某月某日
何か書いていないと、気が変になりそうな時があって、まさに今はそういう心持ちです。気が変になりそうな「時」と書きましたが、これは何も何時何分という時間を意味するものではなく、永遠に自分を客観視できない自分という存在に、脳と体のどこかから発せられる信号のようなものが気を変にさせます。普通の意味で使う信号という物は、機械でできていますが、生身の体が機械でできあがっている筈がなく、アラもうこんな時間?なんて言うおばさんの社交辞令とも違った、時間と隔絶した己のどこかが悲鳴を上げているのです。その悲鳴という言葉も、ギャー!とかワー!とかいうものを想像されては困る代物で、一体全体この世はどうなっているのだという、重力の有るところと無いところが内面を支配しているようで、逆説的に言って、悲鳴ではない悲鳴だからこそ、気が変に成りそうなのです。またそれが身の回りに沢山あるので、気が変に成る予感に包まれるのです。
気が付いたら生まれていたというのも、よく考えたら残酷な仕打ちで、ようし、この環境でがんばってみるか、何て考えて生まれてくる人間は一人もおりません。ただ死に方は自らが選べるということがただ一つの救いのような気もします。しかし、無人島で餓死するのとは違い、この世間で死ぬということは、頼むからほっといてくれと懇願しても、まわりの同類がほっといてくれないから、救いでもあり厄介でもあります。加えて、自殺はいけませんと言っているキリスト教者などが戦争をしているのだから、何が何だかさっぱり解らない。
自由を得るが為の不自由。不条理に怒りを感ずる自分の中にある不条理。正直でいようとすればするほど不正直なことを無理強いされる社会。
何を中学生みたいなこと言ってんだと言われればそれまでですが、これらのことこそが、僕の内なる悲鳴をかき鳴らす元凶であるのです。
とここまで読まれた方、特に精神科医や、その関係のことをよく知っている人はお気づきでしょうが、僕の思考は支離滅裂で、それは精神病者の最たる特徴であります。外が明るくなったり暗くなったりしています。あ、キリストが今、あなたの横に立っています。でも自分が神様の筈なのに、なぜキリストがそこにいるのでしょう、否、私は東条英機の筈だから、神様である私は東条英機ではない、、、、本格的に隔離されている人の話は、このような調子で、気が変に成りそうなのではなくて、実際に成っているのだから仕方ありませんが、僕の場合もその境界線が時々ゆがみます。一応、電車に乗るのに切符を買うことができ、他人との対応に於いて、一応、社会性のある言動を今のところ保っていられるので、僕は隔離されていないだけです。半フロイト派でさえ無意識の領域は認めているのですから、その領域が表に噴出していないという只その一点に於いて、僕は娑婆で生きていられるだけであって、内面から噴出する静かなる悲鳴は、実は切符を買う際にも僕を苛んでいるのです。40代後半から、僕の中には人間である事のものすごい悲しみが根を下ろし始め、今もそれが止むことはありません。見ること聞くこと、社会の現象、的の外れた他人の言動などは、僕にとって全てロールシャッハテスト的で、言葉というものが持つ意味合いさえも、ゆがませてしまうことが日常生活で多々起こります。苦笑を自らに義務づけていますが、時々その「苦笑」という言葉から「笑」の字が消えることがあります。これは小学校高学年からこの方ずっとそうで、人々の職業についても言えることです。特に教師と医者、政治家と芸能人には、ものすごく辟易とすることが有り、そういうときに苦笑という言葉から「笑」の一字が欠損します。浮世が生き辛いのは当たり前のことですが、苦笑さえできぬ事象には、僕自身もう耐えられません。和算において、不可思議、無量大数などという気の遠くなるような数の概念を想像できる頭を人間は持っているのに、一方で、とてもくだらないことで四苦八苦したりするのは一体なぜなのでしょうか。要するに皆、隔離されている人を除いて、気が変になり損ねであり、ただかろうじて世の無意味に鈍感でいられるということのみが、皮肉なことに我々を救っているとしか思えません。
でもこれってやはり、どこか狂ってますよね。ナニ?狂ってるのはお前だけだ?多分そうでしょう。