愛電話が愛機になるまでは

某月某日
――愛電話が愛機になるまでは、もう少し時間がかかりそうだ。なにしろこれはもう既に電話の域を超えている。テクノロジー恐ろしや。あと一年も経てば、もっとすごい、愛電話五番などでるのかもしれない。 それは既にもう、文字盤もなく、全て音声で処理されるものになるのではないか。そしてあと二年も経てば、頭の中に埋め込むようになるのではないか。独り言を言っている人がいるなあと思ったら、電話中だった、などという異様な風景が、巷に展開するのではないか。恐ろしや。渋谷センター街に行くと、全員あらぬ方向に目をやりながら、それぞれその場に全然関係ないことをぺちゃくちゃ喋っているのである。下手をすれば、真横にいる恋人に、純愛電話五番で話しかける世となるかもしれぬ。 こっちの方が雑音をカットできて、音声がいいんだもの、などと言いながら。ああ恐ろしや恐ろしや。――

某月某日
――と言っても今日は12日。明日13日、中目黒のクラブ楽屋にて、新しく起動したグループ、「MMS」で演奏します。タイトルの由来は、Thelonious Monk(P), Charles Mingus(B), Billy Strayhorn(P)の頭文字から。このお三方、時代劇で言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に匹敵するジャズの作曲家であり、演奏家なのです。美術で言えば、モンクはゴッホ、ミンガスはバスキア、ストレイホーンはロートレック?かな。とにかくこの人達には足を向けて寝られない。だが、今こそ彼らの曲をやる機が熟したとも感じている。今触れておかなければ、この先一生素通りしてしまうような気もする。モンクの曲とそのピアノ奏法について、ここで述べるまでもあるまい。ミンガス然りである。ストレイホーンは動画が少ないが、各自U-TUBEで見られます。特にストレイホーンは、デューク・エリントンの片腕として活躍した人です。有名な「Take the A Train」も、実はストレイホーンの曲なのです。ああ、どこまで簡単に書いていいのか、どこまで専門的なことを言っていいのか分からない。とにかく、彼らの曲をやるという事は、王と長島とイチローが、同時にバッターボックスに入るようなものです。あれっ、僕スポーツ嫌いだったよね。皆さん聴きにきて下さい。――PS、メンバーは、津上研太(SAX)水谷浩章 (B)本田珠也(DS)。すげえメンバーだな。――

某月某日
―調べてみたら、松の内とは、一般的に1月6日までをいうのだそうだ。門松を立てておく時間のことを指すものだが、なぜ門松と称するのに青竹が真ん中にあるのであろうか。しかも斜め切りの状態で。ぜひとも、この門松の由来を知りたいものだ。正月は、多分昔でも気の緩む時期で、それを狙った何者かが闖入してきた際に、正月飾りに見せかけた青竹が一瞬にして竹槍と化し、狼藉者と戦う為にあのような組み合わせになったのではなかろうか。残念ながら、こちとらマンションに住んでいるので、ドアの前に門松などを置いたら、近所から苦情が来ること必須である。消え行く日本の伝統は、住まいの形状からの影響も大きいのかと、今更ながら寂しく思う。まあこのことは閑話休題として、年末、携帯電話が壊れてしまった。泡を食って「軟銀行支店」に行ってみると、31日だというのに開いている。店員に我が携帯電話を見せると、こりゃもうダメです、ダンナ、新しい機種に変えた方がいいですぜ。というお答え。いやいや、新しい機種と言っても、触り版とやらを、あたしゃ使う気はないよ。あんなものに慣れる前に、あたしゃ死んでいる、文字なんざあ書けるわけがない。と返したところ、ダンナ、いずれは全ての携帯電話が触り版となるんですぜ。お早めに慣れておくことをお勧めしますよ。てえんで、どれか良さげなものを見繕ってくれい、と裾をまくると、ジャジャーン、これですよダンナ。この愛電話、こりゃあすごい代物でしてね。要するにこれはすでに携帯じゃあない!じゃあなんなんだって聞いたら、これはダンナ、電算機がそのまま小型になったものと理解してくだせい、とこうきたもんだ。ナニナニ?いやダンナ、今あっしが説明しやすから、つまりこれがこうなって、そしてこれがああなってるってんで、今チマタでは大騒ぎですよダンナ。なんですって、シャミのおっしょさん?それだったらこの愛電話にするしかねえ。正真正銘この軟銀の留吉がお勧めするんですから、間違いはねえ。とにかく使ってみてくだせえと、何のかんのとねばるので、わかった、俺も男だってえんで、その愛電話を握りしめ、そそくさと家に帰った。ためつすがめつ眺めてみれば、この愛電話、なにがなんだかさっぱり分からない。とにかく、壊れた携帯電話のお目録をお宅の林檎から導きだしておくんなさいと留さんに言われていたので、林檎と愛公をめでたくメオトにさせた。そうしたら、驚いたのなんのって、同期しますってんだ。そのメオトが。メオトが同衾するのは分かるんだが、同期とはこれいかに、なんてどうでもいい事を考えているスキに、あらあら、本当に同期しやがった。愛公を覗いてみれば、ほとんどのお目録は消えていなかった。こいつはよかったてえんで、まず我がトモダチに、明けましておめでとうかなんか目得留を出してみようってんで、初めて触り版に触れてみた。あ・け・ま・し、、、あれ?目得留が勝手に飛んじまった。こいつはいけねえと思って、またやってみたのだが、うーん、なかなかうまくいかない。その内に、大晦日の大騒ぎの会に御呼ばれしていることに気がついた。ああ、いけねえ、時間がないってえんで、三味線もって新宿の、人力車の溜り場へエンタク乗って行きました。ああ、めでたやめでたや。あっしのオペンペンも調子よく鳴って、こいつは春から縁起がいいや。あほれペペンがペン。ペンペンペ~ン。愛~チャンの~こ~いぶみ~は、かくの~がた~いへん、あほれぺぺんがぺ~ンのペンペンペ~ン。四角四面の愛~チャン~は、ツンデ~レおんな~の、見本の~よ~だよ、み~りょ~く~てきだ~が、ちょい~と気むずかし~。あほれペペンがペ~ンのペンペンペ~ンときたもんだ。愛公、今年からよろしくな。――

某月某日
――明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。と言いつつ、正月明けから腹立たしい。何かを誹謗中傷、または特定の人物の悪口を書くのは、いけないことと承知の上で言いたい。テレビをつければスポーツばかり。なんだこれ、日本人全員バカなんじゃないか(ということで僕も含まれているわけです)。今年もどうかよろしくお願い致します。

某月某日
――御多分に洩れず、大掃除を、と思い立ったが、完璧にやろうとするとイライラするし、下手をすると精神を病むので、まずは商売道具のピアノの置いてある部屋からと思い立った。――――今ピアノの部屋を見て帰ってきた。見ただけで精神を病みそうな状況だった。 ここは一念発起、水垢離をして身体を清め、出雲大社にお参り行き、高野山にて山ごもりし、空海のごとく、太陽を口の中に飲み込み、天狗のごとく山々を駆け巡り、俗欲を祓うため、自らを獄卒の攻めに身をゆだね、餓鬼となってあの世とこの世の間をさまよい、いざ、さてと 掃除にかかるとすれば、多分来年に今頃になってしまうであろう。―――
――といっても本日、27日、二子玉川のライラというバーで、オルガンを弾くこととなった。詳しくは http://lialeh.net/news.html/オルガンを弾くのは、何年ぶりか。――

