昨日は、学芸大学駅から徒歩三分の所にある「珈琲美学」にて、津上研太氏と演奏。音楽自体が充実しており、満ち足りた時を過ごした。さて、これから書こうとすることは、演奏前に小腹がすいたので、学芸大学近辺に何か一口食べられるものはないかとうろうろしていた時のことである。ある意味、食べ物屋の店舗が多すぎる。これを今日の日本の豊かさと気持の中で締めくくってしまえば、考察はそこで止まる。しかし、考察自体を止めようとしても、おいそれと止められる物ではなかった。食べ物屋のこの異常な物量感、これは逆に常軌を逸しているのではないかという感慨におちいった。たとえばヨーロッパのどこかの主要都市で、演奏前どこかで何か一口、と辺りを探してみてもこれだけの食べ物屋、喫茶店など見つからない。また更に考えてみるに、この現象は東横線の学芸大学駅のまわりだけではないのである。規模こそ違えど、都心に近ければ近いほど、学芸大学近辺の状況と、あまり変わらぬものであろうことは、東京生まれだから知っている。さて、これが本当に幸せなことなのか。
ともかく、所謂ファーストフードの店に入った。身体に悪いこと百も承知である。だが、この手の店はここ二年来、敷居さえまたいでいない。ごくたまに一口食したとて、添加物があのアメリカの何倍もあるこの国に於いて、まあ良かろうと判断した。思ったとおりのマニュアル通りの対応。注文をしてから、カウンターの横で出来上がるのを待った。ただぼーっと待っているのも面白くないので、厨房の中を観察することとす。まあ、どう見てもそこは厨房というよりも、映画、「エイリアン」の宇宙船の中のような見立てで、社員、アルバイトが着ている制服の色がやけに浮き足立っている。マネージャーとおぼしき、一人ダークのチョッキを着た、ルパン三世を真似して失敗したような雰囲気の男性が、顔だけ笑いながら、眼光鋭く従業員に檄を飛ばしている。特に目立ったのは中年のおばさんアルバイトとおぼしき女性で、マネージャーの要求に応えようと右往左往しているばかりで、何も仕事がはかどっていない。次々に調理?される食べ物は、紙に包まれた時点でカウンター近くにあるステンレスの通路に放り込まれる。副食とて同じ扱いで、フライにするその食べ物を、調理後、所定の位置に投げ入れる。これもまた「食べ物」を扱う所作ではない。では何を扱っているかといえば、先に書いたようにファーストフードである。ファーストフードという言葉が和製英語なのかそうでないのかは失念したが、注文してから一秒でも早く食べ物を客に提供するには、食べ物を食べ物として扱う暇も余裕も、料理?に対する丁寧さも振り捨ててかからないとダメなようだ。入店前からこのプロセスは薄々わかっていたとはいえ、やはり良い気分ではなかった。
人混みの中に戻り、紙袋から匂い立つ、ファーストフード独特の安易な香りを嗅ぎつつ、珈琲美学の方に足を向けた。さて、こちらはこちらのやり方で、お客さんを満足させねばならないと思いつつ。