僕はミュージシャンであるゆえ

某月某日
僕はミュージシャンであるゆえ,年度末という社会的概念には無縁と思っていたが,ピアノの生徒の 移り変わりは,4月に起きるという事をいまさら学んだ次第である。という事で,若干名生徒を募集しています。僕の教える場所は,学校ではないので,決まったメソッドはあるものの,その生徒の要望に応えるというスタンスをずっと取ってきました。生徒の内訳を少し公表すると,勿論趣味で習っている方,ヤマハの教室で先生としてのグレードをあげたい方,プロ志望,音大生ながらコードネームを理解したいという方,ロックのバンドのキーボードをやっていて,特にジャズピアノ志望ではないが,もう少し,かっこいい音が出したい方,様々です。いずれにせよ,まず体験レッスンを受けて頂く事にしています。興味のある方は,連絡だけでもしてみてください。このウエブにメールドレスがあります。サブジェクトに生徒希望と書いてくだされば,必ず返事を致します。質問,もっと詳しい話,内容などのことでのメール歓迎です。まずはお知らせまで。

某月某日
まあ、某月,某日と書いても,明日からは五月。過去も未来も存在せぬとはいえ,僕の脳内ではやはり,記憶と予想という機能が働いており,いわんやそれが想念だけの存在だとしても,それに準じて行動せざるを得ないのは人間の性と言えようか。我がピアノの師匠スティーブ・キューンは、ヒロシ、存在するのは今しかないのだ、という、ある意味アドリブの極意を僕に教えてくれたが,若輩者の僕としては,まだその境地には至らぬ。過去未来の間で右往左往するので精一杯である。我がGO THERE!のCDが,AIRPLANE LABELから実に七年ぶりにリリースされる事となった。僥倖です。http://www.airplanelabel.com/news/index.html 発売は7月6日。詳しい事は,また日が迫ったらお知らせします。この不況時,年に二枚もCDが出せるというのも,何かの思し召しであろうか。否,こういう時代こそ,文化芸術が人心を慰め、精神的ビタミンを人々に提供できると思って活動しているのですが,思い違いですかね。話がバラバラで申し訳ありませんが,5月9日(日)、代官山、「晴れたら空に豆まいて」に於いて,トリオの新譜「THE GIRL NEXT DOOR」の発売記念ライブをやります。http://www.mameromantic.com/ 見物ですよ。天気の変化がガタガタだった4月中に比べ,今日はお天気で,少しほっとしている。まずはお知らせまで。

某月某日
PS の内容を,主文の上に書くのはおかしいが、4月14日午後一時から,NHKスタジオパークからこんにちは,という番組で,菊地氏がメインゲストで登場するのですが,何曲か,僕が伴奏を努める模様です。動くミナミヒロシを見たい方は,番組をチェックしてみてください。ちなみに番組は生放送です。

某月某日
この頃の事など
朝まだき,ふと目が覚めた。小さな庭の緑が濃く見える。雨のせいか。寝床で近々起きた事など、なにげに思い出す。おかげさまで,メラニーとのショートツアーは盛況に終わり,彼女も東京を満喫しドイツへ帰っていった。古里は,遠きにありて思うもの、とよく言われるが,この言葉は,友人にも当てはまるのではないか。朋あり,遠方より来る、また楽しからずや。これも今回彼女と一緒に演奏したり,東京見物をしたりした僕の素な感想である。特にお互いミュージシャンとして,言葉を超えたコミュニケーションが成り立つからこそ,それこそ朋の来日に,久しぶりに僕の心も晴れ渡った。しかし前出の言葉どおり,朋は遠方に居る方がよろしいようだ。ちょっと寂しいけれど、メラニーとの演奏は,ドイツ、ニホンに関わらず、今後も続けていこうと思っている。メラニーの面倒を見ている内に,3月24日発売の新譜「The Girl Next Door」が発売された。いずれライナーノートには無い、それぞれの曲への僕の思い入れなど、いずれ書くかもしれぬ。話は前後するが、メラニーがドイツに帰ったと思ったら,今度は,カヒミカリイさんと鈴木正人(B)で、スタンダード曲にフランス語の歌詞をつけての演奏があった。会場は満員御礼,落語で言う一束の人々が我々の音楽に聴き入ってくれた。嬉しいかぎりえある。