではなかった。食べ物屋のこの異常な物量感、これは逆に常軌を逸しているのではないかという感慨におちいった。たとえばヨーロッパのどこかの主要都市で、演奏前どこかで何か一口、と辺りを探してみてもこれだけの食べ物屋、喫茶店など見つからない。また更に考えてみるに、この現象は東横線の学芸大学駅のまわりだけではないのである。規模こそ違えど、都心に近ければ近いほど、学芸大学近辺の状況と、あまり変わらぬものであろうことは、東京生まれだから知っている。さて、これが本当に幸せなことなのか。 ともかく、所謂ファーストフードの店に入った。身体に悪いこと百も承知である。だが、この手の店はここ二年来、敷居さえまたいでいない。ごくたまに一口食したとて、添加物があのアメリカの何倍もあるこの国に於いて、まあ良かろうと判断した。思ったとおりのマニュアル通りの対応。注文をしてから、カウンターの横で出来上がるのを待った。ただぼーっと待っているのも面白くないので、厨房の中を観察することとす。まあ、どう見てもそこは厨房というよりも、映画、「エイリアン」の宇宙船の中のような見立てで、社員、アルバイトが着ている制服の色がやけに浮き足立っている。マネージャーとおぼしき、一人ダークのチョッキを着た、ルパン三世を真似して失敗したような雰囲気の男性が、顔だけ笑いながら、眼光鋭く従業員に檄を飛ばしている。特に目立ったのは中年のおばさんアルバイトとおぼしき女性で、マネージャーの要求に応えようと右往左往しているばかりで、何も仕事がはかどっていない。次々に調理?される食べ物は、紙に包まれた時点でカウンター近くにあるステンレスの通路に放り込まれる。副食とて同じ扱いで、フライにするその食べ物を、調理後、所定の位置に投げ入れる。これもまた「食べ物」を扱う所作ではない。では何を扱っているかといえば、先に書いたようにファーストフードである。ファーストフードという言葉が和製英語なのかそうでないのかは失念したが、注文してから一秒でも早く食べ物を客に提供するには、食べ物を食べ物として扱う暇も余裕も、料理?に対する丁寧さも振り捨ててかからないとダメなようだ。入店前からこのプロセスは薄々わかっていたとはいえ、やはり良い気分ではなかった。 人混みの中に戻り、紙袋から匂い立つ、ファーストフード独特の安易な香りを嗅ぎつつ、珈琲美学の方に足を向けた。さて、こちらはこちらのやり方で、お客さんを満足させねばならないと思いつつ。 >>>

三寒四温 恵比寿2

前回の日記で三寒四温を述べようとしたのだが、文字を表示すると、何故か行間がおかしなことになって、管理人に助けてもらい、やっとのことでまともな文章を掲載できることとなった。と、そうこうしているうちに、三寒四温を語る季節ではなくなってしまった。恵比寿、というタイトルを付けたのは、この言葉の由来が最近になって、元来面白いものであると気付いたからだ。名の由来はもちろん七福神の、あの左手に鯛を抱えているのが恵比須様であり、恵比寿とも明記するという。地名の由来は皆様ご存知の通り、エビスビールの工場があったからに拠るものだが、僕が面白いと思ったのは、恵比須とは夷にも通ずる言葉らしいことを発見したからである。これは偶然の一致だろうが、夷、即ち僻地の野蛮人を指すこの一語が、現代のこの恵比寿界隈を言い表すのに、正に言い得て妙なのだ。恵比寿といっても代官山よりになればなるほど、いわゆる勤め人の数は減り、自分も含め、滅法独立性の高い何かをしている人々でひしめいている。下北沢にもこの手の雰囲気はあるが、ここ代官山近辺となると、その「滅法業種」が更に多彩だ。下手をすると、界隈を散歩していて、出会うカタギはバスの運転手だけと思われる瞬間さえある。美容師さんなどをカタギでないと肯定はしないけれども、やはり自分の腕で何かをしている方々であり、それも何やらいかがわしいのではなく瑞々しいのだから、日々のちょっとした外出が楽しい。平成の世も末の様相を呈してはいるが、まだこの界隈は動きというものがある。まあ、自分のことを棚に上げて好き勝手を書いてしまったが、このような夷の里でピアノなど教えているのだから、我も平成の野蛮人なのだろう。 >>>

三寒四温 恵比寿

さあてと、随分、しばらく、長い間、日記を書かなかった。その内に、否、日記を書いていた頃からのことではあるが、このインターネットの世界では日記をブログと呼ぶようになって久しいようだ。なんだブログとは。BLOG,と綴る。語源を辿ってみたが探せなかった。髄液からアナログな僕としては、もうすでに全てが時遅しであるが、もともと軍事利用のメールという 便利なんだか不便なんだかよく分からないものから始まって、これらコンピューターに関する全ての用語、語源に関してはお手上げである。お手上げであるから、用語に詳しいわけではないが、INSTALLという言葉を、皆、インスツール、またはインストールと発音する。最初にこの言葉を聞いたときには何のことやら分からなかったが、その指し示す言葉が分かったとき、やはり戸惑った。いずれにせよカタカナでは正しい発音表記はできな い。強いて書けば、インストォオゥールに近い発音であって、家具や器具を設置するという意味でしか使われていかった。それが今やエレキの力で、職人の手を使わずとも、「インスツール」のボタンを押すと、なんだかワケの分からない棒グラフみたいなものがコンピュータの画面に現れ出でて、「インスツール」するのである。さて、今までの話しとまったく関係はないが、一年ほど前にI MACが壊れたので、やむを得ず、新しいIMACナンチャラを購入したら、映画、「未来世紀ブラジル」に出てきそうなコードレスキーボードとマウスが付いてきた。コードが無いということは掃除をする上で便利この上ないが、手触りの悪いメタリックの盤上に、ボタン状のアルファベットキーが並んでいる。使い勝手悪いことこの上ない。まず指が滑る。何かものを書いている気が全然しない。意外と電池が早くなくなる。以前使っていたキーボードを捨てたことが悔やまれる。まさかこんなに文章が打ちにくい形状に発達したとは思わなかった。なんだこれは。マーケットでレジを売ってるんじゃ無いんだぞ。こう見ても物書きの端くれの端くれである。以前の少し斜めになったキーをカシャカシャという音とともに打つ快感。あれがなくなってしまった。どこそこかのセコハン屋に行けば、旧作はあるのだろうが、それをどう探すかもよく分からない。キザなことを言わせて頂けば、文章は身体で書くものである。タイプライターの様式を受け継いだキーボードに向かって文字をのめり込むようにして打ち込むことが、どれほどの快さと書く内容とその逡巡を受け止めるか、銀盤には分かるまい。畢竟、今書いている文章も歯が浮くよう である。あれ、今回の日記のタイトルは三寒四温、恵比寿であったが、これは次回に譲るとしよう。しかしまあ、歯が浮くな。 >>>

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