本日は終戦記念日ということに巷ではなっていますが、父親の意見は違いました。私の父親は戦争体験者です。毎年迎える「終戦記念日」の日に、私の父親の言っていた言葉をそのまま伝えます。
「終戦やない。負けたんや。負けるべくしてな。敗戦した日となぜいわんのか」
私の父親は、生粋の京都人でした。腹違いの三男坊で、大正11年生まれです。実家が四条河原町近くで旅館業を営んでいたため、舞子はん、芸子はんが祇園から自分の家に呼ばれてくるようなところで生まれ育っており、どうも旅館の息子として祇園では特別扱いを受け、旧制中学高の頃から酒を飲んでアーこりゃこりゃとやっていたらしい話しを親戚筋から聞いたことがあります。また、毎日のように歌舞伎見物をするほどの芝居好きで、将来は歌舞伎評論の道を目指していましたが、その夢も戦争によりご破算となりました。また、同じ親戚筋の話によると、腹違いの兄との確執があったらしく、一念発起し、猛勉強の末、早稲田大学に合格。一八歳の時、東京に出てきました。当時はまだ学徒出陣前で、大学生は徴兵されず、徴兵を逃れる為でもあっとそうです。
いずれにせよ、人間は生まれる時代を選べません。昭和十八年、学徒出陣が決まり、父親の元にも赤紙が届きました。近眼が幸いし、海軍に入隊したのですが、もし近眼ではなく、陸軍に入っていたならば、私はここに存在していなかったでしょう。少なくとも帝国海軍では三食まともな「めし」が食えたと言っていました。
ここからが父親の入隊、軍隊経験の話となるわけですが、被爆者と同じく、滅多に口にしませんでした。ごくたまに、ひどく酔っ払った時以外、戦争中のことはおくびにも出しませんでした。
新兵教育は舞鶴で行われたそうです。特に大学生は、たたき上げの軍隊経験十年以上の、伍長、軍曹などに目の敵にされました。彼等は大卒ではないので、幹部候補生というものになれない。つまり、いずれは新兵が上官となるということです。いずれにせよ、軍隊生活の右も左も分からぬ未経験者を、しごきにしごき、殴りに殴りつけたそうです。毎晩就寝時間前には、たるんどる、という理由で、海軍精神注入棒という、バットをわざと六角形に削った角の部分で、臀部を毎晩猛烈な勢いで叩かれ、ビンタを喰らわされるというしごきを受ける毎日を送りました。なぜ臀部かというと、怪我をされると兵隊として使い物にならないからです。父親を含め大学出身の新兵達は、あまりの環境の変化に耐えることができずにいました。中には新兵教育中、軍隊生活に耐えられず、兵舎の便所で首をつるインテリ大学生もいました。「ひどいはなしや」とぽつりと漏らした父親の顔を私は忘れられません。
新兵教育がある程度終わると、今度は小さなボートに乗せられ、舞鶴港沖まで新兵全員直立不動の姿勢のまま連れて行かれた後、上官に、この中に泳げぬ者はおるか、と問われる。何人かが手を挙げたそうですが、その瞬間、上官がそれら新兵を日本海の荒海に後ろから問答無用でケリを入れてたたき込む。「泳ぎをおぼえるのはアレが一番早いんや」と父親は言っていました。どんなカナヅチでも、荒海の中でバタバタしている内に泳ぎを覚えるそうです。覚えなかった者はただ家族の元に、名誉の戦死の通知があるのみ。
その後、操船の基礎を学び、父親が配属されたのは、佐世保の軍港に停泊していた第二等輸送艦という船でした。しかし、輸送艦といっても武装はしており、大砲も対空機関銃も装着してあり、しかも船底には、輸送艦であるため、通常の戦艦よりも大量の火薬、爆発物を積載しており、ある意味一番危険な軍艦であったそうです。
大学生であったことが幸いした父親はモールス信号を主とした通信兵となっており、佐世保沖での訓練が始まるのですが、ここでも父親は運が良い。なぜかというと、通信室は艦長室と同じ程度の頑丈さで造られていたからです。つまり船の心臓部、一番大切な艦橋部分であったことが、父親の命を守った事になります。
軍艦の訓練というものは、新兵教育より更に厳しく、朝五時五分前、「総員起こし五分前!」のかけ声、ラッパの音と共に目を覚まし、ハンモックを丁重にたたみセーラー服に着替え、ダッシュで班ごとに甲板に整列するのですが、一番整列が遅い班がビンタを食らう。各班にはどうしても軍隊生活に向かない者が何人かおり、二日も経つと、総員起こし前に自然と目が覚めるようになり、自分のハンモックを素早くたたんでから、とろい者を助けた後、甲板に駆け上がる、という日々が続く。