朝起きると、インターネットの新聞を読むのが習慣になっていたが,あまりの政局の無惨さに、最近は新聞さえ読みたくない。いわんや、なにも僕には関係のないポーランドの大統領にお悔やみ申し上げたい気持ちで一杯だ。鳩は墜落しないんだろうが。政治がどうなれ,世の動きがどうあれ,僕の想念は自由である。何を想像しようが,現実離れした事々を思い浮かべようが,この事に関してだけ,政治も税金も,常識も人種も、僕を縛ることはできない。それらを文章に託し,音楽に託し,表現したところで,なにも問題は無い。それが万人に理解できるかできないかは別にして。否,多分、万人,この場合ニホン人だけを指すが,一億二千万だかそこらの人心をつかんだら,それはファシズムであり,かといって、逆に,極端な話,自分の想像した事が誰一人分からないという事になれば,下手をすれば、どこか郊外の病院の檻の中に入らざるを得まい。珍しく朝早く文章を書いているので,自分でも何がなんだかワケが分からなくなってきた。とにかく新譜「The Girl Next Door」EWE HIROSHIMINAMI TRIO 鈴木正人(B)芳垣安洋(DS)をチェックしてみてください。うむ,段々脳味噌がよみがえってきたぞ。この不況時,CDを出せる事自体僥倖であるのに,7月6日には、AIRPLANE LABEL ,http://www.airplanelabel.com/news/index.htmlより、『GO THERE』の新譜が発売される事となった。実に七年ぶり。バンドを組んで十余年、チャンスというものは,いつ巡ってくるか分からないのがチャンスなのでであって,予定調和のチャンスなどあり得ない。まあ、長年あ~でも無い,こ~でもないと続けていなければ得られなかったものではあるにせよ。再度この不況下,僥倖です。毎日は書けませんが,ウエブのnewsの欄と日記をたまにチェックしてみてください。「独立を成し遂げられぬ歯痒さよ」

某月某日
ドイツ在住のジプシーの血を引く女性ヴォーカリスト,MELANIE BONG 来日!我がウエッブのニュースの欄にも宣伝を出したが,メラニー・ボングとまた共演することとなった。彼女の略歴を紹介しよう。ミュンヘンに生まれ,母親は,バルティックペルージアンの画家,父親はジプシーシンガーという家系に育つ。子供の頃から作詞作曲を始め,オーストリア在住時、子供のコンテストにて6歳で優勝。そのあとも作詞作曲を続け,15歳にして,「Melanie Bong Crew」を結成。オリジナルソングのみでCDを制作。その後,オーストリアのグラーツの音楽大学にて音楽とパフォーミングを学ぶ。後、ヨーロッパ全土、イスラエル,日本に,その活躍の場を広めていった。ヴォーカルを,シエラ・ジョーダン、マーク・マーフィ等に師事。簡単に書けばこうなるが、やはり習ったものではない,彼女の血の中にあるジプシーの魂が、正規の音楽教育をへて,更に脚光を浴びることとなった。参考になるウエッブのアドレスはこちら。http://www.myspace.com/melaniebong今回のトリオでの共演者は,松山修(DS)土井孝幸(B).。演奏場所は,スケジュールにものっていますが,

3月25(木)横濱MOTION BLUE
26 (金)代官山晴れたら空に豆まいて(この日はダブルコンサートで,INFORMAL 8との共演あり)
27(土)渋谷公演通りクラシックス
4月3(土)鎌倉ダフネ

まあ、ショートツアーですが,彼女は紹介した通り,ただのドイツ人ジャズ歌手ではなく、ジプシー音楽とジャズが微妙に融合したオリジナルを歌うことになっています。また、余談ですが,我が新しいトリオのCD,「The Girl Next Door」の発売日が3月24日に決まりました。メラニーさんとのツアーでも手売りします。
早くお求めになられたい方を含め,ご来場待ちしております。

某月某日
