某月某日
いつまでもダラダラとしているわけにはいくまい。関係省庁、と書けばウソになるが、省庁でなくとも、仕事関係の各事務所、及びEWEを含めて諸官庁、と書けばまたウソにになるが、僕にとっての関係諸官庁が動き出したことは事実である。メールのやりとり、その他諸々のルーティーンがまた始まったということで、フリーランスの身である場合、これらは避けれれない事実である。たまにテレビを垣間見ても、政治の動向はどうも、なにも信用できない丁々発止に終始しているし、まあ、生まれた国を間違ったという観点から、己の行動を進めるしかなさそうだ。いつものことだし。自動車会社を筆頭に、エコだエコだと騒いでいるが、まずF1レースをやめることから始めれば良いのではないか。ほかのスポーツも全てデイゲームにし、つまりエコロジーがビジネスになっていないことを、各企業は、証明する必要があるのではないか。そういう意味で言えば、カーレースなどもってのほかである。これは何の統計的結果や、専門家の意見を聞いたわけではないが、いまさらエコだと息巻いても、とうに遅い気がする。だいたい、精油産業が勃発してきた時点で、今の状態は創造し得た筈だから、なにかしら、地球というものに直接インパクトを与えうる国々が、先手を打たなかったから、今の状態を招いているだけで、一言でいって、人類はいびつである。オプティミストがいう人類の未来は、光り輝いているが、光あるところに影があり、その割を食うのは一般庶民でることは、歴史が証明している。電気自動車が隆盛になれば、いままでのガソリンで動く車は少しずつ廃車になって行き、それら皆上手く、ある一定の法律基準で廃車になればよいが、今までのこの国の動向を見ていると、またどこかの田舎の国道の一角が、ガソリン車の墓場となって、よくわからない有害物質を垂れ流すこととなるのだろう。国土の狭いこの国の、いったいどこがガソリン車の墓場となるのか。各大手の自動車会社の車の売り上げが伸び悩んでいるという。エコという観点から見たら、これほど良いことはないではないか。なぜエコロジストはこのことを喜ばないのか。輸送業者、食料輸送、エネルギー輸送、救急車、その他どうしても車を使わなければ成り立たないものをのぞけば、この狭い国の中でそんなに車の台数はいらないのである。ちょっと極論かな。僕はエコロジーというものを信じていない。地球の動態から考えて、五千年、一万年で起きる周期に、我々は何をもって刃向かえるのか。ここまで石油を掘り尽くし、ここまでエネルギーを地球から搾取してきた我々は、次の方策を、ビジネス抜きで本気で考える時期が来たんだろうと思う。また、それがクリアーすれば、年金問題も、100年一度の不況も、何をか言わんやである。住環境そのものが犯されているのだから。エコロジーをビジネスにするのはもうやめだ。
某月某日
皆様、明けましておめでとうございます。
某月某日
と書いても、今は、一月六日午前六時です。ピットインの年明けライブに出演した以後、夜形の生活がまた更に夜形になり、もう少しで正常な一般の我が同胞の暮らしに追いつくのではないかという転換期にあるようなありさまです。なにしろ年明けライブが終わったのが、元旦の午前二時。その後飯を喰ったり酒をの飲んだりして、就寝は雀チュンチュンの時間。起床したのは、とうに日が暮れたあとで、脳内に太陽の光を届けることもままならなかった。起床した時、既に夕方であるというのは、何やら地獄での堂々巡りとはこのような状態なのではないかという感がある。やむおえず、テレビを見ていたら、去年使った体と脳味噌が弛緩してきて、もういけない。そのまま寝正月状態に突入。寝正月といえども、就寝の無い状態の寝正月、つまり体を横たえ、画面に写るあれこれを、見ているような見ていないような状態で、動いているのは眼球だけといった体の状態。次に入眠したのは、もう時間も曜日も分からないいつか。次に気がついた時は三日になっており、少しお天道様は拝めたが、なにしろ寝正月であるから、引きこもりのごとく、部屋でダラダラしていたら、だんだん頭がおかしくなってきそうになったので、六本木シネマに映画を見に行く。「K-20 怪人二十面相」をなぜか観てしまった。イマイチであった。帰宅後また眠れず、そのまま今に続くわけだが、近所の喰いもの屋、マーケットなど軒並み閉っており、ウエッブにて24時間営業のマーケットが神泉にあることが分かり、深夜そこに買い出しに行き、今カレーをつくっている最中だ。このカレーで何日かしのげば、徐々に近所の食べ物屋もオープンするだろう。三が日の夜中につくるカレーは、また、そこはかとない寂びしみと、独り身の充足感を同時に味わえる味となるだろう。正月の定義ということを考えてみる。日本中がほっとする次期には変わりないだろうが、それも自分の年代と、家族の状況にもよるだろう。僕が子供の頃は、新橋に有ったおばあちゃんの家に集まって、親戚、従兄弟、勿論、お爺ちゃんおばあちゃん、両親を含め、手作りの御節を食べつつ、かるた、おとしだま、羽根つき、その他諸々、新春にふさわしい盛り上がりが有ったが、今現在、両親も年老いて、お爺ちゃんはとっくになくなり、おばあちゃんは5年ほど前、105才(!)で鬼籍に入った。思い出が無いよりはマシだとは思うが、あの頃のお正月の雰囲気を今再現するのは非常に難しいこととは知ってはいながら、親戚一同が集まるといいった行いが近年行われなくなって久しくなると、やむおえず、僕も夜中にカレーを調理しなければならなくなる。味気ないと言えば味気ないが、逆の意味で一人で居られるという得点も有るのである。忘年会、新年会は誘われることに喜び半分、めんどくさ半分で、呑んでしまえば、年末もへったくれも無くなる。年越し蕎麦は、近所の蕎麦屋にテンプラ蕎麦を出前してもらったが、この近所の蕎麦屋、旨くもないが不味くもない蕎麦を提供する店で、出前だった為、出前された時点で、天ぷらが皆ツユを吸いべちゃべちゃになっており、まあ、納得して喰うしか無いかなといったような状態が、器の中に展開していた。まあ、これは日記を書く上でいえば逆順の大晦日の出来事であり、正月を迎える前の出来事ではあるが。今、僕の腕時計は既に六日の午前五時。不健康な深夜放送の映画も、特別番組も終わってしかるべき曜日に行き着いた。そろそろ、精神身体共に本当の意味で、起きなければなるまい日が近づいている。充分休んだから、明日から本格的に音楽活動を始めるつもり。まだタイトルが決まっていないが、拙書「白鍵と黒鍵の間に」(小学館)の続編が、今年四月には出版予定。音楽活動に於いても、菊地成孔氏とのデュオのCDが3月中に発売される予定。まあ今年も、例年のごとく、一寸先は闇ならぬ、一ミクロン先は漆黒でしかないミュージシャンとして、生き残って行くつもり。皆様。応援お願いします。
某月某日
しつこいようだが、僕の新連載が、扶桑社刊、EN-TAXI、12月26日発売の号から掲載される。タイトルは、「六本線の五線紙」。責任編集に、福田和也、坪内祐三、リリー・フランキーとあり、駄文を載せるわけにはいくまい。これから八回程度の連載になる模様。一冊本を書いて、このような雑誌に連載を許される事自体、自分ながら不思議なり。ジャズの世界より、文章の世界の方が、風通しは良いとみた。喜ばしいのか哀しいのか。興味のある方は読んでみてください。
某月某日
拙書「白鍵と黒鍵の間に」の続編を書き終えた。次回は留学先ボストンで起きたあれやこれやを面白おかしく書いた本である。少しながらアメリカ文明批評のような事も書いている。発売は来年三月の予定。請うご期待。
某月某日
師走である。多分昔から、えらい先生でも、走りまわざるをえないような時期だったので、このような言葉が生まれたのだろう。師ではない僕も、何やら身辺がさごそと忙しく、また日記を書く暇がなかった。ウエッブのトッピックスの欄にも宣伝を書いたが、扶桑社刊、EN-TAXI、次期26日発売から、何回かに分けて、連載を持つ事となった。タイトルは、「六本線の五線紙ーあるジャズピアニストの心的探訪」。興味のある方は是比この雑誌をチェックしてみてください。師走と言えど、僕の生活態度はいまだ変わらず、明け方まで起きていたり、夜11時に床に入ったり、まったくもって、自らの整体リズムを破壊しているような日々を過ごしているが、これもいたしかたない。ピアノを教えたあとは疲れるし、自らの練習の時間、または文章を書く時間は深夜二時から四時が一番適しているので、人生自体のリズムがこのような仕儀とならざるをえない。なぜかと言えば、この時間帯は、電話もかかってこず、何やら世の中も、東京の真ん中にすんでいるにも関わらず妙に静かで、集中できるからに他ならない。そういう日が続くと、ある日寝る時間が一回転して、午後11頃床にはいる日もあるのだが、毎日そうだというわけではないので、不規則には変わりあるまい。中学生の頃、健康という事について習った憶えがある。曰く、社会的、肉体的、精神的に健康でないと健康でないという、何やらパラドキシカルなことを体育の先生が言っていた憶えがある。しかし、この三つの要素を充分に享受している人というのは、いったいどんな人物であろうか。この不況時、明るく元気にいつも公平な判断を下す精神と、規則正しい、早寝早起きを毎日くり返し、本当の意味で正しく税金を払い、社会から、人間関係からのストレスはまったく感じなく、何らかの意味で社会の中に於いて人の為に鋭意毎日働いている。しかしなあ、こんな人本当に居るんだろうか。もし居たとしたら、多分そいつはヒットラーユーゲントの一員みたいな奴だと僕は思う。人間はそう単純にはできていないのではないだろうか。全体主義、ファシズムでない限り、こういう人材は多数ではない。というか、多数でない事を望む。こういう人が多数だと、世の中変になるに決まっている。まあ、僕の例は、あまりにも極端だけれども。ここで宣伝です。12月20日、横浜DOLPY http://www.dolphy-jazzspot.com/index.htmlに、あの与世山澄子様(VO)が降臨します。天使の羽根を、背中の一部にそっと隠して。幸運にも、僕がピアノで伴奏担当。他の共演者は、鈴木正人(B)津上研太(sax)という布陣。天使の声を聞きたくば、是非聴きにきてください。健康、不健康を通り越した何かが、彼女の歌声から聴き取れる筈です。うっ、突然眠くなってきた。僥倖だ。また何とか近いうちに日記を更新するつもり。
某月某日
本日、携帯電話を買い替えた。今までのもので何ら支障はなかったのだが、充電の差し込みの部分がぐらぐらしており、更に、長年使ったゆえ見た目もみすぼらしくなってきたので、心機一転ということである。と簡単に書いたが、新種に買い替える際に、僕の持っている携帯電話の機種のサーヴィスセンター(これで名称はあっているのか。あれらの店は、要するに電話屋か。)に行き、機器を買い替えるということは、相当大変なことだということがわかった。まず、サーヴィスセンターの女子職員が、新しいらしい携帯電話の機能などを説明してくれるのだが、全然理解できない。前回の機種を買ってから二年、何やら便利なんだか余計なんだか良くわからない機能が、新種の機種にはこれでもかと備え付けてある。ワンセグが付いておりますと言われ、ワンセグって何ですかと問うと、テレビが映った。ワンセグというのはどういう意味かと問うと、先方答えに窮す。ワンセグ、はい、テレビのことね、ほかにこの機種にはどういう新しい機能があるんでしょうとまた問うと、何やら棒読みのように色々と説明を始めるが、先方の言っていることの20%ぐらいしか分からなかった。とにかくメールと電話のかけ方のみを正確に問いただし、あとは説明書を家で読めばいいやと思ってサーヴィスセンターを後にした。道すがら、ワンセグとはどういう意味かということが気になりつつ家路を辿っていたら、ああ、SEGMENTのことかと腑に落ちた。この断片や部分というこの単語には、テレビ放送の番組という意味もあるらしい。話しはそれるが、つい最近まで僕は、アラフォーという言葉を理解できないでいた。何やら新種の深海魚の名前のように思えて、それがいたって珍味であることが分かり、皆でそれをきそって食べているのかと思っていたくらいだ。最近何かのきっかけで「Around Forty」の略だと知った。黒人のラップミュージックも、著しく英語というものを、小気味よく破壊しているのだが、この日本的な言葉の凝縮のしかたは、また別種の破壊力を持って、英語を杜撰な日本語にしている。まあ、元々、日本語も、外来語の寄り固まりといえばそれまでだが。しかし、何か昔とは違った語彙の扱い方であると思う。要するに雑だ。どうあれ、アラフォーの女がケイタイワンセグ見てた、なんて言葉も生まれてくるのだろう。言葉はその時代時代に合った様相を呈するもので、別に僕が文句を言う筋合いではないけれども、少なくとも、外国語を日本語に導入する部分で、なんだか粋でない気がするのは僕だけだろうか。アラフィーは携帯操作が分かりませんなどと使われるようになるのであろうか。話しを新しい携帯電話に戻す。帰宅後、箱を開けてみれば、思ったように説明書の束だ。「着デコ」「おサイフケータイ」などの文字が、僕の目の前を通り過ぎたが、読む気など全然起らない。金田一春彦でなくとも、このような日本語に、理由無き拒否感と、或る一種の哀しみが伴うのは、僕の年齢のせいだけではないと信じたい。基本的な取扱説明書も、以前と比べ、イラストなどを配し、工夫のあることは認めるが、やはり、最終的に何を説明しているのか良くわからない。説明書を読まずとも、テレビが映り、辞書も付いていることはわかる。いわゆる満艦飾である。イージス艦の戦艦大和みたいだ。しかし大和は沈んだ。携帯電話は沈まぬとも、利用者の方が、心理的に、ゴムボートに乗って漂流している感があるのではないか。僕の新しい携帯電話は、海外仕様OK、説明書を見ずとも、送信、着信は何とかできる。メールも同様。ただ、急に、会話の内容が外付けのスピーカーから鳴り出すことあり。相手の声が聞こえても、こちらの声が聞き手に聞こえないこと多々あり。一つの提案。少なくとも、ある程度まで、大人の使える携帯電話を開発してくれぬか。老人の持つシンプルだけが売り物の携帯電話だけでなく、世界の文豪の恋愛小説にでてくる、いわゆる殺し文句がボタン一つで表出するような携帯電話を作れば、老若男女売れること間違いなしだと思うのだが。そのフレーズが、どの小説の孫引きかを言い当てる女人は、相当の優れ者と、また逆に判断できるではないか。サマーセット・モームの箴言などを、簡単に取り出せるボタンを一つ装着すれば、日本における携帯電話の存在価値自体が変わるのではないか。なんてね、これも全て、真夏の世の夢か。
某月某日
