ソニー

アメリカの音楽学校に留学してから半年後ぐらいだったかな。場所はボストンだったけど、いわゆるローカルギグに誘ってもらえる様になった。ボストンのバックベイという中心地から、ロックスベリーという、学校のオリエンテーションでは絶対に行ってはいけないと言われた黒人街まで、ボストン近郊の町を含め、なんだかんだ演奏して廻った。最初に私を誘ってくれあのは、同じく留学中の日本人ドラマーHさんだったのだけれど、Hさんはソニーというアルト吹きと仲が良くて、そのソニーが営業が上手く、よくこんな仕事見つけてくるなあ、みたいな場所で、Hさんとソニー、ベースは名前忘れましたがやはり黒人の半プロみたいな人と、ソニーのボロ車にドラムセット積んで、季節を問わずマサチューセッツの奥の方までも演奏しに行った。

ソニーはその時五十絡みの、黒人にしては浅黒い肌をしていて、白いヒゲを軍人風にそろえ、同じくグレイヘアーを短髪に刈り込んだ、黒人にしては小柄なオジサンだった。彼は何故か日本人の留学生が好きで、オレはサダオ・ワタナベとヤツが学生だった頃一緒にやっていたんだと自慢げによく言っていた。と言うことはあの頃、つまり1990年頃の話だが、60代だったのかも知れない。その頃あまりアメリカの生活にも慣れてはいなくて、黒人の年齢がよく分からなかった。と言うか、ソニーが若く見えたのかもしてない。

アメリカに留学する為に、東京でいわゆる営業の仕事をたくさんしたけれど、留学先でまた営業、ここではエイギョーと書こうかな、をするとは夢にも思っていなかった。

分かってるよ。おまえらジャパニーズはジャズがやりたくてわざわざステーツまで来たんだろ。だがな、オレの取る仕事は聴いてる人が知っている曲も演奏しなきゃならんのだ。ファンクFusionも、ポップスもな。

これがソニーの口癖第2号で、銀座のバンマスと同じ事をアメリカでも言われるとはこれまた夢にも思わなかったが、日本料理屋で皿洗ってるよりはマシだし、ギャラもけっこう良かった。

特別リハーサルはしなかった。いつもソニーが譜面を用意してくれて、今日のこの場所はこんな曲がお似合いさ、と言いながら何曲か譜面を配る。そういう事を何度かしているうちにこっちも曲を覚えるので、だんだん譜面も配られなくなって行く。ワンギグだいたい40ドルくらいもらえたっけな。でもそれが週3回あったりすることも稀では無かったので、ソニーには随分世話になった。

今でも覚えているソニーとの仕事と言えば、ロックスベリーのど真ん中にある、壁をトンと叩いただけで崩壊しそうなボロいディスコ風の店でのパーディーの仕事の時だ。他のロックスベリーの仕事をもう何度もソニーと演奏していたけれど、そこのあたりは黒人街でも相当に危ない地域だということは一眼で分かった。何故かって黒人さえも外を歩いていなかったからだ。ソニーも、ここら辺は危ないから、お前らジャパニーズは外に出るな、なんて珍しく注意されたっけ。

そこでいつものように、マイケルジャクソンとか、ヒューイルイスとかポップスやって、J・ブラウンのファンクなんかを演奏した。曲間にソニーがフロントからこちらに振り返り、サダオに教わったフレーズ次の曲で吹くから、とかジョークととって良いのか軽い嫌味なのか判別のつかない事を言ってニヤっと笑ったりした事を覚えている。オレ達の演奏で踊っている連中もこれまたスゴイ奴らばかりで、中年の黒人おばさんとか、着飾ってるんだけど、どうみてもその格好が70thな雰囲気だったりして、窓の外の風景はと言えば、電柱のケーブルはちぎれてるし、タイヤ4本ともない車が路上のそこかしこにころがっていて、ソニーに注意されなくても、まあ、外に出る気にはなれなかった。

セットの合間にソニーがそこのボロディスコのオーナーと次の仕事の話を付けているところを偶然立ち聞きした事があるが、これが英語か?と思うほど何を喋ってるんだか全然分からない黒人英語で、なんだかすごく面白かった。その時は珍しく、楽屋にソニーのカミさんも来ていて、その時初めて会ったんだけど、真っ白なマニュキュアを長い爪に塗りたくっていたから、私が思わず、「Oh,you can not play the piano right?」と言ったら、ソニーが飲みかけのコーヒーを吹き出しながら笑い転げた。ツボにハマったんだな。黒人に向かってジャパニーズのオレが、あんたピアノ弾けないだろって、今考えても悪いジョークだ。

あの頃から三十年経ってしまった。ソニーは元気なのかな。

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