CDのことやら前作の我がトリオのCD「LIKE SOMEONE IN LOVE」EWCD0120-から二年強の歳月が過ぎ,今回二枚目のスタンダードアルバム,「THE GIRL NEXT DOOR」EWCD0174-が3月24日に発売されることに相成った。僥倖です。内容は,前の日記に書いたとおり,スタンダードナンバーを演奏している。前回のCDと違うのは,一曲僕のオリジナルをピアノソロで入れたところでしょうか。まあ、曲目は,見てのお楽しみということにしておこう。自己のトリオを結成してから早5年程になるでしょうか。とにかくこの二年のあいだ,演奏し続けたことが,トリオの更なる緊密性を生み出しています。メンバーは前回と同じく,鈴木正人(B)芳垣安洋(DS)だが、特に鈴木氏の成長著しく,聴き比べてもらえれば分かると思うが,まあつまり元々ノーブルでイカすベースを弾いていたのであるが,今回のCDでは更に彼の音楽的センスが向上しており,何とも形容しがたい内容となった。リーダーとして嬉しいかぎりである。芳垣氏のドラミングも、氏が他のバンドで展開しているそれとはまた一味違う、優しさの中にある音楽への真剣な取り組みとちょっとしたアヴァンギャルドなサウンドにあふれており,つまり聴き所満載である。日本ではいまだ謙譲の美徳というものが文化の中にあり,今まで記したように自惚れに近い感想を述べると,ある意味いやったらしく思う方が居るかもしれないのだが,事実だからしょうがない。しかし難点もある。このお二方,ものすごい売れっ子で,スケジュールを合わせるのが大変で、だからこそ,この三人が集まる生演奏というものは、ある意味貴重なモーメントであると僕はいつも思っている。
さて,タイトル曲となった,「THE GIRL NEXT DOOR」は、かのフランク・シナトラのレパートリーの一つであって,歌詞もメロディーも,今現代が本格的に失ってしまった,人間のドラマ性とロマンティシズムが融合した名曲である。時代遅れと言わば言え。塩野七生氏も書いているではないか。本当の意味で豊かな国でないと,本当の芸術は生まれないと。フランク・シナトラが活躍していた時代のアメリカは,まさに真の意味で富んでいたのではないか。そうでなければ,このような豊かなメロディーが創出する筈がない。もっと誇大妄想的に言えば,人間はかつてこのような豊かなメロディーと音楽性を有していたといっても大袈裟にはならないであろう。これは僕の好きな川柳。「人の世は地獄の上の花見かな」粋な表現でこの世の随を衝いている名作だと思う。その花見の中に,僕の音楽が,人様の心の中に、少しでも加われれば、という思いで一杯だ。なんてね、偉そうなことを書いてしまったが,皆様,3月24日はCDショップに GO !

某月某日
菊地成孔「花と水」ショートツアー顛末記
菊地氏と九州方面へ,デュオのツアーに行くことになった。集合場所は羽田の三番時計台のそば。定刻に行ってみると,菊地氏,マネージャーのN氏はもう到着していた。早速飛行機に乗る手順を踏む。いつものごとき荷物検査。ベルトまではずせという。骨折などによって骨に金属が入っている人は、その場で足をナイフで切り裂き,係官に見せなければ成らないのだろうか。いずれにせよ,あのゲート状の金属探知機,どこまで性能がいいのか分からずじまい。飛行機に乗り,離陸してから30分程たった頃,羽田で買った弁当をつかう。朝早かったため、いつもの鋭い選択眼が鈍っていたのか、最悪の味であった。まあこれも,旅の一興と,少しウトウトしていたら、長崎空港着。
前々から菊地君のマネージャー,N氏に、非常に良くまとめられた、詳細な日程を送られていたので,逆に安心してしまい,菊地氏,N氏の後を,金魚のフンがごとく付いてけばいいやという気になっていたので,最初のフライトも、長崎だという自覚がない次第。しかも、空港には,本日演奏する有田の関係者が車でお出迎え。僕の組むツアーとは,隔絶の感あり。運転手さんに挨拶して車に乗ってしばらく行ったら,大村湾というきれいな海にそって走る道に出た。太平洋でも日本海でもないその内海は,たおやかなたたずまいと共に、反対側に見えるなで肩の山々に囲まれ,始めて見る景色に茫然としてしまった。海と言えば江ノ島しか知らない僕にとって,このような起伏に富んだ山間の海の景色は生まれて始めて見る光景で,気のせいか,東京より空気中の電波も少ないような,こちらの気持ちもたおやかになるような時間を車内で過ごした。と、車が山間の中に入り坂道をしばらく登ったら,そこが今晩演奏するホールであった。何やらデザインが明治時代の小学校を巨大化したような建物で,周りにはなにもなし。
