やっと新しいwebsite再構築も終えて、清々しい気分です。後は必要箇所を少しずつ英文に訳していきます。ご愛顧頂いたFBにも連載した「フランスのパリのベロニク」も、聴きを見計らってまた書き続けるつもりです。今回は我が師匠というお題にて。 ああ、オレなんだかくたびれたって言うか、クタぶれちまったというのが正解かな。先月2月の最後にがっくりきた。演奏はバリバリですよ。でも教える方がちょっとね、ピアノ教えて早23年かァ。長持ちしたもんだよなあ。3月一杯ピアノ教えるの休んでるんだよね。まあ、習いに来て下さる方々には、感謝しかない。オレのとこにわざわざピアノを習いに来てくださる。畢竟こちらも本気になるでしょ。知ってることは教えたくなる。でもね、この前ある生徒が「Georgia On My Mind」教えてくれって言うから、まあね、オレも黒人じゃないし、まあそれ言ったら全てのファインアーツの先生の首が飛ぶんだけど、まあそれは置いておいて、知ってることは教えてあげようと色々説明してたら何か話がかみ合わない事に気付いて、「だからレイ・チャールズがさあ」って俺が言ったら、その生徒、「それ誰ですか」って言ったんだよね。オレ一瞬眉毛の上なくなったような感覚になって、ちょっと教えるの休もうと思ったんだ。あんまり上から目線で人を見たくないけどね、溜息吐き過ぎると窒息すると言うことをこの歳で始めて学んだ。 でも、オレもあまり人のことは言えない。バークリーに行って二番目のピアノの先生がChristian Jacobというやたらめったらピアノが上手い人に習う事ができた。ああ、銀座のナイトクラブで苦労してカネ貯めた甲斐があったと心底思ったもん。こういう人にやっと巡り会えた。松尾和子の「再会」「銀恋」も毎晩8回弾かなくて良いし、習えるオレはなんて幸せなんだろうと思った。ボストンの秋の透き通るような青空を見上げながらそう思って涙をこらえたことを今でもぼえてるんだ。やはりボストンに来て良かったんだって。 クリスのピアノの上手さは半端なかった。生徒として全然ついて行けない。まずその場でスタンダードをドンドンリハーモナイズしていって、右手短三度クロマチックで高音部からおりながら、左手はまったく違う音程でやはりクロマチックで引き上げたり、両腕をクロスして右手でベースラインを低音部で弾きながら左手でソロを弾いたり。こう見えてもオレもね、日本の音高のピアノ科行って、東京音大では打楽器科で、随分上手いクラシックのピアニスト見てきたつもりではあった。だがクリスのピアノの上手さは、メンタマが飛び出て、飛び出たメンタマ、メンタマないから何にも見えなくて探せません、くらい上手いんだな。そして音がキレイ、特に高音部、ショパンのエチュードを12KEYで弾かれたときには、顎が外れると言うより、レッスン室の彼の横でゲタゲタ笑い出してしまって、アア、地球は広いな、としか言葉が頭に浮かばなかったもん。なんだこれ?どうしてそんなことができるんですかって聞いたら「Well,メロディーとハーモニーとリズムを違うキーで弾けばイイでしょ」だって。だからそれができないから教わってるんだって。 でもさ、引き下がりたくないから、クリスに追いつくのにどうやって何時間練習すりゃあいいのと思って、クリスに、どうやって練習したら良いか聞いたら、「アイデアを大切にしろ、たとえばこういうフレーズがあるだろうイロシ」彼はフランス人だからオレのことをイロシと呼んでたけど、そのアイデア展開中にウエーダコーとか言って自分の世界にはいっちゃって教えるも何もなくなっちゃう。クリスの独演会になる。まあそれはある意味贅沢な時間ではあったが、オレに何か教えているわけでもない。こういう状態って、当時のオレにはやはり「レッスン」ではなくて、だから、ようし、と思い立ち、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、当時流行っていたSONYの高音質テープレコーダーを高額な値段で買って、レッスンを録音することにしたんだよね。だってクリスは天才だから、なぜ他の人は自分が弾けることが弾けないかが分からないから教えられないということだけは分かったわけだ。そしてとにかくクリスにスタンダードを弾いてもらってオレの方はクリスの弾くフレージングとかをベースラインやハーモニーで何とかカヴァーして、とにかくあまり会話せず、ピアノDUOを、レッスン時間中弾き続けることにした。だって口で説明できない先生なんだから弾きまくらせてそれ録音して後で聞き直してコピーして追いつくしか方法ないと思ったんだもん。それでもクリスとDUOができるなんて夢のような時間だったなあ。あのレッスン室から見えたボストンの街の風景、オレは死ぬまで忘れないだろうな。弾き終わるとクリスは、「イロシ、こういうフレーズ弾いたろ」って、俺の手癖、おっちょこちょいなところ、全部真似て正確に再現して弾いてみせるんだよね。これにもぶったまげた。腰抜かしたよ。クリスはオレが弾いたことも一瞬にして覚えてしまうんだ。 「Your idea,ahh here, ok,,like this」なんて言いながらクリス、オレが弾いたフレーズをまねしながらムチャクチャカッコイイ音をはさんで、なんだか聴いたこともないヒップなフレーズに仕立て上げる。「Look!Iro, this is your idea,you can change like this」ってそう簡単にチェンジできたら習ってねえよもうって感じだった。 まあとにかくレッスン終わったら速攻で家に帰ってテープを何度も聞いてクリスのフレーズやハーモニーをコピーしたんだけど、一番かっこええところがなにやってんだか何度聞いても分からない。それでそのコピーの譜面を次のレッスンの時に持っていって、先生ここどうなってるんですかとたずねると覚えてないって言うから、録音したモノを聴かせると「ウエーダコー」とかフランス語で叫びながら、自分の弾いたフレーズにまた更にカッコイイ対位法的なラインを弾いたりするんだよね。ちょっと待ってクリス、そんなことしてとは頼んでないし、それ録音したいけど今録音機使ってるから、ああ、まあ、いいや、このロセンで対抗しようったって所詮無理ってことかな。でも日本では絶対に習えないことが習えるという確信があったから、オレは食らいついていった。でもクリスには悪気はないんだけど、分からない奴がなぜ分からないのか、弾けない奴がなぜ弾けないのか、本当に本人には悪気はないんだけどクリスには分からないんだよ。天才だから。だってレコード一曲聴いたら、ピアノのソロのみならず、サックスソロも全部覚えちゃうんだなあの人は。そう、ほんとにChristianはマジでピアノが上手かった。下手したらオスカーピーターソンより上手いんじゃないかなあ。