PIT INN、3DAYSが終わっても、何かと忙しく、また日記をおろそかにしてしまった。書くという仕事が増えたことは前にも触れたとおりだが、ただ書けばいいってもんじゃないとうことを思い知らされる日々が続いた。まあ、これが日記の延滞の理由になるかどうかは分からぬが。どうあれ、大げさに言えば、人生というたこつぼの中で、色々なところに触手を伸ばし、その先が、さきイカにされたり、おでん種になったり、たまにはその触手で、何かしら今行っている音楽活動に有益なアイデアを掴んだりしているのである。一進一退、八勝六敗、これらの体勢を少なくとも維持していられれば、自分自身の未来はあるということか。今回の日記は、PIT INN 3DAYS後の、僕の活動に関わることを書き表すわけだが、これといって進退窮まる事柄も起きなければ、眼球が一メートル先に飛び出すような僥倖もなかった。今晩は、日記を書きたい気分なので、身辺雑記を書こうかなと思う。本当はエッセイというもの、モンテーニュの言うとおり、「試論」でなければならず、別に日々特別なことが起らなくとも、人間が何か考えている限り、書けることはたくさんある。ただその書いたことが、特徴的かどうか否かということだけが重要な視点のような気がする。だが今晩は、そのことを忘れ、日本で言うところのエッセイ、身辺雑記に徹してみようかと思う。過日、吉祥寺で演奏も為、井の頭線に乗る。帰宅者あふれる午後6時過ぎの電車の中は非常に込んでいる。なるべく電車の中側へと移動していたら、優先席という座席の真ん前に立つ仕儀となった。僕は電車に乗る際、必ず本を持参するのだが、その日は適当な本が見つからず、珍しくも、電車内の辺りの景色を見渡していた。そこで優先席に座る条件が書いてある活字に素早く目がいった。優先席に座る条件は、老人であること、妊婦であること、体が不自由な方であること、などが主な理由として書いてあった。まあ、ニホン人が考えそうなことだなと思いつつ、ふと電車の窓を見ると黄色いシールが貼ってある。そこには、ものすごく間抜けな字体と字の大きさで、「おもいやりぞーん」と、この字のごとく、全て平仮名で表記してあった。井の頭線は、度々お世話になっている電車だから、あまり文句は言えなと思うけれども、この標語、語感が悪い。読み方によっては、「おもいやり損」という語感が頭に浮かぶ。しかも、英語で言う所のZONEとは、地域、区域といった、もう少し広大な場所をさす語感が僕の中にあって、たかだか左右八名ほどの人間をある意味保護することには向いていない言葉に思えた。老人にも色々な人がいる。かくしゃくとした老人に優先席に於いて席をゆずろうとしたら、「ワシはまだそんなトシではない!」と拒否されることもあるかも知れぬ。これこそ「おもいやり損」である。全ての席が、「おもいやりぞーん」になることを望む次第だ。PIT INN 3DAYSが終わってあたふたしていたら、もう11月末である。歳をとると時間の流れが速くなるというが、さもありなん、僕の中での時間は、相当ゆっくりすぎている。これは毎日やることが多いというフリーランスの定めから来るものなのか、はたまた、自分の脳がそういうふうなデキなのか。大きいイヴェントを終わらすのも、大変な労力を必要としたが、言い換えれば、毎日がイヴェントのようであり、関係各位に連絡を取り、何とか世の中に存在すべく格闘しているというのが、正しい見解に思えてならぬ。時間は無限だが、僕の持っている時間は無限ではない。かといって、せこせこしても、物事は上手く前に進まぬ。どうしたらいいんだろうなあ。さて、久しぶりの日記を書き終えた。練習でもしよう。
某月某日
やわな身辺雑記を書いている暇もなくなった。書くことの悪い面ばかりを喧伝していてもはじまらぬ。音楽活動も忙しいのです。来る11月1日(土)2日(日)3(月)、新宿ピットインにて3DAYSを行うことになりました。僥倖です。くわしくプログラムの内容を述べますと、1日、REUNION、菊地成孔(SAX),水谷浩章(B)、芳垣安洋(DS)という布陣。2日(日)TRIO、吉野弘志(B)、芳垣安洋(DS)という豪華さ。3日(月、休日)GO THERE! 竹野昌邦(SAX)、水谷浩章(B)、芳垣安洋(DS)という信じられなさで、三日間、新宿ピットインにて演奏します。タイトルは「Pianoholic Nights 2008」。何事かにAddictiveなのはなにも、酒やタバコと活字だけではないと、僕の本業をまさしく定めるため、このタイトルを付けたんであります。なんて大仰なものではなくて、やはり僕はピアノを弾くことが好きなのです。そう、このタイトルで、もう既に何回か、3DAYSをやってきました。最初は、Pianoholic Nightsのあとに、VOL,1、VOL2とナンバリングしていましたが、さすがこのミナミヒロシ、今現在何回3DAYSをやったか忘れてしまったので、2008とした次第です。こういう風に書くと、あんたはそんなに3DAYSをやってるのか、と言われそうですが、たいした回数はやっていません。ただ、たいした回数さえ忘れてしまうというところが、さすがこのミナミヒロシなのです。自分のイメージの中に残っているもの意外は、記憶になくなってしまう,こういう発言をすると、過去の3DAYSの演奏が、あまりよくなかったような印象を持たれる方もありましょうが、そこが違うのです。演奏のことはよく覚えている。特に音楽的に素晴らしい瞬間のことは忘れません。ただ、その瞬間を味わったのが、VOL何回目か思い出せないのです。まあ、これでも二つのバンドのリーダーなのですから、サイドマンの苦労を思うと申し訳なくてしょうがないのですが。ということで、とにかく僕はメモ魔で、手帳に全部、仕事の必要事項は書き込むようにしています。話しがそれました。3DAYSの宣伝の文章を書かなくては。1日(土)を「REUNION」と名付けたのは、理由があって、アメリカ帰国後、最初に選んだHIROSHI MINAMI QUARTETのメンバーは、実はこのメンバーだったのだ。だが、どういういきさつか忘れたが、フロントが竹野氏に変わった。これは、誤解を招かぬように書いておくが、僕が菊地氏とケンカしたとかそういうことではなくて、何かの加減でそうなったということです。あの当時から菊地氏は超多忙だったということも理由かもしれない。仲が悪くなったのではないことは、帰国後の菊地氏との演奏活動など考えくれればお分かりだと思う。特に、EWEから出したTRIOプラスSTRINGSの二枚のアルバム、「Touches&Velvets」「Elegy」は、菊地氏のプロデュースによるもので、菊地氏のプロデューサー能力を遺憾なく発揮した音楽です。また話しがそれました。つまりREUNIONとはそういう経緯で付けた名で、勿論メンバー全てが、僕の帰国当時、1994年頃から比べれば、活動範囲、音楽性、その他諸々比べようもないくらい有名になっていますが、今ここで、この四人が集まることは、ある意味大きな祝祭性があると思い、3DAYSの最初の日に、このメンバーで演奏することにした。さて2日目のトリオ、普段から憧れていたベーシスト、吉野弘志氏と演奏することとした。前回の日記に書いたとおり、先日松風鉱一氏のライブレコーディングで一緒に演奏したばかりだ。サロンコンサート形式だったので、録音は全て生音で行われた。僕のすぐ右後に、吉野氏が演奏しているという状況だった。モニターなどを通さずに聴くそのベースサウンドは、非常に手堅く、柔軟で、しかもソフトにピアノのサウンドを包むような度量が感じられた。このベースサウンドと芳垣氏のドラミングで、EWEから発売中の「Like Someone In Love」のレギュラーメンバーとはまた違う、ステキなトリオサウンドが出来上がること請け合いである。そして、3日目のGO THERE!、もう既に、このメンバーになって10年近く演奏している。ジャズの弱点であるバンドサウンドというものに固執したくて、上記のメンバーを集めた。メンバーが集まらない時は演奏の機会があってもやらなかった。その繰り返しがもう10年近く経ってしまった。お互いが、音楽的にも、人間的にも、カッテ知ったる仲となって久しいが、まだまだ演奏の内容は煮詰まらない。思うに、竹野氏、水谷氏、芳垣氏が、ほかのバンドで演奏して得たエッセンスを、充分僕のバンドに注ぎ込んでくれているからだろうと、感謝の念は絶えない。ある意味、3日目も、普段はお客さんにお目にかけられないようなメンバーと内容とで、何か演奏しようかと目論んだが、もう既に、僕にとっては、1日、2日がそういう内容なので、あえてど真ん中の人選とした。GO THERE!というバンドそのものが、既に僕の肉体の血肉に近い部分まで浸透していて、3日目は、その血肉に近いメンバーと演奏することが、よきフィナーレとなるとも思った。よく考えれば、出世したものだ。アメリカに行く前、新宿ピットインの朝の部で、ああでもないこうでもないと演奏していた時期が懐かしい。あの頃から幾歳月、素晴らしい仲間を得て嬉しいかぎりだ。いずれにせよ、また3DAYSのことに関しては、続報を書くつもり。皆様是比聴きにきてください。
某月某日
最近、書く仕事が増え、昼夜逆転気味だということは、前の文章にも書いたとおりだが、これを正常なサイクルに戻そうと思っても、夜中になると筆が進むので、戻せないでいる。いわんや、昼夜逆転の先の境地もあるということに最近気付き、愕然とするとともに、自分自身が不気味な存在に思えてきた。昼夜逆転のその先は、深夜明け方昼間逆転という、もはや、この地球に住んでいる実存は、重力のみにしか感じない、という恐ろしいもので、つまり、地球の自転とは、とうにオサラバしてしまっているということだ。ここまでの状態になると、しっしんもびっくりしたのだろうか、はたまたしっしんを感じる神経まで麻痺したのか、痒くても痒くない、という、なんだか良くわからない体感さえあって、この体に対する借金のぶり返しがどう来るのか、気味が悪くてしょうがない。いずれにせよ、この状態を、朝日が上がる時間に起床するという、いわゆる人類が何万年も実行してきた、地球との良いお友達関係に戻すには、まず今の状態から、昼夜逆転まで生活態度を戻し、後、正常に朝起きるという二段構えのプロセスを経なければならなくなった。困ったものだ。または、いまひらめいたのだが、このまま、深夜明け方昼間逆転を突っ走り、突き抜けてしまえば、ガラガラポンの一回りで、カタギの方々と歩調を合わせる状態になりはしないかと、あらぬ期待が無いではないが。いずれにせよ、こうまで正常な時間感覚とずれてしまうと、多分正常に齢をとることもかなわず、時間という概念も飛び越して、一種、不健康な不老長寿のような状態になるのではないかと、ぼんやり妄想したりする。まあ、妄想癖が無くては、文章など書ける筈もなく、話し自体がここでまた自己矛盾を来すのだが。ですが、仕事関係の皆様、前回に書いたような遅刻は、いままでほとんどしたことがないのです。演奏の仕事などには遅れぬよう、様々な手配はしてありますので、誤解のなきよう。
某月某日
最近、夜中に文章を書く仕事をしていることが多く、ことにこのごろは昼夜逆転気味だ。そんな日々の中、既に昨日の出来事となってしまったが、松風鉱一氏(SAX ,Flute)吉野弘志氏(BASE)と、津田沼にある個人所有のステキな小コンサートスペースにて演奏した。演奏そのものは、ピアノの状態が非常に良く、とても満足のできる出来だったが、この仕事の出だしがまずいけなかった。JR津田沼駅午後12時集合という約束を両氏と交わしていたのだが、なんと僕が津田沼駅に到着したのは、午後2時半すぎ。冒頭に書いた通り、ある意味昼夜逆転の生活をしているので、集合時間が決まった後、これは、ベッドの横にあるおんぼろ目覚まし時計では絶対遅刻すると悟った僕は、数人の女友達、はたまた僕の妹まで利用して、各々、朝の9時、9時15分、9時半と微妙に時間を分けてモーニンングコールを頼んだのであった。これならさすがの僕でも起きるわいとタカをくくっていたら、仕事の前夜、強烈なる不眠に陥り、少しウトウトしたのが朝の7時。後、計画どおり、数人の天使達からのラブコールならぬモーニングコールで目が覚めた。さあ、シャワーでも浴びて、と思った瞬間の後の記憶がまったく無し。これがなぜだか分からない。とにかく、ふと気がつくと、ベッドに上半身を乗せ、下半身はかしこまっているという状態の自分自身が目を覚ましたのは、なんと午後1時半であった。さすがの僕も戦慄に近いショックを受けた。こう見えても僕は、滅多に時間には遅れないタチなのだが。ああ、やってしまったという後悔の念とともに、とにかく家を飛び出す準備をしつつ、松風氏に携帯で電話をかける。当然のことながら、松風氏の着信は6回を超え、僕の携帯にその痕跡がある。「松風さん、すいません、寝坊しました」「まだ家なんだろ」「そのとおりです」「じゃあねえ、津田沼についたら、また電話して」なぜ僕が、半眠状態でアラーの神に祈るポーズをとっていたか、自分でも分かりかねる。とにかく、3分で外出の準備をし、電車に飛び乗った。新宿駅で総武線に乗り換え、電車の運転手が、津田沼駅まで暴走運転してくれることを妄想していたら、再度また、不覚にも車内で眠りこけ、気がついたら船橋駅をすぎた辺りであった。危ないところだった。もう少し居眠りが長く、津田沼駅をとおりこしていたら、タクシーハイジャックを敢行していたことは間違いない。津田沼駅をでて、松風氏に再度携帯で電話をしたら、タクシーで、○○小学校バス停まで来いと言われたので、急いでタクシーを拾い、バス停まで行ってみたら、今回のコンサートを企画した方が僕を待っていてくれた。オソレオオイ。そうだ、今日は、演奏を録音するのだということを思い出しつつ、やっと演奏会場に到着。なにしろ松風氏、吉野氏とも年上で、先輩に当たり、今回僕のやらかした遅刻という概念を大きく通り越したこの体たらくは、許されるものではないと思い、最大限のお詫びを両氏にしようとしたのだが、お二人とも、僕に向かって、笑顔をもってして、「やあ、今日はよろしく」などと言ってくださる。怒られるものだとハナから覚悟していた僕は、両氏の度量の広さと、本物の大人がもつ優しさにすくわれたということだ。録音の前に、スッタモンダしてもしょうがないと思われたのかもしれないが、とにかく、僕がその場ですました顔をしていられる雰囲気を、ご両人は無意識に演出されていたのだろう。何が一番大切かを見極める大人の目がなければ、こうはモノゴトは運ばぬもの。両氏に頭が下がるのみ。いずれにせよ、僕がその一軒家で行われるホームパーティー形式の録音をかねた演奏場所に到着したのは、午後3時であり、演奏開始は午後3時半からであった。我ながら、悪運強いものよのうなどと、独り言つを内心で唱えている暇もなく、演奏曲の打ち合わせとなる。演奏まで時間は30分もない。見たことも演奏したこともない曲がずらりと並んでいる。松風氏のはしょった説明でだいたいの道筋を見極るよう努めた。僕が定刻にこの場に参上していれば、もっときっちりとしたリハーサルができた筈である。両氏に再度、申し訳ないという思いがつのるばかり。しかし、それだけでは良い演奏はできないから、この場合、ぶっつけ本番で演奏したが為に良い結果がでるような、そんなプレーを披露しなくては、僕の存在意義が無くなる、と思いつつ、ちらちらと譜面に目を通していたら、すぐ演奏時間となってしまった。起きてからなにも食べてないゆえ、頭の動きが少しニブい感じがしていたが、ホームパーティー形式の小コンサートならではの、演奏後食べるのであろう旨そうなものが散見される。しかし、僕には、この大遅刻の後、二人の大先輩を差し置いて、つまみ食いをする度胸は無し。気がついたらピアノの前に座っていた。広いスペースではないので、ピアノ、サックス、ベース共々生音で、林立するマイク類は、録音用のものだけである。畢竟、ダイナミクスに神経を配らねばならぬ。ともかくも、一曲目の第一音を鍵盤で押さえた瞬間、これはいけると思った。なぜなら、そのピアノが、あまりにもコンディションが良かったからだ。調律、タッチ、アクション、そして最も大切なこと、それは、そのピアノが鳴る楽器であったということだ。大遅刻のポカを巻き返すには、別段遅刻しなくても同じ事ではあるが、演奏にて、そのマイナスをなんとか巻き返すしかない。松風氏のシブいフレーズの間に間に、スコーンと刺激的なコードを挟み、奥深く、手堅いプレーをする吉野氏のベースの音色にマッチした、繊細で、刺激的なコードを、吉野氏のソロ中で、またスコーンと弾く快感を味わいつつ、見も知らぬ新しい曲をどんどんこなして行く。一曲終わるごとに、松風氏の奥さんが曲の注釈や、ジャズという音楽の成り立ちについて、集まったお客さん方に、易しい説明を加えるという趣向もあった。特に、セカンドセットの始まりには、自著、「白鍵と黒鍵の間に」(小学館)の宣伝までして頂き、頭の下がる思い。演奏曲は、全て松風氏のオリジナルであり、曲ごとに、こちらの演奏のアプローチを変え、時にはパーカッシヴに、時にはメロディアスに、時には充分サックス、ベース共々ソロの間に弾く音数を増やしたり減らしたりして、しかもこれらのことを、無意識的に工夫を凝らすことに、この3人で演奏する妙味ありと、勝手に決めてピアノを弾いた。アンコールが終わり、僕の遅刻という事態が、人々の頭から消え去ったと自分自身で思い込み、供された美味しい食べ物に食らいついて酒を呑んだ。松風氏も吉野氏も、とても嬉しそうだったから、演奏はうまく行ったのだと、自分自身でそう思い込みつつ、くつろいでいたら、持参したCDや本が思いのほか売れて、嬉しいかぎり。久しぶりに、色々な種類の総菜というものを一度に食べてしまい、僕にとっては奇跡的なことながら、眠くなったので、午後9時半頃、その場をおいとました。今回の録音は、上手くすれば、Studio Weeというレーベルから発売予定だそうである。まずは、今回の演奏のミックスを聴くことから始めなくてはならないだろう。大遅刻の後の帰途は、ある意味気軽なものであり、その意識がてつだってか、津田沼駅から乗車した総武線の中で、また居眠りをコイてしまった。ふと目が覚めたら荻窪駅だった。僕の帰る駅は恵比寿駅であり、新宿を通り越してしまったということである。この禁治産者以前の行いを、自らがどう判断すれば良いのだろうか。這々の体で家に帰ったのが午前12時近く。津田沼駅をでた時刻は確か午後9時半過ぎである。イッタイ何をやってるんだか。いずれにせよ、今回の録音状況が、良くなかった場合、僕の、人間としての存在価値はほとんどゼロになってしまう。早く今回の録音の結果が聴きたいし、知りたいと思うのは、つまりは、こういった理由からであるが、近い将来、発売という段階までいけば、またこのウエッブにて宣伝しますので、これらの我が禁治産者ぶりを思い浮かべながら聴いて頂ければと思います。だってその方が、聴いてて面白いでしょ。ということで、今はまたお得意の時間。つまり午前5時。できれば、読者の皆様も、明け方にこの一文を探し当てたという気分で読んでみてください。きっと次回のCD発売が、待ちきれないものになりますよ。
