昨日文章の流れで、教科書のことになった。私に子供はいないので確かなことは言えないが、東京都の教科書検定で変われる居箇所が嫌で長野に引っ越した友人2名。確か生活勅語の暗記だったと思う。
公立の学校はなぜか黒板から向かって左側が窓、きっちり机を合わせ何斑かに分けるのは、旧帝国陸海軍が作った軍人を作る作法を未だ教育制度に活用しているからである。学校から始まる異常な先輩後輩の厳しい分け方、キチッと並んだ机、あれは皆半刑務所的な発想からできていて、なぜ窓が教室の向かって左に多いかも、同じ行動をとらせる準備からだ。運動会、部活動、全てが未来の芸術家、音楽家の邪魔、用のないこと、する必要のないことばかりである。またある意味、合唱部という組織程、ファシズムな組織もない。同じ背服、誰が目だつでもない、指揮者の言いなりにこう歌いたいということは許されない。オーケストラにもその自由はあまり残っていない。指揮者がやはり絶対である。そういう意味での日本の犬畜生教育は正しいかもしれないが、世界基準からものすごく遅れている。つまり学校は勉強をするところで、机をきちっと並べたり、先生に必ずハイという場所ではない。いろいろな事が合理的に勉強できればそれで良い。友達ができたり、倫理、道徳を学ぶのも、日本の様な動物学校形式にしなくとも、人間は集団活動をすれば学ぶことは多い。畢竟日本の学校の音楽の授業は偏っているので気をつけたし。譜面が読める様になることは良いことだが、どんな歌を習うかは、自ずから耳を塞げ。危ないせんの始まりだ。