クリスを知っている人は否定するかもしれないけど、あの人オスカーのまねが上手で、時々マネしてオレに聴かせてくれた、オスカーより早く弾く、かっこよかった。腰抜かしたよ。ぎっくり腰になるかと思った。まあ、その時もオレは横でゲタゲタ笑ってただけだったけど。これは何か別の作戦練り直さないと、ピアニストなんて成れないなって本能的に感じたもん。同時にもうほんとに色々とやんなった。今までなにをしてきたんだろうって。 彼はパリ音楽院を優秀な成績で卒業し、バークリーに来て学生になったのだが、教える人が4ヶ月ぐらいでいなくなって先生になったという、なんだか良くわかんないくらい上手い人だったけど、俺はこの先生を離すもんかという勢いで、質問攻めにしたり、色々なアプローチを試みて、クリスのエッセンス、楽器に対峙する方法、音楽の理解のしかた、全て吸収してやろうとがつがつ食らいついた。俺は天才じゃないけど、あんたに負けないくらいピアノが好きと言うことはタイマン張れる。そこだけは自信があった。学費払ってんのはこっちだ。とにかく何でも良いから弾いてくれ。良い時代、時間だったな。 もう一人、アメリカにいる頃忘れられない先生はMr Steve Kuhn。アメリカに行く前から、何かこの人のピアノの音は他と違うなあ、好きだな、と思って、コピーとかしていたんだけど、ボストンにMr Kuhnのトリオが演奏に来る事になって、オレ一番前の席取るためにそのクラブの入り口に午後四時くらいに行って並んだもんね。で本番が始まってナマのMr Kuhnの演奏聴いてぶったまげた。レコードじゃあやはりカヴァーしきれない美しい倍音の響きとか、Mr kuhnは背丈が190cmぐらいあるからとにかく楽器が鳴って手もでかいからサウンドも分厚い。コピーなんて何の意味もないなあと聴き惚れている内に、そうだ、ダメ元で教えてくれって聴いてみようと思い始めたんだ。 全てのショーが終わってから、楽屋に行こうとしたら、クラブの従業員にそっちに行ってはだめとか、あーじゃラコーじゃラ文句言われたから、日本語で、「ばかやろう!挨拶に行くだけダよう」って言ってクラブの奴に英語分かんないフリして無理矢理楽屋に押しかけていったら、共演者のドラマーのアル・フォスターがいた。「Mr Kuhnはどこですか」「あー。今バスルーム行ったよ」 バスルームって英語でトイレのことだから、トイレに走って行ったんだ。そしたらMr kuhnがジョーってションベンしていた。そしてカーぺって痰切ったりして。あんな紳士で幻惑的なサウンドで聴いてる客を思いっきり酔わせたあのMr Kuhnもただのオヤジじゃんとおもいながら、なぜかオレはションベンもせずずっとトイレの入り口からMr kuhnを見つめていたんだ。用を済ませたMr kuhnは振り返りざま、変な東洋人が用を足しているところをじっと見てることに気が付いて、なんだこいつはという目でオレを見た。あたりまえだよね。トイレの中に二人きりで、片一方は眼鏡かけたチビなんだから。まあとにかく、長年尊敬し、ずっと会いたかった人を前にすると、日本語でもワケ分からなくなるのに、英語で話さなければならなかったから、もうジャパニーズターザンみたいな英語になっちゃって「あー、アイアムピアニスト、ユーグレート、 アイリスペクト、アイハヴユアレコード、エヴリシーング」Mr Kuhnはじっとぼくを見つめながら動かないしなにも言わない。こいつはいったいどこのどいつなんだ、このバカはいったいここでナニやってんだって目つきでオレの方を見ていた。状況を変えたくとも身体が固まって上手く行かない。段々焦ってもくる。「あー、アイワンツーテークレッスン、アイフロムトーキョー、ファーラウエイ、プリーズプリーズティーチミー、テレフォンナンバー、アイワンツーノー」 でもさ、気持とか、本当にその人を尊敬していたら通じるモノなんだよね。 Mr kuhnは黙ってネームカードをオレに渡して「Call me」とだけ言ってトイレを出て行った。かっちょいいでしょ。この人ハーヴァード大学卒業してるんだよなあ。あったまいいんだよ。まあ最初にMr Kuhnと話をしたのがトイレの中って信じられないけど、まあそんなこんなで2~3日経ってから電話してみたら留守電で、また2〜3日経ってからかけても留守電で、しょうがないから留守電にボストンで名刺もらった日本人覚えていますか。レッスン受けたいです。こちらの番号はこれこれです。メッセージを残して下さい。思いつくこと全て留守電に喋りまくって、その後六ヶ月の間に何十回も電話し続けたの。電話に出ないんだもん。 オレはどうでも良いことにはサッパリした性格だけど、これだと決めたら執念深いの。そののちSteve Kuhn Trio がまたボストンに来る事を知って、最後のチャンスだと思って手ぐすね引いて待つことにした。前回と同じクラブで演奏するってんで、すっ飛んでった。一番前の席にまたすわって、演奏を聴いたんだ。またこれがすごい演奏で、もう体中がトロけるようなサウンドの波に翻弄されながら、ああ、やっぱりアメリカ来て良かったあ、と思った。 前回と同じく「サー、ユーキャンノットゴーツードレッシングルーム」とかいってくる従業員を無視して楽屋をノックしたら「カムイン」という声が聞こえたので中に入ったら、誰だったか忘れちゃったけど、共演者のドラマーが、おまえ誰だって聞くから「Mr Kuhnに会いに来た」と言ったら「彼はバスルームだよ」とそのドラマーが言うから、なんだか不思議な既視感とともにまたトイレに行ってみたら、今度は大の方のドアが閉まってて、これはいくら何でもトイレの中で待つのはまずいと思って、入り口の外で待っていたら、Mr kuhnが出てきた。挨拶したけど、全然オレの事なんてかけらも覚えてないって顔して何だ?っていう表情になったので「リメンバーミー?アイメットユーラストタイムヒア、トイレット、アイムヒロシ、ピアニスト。アイワンツーテークアレッスン、アイコールドユーメニータイムス、リーブアメッセージフォーユア、えっと、アンサリングマシンえーっと、とにかく教えて下さい。教えて。教えて。お願いします、お願い、お願い!オレあんたのピアノ惚れ込んでるんだよ!」なんだか最後は日本語になっちゃったけどとにかく相手がうんて言うまでオレはMr Kuhnから離れないって決めてたから、今から考えればストーカーだな。Mr kuhnは穏やかで、そして素晴らしく知的な眼差しでしばらくオレを眺めてから「ああ、おまえか、ワケの分からないメッセージ、アンサリングマシンに残したのは」ていうから、「イエスイエス、テクアレッスンテークアレッスン」てずんずんMr kuhnの方にせまっていった。 その後の経緯はあまり覚えてないんだけど、レッスンの日を決めることができて、友人の車頼んで乗せてもらって、当時ロングアイランドに住んでいたMr… >>>