某月某日
――クリスマス。語源は、Christ’s mas、つまりキリストのミサを行うという意味らしい。今、皆川達夫著「中世・ルネサンスの音楽」(講談社学術文庫)を読んでいて、すこぶる面白い。特段クリスマスの語源の意味を調べようと思ったのではなく、本を買って読み出したらクリスマス時期になってしまっただけだが、このミサという行いについても、この本には詳しく書いてある。 興味のある方は是非読んで下さい。僕がこの本で一番面白いと思ったことは、まずキリストに対するお祈りの言葉が、歌となり、メロディーを持ち始めたということだ。 はじめに言葉ありき。聖書の言う通りだ。――

某月某日
――新宿ピットインで、シェイラ・ジョーダンの歌を聴いた。ピットインの天井に星空が瞬くような歌声であった。その星空がプラネタリュウムのそれのように、ゆっくりと回転するがごとく、彼女の歌声に合わせ、曲が進んでゆく。きっとこの星空は、彼女の過ごしてきた音楽とともにあった人生そのものだと思った。御歳八十を超すその彼女の歌声の粒子には、アメリカの、戦前の大不況、第二次世界大戦、50年代の繁栄、またそれらに沿ったジャズの歴史がいっぱい詰まっているようだった。これらの時間の流れが天体の動きのように、ゆっくりと回転する。そのシステムを操っているのはシェイラの音楽の本質そのものだ。そう思って聴いていると、彼女の歌は既に、メロディーを持ったポエット・リーディングの様相を呈してきて、歌詞そのものがリリックとなり、僕の感性の深いところを刺激した。こういう瞬間が、一年に一回あれば僕は生きていける、と思わせる本当のサウンド。 終演後、たくさんのファンに囲まれたシェイラ。サインをしたり写真を撮られたりと忙しそう。ちらりと様子をうかがうと、サインするLPやCDに、必ず何か一言書き込んでいる。二回のステージを終えた後の疲れというものがどういうものか、僕は知っている。しかし彼女は終始笑顔で、心からファンを歓待している。見習うべきことだ。音楽以外のこういうミュージシャンシップにも、 感動してしまった。しかし、疲れているんだろうなあと思いつつも、競演の原朋直氏に、紹介してと頼んでしまった。挨拶をし、少し喋った。僕がピアニストだと知り、スティーヴ・キューンに教わったことがあると分かると、彼女はとても嬉しそうで、音楽的にものすごく重要なことを僕にささやいてくれた。何と!何と心の深い、すばらしい人格だろうか。彼女のきれいなブルーの瞳は、まだ人類が発見していない、地下の奥底に眠る、温情深い鉱石のようだった。勿論それは、数多の人々、ミュージシャン、歴史をしかと眺めてきた鉱石であることは言うまでもない。 帰りは贅沢にもタクシーに乗った。地下鉄のあの蛍光灯に照らされるのが嫌だったのだ。タクシーの後部座席の、薄暗い中で、流れ行く深夜の東京の表情を薄目でぼんやり見つめながら、今晩起きたこと、またその余韻を家まで持ち帰りたかったからだ。そう、こういう一日が一年に一回あれば僕は生きていける。――

某月某日
――どこに行っても、どこかでクリスマスソングが鳴っている時期となった。毎年のことなれど、やはり既にこの音の洪水に食傷気味である。僕の記憶によれば、アメリカでもヨーロッパでも、あまりこういう現象はない。などと書くと、また外国かぶれと揶揄されるのかな。いずれにせよ、25日誕生日のご本人が、この騒ぎを見聞きしたらどう思うのだろうか。是非ひとこと感想を聞きたいものだ。まあ、この時期のおかげで、稼がせて頂いた時期もあった。拙書、「白鍵と黒鍵の間に」に書いたとおり、バブル時期、銀座のナイトクラブに於けるクリスマスシーズンときた日にゃあもう、毎晩ジングルベ~ルを何回弾いたかしれないが、チップががっぽがっぽフトコロに入り、なにがなんだか訳が分からなかった。ナイトクラブの仕事を終えた後、深夜のパーティーでまた演奏したりして、今から考えれば、夢のような日々であった。にもかかわらず、あぶく銭とはよく言ったもので、そういう形で稼いだカネは、仕事をした分遊んでしまうので、気がついたら一銭も残っていないということが多々あった。世の中そんなものである。さて、今晩は新宿ピットインにて、シェラ・ジョーダンが、本物の音楽を我が耳に届けてくれる筈だ。何とすばらしい夜。行ってきます。――

某月某日
――サントリー美術館に、「歌麿・写楽の仕掛人、その名は蔦屋重三郎」を見に行った。可憐な、という言葉は今もう既に死語なのだろうか。まずこの言葉を想起させるに充分な内容であった。展示された浮世絵が粋なのは勿論だが、当時ある材料と技でこれだけの描写が可能であったということに、まず目を見張った。スタイリッシュの極致とはこのことではないか。当時の江戸人がどういう言葉で会話していたかは知る由もないが、僕の先祖が、直系ではなくとも、このような文化の所為が我が国にあったことに、心を動かされた。江戸の街並自体、虚飾を排し、しかも豪奢だったであろう。また特に印象に残ったのは、風刺画であることを前提としつつ、浮世絵の日本人の顔が、とて「もまと」に感じられたことだった。文化にくるまり生活している人々の表情は、何とも言えぬ洒脱さにあふれていた。現代と違い、乳幼児の死亡率、疫病、特に労咳などの病は桁外れに多かった筈だが、我々がほとんど失ってしまった感性によって「労咳?それがどうしたい?」と言わんばかりの創作欲に満ちていた。 それにしても、美術館内、迷路のような六本木ミドッタウン内は、何処もかしこも、おばさん、オバサン、OBASANの群れでごった返していた。二人組のオバサン、集団のオバサン、歩きにくいったらありゃしない。皆横に列をなし、徘徊している。まわりの者への気配りはなし。まっすぐ歩けたもんじゃない。まあ、平日の午後に美術館に行くような自分も、最高なる禁治産者であるので、あまり人のことは言えないが、それにしてもである。このオバサン集団、こわいもの知らずである。聞くとはなしに、彼女らの会話が耳に入ってきたが、誰も会話というものをしていない。各自がただ言いたいことを言っているだけで、会話というものが成り立っていない。皆集団で好き勝手にああだこうだ言っているのみである。せっかく江戸文化の余韻に浸ろうとしていた僕の気分はズタズタになってしまった。この人達、いったい蔦屋重三郎の業績をどう思ったのだろう。食べ物の話しかしていない。ということで、館内を一歩外に出た後、興ざめしたことは言うまでもない。歌麿がこの場に居合わせたら、さぞかし皮肉のきいた一筆書きなどモノにしただろうに。――

