某月某日
過日、墓参りに行った。場所は富士山の近く。母方の祖父母が眠る場所である。祖父母共、静岡出身であり、特に祖父の、富士山が見えるところにお墓を建てたいとの希望からこの場所になったのであるが、祖父が生前このような希望を親族に語った時、年齢の数字の間にコンマが間に入る僕は、「お爺ちゃん、死んだら富士山なんか見えやしないよ。あんな遠いところにお墓を建てたって、墓参りの回数が減るだけだよ」と減らず口をたたいたら、母が怒り狂ったので黙った記憶がある。しかし、その減らず口のとおり、親戚一同集まって墓参りに行くには、日程の調整を含め、富士山近くの霊園に行くには、やはり難儀度を増し、なかなか日程が決まらなかった。
別段祖父母が嫌いであったわけでは無いし、むしろ、生前は、いいお爺ちゃん、お婆ちゃんおばあちゃんであったが、母の日程調整のやり方に、ツアーを組むことに慣れている僕は、その段取りの悪さに辟易とし、毎年なんだかんだ理由をつけて参加しなかった。曰く、バチはもう十分あたっている。イスラムに改宗した。お墓に行ってもお年玉もらえない。永代供養だなんていったって、何十億年先には地球は太陽の膨張で飲み込まれてしまう。坊主の御経の意味が分からない、云々。しかし今回の墓参りに対する母の執着は、何やら人知を越えた迫力があり、あれよあれよという間に日程が決まってしまった。
また、墓参りという行いに、なぜ気が乗らないかといえば、久しぶりに会う親戚との会話が面倒だというのも一つの理由で、まだ僕のやっていることを根本的に理解していないトンチンカンな質問をする者もおり、道中の過ごし方が異常に面倒だということも理由の一つであった。そのことも相まって、墓参りという行事自体避けたかったのだが、今回は僕が折れた。母も高齢であり、親孝行など微塵もしていない、できない身なので、少なくとも親より後に死ぬことが親孝行だと思えと宣言しただけでは、あまりにも母がかわいそうだ。ということで、朝十時半に新宿駅に集合。今回は幸い親戚筋の参加者が少なく、叔母と二人の従兄弟のみであった。
何年ぶりかで会った母の妹にあたる叔母の息子、つまり片一方の従兄弟は区役所に勤めており、仕事が福祉関係なので、最近世を騒がせている生活保護の事に話題が及び、貴重な知識を得ることができた。墓参りの主題から話しは逸れるが、つまりあの問題は氷山の一角であり、全てをきちんとすることは、役所の係の人数では不可能であるらしい。また、保護を受けながら、親戚その他から現金の援助の有るなしなど、二十四時間体制で見張っているわけにはいかないので、ともかくあのような事例は氷山の一角らしい。
話しが逸れたが、今回、親戚一同こちらを禁治産者扱いする発言はなく、察するにこれはどうも小学館から本を出版したことが効を奏しているように思われた。
まあ、そんなモンだろう、世の中は。更に加えて天気もよく、御殿場に着く頃には、霊峰富士がその偉容を静かに我々下々の者を眺めているのがよく見えて、親戚一同何やらピクニック気分であったのも、こちらに妙な質問が飛んでこない一つの理由であったかと思う。
さて、霊園に到着し、墓前にて花と線香を供え、各自手を合わせる。無信心ながら僕もこの場に至っては、下らぬジョークなど飛ばせない雰囲気なので、静かに墓前にて手を合わせた。お爺ちゃん、お婆ちゃん、
おかげさまかなんだか分からないけど、元気で何とかやっております。心の中でそう唱え、墓前を離れて振り向けば、どかんと霊峰富士が、雲一つ無い空に、駅で見たその偉容を更に増してこちらに覆い被さるように鎮座していた。お爺ちゃんの思い通りになったのだな。良かったね、お爺ちゃん。しかし、良く考えれば、死者に対して何かつぶやくというのも不思議な
