某月某日
先日、下北沢にあるクラブ、ApolloにてJam sessionならぬJazz Sessionに参加し、とても楽しい一夜を過ごしました。殆どの演奏者は私より若いベーシスト、サックス奏者であり、気が付いたら、私が一番年長で、とても心強く感じたと共に、何やら不思議な感覚に襲われました。私が40代だったとき、ジャズなんてものは、私の世代以降のものは演奏しないだろうと、何の根拠もなく思っていたからです。ジャズも私の世代で終わりだ。こんなシチめんどくさくて奥深く、労力のわりに報われないことを、現代の合理的な若者がするはずがないと高をくくっていたのです。また、話しは逸れますが、ビル・エヴァンスよりも長生きするとは夢にも思っていませんでした。その若者世代、皆楽器が達者で個性も感性も申し分ないのですから、ジャズもなかなか捨てたものではありません。私はご存知のとおりバブルを通過した世代で、だらだら一曲演奏していたら、チップが5万円もらえたりした時代を生きてきたのですが、おそらく彼等にはそういう経験はなく、だからこそだらだらとした演奏はせず、皆真剣そのものでした。

現在の私は、四捨五入すれば、数学的に60代であり、還暦まではまだ四年あるとしても、時間は逆行しません。唯々馬齢を積み重ねるのではなく、今できることを、今演奏すべきことを実行するしかないのですが、エヴァンスが51才でこの世を去った事を筆頭に、何を指針にして、どういうことを「実行」するべきなのか、日々試行錯誤しております。ピアノの正式名称はピアノフォルテであり、ダイナミックスを充分に生かした演奏ができる楽器であると同時に、ギター、ベースのように、直接「弦」に触れることのできない楽器でもあります。つまり間接的に鍵盤を奏でることによってフエルトが弦を振動させるという、どうにもこうにも複雑な楽器で、直接弦に触れつつ演奏できる楽器奏者がうらやましくてたまりません。更に、サックスのように、サブトーン、ひゅるっと音階を上下する等というワザが鍵盤楽器では不可能です。一音を長く伸ばすこともピアノにはできません。グリッサンドといっても、ドとレの間の音を出すことも、楽器の性質上、倍音のことを考えなければ、演奏不可能です。ということでサックス奏者もうらやましい。逆にピアノにしかできない利点も沢山あるのですが、どうもジャズという音楽は、サックス、トランペットを主体として発展してきた歴史的経緯があるような気がしてならないのです。チャーリー・パーカーがいなければバド・パウエルはあの奏法にはならなかったであろうし、バド・パウエルがいなければそれこそビル・エヴァンスも、ということはハービー・ハンコックも存在し得ない。このような例を挙げれば枚挙に暇がないのではないでしょうか。

セッシォンとは面白いもので、自分が演奏したり、相手が演奏しているのを聴いたりという時間が交錯する場でもあります。その機会に乗じてよくよく色々な楽器類を観察してみると、何を今更と思われるかも知れませんが、サックス、トランペット等の管楽器奏者は(ベーシストを含め)、どういうクラブであれステージであれ、お客様に正面から、つまり対峙して自分の音を一直線に放つことができる楽器であることを痛感しました。ひるがえってピアニストは、客席に対し横を向いたり、下手をしたら尻を向けて演奏する宿命にあるのです。これは大きな違いだなと、楽器が上手い下手以前の、楽器の性質を更に痛感しました。またこれは蛇足ですが、自分の楽器を持って移動できるということ自体、我々ピアニストにとって羨望の的なのです。根性で自分のピアノを担げれば持って歩きますが、たとえピアノを背中にしょいこめたとしても、0・5秒後にはあの世にいってしまうでしょう。まあ、ピアノの下敷きになり、あの世行きというのもピアニスト冥利に尽きるのかも知れませんが、残されたまわりの者は迷惑きわまりないでしょう。今生きているだけで迷惑をかけている部分もあるわけですから。

このような考察は、ピアノを教えること自体にも反映されます。ピアノを教えること自体、楽器の利点、特徴、音色、機能、挙げていけばきりがありませんが、それらのことを総合的に説明せざるを得ません。それを避けて、コードの読み方、スケール、アドリブのやり方のみを説明することは不可能です。いずれにせよ、まったく大変な楽器に関わってしまったなあと思う次第です。先ほどピアノという楽器にも利点があると書きましたが、それをあげつらっているとキーボードを打つ指が痺れる分量の文章を書かざるを得なくなりますので割愛しますが、もしかしたら、最大の利点は、運が良ければですが、一生涯退屈することはないだろうということなのかも知れません。と言いつつ、今少し退屈なのですが。

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