某月某日
――冷たい雨の寒い日は寂しい。心の中がシーンとなる。雨空を見つめながら濃いコーヒーを飲んでいたら、子供の頃のことを思い出した。この気分で作曲すれば、良いメロディーが浮かびそうだという山っ気が顔を出したので、ピアノの前に座るが、そう簡単に物事は運ばない。メローディーの断片を譜面に書いたのみとなる。 午後、予約していた時間に歯医者に行くと、なぜか一人でいた僕の部屋よりも寂しげだった。歯医者さんとの対峙の仕方は、よく考えれば妙なものである。眼前に、マスクをした他人の顔が逆さに迫っている。何やら細かい機械を巧みに操作し、この腕の良い歯医者の治療時間はいつも十分程度だ。ここで突然また妄想が始まる。この地球上にあふれている物、物、物。自動車、建物、道のアスファルト、自動販売機の中に入っているカンコーヒーのアルミ、パン屋の窓ガラス、ガードレール、セブンイレブンのおでん、全てこの地球の何処かから放り出した物で出来上がっているわけだ。いわんや僕の歯自体においてをや。それが少し削られた。―――

某月某日
――宇宙の底まで透けて見えるような青空の日。 新宿をうろついていたら、若き日のジョン・レノンを描いた「ノーホエアーボーイ」の看板が目に入った。ちょうど上演時間直前だったので、青空とはオサラバして暗い館内へ。僕の中学時代を救ったビートルズへの思いはことのほか強い。その頃からこのかた、ビートルズに関係する本はたくさん読んできたので、あまり目新しい筋書きはないのではと分かってはいた。特に、彼の母と叔母との葛藤は、もう衆知のことである。ただ、僕の最たる興味は、リヴァプールなまりの英語を聴きたかったことにある。確かに少し聴き辛い英語ではあったが、出ている俳優が全てリヴァプール出身とは限るまい。だが、ロンドン出身の俳優が、リヴァプールなまりで喋っているかどうかということまで、聴き取る能力がない為、判断しかねた。まあ、あれはリヴァプールなまりだったのだろう。もう廃刊になってしまったと思うが、「ビートルズ派手にやれ」という本が、関係書籍の中でも、僕にとっては一番面白かった。ビートルズの下積み時代を克明に書き著した本で、あのビートルズでさえ、こんな時代があったのかと思わせるに充分な内容だ。映画でもその部分に少し触れて欲しかった。――

某月某日
――おかげさまで、ピットイン、3DAYS、三日とも満場のお客様と共に終えることができました。いろいろな方から、お体は大丈夫ですか、と問われ、恐縮してしまいました。退院したのが9月30日で、それからというもの、病院ぼけを何とか目の焦点を合わせて、遅れた分を取り戻すのに手一杯で、あっという間に12月なってしまったのです。いずれにせよ、声をかけて頂いた方々に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。未知の方々まで心配をかけてしまったのだなと、改めて気付くとは、僕も飛んだお調子者です。まあ、あんなインチキ歌舞伎のMCをしたのだから、お調子者には変わりないと言われればそれまでですが。大晦日は、再度ピットインにて、多分カウントダウンを務める大役になることと思います。正月はどうも苦手で―実は僕もそうなのですが―という方、よろしければピットインにお越し下さい。 詳細はウエブなどを参考にしてください。―――

某月某日
―――――3DAYSの二回目が終わった。二日ともほとんど満席で、嬉しい限り。これならピットインも納得してくれるだろう。まあ、明日の種明かしも良いかなと思ったが、マジックショーと同じ、種明かしは明日の夜に。―――――――――――――――――――――

某月某日
――本日、といって、ももう昨日だが、久しぶりに充実した日を過ごした。朝早く起きてピアノを練習。 後、生徒を四五人教え、いま来日している盟友である キャスパー•トランバーグと渋谷で落ち合う。彼は今、 水谷浩章氏の主催する、DENJAP SOUND EMENBLEにて来日している。前々から日時と待ち合わせの場所であるハチ公前で待っていると、はたして彼が現れた。先日一度食事を共にしているので、軽い挨拶の後、彼のDISKUNION漁りにつきあう。のち、来年何か新しいプロジェクトの方向性を相談する為に、そこらのカフェへ。アイデアをぶつけあううち、とんでもない方向に話がずれていった。ここには詳しく書かないが、我々のやってきた今までのプロジェクトを、大きく凌駕する笑いの止まらないような内容だ。来年にご期待あれ。――――

某月某日
――― 本日は、原稿を書いていたら、暗くなってしまった。朝早く起きて、近くのコーヒー屋さんで 駆けつけ二杯のカフェインを摂取し、昼過ぎまで書いて、 夕方までうーんと唸って、また書いていたら、世は既に 夜中だ。さあ、これからが不眠症ならぬ不眠ショーの始 まりだ。登場人物は自分自身。一人芝居みたいなものだ。 登場人物の僕は、何ともいえない嫌な世界にいる。何も 新しいことを考えられるでもなし、かといってボーッと することもできない。嫌な思い出や、心中とは違う言動 をしてしまった過去の出来事に対する後悔の念などが、 渦を巻き始める。元々、日本人に生まれようと思って、 生まれてきたのではない、などという愚にも付かぬこと を掘り下げて考えてしまったりする。こういう発想は、 昨今の世情と政治に対する、何かしらの憤りと怒りが綯 い交ぜになって、無意識下から噴出してきているのでは なかろうか。思い切って僕も政党を組んでみようかな。 勿論党名は、不眠党。総理大臣、閣僚、議員全員が不眠 症であることが入党の条件であり、思想、先見性、ポリ シーなどは問わない。不眠症の集まりだから、国会は夜 中に開催される。皆それぞれ寝間着、パジャマ姿で、目 の焦点が合っていない。視聴率80%は確実だ。暗闇の妄 想は止まるところを知らぬ。サッカー選手に野球をやら せたらどうなるだろうか。まず、サッカー選手のピッチ ャーがボールを持った時点で、これハンドじゃないかと、 内心焦るのではないだろうか。キャッチャーはゴールキーパー。ワイルドピッチを横っ飛びに身体で止めたりす るに違いない。バッターはどうなるのか。動体視力は常 人の域ではないのだから、打てると思う。だが凡打だと しても、敵の一塁手に足から滑り込み、ボールを奪おう とするのではないか。審判が退場と叫んでも、イエロー カードが出ないから、一塁に居座る可能性が高いような 気がする。守りの場合、外野はディフェンス陣になるだ ろう。犠牲フライをミットでなく足で蹴り帰して、その ボールが見事、キャッチャーミットに的中するやもしれ ぬ。これも視聴率80%行くと思うんだけれど。―――