某月某日
前の日記で、試しにしっしんの窮状を訴えかけたところ、何人かの方々から、とても優しく丁寧なお返事がありまして、良い皮膚科について貴重な情報を寄せて頂きました。皆様、本当に感謝しています。その情報を元に、医者を変えてみたら、一時よりは快方に向かっております。皆様、どうもありがとうございました。体調も何とか持ち直してきたと思ったら、演奏するという僕の人生の主題に、文章を書くということが新しく別の意味での主題となってきて、ここでしっしんなどにかまけているわけにはいかず、まあ、先に進むしかないということです。その一例が、演奏のブッキングに関して、もう既に、来年の三月のスケジュールを聞かれるような、もう鬼の笑う暇もないような状況になっていて、と言っても一本きりですが、何となくせわしないことには変わりない。手帳には今年末のカレンダーのページしかなかったので、文房具屋で、2009年のカレンダーのページを購入。パラパラと、買ってきたばかりのカレンダーのページをめくると、勿論のこと、なにも書き込まれてはいない。これらのページが、来年はどういうスケジュール、もしくは仕事で埋まるのか、言い方を変えれば、埋めていかなければならないのかと、しばしある種の感慨にふけってしまいました。多分また、波風の多い、多難な日々となるのでしょう。カレンダーに設けられている日々の升目は、真っ黒になるのか、はたまた空欄の多いものとなるのか。まあ今までよくぞここまで一人でやってきたと、たまには自分を認めておかないと、先が思いやられるのみだ。今までもそうですが、慎重に、そして無軌道にハチャメチャに、やり続けて行くしかないのでしょう。そうしかやり方を知らないし、特に僕のような身分のものは、一寸先は闇ならぬ、一ミクロン先は漆黒という状況で、間々々自分自身の舵取りをしていかなければならないのだから。こういう状況で長年善し悪しは別にして生きてきたので、気鬱になることもありますが、気鬱になっても状況は変わらないので、何とか発想の転換をしつつ、シノイで行くしかありません。まったくなんてえ人生だ。ちなみに、3月の仕事というのは、津上研太(SAX)ひきいるBOZO の新譜発売記念ライブをピットインで行います。また詳しい情報は、追ってこのウエッブにてお知らせしますのでどうかよろしくお願いします。
某月某日
ひと月前ぐらいから、体中にしっしんが出て、往生している。減感作療法など、いくつかの治療法があるようだが、ネットで調べても、あまりにも情報がお多く、どこの医者に行けばいいか分からない状態である。そこで読者の皆様にお願いがるのですが、どなたか良い皮膚科を知っていたら紹介してもらえませんか。実は近所の皮膚科には既に通っているのですが、投薬、塗り薬等、あまり効力を発揮しません。どなたかよい病院、医者などご存知でしたら教えてください。尚、仕事が忙しいため、通院しやすい恵比寿、渋谷近辺がいいのですか。どなたか心当たりはありませんか。
某月某日
一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに土砂降りという天気が最近続いて、なにやら台風の来なくなった我が国土に、異変ありきと思う時、どれもこれもつまるところ、人間の所行に他ならないという思いがかすめる。もし未来というものが存在するならば、今のこの時代を、100年後の人はどういうふうに歴史に刻むのか。戦争もないのに、自殺者は年間三万人を超えるという。衣食中足りても、我々人間はどうも御せない生き物の様で、思想も宗教も、我が国では上っ面のもののようだ。島国であるが故に他国が困難に直面している移民問題や国境紛争など、何とか我が国は避けることができる問題であるようだが、これも時間の問題で、いずれ同種の問題は起ってくるのであろう。おかしな気候も、おかしな政治も、どうも僕には必然とは思えず、わざわざ人間自らが、最初から分かっていながら起している災害の様に思えてならない。巷では、ポシティブシンキンング、前向きにモノゴトを考えるなど、無責任なことを言う人が多いようだが、全ての国民が前向きにモノゴトを考える国家は異常だ。不気味でさえある。まあ僕がいる限り全ての日本人がそうなるとは限らないことは保証するが。気候の合間に挟まると、妙なことを考えてしまってどうもいけない。
某月某日
ラジオの収録に行ってきた。文化放送、「浜美枝といつかあなたと」というラジオ番組だ。放送は、9月28日の午前10:30~11:00。なんだか、わけの分からないことをべらべらしゃべってきたが、内容を知りたい方は、以上の時間にどうぞ聴いてください。浜さんは、さすがもとボンドガールであり、とてもエレガントな方であった。話しの内容は、だいたい僕の著書「黒鍵と白鍵の間に」(小学館)の内容からのことが多かったが、浜さんの巧みな質問に翻弄されて、何やらいらぬことまでしゃべってしまったような気がしているが、もはや、何をしゃべったかは記憶にない。ここのとに関わらず、僕はどうも、過去のことはすぐ忘れる傾向にあり、そういう部分が女性には不評である。何故過去のことをすぐ忘れるのに本なんか書けるのかといわれれば、これはこれでまた違う理屈が成り立つ。つまり、物事をイメージとしてとらえられることは、何故だか忘れない。そのときの会話内容を含めて。イメージとは理路整然としているものではないが、その事象にまつわることがイメージ化しやすい場合、その事象の中での会話も覚えていられる。ではどういうことをイメージとして頭の中に保っていられるかといえば、これはもう雰囲気と言うほかない。イメージしやすい事象を取り巻く雰囲気が、僕の何かしらの感性にひっかかれば、それはもう既にイメージ化されているということである。特に、音楽そのもの、または音楽に関する周りの事象がイメージ化しやすく、その他のことは記憶に残らない。まあ、こういう極端な僕の欠点を考慮しつつラジオ出演をしたので、放送禁止用語とか、誰それを中傷したりする発言はしていないつもりだが、まあ、楽しい番組になっていようことは推察できる。お時間のあるい方は、ラジオを聴いてみてください。
某月某日
また長らく、日記の更新を怠ってしまった。諸事雑用、ピアニストも、クリーニング屋に己のスーツを自らの手で持って行き、ゲリラ豪雨を縫って、洗濯をしなければならぬということである。あまり私生活のことをあからさまにすると、少数の人が幻滅するやも知れぬが、事実なのでしょうがない。今晩テレビを見ていたら、福田首相辞任の報。この日記はあまり政治問題に触れるつもりなく書いているが、つまりグウタラでノンポリの僕の日記だからというスタンスで書いているということだが、やはりどうも解せぬ。福田首相(前首相と書くべきか)は、首相を辞めるというが、政治家という家業自体はヤメナイんだろう。首相を辞めるということ即ち、政治家を辞めるということなのか。いずれにせよ死ぬまで喰っていける人である。ヨイヨイになっても家族に負担かけることなく、メシが喰える御仁であろう。僕がピアニスト廃業宣言をしても、ああそうですかと言われるだけだろうが。体の続く限りピアノを弾くしか生き延びる手段なし。福田首相もキツい仕事を担っていたんだろうが、ヤメることができて、しかもメシが喰えるというのは、何とも恵まれた御仁である。父親の資産もあるだろうし、別にヤメてもメシが喰えるんだからヤメられるんだろう。色々と複雑な問題があるのだろうが、途中で首相の座を投げた奴は全財産没収という法を制定してはどうか。まあ、そうなったって、福田首相には痛くも痒くもない話なんだろうが。どうあれ、飯を喰える奴は強いなと思った。バンドマンは気楽な部分もあるが、メシ喰うのに精一杯である。ヤーメタと言った時点で、少しかすっていた世の中との接点もなくなる。しかも、福田首相の収入は税金である。僕の収入はライブのお客さんの数である。元々比べることがナンセンスだが、今度からは、喰えないでオッツコッツの政治家を皆で選んだらどうか。そう簡単に仕事を手放すようなことはしないと思うが。組閣するという行為にイッタイいくらかかってんだろう。福田首相は、別に個人的怨恨はないけれど、ヤメたことで無収入になるのでしょうか。良くわかんないな。日本の政治は。まあ、一介のバンドマンがノタレ死のうが生き残ろうが、日本政府には知ったこっちゃ無いことなんだろうけど。人生に余裕があるということは、役得ですな。まあ、言ってみれば、当分、僕はピアニストヤメませんから。ご安心を。
某月某日
毎日あまりにも暑いので、日記を更新することすら眼中に無いような生活を送っていた。とにかく日々の雑用及び仕事をすることが精一杯であり、他にもとあることで文章を書き続けなければならぬ仕儀となり、日記の文章がおろそかとなってしまった。ここまで暑いと、宗教音痴の僕でさえ、既にこの世自体が地獄なのではないかと思ったりしてしまう。火の海地獄は実際、今この生きている世界に存在しているではないか。しかも世間は喧しい。オリンピックの開会式をちらと見たが、彼の国は、北朝鮮と同じく、マスゲームが好きですな。大げさなものは粋じゃない。家ではほとんどテレビは見ないが、蕎麦屋、定食屋の類いに昼時行くと、必ずテレビで高校野球を放映している。こんなことを書いては、大勢の人に嫌われるのを百も承知で書くが、もう騒ぎ過ぎだよ。タダでさえ暑いんだから。何でこんな暑い中、汗だくの高校生を見なければいけないのか、理解に苦しむ。余計暑苦しいじゃないか。何故この時期に野球なんかやるのですか。秋にやったらいいではないですか。甲子園ではなく市民球場かなんかで。おまけに変なメロディーの校歌もイヤでも耳にするし。日本人は総じてサディストなんだろうな。あんな暑いところで高校生に野球やらして喜んでんだから。高校生の健康状態にいい筈ない。まあ、全てのテレビ局がこれらの放映を中止する必要もないと思うけど、どこか一局でもいいから、エリス・レジーナや、アントニオ・カルロス・ジョビンの映像を、何の解説もなく流しておくチャンネルがあってもいいのになあと思うのですが。ビジュアル的にも涼しいし、浮き世の憂さを忘れるのに、うってつけではないか。まあ、こんなこと書けば、朝日新聞に睨まれるんでしょうな。いずれにせよ、ボサ・ノヴァの番組にはスポンサーがつかないんだろうな。ここまでくれば、オリンピックならぬ、ドリンピックというものも、裏で企画したらどうでしょう。ドーピングしまっくってもOK。気の早い選手は、HONDAと提携して、下半身をロボットにし、つまりミュータントですな、100m5秒とかで走りきるように体を改造する。薬物や人体のロボット化によって、人間がどこまで何ができるかを裏ドリンピックで試してみるのも一考でしょう。その方がスポンサーつくんじゃないのか。いずれにせよ、この時期に、ヤバい事件を起す奴がいても、新聞その他のメディアは、オリンピック一色だから、第一面には乗らない。危険な兆候ですな。タダでさえ暑いのだから、夏はじっとしている方がいいのだと想います。
某月某日
昨晩、渋谷のJZBLADにSteve Kuhn Trioを聴きにいった。ベースがエディー・ゴメス、ドラムはビリー・ドラモンド。とってもとってもとってもとってもステキな演奏だった。世の汚濁にまみれた我が精神と身体が、浄化するようなサウンドを、キューン氏のピアノの音は果てしなく紡ぎだすのであった。派手さはない。しかし、キューン氏にはもう、そんなものは必要ないようだ。そんなものはとっくに過去にたくさんやってきた。私の今の境地はこれだ、と提示されるピアノの美音の数々には、もう既に、枯淡の境地に入った、ある一人のジャズピアニストの道程が示されているようであった。もうそこには、大人の演奏などという陳腐な表現を大きく乗り越えた一人の求道者が、ピアノの前に座っていた。僕がアメリカにいた頃、キューン氏に師事した。貴重な体験であった。ロシアンテクニックというピアノ奏法を学んだ。手の小さい僕にはきつい練習方法だったが、70歳に近いキューン氏が、まだ第一線でピアノを弾いているということは、あながち、ロシアンテクニックを学んだことは間違いではなかったと再確認した。ピアノはKAWAIであったが、ちゃんとスティーブ・キューンのピアノサウンドが楽器から鳴り響いていた。弘法筆を選ばずか。あの境地までいけば、生半なことで調子を崩すということもないということであろう。只々脱帽。このクソ暑い極東の小国にやってきて、なんの遜色もない演奏すること自体、御大の年齢を考えれば、体力気力ともにきついに決まっている。だが、そんなことを微塵も感じさせない音楽を、キューン氏は我々に提示した。真のプロフェッショナルとはああいう芸当をすんなりやらかすということであろう。さらに脱帽。キューン氏のピアノサウンドは、僕の日常についてまわる悩み、腹の立つ世の中の仕組みなどを、全部洗い流すかのようなパワーを持っていた。キューン氏の演奏を聴いている間、それらのことが全て、僕の脳内で、忘却の彼方に引っ込んだ。今晩だけ、僕は自分がピアニストだということを忘れ、ただの一ファンとしてキューン氏の音楽を楽しんだ。CDを買ってサインしてもらった。キューン氏は、ちゃんと僕のことを覚えていてくれて、仕事の調子はどうだ、演奏は定期的にやっているのかと、僕のような者の活動状況まで心配してくれた。優しい方である。買ったCDを差し出し、サインをねだると、「Hiroshi-All the new best ! You are very specialSteve kuhn」と書き込んでくれた。嬉しかった。たまにはこんな一日が有ってもいいだろう。小雨降る東京の街を、空を見上げながら歩いて家まで帰った。ステキな夜だった。
某月某日
東雲、散歩することがある。まるで夢遊病者のようだが、この時間が、いたって心地よい。空気はまだ湿気をはらむものの、午前四時から五時にかけて、この都心でも鳥の声を聞くことができる。空の模様は東雲そのもの。もちろん、深夜にかけて人通りの多い区域に住んでいるが、さすがにこの時刻には、人っ子一人いない。この時刻が、いちばんすごしやすい。世の中は静かで、誰も居ず、夜明け前の明かりのせいか、コンヴィニエンスのライトの明かりも、少し暗くなったようにも見える。今週は、ジャズヴォーカリスト、与世山澄子さんと二回共演した。何たる幸福。彼女のメロディーのフェイクのしかた、そのフェイクの中に温存された本物のフィーリング、伴奏冥利に尽きる。否,伴奏と言っては誤解を生じる。彼女も一つのインストルメントで、僕は与世山さんという、肉体自身の楽器と共演できたということだ。本物のアメリカのにおいがする彼女の歌声。パンチのある歌の出だし、バラードに於けるはかなさ、これ以上は文章では表せない。与世山さんさえ良ければ、また一緒に演奏したいと切に願う。こんなことを考えながら、夜明けの旧山手通り。なぜかカラスは姿を見せず、美しい歌声を持つ鳥達が空を舞っている。しかし姿は見えない。普段はどこに身を隠しているのだろう。与世山さんだったら知っているような気がした。こういう体験ができるのも、不眠症の特権である。さあ、そろそろ寝ようかな。