父親の言葉

本日は終戦記念日ということに巷ではなっていますが、父親の意見は違いました。私の父親は戦争体験者です。毎年迎える「終戦記念日」の日に、私の父親の言っていた言葉をそのまま伝えます。 「終戦やない。負けたんや。負けるべくしてな。敗戦した日となぜいわんのか」 私の父親は、生粋の京都人でした。腹違いの三男坊で、大正11年生まれです。実家が四条河原町近くで旅館業を営んでいたため、舞子はん、芸子はんが祇園から自分の家に呼ばれてくるようなところで生まれ育っており、どうも旅館の息子として祇園では特別扱いを受け、旧制中学高の頃から酒を飲んでアーこりゃこりゃとやっていたらしい話しを親戚筋から聞いたことがあります。また、毎日のように歌舞伎見物をするほどの芝居好きで、将来は歌舞伎評論の道を目指していましたが、その夢も戦争によりご破算となりました。また、同じ親戚筋の話によると、腹違いの兄との確執があったらしく、一念発起し、猛勉強の末、早稲田大学に合格。一八歳の時、東京に出てきました。当時はまだ学徒出陣前で、大学生は徴兵されず、徴兵を逃れる為でもあっとそうです。 いずれにせよ、人間は生まれる時代を選べません。昭和十八年、学徒出陣が決まり、父親の元にも赤紙が届きました。近眼が幸いし、海軍に入隊したのですが、もし近眼ではなく、陸軍に入っていたならば、私はここに存在していなかったでしょう。少なくとも帝国海軍では三食まともな「めし」が食えたと言っていました。 ここからが父親の入隊、軍隊経験の話となるわけですが、被爆者と同じく、滅多に口にしませんでした。ごくたまに、ひどく酔っ払った時以外、戦争中のことはおくびにも出しませんでした。 新兵教育は舞鶴で行われたそうです。特に大学生は、たたき上げの軍隊経験十年以上の、伍長、軍曹などに目の敵にされました。彼等は大卒ではないので、幹部候補生というものになれない。つまり、いずれは新兵が上官となるということです。いずれにせよ、軍隊生活の右も左も分からぬ未経験者を、しごきにしごき、殴りに殴りつけたそうです。毎晩就寝時間前には、たるんどる、という理由で、海軍精神注入棒という、バットをわざと六角形に削った角の部分で、臀部を毎晩猛烈な勢いで叩かれ、ビンタを喰らわされるというしごきを受ける毎日を送りました。なぜ臀部かというと、怪我をされると兵隊として使い物にならないからです。父親を含め大学出身の新兵達は、あまりの環境の変化に耐えることができずにいました。中には新兵教育中、軍隊生活に耐えられず、兵舎の便所で首をつるインテリ大学生もいました。「ひどいはなしや」とぽつりと漏らした父親の顔を私は忘れられません。 新兵教育がある程度終わると、今度は小さなボートに乗せられ、舞鶴港沖まで新兵全員直立不動の姿勢のまま連れて行かれた後、上官に、この中に泳げぬ者はおるか、と問われる。何人かが手を挙げたそうですが、その瞬間、上官がそれら新兵を日本海の荒海に後ろから問答無用でケリを入れてたたき込む。「泳ぎをおぼえるのはアレが一番早いんや」と父親は言っていました。どんなカナヅチでも、荒海の中でバタバタしている内に泳ぎを覚えるそうです。覚えなかった者はただ家族の元に、名誉の戦死の通知があるのみ。 その後、操船の基礎を学び、父親が配属されたのは、佐世保の軍港に停泊していた第二等輸送艦という船でした。しかし、輸送艦といっても武装はしており、大砲も対空機関銃も装着してあり、しかも船底には、輸送艦であるため、通常の戦艦よりも大量の火薬、爆発物を積載しており、ある意味一番危険な軍艦であったそうです。 大学生であったことが幸いした父親はモールス信号を主とした通信兵となっており、佐世保沖での訓練が始まるのですが、ここでも父親は運が良い。なぜかというと、通信室は艦長室と同じ程度の頑丈さで造られていたからです。つまり船の心臓部、一番大切な艦橋部分であったことが、父親の命を守った事になります。 軍艦の訓練というものは、新兵教育より更に厳しく、朝五時五分前、「総員起こし五分前!」のかけ声、ラッパの音と共に目を覚まし、ハンモックを丁重にたたみセーラー服に着替え、ダッシュで班ごとに甲板に整列するのですが、一番整列が遅い班がビンタを食らう。各班にはどうしても軍隊生活に向かない者が何人かおり、二日も経つと、総員起こし前に自然と目が覚めるようになり、自分のハンモックを素早くたたんでから、とろい者を助けた後、甲板に駆け上がる、という日々が続く。 夜の航海訓練では、船内は真っ暗で物音ひとつたててはならぬということを、身体が覚えるまで繰り返され、物音を立てた者は、例のしごきが待っている。また、乗船していたはずの戦友が急に姿を消すという事件が起きたと言っていました。船上の厳しい訓練に耐えられず、自ら海に飛び込んだとのことです。 しかしこれから書き記す実戦での体験は、書きますが、筆舌に尽くしがたい。 父親はなんと、第二等輸送艦と共に、かの有名な沖縄特攻作戦に参加することが命じられます。戦艦大和を含む当時最後の連合艦隊をかき集めた、片道燃料で沖縄に突っ込むという特攻作戦です。命令を受けた父親は、通信兵であったため、他の兵隊よりも情報が豊富で、生きて帰れないことを悟り、遺髪を京都に送りました。 作戦開始後、豊後水道を横切り、奄美大島をすぎた辺りから、敵機グラマンに発見され、猛烈な爆弾投下、機銃掃射の嵐の中に突入していきます。 通信兵は伝声管という管を通して直に怒鳴りながら艦長から本部への報告、本部から艦長への命令を伝えなければならないのですが、戦争中というものは、うるさい、騒がしい、などというものとは桁が違うそうです。甲板で爆弾が炸裂し、四方から機銃掃射を浴びている状態なので、叫んでも艦長に伝言は伝わらない。声帯が飛び出すような怒鳴り声を出さないと何も伝わらなかったと言っていました。また、船の状態を逐次報告するのも通信兵の役目なので、丸窓から甲板を見下ろしてみると、そこには「死体」ではなく、身体の「かけら」が血の海の中に転がっていたそうです。それらの身体の「かけら」が、グラマンの落とす爆弾で船が傾くと、それによって生じる水柱と大きな波で、きれいさっぱり洗い流され、甲板から消えてなくなる。すると第二班が甲板に飛び出して行き、大方の者が再び肢体をばらばらにされ、水柱と大波で消えてゆく。これが何度も繰り返される。 「撃たれた、やられた」「大丈夫か、今助けてやる」戦争映画でよく聞くセリフですが、父親は、「あれはうそや」と言っていました。 一番厳しく意地悪だった鬼軍曹が、船の舳先で日本刀を振り回しながら、「撃て−!撃てー!」と叫んでいたそうです。その鬼軍曹の姿は即座に波間に消えていきました。 状況は次第に不利となり、父親の乗る第二等輸送艦は傾きはじめます。艦長が伝声管を通じて、総員退避命令を出す。それを甲板、船底等に伝声管で伝えるのも父親の役割でした。生き残った者は救命ボートに乗り、各々船から離れるのですが、通信兵は、総員待避後にやらなくてはならないことがあり、救命ボートには乗ることができなかったそうです。海軍本部への沈没間近であることの状況報告、暗号帳を燃やすなど、心臓部に居ただけのつけは払わされたと言っていました。 やがて船の傾斜がひどくなり、上官、通信兵も待避の時が来るのですが、既に救命ボートは残っておらず、とにかく海に飛び込んで、船からなるべく離れた場所まで泳ぐよう教育を受けていたそうです。軍艦に限らず、船というものは、エンジン部分を下にして縦に沈む。その後、渦潮が発生し、そこに飲み込まれると二度と浮かんでこられない。 父親が海に飛び込んだ後、生き残った者達が荒れ狂う海上で何とか集合し員数を数える。その生き残りの中で一番位の高い上官が「番号!」と叫ぶ。「いちばん!」「にばん!」と生き残った水兵が叫ぶ。そこで員数を確認し終わった上官が先頭となり、薄暗くなった空の中に南十字星を見つけて方角を定め、奄美大島の方向に向けて、一列になって海軍式遠泳法で泳ぎはじめる。 定期的に先頭の上官から「番号!」というかけ声が聞こえる。 「いちばん!」「にばん!」「さんばん!」「よばん!」「ごばん!」という具合に十数人が自らの番号を答える。父親は真ん中辺りの隊列におり、夜になり真っ暗な海上を、唯々先頭の者の頭を見失わないよう必死に泳ぎ続ける。時折聞こえてくる「番号!」のかけ声に呼応していた生き残った者達の声が、時間が経つれ聞こえなくなっていく。 「いちばん!」「にばん!」「さんばん!」「よばん!」「ごばん!」「ろくばん!」、このかけ声が、「番号!」「いちばん!」「にばん!」「よばん!」「ななばん!」と欠けてゆく。誰一人として戦友を担いで泳ぐ余裕のある者はいなかったそうです。とにかく生き残った者のみが夜を徹して上官の泳ぐ方向に付いていくしかない。父親は、明け方すぎに気を失いかけたそうですが、「番号!」の声に我に返り、自分の番号を叫んだそうです。しかしその時点で、数字の欠け具合は、相当酷いことになっていました。「にばん!」「ななばん!」「じゅういちばん!」 一昼夜と半日を泳ぎ切り、奄美大島が見えた時、助かった者も半分以下になっていました。 しかも、やっとたどり着いた奄美大島の海岸で、再度グラマンに発見され、機銃掃射を受け、仲間の何人かが砂浜に倒れたと言っていました。 その後、父親は、奄美大島で何日か過ごした後、九州に駆逐艦で待避することができました。 その後、乗船する戦艦がもう無いという理由から、新潟にある海軍基地で陸上勤務を命じられます。そこでの任務は、日本海の傍聴というものでした。ヘッドフォーンのような器具を装着して、日本海にいる米海軍潜水艦の動向を探るというのが任務だったのですが、既に昭和二十年の中頃のことであり、日本には駆逐艦が残っていなかったため、父親の「防諜活動」からは、隠密行動が主である敵潜水艦からレコードの音が、ヘッドフォーンをとおして聞こえてきたそうです。 「その音楽がな、今まで聴いたこともないような、いい音楽でな」 私は勝手に、その音楽は、アンドリュー・シスターズか、グレンミラーオーケストラではないかと推測しているのですが、もしそうだとすれば、父親が聴いた初めてのジャズであった可能性も否めません。どちらにせよ、潜水艦の中でレコードを聴いているということが分かった時点で、父親は、これは戦争に負けると悟ったそうです。しかし上官には、潜水艦から音楽が聴こえてきたとは報告できなかった。なぜならば、それを報告すること自体、当時の日本では戦争に負けることを宣告するに等しく、皆うすうすと感じていたものの、日本が戦争に負けるということ、及びそれに類する言動は厳しく制限されていました。ですから父親は、ただ傍聴した潜水艦の数だけ報告をしていたそうです。 「今まで聴いたこともない、えらいきれいでノリのよい音楽がきこえてきたんや。あれがジャズちゃうか。ああ、これはしまいや、戦争には負けると思うた」 父親の言葉です。 そして、新潟に半年ばかりいた父は敗戦を迎えます。8月15日昼、海軍基地内の中庭に整列せよという命令があり、玉音放送を聴きました。ああ、終わった、と頭の中がカラになったと言っていました。 「玉音放送のちょうど三時間後に、B29の大編隊が海軍基地に向かってきよった。戦争が終わっても叩かれると思っていたら、ちがったんや。となりに捕虜収容所があってな、一つのミスもなくパラシュートで物資を落としていく。しばらくしてから、収容所の門がバーンと開いて、きれいにヒゲを剃り、新しい軍服を着たアメリカ兵が、腰にコルトガヴァメントというピストルを装着してな、口笛を吹きながら出てきよった。最初は奴らに殺されるとおもったんや。だけどな、奴らはただ陽気な若者達で、はしゃいどった。ああ、これは戦争に負けるはな。心底そうおもうた」 その後、父親は武装解除の訓示を受け、手持ちのピストルと軍刀を取り上げられ、一路新潟から、かろうじて空襲を逃れた京都に帰りました。 父が正気を保てたのは、根が明るく、いつかはまた芝居見物がしたいという想いがあったからだと思います。子供の頃、父親と一緒に風呂に入ると、臀部だけが黒茶色で不思議に思っていました。これも戦争の痕跡でしょうが、五体満足で帰ってきた父親は相当運がよく、しかも奇跡的だったと言えるでしょう。 そして以下が、しらふの時にもよく言っていた父親の言葉です。 「戦争中の意地悪な上官よりも腹立たしかったのは、戦前から戦争中にかけて、戦争バンザイと唱えていた評論家、政治家、小説家、軍人のたぐい、そいつらがな、戦後ころっと態度を変えて、民主主義はええ、アメリカはええ言い始めた。そいつら戦争に行かへんねん。内地でぬくぬくとな。これにいちばん腹が立った。腹が立って腹が立ってしかたがなかった」 >>>

