学習するとは

私は小学校時代から、日本の学校というシステムにおいて、まったく勉強ができない、もとい、勉強することができない性格、言い方を変えるならば、授業のスピードについていけない考え癖を持っており、今でもその傾向は残っています。一例を挙げると、たとえば小学校の授業に於いて、一時限目から、国語算数理科社会と授業が進むとして、国語の時間に何か疑問に思うことがあると、それを自分で納得するまで考え続けなければ気が済まず、ああでもないこうでもないとその疑問に対し空想、妄想、関連付け、等を小学生ながら思考し続け、自分で納得するまでは、その疑問から自らの思考を離すことができなかったのです。時間的には、考え続けている内に、授業自体、算数、理科、社会と進んでいるのですが、私の頭の中は国語の疑問のままなので、畢竟それらの科目のことがまったく頭に入らず、先生の声も聞こえているようで聞こえていませんでした。ですからこれは当たり前な結果なのですが、私の成績表は、1と5のみという、極端な結果になる事が多くありました。気分転換が下手、頭の切り替えが下手と言われればそれまでですが、私なりの学習法というものを自らあみだしていました。どういうことかと言えば、その国語の疑問点が私なりに理解できたとき、その疑問を納得した道筋で、他の教科の疑問点も考えれば、教わることの理解度が増すことを発見していたからです。これこそが学習というものではないのでしょうか。ですが、いかんせん授業のスピードというものが、私にとってはいつも速すぎた。

この考え癖は、中学に入ってからもなぜか抜けきれず、いちじるしい成績の低下を招き、数学、国語は言うに及ばず、保健体育などの教科は私の頭の埒外でした。テストというものは、総合的に判断されるもので、平均点が高い者が良い高校へ進学できる仕組みとなっています。ひるがえって私の場合、あることに関しては、先生の知識を凌駕するほどに詳しく知っていたり、その疑問点から枝分かれした、自ら本を読んだりして調べた知識により、自分の中ではより豊富な知識を得たりしていたのです。更に、その疑問点の周辺から派生した新たなる知識を独自に掘り下げた結果、その疑問点から素晴らしい、別の新たなる学びを得ることも間々ありました。ですが、そのような知識はテスト問題にはならないのです。結果として点数は落ちます。

中学入学後、特に数学に於いて、数学は最高の美である、と萩原朔太郎が彼のアフォリズムで喝破しているように、形而上的に考えれば、こんなに面白く素晴らしいものはないと、今は理解できるのですが、成績はやはり目も当てられないものとなっていました。たとえば分数に於いて、最初に算数の時間に教わったことが影響し、中学の途中から完全について行けなくなってしまいました。羊羹が一本あります。これを三等分します。すると三等分されたうちの羊羹の一つが1/3となります、と教わった私は、たとえば7/9×3/8という問題が出ると、いったい羊羹はどのような形状、破片になるのだろう、羊羹をカケルということがはたして可能なのか、可能だとしてその大きさはどうなってしまうのだという、まったく本筋からかけ離れた思考に陥り、まったく問題が解けなくなってしまうのでした。重複しますが、中学生の時分、形而上という概念さえ心得ていれば、私にも数学が理解できたと思うのですが、残念ながら、中学生の私に、数学の本質は形而上的であるということが理解できませんでした。円周率も、私にとっては深い謎そのもので、百万桁を超える数字の羅列というものがとても魅惑的であったのですが、ではなぜ割り切れないのかということに思考が及び、授業から脱線していってしまうのです。π=3.14と覚えてさっさと先生の教える次の課題に注目すれば良いものを、私にはそれができませんでした。宇宙というものは、何かとんでもない法則で出来上がっているようだ。それを古代ギリシャ人が既に思いついていた。彼等はどうやって、しかも何のためにこの円周率を「割り出したい」と考えたのだろうか。どのような計算法、どのような文字でこの問題に挑んだのだろう、多分建築のためではあろうが、それにしても、太古の人類の方が現代人より賢かったのではないかと、空想と妄想の世界に陥り、授業はそっちのけ。
幸い、子供の頃からピアノを習っていましたので、ピアノを弾くことが、その頃から私の救いとなっていました。平均律や倍音のことを考えれば、音楽もとてつもなく数学的な側面を持っているのですが、中学生の私はそのようなことはつゆ知らず、ある意味「答え」というものがない「音楽」というものに無意識ではあれ惹かれていたのは、学校の授業が、ことごとく正しい「答え」のみを求める作業の連続で、私は既にその「授業」というもの自体に辟易としていたのです。当時の私の心境をもっと詳しく述べるならば、「ちょっと待って!先生、考える時間を少しだけ下さい。私は自分なりに物事を解釈する方法を知っています。それには少し時間がかかるのですが、そのことを理解することによって、更に知識が広がるという発見もしています。ですから、少しだけ授業のスピードを落として下さい。お願いします」でした。
なんだ、ただ物事を理解するのが遅くのろまで、物分かりが遅い、悪いだけではないか、といわれればそれまでであり、仰るとおりなのですが、これが私という人間なのですからしかたがありません。