某月某日
明日は、国立のNO TRUBKSでBOZOの演奏。バンドの核はドラマーであるが、その定義の恩恵をこれほどまでに享受しているバンドは他にはあるまい。外山明氏のブレークビート、または音楽全般に関わるすべてを最高のサウンドにしてしまう化学変化の、その力の弱まった事は一度としてない。オルタネーイェィブとか、主流派とか、中央線ジャズとか、そんなことはどうでもいい事で、水谷浩章(B),津上件太(sax),外山明(DS)の音の行く末は、明日になってみないと分からない。7月11(金) 国立 NO TRUNKS BOZO津上研太(AS) 南 博(P)水谷浩章(B)外山明(DS)http://notrunks.jp/音楽の夜明けは夜やってくる。
某月某日
前回の日曜日、仙台へ演奏に行く。共演者はベースの鈴木正人氏、つまりDUOでの仕事。送られてきた新幹線のチケットをたよりに、東京駅ホームへ。やたらと人が多い。何かイヴェントがあるのか。出発時間15分前に着いたのでスモークしようと思い、喫煙コーナーを探すも、見当たらず。売店のおばさんに聞いたら、ちょうどそのとき僕が立っていたホームの位置からいちばん遠いところにあることが分かった。色々な種類の、おばさん、おじさん、よたよた歩きの子供などを避けながら、ホームの反対側に行き、やっと喫煙コーナーを見つける。そこは、プラスチック張りの小さなスペースで、スモーカーでもういっぱいであった。僕も何とか中に入ろうと、喫煙室の扉を開けると、モアッとした煙とヤニの匂い。愛煙家の僕さえ咳き込みそうなその中に突進し、一本煙草を吸う。何となく、ナチのガス室を思わせる空間であった。違いは、その空間が外側からよく見えること。何とはなしに、僕の頭に、HUMAN ZOOという言葉が浮かんでは消える。ここまで愛煙家が嫌われる土壌、発想、コンセプトは一体どこの誰が考え出したものなのか。非喫煙者が珍しそうに喫煙コーナーの中を覗き込む。なにをやってるんだろう見たいな目つき。タバコ吸ってんだよ!鈴木君と指定された新幹線の席で落ち合う。乗車前になにげに買った産經新聞を読んでいたら、何とまた、僕の本の書評が出ていた。(6月29日の朝刊)早速、編集者や実家などに知らせようと思い、デッキに出て携帯を操作したがつながらず。仙台到着後でもええわいと考え直し、仙台着まで、鈴木氏とバカ話をしていたら仙台に着いてしまった。それまでの窓の外の光景は、雨と湿気で遠望が効かず、醜い景色も、美しい景色も、緋色の暗い彼方になにも見えない。少なくとも、景色を楽しむような旅の役得が得られぬこと100%不可能な天気。仙台駅に到着してみると、今回の仕事を仕切っているSさんが迎えに来てくれた。体の芯から好青年と呼ぶにふさわしいSさん。動きもテキパキとしており、何気ない会話も的を得たこをしゃべる。Sさんにつれられて投宿先のホテルに荷物を降ろし、歩いて30秒ほどのところにあるである,本日の演奏場所、Berkanaに移動。サウンドチェック。雨脚が仙台に着いた辺りから強まった。集客に影響が出ないことを望むばかり。サウンドチェック後、Sさんにつれられて食事に行く。なんだか無茶苦茶雰囲気のいい小体な和風レストランのようなところ。繁華街から少し離れた位置にある。こういう場所は仙台に住んでいなければ分かるまい。鮎などを食す。久しぶりの鮎だ。川魚の宝石。後ホテルに帰り着替える。本番は夜八時半から。Berkanaに十分ほど早く行ってみると、そこはもう、若い人でいっぱいであった。この雨の中をありがたい。曲を決め演奏開始。お借りしたアップライトベースのサウンド良し。ピアノのサウンドも良し。お客のクイツキも良し。ということで、全体の雰囲気も良し。今回売り出し中のCD、「Like Someone In Love」(EWE)で演奏しているスタンダードに加え、新しいスタンダードなど交えて演奏。演奏の後半に、自著「白鍵と黒鍵の間に」(小学館)からエピローグの部分を演奏付きで朗読。自分としては、ポエットリーディングのつもり。文中に出てくる「イパネマの娘」や、「ゴッドファーザー愛のテーマ」に文章がさしかかったとき、軽くこれらの曲の冒頭を弾き、またフリーで怪しげな曲調に戻るといった趣向。今回は、フリーなピアノフレーズの一音一音に、日本語の一言一言を乗せ、早く読んだり、間を空けて読んだりということを試す。どちらも効果的であることが判明。ありがたくも、お客さんの反応はとても良いものであり、Sさんも嬉しそうであった。2セット、入れ替えであったが、どちらも満員。本もCDもよく売れた。僥倖である。後、Berkanaのスタッフ、Sさん、居残りのお客さん、鈴木君などと呑む。僕はハイボール、仙台に住む仲間のピアニスト、Wさんは、ワイン、鈴木君はウイスキーロック。その内、皆の酒がうまそうに見えてきて、僕もハイボールから、ワイン、ウイスキーロックへと移行。アメリカ時代に、名も知らぬバーのカウンターで呑んでいた時、初老の白人が僕の隣に腰掛けたことがある。何となく言葉を交わし始め、その老人は、なんと戦後日本で働いていたことが判明。色々な話をしてくれた。双方帰り際、その老人に酒の呑み方の流儀を教わった。「簡単なことだから、覚えときなさい。Just don’t mix it, that’s all young man.」老人に教わった流儀を無視して騒いでいたら、場を変えようということになって、気がついたら、見知らぬカウンターに座っていた。ジャズ喫茶でないにも関わらず、アンドリュー・ヒル・トリオがかかっている。粋なバーだ。皆で明け方まで騒ぐ。翌日、ホテルのロビーに午後2時集合。チェックアウトが午後2時のホテルは、いままでのところ知らない。もしかしたら、ミュージシャン専用のホテルなのではないかというあらぬ妄想が頭を駆け巡る。そんな筈ありゃしない。Sさんの提案で鈴木君とともに、昼飯を喰いに行くことになる。またSさんの後にくっついて行く。彼の愛車、プジョーに乗って、仙台の中心街から少し離れたところへ向かう。短いながらも観光ができた。仙台は緑多く、建物も落ち着いた雰囲気で、湿気少なく、近くに大きな山がないので、全ての景色が広々と見える。ステキなところだな。Sさんのお勧めで、冷やし中華を食べることとす。古い店のようで、実際建てつけも古い中華料理屋だった。元祖冷やし中華、略してガンヒヤが名物だそうで、早速それを注文。まだ少しほてった体に、冷たい麺が涼気をさそう。今年初めての冷やし中華なり。Sさんに重々礼を言い、仙台駅にて新幹線に乗る。ホームの売店で、何となく、鈴木君は週刊文春、僕は週間現代を買う。車中、お互い黙々と雑誌を読む。宇都宮辺りで雑誌を交換。しかしなんだなあ、政治も社会もこうどす黒くては、やりきれないなあ。あの仙台の美しい風景とは雲泥の差だな。東京駅にて、鈴木君と別れ、一人JR渋谷方面のホームに向かう。たった一日の遠出ではあったが、体が新鮮になった気分。東京の人々の立ち振る舞いが、何やら重々しく感じる。これは錯覚だろうか。我が家着。出かける前に、ちゃんと掃除をしておいたので、気分よし。しばらく日本間で大の字になっていたら、午後10時半を過ぎてしまった。いけねえ、マーケットが閉まる。その晩は、また野菜スープを作る。腹がくちくなったら、また何か呑みたくなった。昨夜のバーはよかったな。これから行くのも無理だよな。見知らぬ人々を含めて、ワイワイ騒いだ次の日の晩というものは、普段一人でいることに慣れた僕のような人間にも、そこはかとない寂びしみがわいてくるものだ。まあ、独り酒も悪くないと外出。その後の僕の動向を知るもの無し。
某月某日
くだらない事を書いていたら、小学館より連絡あり。今週発売の週刊現代に福田和也氏が連載している「平成フラッシュバック」にて、僕の本のことが、またしても紹介してあるとのこと。売店に走る。先日、福田氏に、バブルの頃の銀座の様子を話したのだが、その話しの内容は、記事の資料に使われるものだとばかり思っていた。今回の文章を読むと、何と、僕が表に出る形で記事が構成されている。またまたびっくりした。興味のある方は、読んでみてください。
某月某日
急に夏日となる。窓から見える木の葉が匂いたつようだ。またこの季節が巡ってきた。舗装された道路の上に波立つ陽炎と、呼吸するごとに体内に入ってくる熱気。また今年の夏も暑いのだろう。冷たいもりそばがうまい季節でもある。冷や奴、枝豆、たまご豆腐、そうめん。書き出したらきりがない。しかし、消え去った日本の風情も、気がついたら多いような気もする。風鈴、蚊帳、蚊取り線香の匂い、ひぐらしの音、ゆかた、行水。特に風鈴など、マンション住まいであると、隣近所から苦情が来るかもしれない。そういう世の中、そういう都市構造に我々は住んでいるということだ。良いのやら悪いのやら。テレビを垣間見ると、年がら年中エコだエコだと騒いでいる。まず僕はこういう和製英語もどきの短縮した言葉がキライなので、なにか新しい、環境のためという意味が一発で分かる日本語を誰か考え出したらどうか。エコだエコだ言われると、なんだかえこひいきに聴こえてしょうがない。地球のためのエコひいき。自分の気に入った者にだけ肩入れする地球規模のエコ。何だ、もう人類全員がやってんじゃないか。和製英語でいうところの依怙ロジー。本当の意味のエコロジーを実現するのは、考える上に於いてだけ簡単だ。まず世界中の核施設、核爆弾などを地中フカ~くに埋めてしまう。その他の自然に有害な化学物質も、何らかの方法を用い、中和して無毒なものとする。そのあと、人類全員が、セーので全員クタバレバいいだけだ。これほど完璧なエコロジーもなかろう。まあ、そうなれば、人類が一人も居なくなるのだから、エコロジーという概念もなくなるということであり、やはり意味ないか。エコサッカー、エコ野球など開発してはどうか。自転車こいでもある程度の電力は得られるのだから、風力発電の小型軽量機械みたいなものを開発し、サッカー選手や野球選手の股間に装着する。世界中であれだけの数のサッカーの試合が年中行われてるんだから、まんざらバカにできない数値が出るのではないか。生み出されたエネルギーは、電波でもって電力集積所などに集められる。そのエネルギーで、夜の試合を照らしたら良い。動きがニブくなると、試合会場は暗くなるから、畢竟、各選手、走り回るしかなくなる。そういう試合の方が、手に汗握って面白いのではないか。まだ本格的に夏にもなっていないのに、真夏の夜の夢のようなことを妄想してしまった。
某月某日
今度の日曜日、仙台にて演奏します。詳しい情報は以下のごとくです。
berkana 2nd AnniversaryHirosi Minami×Masato Suzuki “Like Someone In Love” Release Live In Sendai
2008.6.29.Sun at berkana
1st STAGE:19:30 OPEN:20:30 START
2nd STAGE:22:00 OPEN:22:30 START
ADV ¥4.500,DAY ¥5.000(with 2DRINKS)
※各ステージ限定25名様完全入替制
仙台市青葉区一番町4-3-9B1F TEL/022(711)0238
今回の新しいCD「LIKE SOMEONE IN LOVE」ewe,及び自著「白鍵と黒鍵の間に」小学館、共に発売します。お店の大きさから、ピアノ、ベースデュオというフォーマットとなりますが、トリオとは違った味わいある演奏となるでしょう。仙台方面の方、お会いできることを楽しみにしております。
某月某日
先日、文藝評論家の福田和也氏と会ってきた。福田氏は、週刊現代にて、昭和、平成の出来事を追うといった内容の記事を書いておられる。ということで、ぜひ僕の本「白鍵と黒鍵の間に」に書いてある、昭和末期のバブル狂騒の時期を詳しく知りたいので会いませんか、という連絡を受けた次第。週刊新潮の「闘う時評」で僕の本が採り上げられた関係もあるのであろう。かねがねこちらお礼を言いたいと思っていたので、約束の某一流ホテルのバーにて会合す。思ったとおり、福田氏は、温厚で知的な雰囲気の方であった。会話の内容はもちろん、バブル狂騒の時代のこと、僕が本に書き損じた内容をうまく聞き出すということがメインテーマであったが、博覧強記の福田氏のこと、話しは途中から、文学、音楽、時勢、この国の在り方、落語の話しと多岐に及び、まったくもって楽しい時間をすごさせてもらった。前にも書いたことだけれど、福田氏は僕と同年である。何たる基礎教養、又は知識の違いか。どうすればあれだけの情報、知識をイヤミ無しに身につけられるのか。とにかく、時間を忘れ、知的会話に没頭するという経験をしたのは、本当に久しぶりで、本当に楽しかった。また、機会があれば、福田氏と話ができたらどんなに楽しいかと思う。会合の日からしばらくして、福田氏が編集している雑誌、「en taxi」が送られてきた。刺激的内容に満ちた雑誌である。本を書いたことでこういうおまけがつくとは、実際想像していなかった。次回は、福田氏といっしょに落語などを聞きにいきたいと思う次第である。
某月某日
本日は久しぶりの休日。といっても、部屋の掃除、洗濯などをする。後、ピアノトリオのレパートリーを増やすための曲探しと練習。日記にて、ピアノの練習をしているなどと書くのは、あまりかっこいいものではない。毎日ふらふらとすごしている輩が、ピアノを弾かせたら、突然ものすごくうまいというのが、本物の才能だろう。僕はそういう本物のヒップスターとは違うというだけだ。ヒップスターなんてもう死語だと分かりつつ書き付ける自分が哀しい。今晩は、ちゃんと夕食を調理しようと試みたが、残念ながら時間切れ。気がついたらスーパーマーケットが開いている時間を過ぎていた。スーパーとはとび抜けたという意味があるのだから、マーケットにて、独り住まい用の総菜類をもっと増やすべきだと思うのだが。例えば、「金欠コーナー」「野菜不足コーナー」「家庭の味コーナー」など、その場で調理してくれる半定食屋のようなセクションがあれば、もっと人を呼べるだろうに。換算するに、独り住まいの場合、光熱費、水道代、調理の時間、皿洗い、片付けなどを視野に入れると、外食を主にするのと、どちらがコストパフォーマンスに優れてれているのか。誰か統計立てて研究し、本を書けば、僕の本より売れること間違い無し。ホテル住まいを続けた、藤原義江、淀川長治、収入さえあれば、洗濯、食事から面倒をみてくれる生き方ができる。しかし、いかんせんこちとらピアニストなので、パトローネスを得て、仕事の面でも高級取りになっても、ホテルにピアノは持ち込めない。賞味期限なんか気にしている脳味噌の隙間なんてもうない。僕の母は専業主婦だが、それでも冷蔵庫の食べ物を腐らせる。どうしたもんなんだろうか。一事缶詰だけを主食にしていたことがあったが、意外と長続きしない。まあ、一日五穀、色んな色をした野菜を食べるのが最も良いのだろうが、それもまた夢の夢。夜中なのに小腹が減ると往生する。キツネドンベイ我が見方。塩分多いんだろうなと想いつつ、夜の闇にまみれてすすりこむ。明日も帰りは演奏なので遅い。食事の準備などできなかろ。要するに、「死ぬまで生きる」しかないんでしょうな。
某月某日