夜の航海訓練では、船内は真っ暗で物音ひとつたててはならぬということを、身体が覚えるまで繰り返され、物音を立てた者は、例のしごきが待っている。また、乗船していたはずの戦友が急に姿を消すという事件が起きたと言っていました。船上の厳しい訓練に耐えられず、自ら海に飛び込んだとのことです。
しかしこれから書き記す実戦での体験は、書きますが、筆舌に尽くしがたい。
父親はなんと、第二等輸送艦と共に、かの有名な沖縄特攻作戦に参加することが命じられます。戦艦大和を含む当時最後の連合艦隊をかき集めた、片道燃料で沖縄に突っ込むという特攻作戦です。命令を受けた父親は、通信兵であったため、他の兵隊よりも情報が豊富で、生きて帰れないことを悟り、遺髪を京都に送りました。
作戦開始後、豊後水道を横切り、奄美大島をすぎた辺りから、敵機グラマンに発見され、猛烈な爆弾投下、機銃掃射の嵐の中に突入していきます。
通信兵は伝声管という管を通して直に怒鳴りながら艦長から本部への報告、本部から艦長への命令を伝えなければならないのですが、戦争中というものは、うるさい、騒がしい、などというものとは桁が違うそうです。甲板で爆弾が炸裂し、四方から機銃掃射を浴びている状態なので、叫んでも艦長に伝言は伝わらない。声帯が飛び出すような怒鳴り声を出さないと何も伝わらなかったと言っていました。また、船の状態を逐次報告するのも通信兵の役目なので、丸窓から甲板を見下ろしてみると、そこには「死体」ではなく、身体の「かけら」が血の海の中に転がっていたそうです。それらの身体の「かけら」が、グラマンの落とす爆弾で船が傾くと、それによって生じる水柱と大きな波で、きれいさっぱり洗い流され、甲板から消えてなくなる。すると第二班が甲板に飛び出して行き、大方の者が再び肢体をばらばらにされ、水柱と大波で消えてゆく。これが何度も繰り返される。
「撃たれた、やられた」「大丈夫か、今助けてやる」戦争映画でよく聞くセリフですが、父親は、「あれはうそや」と言っていました。
一番厳しく意地悪だった鬼軍曹が、船の舳先で日本刀を振り回しながら、「撃て−!撃てー!」と叫んでいたそうです。その鬼軍曹の姿は即座に波間に消えていきました。
状況は次第に不利となり、父親の乗る第二等輸送艦は傾きはじめます。艦長が伝声管を通じて、総員退避命令を出す。それを甲板、船底等に伝声管で伝えるのも父親の役割でした。生き残った者は救命ボートに乗り、各々船から離れるのですが、通信兵は、総員待避後にやらなくてはならないことがあり、救命ボートには乗ることができなかったそうです。海軍本部への沈没間近であることの状況報告、暗号帳を燃やすなど、心臓部に居ただけのつけは払わされたと言っていました。
やがて船の傾斜がひどくなり、上官、通信兵も待避の時が来るのですが、既に救命ボートは残っておらず、とにかく海に飛び込んで、船からなるべく離れた場所まで泳ぐよう教育を受けていたそうです。軍艦に限らず、船というものは、エンジン部分を下にして縦に沈む。その後、渦潮が発生し、そこに飲み込まれると二度と浮かんでこられない。
父親が海に飛び込んだ後、生き残った者達が荒れ狂う海上で何とか集合し員数を数える。その生き残りの中で一番位の高い上官が「番号!」と叫ぶ。「いちばん!」「にばん!」と生き残った水兵が叫ぶ。そこで員数を確認し終わった上官が先頭となり、薄暗くなった空の中に南十字星を見つけて方角を定め、奄美大島の方向に向けて、一列になって海軍式遠泳法で泳ぎはじめる。
定期的に先頭の上官から「番号!」というかけ声が聞こえる。
「いちばん!」「にばん!」「さんばん!」「よばん!」「ごばん!」という具合に十数人が自らの番号を答える。父親は真ん中辺りの隊列におり、夜になり真っ暗な海上を、唯々先頭の者の頭を見失わないよう必死に泳ぎ続ける。時折聞こえてくる「番号!」のかけ声に呼応していた生き残った者達の声が、時間が経つれ聞こえなくなっていく。