学習するとは

私は小学校時代から、日本の学校というシステムにおいて、まったく勉強ができない、もとい、勉強することができない性格、言い方を変えるならば、授業のスピードについていけない考え癖を持っており、今でもその傾向は残っています。一例を挙げると、たとえば小学校の授業に於いて、一時限目から、国語算数理科社会と授業が進むとして、国語の時間に何か疑問に思うことがあると、それを自分で納得するまで考え続けなければ気が済まず、ああでもないこうでもないとその疑問に対し空想、妄想、関連付け、等を小学生ながら思考し続け、自分で納得するまでは、その疑問から自らの思考を離すことができなかったのです。時間的には、考え続けている内に、授業自体、算数、理科、社会と進んでいるのですが、私の頭の中は国語の疑問のままなので、畢竟それらの科目のことがまったく頭に入らず、先生の声も聞こえているようで聞こえていませんでした。ですからこれは当たり前な結果なのですが、私の成績表は、1と5のみという、極端な結果になる事が多くありました。気分転換が下手、頭の切り替えが下手と言われればそれまでですが、私なりの学習法というものを自らあみだしていました。どういうことかと言えば、その国語の疑問点が私なりに理解できたとき、その疑問を納得した道筋で、他の教科の疑問点も考えれば、教わることの理解度が増すことを発見していたからです。これこそが学習というものではないのでしょうか。ですが、いかんせん授業のスピードというものが、私にとってはいつも速すぎた。 この考え癖は、中学に入ってからもなぜか抜けきれず、いちじるしい成績の低下を招き、数学、国語は言うに及ばず、保健体育などの教科は私の頭の埒外でした。テストというものは、総合的に判断されるもので、平均点が高い者が良い高校へ進学できる仕組みとなっています。ひるがえって私の場合、あることに関しては、先生の知識を凌駕するほどに詳しく知っていたり、その疑問点から枝分かれした、自ら本を読んだりして調べた知識により、自分の中ではより豊富な知識を得たりしていたのです。更に、その疑問点の周辺から派生した新たなる知識を独自に掘り下げた結果、その疑問点から素晴らしい、別の新たなる学びを得ることも間々ありました。ですが、そのような知識はテスト問題にはならないのです。結果として点数は落ちます。 中学入学後、特に数学に於いて、数学は最高の美である、と萩原朔太郎が彼のアフォリズムで喝破しているように、形而上的に考えれば、こんなに面白く素晴らしいものはないと、今は理解できるのですが、成績はやはり目も当てられないものとなっていました。たとえば分数に於いて、最初に算数の時間に教わったことが影響し、中学の途中から完全について行けなくなってしまいました。羊羹が一本あります。これを三等分します。すると三等分されたうちの羊羹の一つが1/3となります、と教わった私は、たとえば7/9×3/8という問題が出ると、いったい羊羹はどのような形状、破片になるのだろう、羊羹をカケルということがはたして可能なのか、可能だとしてその大きさはどうなってしまうのだという、まったく本筋からかけ離れた思考に陥り、まったく問題が解けなくなってしまうのでした。重複しますが、中学生の時分、形而上という概念さえ心得ていれば、私にも数学が理解できたと思うのですが、残念ながら、中学生の私に、数学の本質は形而上的であるということが理解できませんでした。円周率も、私にとっては深い謎そのもので、百万桁を超える数字の羅列というものがとても魅惑的であったのですが、ではなぜ割り切れないのかということに思考が及び、授業から脱線していってしまうのです。π=3.14と覚えてさっさと先生の教える次の課題に注目すれば良いものを、私にはそれができませんでした。宇宙というものは、何かとんでもない法則で出来上がっているようだ。それを古代ギリシャ人が既に思いついていた。彼等はどうやって、しかも何のためにこの円周率を「割り出したい」と考えたのだろうか。どのような計算法、どのような文字でこの問題に挑んだのだろう、多分建築のためではあろうが、それにしても、太古の人類の方が現代人より賢かったのではないかと、空想と妄想の世界に陥り、授業はそっちのけ。 幸い、子供の頃からピアノを習っていましたので、ピアノを弾くことが、その頃から私の救いとなっていました。平均律や倍音のことを考えれば、音楽もとてつもなく数学的な側面を持っているのですが、中学生の私はそのようなことはつゆ知らず、ある意味「答え」というものがない「音楽」というものに無意識ではあれ惹かれていたのは、学校の授業が、ことごとく正しい「答え」のみを求める作業の連続で、私は既にその「授業」というもの自体に辟易としていたのです。当時の私の心境をもっと詳しく述べるならば、「ちょっと待って!先生、考える時間を少しだけ下さい。私は自分なりに物事を解釈する方法を知っています。それには少し時間がかかるのですが、そのことを理解することによって、更に知識が広がるという発見もしています。ですから、少しだけ授業のスピードを落として下さい。お願いします」でした。 なんだ、ただ物事を理解するのが遅くのろまで、物分かりが遅い、悪いだけではないか、といわれればそれまでであり、仰るとおりなのですが、これが私という人間なのですからしかたがありません。 しかし、このような私が、アメリカの音楽学校に行って英語で授業を受けようとは、中学生の自分に問うてみたら、「無理にキマッテル」です。ですが私はアメリカの音楽学校を、優等ではないにせよ卒業したのでした。しかも、最初の一年目は、英語がろくに分からない状態であったにもかかわらず、授業にはついて行けました。五線と音符、それに付随したサウンドがあれば、言葉は分からずとも、なるほど!と頓悟することの何と多かったことか。またその喜びもひとしおでした。しかも、アメリカという国は面白い所で、学生が先生を評価するのです。授業開始から中間試験の間と記憶していますが、紙が配られるのです。それは先生の評価を記すもので、このような質問が表記されていました。 あなたの先生は:ちゃんと授業に現れるか/人種差別はしないか/下調べをしてくるか/言葉使いは丁寧か/ちゃんと理解するように授業を進めているか/等々の質問事項が書かれてあり、学生の方が、Very good,Good, Not good等の項目にチェックを入れてゆく方式のものでした。良く考えればこれが当たり前なのです。私はアメリカという国がしていることを全て礼賛するつもりは毛頭ありませんが、授業料を払っているのはこちらであり、先生は、生徒が理解できるまで説明する義務があるのです。アメリカのプラグマティズムは時に、使い方を間違えなければ、もの凄く良い力を持っていることを再確認した瞬間でした。 私が心の底から人を憎んだことはただ一回、中学時代の体育の教師で、やたらめったら生徒を竹刀で叩きまくるという御仁で、叩くのに理由はないのです。叩きたいときに叩きたい生徒を叩くという先生でした。義務教育とはいえ、日本の学校にもアメリカの先生評価のシステムが導入されていれば、貴奴はとうの昔に首になっていたはずです。 話しは逸れましたが、爾来、私はアメリカの学校の居心地が良くなり、良く学びよく学習する、私の学生時代という範疇に於いて、最初で最後の良い生徒となれたのでした。 アメリカの学校では、音楽以外のことも、色々と学びました。Spell Out という意味は、略さずに欧文を綴ることを意味しますが、音楽用語では、たとえば、Spell out this scaleとなると、その音階の構成音を問うという意味に変わります。或る日、英語がまだたどたどしい頃、音楽理論の授業にて、先生が「Can you spell out this altered scale?」 と生徒に向かい聞いたことがありました。私は既にオルタードスケールを知っており、その程度の英語は解しました。しかもその綴りも知っていたので、今まで黙って授業を受けていた自分を鼓舞するため、勇気を振り絞り、ここぞとばかり手を挙げたのでした。 「OK、Hiroshi,you answer this question」私はアメリカ人の先生に向かって得意になって、しかも大声で「A,L,T,E,R、、、」とスケール名の綴りを答えてしまったのでした。本当はその音階の音名を答えなければならなかったのですが、その先生、急に顔をしかめて、「日本人に英語の綴りを教わるいわれはない!」と急に怒りだし、授業がぐしゃぐしゃになってしまったのを今でも覚えています。やはり私には学校という組織自体が、向いていないのかも知れません。 しかし今日も暑いですね。皆さん身体にお気を付けて。 >>>