自著、「白鍵と黒鍵の間に」(小学館)が、昨日の、日本経済新聞夕刊の書評欄で紹介された。僥倖である。評者の井上章一氏は、もちろん面識はないが、京大出身、現在、国際日本文化センター助教授という職にある方だ。とんでもなく偉い人にまで、自著が行き渡っているということが、まず驚きであった。以上の情報は、インターネットで調べたものであるが、国際日本文化研究センターというところが、またとんでもなく学術的なものを扱う場であるようである。その研究のキーワードは、風俗、意匠、近代日本文化史となっているのが面白い、と言っては失礼に当たるのか。ともかく、井上氏が僕の本に目をつけた理由は、80年代後半の、それもバブルがはじける直前の銀座に身を置いていた一人のクラブピアニストをとおして、ひとつの昭和史に於ける、この研究機関がいうところの「風俗」を感じ取られたということなのであろう。その視点から、井上氏は、僕の本に注目してくれたような気がする。また、そういう観点から、井上氏の書評を読むと、逆に自分の気付かなかったものの見方を教わったような気がした。そうか。あの80年代後半の、昭和という時代が異常に燃えあがっていた時期、あれは、一つの風俗としてとらえることも可能な、そんな時代だったのか。確かに、きょうび頻発している、一般人が無闇に刃物を振り回すようなことは、当時はあまりなかったような気がする。本にも書き記したが、特に銀座という場所に於いては、銀座の夜空に万札が唸りをあげて旋回しているごとくな雰囲気が、僕がピアノを弾いていた界隈を覆っていた。天皇陛下が崩御されるまでを頂点に、日本人全員が、グワーッと何かに向けて、各自が両方の手のひらを開いて、何でもいいから掴めるものは掴み取ろうと、魑魅魍魎、百鬼夜行もどきの群れが、跋扈していた時代だったのだ。もちろん僕も、その中の一人であったことは言うまでもない。本には書かなかったが、銀座のクラブが休みの土曜日曜は、有り余った金をポケットにねじ込み、あこがれの池上正太郎先生の本に出てくる旨いもの屋巡りなどをしていたのである。それでもちゃんと留学用の貯金分のカネは残ったのであった。けだし、その当時、自分が今どういう時代のどういう辺りに居るといった客観性は、僕には無かったと言えるし、多分、大方の日本人がそんな客観性など持ち合わせていなかったのだろう。実際、昨今の経済、政治の体たらくを垣間見れば、逆にそれは明らかというものだ。あの「バブル」という時代の「風俗」が無ければ、僕はいったいどうなっていたのだろうか。渡米という僕の人生に於ける大事業は、果たされなかったに違いない。いずれにせよ、この場を借りて、井上章一氏に感謝の意を評したいと思います。
某月某日
ウガンダ・トラさんの訃報に接した。哀しかった。もう何年も前のこと、そう、アメリカに留学するずいぶん前に、僕は青山劇場にて、ミュージカル「ジョージの恋人」のオケピットでピアノを弾くという仕事をしていた。公演は一ヶ月ほど続いたような記憶がある。ウガンダさんは、そのミュージカルに出演していた。この「ジョージの恋人」、ミュージカルとしては、歌のメロディーや、合唱部分の譜面がやたらと難しく、本番に入る前に、一ヶ月ほどリハーサルをする必要があった。主演の有名俳優や、その脇を固める他の俳優全員、なぜだか譜面の読める人が少なかった。複雑に絡み合うメロディーの輪唱などに、リハーサルを何度やってもついていけない人が続出していた。その中で、音楽的カンの良さ、タイミングの良さを含めて、ウガンダさんは群を抜いていた。その頃の僕は、ウガンダさんがビージーフォーというバンドでドラムを担当していたということさえ知らなかった。またさらに、今回の訃報の記事を読むまで、ウガンダさんの父君が、有名なジャズドラマーであったことなど、夢にも思っていなかった。ウガンダさんは、音楽が難しくてだれ気味になるリハーサルに於いて、ムードメーカー的存在で、いつも人を笑わせたり、セリフのあいだにアドリブを混ぜるなどして、指揮者と俳優陣の関係に不穏な空気が流れそうになる時など、独特のジョ-クでその場をなごませるような、そんな存在感を持った人だった。ウガンダさんがその芝居に参加していることによって、いくつもの難しい局面がスムーズに行くようになることも珍しくなく、とにかくウガンダさんは、誰からも好かれる存在として、そのミュージカルに参加していた。本番が始まって半月ほど経った頃のある日、なぜだか僕は早い時間に青山劇場に着いてしまったことがあった。客入れの時間まで少し間があったので、オケピットに置かれているスタインウエイで、スタンダードチューンなど弾きながら時間を潰すことにした。その頃、スタインウエイのピアノなど、滅多に触ることができなかったからである。何曲か弾いていると、突然舞台の上から、そのとき弾いていた曲に合わせてスキャットで絡んでくる人物が居た。びっくりしてステージを見上げると、そこにはウガンダさんが、少しおどけた表情で、僕のピアノに合わせて歌を歌っていた。何だ、この人、ジャズの素養もあるじゃないかと嬉しくなり、何となく何曲かいっしょに遊んでもらった。今から考えれば当然だ。僕が無知だったというだけのことで、ウガンダさんはあらゆる音楽に精通していたのだから。それから後、楽屋は違えど、ウガンダさんと青山劇場の地下の廊下ですれ違う時など、二言三言言葉を交わすようになった。「君、やっぱりジャズやりたいんだ。僕はドラムを叩くんだけど、今度一緒に呑みにいこうよ。」などと気軽に誘ってくれたときもあった。ウガンダさんは、本番で、いつもセリフの中にアドリブを噛まして、お客さんを笑わせていた。エンターテイナーだった。そのアドリブは、絶妙な間をもって、毎回違うネタでミュージカルのその場その場を盛り上げていた。こんな表現はなんの工夫もないことは百も承知だが、才能あふれる方だった。ミュージカルも終焉を迎えたある日、ウガンダさんと、また楽屋近くの廊下ですれ違った。ウガンダさんは、あの独特な微笑みをもってして、また僕に声をかけてくれた。「今度さあ、六本木にアナバーっていうバーを開こうと思ってんだよ。良かったら呑みにおいでよ。」「アナバーって、あの、穴場という言葉ににひっかけて名前をつけたんですか。」ウガンダさんは僕の質問には答えず、優しくにっこりとしただけだった。ミュージカルの仕事が終わってしまうと、自然と僕は、アナバーのことも忘れてしまった。今から思えば、一度でも遊びにいっておけばよかったと悔やまれる。ウガンダさんの訃報に接して、その頃の記憶がよみがえってきて、本当に哀しくなった。優しい人だった。
某月某日
おたおたとしていたら、自分が出演したラジオ番組放送日が過ぎ去ってしまった。しかし再放送がある。僕のだみ声を聴きたい方は、まず、www.uniqueradio.jpにアクセスし、サイト左上にある「Listen Now! UNIQue the RADIO」という箇所をクリック。すると小さい画面が表示されるので、そこに表示される簡単な質問に答えると、番組を聴くことができる仕組みとなっている。再放送は、6月3日(火)8;00~10:00、14:00~16:00、22:00~24:00となっています。だがなぜこういう機械の操作を説明する文章を組み立てるのは、難しいのだろうか。どうりで取扱説明書も良く読めない筈だ。例えば、こんな文章は、分かりにくいだろうが読んでいて楽しかろう。わくわくとした気持ちと共に、www.uniqueradio.jpに、各自の電脳ボックスをつなげてみる。息を殺しながら、サイト左上にある「Listen Now! UNIQue the RADIO」をそっと押してみると、曼荼羅のような小さな小宇宙的画面がプラスティックの透明盤の向こうにぽっかりと浮かび上がる。電脳曼荼羅には学術的とはいかないまでも、あなたのカルマを決定している基本事項をあなた自身が書き込むはめになる、そんな質問が立ち現れる。そうするとなぜか、少しマニアックな会話とともに、あまりテレビなどでは見聞きしない音楽が、あなたの耳を俊敏な動物のように、細やかな動きをするある器官として動き始めるだろう。ーちょっとやりすぎかな。ー
某月某日
大変なことが起きた。だいたい蕎麦屋がどうしたこうしたなどというくだらない事を日記に書いている暇ではない。6月5日発売の週刊新潮の、闘う時評、福田和也氏執筆の欄に、自著「白鍵と黒鍵の間に」が採りあげられたのだ。びっくりした。誰に頼んだわけでもないのに。福田和也氏といえば、「近代の拘束、日本の宿命」以来のファンであり、「まぜ日本人はかくも幼稚になったのか」「内でも外でもバカばかり」などを含め、文藝春秋に連載されている「昭和天皇」を愛読している最中だから、重複するが、本当にびっくりした。天皇陛下の物語を紡ぎ出している方が、僕の物語も受け入れてくれるとは、夢にも思わなかった。この時評欄、かなり手厳しいことを書かれている有名な作家もいるということは、不定期的にではあるが、読んでいたので知っている。今回の僕の書評は、巧みに、しかも要点を押さえた僕の本の内容の要約的な文章に終始し、幸い手厳しいお言葉は見当たらなかった。さすがだなあと思った。まあ、福田和也氏が書く事だったら、たとえ手厳しい書評でも純粋で健康的なマゾ的快感をもってして受け入れていたであろう。否、すこし叱られたかったなという気分さえある。僕は自分の本が出たという事にさえ、まだ少し驚いているペーペーなのだから、何かしらの辛口批評があっても然るべきであったろうに。思うに、そして恐るべきことに、福田和也氏と僕は1960年生まれである。まったく違うフィールドに居る、というか、僕のまったく手の届かないところにいらっしゃる方が、同年代。しかしこのことが、今回の僥倖をもたらしたのではないだろうか。つまり、福田和也氏も、高度経済成長時代に少年期を送り、バブルの頃は僕と同じく27才前後であった筈であろうから、僕の書いたことが、リアルタイムに伝わりやすかったのではないかと思うのだが、どうだろうか。これ以上書くのはやめよう。祝杯の準備だ。今晩の酒の味は、また格別であろう。
某月某日
先日、intoxicateのお招きで、浜松町にある文化放送に行き、ラジオの収録を行った。だが、放送日の宣伝をしようとこの文章を書き出したのにも関わらず、詳しい日時を確かめておくことを忘れていたことに今気付いた。詳しい、しかも正確な情報は後日また日記に書くこととしよう。さて、ラジオの収録が終わり、そうだ、浜松町から銀座は目と鼻の先、久しぶりに銀座の○○庵で蕎麦でも喰おうという気になり、JRに乗り、有楽町へ。勝手知ったる道筋をたどっていき、フフフーンと件の蕎麦屋の前まで来てみて愕然とした。○○庵が無い。おかしいなあ、たしかこの道筋にあった筈なのだが。何度もその界隈の道筋を歩いてみたがやはり見つからない。しばらく顔を出さないうちに、新しい店舗となってしまったのか。銀座界隈には土地勘があるとはいえ、その蕎麦屋の両隣の店の名前までは覚えていない。しかも、その日のお昼時はなぜだかとても暑くて、もう一度歩きまわって探すのはイヤだなと思っていると、ピカッと閃いた。そうだ、泰明小学校の裏に、もう一軒、うまい蕎麦屋があることを思い出した。○○庵のように無くなっていてくれるなよという思いいっぱいで、泰明小学校裏の路地を入っていくと、あったあった。ガラッと威勢よく店内に入った。しばらくご無沙汰だったこの蕎麦屋は、昔と同じたたずまいで、多少狭いが、僕がここによく通っていた頃そのままの雰囲気が、店の中にまだ残っていた。小瓶のキリンがあるというので、昼ビー(昼間からビールを呑むこと)になること承知の上で、天ぷら盛り合わせと共に注文す。天ぷらなんていうものは、熱いうちにどんどん食べなければうまくない。ビールと共に天ぷらを食していたら、もりそばが来た。このもりそば、絶妙な蕎麦の盛り加減で、言うことなし。蕎麦屋には蕎麦を喰いに行くのだから、ざるそばのように、刻み海苔などいらない。ざるよりちょっと、蕎麦の盛りつけが堂々としていれば、視覚的満足は、まず得られる。つゆも黒っぽい少し紫がかった色をしており、これだこれだと一気にもりそばを啜りこむ。あっという間に食べ終わり、そば湯を呑んでいたら、少しビールの酔いを散らすことができたので、さらにご満悦となり、その店を出た。しかし、最初に目指した○○庵は、店を閉めたのだろうか。それとも僕の勘違いで見つけられなかったのだろうか。銀座もしばらくいかないうちに、街の景観がずいぶん変わってしまった。時代が流れているのだろう。このままでは、ちょっとした食の安らぎも、その流れにそって、どこかに行っちまうんだろうなあ。そうだ。今回は、収録したラジオの宣伝をするつもりで書きはじめたのだ。この辺で、今回の記述は終わりとしよう。最初に書いたとおり、詳しい情報は、また後日この日記にて報告します。
某月某日
今回は、僕のサイトの管理者を紹介したいと思う。実はこの方,僕にとっては、途方もなく偉い方であり、なぜこのような方に面倒を見て頂いているのかも、今もって不明だ。以前の日記にも散々書いたことだが、僕はまたこれ途方もなく機械音痴である。懐中電灯の電池を逆に入れてしまうほど、機械というか、その近辺のものやことが理解できない。何か新しい電化製品を買っても、説明書が読めない。もちろん字面は目で追えるけれども、意味が理解できない。例えば、特に電話機の説明書に多い「保留」という言葉の意味が分からない。説明書には「通話中にお待たせする(保留)」と書かれているが、操作のしかたの欄を見れば、だいたいの用途は分かるけれども、何をどう保留するのか、ということについては理解ができない。しかもなぜ、「通話中にお待たせする」という、曖昧な敬語を使ってこういう説明書を書くのかも理解できない。かかってきた電話がオレオレ詐欺でも、「お待ち頂く」というスタンスで通話を「保留」するのか。おっと、サイトの管理者の紹介をする為にこの文章を書きはじめたのだった。このサイトの管理者は小笠原たけしさんという方だ。コンピューターグラフィックという世界で大活躍されている。ご覧のように、新しいウエッブの表紙のデザインも、あっという間に完成した。まあ、ある意味で出版記念であり、本の表紙の顔と、サイトの表紙の顔が、あまりにもかけ離れていては、今までの表紙の顔は、アンチエイジング後と間違われるかもしれないし。また話しが横道にそれた。今回、サイトを一新してもらうので、小笠原さんのことを日記に書くことにしたのだ。ということで、小笠原さんの最近の活動をかいつまんでメールで送ってもらい、その文章を僕が咀嚼して、小笠原さんのやっていることのすごさを文章化するつもりだったのだが、小笠原さんの送ってきたメールの文章を読んで一秒後、それは不可能だということが分かった。なぜかと言えば、何が書いてあるのか良くわからないからである。よって、誤解の無いように、小笠原さんが送ってきたメールの文章をそのまま以下に列挙することとした。小笠原たけしhttp://www.graphic-art.com/1)アート作品高精細&大型平面コンピュータグラフィックス作品、および各種センサー等を用いたインタラクション・アートを作り続け、国内、海外の美術館、イベント等で展示・発表を多数行っている。CG平面作品はデザインコンテストで多数受賞。2)グラフィックデザインIT関連を中心とするグラフィックデザインを行う。3)講師女子美術大学の非常勤講師としてインタラクションアートをメインに教えている。「デジタルコンテンツ エキスポ」http://www.cofesta.jp/official/asiagraph.shtml開催日時 10月23日(木)~26日(日)会 場 日本科学未来館(一部 東京国際交流館)主 催 経済産業省/(財)デジタルコンテンツ協会(DCAJ)———私はこのエキスポの招待作家になっています。今年は音楽に反応して絵柄が変化するインタラクションアートを企画しており、ミュージシャンとの共同作品となる予定です。——————————————————–とにかく、小笠原さんのサイトから、彼の作品群をご覧頂きたい。何度もいうようだが、機械のことは分からないので、解説しようもないのだが、とにかくすごいということだけは、誰でもが分かることであろう。
某月某日
新しいCDと、本の出版が続いたため、このウエッブサイトも少々内容を変えることとなった。まずは、もう皆様ご存知のとおり、「BOOK」という欄が新設された。こういう欄をつくってもらうと、なんだか本一冊ではすまないような気がしてくる。書ける機会があれば、また何か書きたいと思う意欲はあるのだが。同時に、トップページのデザインも近々変える算段となっている。現在のフロントページにある僕の顔は、既に、10年以上前のものであり、下手をしたら、なりすましメールのごとく、男が、「ハ~イ、私の名はノリカ、スタイル抜群、いつでもあなたとお会いできるわよ。メール下さ~イ。」といった種類の行為に間接的に近かったような気がする。今回トップページに使われる写真は、2年ほど前、コペンハーゲンにある、ピットインのような位置にあるジャズクラブ、ジャズハウスの前で、イタリア人のカメラマンが撮ってくれたもので、、少なくとも、既存のトップページよりも、あらゆる意味で、僕の面構えの信憑性が増すこと請け合いである。次回の日記には、このウエッブの管理者のことを含めて書きたいと思う。しばし待たれよ。
