何気に、というか、機会を自ら無意識に遠回りして来た経緯もあるが、歌の伴奏、謂わゆるウタバンを最近しなくなった。どういう理由かと聞かれても、一直線に答えは出ない。思えば沢山のウタの人と演奏して来ました。新小岩のキャバレー時代から銀座のナイトクラブ、ボストンのローカルギグ、帰国してからの与世山澄子さんとの出会い、綾戸知恵さんとの邂逅。良い思い出ばかりです。幸いアメリカから帰国してからも英語の達者なニホン人と共演する事が多く、同時に私の演奏の表現力の糧になるような歌い手と随分仕事をして来ました。
キャバレー時代、また帰国後、六本木、青山、霞町、広尾に有ったバーやクラブで駆け出しの頃からもウタバンはインストルメントと同じ比率の付き物で、20代の頃は、大年増の業界に100年は居座っていそうなベテラン歌手とも共演しました。彼女らは、私の察するところ、不良少女上がりで、昔は、丁稚もアキンドもできないような奴は噺家にでもなっちまえ、というのが定石だったようですが、彼女らも、いつまでも不良少女をやっているわけにもいかないので、たむろをしていたバーやキャバレーで歌い始めたヴェテランの、ある意味札付き大年増お嬢で、音楽学校を出たわけでも、誰かに習ったわけでもないのにもかかわらず、なぜか歌がとても上手く、何故かフィーリングがあり、ハーモニーの知識も無い筈なのに息なスキャットをする様な、そんな女性歌手たちでした。若い頃はその音楽以外のいろいろな経験に長けた彼女らのウタは、酔客の心をくすぐり、曲間のしゃべりでも独特の味があり、「夜もふけて参りました。私も老けてまいりました」なんてさらっと言った後、曲名もキーも言わずに突然歌い出したものです。
「ミナミちゃん、あんたこの曲知らないなんて、この世界でどうやって生きていくつもりなのよ。伴奏するんじゃなくて、ワタシの歌についてくるのよ。わあかった?」「な〜にそのイントロ、歌えやすないわ。あのねえ、これバラードよ、恋のウタよ。そんなんであんた、kyコクのコオもよく知らないくせして、変なイントロ出さないでよ、イイこと?まずシンプルに、余裕を持って、ほらせかせかしないで、出だしのメロディーをイメージしながら弾きなさいよ。え、コード、そんなもんワタシわかんないわよ。それはあんたの領分でしょ。だからちゃんとやんなさいよ」こんなことを毎晩言われていて、よくもビーク(クビ)にならなかったものです。しかし鍛錬と毎晩の演奏という練習や一人で弾いている時よりも、大勢のお客さんの前でなんとか形をつけて弾く事が、一番の上達方でした。あの頃はまだ、クラブやバーはたばこの煙が黙々で、ウタのお姉さんも、楽屋で一服つけながら、「な案で音楽学校まで出てこんな世界にあんた入っちゃったの。え、ジャズピアニスとになりたい?フフ。まあいろんな曲を覚えて、色んな歌い手の得意な所を後ろからピアノでサッと、サッとよ、もたもたしないで、一瞬でいいの、いいコード弾いてあげるだけで、ワタシもそうよ。ノリが全然違ってくるんだから」厳しいが優しい人達でした。そして狩野らの歌う歌詞は冗談抜きでそのリリックをそのまま実生活にした様な方々が多く、それだけに聞いている方も、伴奏しているワタシも心に染みいる様なウタを歌っていました。
時代も変わり、その手のバーもクラブも数が減り、ワタシが二十代の頃の歌い手さんたちは今頃もうおばさんでしょうが、どうしているのでしょうか。与世山さんと綾戸さんのお話は次回にゆずりましょう。