気分である。合理的に考えれば、その声は届いている筈はないし、相手に聞こえている筈もないのである。だが、そこはそれ、何やら墓前まで来ると、僕の声が届いているような気分になるから不思議なものだ。お爺ちゃん、お婆ちゃん、今の日本は尭舜の世のごとくであります。役人のことなどトンと忘れてしまうほど世は太平です、と言いたかったが、これは嘘になる。次の墓参りがいつになるかは分からないが、その時にはそう報告できればなあと思い空を見上げた。一体全体、戦後の我が国は何をしてきたのだろうか。全て砂上の楼閣ではないか。父親の年代の、数多くの人達が馬車馬のように働いて、この繁栄をもたらしたのはいいが、何でこんなに国に借金があるのだろうか。皆でデタラメをやってきたならいざ知らず、少なくとも僕の廻りの親戚一同は、祖父母も含め、満点とは行かないまでも、善人で、微力ながら我が国の戦後の成り立ちに貢献してきた人ばかりである。僕を除いてだけど。それが一発の地震でご破算になってしまった。こんな事を墓前で考えること自体、不謹慎に思われたので、何も考えることを止め、ゆっくりと墓石に水をかけてもう一度無言で一礼し、他の親戚が手を合わせている間、何となく墓所をぶらぶらと歩くことにした。しかしまあ、日本人の苗字の多さを再確認するには、墓所が一番手っ取り早いな、などと思いながら、なにげに墓碑を見て回っていたら、妙な漢字に出くわした。草書体で墓碑に彫られたその文字は一字で、遠くからでは読めないので近づいてみたら、なんと清水寺で坊さんが偉そうにぶっとい筆で書いたあの一文字であった。一瞬にして今までの安らかな気持が消え失せ、言葉にできない怒りがこみ上げてきた。他人様の思想、考え方は様々で良い。否、僕の知ったこっちゃない。しかし、己の先祖を奉る墓標に、アノ腐れ標語を彫り込むとは、、、、、
まあ、この墓石のご家族がこれで満足なんだから、僕がとやかく言う筋合いは無いのは分かっているが、やはりなぜか怒りが収まらない。清水寺で坊さんが、さも意味ありげに書いたあの一文字。僕としては、その一文字のあまりの分かりやすさと仏教的奥行きの無さに腰が抜けたものだが、それを墓石に彫っている御仁がいる。坊さんも坊さんだ。難しい仏教用語なんて沢山あるんだから、思いっきり誰にも分からない、そして今のご時世の正鵠を得た一文字を書けば良かったのだ。その後誰もが分かるように説明すればいいだけのことじゃないか。今のこの混乱した世相にこそ坊主の出番があるだろうに。その一文字が悪いわけではない。只、今更あえて大仰にでかい筆で書かなければならない字なのであろうか。
後ろで母の呼ぶ声がしたので振り向くと、霊園の巡回バスがもうすぐ来るというので、その場を立ち去った。
あ〜あ、他人様のお墓に、心の中ではあるけれども、怒りをぶつけてしまった僕には、またバチがあたるんだろうな。当然だ。だから墓参りは嫌なんだよ。
帰途、新宿駅で乗り換える時も、あの一文字が頭から離れなかった。目に付くのは、政治、官界に於いて、お互いあの一文字があろうが無かろうが、天下りをし、お互いのなれ合いで事実を隠蔽しあって、、、、、勝手にしろってんだ、まったく。世も末である。今こそ仏法の出番であると思うのだが、此といって目立った仏教界からの活動が目に入らない。メディアが取り上げないだけなのかも知れないが、何とかカウンセラーなどより、被災地には真の坊さんの話法が必要な気がするのだが。まあ、父親が京都の出身で、祇園で毎晩遊んでいるのはボンさんやでえ、と聞かされて育った僕は、どうもそちら方面の不信感がぬぐいきれない。そんなことを考えながら山手線に乗っていたら、若いネイチャンが車内で携帯を使い喋っている。良い意味での風紀の乱れは新しい文化を生み出す土壌となるが、嫌でも聞こえてくるその会話の内容は、ある意味厳粛なる墓参りの後に聞く内容ではなく、一日かけて行った行事の興をそぐに十分な内容であった。あんたもいずれはお墓に入るんでしょ、と言いたくなる始末で、とぼとぼと家に帰った。