夏の秋

本日は午前中、一人生徒さんを教えた後、身体の声を聞いて全面的に休みとした。

その生徒さんは歴としたクラシックピアノの先生であり、譜面も読め、基礎的音楽理論もご存知の方なので、教えるこちら側としても非常に有意義なレッスンをすることができる。ジャズ・ポップスのセオリーと言っても、クラシック音楽約四百年間営々と、言葉を変えればさまざまな作曲家、演奏家達が時の王や貴族のご機嫌を伺いながらも血の滲むような創意工夫と創作の結果を、アメリカの地に於いて、高々百年強の間にそれを体系化したものに過ぎない。だからこそとも言えるのだが、その生徒さんには、クラシック音楽とジャズの相違点を見つける事の楽しみを毎回のレッスンで感じている様が教えていて良く分かる。

教え終わった後、涼しいのに何故か脱力感があり、ぼーっとする事とした。本当は指の練習、作曲したいことがあるのだが、接宅の小体な庭先で雨音などを聴いていると、普段翻弄されている雑務を離れ、頭の中が自然音に溶け込んで行くようで、心地よい事に気づき、そのままテラスで雨上がり後の陽の光や青空を眺め、暗くなるまでそこで過ごした。

暗くなれば虫の声が少し聞こえてくる季節となった事が分かる。本当はお気に入りの近所の公園に散歩に行きたかったが、どうもこのご時世故に、用もなく外に出る気が起こらず、庭先を見つめながら過ごした。

引っ越した時に植えた小さかったビワの木も、隣のマンションからの視線を遮る役割を果たすまで大きくなり、その木が擁する枝葉の緑が目に染みるようだ。

暗くなって来ると、左隣のマンションのテラスによく出て来る御仁が居り、どういう偶然の一致なのか、それとも頻繁に外にで出る習慣がある方なのかは察しがつかないが、遠目にではあるが良く顔を合わす。

顔を合わすと言っても挨拶をするような近距離ではないので、顔形もはっきりと判別はできないが、妙な仲間意識のようなものがある。多分あちらさんも外の空気を吸い、緑を直に感じたいと思うその心は、私と同じだろう。

渋谷も近いこの地でも、鳥の声も聴こえてくる。私は植物、動物の名にとても疎い。例えば花であれば、タンポポ、薔薇、チューリップ、菊、それぐらいしか思い浮かばない。あとはみな私にとって「花」でしかない。木の種類に関しても、松、樫、白樺、杉、それ以外は皆「木」としか認識できない。

同じくして、鳥の名も全然分からない。スズメ、九官鳥、白鳥、カラス、ツバメ、その他の鳥類も皆私にとっては「鳥」でしかない。

虫の名も同様だが、秋の到来がそう遠く無い事はその名も知らぬ虫の声で察知できる。花鳥風月が分からぬ人間は滅びるととある偉い先生がおっしゃっておられたが、その通りであろう。私がその滅びの原因を招くであろう人間の一人だ。

高校3年の時に、とある機会があり、久留米の田舎の寺に投宿した際、私は夜がどれほど暗いかを初めて知った。と同時に、夜空にはこんなにたくさんのお星様が輝くのか、という驚きを未だに忘れてはいない。

自然界の花鳥風月は私にある種の安堵をもたらすが、自然とは今回の伝染病も我々人間にもたらす訳で、のんびり虫の声を聞いていられるのも、そう長くはないのかも知れない。

 

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