二時頃到着して、サウンドチェック開始。一曲二曲演奏して様子を見たら,サウンドナイスなので,サウンドチェック終了。開演は6時。二時半には全てやるべきことをしてしまったので,さあどうやって時間を潰そうかということになる。菊地氏は,今度対談する作家の本を丹念に読みだしたので,邪魔してはいけないと思い,散歩に出る。ホールの周りは公園のようになっており,滑り台などが置いてある場所はあるが,その他はなにもなし。広い空と山々。少なくとも東京より空気が良いだろうとうろうろと歩きまわったが,40分が限界であった。
控え室に戻ると,菊地氏はまだ読書中。時計を見ればまだ3時半。菊地氏にもあまり話しかけられず,マネージャーのN氏もどっかに行ってしまった。有田に行くということだったので,買わないまでも茶器などそぞろ歩きで見て回ろうかなどと考えていたが,そこは山の上で,焼き物見物もなし。まあ,東京に居たら居たで,練習,原稿書き,バンドのブッキング,洗濯買い物掃除書類の整理生徒のスケジュール管理なんだらこうだら、やることががばっと僕の背にのしかかってくるのが普通であるので,たまにはコンピューターも無いところでのんびりしようかと思ったが、演奏前故,あまりのんびりしてしまうと演奏に影響が出てしまうのではないかとよけいなことも考え,つまり煮詰まっていたら,その控え室にある時計が大幅に狂っていることを発見。正確にはもう5時であった。
なんだか救われたような思いで,ゆっくりと着替えて本番。前のデュオツアーの記憶ではない,身体に染み付いた何かが勝手に指を,身体から動かしてくれて,大した打ち合せもしていないのに,どこで曲をくり返すか,どのように終わるか、皆うまく行った。のみならず,演奏自体がより空間的で濃密なものと成ったような気がする,そんな演奏だった。ライティングの加減で,お客さんの姿は見えなかったが,皆吸い込まれるようにして我々の演奏を聴いていることだけは分かる。有田のお客様,どうもありがとうございました。
この日は1時間のみ演奏し,着替えてから,サイン会。結構な数のCDが売れた。返す刀で,荷造りをし、関係者への挨拶もそこそこに,車にて有田駅に直行。これから有田から福岡にローカル線に乗って,福岡から新下関まで新幹線に乗り継ぐという行程。有田駅のホームに行ってみたら真っ暗で,電柱みたいな棒の真ん中にぼんやりと蛍光灯に照らされた「ありた」という駅名の明かり以外,360°真っ暗。「菊地君、三日月も出ていて,なんだか萩原朔太郎の詩に出てきそうな光景だね.」「あはははは、本当にそうですな。」N氏も大笑いをしている。笑っていないと,この薄ら寒くて暗いホームの上で,何をしていていいかが分からない程,そこはうら寂しい空間であった。しばらくして,ピーという音と共に電車がやってくる。乗込んでみると,なんだか車内の蛍光灯が薄暗い。みんなの顔が青白く見える。外の景色を楽しもうと窓の方に顔を寄せたが,真っ暗で,電車が走っているということを実感するには,ダダッドドッという車輪の音に耳を傾けるほか無い。その電車,全車両禁煙で煙草も吸えない。菊地氏はまた読書。N氏は束の間の休息を取っているようなので,話しかけるのはやめた。
しばらくすると,三階建て以上のビルディングがちらほらと見えて来た。福岡は近いなと思った。今度は福岡から新下関まで新幹線で移動。喫煙車両が有ったので,そこで一服。時間は夜の10時半頃か。大食いでない僕もさすがに腹が減って来て,車掌室まで行き,スナックなどを売っている車両は無いのかと問うと無いという。一時間程の行程では車内販売も無いようで,まあ一服できるだけでもみっけもんだと,二本目の煙草に火をつけてすい終わったら,新下関についてしまった。
演奏は明日夜。つまり我々の言うところの前乗りである。演奏場所は,今度はホールではなく,ジャズクラブの「BILLIE」というところ。駅を下りたら,店のオーナーがわざわざ出迎えてくれた。挨拶のあと、そのオーナーが言うには,今晩TOKUの演奏が有り,かつ彼の誕生日なのでお祝いをしている。