某月某日
―――――本日は、綾戸さんと米原で演奏。何と日帰りであった。終演後、急遽新幹線に乗り、名古屋まで出て、品川へ。あっという間の出来事だった。交通機関が発達することすなわち、世のサラリーマンも、我々ミュージシャンも忙しくなるということである。羽田が国際化したから、新幹線のみならず、飛行機での往来を利用する仕事はもっと増えるのであろう。新幹線も、列車の内装やデザインは近代化したが、旅情というものが味わえなくなった。僕の父親は京都出身であり、小学生の頃から新幹線に乗っているが、ビュッフェに行くのが楽しみだった。僕はぬるいカレーを食べ、父親はビールを飲んでいた。特段目を見張るような出来事ではないが、 そこには何かしら、ゆとりのあるほんわかした空気が流れていた。それも味わえなくなったような気がしていたら、ごく車内の一部ではあるが、その旅情に近い雰囲気を味わえる場所が意外なところにあった。喫煙コーナーである。ご存知の通り、のぞみ号には喫煙コーナーと称して、狭い空間が煙草のみの為の最後の砦となっている。ここに出入りする人々の服装や年齢、性別、吸っている煙草の銘柄、煙草の吸い方などに、そこはかとない旅情を感じることができるのは僕だけか。弁当を食べ終われば、自然と一服つけたくなる。トイレに行ったついでにちょっと吸おうかと自動扉のボタンを押す。そこはいうまでもなくヤニ臭く、煙がもうもうだが、なぜか人心地が付く。僕は喫煙コーナーの奥の壁に寄りかかって、くわえ煙草で煙をふかすのが好きなのだが、他の煙草のみにも、何かしら、その人なりの吸い方があって、とても面白い。ある人は、一吸いするごとに、神経質に灰皿に灰を落とす。視線は喫煙コーナーにある窓の向こうを凝視したままで、スパッ、スパッと吸い続け、煙草がまだ半分のこっている状態で、煙草をぐりぐりと灰皿の側面に押さえつけ、さっといなくなる。あの人、本当にリラックスして煙草を吸っていたのかなあと、他人事ながら心配してしまうような人もいる。またある人は、喫煙コーナーに入ってきて、まず僕のように壁に寄りかかる。その人は黒いスーツを着ていて、なぜかネクタイは真っ赤。オールバックの頭が少し薄くなりかけている。人のことは言えないが、一見職業不詳。その人は、顎を少し上にあげて天井に目をやりつつ、スーツの内ポケットからゆっくりと煙草のケースを出し、ちょっとキザな銀のライターで煙草に火をつけ、最初の一吸いと共に目をつぶる。そして、右手でゆっくりと煙草を口から離すと、指をチョキの形にして、胸の辺りで持ちながら、そっと目を開く。茫洋とした風采の人なれど、これが本当の煙草のみといった雰囲気が伝わってくる。こういう人は、大方根元まで煙草を吸うのである。赤の他人なれど、仲間意識のようなものが生まれてくる。女性の煙草のみと遭遇することもある。彼女らは大体、細い煙草を吸っていて、我々だらしない男性とは違い、壁に寄りかかったりしないようだ。そして大概、視線は足下の方を見ている。紫煙を心地よく吹き出すようなこともしない。どういったわけなのか、煙を口のまわりに漂わせるようにして、黙々と吸う。まあ、そういう人達を見ていると、何故だか旅情のようなものを感じるのだから、我ながら不思議である。きっと、科学技術が発展すればするほど、人間味、もしくは車内にいる人々の素の部分を垣間見られるのは、昨今、喫煙コーナーだけなのかもしれない。煙草の煙がお嫌いな方、今回のこの文章で、ごめんなさい。―――――

某月某日
―――急遽、また再度、綾戸さんと演奏することになりました。詳しくはNEWSの欄をご覧下さい。―――――

某月某日
――毎日この日記を書くことを自らに課したのだが、なかなか毎日時間を削いて書き続けることは難しい。時には、日記を更新することさえ意識にない日もあり、あっという間に日がすぎてしまう―――毎日といっても、僕の生活自体、夜中の12時に日めくりカレンダーを一枚やぶくような時間の流れで生活していない。否、職業柄できない。しかるにこの日記を読んで下さっている方々の大方は、いわゆる毎日という基準の中で生活していらっしゃる方が大多数であろう。悪い言い訳ですが、 そこのところのズレを、少しでも縮めていかなければならないのだろう。閑話休題、綾戸さんと二回、静岡三島、名古屋にて演奏。何年ぶりだろうか。舞台の上で、歌い喋る綾戸さんを見ていると、昔の思い出が過る。いずれにせよ、何とすばらしい再会ではないか。――――――

某月某日
――急遽、綾戸千恵さんと演奏することになりました。詳しくはNEWSの欄をご覧下さい。―――

某月某日
― 半年程前か、友達の持っているカメラが急に欲しくなって、衝動買いしてしまった。デザインもカッコよく、コンパクト。プロのフォトグラファーにも人気のものだそうだ。しかしその後、忙しくてカメラをいじる暇はなく、最近やっと手に取るようになった。コンパクトだったので、そんなに多くの機能がついているとは思っていなかったが、然に非ず。使用説明書の最初の方のページにある、「はじめてお使いのときは必ずお読みください」、からつまずいてしまった。勿論、説明書は日本語で書かれているのだが、読んでも読んでもまったく頭に入らない。例えば、「ボタンを押して、削除したい範囲の始点になるファイルを選び、削除ボタンを押す」。これは「削除する範囲を指定する場合」という項目の場面に出てくるのだが、削除したい範囲とは一体どういうことか。気に入らない写真を消すということなのであろうか。どうあれ、始点とは、どこから始まることなのだろうか。まったく見当がつかないーーーー いつも思うことだが、この手の、電化製品も含めて、取扱説明書を作家に書かせたらいいのではないかと思うのである。もう鬼籍に入られてしまった池波正太郎先生のような、エンターテイメント性のある、しかも滋味深い文章をお書きになる作家が、これらの説明書を書いたら、どんなに良かろう、面白かろう。はじめに、のらんでも随分と取っ付きやすい印象になると思うのだが。―――「いいカメラに出会ったものだ。黒く小型の最新のカメラである。デザインがすっきりしてい、それでいながら、あまりメカニックな印象はない。このようなカメラが江戸時代にあったならば、鬼平の密偵、相模の彦十にでも持たせてやりたい。探りを入れさせれば、すぐさまとっておきの証拠写真を、鬼平のもとに、届けるはずだ。鬼平がニヤリとすることをいうにまたない。ボタンを押して、フラッシュモードとしてみる。上品な本体についているフラッシュの、鎌首というには大袈裟な、かわいらしいものが飛び出した。画面には、雷マークが種々点滅してい、これはもう、いうまでもなく、使ってみることがよろしいだろう」こんな文章だったら、さぞかしこのカメラの性能を、随筆を読むがごとく会得できるような気がするのだが。――――――

某月某日
―― 秋晴れになりそうでならなかった日。日本周辺がキナ臭くなってきている日。皆様、いかがお過ごしですか。自国を守れぬ国民で困っているようだから、僕一人で武装しようかな。理論武装、銃器による武装、住まい自体を核対応にした地下武装。などと考えていたら、いきなり大きな地震がきた。ゴゴゴゴゴ!!― ――気を失っていたのであろうか、ふと我に帰ると、電気はダメージを受けていないらしいことが分かった。早速テレビをつけてみると、アナウンサーが喚き散らしている。「大変なことが起きました!今の大地震により、巨大な地殻変動が起き、何と福岡県沿岸部の一部から壱岐、対馬、釜山までの間にあった海が消え失せ、代わりに地殻の変動で、海底から地面が盛り上がっています。ああ、今人工衛星からの情報によりますと、何と九州福岡から釜山まで地続きになってしまいました。―――あ、新しい情報です。ああまた更にまた大変なことが。鹿児島県の突端から、奄美大島、沖縄、石垣島、尖閣諸島、またもや地続きになった模様であります。あ、また新しいニュースが入ってきました。北海道最北端とサハリンが陸続きになった模様です。またサハリンの北部がユーラシア大陸と合体した模様です。つまり我々の日本海は日本海湖と化してしまいました。ここでまたこの巨大な湖にどういう名前をつけるかについて、日韓露の三国で、国境問題も視野に入れた、喧々諤々な議論がこれから行われるでしょう。我が国は黒船以来の危機に直面しています!」―――ふと我に帰ってみたら、昼寝をしていた。―――