某月某日
過日、ずっと雨の日だった。CDの発売や、本の出版が重なって、本日は久しぶりの休日。とはいえ、相変わらず、洗濯物に困ったり、家の中を掃除している。我が人生に於いて、この正月前後、心機一転をしなければならぬことあり、、家の中をRENOVATEした。思いきって、どうしても必要と思われる書籍以外、全部売っぱらった。すっきり爽快である。家の中にあるごちゃごちゃしたものも、正月以来少しずつ捨てていって、畢竟、掃除がしやすくなった。壁も明るい色に塗り替え、照明器具も刷新した。気分よし。ピアニストも、食事の準備、掃除、洗濯は、いまだに生活の必須アイテムである。しかし、残念ながらできないことがひとつある。それはボタン付けとアイロン。包丁は、指を切らないようにして調理することに慣れたが、ボタン付けの場合、布地のどこから針の先が出てくるか分からないので、自然と敬遠すいるようになってしまった。ということで、服を買いにいく時は、チャックなどがついている、自然とボタンの少ないものを選んでしまう。ここまで科学が発達しているのだから、自動ボタン付けマシーンのようなものが、発売されてもしかるべきだと思うのだが。みそ汁を調理していたら、なぜか曲想が浮かんで、一曲すぐに作曲してしまった。次のGOTHERE!で試しに演奏してみるつもり。タイトルはまだ仮題だが「RAINY DAY」。最近また料理に凝ろうという気がしてきたので、明日は、近辺のマーケットを廻ってみるつもり。一旦ものすごく料理に凝った時期があって、その時のような状況を再現するつもりはないけれど、ただ、味醂、料理酒、醤油、オリーブオイル、塩、コショウなど、基本的なものは良いものを買い、後は、財布の機嫌をうかがって行動するのみ。ピアノの練習前後など、料理をするということが、どんなに気分転換になることか。僕の知っているクラシックの作曲家は、大方、料理が巧い。多分、作曲と同じプロセスを料理をするという行いの中に感じているのだろう。何となく納得できる。重複するが、次回の GO THERE ! 6月10日(火)には、二曲の新曲が用意できたことになる。僥倖。また、新譜「LIKE SOMEONE IN LOVE」のトリオで、5月25日、代官山、晴れたら空に豆まいて、というクラブで演奏する。この日は対バン形式であり、詳しくは以下のウエッブを参照されたし。「晴れたら空に豆まいて」http://www.mameromantic.com/このクラブでは、8月25日、噺家と我がトリオのコラボレーションが予定されている。乞うご期待。
某月某日
最近、僕の新しいCD,「LIKE SOMEONE IN LOVE」のジャケットの写真について質問されることが多い。この表紙の女性は誰ですか、ミナミさんの知っている人?もしかして、よく演奏で行っているデンマークの現地妻だったりして。お安くないなあ。こんなことをいう人が現れたので、少し、今回のCDのジャケットの写真について説明します。もちろんジャケットの女性は、僕は会ったこともなければ、現地妻でもありません。まあ、もしそれが事実だとすれば、ある意味喜ばしい、ロマンスですが。この後に書く文章の内容も、もっと衆目を集めるものとなったでしょう。とにかく、今回のCDのジャケットの写真の評判が良いことは確かだ。この写真は、CDの内側に書いてあるように、オランダの女性写真家、Hellen van Meeneという人が、2004年に、ラトヴィアの首都、リがで撮影したもののようです。今回、CDの制作が三年近くかかったため、ジャケットの写真選びには、EWEの若手の制作担当者などと、本屋巡りを何度もやって、やっとこの写真にたどり着いた次第。Hellen ?van Meeneで検索すれば、彼女の他の作品も見ることができる。写真を選んだ段階では、この写真がラトヴィアの女性を撮ったものだとは知らず、とにかく、制作側、僕も含めて、これだこれだ、これを使おうと、選び出したのであった。お分かりのように、写真選定にも相当な時間がかかったということだ。CDの発売が、あまり長引くことも良くないことだが、こうやってジャケットの写真を、充分な時間をかけて探すことができたというメリットもあったのだがら、まあ、結果として、差し引きゼロということになるのだろうか。今から思えば、運がよいことに、北欧でも東欧でもロシアでもない、バルト三国の女性という、この情報の多い日本でも、いまだにあまり知られていない国の謎の雰囲気が、この写真の真骨頂でしょう。また、内容の音楽となぜかすごくマッチしていることが、不思議といえば不思議です。ちょっと不自然に英語で言うところのBELLYに左手が少し形を斜めにしている構図も秀逸で、背景の薄いブルーも、なんだかこの写真の未知なる部分を強調していがごとることが、今回の評判を呼んだひとつの一因なのではないだろうか。しかしこういう日記形式の文章は、不特定多数の人々が読んでいる筈であり、あまりこの作品を自画自賛してしまうと、ニッポッン的謙譲の美徳、という点から言って、反感を持たれる方もおられるのではないかと思う。いやあ、つくづく日本の社会は難しい。儒教というものが、韓国のように、本当の意味での儒教体勢が社会の中に浸透しており、同性の者同士は結婚できないというぐらいに厳しいものであれば、何を書いてよいか悪いか、基準がはっきりしているのだから、ある意味容易かろう。しかるに我が国は、儒教の影響は受けているものの、それは韓国とは比べるべくもなく、しかも、よく言われるところの世間という、目に見えない、しかも漠然とした基準があるので、こうやってものを書くのも、容易ではない。あまりにも自分のしたことを褒めちぎっては、何だあいつ、居丈高だなあ、出しゃばりやがってと思われるのもイヤなものだ。また逆に、「エヘッヘッへ、どうも皆さん、お世話んなってます。ミナミです。こんどCD出したんすけど、まあね、たいしたモンじゃございませんよ。ま、皆様のお耳に快いサウンドがちょっとでも届けば、なんて、そんなこと考えてるんですがね、えへっへっへ。」などと妙にへりくだっても、じゃあ、なぜCDなんか出すんだよ、と言われれば、返す言葉もない。今この日記を読んでいる皆様、どうか、どっち付かずのものの見方で受け取ってください。再度書きます。僕にもしヨーロッパのどこそこに現地妻が居ようとも、自分のCDの表紙には載せません。悪しからず。
某月某日
昨日は僕の誕生日であった。しかも自著「白鍵と黒鍵の間に」の発売日でもあった。またまたしかも、盟友キャスパー・トランバーグが東京に居るという、近年稀にみる華やかな時間が過ぎていった。こういう偶然も起こりうるということだ。キャスパーは、ピットインで共演後、僕の家に投宿しており、お互い昔話にふけったり、今年11月に出る我々の新しいCDのこと、(このことに関しては、また新しく報告します。)それによって可能となる未来のことなどを話しあい、非常に有意義な時間をすごした。キャスパーは、本日早朝、成田に向かうべく去っていった。タクシーを拾うため大きな通りへ彼の荷物を半分持ちながら、早朝の街を歩いた。二人とも無言だった。僕はタイミングよくやってきたタクシーに片手を上げて止め、「ヘイ,メーン」と一事言ってキャスパーをハグした。彼もぎゅっと僕の体をハグした。一秒ほど。一抹の寂しさが僕の身を貫いたが、男同士というものはいいものだ。相手が日本人でなくとも、黙っていても、お互い同じ心境であることが分かりあえる。荷物をタクシーのトランクに入れ、キャスパーがタクシーの後部座席に座り込む。お互い目で見つめあってから、同時に二人とも微笑んだ。ドアが閉まる。タクシーが見えなくなるまで手を振った。いまごろ、あのおとぎの国のようなコペンハーゲンで、彼の娘達に東京のお土産でも配っているのであろう。またな、キャスパー。またいっしょに演奏しような。というわけで、本日はあまりにも早く起きてしまったので、部屋の掃除などをして時間を潰してから、近所の大手の本屋へ行ってみた。自分の本が置いてあるかどうか不安だったからである。この本屋は、行き慣れているので、どういう本がどこにあるか、大体僕には見当がついている。僕の本は、音楽関係の出版物が並ぶコーナーに、平積み状態で置いてあった。複雑な心境だ。今まで何冊の本を読んできたことか。今まで何冊の本をこの本屋で買い求めてきたことか。そこに自分の本が加わるなど、以前は夢にも思わなかった。これからは、自分の本ではなくとも、本というものへの見方が大幅に変わりそうだ。本というものが、どういう行程をへて完成するかを目の当たりにし、実感したからである。畢竟、今まで読んだ本の文章も、僕の意識の中で変わりつつある。ものを書くということは、こういうことだったのね、という、何というか一線を越えてしまったからこそ分かる重みと儚さ。思考の方は、斯様に重々しいものであったが、行動の方は、僕らしくもなく、どういうわけだかそわそわしていて、自分の本が置いてある棚の前を行ったり来たりしている。何をやってんダア俺は。他の来店客の様子などをチラチラ見て、さあ、帰ろうかと思ったが、どうも自分の本がまだ気になる。何がどう気になるのかよくわからない。まさか買い求めたりしてもしょうがないし、誰かが本を買うまで立ち去らないと自分に言い聞かせるのもばからしい。だが立ち去れないというこの心境は、いったいどこから来るものなのか。ほかの本を見に行くべく本屋の中をうろうろした後、また自分の本が置いてある棚の前まで来て、なんだか落ち着きなく行ったり来たりしてしまう。私服警官が僕を見たら、万引き犯と思ったに違いない。怪しいメガネをかけた惚け顔の男が、不定期的に、同じ場所をうろうろとしているのだから。少なくとも、禁治産者には見えたのではないだろうか。しばらくしてから、心身ともに冷静を取り戻し、いつまでもこに居てもしょうがないと自分に言い聞かせ、本屋を後にした。まさか、その場で、「こ、こ、これは俺が書いた本なんだあ、誰か、誰か、頼むから買ってくれい!」と叫ぶわけにもいかないし、寅さんのように、「けっこう毛だらけネコ灰だらけ、お猿のおケツはマッカッケ!」などと、香具師のようにバイを始めるわけにも行くまい。今日、本当に残念に思ったこと。それは、キャスパーに僕の本を一冊プレゼントできなかったこと。なぜって奴は日本語が読めない。その点、音楽とは何と素晴らしいのだろうか。あ、小学館の皆様、こんなことを書いてごめんなさい。
某月某日
昨夜、横浜MOTION BLUEにて、久しぶりに、盟友キャスパー・トランバーグ(TP)と演奏。相変わらずのサウンドの美しさにこちらのピアノの音まで影響され、またそれが、ベース水谷氏、ドラム外山氏に伝播して、近来まれに見る大人の音楽を演奏してしまった。こんなトランペッターなかなか居ないよな。もうかれこれ18年来の友であるけれども、彼のサウンドが年を追うごとに磨かれていくのが分かるというのも、共演していて嬉しい側面のひとつだ。今回はベースの水谷君が、彼のバンド、フォノライトのレコーディングに彼を呼んだことで、今回の演奏が実現した。水谷君にも感謝せねばなるまい。キャスパーの、ある意味舶来文化的提案で、僕は、ポエトリー・リーディングまでこなしている。ポエトリーといっても、実際の題材は、5月15日に発売になる僕の本「白鍵と黒鍵の間に」のエピローグを朗読したのだが。怪しいインプロのサウンドに乗っかって何かを読むということが、こんなに面白いとは意外であった。本日12日は、鎌倉ダフネ、14日は新宿ピットインで演奏する。残る二回とも、マイクの数が足りるのであれば、ポエトリー・リーディングに再度挑戦したい気分だ。もうひとつの面白い局面を発見した。キャスパーは日本語を解さない。彼には僕が読む日本語がサウンドとして聴こえているということである。これは非常に面白い現象を生み出す。つまり彼は僕の読む日本語を音楽としてとらえ、僕の朗読にトランペットで絡んでくる。句読点、文章の間など、彼には分からないからこその新しいサウンドが、さらに新鮮な空間を作り出す。もちろん、キャスパーの曲も、ユニークという枠を超えた、新しい響きの音楽だし、このバンドはクセになりそうだ。元々、僕が長年、デンマークのミュージシャンを日本に呼んで演奏したり、僕がデンマークへ行って演奏したりしてきたのだが、今回のKASPERTRANBERG JAPANESE QUARTETの狙いは、日本で彼のリーダーバンドをつくってしまおうというところにある。キャスパーを一人デンマークから呼ぶということであれば、今までやってきたように、他のデンマーク人4人を呼ぶ労力も省けて、その時々のバジェットと状況に於いて、こちらもフレキシブルに動けるというわけである。昨夜の一回目の演奏で、何故だか分からないが、もう既にバンドとして成り立ってしまったので、あとは、この四人を今後機会を見て集合させるのみだ。と言いつつ、なかなかこの四人を集合させるのは難しいんだけどね。興味のある方は、お見逃しのなきよう。また、何度も書きますが、5月14日ピットインンでの演奏では、僕の著書「白鍵と黒鍵の間に ピアニスト ・エレジー銀座編 」小学館 を先行発売します。
某月某日
さてっと。自分なりのライナーは書き終えた。(この日記の下を参照。)これらの文章が、聴く側の人々をより楽しませることを望むのみである。CDを買った方ならお分かりのように、この一枚を世に出すのに2年かかってしまった。詳しい事情は言うまい。しかし、こちらにとっては長い長い待ち時間であった。表紙の写真も自分で言うのもおかしいかもしれないが、秀逸だと思う。CDのジャケットを開いて左側の右下にある白抜きの文字、「For My Niece」はイワクツキである。実は、我が妹の出産予定日が4月23日(CD発売日と同じ日)であったので、この一言を入れた次第だ。赤ちゃんは、予定日より早く生まれ、名前をつけるのに時間がかかったため、CDに、我が姪の名前を入れることができなかった。まあ、早く生まれたといっても、早産ではなかったので、問題はないのだが。いや、問題は、僕が本当の意味で叔父さんになってしまったことにある。このCDに於いて、姪の存在を明らかにしてしまった。僕はUNCLE HIROSHIとなったのだ。さらにまた偶然が重なる。僕の著書、「白鍵と黒鍵の間に」小学館5月15日発売というのも、1/365の確率だ。なぜかと言えば、5月15日は僕の誕生日である。これらの説明のつかない偶然もあるのかなと思うところと、あまり神秘的な方面での考えはやめようという思いが、今ないまぜになっているところだ。我が姪は、2008年生まれである。午後7時頃に生まれたから、勝手にナナコちゃんというあだ名をつけた。ナナコちゃんは、それはもう、本当にかわいくて、難しい本を読んでいるより、人間を知る手助けをしてくれているようでもある、僕には貴重な存在だ。変な喩えかもしれないが、我々人間は、飛行機に乗っている時はのぞいて、地球の表面約2メートル以下の空気の範囲を、我々の肉体が占めている。そこにまた、新たに地球上の表面を地表2メートル以内のどこそこかの空間を占める存在がこの世に生まれでてきたということだ。神秘といえば神秘だし、当たり前だといえば当たり前だけど。ナナコちゃんが成人するのは、2028年である。オレは生きているのだろうか。ナナコちゃんの成人式とやらに参加できるのであろうか。否,参加できる体であっても行かぬがよろしいようで。カタギの祭りを邪魔しちゃあいけませんぜ。なあおい。
某月某日