「いちばん!」「にばん!」「さんばん!」「よばん!」「ごばん!」「ろくばん!」、このかけ声が、「番号!」「いちばん!」「にばん!」「よばん!」「ななばん!」と欠けてゆく。誰一人として戦友を担いで泳ぐ余裕のある者はいなかったそうです。とにかく生き残った者のみが夜を徹して上官の泳ぐ方向に付いていくしかない。父親は、明け方すぎに気を失いかけたそうですが、「番号!」の声に我に返り、自分の番号を叫んだそうです。しかしその時点で、数字の欠け具合は、相当酷いことになっていました。「にばん!」「ななばん!」「じゅういちばん!」
一昼夜と半日を泳ぎ切り、奄美大島が見えた時、助かった者も半分以下になっていました。
しかも、やっとたどり着いた奄美大島の海岸で、再度グラマンに発見され、機銃掃射を受け、仲間の何人かが砂浜に倒れたと言っていました。
その後、父親は、奄美大島で何日か過ごした後、九州に駆逐艦で待避することができました。
その後、乗船する戦艦がもう無いという理由から、新潟にある海軍基地で陸上勤務を命じられます。そこでの任務は、日本海の傍聴というものでした。ヘッドフォーンのような器具を装着して、日本海にいる米海軍潜水艦の動向を探るというのが任務だったのですが、既に昭和二十年の中頃のことであり、日本には駆逐艦が残っていなかったため、父親の「防諜活動」からは、隠密行動が主である敵潜水艦からレコードの音が、ヘッドフォーンをとおして聞こえてきたそうです。
「その音楽がな、今まで聴いたこともないような、いい音楽でな」
私は勝手に、その音楽は、アンドリュー・シスターズか、グレンミラーオーケストラではないかと推測しているのですが、もしそうだとすれば、父親が聴いた初めてのジャズであった可能性も否めません。どちらにせよ、潜水艦の中でレコードを聴いているということが分かった時点で、父親は、これは戦争に負けると悟ったそうです。しかし上官には、潜水艦から音楽が聴こえてきたとは報告できなかった。なぜならば、それを報告すること自体、当時の日本では戦争に負けることを宣告するに等しく、皆うすうすと感じていたものの、日本が戦争に負けるということ、及びそれに類する言動は厳しく制限されていました。ですから父親は、ただ傍聴した潜水艦の数だけ報告をしていたそうです。
「今まで聴いたこともない、えらいきれいでノリのよい音楽がきこえてきたんや。あれがジャズちゃうか。ああ、これはしまいや、戦争には負けると思うた」
父親の言葉です。
そして、新潟に半年ばかりいた父は敗戦を迎えます。8月15日昼、海軍基地内の中庭に整列せよという命令があり、玉音放送を聴きました。ああ、終わった、と頭の中がカラになったと言っていました。
「玉音放送のちょうど三時間後に、B29の大編隊が海軍基地に向かってきよった。戦争が終わっても叩かれると思っていたら、ちがったんや。となりに捕虜収容所があってな、一つのミスもなくパラシュートで物資を落としていく。しばらくしてから、収容所の門がバーンと開いて、きれいにヒゲを剃り、新しい軍服を着たアメリカ兵が、腰にコルトガヴァメントというピストルを装着してな、口笛を吹きながら出てきよった。最初は奴らに殺されるとおもったんや。だけどな、奴らはただ陽気な若者達で、はしゃいどった。ああ、これは戦争に負けるはな。心底そうおもうた」
その後、父親は武装解除の訓示を受け、手持ちのピストルと軍刀を取り上げられ、一路新潟から、かろうじて空襲を逃れた京都に帰りました。
父が正気を保てたのは、根が明るく、いつかはまた芝居見物がしたいという想いがあったからだと思います。子供の頃、父親と一緒に風呂に入ると、臀部だけが黒茶色で不思議に思っていました。これも戦争の痕跡でしょうが、五体満足で帰ってきた父親は相当運がよく、しかも奇跡的だったと言えるでしょう。
そして以下が、しらふの時にもよく言っていた父親の言葉です。
「戦争中の意地悪な上官よりも腹立たしかったのは、戦前から戦争中にかけて、戦争バンザイと唱えていた評論家、政治家、小説家、軍人のたぐい、そいつらがな、戦後ころっと態度を変えて、民主主義はええ、アメリカはええ言い始めた。そいつら戦争に行かへんねん。内地でぬくぬくとな。これにいちばん腹が立った。腹が立って腹が立ってしかたがなかった」