某月某日
(前回の日記の続きです) グキッ、ゴリッという感覚しか伝わらなかった。30秒ぐらいの出来事だった。苦楽を共にした我が奥歯が、僕の身体からはがれ落ちた。最初の麻酔注射三発は痛かったが、抜く段になるとまったく痛みは感じなかった。ただ、何か不自然な、こすれるような音が、僕の口内にちょっと響いたような気がした。 「はーい、ミナミさーん、終わりました。このガーゼを噛んでいて下さい。えー、痛み止めと、抗生剤を出しますから、時間通り飲んで下さい。はーい、うがいして下さい」抜いた歯のあたりを舌で探ると、なにかポッカリと空洞ができている。まだ残っている他の歯が愛おしくなってくる。ちゃんと歯磨きしなければ。「ミナミさん、抜いた歯はどうしますか。持って帰りますか」「他の人はどうしているのです」「ほとんどの方が置いていかれますね」「では僕も持ち帰りません。ちょっと抜いた歯を見ていいですか。」―――それは乳白色の美しい部分と、毒々しい虫歯の黒い部分が半々の、不思議な形をした鉱石みたいだった。歯茎の奥から出てきた部分は、木の根のように、三方向に股を広げ、その広げた角度が何ともけなげで、ああ、再度歯を良く磨くのだったと後悔の念がわき上がる。―――「ミナミさんねえ、このおやしらずは、歯ブラシが届かないところにあったんですよ。遅かれ早かれ、抜くことになったと思いますよ」僕の気持ちを察してか、先生が優しい言葉をかけてくれた。この歯と共に、ツアーに行ったり、歯を食いしばって頑張ったり。よく考えれば、歯とは不思議なものである。今は歯も内臓も、医療費こそ違え、取り替えたり取り去ったりが可能な世なのだ。だが、抜歯という行いが、一番早く、そして、自らの身体からかけた部分をじっくりと観察できる、唯一の一パーツであることは確かだろう。無下にガーゼの上に横たわる我が歯は、何か戦友の死という大袈裟な言葉を想起させた。そうだ。歯が痛かったということは、僕と共に生きていたのだ。しかし、このたび僕の身体を離れて死んだ ―――ご苦労さん。

某月某日
過日、突然奥歯が痛みだした。急にズキッといういやな 痛みが、命脈をも感じさせるがごとく、全身を貫いた。その痛みは、頭蓋骨に響くような、不敵な痛みであり、変則的に襲ってくる。両手で口を覆うしか手だてがない。 最初の一撃に見舞われたとき、座り込んでしまった。二回目の痛みのときには、畳の上に寝転んでしまった。三回目の痛みの時には、「いて~!いて~!」と、誰に向かって叫ぶでもなく大声を上げ、気がついたら身体が畳の上をゴロゴロと転がっている。あまりの痛さに、このように自分を無意識のうちに客観視するしか術がなかったのであろう。とにかく、七転八倒とは何と的を射た表現かと思った。家にあった鎮痛剤を適量飲み込んだ。水は患部に当たらぬよう首を傾げて飲んだ。だが痛みはやまない。もうどうにでもなれと、鎮痛剤を更に倍ほど飲み下し、何とか水で体内に押し流す。されど変化なし。幸い午後の早い時間だったので、かかりつけの歯医者に連絡。「あの、ヒューにはかいたけなって、おねはいてす。ヒョー診てもはへえませんは」電話でしゃべることにより、言葉も的確に発音できなくなっていることを認識。 「あのーミナミさん、今日は応急処置しときましたが、今痛むところ、おやしらずなんですよねえ。こんな奥だと、神経だけ取るというのも難しいし。次回は、まあ、抜歯を覚悟で来て下さい。無理にとは言いません。ミナミさんの歯なんですから。でもねえ、次回取った方がいいと思います」「あひかとうこさいます」 というわけで、明日が抜歯の日。明日の日記をご期待あれ。

某月某日
秋晴れの日。仕事は自分でつくらなくてはならない。よってそれに付随する雑務に追われることとなるが、今日ばかりは家に閉じこもっていることができなかった。やっと迎えた秋晴れの日。渋谷、青山、表参道をそぞろ歩き。散歩とは現代人の贅沢だろう。我々が何万年も昔、狩猟民族であった頃、歩く、走る、という行いすなわち, 自分の食い扶持を探す為であり、歩くこと自体に価値を見いだしていたかは疑問である。歩いていても、音楽のこと、文章のことなどを考えてしまう。それも大切な散歩の要素の一つだが、本日は、さながら吉原の妓夫太郎になった気分で歩くことにする。落語の郭話に出てくる、お気楽な仕事の筆頭のようなあれである。だが、最初は上機嫌で歩いていたものの、段々思考が妙な深みへとはまり、そのおかげで表参道の人ごみは気にせず済んだのだが、やはり妓夫太郎になりきるのは難しかった。散歩とは本当に不思議な行いである。自分が、自分の身体と共に移動している。自分の五臓六腑、その中には嘔吐物と小便などが詰まっている。また、同時に僕の脳みそも動いているが、僕が見ている風景を意識している自分自身は見えない。その僕の身体、目に見えない部分を含めて、作曲したり、ピアノを弾いたり、文章を書いたりしているのである。一体これらのもの、創出されるもの、はいったいどこからくるのか。形而上という概念はあるが、形而上という言葉も、言葉以外のものではない。その言葉に触発される何かがなければ形而上とはならない。などと思いながら歩いていたら、神社があった。無神論者というより、ものぐさなだけで宗教には深くタッチしていない僕だが、神社の境内は好きである。お清めをして、礼拝の後、お賽銭を投げ、何やらモゴモゴと言っておみくじをひいたら、中吉と出た。太陽が少し傾いできたので家の方角へと足を向ける。しばらく歩を進めたら、急に寿司が食べたくなってきた。こちらの経済的理由もあって、最近、寿司屋に行くことがあまりない。近所に顔見知りの店でもあれば良いが、どうも近所に、寿司屋らしい寿司屋が見当たらなくて、そのままになっている。残念なことだ。何もグルメなことを言っているのではなく、普通の寿司屋が好きなだけだ。気取りなく、清潔で、テンプラとか、寿司屋には本来必要のないものをキッパリと出さない、そんな寿司屋。大将と女将さんが二人でやっているといった、そう、いわゆる寿司屋。玄関口にさっと水がまいてあって、暖簾をくぐると、店の奥に玉砂利を敷いた小さな庭に,同様に小さな灯籠がちらっと見えたりする。黙っていても簡単なお作りなどひょいと出てきたりして。ほろ酔いになったところで、なにを握ります、なんてタイミングよく聞いてくる大将ののろけ話を聞きながらもう一本、なんて調子にのったりして。あっそうだ。今オレ酒やめてんだ。馴染みがなくてよかったとは、僕の妄想にさえ、皮肉な結果となってしまった。 家に帰って、一曲書いた。

