「豹変」という熟語がどうも腑に落ちません。よく考えてみると不思議な漢字の組み合わせであることがお分かりでしょうか。分かって頂けなくても、私にはやはり、誰がどういうきっかけでこの漢字を組み合わせたのかが分からないのです。元々豹などという動物は、この日出ずる国に住んではいなかった筈なのです。象牙という熟語もありますが、インド周辺から絵のようなものが伝わってきて、それを元に創られた熟語なのではないでしょうか。いずれにせよ、象ならアジアにも生息していそうな気がしますが、豹となると、これはアフリカにしかいないような気がしてなりません。または中国の奥地に生息し、伝聞でその姿を聞いた者がいる可能性もあります。
いずれにせよ、不思議な漢字の組み合わせであり、この不思議さを私は逆手に取っています。
江戸から明治に時代が変わる折、西周が、人間、愛、哲学、などという訳語を創案したと記憶していますが、豹変、も西周の手によるものなのでしょうか。どちらにしても言い得て妙です。この熟語のニュアンスは豹柄のように変化するという意味合いなのでしょう。それも人間の感情が変化を起こした時に使われることが大方のような気がします。豹変した自動車、豹変した松の木、猫が豹変した、という文章を、少なくとも私の読書歴でお目にかかったことはありません。やはり、彼は豹変した、いきなり豹変した態度を取り、等々、人間の感情に関する言い回しの方が多いことは明らかなようです。私の属する音楽業界では、これをジャガーチェンジと言い表す者もいます。その筋でいけば、私は「トラウマ」という外来語を、虎馬、トラとウマ、タイガーホースと斯界の慣用に倣ってダブルジャガーチェンジしても、国語辞典を編纂する訳ではないし、個人のレヴェルで、しかもそれが有用であるのであれば、使って良いのではないかと思っています。実際に、私はこの言葉を、時々ではありますが、心中で唱えております。
それはなぜか。
トラウマは、おなじみのフロイトが規定した心的外傷のことです。多分ギリシャ語が語源でしょう。いずれにせよこのトラウマが、いじめ、暴力、精神的苦痛という現象で継続してしまいますと、心的障害後ストレス障害に次第に変化するようです。所謂PTSDと言われるもので、Posttraumatic Stress Disorderの略です。直訳すれば、精神の傷痕を苛み続けた後の機能不全ということになるのでしょう。機能不全を私に当てはめ
更に分析してみると、多くの感情を含んだ過去の出来事を追体験することが、まさにPost云々そのもので、その症状の現れ方は、この病に悩んでいる他の人と代わりはありません。ですが、多分他の人との相違点は、そのような同じ体験をするとせつなくなる、ということです。つまり苦しみのみではないことが、逆に大きな問題たり得るのです。そのせつなさは、パニック症候群のようなものではないのですが、なんともほろ苦い、黒目が下を向きうなだれてしまうたぐいのものです。しかし、難儀なことに、そのほろ苦さが、何とも言えない甘い郷愁に満ちた感情と同居してしまうことが更にまた難点なのです。
健常な人でも、この体験、またはこの感覚をまったく持っていない、または感じたことのない人はいないのではないでしょうか。もしいたとするならば、それは落語に出てくる与太郎です。或る人はそれを忘れることが上手であり、或る人はそれを精神力で克服し、或る人はそれを引きずってしまい、心療内科のお世話になってしまう。私の場合は、それが突然表出するというのが特徴です。フラッシュバック、発火後、いーひえーきわりお、再び逆ダブルジャガーチェンジするとこういう言い回しがよいのでしょうか。どちらにせよ、上記のごとく、私の心中にも、ある種特定のタイガ〜ホ〜スが居座っています。それがなんと、自分が今生業としている音楽ジャンルの一部分なのです。これは大事なのです。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、これは私の精神の均衡に関わる問題であり、それだからこそ、トラウマという概念を、虎馬、トラとウマ、所詮タイガーホースだと自分に言い聞かせ、これまでしのいできました。つまり私は私にこう言い聞かせてきたのです。虎の柄は、豹とは違い、なにげにシンメトリカルなだけではないか。馬など、白、茶色しか見たことがない。故に、私が自分のトラウマ、もとい虎馬、所詮タイガーホース、などという概念に苛まれる訳がないと、このように段階的に言葉を置き換えて、これまでの自分自身をなだめてきたのです。心的苦痛を感ずる事があると、タイガ〜ホ〜スタイガ〜ホ〜〜スと心の中で唱えてきたのです。まるで落語の考行糖、こう〜こう〜とう~こう〜こう〜とう〜であるかのように。何事も気の持ちようである、とは良くいったもので、こう〜こう〜とう〜ならぬ、タイガ〜ホ〜スと何度も唱えていると、不思議と上記の苦しみと郷愁から逃れる心的構造が私の心中に出来上がってしまいました。しかし、気の持ちようがどうしようもない時もあります。人間の心中が複雑怪奇でることは、新聞の紙面を見れば明らかでしょう。しかし、なんだ、所詮動物園の一部ではないかと思い直してもどうにもならない類いの感情が全くない人間がいるのでしょうか。そして何を隠そう、その心中複雑怪奇なもの、それは私にとって、大有名スタンダード曲に対してなのです。曰く「My Way」「Unforgettable」「Love」「Star Dust」「Quizas Quizas Quizas」「Love Is A Many Splendored Things」「Smile」「Fly Me To The Moon」etc,,,
