本日は新宿にて水谷浩章(B)林ライガ(DS)とのある意味変則トリオで演奏。昼の部で演奏するのもなかなか味のあるもので、13時半に演奏開始、終わりは16時だが、その間身体は夜の気分だ。しかし家に帰ると17時であり、何やら腹時計が狂う。もう何十年も夜20時から23時の間に全てのエネルギーを集中してきたので、昨今の緊急事態による18時開始、20時終了というのも、何やら最初は調子が狂ってしまっていた。だがその狂いも二、三回同時間に演奏開始することにより、と言うよりも、共演者の音を来た瞬間に時間感覚は無くなる。私が演奏しているクラブは、地下や窓のない空間が多く、陽の光はいずれにせよ見えない。元々時間感覚が無くなる空間で長年演奏した来たゆえ、緊急事態も時短もどうでも良くなってきた。しかし、クラブによってはこのコロナ禍の中、ライブ演奏を中止せざるを得ない場所もあり、その点は翻弄される。本当は何かしらのデモンストレーションに参加して暴れたい気分だが、その気力を演奏に、少し武貼った言い方をすれば、消化した方が身の為と本能的に思う。
今日の演奏は、いつもより更に弾き過ぎないという事に留意した。私の知るミュージシャンの多くは、Iphoneなどで自分の演奏を録音し、後で聴き返しているものも多数いるが、私はどうしてもそれが出来ない。演奏直前はどうも脳みその芯の部分に意識がグッと集中してしまい、仏教で言う阿頼耶識から何かを引き出そうとしているので、機械操作まで気持ちが回らない。
本日の水谷氏は共演歴かれこれ四十年以上という盟友であり、林氏は若手のホープだ。こんな若手も居るんだなというオリジナリティーに溢れている。これは私の私見だが、ドラマーとヴォーカリストはそうなるべく生まれて来た人のやる事だと思う。もちろん練習も大切だが、太鼓叩いたら出来ちゃった。あーと声を出したら歌になっていた、という意味である。ピアノやサックス、その他の楽器は死ぬほど練習すればある一定レヴェルまで到達できるが、太鼓とヴォーカルはやはり別物で、それを体現しているのが林氏だと思う。
水谷氏のベースは、当たり前ながら、ベーシストとしてのベースであり、つまりボトムを支えつつ、こちらのソロを聴き込んだ上で高音部に攻めてくると言う何とも言えぬ妙味を心得ており、演奏している事自体楽しいが、その楽しみを倍増させてくれる感性が光る。ジャズとは楽器をおもちゃのようにして弄ぶ行為だと言うことを、彼の演奏を聴いていると再確認する事となる。
先に演奏が始まれば夜も昼もないような事を書いたばかりだが、身体の疲労感がやはり夜の演奏とは違う。起き抜けに準備運動抜きでダッシュ千メートル走るに同じ。否、疲労感と言うかやはり違和感ありかな。精神的達成感が大きいとも言える。これはもは多分、スポーツとも違った何らかの世界への入り口を通り抜けた感覚に近い。つまり真剣に余裕を持って遊ぶと言うのが最も適しているのかも知れない。だからこそ、何も思い浮かばない時は、何も弾かないという最も簡単そうで実はやらかしてしまう事に留意する事が必要となってくる。本日の演奏はPIT INNのWEBSITEで聴く事が出来るので、少し間を開けた後、チラ見する予定。ちょっと聴けば、自分が引き過ぎているかいないかぐらいは既に分かる。いわんや、一音で観客を圧倒できればこれ正に名人志ん生師匠の境地となる。
落語と楽器演奏の共通点は多く、まずどこかバカバカしくなければならない。語弊がある表現かもしれないが、生真面目100%の演奏、落語のどこが面白いのだろうか。古典落語はスタンダードに通じ、コードチェンジが話の筋としても、演者によってそれは千差万別であり、たまにフラを入れるのも、これはアドリブのセンスに通じる。特例を抜かしてだが、私の知る限り、エンディングはわっと一瞬客を掴み短めに終わる事、これも落語のお後がよろしいようで、に通ずる。ここの切れ味が良くないと、終わり良ければすべて良しとはならない。教則本に書いてある事は、誰かが不意にやってみてカッコ良い演奏を分析した集大成で、つまり世界の民謡歌いが、先にスケールを意識して歌っているのでは無い事と同じだ。
朝飯を食わ無いで昼演奏したのでガソリン切れ。またね。