我が師匠

とある理由で、などという他人行儀な書き方はやめて、つまり音楽高校時代から、ジャズを聴き始め、天啓を受けてしまった私は、クラシックピアノに対する興味が全く失せると共に、ジャズにも譜面があるものだとばかり思いこんでいました。楽器屋に行って譜面を探しましたが、当時コピーの本など売っていない。後日、作曲科の友人から、「ミナミ君、あれは即興演奏なんだよ」という言葉を聞いて、更に譜面無しで自由に演奏できるなんて夢のようだと脳みそが反転し、私のやりたいことはこれなんだ。これこそが自分の目指しているものだと、勝手に決め込んでしまったのでした。しかし、ジャズの理論書は、当時の私にとってなんの役にも立たず、バド・パウエルやモンク、キース・ジャレットのようなサウンドを再現するには、まったく役に立たないものであり、クラシックピアノの練習ははかどらず、私は悶々とした日々を送っていました。 そんな時分、高校のあった明大前からシモキタに出て、制服をコインロッカーにあずけ、私服のように見える格好で、当時シモキタに沢山あったジャズ喫茶に入り浸り、様々なピアニストを聴き進める内に、私のジャズへの想いは爆発寸前にまで高まり、自然とレコード鑑賞だけでは飽き足らなくなってきて、高校卒業後、一時プー太郎だった私は、都内のライブハウスに年齢を偽って入り浸るようになっていったのでした。 様々なピアニストを聴いた覚えがありますが、私のハートを射止めたのは、ここで仮にSさんとしておきましょう。Sさんの演奏の音色の素晴らしさ、インスピレーションの塊のような演奏に、私は一発で虜になってしまい、今はなき銀座の「ローク」(だったかな)というクラブでのSさんの演奏後、勇気を出して直接楽屋まで会いに行き、弟子入りを申し出たのでした。何でもやりますから、ピアノを教えて下さい! 「そうねえ、ユーはさ、とにかくボーヤからはじめるんだったら、 使ってやってもいいよ」 ボーヤとはローディー、つまり、付き人兼、楽器運び兼、つまり師匠の身のまわりの世話をする者の業界用語で、私はS師匠のマネージャーにも懇願し、晴れてS師匠のボーヤとして雇われる?事になったのです。 この師匠、ピアノを弾かせれば天下一品なのですが、色々と面倒を見る側には思いも寄らないことが続発するという、正にジャズの一番いい時代を通り越してきたミュージシャンだけが持つ、粋さと破天荒、私生活では優しさと予測不可能な言動と行動に満ちあふれた方で、19歳くらいだった私には、師匠も別の意味で私にとって、存在自体が天啓でした。そして師匠の存在自体が、尊敬という言葉を凌駕する何かであったことも確かです。 師匠のボーヤは、一年弱続けました。その間に起こった出来事を全て書き記すのは不可能ですが、まず、細かいところから説明しますと、楽屋で師匠が指でVサインをするときは、そこにタバコを挟む。典型的な風来坊でもあったので、演奏時間前には、どこかに行かないよう、なにげに行動を監視する。ドラマーのボーヤが手をこまねいていれば、楽器の搬入を手伝う。肉体労働、気使い共に要求される身の上でしたが、私は師匠のそばに居られるだけでも嬉しくて、かといって、二十歳前の身に於いて、右も左も分からぬ大人の世界の、しかも特殊な部類に入る斯界に於いて、私は右往左往していました。まあ当たり前です。音高生あがりがいきなり六本木や銀座のジャズクラブの裏口から楽屋に入り、師匠に張り付いて、業界のあれこれを目の当たりにするのですから。 秋田のディナーショーに同行したときのことです。師匠はことのほかピアノのタッチ、調律などコンディションを気にされるタイプで、幸いその秋田の会場のピアノは気に入ったらしく、演奏前から終始ゴキゲンでした。 「いやーミナミちゃん、アーユーハッピー?今日のピアノさあ、ゴキゲンだね。ユーもちょっと触って見たら。こう来なくっちゃ行けないんだよなあ」Cm7の構成音もろくに知らなかった私にとって、師匠の弾くピアノを演奏前に触るなどということができようはずがありません。なんだかんだ師匠の身の回りの世話をしていると、あっという間に開演時間となり、師匠をステージに送り出す。 舞台袖という所はある意味特等席で、楽屋の入り口からピアニストを真後ろから観察することができます。これは客席では味わえない至福の立ち位置で、絶頂期にあった師匠の演奏はそれはそれは見事なものでした。 その晩の演奏もハプニングに満ちた素晴らしい演奏で、客席は拍手喝采で盛り上がり、ディナーショーは大成功。演奏が終わりに近づくにつれ、更に演奏は盛り上がり、私は膝をがくがくさせながら舞台袖から、その妙技をこの目と耳でしかと体感するという、誰にも許されない贅沢な時間を師匠と共有したのです。 演奏が終わり、楽屋に戻ってきた師匠は上機嫌でした。 「いや〜ノッチャッテさあ、ミナミちゃんタバコある、うん、こう来なくっちゃいけないんだよなあ。ピアニストっていうのは、楽器に左右されるから、今晩は最高だなあ」そっと汗を拭くためのタオルを手渡すと、師匠は独特の茶目っ気たっぷりな笑顔で一言「センキュウ」といって受け取り、ソファーに深々と体を沈めて、ご満悦な様子。ああ、今日は万事上手く行きそうだと、ボーヤである私でさえも胸を撫で下ろしていると、アンコールの拍手が止まらない。すかさず師匠のマネージャーが「Sさん、ここは一つ、もう一曲お願いしますよ。盛り上がっていることだし」 「ええ〜、ここまで演奏して、まだやれっていうの?ったくもう、誰もオレの音楽を分かっていないんだから、やんなっちゃうよ。ここでアンコールはないでしょ。イキフン(雰囲気)がメチャメチャになっちゃうでしょ」 「そこを一つどうかよろしくお願いします。マネージャーとしてのお願いです。もう一曲だけやってもらえませんか」 「しょうがないなあ、まあいいけどさ、誰もオレの音楽を分かってないんだよなあ。まいっちゃうんだよなあ」 そばに付いている私はといえば、絶好調に機嫌のよかった師匠の態度の変化に冷や冷やしながらも様子を伺うしかありませんでした。 師匠はゆっくりと立ち上がり、何となくだらだらとした雰囲気でステージに戻っていきました。そしてピアノの前に座り、アゴの辺りを少し撫でてから、きらびやかなフレーズをサッと弾いて、またアゴを撫でる、ということの繰り返しを二三度したあと、演奏をはじめました。曲は「TAKE THE A TRAIN」。後にも先にも、そして今でも、あんなにステキな「A TRAIN」を私は聴いたことがない。 演奏も段々とノってきて、自然とリズムがバイテン(倍速くなること)となり、なんとその時はバイテンのバイテンまで師匠は弾ききり、開場は拍手喝采を通り越した狂乱の嵐のような状態となったのでした。アンコールが終わり、師匠が楽屋に戻ってきます。「イヤー、ノッチャッテさあ、まいっちゃったよ、速くなっチャってさあ、ああミナミちゃんタバコ、うん、ああ飲み物もなんか持ってきてくれる〜、あ、センキュー、ユーもハッピー?」 「もちろんでございます」 「よかったよかった。ジャズはみんながハッピーにならなきゃねえ、あ、今晩どこかで打ち上げ?あははは、また弾いちゃおうかしらオレ」 このような日々を師匠と共に過ごすことができたことは最高の最高の部類の出来事でありますが、一向にピアノを教えてくれる気配はない。否、そのことを頼み込む雰囲気でもない。こんなすごい人に「教わる」ということを申し出てよいかも当時プー太郎だった自分には分からない。そんな想いも私の中に交錯していたのも確かです。しかし、手をこまねいているのも何やら悔しく、間接的に師匠のマネージャーに何度もレッスンを懇願することにしてみました。答えは、「またこんどな」の繰り返し。 しかし、私の熱意が伝わったのか、師匠の気分がそういう状態だったのか分かりませんが、或る日、マネージャーから電話があり、六本木の某喫茶店に、5時頃行けばSさんはいるから、いってみればという内容の電話がかかってきました。私がそこへすっ飛んでいったのは言うまでもありません。 はたして、喫茶店のドアを開けてみると、師匠はコーヒーを飲みながら、腕を頭の後ろに組み、おしゃれな靴がピカピカと光っていて、私の顔を見るやいなや、いつもの独特のあの笑顔で私を迎えいれてくれたのでした。 「あのねえ、簡単に教えるからよく聞いててねえ。紙と鉛筆持ってる」 「五線紙を持ってきました」 師匠はそこに大きな丸を三つ書き込みました。その三つの丸は真ん中が重なり合ったもので、てっきりハーモニーのことなどが教えてもらえると思っていた私は、一瞬度肝を抜かれました。 「あのねえ、ここに三つの丸があるでしょう。一つがハーモニー、一つがリズム、一つがメロディ、そしてこの三つの丸が重なってるところ、ここが音楽なんだよねえ。そしてこの三つの丸が有機体のように膨らんだり縮んだり、ユーわかってる?たとえばさあ、メロディーの丸が大きくなったり、リズムの丸が重なっているところの大部分を占めたりと、これがねえ、大切なわけ。ユーわかってる?」 正直言って、その当時初心者以下であった私には、何がなんだかさっぱり分からない、というのが正確な答えでしたが、どう答えてよいか分からなかったので「わかりました」と答えました。 「ああ、それはよかった、ここさえ押さえておけば音楽はできるんだよ。ユーはさあ、気が利くしおとなしいし、いいボーヤよ。いつもハッピーでいてね。わかった?」 あれから幾歳月、キャバレーや銀座のナイトクラブで揉まれながら学んだこと、バークリーで学んだ体系だった音楽理論、様々な知識が私の中に蓄積されていきましたが、今この歳になって、やっと師匠の教えてくれたあの三つの丸印が一番大切であったと気付いた次第です。 リズム、メロディー、ハーモニーが重なり合い、有機体のようにそのの丸の重なったところが広がったり縮んだり、要するにこの丸三つをコントロールできさえすれば、後は不要といっても過言ではない気がします。 「ユーはさあ、ジャズ屋になりたいんでしょう、じゃあもっとハッピーにならなきゃ。そのことが一番大切よ」 師匠の言葉を噛みしめながら、毎日私なりにハッピーに四苦八苦しております。 >>>