(今この日記にて、新譜「LIKE SOMEONE IN LOVE」の、僕なりのライナーを書いているところです。気がつけば、文章を日を追って上に積み上げる式なので、読みにくい状態になったことに気付きました。お手数ですが、このサイトを初めて読みはじめる方、最初から読むには、下段、「MY FOOLISH HEART 」から読み上げてみてください。)CHELSEA BLIDGE言わずもがな、僕の一番敬愛する作曲家、ビリー・ストレイホーンの名曲である。勘違いしていたようだが、どうも、チェルシーブリッジという橋は、NYには存在しないらしい。タイトルの由来は、ロンドンのチェルシー地区に架かる橋の名前であるようだ。まあ、そんなことはどうだっていい。この曲のハーモニー、絶対古びない。フランス印象派の影響をものすごく受けたことの分かるコード進行で成り立っている。ジャズチューンとしてはハイブローだが、メロディの微妙な切れ目の中に、ちゃんとブルースが埋め込まれている。本当は、メロディーを2コーラスソロ無しで演奏しようかと思ったほどだ。ソロなんて意味ないと思わせてしまうほど、メロディーが完結している。こんな難しい曲を何故ラストに持ってきたかといえば、それだけの重々しい高貴さがこの曲にはあったからなのだが。ビリー・ストレイホーンは別の名曲、「LUSH LIFE」を 、彼は17歳の時に作曲したらしい。こういう場合、もう既に、日本語で言うところの早熟などという表現は当てはまらず、つまり、生まれながらにしてあの世を感知できる人物だったのではないかと、僕は冗談抜きで思っている。そう、僕たちの一番身近にあって、それなのにまったく未知の世界である「死」ということ。なぜだか僕は、ビリー・ストレイホーンの音楽を聴くと、その洒脱さ、ユーモア、曲の構築性のしっかりした様、それら、ビリーの音楽的特徴の向こうに、いつも「死」というものを感じてしまう。それは、決してペシミックなスタンスのものではない。ここが不思議な点で、しかも矛盾するところなのだが、その音楽的特徴の向こうにある「死」というものは、何かしらの永遠性を秘めているような気がしてしょうがない。それは、よく牧師さんが言うような、彼(又は彼女)は、永遠の眠りにつきました、という場合に使う永遠性ではない。僕の感じる永遠性とは、ビリー・ストレイホーンのメロディーの中にあるのである。客観的に時間という単位で計ってみれば、ものの3~4分で一曲は終わりだ。だが、だからこそ、ビリーのメロディーには、時間の長短を超越した何かが存在するのではないだろうか。恣意的な意見かもしれない。だが、彼のメロディーを聴く者が、一瞬一瞬永遠な何かを仰ぎ見るような要素が、彼の曲を聴く間、存在しているような気がしてならない。ご存知の方もあるかと思うが、ビリーは、エリントンの片腕であった。否,この言葉は正確ではない。”Billy Strayhorn was my right arm,my left arm,all the eyes in my back of my head,my brainwaves in his head,and his in mine.” -Duke Ellingtonこのエリントンの言葉に訳は要るまい。これは、ビリー・ストレイホーンのサイトhttp://www.billystrayhorn.com/で見つけた言葉である。その他、参考になるのは、「ラッシュ・ライフ ー ビリー・ストレイホーン・ソングブック」VERVEPOCJ9543 のライナーに詳しい。このライナーの中には、哀しい記述もある。抜粋することを躊躇したが、あえて載せよう。「1939年から1969年5月31日、自虐的なほどの無神経さで酒やタバコを続けたのが原因となった食道ガンで亡くなるまで、デューク・エリントンの協力者、アレンジャー、時には作詞家として活動した。彼がエリントンのために書いた作品のほとんどは、ストレイホーンの流儀を前面に出しながらも、バンドリーダーやオーケストラの体型に合わせて、親愛の情を持って仕立てられていた。」天才ビリー・ストレイホーンも、ある面タダの人間だったという証かもしれない。僕は、エリントン研究家ではないし、そんなことをするつもりもないから、これから先は僕の臆測である。ビリーがいくらナイスガイで、エリントンを敬愛していたとしても、出版される作品は、皆エリントン名義となる。ここに、天使でない限り、人間としての屈託が生まれてしかるべきである。しかし心優しいビリーは、これを諦観し、エリントンを見守っていたのではなかろうか。更に言えば、その諦観が、また新たなる曲の雰囲気を作り出していったと想像しても、あながち間違いではないような気がするのだが。さらにまた、その諦観と屈託が、彼を、酒とタバコを「自虐的」にまで用いる要因となったのではないか。ビリーの周りの人間が、「自虐的」と思うほど、酒とタバコを用いたということは、相当な量だったのだろう。何故って、普通他人は、周りの人間を、思うほどあまり見ていない存在であるから。ごくたまに、芸術のジャンルを問わず、このような天使のような存在が世の中に現れる事がある。幸か不幸かは分からない。しかし、現れてしまうのだからしょうがない。ビリーは多分、自分が「知っている」世界に帰っていったのであろう。そう考えないと、なんだかやるせない。2008年の日本という国で、彼のメロディーを演奏したCDが発売された。そのことを彼が知ったとき、いったいどう思うのだろうか。いずれにせよ、ビリー・ストレイホーンは、彼の作曲したメロディの間に間に生きていると思うので、ノープロブレムだ。この曲は、これからも、ライブにて、執拗に、しつこく演奏してゆくつもりだ。もしかしたら、ビリーに会えるかもしれない。
某月某日
(今この日記にて、新譜「LIKE SOMEONE IN LOVE」の、僕なりのライナーを書いているところです。気がつけば、文章を日を追って上に積み上げる式なので、読みにくい状態になったことに気付きました。お手数ですが、このサイトを初めて読みはじめる方、最初から読むには、下段、「MY FOOLISH HEART 」から読み上げてみてください。)EIDERDOWN今回のCDは、南博トリオ、初のスタンダード作品集との謳い文句で発売されていることは、当の本人が充分承知である。同時に、オーダー(つまり曲順)から見て、最後の曲のひとつ前というのは、なかなか選曲が難しい。こういうシンプルな曲の構成だと、最後から二番目の曲は、最後の曲より目立ってはならないし、かといって、今までのオーダーをつつがなくエンディングの曲に繋げなければならないという役割もある。こうなれば、スタンダードではない、かといって、ものすごくオリジナルな曲を選ぶでもない、そのあたりの条件を充分に満たした曲を探す必要があった。あまり悩まずとも、「EIDERDOWN」が頭に浮かんだ。言わずもがな、巨匠ベーシスト、スティーヴ・スワロウの曲である。全ての素晴らしいプレイヤーが、素晴らしい曲を書けるわけではない。同時に、素晴らしい曲を書けるプレイヤーが、誰しも素晴らしいプレーヤーではない。これは天の配剤だからどうしようもない。スティーブ・スワロウは、生まれてくる前に、あの世かどこか知らないが、誰からか、よほど良い処方箋を受け取った数少ないミュージシャンである。いずれにせよ、彼の曲を入れることによって、CD全体の雰囲気も締まると思った。同時に、この「EIDERDOWN」という、一見簡単そうで実は音楽的に難解な曲を、芳垣、鈴木両氏にぶつけてみたいと思った。結果は、まあ、CDを聴いて頂くしかないが、僕の狙いは功を奏していると思う。まずは鈴木君のソロを聴いて欲しい。素晴らしいから。このトリオの録音時に限らず、ことあるごとにこの曲を演奏してきた。しかしこの場になって、この曲のタイトルの意味を知らないことに気付いた。早速辞書をひく。「EIDERDOWN」1:雌のけわたがもの綿毛。2:(1その他の柔らかいものを詰めた)羽布団。3:(米)毛羽の厚い綿ネル。また、他の辞書には、けわた鴨(北欧沿岸産)とある。お手上げだ。ネイティブの英語には、やはりついていけない。まあ、これは論文ではないのだから、何となく雰囲気を察するにとどめよう。だが、けわた鴨とはいかなる生物か。調べてみると、う~ん、頭が痛くなってきた。けわたがも:カモメカモ科ケワタガモ属の鳥の総称。北極地に四種がすむ。羽毛は非常に良質で、寝袋、羽根布団などに珍重される。ああ疲れた。調べれば調べるほどワケが分かんない。スティーブ・スワロウはニュージャージー出身の筈だから、北欧沿岸とは関係ない筈だが。待てよ待てよ、北欧にツアーに行った時に、EIDERDOWNでできた羽根布団で就寝したという可能性もあるぞ。または、スワロー幼少の頃、そういう布団で寝ていたという可能性もあるし、曲ができたあと、何となく付けたタイトルかもしれない。これらの珍種の鴨が、鉛色をした湖に浮かんでいるという風景を想定しながら演奏することも悪くない。また、今回調べたことなど忘れ去って、自由に演奏するのもまた良し。実際、それだけの可能性をプレイヤーに提供すべく、この曲は、シブく、難解で、シンプルで、小節の数がハンパで、かっこいい。関係ないけど、オレはやっぱり冬の寒い日に鴨南蛮をかっこんでいるのがいいなあ。
某月某日
(今この日記にて、新譜「LIKE SOMEONE IN LOVE」の、僕なりのライナーを書いているところです。気がつけば、文章を日を追って上に積み上げる式なので、読みにくい状態になったことに気付きました。お手数ですが、このサイトを初めて読みはじめる方、最初から読むには、下段、「MY FOOLISH HEART 」から読み上げてみてください。)HOW INSENSITIVEポルトガル語の題名は「INSENSATEZ」。9・11のテロが起きたあの日、僕はとあるクラブでの演奏を終わり、楽屋としてあてがわれたテーブルの奥に座っていた。そこには何故だかテレビが置いてあった。スイッチをひねってみたら、画面は見えるが音が出ない。クラブのマスターに聞いたら、音は出ないようにしてあるのだという。しばらくして、同じ光景が、どのチャンネルでも何度も何度も写りはじめる。アナウンサーや、リポーターの声は聴こえない。きっと「大変なことになりました!」「今二機目が突入したところです!」というようなことを言っているに違いないと思った。僕は、無言の画面をしばらく凝視した。ふとあるメロディーが頭に浮かんだ。それはジョビンの「HOW INSENSITIVE」だった。こんなことを書いては、あのひどい事件で被害に合った方、亡くなられた方からお叱りを受けるかもしれない。しかし正直に書くこととしよう。その無言の画面に僕の脳内は、自然と「HOW INSENSITIVE」のメロディーを思い浮かべていたのだ。ポルトガル語の辞典がないので「INSENSATEZ」の意味は英題からでしか推測できない。「 INSENSITIVE」、辞書には、鈍感な、感受性の鈍い、無神経なさま、とある。僕は思った。こんなカタストロフィーが眼前に繰り広げられているのに、泣くこともなく、いわんや、頭の中にジョビンのメロディーを思い浮かべている僕は誰なんだろう。しかし同時に、また、やるせないことに、その音のないテレビの画像に写し出される光景が、そのメロディーに、ものすごくフィットしていた。現代社会に生きていれば、人様々ではあろうが、どこか鈍感でなくては生きていけないという側面も認めざるを得ない。しかし、9・11のような出来事は、ただ鈍感だから、感受性が鈍いからではかたずけられない何かを僕に発していた筈だ。しかしジョビンのメロディーは、脳内に鳴り続けた。そして、少し気付いたことがひとつあった。鈍感なのは、アメリカ政府だけじゃないし、テログループだけじゃないし、僕を含めた全世界の人達が「HOW INSENSITIVE」なんじゃないか。人間全体が、ある意味、鈍感でバカなんじゃないか。「HOW INSENSITIVE」のメロディーが、僕の脳内から聴こえてきたことは、僕に何かを悟らせるために、自然と僕のサブリミナルな部分を、何かが刺激したとしか思えない。また、逆に考えれば、あれだけの惨事を、ひとつのシンプルなメロディーの流れで総括してしまうことは難しい。しかし「HOW INSENSITIVE」だけは、少なくとも僕にとっては例外だった。なぜって、僕は哀しい画面を見ながら、このメロディーを思い起こすことによって、とても慰められたのだから。もちろんアントニオ・カルロス・ジョビンが、僕がこのような状態で自分の曲を聴くことを想定して、「HOW INSENSITIVE」を作曲したとは思えない。しかしジョビンは、もっと大きなスタンスで、森羅万象あらゆる人間共の悲喜交々を、肩代わりするつもりで、この曲を、それも無意識の内に作曲したのではなかろうか。以上が、僕がこの曲を演奏するときの基本的な心情である。この曲の歌詞を要約すると、「あんなに真剣に愛してると言ってくれた彼(又は彼女)に冷たい態度をとってしまった。~もう彼(又は彼女)の面影を追うのみだ。」ということになる。別段、上記のようないきさつを、我がメンバーに伝えてから「HOW INSENSITIVE」を演奏したのではないけれど、そこは音楽。なかなか皆さん、僕のピアノを素晴らしくするための演出に怠りがない。いずれにせよ、バカでもいいけど、鈍感ではありたくない。
某月某日
(今この日記にて、新譜「LIKE SOMEONE IN LOVE」の、僕なりのライナーを書いているところです。気がつけば、文章を日を追って上に積み上げる式なので、読みにくい状態になったことに気付きました。お手数ですが、このサイトを初めて読みはじめる方、最初から読むには、下段、「MY FOOLISH HEART 」から読み上げてみてください。)MISTERIOSO言わずと知れたセロニアス・モンクの曲である。モンクの曲は、どうアレンジしようが、どういじろうが、メロディーの骨格というしかない全体の流れが、絶対に、まあ料理に当てはめて言えば、煮くずれしない。同時に、今回のCDは、この曲に限らず、他の曲も含めて、全然と言っていいほど譜面上のアレンジを施さず、全曲を演奏した。しかし、唯一この「MISTERIO」だけは、いわゆるヘッドアレンジを用いた。まあ、ヘッドアレンジといっても、鈴木正人君に、テーマを弾いている間、ベースソロをしてもらうという、ごく簡単なものであったが。いずれにせよ、このアイデアは、レコーディングブースに入り、ピアノ、ベース、ドラムがスタンバイをし、エンジニアが、録音開始のキューを僕に出す寸前に浮かんだもので、「鈴木君、テーマやってる時、同時にソロして。」と、機械類のスイッチがonになる一瞬前に彼に一言言っただけである。これでは、ヘッドアレンジとさえ呼べない。しかし、効果は抜群であった。ここで鈴木君がソロをすることで、全体の構成も良くなり、彼のまた違った魅力を聴く人に提供できたと思う。このセロニアス・モンク、また今回のCDの最後の曲の作曲家でもあるビリー・ストレイホーン共に、ニルヴァーナの世界をメロディにて体現しているような気がしてならない。この二人の偉人は、音楽的サウンドの方向性は違えど、彼らの表現したかった音楽の芯の部分は、明らかに同じだったのではないだろうか。ニルヴァーナの訳を見てみると、「心をやすらかにし、さとりをひらくことと」とある。なにも彼らの音楽が直接仏教的だということを言いたいわけではない。同時に、何かしら宗教的な意味合いを通してこの曲の解説をしたいのでもない。現に、我々人間なんて、そう簡単に、本当の意味で、心安らかになんて心境を得られる筈もない。もしかしたらこの二人の偉人も、実生活においては、いつもニルヴァーナの心境ではなかったかもしれない。しかし、一旦彼らがピアノを弾きはじめ、また、曲をつくりはじめると、その心境は一変したのではないだろうか。否,もしかすると、実生活に於いてさえ、ニルヴァーナだったかもしれない。なんだかそんなことを想起させる雰囲気が、この「MISTERIOSO」のメロディーには隠されている。実際、ライブでこの曲を弾くときは、CDと違い、テーマを4コーラスぐらいくり返してしまう場合が多い。お経の何たるかを知らぬ僕がお経に言及することは、極めてインチキ臭いことだけれども、実際、「MISTERIOSO」のメロディーを何度も何度も弾いていると、何かこう安らかな気持ちになって来ることは間違いない。それは、静かな寺でお経を聴いているような時と感覚が似ている。霊能力もなく、生まれてからこのかた幽霊さえ見たことがない僕がそう感じるのだから、何か秘密があるに違いない。余談ではあるが、モンクのミドルネームは「SPHERE」である。僕の知っている限り、このミドルネームを持つ人は少ない。「SPHERE」とは、球体、天体の意であること、辞書で調べてみた。特に「天体の音楽/The music of the sphere.」という例文も書いてあった。ううむ、僕が演奏中に感じたことも、当たらずとも遠からずという気がしてきたが。彼の経歴を見てみると、ジャズの仕事を始める十代後半まで、福音派の伝道者とともに、各地の教会でオルガンを弾いていたとある。福音派、というものが、キリスト教という膨大な知識と意識と知恵と流派の固まりの中で、何をどのような形で活動しているのか僕は知らない。だがしかし、Mr.Sphereの中には、もう天体そのものが見えていたのではないだろうか。滅茶苦茶な理由付けと承知しながらも、まあ、演奏者が楽しくこの「MIOSTERIOSO」を弾くことができればいいではないかと、ひとり、分かったつもりでいる。何にせよ、UAや、その他のバンドでは聴くことのできない、「別の」鈴木正人君の素晴らしいベースの音が、自転するメロディーの奥から、聴こえてくることには間違いない。