TOKUが是比菊地さんに会いたいから合流しないかと言っているということである。菊地氏がOKを出し,我々3人は,「BILLIE」になだれ込む。そこには信じられないようなご馳走がテーブルに並んでいた。TOKUとの挨拶もそこそこに,割り込んだという低姿勢もこれまたそこそこに,ご馳走にかぶりつく。上手いものを食べると元気が出てくるということを実感しつつ、オーナーと談笑。是比明日のお昼もこの店で食べてください。ホテルまで迎えに行きますとのこと。何と素晴らしい。N氏がすかさず,では、その後にサウンドチェックを終えてしまいましょうと提案した。何と素晴らしい。しばらくしてTOKUに礼を言い,明日鳥取に行くというTOKUに、「気をつけて。」と一言声をかけ,「BILLIE」の車にてホテルに送ってもらい就寝。不眠症の僕も,この日ばかりは,すぐに眠れた。明日、クラブの車にて店に。
まずお昼ご飯を頂くことと成った。昨夜オーナーがしきりに薦めていた鯛ラーメンを三人とも注文した。これがまた美味であった。トッピングではなく,麺を啜るうちに,スープの中から鯛の身、チャーシューがごそごそ出てくるという贅沢なアイデア。勿論スープも鯛のガラから取ったと見え,醤油,塩,豚骨には無い絶妙な味が、新鮮味を伴って,鯛の香りと共に、口の中に広がる。よっぽど,東京でこのラーメンを食べられる店を出しませんかとオーナーに言おうとしたがそれはやめた。こういう発想をすること自体,僕の脳味噌が,東京一極主義に犯されているのであり,この鯛ラーメンは下関でしか食べられないとした方が、色々な意味に於いて広がりを持つということにつながるのであろう。こんな旨いものを食べさせてもらったら,演奏だってハンパなことはできない。
食後の休憩の後、サウンドチェック。その「BILLIE」にあったピアノが,鯛ラーメンに劣らず、調律とタッチの安定した美味なピアノだった。エンジニアーも、色々なバンドを扱っているのであろう。こちらが注文を付けることは無し。ピアノは鳴るは,菊地氏のソプラノサックスもよく聞こえるし、とにかく店鳴りが良い。ということで,15分程でサウンドチェック終了。ホテルで軽く休んでから、また店の車で5時に現地に。日曜日故,演奏開始は午後6時であるようだ。この店のスケジュールを良く見ると,大物ばかりがブッキングされていた。渡辺貞男氏,ハンク・ジョーンズ等々。生半可な演奏ではシャレになるまいと思いつつ控え室で着替えて、演奏開始。客席は満杯。前日の演奏で戻ったカンが、更に呼び水となり,ピアノのサウンドも絶妙なタッチを伝えてくれるものであった為,菊地氏との、特に即興を演奏する時の間合い、呼吸,タイミングなど、絶妙な表現力が客席に放たれて行くのが楽しくてしょうがない。菊地氏もそのことに当に気付いている様子で,今まであまり無かったアプローチや,挑戦的なメロディーを吹きまくった。それを良い楽器で音楽的に受けとめる楽しさは文章では著せない。その晩は2セットだったが、あっという間に終わってしまったような気がした。これは吉兆でもある。サイン会には大勢の人が,僕の本や,CD「花と水」を買い求めてくださった。下関のお客様,ありがとうございました。通常のサイン会よりも多くの時間を費やしてサインだの握手だの求められた。嬉しいかぎりである。
さて、控え室で着替えて、店内に入ってみると,そこには,昨晩のご馳走を更に凌駕した、なにやら見ただけで満腹感を呼び起こしそうな品々がテーブルに用意されていた。ふぐ刺し,手鞠寿司、巻き寿司、刺身のお作り,ふぐを具材にしたみそ汁等々。ふぐ刺しを食べるのなんて何年ぶりだろうか。いわんや、東京で食べるそれと,その場に饗されたふぐ刺しはくらべるのもばからしい程新鮮で、少し甘めのタレにつけて食べると,えも言われない馥郁たる海の香が口に広がる。こんな食事を東京でしようものなら,いくらかかるか分かったものじゃない。また、ふぐを具材にしたみそ汁は,甘めの白味噌を使っていたが,ふぐのダシを殺さぬよう,絶妙な配分で味噌が入っている為,何杯お代わりをしても,すいすいと身体に入り,身体自身をポカポカにしてくれる逸品であった。普段はやらないことだが、もう喰えないというところまで,食べてしまったのは,その食事の内容があまりにもクオリティーが高かったせいも有るのであろう。後、オーナーに重々お礼を述べ,ホテルへ。またもや熟睡。明日,クラブの車が,北九州空港まで送ってくれた。至れり尽くせりである。運転手さんに礼を述べ,お別れをした。空港では,荷物を預けた後,お土産の明太子と弁当を買う。行きの弁当で失敗しているので,大きさ,その他を考えつつそぼろ弁当を買った。中々幅が厚いのが気に入ったのだが。