某月某日
どういう理由か、2年程、自分の家で音楽を聴かなかった。つまりCDなどかけなかった。じっと静かにしている方が、耳の奥から自分の音楽が聴こえるときがあり、 静寂を求めていたのかもしれない。だが、またどういう理由か、昨今急にCDでも何でもいいから僕以外の音楽が聴きたくなり、今ジョビンなど聴いている。いかなる心的変化かは、自分でも分からない。特に、ボサノヴァはお清めのような音楽で、空気が清浄になることに気付いた。この音楽は全てを包括するのではないか。勿論、 結婚式のような場に於いてもふさわしい。と同時に、こんなこと書くと叱られそうだが、テレビでよく見る、事故、災害の映像と共に聴いても、合うような気がしてしょうがない。マイナーチューンに限ることとして。あらためて、エリス・レジーナは凄いななんて思っている僕は、なんだかフリダシに戻ったような気分だ。そして次にグスタフ・マーラーなど聴いているのだから、自分でもどこか変になってしまったのではないかと思っている。勿論ジャズも聴いているが、何を聴いているかは秘密である。
退院後、あっという間に月日は過ぎ、たいした入院日数ではなかったにもかかわらず、演奏やその準備、原稿書きにおわれ、また日記を長らく書かないでいた。現在、 リトルモア広場というサイトに「妄想するジャズ」と題して文章を書いている。 http://www.littlemore.co.jp/hiroba/jazz
また、扶桑社刊、EN-TAXIに「六本線の五線紙」というタイトルで連載中。
http://www.fusosha.co.jp/en-taxi/
ぴあクラシックにも小文を寄せている。http://www.tenprint.co.jp/piaclassic/
これまでは、締め切りをうまく勘定に入れて文章を書いていたが、少し娑婆から姿を消していたら、その締め切りが一時に重なってしまい難儀した。本業の演奏の方は出遅れを挽回する為にフル活動して、あれよあれよという間に11月、自然、家に閉じこもっての作業が多くなってしまい、あまりニュースなどにも目をくばることもなかった。とはいえ、チリでの救出作戦ぐらいは知っている。全世界からマスコミが多勢押し寄せたそうだが、チリ政府も考えたもの、あらゆるメディアにチリの国旗が映るよう工夫していた。日本で同様の事故が起こったとき、日の丸をあのように扱うだろうか。他に風船、救出の為のフェニックス、あらゆるところにチリという国を印象付けるアイデアが盛り込まれており、事故そのものより、愛国心ということに強く引きつけられた。坑道の中は湿度90%以上だとのこと。お天道様も拝めない。世界中にその極限状態が知らされたのであるから、あの地下700メートル?の空間をもう少し広げて、世界規模の凶悪犯刑務所にしたら良いのではないか。あの地底の世界の恐ろしさと居心地の悪さは、全世界で報道されたのだから、あそこだけには入りたくないということで、世界の凶悪犯罪率が下がるのではないか。いずれにせよ、凶悪犯だろうがなんだろうが、それらの者達を税金で面倒を見るのはどの国も大して変わらないだろう。そのお金をチリ政府に渡せばいい。それを落盤事故防止に使えば一石二鳥。なぜなら、脱獄不可能だからである。看守は地上のモニターにて中の様子を監視すれば良い。食料、その他最低限必要なものは、細いパイプで下ろせば良い。人間が通れたあのトンネルは残しておいてふたでもしておけばいい。何の道具もなければ、這い上がるのは不可能であろう。などとまたいらぬ妄想をしてしまった。ニュースの時制は前後するが、尖閣問題で、件の船長が釈放されたとき、僕はそのニュースを病院のベッドの中で、偶然付けたテレビにより知った。あれっと思っただけだったが、その時丁度、血圧、検温の時間で、ナースがやってきた。僕は挨拶もそこそこにテレビを凝視していたが、そのナース曰く、「あらミナミさん、今日は急に血圧が高いですね」と心配そうに言った。僕は思想より、血圧自体が保守なのかもしれないと思った。当然ながら、次回の検査時、血圧は正常値となった。まあ、思想性のないことは、胃袋の中でも分かっていて、その時、一番食べたかったのは中華丼であった。 話はまったく変わるが、12月3日、4日、5日にピットインで3DYS 「ピアノホリック・ナイトVOL 6」をやらかすこととなりました。詳しくは、 http://www.pit-inn.com/whatnew.php?anc=120
詳細は追って、また日記に記したいと思います。

某月某日
いやはや、また長らく日記を掲載することができず、我ながら情けないかぎり。また、今回だけは、この日記の冒頭に書する

某月某日
ではすませられない事情もあり、今回はちゃんと日付を記すことにします。本日、10月7日午後、晴れのち曇り。実を申せば入院しておりました。退院は9月末でありましたが、病状が身体から消え去っても、病院ぼけというのでしょうか。一応退院の条件として自宅療養も含まれていましたが、頭が即仕事に立ち戻れず往生しておりました。やっと退院一週間後にしてマトモにものが考えられるようになった次第です。 入院ということで、各方面に大変迷惑をかけてしまいました。幸い、自らのウエッブのスケジュールには、9月迄の予定しか載せていなかったのですが、21日の三軒茶屋OBSOUND,相模大野アルマ、各クラブには大変ご迷惑をかけ、このクラブ出演を誘ってくれた津上研太氏にも大変な思いをさせてしまいました。また、少数ではありましょうけれど、僕を目当てにクラブに来ていただいた方がいらっしゃれば、ただただ頭を垂れるのみです。 どうも本当にすみませんでした。また、10月1日に予定されていた菊地成孔氏とのデュオの仕事も休まざるをえず、これまた少数かとお思いたいのですが、佐世保にて僕を目当てに聴きにきて下さった方、楽しみにしていて頂いていた方々に不義理を残す結果と成ってしまいました。本当に申し訳ございません。この借りは、将来きちっと演奏によってお返しするつもりでおりますので、どうかご容赦ください。 ご容赦ください、と言っても、自分の体調管理、自己責任で行うのがフリーランスの身として当たり前のことであり、反省をこして自己嫌悪に近い気分であります。齢50にして初めて入院というものを経験し、つまり逆にいえば、今までどんなに調子が悪くとも、演奏だけはできたので、そのことにかまけて、無理に無理を重ねておりました。今回はかかりつけの医者に即入院せよと言われ、近所の総合病院に着くや否や倒れ、まあ、どこで倒れても最後は病院に行くことを考えれば、ここが倒れ時という弱気になってしまい、そのまま点滴の嵐。気がつけば二三日ろくに記憶のないという状態で、仕事関係の方々に事情を説明するので精一杯であり、悪い言い訳と承知の上ですが、我がPCは家に据え置かれており、皆様への連絡等告知できずにおりました。少し症状が良くなったおり、病院が住まいから近いので、ちょっと抜け出してとも考えたのですが、点滴というものは、ある意味病院側からの楔であり、住まいに帰ることもままならず、今日という日迄、体調回復に時間がかかってしまいました。まあ、悪い言い訳ですが、三十余年朝から晩迄どんちゃん騒ぎのような日々を送ってきたツケが今回廻ってきたようです。別の言い方をすれば、今迄身体がよくもったなあと感慨深い部分もあるのですが。 よっておかげさまで復帰いたしました。演奏、書く仕事、それぞれ準備しているところです。演奏の方の仕事始めは10月中旬から。詳しくはウエッブのスケジュールをお確かめください。作家、音楽家は、世の慰め、また大袈裟に言えば何かしらの形で文化そのものに貢献している部分もあるかとは思いますが、その分業が深い、ともとれる行動、言動、いきさつ、わがまま、などがついて回ることも事実のようです。作家、ということについてはまだまだハシクレですが。 入院中の出来事は、頭の中でうまく醸成されれば、また文章に書きたいと思ってもおります。こういうところが業の深い原点であるのでしょうが、初めての入院という体験はまことに強烈でありました。僕の好きな作家、チャールズ・ブコウスキの言葉に、「本当の人生の学校は病院と刑務所だ」というものがあります。幸い刑務所の経験はありませんが、病院の方は体験してみてその通りでありました。 このような文章で、皆様のご理解を得られぬ部分があることは十分承知の上ですが、まずは復帰を果たしたことを、皆様にお知らせしたく、この一文を書きました。ご理解ください。この南博は、当然のことながら世界に一人しか居りません。この一文を読んでいる皆様も同等ですが、僕のやるべきことは、強烈に、まあ名前というものが記号にすぎないものである点も承知の上で、南博であります。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。

