下らない

下らない、の語源を調べると、どうも江戸時代、京都で造られたものは品が良く質も高く江戸ではそれを下りものと言っていたそうな。ひるがえって江戸で造られたものは京都のそれより粗品が多く、また下りようも無く、クダラナイ、と言ったんだとか。村上龍の小説のどこかに、東京は世界の名古屋だ、と書いてあって笑いましたが、まあ、明治期に入ったのち、下りものは京都より欧米に移り、今現在はどうなんですかね。品の良い質感もどこよりも勝る品物、思想は一体どこにあるのでしょう。あ、音楽もそうですね。下るものである音楽とは何か。

 

別に評論家になるつもりもそれらしい文章を書くつもりもありませんので、まあどうでも良いんですが、私感としては、世界中がクダラナイ、くだらなくなったと思っています。地球規模で見た京都が見当たらない。どこもかしこも、どいつもこいつもクダラナイ、あ、私を含めてですよ。逆にそうでなければ下るものが目立たない訳ですが、余りにもクダラナイ物ばかりが目に付き、何が下るものか分からなくなっているのでしょう。あ、私も含めてですよ。ロックフェラーやロスチャイルドは鉄道や戦争でガンガン金儲けした訳で、そう言う意味で思想も何もあったもんじゃ無いと言う意味でクダラナイですが、彼らの財力でピカソ、ゴッホの絵などが現代に生き残っているのも事実で、クダラナイことをしないと下りものは我々下賤な民衆に降りてはこないのが世の仕組みなのでしょう。彼有名なグッゲンハイム美術館も鉱山で財を成したソロモン・R・グッゲンハイムの財力の力技の結晶です。現代はGARFAとか中国のFAITHなどSNSの稼ぎに負って我々は生活せざるを得なくなっていて、何と芸術的なFace bookだ!などという事は起きませんが、FBの社長ならポンと美術館、コンサートホールをおっ立てる財力はあるでしょう。では、京都の上質な産物を作っておられた職人、芸術家は儲けだけを考えて品のある物を作っていたのでしょうか。

 

京都には特有の四季があり、古都でもある。どこかに金儲けとは違う矜持、意地、審美眼、無駄を許す余裕、それらが渾然一体となった何かが下るものに昇華したのでは無いでしょうか。そして、今地球規模で世界を見た時、それに値する文化、思想、芸術、人倫の在り方はどこにあると思いますか。私にはそれが見当たらないのです。話を少し矮小化してこの島国で起きている様々な出来事を見れば、政治、経済、文化、ゲージュツ、私には全てに於いてあっ!というものがあまりにも少ない。じゃあ自分でそういうゲージュツやりゃあいいじゃんと言われればそれまでですが、言い訳を言わせて頂くと、あっ!と心に傷が付くぐらいの衝撃がないと、創造する原動力が削がれるんですね。コロナが流行ってるのにオリンピックをやって、感動しろと無理強いされるなんざクダラナイを通り越してゲンナリです。原爆が落ちたその地で用意された原稿も読めないバカがこの島国の親分だなんてこれもまあ、クダラナイ以前の愚挙であり、今回のタイトルから遠のくのでこの辺で。コロナで行動半径が制限されている中、新しいあっ!に触れる、同時にあっ!という体験をするにはどうしたら良いのでしょう。

 

これはもう内面を見つめ、少なくとも自分にとって下らないと思う事はしない、表現しない、行動しない、考えない、これしか無いかと。ですがここである意味での内面的背反に突き当たる。簡単に言えばユトリロの絵は素晴らしいですが、本人は極度のアル中であった事は周知の事実で、これはユトリロのみならず下るものを創造するゲージュツ家自身は極度に下らなかったりするのですね。まあ大雑把に括って芸能に携わる人はそれでも良いですが、ぜー金で飯食ってる奴が同じでは困りますよね。しかし今の世はそこんところが大手を振って歩いているのが現状です。だからこそ我々背反を許されたとまでは言いませんが、周りのヒトが、しょうがねえなあ、あいつはで済む事をしている人間にとっては、その大手を振っているヤツラをチクチク痛い目に遭わせたい。それも面と向かってコラっ!て面罵するのでは無く、あんた達哀れねえ、かわいそうねえ、人間として、と思い知らせる何かを出来る筈なんだがなあ。そしてソイツラに酷い目にあってる人々にこそ、あっ!と思わせる何かを提供できたらと思うんですが。

音楽は古代ローマからあった訳だし、ボサノヴァはプロテストソングとして発展した訳ですから、現代のこの島国で私がぜーキン泥棒とそのことに泣かされてる人々、と書くとまるで中世ですが、なんか一発ヤツラに食らわせたいという思いは変わらない。私は伊藤野枝や大杉栄が大好きなのですが、何しろ関東大震災のどさくさ紛れに甘粕大尉に銃殺されてるんですよ。戦前とは言え相当に目障りだったのでしょう。カッコいい。彼らの強みは捨てるものが無いこと、この一点に尽きます。特攻警察上等、逮捕は屁でもない。ですが私もそのくらい捨てるものが無ければとひよっていても仕方が無い。同時に紳士的に振る舞うにも限度というものがあります。

さて、世の中バイ菌だらけになってしまっておちおち行動のみが、とも言ってられない。SNSで世界転覆を計画するには機械音痴すぎる。何だか言い訳ばかり書いていますが、そうだなあ、やはり出来る事を出来るだけやるしか無いのでしょうね。しかもじっくりと。これはもう、私が京都自身になるしか無いかなあ。ぶぶ漬けで文句言いませんから。

私個人のことを表せば、生まれつき存在自体がなぜか反権力、になってしまう。普通に言ったつもりの言動が周りを驚かせたり、どうも世間に馴染めない、他の人がすんなり受け入れる事が自分には受け入れられない。歳を追うごとに一人が好きになり、生来団体行動が嫌い。もう既に相当自分自身あぶないと思っているのですが、どうも真の京都人に成るにはまだ何かが足りない。それは何だ?

これは物事、世界の根本から問い直さなければならない私 自身への果し状を書かざるを得ない。マックス・ウエーバーが説いた資本主義とプロテスタンティズムの関連本を読むことをお勧めします。つまり神の変わりがおカネになってそれが行き詰った末の現在が、大方がくだらなくなった原因では無いでしょうか。あとは科学への妄信でしょう。

背反に目を向けると、実は私の父は京都人だったのですが、祇園が流行るのボンさんのお陰や、と口癖のように申しておりました。つまりお坊さんが夜な夜な祇園でどんちゃん騒ぎをしていた訳です。祇園文化もこの仏教徒の行いによって支えられていた。この何とも言えない諧謔は嫌というほど現世にも溢れかえっている。音楽でそこのところに悪戯をできないものか。悪戯といってもかしこくやってのけないと最近はすぐに叩かれるので要注意ですね。

今日も暑かった。でもしっかり日は暮れる。こればかりは科学の力ではどうしようもない。さて、明日は新宿ピットインで演奏だから悪戯してみようかな。何しよう。腹減ってきたな。日が暮れると腹が減る。平安時代と変わらない。この先は今晩遅くに書こうかな。

 

 

 

 

 

 

CONTACT

onaip@me.com