ANAに搭乗。僕の席の隣には,赤ん坊を抱いた女性が座っていた。三席並んでいる内の真ん中が僕の席だったので,母親であろうその女性に座らせてくださいと声をかけたら,「赤ん坊がぐずるかも知れません。すみません。」という返事が返って来た。偉い!新幹線等で騒いでいるガキの親に,この人の鼻くそを煎じて呑ませてやりたいと思った。「あのう、気にしませんから、お気遣い無く」と言いつつ,席に座る。赤ん坊の顔を覗き込むと,賢そうな顔をしている。好いお母さんを持って幸せだな。飛行機が水平飛行になったので,べんとうをあけて見たら,買った時は紙の包みで気付かなかったが,弁当の容器が重いっきり底上げされている。中身は厚さの半分ぐらいだ。またやられた。不況で材料費がかさむのか,その弁当屋がせこいのか,何故だかしらねど,箸を入れるとすぐ底にあたってしまう哀しげな弁当を食べた。隣の赤ん坊は,母親のあやし方が上手いのか,あまりぐずらない。こういう親が全国に居れば,日本は安泰だと思っていたら,羽田に着いた。菊地氏とN氏と挨拶して別れる。モノレールに乗って恵比寿へ。今回のツアーはあっという間に終わってしまった。明太子で夕飯を喰ったが辛かった。あたりまえか。

某月某日
オリンピック,あれはいったなんなんでしょうか。いまさら国対抗でスポーツで争って意味があるのでしょうか。とにかく禍々しい程うるさい。日本は,プラクティカルに考えればそんなに多く金メダルを取れる国ではないのだから,普通のニュース番組の枠で報道するので充分ではないか。皆騒ぎすぎ。メダルを取った選手が国旗をまとったりしているが,その瞬間日教組の人達は,チャンネル変えるのかなあ。抗議電話どこかにかけているのかしら。国母君の存在は面白かった。僕は面白いか面白くないかでしか判断しないから,彼には是比金メダルを取って欲しい。彼のみならず,インタビューの時,マトモな日本語をしゃべる選手は少ない。「マジ頭きた」などという、高校生の不良がしゃべるようなコメントしかできない。着るものをちゃんと着ていたって,頭の中は国母君と変わらないんじゃないの。選手一同皆,一冊も本を読んだことないんじゃないか。別に本を沢山読む人がえらいと言いたいわけではないが,普通に日本語をしゃべれない人は,どこかおかしい。健康な人は本を読まないという。そのセンで言えば,僕は非常に不健康な人間だ。何故だか,中学時代全然勉強しなかったのに,保健体育の時間,センセイが健康な人間とは何かに付いて述べたことを思い出して来た。曰く,社会的、精神的、肉体的に健康な人が健康人であると。そんな人実際いるのか。小沢一郎氏は心臓が悪いらしいが,彼の精神も健康なのか。また,メダルを取る為に身体をぶっ壊すまで練習する選手は,精神的に健康なのか。もし,地球連邦のような組織が有ったら、オリンピック中止して,体力だけは横溢な選手達を,ハイチに送り込み,復興の手伝いするのが先じゃないのか。僕には,この人間界が,たまに不可思議でしょうがなく思えてしまうことがしばしばある。

某月某日
昨晩は,新しいトリオのCDのミキシングを終えたところだ。メンバーは前回と同じ、鈴木正人(B)芳垣安洋(DS)という布陣で,二年程前に出した一枚目とくらべ,バンドサウンドが固まった感が有る。各々が自由だが,決まる時には決まるという,アレンジという範疇を超えた長年の演奏経験から出てくる、いわゆる「あらよっと」が演奏に横溢している。発売は3月末ということで,これからジャケットの写真などを選ぶ算段となる。演奏した曲は,ワザと今は証さぬが,ジョージ・ガーシュイン、チャーリー・ミンガスなどの誰もが聴いたことのあるメロディーを選んで演奏している。詳細はまたこのウエブにて.。

某月某日
徒然伊豆紀行
