2015年に「2001年宇宙の旅」

昨日、渋谷Bunkamuraにて、ライブシネマコンサート「2001年宇宙の旅」を観に、そしてまた聴きに行った。どういうことかというと、映画のサウンドトラックを生のオーケストラと共に映像を観るという趣向。ステキな企画ではあったが、ある意味演奏や映像自体に集中することができなかった。というのも、初めてこの映画を観に行った時のあれやこれやが、脳内を占拠してしてしまった為である。

私が「2001年宇宙の旅」を初めて見たのは、小学校3年生の時であった。当時の母親と共に銀座にあった映画館に出向いたのである。今から考えれば漫画的だが、新聞に載ったこの映画の広告を見て怪獣映画と勘違いし、母親に連れて行ってくれるようにせがんだのである。映画館の名前は失念したが、とうの昔に姿を消している。いずれにせよスクリーンが名古屋のきし麺状のパノラマ上映で、親子二人で前の方の席に座ったのであるから、母親としてはある意味たまったもんじゃなかったであろう。何しろ怪獣映画を何となく子供に見せておけば良いと思っていた矢先、太古の地球のシーンから猿が飛び出し、ドミノ状のモノリスに触った猿が急激に賢くなり、武器として握った動物の骨があっという間に宇宙船に取って代わる。キューブリック究極のメタファーだが、小学校低学年の南小年に解るはずもない。

「お母さん、いつ怪獣出てくるの?」
「黙ってみてなさい」
「あの漢字はなんて読むの?」
「だまってみてなさい」
「ネエ、どうして猿の骨が宇宙船になるの?」
「黙ってみてなさい」

当時の我が家は世田谷の団地住まいで、テレビは白黒、また、母親がアーサー・C・クラークもキューブリックも知る由もなく、私と母親は究極の「場違い」に身を置いていたことになる。現代音楽のリゲティも、ヨハン・シュトラウスも、鉄腕アトムの主題歌とはほど遠かった。最後のシーンに至っては、母親に説明を求めることさえ忘れて、私の脳内は、キューブリックの色彩と音楽でいっぱいになってしまったのであった。そして今でも覚えているのは、映画館を後にする我々親子が茫然自失状態であったことだ。これは今から思えばキューブリックの力業である。つまり、怪獣映画と勘違いしたごく普通の日本人の親子に、なにがしかの莫大なる影響を与えた証であろう筈だからで、それは今でも僕の体幹の部分から来る感性が、無言の母親と映画館を出た瞬間と重なり合うことで、キューブリックの映像が二人を飲み込んだことには変わりあるまい。

そして、この映画は後年の私にとって、芸術に対する究極の意味合いを持つようになる。どういうことかというと、表現とは何かということを、幸いにも小学校低学年で体験し、中学、高校と歳を追うごとに、この作品の意味の深さが、子供の時に観たからこその体感を伴った体験として脳内に映像が飛び交うようになったからだ。映画のぶっ飛びさ加減、撮影秘話、キューブリックという映画監督のことに関してと、後付ながら自然に知識も蓄積され、無言で映画館を後にした少年の記憶に、様々な意味づけ、知識、情報が加味されていった。今だから理解できることだが、アーサー・C・クラークの原作を、たとえばエミリー・ブロンテの名作、「嵐が丘」のように、原作に忠実に映像化するのは不可能であると思う。そこでキューブリックは己が映像美と輪廻転生的な宇宙の回転を、見事なる静寂とウイーンのワルツと、震える歌声でうっちゃり擲ったのではなかろうか。しかも、擲りつつ細部には精緻なるこだわりを労し、団地住まいの昭和の親子さえ、どこかしら遠くの世界に旅立たせるだけの魔力を映像で表現した。

怪獣映画からほど遠いその映像は、映画を観てから長い間、私の学業に決定的なダメージを楔のように打ち込んだ。元々授業に集中するようなデキの良い少年ではなかったが、先生が教壇で何か喋っている間にも、私の頭の中には、あの映画の静寂と呼吸音、テレビ電話、宇宙食、そして最後の胎児の大写しが脳内に行き交い、行きつ戻りつ、夢うつつの我ここにあらずの状態が脳内の専売特許となり、授業など、さながら逆に言ってみれば、木星での出来事のような状態が続いたのであった。

昨日のイヴェントにて、久しぶりに大きなスクリーンでこの映画を再見したが、まず思ったことは、少年の私がこの映画にヤラレルのは致し方ないということだということが、再確認できたことであった。日本上映は1968年と記憶しているが、白黒テレビしか無いあの時代に、これを大写しのシネラマで観たということの意味は非常に大きい。同時に、映像を見ていて少し悲しくもあった。昭和の時代にこの映画を観た私は、未来は素晴らしく夢にあふれ、21世紀になれば、人類は宇宙に進出し、何かとんでもないモノを発見するのだと信じて疑わなかったのである。アメリカもソ連(映像の)も仲良くなり、人類自体がより洗練されると思いこんでいた。しかるに昨今、残念ながら、我々人類は未だに、地べたの上で殺し殺され、爆発攻撃を双方に繰り返している。残念でならない。しかし一番残念に思っているのは、今は亡きキューブリック本人なのではあるまいか。

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