父親のこと

何の理由もありませんが、私の父親のことを書きたくなりました。私の父親は生粋の京都人でした。 大学時代に東京に出てきたので、普段は標準語でしたが、心根までは変わりようがありません。生れ育ちは四条河原町、先斗町あたりで、実家はかなり大きな旅館を経営していたと聞いています。余談ですが、その旅館は戦後のドサクサでなくなってしまったのですが、戦前の京都で生まれ育つという情緒には、いったいどれだけの文化と美意識が含まれていたのか。それを想うだけで私など目眩がしてしまいます。実際私の父は歌舞伎評論の道に入りたかったほどの芝居好きで、芸事の良し悪しがよく分かる、一本スジが通った、真面目で極端な面はありましたが、緩い所は緩いという、なんともユニークな父親でした。 子供の頃、よく歌舞伎座に連れて行かれ、分からないながらも名優の演技を目の当たりにした私は、ある意味相当変わった子供だったのかもしれません。 私の父親の性格、または言動が、私の演奏に直接的、また、ときには間接的に関わっているのは確かです。更に、自分自身の成長という意味に於いて、いまだそのことを助け、同時に足を引っ張っているという、いい歳をして私はいまだ、父親の影響下にあると言っても間違いではないでしょう。 私の父親の口癖は、「人間二人だけでも情の世界」であり、「焦ったらあかん」であり、「ねばってねばってねばってねばってねばって続ければ必ず成功する」、この三つでした。最後の格言?は、やっとのこと、私なりに腑に落ちるところと腑に落ちないところを、この歳になって今更ではありますが、使い分けられるようになりました。簡単に言えば、粘ることは必要だが、成功とはいったい何かがいまだ私の中ではっきりと言い切れない部分があるからです。 ひるがえって前出の二つの口癖は、これまたいい歳をして、いまだ抜け切れていない部分があり、特に一例を挙げれば、「情の世界」に関して、アメリカに留学していた時分、大変な思いをしたものです。特段アメリカ人が薄情だと決めつけているわけではありませんが、彼の国の乾いた人間関係に、住み始めた最初の年に、ずいぶん圧状しました。当然ながら、歌舞伎的「情」の世界がアメリカ人に通じるわけもなく、女形が女装とは決定的に違うのとおなじで、随分と損な立場に置かれ、それに伴い私自身が徐々にアメリカ人的になっていかざるをえなかったのは、観光で訪れた訳ではないという、どうしようもない事情もありました。 話しはそれますが、アメリカ人にとって、何かしら人間関係に齟齬が生じ、お互いの行いの良し悪しが平行線を辿るとき、アメリカ人は「わすれれよう」と言って、本当にその事はその事後おくびにも出さないという面があります。 話しを父親のことに戻します。私の演奏する音楽は、一人でやるよりも、例えばサックス、ベースなどと一緒にやることが多く、しかもそこには一筋縄では括ることのできない一匹狼的輩が集まってきます。そんな集団の中でリーダーという役割を努めなくてはならなくなったとき、一言で言えば、優先すべきは音楽か「情」なのか、を明らさまに迫られる局面もあり、畢竟私はマイルス・デイビスでは勿論ないので、悩まざるをえなくなるわけです。様々な心的要素が絡み合う中、音楽そのものを優先するのか、はたまた父親の言うところの「情の世界」を優先するべきか、リーダーとしては最もあってはならない状態、つまり優柔不断に陥ることがあります。 私を悩ませるのは、バンドメンバーが下手くそだとか、気が合わないといった簡単な理由ではありません。先ほども使った言葉ですが、齟齬としか言いようのない状態、状況時に、私はどうしても「情の世界」に入り込むことが多い。しかし、何かしらの「齟齬」が生じた時、状況に応じて情そのものを忘れる方が物事をうまく運ぶことができることも多々あります。しかし私はそれがとても苦手なのです。なにもベタベタした人間関係を求めているのではありません。クールで在ること自体好きですし、ミュージシャンとしても格好がいい。しかしそういう時でさえ、齟齬を無視してまでも情を選んでしまう私は、極端であった父親の性格をそのまま受け継いでおり、更に「焦ったらあかん」というわりには、たまに焦っていた父親を目の当たりにしてもいますので、私も焦らなくていい時に焦る癖があり、これは逆説的ではありますが、父親の口癖の影響を、表からも裏からも受けてしまったといえるでしょう。 最後に、私の仕事にずっと反対していた父親が、後にも先にも一回だけ、新宿PIT INN に私の演奏を聴きに姿を見せたことがあります。もうずいぶん前の話ですが、何か特別の企画で、若手のミュージシャンが集い、ベースが斯界の重鎮というもので、詳細は私も忘れましたが、その企画をしたプロデゥーサーだったか、その時ちょうど来日していたブラウンフォード・マルサリスをスペシャルゲストとして、後半の演奏に参加するという話は、演奏前から来ていました。アメリカの超一流と演奏している姿を父親に見せることができれば、きっと私の仕事も認めてもらえるだろうという想いで、私は父親に無理を言って、その時PIT INNまで呼びつけました。 演奏が始まり、ちらりと客席を見ると、真ん前、しかもど真ん中の席に腕組みをして、私の顔をにらみつけている父親の姿がちらりと視界に入りました。演奏しにくいことこの上ないことはいうまでもありません。しかも、あのPITT INNの小さなテーブルには、既にビールの小瓶が乱立していました。 企画通りに、後半ブランフォードが姿を現し、客席は拍手喝采。しかし父親は腕を組んだまままんじりともせず私をにらみつけていました。 演奏後、楽屋で汗をぬぐってから、父親に一言挨拶をしようと客席の方に戻ると、相変わらず腕組みをしてステージをにらみつけている父親の姿がありました。 「オヤジ、演奏そうだった」 「ヒロシ!他の奴はどうでもええけどなあ、あのクロン×は上手い。ヒロシ!あいつとやれ。あいつと一緒に演奏せい」 「オヤジ、ここはジャズクラブで、しかも都内で一番有名な店なんだよ。そこで大きな声でクロン×っていうのはやめてくれ〜〜」 「クロン×はクロン×やないか。お前はあいつとやらなあかん。あいつには芸がある。ええ音や。ワシは歌舞伎しか分からんが、あのクロン×はすごい」 「他の奴はどうでもいいっていうのも大きな声で言うのやめてくれ〜〜」 「何が悪いねん、ワシは客やど。お前はあのクロン×のグループに入ったらええねん」 「そんなに簡単にいかない事情がいろいろあるんだよ」 「がたがたいうな、だーかーらーお前はあのクロン×と演奏したらええねん。分かったな」 そう言い捨てるやいなや、父親はすっくと立ち上がり、あっという間に出入り口の方に歩み寄りました。そしてなんと、入り口付近に立っていたトブランフォードに向かって、日本語で、「ワシの息子をよろしくお願いします」と頭を下げ、そのまますたすたと帰って行きました。 >>>