レコーディングも終わり,連載している「EN-TAXI」(扶桑社)の締め切りも先で,年末からずっと休んでいなかったので、一区切りつける為,近間の温泉にでも行ってみようかという気になった。最近不気味な地震が群発している伊豆の方は空いているだろうと思い,少し探したら,手ごろな旅館があったのでそこに宿を決め,JR踊り子号に飛び乗った。身銭を切って交通機関に乗るのは何年ぶりだろうか。我々ミュージシャンにとって旅イコールツアーであり,交通費、その他を演奏を要請した側が全部準備することとなっている。畢竟,自ら切符を買うということが,とても不思議に思えた。踊り子号の車内はすいており,窓から放り投げたくなるようなうるさい子供などもおらず,東京駅で買ったクロワッサンとサンドイッチを食べながら,ワインの小瓶を少々あおる。熱海までは,見覚えのある、グロテスクな色とデザインの、なんだか存在自体が中途半端なマンション群が,見え隠れしていたが,熱海をすぎると車窓から海が見えた。海洋民族である筈の僕なのに,海なんてずっと見ていなかった。それだけ東京という磁場が,僕をひきつけるのであろうが,岸壁に打ち寄せる波は,勿論,気温,風速,温度に比例して、ただ単に岸壁に打ち寄せているだけであり,そこが自然のダイナミクスさの原点なのかしらと思っていたら,車内の売り子がやってきた。どうせ川端先生の作品の名を借りて踊り子号なんて名前つけているのだから,売り子にも着物を着せて,「ハハ~お弁にお酒に甘いもの、お酒のつ~ま~みもありんすよ~!」などと妙な踊りなどして車内を行き来すれば売り上げ倍増ではないか。実際は、売り言葉も皆様もよく知っているありきたりのもので,僕は至極残念であった。
さて熱海をすぎると,電車の速度がいきなりのろくなって,名も知らぬ駅に停車したりし始めた。よく外を見ると単線で、駅で上り列車を待たないと出発できない模様。ツアーの時は新幹線,飛行機,車なので,少しジリジリとしたが,なあに,夜演奏する予定などなく、焦ってもしょうがないと思いを新たにした。まあ,そんな田舎ではないのに単線とは、と思っていたら,目的地,伊豆高原駅に着いた。電車を下りたら,今にも崖から飛び降りそうな哀しげな表情をしている、僕より顔色の悪い年増。後はチンピラ風情二人しか下車しなかった。ま,言ってみれば僕も、鳥打ち帽をかぶり,茶色いレザーのジャンパーを着ているうので,香具師、宿無しと周りの人に思われてもしょうがあるまい。改札を出て,タクシーに乗る。宿の名を言うと,あそこら辺は別荘地と隠れ家的旅館が多いとのことであった。「あの、運転手さん,海まで徒歩20分とこの宿のパンフレットに書いてありますが,どうも電車の車窓から見た景色では,20分では行けないような気がしますが,本当は何分くらいかかりますか。」運転手さんの答えは40分だという。案の定,旅館,宿のパンフレット類には,景勝地までの距離を短縮して書いてあるものだと思っていたら,急な坂道を上がり下りして、宿に着いてしまった。宿の前に痩せぎすの、僕よりも顔色の悪い支配人風情が僕の来るのを玄関先で待っていてくれた。顔色の悪い人を見るのはこれで二度目だ。部屋に案内してくれる時も,その支配人風情,慇懃無礼な雰囲気は微塵もなく,内風呂は24時間使用可能で,食事は午後6時からだという説明をしながら,何か必要な者は有りますかと聞く。僕はその支配人風情にちり紙で包んだ3千円程を渡し、「土地感がないので,まあ,よろしく頼みます。」と言うと,「当旅館のシステムではこのようなチップを受け取りことは禁じられております。」と言う。「まあ、いいから,誰も見てないんだし,とっといてよ。」無理矢理チップを手渡し,彼が部屋から出ていくのを見計らって,浴衣と丹前に着替え,まず畳みの上に大の字となる。信じられないことに,不眠症である僕に眠気がおそってきたが,ここで寝てしまうと,夜眠れなくなると思い,着たばかりの浴衣と丹前を0,5秒で脱ぎ捨て,障子を開け,パンツを脱ぎ,脳溢血,心臓マヒ,何でもござれだと内風呂に飛び込んだ。運良く湯加減はちょうど良く,部屋のテラスにある内風呂から,始めて外の景色を見た。雑木林の間に間に海が見える。少し風が強いのか,表面が銀色に波打っている。冬の空気が温泉の温度と相まって気持ちいい。頭と身体を洗い,また風呂に入って,ぼんやり冬景を眺めていると,もう既にに三日逗留しているような気分になってくる。風呂から上がり,浴衣をはだけて,冷蔵庫から缶ビールを出し、のどの渇きを癒していたら,また畳の上に大の字となった。何やら体内から,疲れの澱のようなものが抜けていくのがよく分かる。アメリカ留学以来,冬場もシャワーで済ましてしまう僕にとって,この温泉効果は抜群だなあなどと思っていたら、不覚にも眠ってしまった。どのくらい寝たのだろうか,電話の音で目が覚めた。夕飯の仕度ができたので,階下に来いという御達し。階段を下りてみると,仲居さんが部屋に案内してくれた。僕は泊まり客皆で食道のようなところで食べるのかと思っていたが然に非らず。食事をするところも,畳敷きの落ちついた個室にて,何かと仲居さんが面倒を見てくれる。この宿は,不倫旅行にはもってこいではないか。たしかに泊まり客は少なく,時期外れということもあるが,宿泊中,他の客を一度も見なかった。旅館側の配慮もあろう。なんだかこの宿のシステム自体が淫猥である。