某月某日
SOLAR自分のバンドのメンバーの良さを、バンドリーダーが意識しないわけがない。鈴木正人(B)、芳垣安洋(DS)のトリオでの演奏は、EWEから出ているアルバム、「ELEGY」からCD盤として世の中に出たが、元々、ご存知のとおり、芳垣氏は、もうひとつの我がバンド、GO THERE!のメンバーでもあり、もっと掘り下げて言えば、芳垣氏が大阪に住んでいた頃からの付き合いである。アメリカから帰ってきた1995年頃、芳垣氏と既に演奏をはじめていた。アメリカで、色々な音楽を見聞きしてきたが、音楽即ちそのプレーヤー存在そのものであり、それを元に各自がアンサンブルするということが、すなわちバンドであると学んだことは、大きな収穫であった。その意識が伝播できるドラマーの一人が、芳垣氏だと、帰国後早くも感じたことを覚えている。光陰矢の如し。1998年ぐらいから、芳垣氏にGO THERE!に加わってもらった。爾来、バンドサウンドが煮詰まったことは一度もなく、GO THERE!事体のサウンドの発展に、芳垣氏は貢献し続けている。二つのリーダーバンドを持つということは、各々に特色がなければ意味をなさない。僕の中では、GO THERE!はオリジナル中心、ピアノトリオはスタンダード中心という位置づけをしているつもりでいる。その二つのバンドに、同じドラマーを使うことは、本来危険が伴うことであるのだが、芳垣氏の音楽性の深さは、僕のちょこざいな心配を大きく凌駕しており、まったくもってフトコロが深い。21世紀のレガートは、彼が叩き出している。その大きな魅力を、存分に披露するために、マイルス・デーヴィスの「SOLAR」を選んだ。正解だったと思う。
某月某日
LIKE SOMEONE IN LOVE「LIKE SOMEONE IN LOVE」の歌詞を訳そうと思って、しばらく思案した後、やめた。スタンダードの英語の歌詞に限らず、英語の詩というものも総括的に読んでみると、僕にとっては、これはお手上げだということを確認する作業にしかならない。何でお手上げかって?頭の中で邦訳することができないからである。あまっさえ、萩原朔太郎氏の詩を読んでどう感じたかなんて、どんなに筆が立つものでも、容易に文章化することは難しい。日本の詩でさえそうなのだから、母国語でない詩を邦訳するなんて、僕には無理だ。さらに問題なのは、なまじ、英語の歌詞なので、各々の単語の意味は分かってしまうという妙なバイアスがかかることが、頭の中の翻訳機能をさらに鈍らせたりする。しかし、今回のCDのタイトル曲となった「LIKE SOMEONE I N LOVE」の歌詞は、内容を理解することに関して、他のスタンダード曲の歌詞より、僕にとって少し身直に感じることのできる数少ないスタンダード曲である。お手上げだ、やめた、といいつつ、ちょっと日本語に歌詞の内容を移し替えてみようか。この曲の最初の出だしには、まあ何となくこんなことが書いてあるのではないだろうか。「このごろ、 何となく星を見上げている自分に気付くことがある。ギターの音を聴きながら。まるで誰かが恋をしているように~」「Lately I seem to find I’m gazing at stars,Hearing guitars,Likesomeone in love~」邦訳ヤメ!恥ずかしい。やはり日本語にすると、何かしらのしのエッセンスが逃げていってしまうような気がしてならない。僕はこの曲を、まず歌詞が好きだから選んだので、そのいきさつを文章にしようと思って書き出したのだが、どうもうまくいかないらしい。いずれにせよこの歌詞は、己のロマンティックな感覚を、意識的に第三者の視線からとらえていて、あえてその表現で、けだるく歌詞の内容を完結させているところがステキなのだろうと思う。もちろんメロディーも秀逸だから、CDの表題にすることに決めたのだけれど。だがやはり、詩というものは、その言葉のネイティヴでないと、文字の数ミリメートル上の芳香を充分堪能することはできない。しかし、メロディーは別である。この曲のメロディーには、口笛が似合うと思う。僕がこの曲のメロディーを弾いていて、いつもイメージしているのは、晩秋の自由が丘近辺から、駒沢公園をはさんでROUTE 246までの、街のたたずまいだ。東京独特の、これから冬になりそうな空気の乾燥度とか、そういう条件のもと、このメロディーを、かすれた口笛を吹きながら、気に入ったジャケットなどを着て、散歩をしている、そんなイメージをこの曲のメロディーから感じることができる。まあ、この感覚を、僕の意見だからといって限定するつもりはないけれど。だが、少なくとも僕がこの曲を演奏するときは、上記のような気分とイメージが、どうしても沸き起こってくる。自然と、CDの「LIKE SOMEONE IN LOVE」も、晩秋の駒沢公園辺りを散歩しているときのイメージで演奏した。何度も記すようだが、この曲のメロディーには、かすれた口笛の音が、よく似合う。
某月某日
新しいトリオ、「LIKE SOMEONE ION LOVE」のCDを買った方ならお分かりのように、今回の菊地氏のライナーの文章は、直接、CDの曲目を説明するといった常套句でないことがお分かりであろう。いずれにせよ、美文ではあるけれども。そこで、何の足しになるかは分からずとも、ここで、今回のCDの自分なりのライナー、乃至は所見を述べたいとおもう。再度誤解のないように一言加えるが、菊地氏の文書に、物足りなさを感じて書こうとするということでないことだけ、はっきりさせておきたいとおもう。これは僕なりの、自分に向けたライナーノートである。MY FOOLISH HEART言わずもがな、ビル・エヴァンスの名演のひとつである。事の起こりはこうだ。何年か前、菊地氏の仕事で、映画、「大停電の夜」という映画のサウンドトラックの製作に参加した。この映画をご覧になった方はお気づきであろうが、この「MY FOOLISH HEART」が、ある意味、狂言回しの役割をこの映画のストーリーの中で担っている。映画では使われなかったが、一応、ピアノトリオのフォーマットで演奏したヴァージョンが、今回のCDの最初の曲となった。これを演奏したとき、スタンダードのみのCDを制作するといったような意識は微塵もなく、ただ、サントラ用に、ビル・エヴァンスの演奏を、我がトリオのメンバーが、オリジナルの演奏を意識しながら、それなりに真似るような真似ないような、何ともいえない気恥ずかしさを覚えながら演奏したのが、今回のCDの第一曲目となった。後、いざ総本山のビル・エヴァンスの演奏と聴き比べてみたら、似せようとおもった演奏が、全然似ていないことに各自の演奏者が気付いたのであった。当たり前のことに気付くことには、逆に言えば、ある一定の演奏経験なり、各自のミュージシャンの感性の中の何かを刺激するものがなくては気付く筈はない。そういった観点から、よし、これはこれでいい演奏なのだとメンバー各自納得し、EWEのA&R,M氏に、スタンダードのみのCDを制作するというアイデアを発案してぶつけてみた。M氏は幸いにして、最初からその案に乗り気となった。ここから僕が、「MY FOOLISH HEART 」に続く、新たなるスタンダードナンバーを探すという新しい役割が生じたこととなる。追って、次の曲の自分なりの解説も、書いていこうと思う。しばし待たれよ。
某月某日
さて、今日はEWEより、新しいトリオのCD「LIKE SOMEONE IN LOVE」の発売日だ。残念ながら小用が重なり、今日の午後あたり、タワーレコードなどに、変装をして様子を見に行く時間がないのが悔しい。今日は、と書いたが、今は午前一時半。セロニアス・モンクのCDをかけて一人で祝杯をあげているところだ。おっと、酒がなくなったので、近くのコンビニエンスに出動してくる。しばし待たれよ。、、、、、、、(5分経過)えっと、夜のコンビニエンスというのは、何故あのように明るいのであろうか。瞳孔のスジの筋肉痛をおこすかと思った。しかも僕は蛍光灯が大嫌いである。我が部屋に入りまたモンクを聴きはじめる。意外に思われるかもしれないが、何故だか今年に入ってから、あまりCDで音楽を聴かない。なにも音楽を機械で再生しなくても、頭の中で鳴っているときがあるから、邪魔になるというのがひとつの理由だと思う。まあ、ある意味頭の中がラプソディーなんだろう。今回のCD、ライナーを菊地成孔氏に書いてもらった。秀逸な文章である。日本語の軸の部分を、いたぶったりくすぐったりしているような彼の文体は、とかくペシミスティックな文章になりがちな日本語という言語の中に有って、希有なリズムを持つと思う。どうあれ、ライナーの文章はライナーのごときにあらず、いわゆる曲紹介などを含めたライナーは、僕があらためて、後日書くことにしようかと思っている。ニュース番組を見ていると、どうもペシミスティックになっていけない。まあ、もともと、ジャズという20世紀に生まれた音楽は、近代、現代の人類のペシミズムを代表して表現しているような音楽だと、僕は感じているのだが、どうも、最近の世の中の動向は、ジャズが表現している、また、表現しようとしているペシミズムとは、また別種の様相を呈しているようにも思う。まあ、そういう気分のときでも、モンクのピアノは、今日のような、僕にとって特別な日に実にフィットするのだが。さあ、あしたから、また何が起ろうと、苦笑を軸に、口笛を吹きながら毎日を送ることとしよう。それしか対応策なさそうだからね。
某月某日
NEWSの欄のCD発売日が間違っていました。なぜか3月23日と記載してありましたが、4月23日の間違いです。また、新しく出る本のサブタイトルは、「-ピアニスト・エレジー銀座編-」と決定しました。内容を詳しく述べることは、本を出す意味がなくなりますので避けますが、僕が高校時代、ジャズに興味を持ち、毀誉褒貶、精神的天変地異、偶然と悪運と幸運の渦巻きの末、バブルの時代の銀座のナイトクラブの仕事を経て、アメリカに留学するまでの話しをまとめたものです。4月23日発売予定のCDは、NEWSの欄にあるように、スタンダードのみ、今回は、ストリングス無しの、掛け値無しのピアノトリオ演奏です。記載ミスをお詫びしたいと思います。なにしろ秘書もなく、全て手作業で行っており、小さな記載ミスが大事になることがあることは、重々承知していますが、ご勘弁下さい。
某月某日
まずは、本に関しての詳しい情報が新たに届きましたのでお知らせします。前の日記と重複するところは目をつぶってください。「白鍵と黒鍵の間に」ー ピアニスト・エレジー ー 銀座編 南博著 小学館定価 1785円(税込)5月15日発売。なんと、5月15日は僕の誕生日である。40歳を超えると、別段、誕生日という日にちに対して、深い感慨もわかなければ、誰も僕の誕生日を祝ってくれなくても、そんなもんだと思えるようになってくる。そういう思いの中には、僕が40歳の誕生日を迎えた時、もう充分10年分の誕生日の至福を受けるような誕生日パーティーを僕が満喫したということも影響していると思う。40歳の誕生日を迎えたのは、コペンハーゲンだった。ちょうど、キャスパー・トランバーグのバンドでのデンマークツアーが終わった日であった。7月初旬の陽気のいい日で、僕のために、演奏仲間や、その友達、各々のガールフレンドなどが、レストランでは味わうことができない、デンマークの家庭料理を持ち込み、あらゆる種類の酒を用意して、僕の誕生日を祝ってくれた。サックスプレーヤーのヤコブのアパートの前にある庭に、わざわざいくつかのテーブルを運んでくれて、なかなか暗くならない北欧の初夏の天空のもと、パーティーは時間の次元を超越して、止まるところを知らなかった。デンマークの家庭料理に舌鼓を打った後、僕も含めて、誕生日パーティーの参加者全員が、しこたま酒を飲み、らんちき騒ぎ寸前の状態で、僕が聞いたこともない、デンマークのお祝いのときに歌う古い歌などを彼らが合唱してくれて、僕の誕生日を祝ってくれた。そのとき僕は、自分の誕生日を十回ぐらい祝ってもらったような気がしていたのである。なぜかと言えば、少なくとも、あの乾燥して空気の中、コペンハーゲン郊外の、森に囲まれた白夜の中で行われ誕生日パーティーに匹敵するものは、二度と再現不可能だと思ったからである。それから七年間、誕生日らしいパーティもしたことも無ければ、実家にも帰ったわけでもなく、時はすぎた。だが、今回自分の本を出版するにあたって、その発売日が奇しくも自分の誕生日となった。これは特別、編集者と打ち合わせをした結果ではない。単なる偶然だ。七年前の、あのコペンハーゲン近郊の澄んだ空気の記憶が、今回は、本の発売という特殊な事情にて塗り替えられようとしている。時はうつろう。しかしうつろうがこその、飛び石的な特別な誕生日を迎えようとしている。いずれにせよ、これを吉事だと思い定め、飛び石でも良いから、また新たなる、そして違った形の誕生日を、将来も迎えたいものである。
某月某日
気がついてみたら、正月以来文章を書いていないことに気付いた。生来三日坊主ならぬ三十秒坊主である僕らしい所行ではあるが、今回だけは、他に確固とした理由がある。この日記以外のところで文章を書き続けていたからだ。それで日記まで手が回らなかった。ようやく三月中旬を過ぎ、書き続けることから解放されたのが、ついこのあいだ。実は本を出版する成り行きとなった。僥倖である。タイトルは、「白鍵と黒鍵のあいだに ー ピアニスト・エレジー銀座編」発売日、5月中旬、発行元、小学館。まあ、エッセーのような、そうでないような、僕の業が深いんだか浅いんだか、やる気があるんだか無いんだか、正直者なんだかずるい奴なんだか、よくわからない今までの所行を、あるときはアンティペダンティックに、ある時は饒舌に、ある時はささやくように書き下ろしたもの。正確な発売日、本の値段などは、またこの日記、またはウエッブのNEWSの欄でお知らせしたいと思っています。皆様、どうか本の出る日を楽しみにしていてください。さらに、新しいCDも発売となる。タイトルは、「LIKE SOMEONE IN LOVE」。曲目はスタンダードのみ。メンバーは、鈴木正人(B)芳垣安洋(DS)という布陣。発売日、4月23日。あえてオリジナル曲を入れなかったことについては、この日記の欄でその理由を書くことになるだろう。ちなみにライナーノートは菊地成孔氏が書いている。まあしかし、菊地君の文章であるから秀逸であるということは言うまでもないことだが、発売日が近づいたら、菊地君とはまた焦点と観点を異にした、自分自身のライナーノートを、次回の新譜のために書くつもりでいる。もし僕の三十秒坊主が頭をもたげなければの話しだけれど。双方の活動に新しい進展があれば、またこの欄に書き加えていきたいと思う。次回の日記を待たれよ。