雑用と練習の間に

Mac book air、I phoneを所有しており、これらをもってして、各種仕事の依頼、メール交換などを行っていますが、基本的に身体の芯からアナログな私は、この機械類があまり好きではない。まず漢字が書けなくなる。日本語なのにローマ字で変換することに大変な違和感をおぼえる。金属に触ること自体が好きではない。疲れている時など、少しパラノイア的になり、FBのメッセンジャーなど、本当にこの文章、相手に届いてるのか、などと余計なことまで考えてしまう。 WEBの更新も、製作してくれた機械に詳しい方にやり方を教わったのだが、すぐに忘れる。たとえば先日、その制作者に送ったメールの内容を一部公開します。 前略 たびたび本当に申し訳ないのですが、webのライブ情報更新が上手く行きません。 新規追加、日付記入(シフト7の作業で’16),タイトルを記入、下の欄にメンバーを記入、コメント記入、LIVEの欄にチェックを入れる、更新ボタンを押す、と、更新ボタンの左側に灰色円形のぐるぐるが出現し、その先に行きません。つまり、WEB に載せられません。どうしたらよろいいでしょうか。SAFARIを再度起動し直して試しましたがグルグルからさきに進めません。 また、アーティスト写真、今までうまく載せられたのですが、 メディアを追加押す、写真選ぶ、するとグルグルのせいか写真も掲載できません。 このような場合、どのような処置をすれば良いか、云々、、、、、 一言で言って、難儀である。グルグルとか、青いボタンとか、矢印とか、右の方とか、専門用語が分からないので、制作者に指示をお願いするのも、ウイリアム・ギブソンのSF小説のような文章になってしまう。オノマトペを多用しないと問題箇所の状態を説明できない。 どなたか「WIFI」の正式名称を教えて頂けませんか。みんなが使っている言葉ですが、私の英語能力では理解に至りません。WIはWIREの略なのでしょうか。そうだとしてもFIとはなんの略なのでしょう。そしてこの電波は、どこから誰が、どのような場所で操作しているのでしょうか。海外の友人にもメールが届くということは、海底ケーブルかなにかで繋がっている気がしますが、機械に詳しい友人に訊いても知らないとのこと。みんな基本的によく分からないシステムの、よく分からない環境の中でローマ字で日本語を綴り、雑用の種類、量は日に日に増え続け、私の場合、ブルーライトで目がちかちかしているわけです。 何度かMacお客様センターですか、機会の不具合で問い合わせたところ、なんと私のMAC BOOK AIR の中に易々とアクセスし、中身を見ながら問題を解決しましたが、思うに、こちらが承認しなくても、どこの誰かも知らない輩が、私のLAPTOPの中身をのぞき見ることは、そんなに難しくはないのではないでしょうか。ひとこと言わせて下さい。ついていけません。のぞき見られて困るものはひとつもありませんが、気分の良いものでもありません。 最近友人のAPPLEWATCHという腕時計を見せてもらったことがあるのですが、アレは完全にワタシの世代で言いますと、ウルトラ7のモロボシ・ダンが使っていたテレビ電話腕時計です。少年の頃は欲しくてたまりませんでしたが、常時林檎社の製品を身につけることは、好き嫌いを抜かして私には向いていないでしょう。あ、メールだ。ではこれにて失礼します。 >>>

某月某日 先日、下北沢にあるクラブ、ApolloにてJam sessionならぬJazz Sessionに参加し、とても楽しい一夜を過ごしました。殆どの演奏者は私より若いベーシスト、サックス奏者であり、気が付いたら、私が一番年長で、とても心強く感じたと共に、何やら不思議な感覚に襲われました。私が40代だったとき、ジャズなんてものは、私の世代以降のものは演奏しないだろうと、何の根拠もなく思っていたからです。ジャズも私の世代で終わりだ。こんなシチめんどくさくて奥深く、労力のわりに報われないことを、現代の合理的な若者がするはずがないと高をくくっていたのです。また、話しは逸れますが、ビル・エヴァンスよりも長生きするとは夢にも思っていませんでした。その若者世代、皆楽器が達者で個性も感性も申し分ないのですから、ジャズもなかなか捨てたものではありません。私はご存知のとおりバブルを通過した世代で、だらだら一曲演奏していたら、チップが5万円もらえたりした時代を生きてきたのですが、おそらく彼等にはそういう経験はなく、だからこそだらだらとした演奏はせず、皆真剣そのものでした。 現在の私は、四捨五入すれば、数学的に60代であり、還暦まではまだ四年あるとしても、時間は逆行しません。唯々馬齢を積み重ねるのではなく、今できることを、今演奏すべきことを実行するしかないのですが、エヴァンスが51才でこの世を去った事を筆頭に、何を指針にして、どういうことを「実行」するべきなのか、日々試行錯誤しております。ピアノの正式名称はピアノフォルテであり、ダイナミックスを充分に生かした演奏ができる楽器であると同時に、ギター、ベースのように、直接「弦」に触れることのできない楽器でもあります。つまり間接的に鍵盤を奏でることによってフエルトが弦を振動させるという、どうにもこうにも複雑な楽器で、直接弦に触れつつ演奏できる楽器奏者がうらやましくてたまりません。更に、サックスのように、サブトーン、ひゅるっと音階を上下する等というワザが鍵盤楽器では不可能です。一音を長く伸ばすこともピアノにはできません。グリッサンドといっても、ドとレの間の音を出すことも、楽器の性質上、倍音のことを考えなければ、演奏不可能です。ということでサックス奏者もうらやましい。逆にピアノにしかできない利点も沢山あるのですが、どうもジャズという音楽は、サックス、トランペットを主体として発展してきた歴史的経緯があるような気がしてならないのです。チャーリー・パーカーがいなければバド・パウエルはあの奏法にはならなかったであろうし、バド・パウエルがいなければそれこそビル・エヴァンスも、ということはハービー・ハンコックも存在し得ない。このような例を挙げれば枚挙に暇がないのではないでしょうか。 セッシォンとは面白いもので、自分が演奏したり、相手が演奏しているのを聴いたりという時間が交錯する場でもあります。その機会に乗じてよくよく色々な楽器類を観察してみると、何を今更と思われるかも知れませんが、サックス、トランペット等の管楽器奏者は(ベーシストを含め)、どういうクラブであれステージであれ、お客様に正面から、つまり対峙して自分の音を一直線に放つことができる楽器であることを痛感しました。ひるがえってピアニストは、客席に対し横を向いたり、下手をしたら尻を向けて演奏する宿命にあるのです。これは大きな違いだなと、楽器が上手い下手以前の、楽器の性質を更に痛感しました。またこれは蛇足ですが、自分の楽器を持って移動できるということ自体、我々ピアニストにとって羨望の的なのです。根性で自分のピアノを担げれば持って歩きますが、たとえピアノを背中にしょいこめたとしても、0・5秒後にはあの世にいってしまうでしょう。まあ、ピアノの下敷きになり、あの世行きというのもピアニスト冥利に尽きるのかも知れませんが、残されたまわりの者は迷惑きわまりないでしょう。今生きているだけで迷惑をかけている部分もあるわけですから。 このような考察は、ピアノを教えること自体にも反映されます。ピアノを教えること自体、楽器の利点、特徴、音色、機能、挙げていけばきりがありませんが、それらのことを総合的に説明せざるを得ません。それを避けて、コードの読み方、スケール、アドリブのやり方のみを説明することは不可能です。いずれにせよ、まったく大変な楽器に関わってしまったなあと思う次第です。先ほどピアノという楽器にも利点があると書きましたが、それをあげつらっているとキーボードを打つ指が痺れる分量の文章を書かざるを得なくなりますので割愛しますが、もしかしたら、最大の利点は、運が良ければですが、一生涯退屈することはないだろうということなのかも知れません。と言いつつ、今少し退屈なのですが。 >>>

深夜

雨の夜は眠れないので、非常に難儀である。不眠には慣れてはいるが、脳内の循環は昼間とは違い唯々虚空を見つめたりしている。何の因果か、呼吸以外の体内活動は停止せざるをえず、喜怒哀楽も胃の縁の方に姿をくらます。 もうすぐ誕生日であるが、特に感慨はない。地球の自転で時間は計られているが、太古の昔には、我々が想像だにしなかった時の流れが存在していたのではないかと憶測する。一秒などという単位は現代社会の最たるもので、今しがたという数字に縛られぬ安らかな生の流れが、特に産業革命前までは存在していたのではないのだろうか。音楽史的に言えば、その頃の音楽、作曲や演奏もその影響を受けていたはずで、開演時間や演奏の長さも、今と比べて全くの別物であったに違いない。18世紀以前には、そのような、時間というよりも、なにか空間自体がたゆとう間々が人々の生活の根底に上がれていたのではとも想像する。それに倣って現代に生きる私も時間の概念をすり抜けて、一瞬云々さえ意識せず、なおかつ深夜の空気を唯々静かに呼吸するのみである。 誕生日が苦手である。一年が365日に区切られているのは私の裁量ではない。歳をとることにめでたさを感じることもない。只漠然と時が過ぎてゆく中で、世間が365日の中の一日を区切りとしているだけである。それ以上でも以下でもない。この一文を偶然読んだ方々よ、夢々私の誕生日を祝うことだけはされてくれるな。頼まれてもしないという方がいれば尚結構である。私が今一番考えなければならないのは、この365日の区切りの中で、永遠に目が覚めないのは何日かということのみである。その日がいつ来るかということの方が、誕生日などという催事?よりよほど重要である。 >>>