しかし、このような私が、アメリカの音楽学校に行って英語で授業を受けようとは、中学生の自分に問うてみたら、「無理にキマッテル」です。ですが私はアメリカの音楽学校を、優等ではないにせよ卒業したのでした。しかも、最初の一年目は、英語がろくに分からない状態であったにもかかわらず、授業にはついて行けました。五線と音符、それに付随したサウンドがあれば、言葉は分からずとも、なるほど!と頓悟することの何と多かったことか。またその喜びもひとしおでした。しかも、アメリカという国は面白い所で、学生が先生を評価するのです。授業開始から中間試験の間と記憶していますが、紙が配られるのです。それは先生の評価を記すもので、このような質問が表記されていました。

あなたの先生は:ちゃんと授業に現れるか/人種差別はしないか/下調べをしてくるか/言葉使いは丁寧か/ちゃんと理解するように授業を進めているか/等々の質問事項が書かれてあり、学生の方が、Very good,Good, Not good等の項目にチェックを入れてゆく方式のものでした。良く考えればこれが当たり前なのです。私はアメリカという国がしていることを全て礼賛するつもりは毛頭ありませんが、授業料を払っているのはこちらであり、先生は、生徒が理解できるまで説明する義務があるのです。アメリカのプラグマティズムは時に、使い方を間違えなければ、もの凄く良い力を持っていることを再確認した瞬間でした。
私が心の底から人を憎んだことはただ一回、中学時代の体育の教師で、やたらめったら生徒を竹刀で叩きまくるという御仁で、叩くのに理由はないのです。叩きたいときに叩きたい生徒を叩くという先生でした。義務教育とはいえ、日本の学校にもアメリカの先生評価のシステムが導入されていれば、貴奴はとうの昔に首になっていたはずです。

話しは逸れましたが、爾来、私はアメリカの学校の居心地が良くなり、良く学びよく学習する、私の学生時代という範疇に於いて、最初で最後の良い生徒となれたのでした。
アメリカの学校では、音楽以外のことも、色々と学びました。Spell Out という意味は、略さずに欧文を綴ることを意味しますが、音楽用語では、たとえば、Spell out this scaleとなると、その音階の構成音を問うという意味に変わります。或る日、英語がまだたどたどしい頃、音楽理論の授業にて、先生が「Can you spell out this altered scale?」
と生徒に向かい聞いたことがありました。私は既にオルタードスケールを知っており、その程度の英語は解しました。しかもその綴りも知っていたので、今まで黙って授業を受けていた自分を鼓舞するため、勇気を振り絞り、ここぞとばかり手を挙げたのでした。
「OK、Hiroshi,you answer this question」私はアメリカ人の先生に向かって得意になって、しかも大声で「A,L,T,E,R、、、」とスケール名の綴りを答えてしまったのでした。本当はその音階の音名を答えなければならなかったのですが、その先生、急に顔をしかめて、「日本人に英語の綴りを教わるいわれはない!」と急に怒りだし、授業がぐしゃぐしゃになってしまったのを今でも覚えています。やはり私には学校という組織自体が、向いていないのかも知れません。

しかし今日も暑いですね。皆さん身体にお気を付けて。

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