なんだ、要するにナット・キング・コール、フランク・シナトラ、ホーギー・カーマイケルなどの持ち歌ではないかと思われるでしょう。そのとおりです。ここから拙書の宣伝になってしまうかもしれませんが、私はこれらの曲を、二十代後半、バブル華やかなりし頃、銀座のナイトクラブにて、一晩に下手をしたら八回以上演奏していたのでした。それが月曜から土曜日まで、三年あまり続いたのです。何故かといいますと、掛け持ちをしていたからです。掛け持ちとは、ナイトクラブA19時半〜20時、ナイトクラブB20時〜20時半のローテーションを指します。それが午前12時まで続きました。お客さんが入れ替わると、自然に同じリクエストが来るような状況でした。そしてこのタイガーホースを助長する作用を促したのは、私の演奏が拙かったことが原因でもありますが、誰も聴いていなかったということです。そして、どんなに好きなことでも、何万回か、後で計算してみますが、リクエストに逆らえず弾かされるという体験を毎晩何回も味わうと、人間は、特にミュージシャンであれば更に、どこかがおかしくなってきます。
若かりし頃、最初はこれらの曲を演奏することに夢中でしたが、そのような心的動機はすぐに消えてなくなります。いずれにせよ、どのような素晴らしい曲も、約8×6日=48,あれ、一週間に?48×900(仮に)=43200回?あわわ、あわわ、あわわわ、、、、タイガ〜ホ〜スタイガ〜〜〜〜ホ〜〜〜ス、、、、、、、お分かりでしょうか。私は銀座でしこたま貯めた金を握りしめてアメリカに逃げました。留学という名目でしたが、もうあれ以上耐えられなかった、という方が正しい理由かもしれません。誤解をされると困りますので解説します。これらの曲は名曲であり、私が死んだ後にも残るメロディーの数々です。そして、更に皮肉なことに、これらの曲を効果的に弾く方法を教えてくれたのは、バークリー理論でもへったくれでもなく、その筋の方々、そしてクラブのバンマスでした。感謝すべきことでもあります。特に「My Way」の歌詞などは、今の齢にならないと分からない深みがある事も重々承知しております。その他の曲の歌詞も同様です。だがしかし、私は最近まで、ナットの、シナトラの、ホーギーのこれらの曲を聴くことが怖くてしょうがなく、と同時に大好きという、正にタイガーホース状態でした。そして、どうしてもこれらの曲を弾かなければならない状況の時には、タイガ〜ホ〜スタイガ〜ホ〜スと唱えながら演奏していました。何故かといって重複しますが、数々のほろ苦い想い出と、華やいだ銀座の風景、ホステスのお姉さん達の優しさ、女気という言葉はあるのでしょうか、とにかく、お世話になった方々、バンマスの鋭い視線、グランドピアノの上に活けてあった名も知らぬ高価な花々、スポットライト、とにかくそれらの想念がぐあっと私の心中に押し寄せてきて、どうすることもできなくなってしまうのです。幸いなことに、この想念は、暴力やいじめによるものではないのですが、言ってみれば、これらの曲の歌詞を地でいっていた銀座のチイママやバンマス、その他の方々の心中がいまさらながらに偲ばれて、居ても立ってもいられなくなってしまうのです。演奏しすぎた、という側面も確かにあります。と同時に、名曲演奏にも限度というものがあるということもしっかり学ばせて頂きました。このタイガ〜ホ〜スは多感な時期に経験したからゆえの音楽的宝であると共に、私の心中にしっかりと別の意味でのタイガ〜ホ〜スを植え付ける役割を果たしました。ゆえに、長い間、これらの曲を聴くこと、演奏することを無意識の内に避けて来た部分もあります。ですが、人間とは不思議なものです。私は今の齢になって、やっとこのタイガ〜ホ〜スを自身の気持ちと共に制御しつつ聴けるようになってきたようです。まだ完全にではありませんが。そして多分、今の私がこれらの曲を演奏したならば、僭越ですが、聴いている人が泣き崩れるほどの演奏ができるのではないかという妄想を抱いております。でも滅多にやりませんが。何故かと申しますと、私もやはり演奏しながら泣き崩れる恐れが、残念ながらまだ残っているからです。なんだ、言っていることが矛盾しているではないかと思われるかもしれません。しかし、完全に感情を制御した音楽が人に感動を与えられるでしょうか。このように、まだ心中複雑なのです。お分かり下さい。約43200回前後のこれらのメロディーが私の指と耳から身体に染み込みました。そして、これまた不思議なことに、矛盾しているようですが、なぜかこれらの体験を自らの感情から追い出したいという思いが未だにあると同時に、猛烈に演奏したいという、相反する欲望が私を苛むのです。タイガ〜〜〜〜ホ〜〜〜スタイガ〜〜〜〜ホ〜〜〜ス、、、、、いずれにせよ、もう少し時間をください。誰も頼んでいないよ、といわれればそれまでですが、あともう少し経てば、私の心中に居座る虎と馬は、どこかに走り去っていくような気がしています。そしてそれが実現すれば、涼しい顔をして、最高の「My Way」を演奏するでしょう