2015年に「2001年宇宙の旅」

昨日、渋谷Bunkamuraにて、ライブシネマコンサート「2001年宇宙の旅」を観に、そしてまた聴きに行った。どういうことかというと、映画のサウンドトラックを生のオーケストラと共に映像を観るという趣向。ステキな企画ではあったが、ある意味演奏や映像自体に集中することができなかった。というのも、初めてこの映画を観に行った時のあれやこれやが、脳内を占拠してしてしまった為である。 私が「2001年宇宙の旅」を初めて見たのは、小学校3年生の時であった。当時の母親と共に銀座にあった映画館に出向いたのである。今から考えれば漫画的だが、新聞に載ったこの映画の広告を見て怪獣映画と勘違いし、母親に連れて行ってくれるようにせがんだのである。映画館の名前は失念したが、とうの昔に姿を消している。いずれにせよスクリーンが名古屋のきし麺状のパノラマ上映で、親子二人で前の方の席に座ったのであるから、母親としてはある意味たまったもんじゃなかったであろう。何しろ怪獣映画を何となく子供に見せておけば良いと思っていた矢先、太古の地球のシーンから猿が飛び出し、ドミノ状のモノリスに触った猿が急激に賢くなり、武器として握った動物の骨があっという間に宇宙船に取って代わる。キューブリック究極のメタファーだが、小学校低学年の南小年に解るはずもない。 「お母さん、いつ怪獣出てくるの?」 「黙ってみてなさい」 「あの漢字はなんて読むの?」 「だまってみてなさい」 「ネエ、どうして猿の骨が宇宙船になるの?」 「黙ってみてなさい」 当時の我が家は世田谷の団地住まいで、テレビは白黒、また、母親がアーサー・C・クラークもキューブリックも知る由もなく、私と母親は究極の「場違い」に身を置いていたことになる。現代音楽のリゲティも、ヨハン・シュトラウスも、鉄腕アトムの主題歌とはほど遠かった。最後のシーンに至っては、母親に説明を求めることさえ忘れて、私の脳内は、キューブリックの色彩と音楽でいっぱいになってしまったのであった。そして今でも覚えているのは、映画館を後にする我々親子が茫然自失状態であったことだ。これは今から思えばキューブリックの力業である。つまり、怪獣映画と勘違いしたごく普通の日本人の親子に、なにがしかの莫大なる影響を与えた証であろう筈だからで、それは今でも僕の体幹の部分から来る感性が、無言の母親と映画館を出た瞬間と重なり合うことで、キューブリックの映像が二人を飲み込んだことには変わりあるまい。 そして、この映画は後年の私にとって、芸術に対する究極の意味合いを持つようになる。どういうことかというと、表現とは何かということを、幸いにも小学校低学年で体験し、中学、高校と歳を追うごとに、この作品の意味の深さが、子供の時に観たからこその体感を伴った体験として脳内に映像が飛び交うようになったからだ。映画のぶっ飛びさ加減、撮影秘話、キューブリックという映画監督のことに関してと、後付ながら自然に知識も蓄積され、無言で映画館を後にした少年の記憶に、様々な意味づけ、知識、情報が加味されていった。今だから理解できることだが、アーサー・C・クラークの原作を、たとえばエミリー・ブロンテの名作、「嵐が丘」のように、原作に忠実に映像化するのは不可能であると思う。そこでキューブリックは己が映像美と輪廻転生的な宇宙の回転を、見事なる静寂とウイーンのワルツと、震える歌声でうっちゃり擲ったのではなかろうか。しかも、擲りつつ細部には精緻なるこだわりを労し、団地住まいの昭和の親子さえ、どこかしら遠くの世界に旅立たせるだけの魔力を映像で表現した。 怪獣映画からほど遠いその映像は、映画を観てから長い間、私の学業に決定的なダメージを楔のように打ち込んだ。元々授業に集中するようなデキの良い少年ではなかったが、先生が教壇で何か喋っている間にも、私の頭の中には、あの映画の静寂と呼吸音、テレビ電話、宇宙食、そして最後の胎児の大写しが脳内に行き交い、行きつ戻りつ、夢うつつの我ここにあらずの状態が脳内の専売特許となり、授業など、さながら逆に言ってみれば、木星での出来事のような状態が続いたのであった。 昨日のイヴェントにて、久しぶりに大きなスクリーンでこの映画を再見したが、まず思ったことは、少年の私がこの映画にヤラレルのは致し方ないということだということが、再確認できたことであった。日本上映は1968年と記憶しているが、白黒テレビしか無いあの時代に、これを大写しのシネラマで観たということの意味は非常に大きい。同時に、映像を見ていて少し悲しくもあった。昭和の時代にこの映画を観た私は、未来は素晴らしく夢にあふれ、21世紀になれば、人類は宇宙に進出し、何かとんでもないモノを発見するのだと信じて疑わなかったのである。アメリカもソ連(映像の)も仲良くなり、人類自体がより洗練されると思いこんでいた。しかるに昨今、残念ながら、我々人類は未だに、地べたの上で殺し殺され、爆発攻撃を双方に繰り返している。残念でならない。しかし一番残念に思っているのは、今は亡きキューブリック本人なのではあるまいか。 >>>

ブログとは、、

心機一転、新しいサイトを製作しました。元々ブログの語源は[Web Log」であり、航海に必要な日誌から今の呼び方になったようです。私は今まで日記という概念で文章を書いていましたが、巷にあふれるブログと称するものをいくつか読んでみると、日記というよりそれはやはり[ブログ]であり、どこか日記と様相を異にする。ライブの宣伝に使われているものが多いというのが主な理由でしょうが、少し考えれば当たり前です。本心を綴った日記を公開する御仁などいるわけがない。 過去の私の日記も、紀行文的なもの、日々の雑感などが多いのですが、日記のひとつの機能である、今日はあの人に嫌な思いをさせられた。許せない、などという事は公にするものではありません。しかしブログというものはそこの辺りが日記と違っているような気がします。さて、いずれにせよサイトを一新の後、私は日記寄り、ブログ寄り、どちらの文章、文体で文字を綴れば良いのでしょうか。いずれにせよ演奏活動の宣伝だけでは味気ない。日々の雑感や書く人の物事に関する感受性が文章に著されていないと無味乾燥な気がしてしょうがない。しかし、活動の宣伝、日々の雑感を巧みに織り交ぜるなどの条件を満たすには、これはトルストイでも四苦八苦するのが必至でしょう。相当な文才と機転を持ち合わせていないとチラシと大して変わらなくなってしまうことまちがいなしです。日々の出来事を謙虚に、そして効果的に書き表し、その合間を縫って宣伝を印象づけるようにに書くことは、よほどの技術を要する新しい形の文体が必要となってくる筈です。しかも、SNSの世界は、全世界の日本語を解する人々も読むことができるわけであり、重複しますが、日々の雑感、考えを書き表し、それを謙虚に文章化し、しかも効果的に集客に結びつけるなんざ、ある意味不可能なのではないでしょうか。 文豪は人間の理不尽を登場人物のやりとりから、その枯れ果てた人間関係を浮き彫りにすれば良いわけですが、そこには何月何日聴きに来て下さいという文章を挟み込む余地はない。かといって、南博、ピアニストです。これこれこの日時に演奏します。聴きに来てね、という一文をそこに挟み込む余地もないし、あまりにも味気ない。いっそのこと、ピアノの鍵盤をサイトに掲載し、こんな細いデコボコした水平な木製の棒の上で、両手の五指があらゆる可能性を駆使して、新しいサウンドを生み出しているので、ご興味のある方は、聴きにいらして下さい、この一文で全てを包括し、後はほっておくという手も無きにしも非ずです。しかしそれでは、「ブログ」という可能性を狭めてしまうと同意に、日記の面白みも半減してしまいます。両者の良い面を捉え、それをどう表現するのか、何が面白いのかを聴いて頂く側に伝えなければなりません。しかしこの両者をうろうろしていたら、情報は届きにくくなるはずです。いずれにせよ、効果的に宣伝をしなければならない。そこに日記としての香りを残しつつ、ブログという機能を織り交ぜて行くには相当の筆力が必要です。畢竟、日々の雑感とエッセイと宣伝を、織り交ぜて文章にするなど、以上をもってして私には非常に難儀ではあるのですが、不可能に近いながら、世の中をある程度横目に見ながらこれからも文章を書いて行くことにします。上記の三つの要素が素晴らしくバランスの取れたブログ、私は依然として日記と称したいのですが、まあ、そのことを目指して続けるしか無いのでしょう。しかし、本当に謙虚な人が、人前である意味パンツを脱いで踊っているに等しいような楽器演奏、その他表現に関わる某かを人前で文章化するでしょうか。これもまたブログのような日記を綴る課題の一つです。まったく本文からかけ離れますが、バスの運転手さん等、定時に職業を全うしている方々は本当に偉いなあと思う今日この頃です。かしこ >>>

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