某月某日
いやはや、また日記を書く間が空いてしまった。本日は、渋谷の公園通りクラシックにてBOZOにて演奏。演奏中あまりにも汗をかくので、家に帰れば半裸状態。こんなに暑くとも、演奏はできるが、頭が動かない。推理力、計画性、先見性、雑用に於ける優先順位、暑さのせいで、全てだめである。暑いのはあなただけじゃありませんと言われても、ああそうですか、と答えるのが精一杯の状態ということである。つまりそれ以上の言葉が頭に浮かんでこない。夜中になると、隣りの敷地の木々に潜む蝉どもが、急に鳴き出して、僕は泣きたくなる。あの昆虫は、いかような生態系の仕組みによって、夜中に鳴くのであろうか。僕は根っからの昆虫嫌いで、カブトムシとゴキブリの違いが分からぬ。双方茶色く不気味な手足をもち、触覚の動きも不気味である。どこに違いがあるのだろう。この場所に引っ越した年に、あまりにもゴキブリが出るので、タンスの奥から洗面台の奥迄、ガムテープによって目張りをしたので、最近はゴキブリが屋内に出現する機会は減ったが、油断すると、何が起こるか分からない。僕が子供の頃の夏というものは、もっと悠長で、蚊取り線香を炊き、両親とも浴衣姿で、ゆっくり団扇で子供の僕を扇いでくれていた記憶しかないが、ここ迄暑いと、世の中殺伐としてくる。実際、都内だけでも熱中症で死人が100人以上ということは、あの世に行かずともこの世は地獄ということであって、だがそれでも世の中は動いている。僕はエコというものを軽視しているので、クーラーの温度は19度である。そうでないと、原稿が書けぬ。仕事ができぬ。練習も作曲も手につかぬ。本当にエコを論じるなら、車の販売をやめればいいのである。地球上から人間皆いなくなればいいのである。だがそうはいかないから、手を替え品を替え、なんだかんだエコという言葉を用いて、皆メシの種を捻出しているにすぎない。外国かぶれと言えば言え。デンマークでは、ビールは皆ボトルに入っており、回収してまた売り出している。こういう智慧をはたらかすことのなき日本は、銭の為、儲かるということのことだけの為に遅かれ早かれ大きなしっぺ返しを食らうだろう。大酒呑みが、いずれぶっ倒れるのと同じ理屈である。パキスタンでものすごい洪水があろうとも、六本木の街は健在である。僕を含めて人ごとであるし、個人の力でいったい何ができるのか。しかし明日は我が身である。とてつもない地震が 東京を襲えば、全て水泡に帰す。世の中どうもそういう風に出来上がっているようである。良い音楽を演奏して、人々を喜ばせることができるうちがハナである。ああしんど。

某月某日
あつい。暑い。厚い。アツイ。熱い。日本語は豊穣なれど、この暑さを表現する言葉は見つかるまい。なにしろ現代のこの暑さは、万葉集にも、また何らかの古典にも 形容されていない暑さだろうからである。昨日、渋谷に小用あり、午後、最も太陽がギラギラの時間に出かけたが、大げさな話、被爆するのと同じ状態ではないかと思った程だった。この尋常ならぬ世の中は、四季の面でもエスカレートして行き、今に何かの破滅が少しずつ近づいている、と思わせるような暑さであった。 話は変わって、この日記は、僕の音楽活動等の宣伝にも有効な手段として使うつもりだったが、なぜだか、大変に重要な事項を多分五月末から載せていなかったようだ。 暑さも、音楽活動も、各自それぞれ大変なのであろうから、僕だけの問題ではない。要するに、僕の怠慢、だらしなさが、今回のこの日記の空いた期間を象徴しているようで、まことに情けない。この日記に書かねばならない伝達事項はたくさんあったのだ。
まずAIRPLANE-LEBEL「http://www.airplanelabel.com/ 」より我がGO THERE ! の新譜が7月6日に発売された。タイトルは、「FROM ME TO ME」,実に七年ぶりの録音である。七年もあれば、曲もたまる。逆に、何の曲をCDにて演奏するのに迷ったほどだ。
また同日に、「黒鍵と白鍵の間に」(小学館刊)が、文庫本として発売されることとなった。僥倖です。GO THERE!の新譜の方は、録音スタジオのスタインウエイが見目麗しく、ある時はグロリア・スワンソン、またある時はオードリー・ヘップバーン、またある時は、ウッディ・アレンの映画出演当時のダイアン・キートンのようなサウンドのするピアノで、演奏を大いに楽しめた。文庫版の本の方は、お手頃値段で買いやすくなり、より多くの人に読んでもらえるようになった気がする。とにかく双方とも、あとがき、ライナーノートが充実している。まあ、後宣伝としては、U-TUBEに、先日行った代官山のクラブ、「晴れたら空に豆まいて」での実況中継がアップされています。よろしければhttp://www.youtube.com/watch?v=Yep0s1tJA_g まで。
重複するが、とにかく今までこの場をかりて宣伝しなければならないものが沢山あったのにも関わらず、己の怠慢から何も書かなかった。にもかかわらず、本のトークイヴェント等の宣伝もしていなかったが、各所満杯で、嬉しい限りであった。文庫本と新しいCD,どうかよろしくお願いいたします。また、EN-TAXIに加え、LITTLE MORE広場「http://www.littlemore.co.jp/hiroba/jazz」において、小文を載せていますので、こちらも読んでみて下さい。
暑さがすぎたら、マトモな文章書きます。失敬。

某月某日
コンピューターのない日々、またその後。なんと自分の誕生日の朝、Macに電源を入れたら?マークしか映らなくなる。すばらしい誕生部プレゼント。ブラボー!まったく機械音痴のオレらしい誕生日の朝じゃないか。サポートセンターにカネがかからないように様子を聞けば、回収して修理した方が早いとの事。翌日、クロネコヤマトがやってきて僕のMacを回収していった。Macを置いてあった机がなんだか間抜けな感じ。僕は朝起きると、まずメールチェックをする事を習慣としてきたが、そのお道具が無くなれば無くなったで、それが本当に習慣と言えるものかどうか疑問に思ってきた。あんなもん無くても、何とかなると思えば何とかなる。重要な仕事の連絡をかわす相手には、こちらの携帯のメールアドレスを知らせてあるし、文筆の方の仕事も、やたら文字数が多くなければ、書く文字数のみファックスで原稿を送ってもらい、久々にハンドライティングにて文章を書き、再度送り返せばよいのである。アハハハハ、なんだかすっきりした。てな感じが最初の週の僕の気分だったが、そうだ待てよ、ピアノの生徒をコンピューターを通して募集していたんだと気づいたのが一週間を過ぎた後。しかも、一日だいたい200通ほどくるジャンクメール、なおるのに幾日かかるか知らねども、10日かかれば2000通、それ以上の日数だったらそれ以上のジャンクが、どこかプロバイダーと僕のMacを結んでいるラインの中で今か今かとオシクラマンジュウをしているのかと思うと、気が重くなってきた。それで、あまり冷静になってはおれなくなり、いつ頃なおるのかをMac、コールセンターに聞いてみたところ、要領を得ない返事が返ってくるばかり。こうなれば、世界の終わりではないのだからという気持ちになり、コンピューターのことは忘れ、日々を送った。 5月25日、ちょうど10日目に我がMacは再度クロネコの配達により戻ってきた。修理代ウン万円なり。早速電源を入れスイッチを押してみると、さにあらん、見知らぬアイコンがたくさんあり、僕の見慣れたアイコンは、半分以上無くなっていた。文筆上大切な文章はUSBに保管していたからよかったものの、ほかの書きかけのもの、メールドレスなどが全て消えていた。こういう機械の修理というものは、車の修理とは違うのだなと改めて思い知らされた次第。文筆業に使っているWORDもきれいに無くなっていた為、渋谷のMacストアーに赴いた。量販電気店と同じく、僕はMacのストアーも、音がうるさくて、店員の言葉がよく聞こえぬ。とにかく、新しいマウスとWORDのCDRを買い、速攻で店を出た。なんだか新しい製品がわんさかあったが、それぞれの商品の質問をする気には到底なれなかった。小さい音で、ヴィバルディーなどの音楽をかけていれば、落ちついて店員に質問を出来たのだろうが、何やら高音域がシャリシャリする音しか聞こえないから、僕の滞空時間ならぬ滞店時間は、自然と短くなる。金を払う身で、耳を悪くしてどうするのだというのが、こちらの言い分である。 WORDをインスツールし、さてと思いきや、Macと光フレッツがつながっていない。電話の子機で、プロヴァイダーに電話し、説明を聞いていたら、子機の電池が無くなった。調度本題に入るべき会話の最中である。携帯にてかけなおしたが、僕の機種では、コンピューターの前は電波が入ったり入らなかったりし、一番大切な説明の段階になったところで電波がぷつっと消える。この、説明が大切な局面になる、電波がぷつっときえる、という状態が何度も続く。先方のプロヴァイダーのトラブルシューターが一人だったからよかったようなものの、何人かいれば、また話を振り出しに戻さなければならないところであった。とにかく、さすがの僕も段々イライラしてきて、機関銃でも手元にあったら、ランボーのようにそこいら中にぶっ放したい気分であったが、その弾がMacにあたれば再度フリダシに戻る。いいですか。オレはジャズピアニストなんですよ。なんでこんなファ×キンな状況で修復作業を行わなければならないんですか、という、サブリミナルな僕のブレインからの問いかけをあやしごまかし聞く振りをせず、根気よく携帯をかけなおしつつ、やっとサファリにヤフーなどが映るところまでこぎつけた。 早速メールをチェックしてみたら、なんと四千をこす着信があるではないか。どうせほとんどは、ポルノサイト、バイアグラ買うか、などの迷惑なもの、文字化けしてよく分からんもの、月十万の副収入云々カンヌンの羅列に決まっている。僕の予想はあたり、大切なメールをキープしつつ、四千与のメールを消す作業で目が疲れきった。 さてこれから、大切なメールに返事を書こうと、大切な用件を送信しようとしたら、その紙飛行機みたいな絵の書いてある送信ボタンがうんともすんともいわぬ。深い溜め息と共に、アップルコールセンターに長時間電話をつなぐ方策を考える事とす。携帯は電波の関係ですぐ切れる。電話の親機とMacの間を行ったり来たりするのも漫画みたいだ。そこでまず子機をMacの横の電源につなげ、電話自体を充電器にのせたまま、ためつすがめついじっていたら、なんとこの子機、充電器の台に乗せたまま通話ボタンを押すと、プーという。もしやこのままで電話をかけられるのではないか、それも電池切れを気にせずとも。問題は相手の声、自分の声が、このままの状態で聞こえるかという事だったが、思い切って、0120―○×云々にかけてみた。電子のネイチャン声にしたがってボタンを押していったら、「まずお名前をお聞かせください。」という声が、どこにスピーカーがあるのか、クリアーに聞こえる。「あーもしもし、聞こえますか。」「はい聞こえます。」これじゃあ、まるでエジソンだかベルだか電話の発明者の名は知らぬが、そういった発明者の最初の交信のようではないか。ともかく、トランシーバー化した子機によって、先方の説明する事を順次こなしていった。「えーメールの環境設定の何々がですねえ、どういう風になっていますか」「あーなんだか長いアルファベットが書いてあります」「読んでいただけますか」「先ほど申し上げた僕のメールアドレス、mynameとあります。マイネーム、ミナミと読めるでしょう」「確認させていただきます」「何を」「モンスターのm,ヤングのy、、、、、、、、、、、、」 段々小便がしたくなってきた。しかし今子機トランシーバーの前からはなれるのはまずい。 「では、何々をこう押して、長押しして下さいね、云々カンヌン、、、、、、、、、、」 色々試したが、結局うまく行かない。「お客様、それではこれから、別の者の担当となります。ここからは料金がかかるのですが、後は直す方法を郵送で、、、、、、、」「いくらかかってもいいから早くなんとかしてくれ」「はい、では電話を別のラインにつなぎます」 まあこのようなスッタモンダの末、着信送信が出来るようになったが、電話を切った僕は、なんだかすごく疲れていて、送信は次の日とし、Macの電源を切った。文筆において、コンピューターと長時間対峙している事は何の苦もないが、こういう修理に関することで、この機械と対峙していると、どうも神経がまいる。 という事で、皆さん、また日記を書けるようになりました。毎日書いてないじゃないかと言われればその通りでございますが、これからもどうかよろしくお願いします。

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