飯を喰い終わり,自室に戻り,また一風呂浴びてから何となくテレビをつけてみた。ハイチ大地震のことを採り上げていた。地震国日本も人ごとではないにも関わらず,僕は今,腹一杯で,あふれんばかりの水をたたえた湯殿がそばにある。当地では,水,食料が不足し,皆が救援物資を奪い合っている。人間とは何と不公平なのか。地震を起したのは僕じゃないから、あまり罪悪感は感じない。しかし、一方では,畳の上で寝転がっている僕がいる。一方では,腹が減って死にそうだと叫んでいる人々がいる。要するに世の中こういう具合にできているのである。たとえ,僕の中のヒューマニズムを最大にし、現地へ乗込んで行ったって,足手まといになるのは目に見えている。しかも、僕が行くということは,一食分メシが余計に必要になるということで,テレビに向って,募金するから勘弁してねと,心の中で謝った。後、チャンネルを回してみても、政治スキャンダルだの何だの禍々しい内容しかやっていないので、テレビを消し,もう一度入浴。大体普段のイライラから解放されたくて伊豆まで来たのだから,ただ外の木立を眺めながら身体を休めようとした。大体まだ午後の9時過ぎである。演奏の仕事なら,今本番の真っ最中ということで、身体の仕組みがそう出来てしまっているらしく,何となく手持ち無沙汰だ。しかし,逆に,僕は今回,ただの旅行社だと自分自身に言い聞かせ,ぼんやりと風呂に入っていたら,湯あたりした。冷水で身を清め,浴衣に着替え,こんな時間に寝たことないけど寝てしまえと思って布団に入ったら、睡眠導入剤もなく眠りにつけた。
ふと気がつくと,木立の間に間に見える空が薄明るい。ちょうど東雲の時間か。ゆっくりと空の色の変化を眺めていたら,段々空の一角がオレンジ色になって来た。ご来光だ。部屋の向きがラッキーだったのか。すかさず浴衣を脱ぎ,風呂にドボン。ゆっくりと日の出を待つ。どうして明け方の太陽というものは,直視できるのであろうか。そのとてつもなくでかい線香花火の先は,ぐんぐんと空に上がってくる。僕は風呂の中で,自分の幸運を想い,思わず手を合わせてしまった。お天道様.これからも僕を良き道に導いてください。いつから太陽神信仰がこの身に根付いたか分からねど,どうしても手を合わせたくなってしまうような,そんなご光来だった。明け方に風呂に入るということになれていなかったので,身体を拭きそのまま爆睡。気がついたら電話が鳴っている。朝食の用意ができましたという。
階下に下り,レセプションにてこのあたりの地図をもらい,朝食を食べながら地図を眺めた。ここまで来たのだからやはり海を見たい。どうも、城ヶ崎海岸沿いにハイキングコースがあるらしく,吊り橋,灯台などもその行程に含まれている。折角ここまでやって来たのだから,少し歩くこととす。朝食を終え着替えて,レセプションにてタクシーを呼んでもらう。タクシーに乗ってみると,急勾配の細い道をくねくねと海の方へ下りて行く。これが徒歩なら,行きはヨイヨイ帰りは恐いというところであった。この急勾配を登って宿まで歩く自信なし。
「運転手さん,ハイキングコースの最後には何が有るんですか。」「海洋公園ちゅうのがあってねえ,まあ,そこまで,海の景色を見ながらハイキングを楽しんでください。」運転手さんは標準語をしゃべっているが,その端々のイントネーションには静岡なまりがあった。僕の母の方の祖母は静岡出身なので,子供の頃会いにいった親戚筋の顔が頭をよぎった。余計なことを考えていると,タクシーから降ろされた。
「ハイキングコースといってもねえ,足下悪いから気をつけてね。お客さん。」吊り橋は10分ぐらい歩いたところにあった。絶景である。峨峨たる岩の固まりに海の波がくだけ散っていた。吊り橋の真ん中辺りから太平洋を一望する。天気はいいのだが,乱気流のようなものが身体を刺し貫く。かぶっている鳥打ち帽が風邪に持って行かれそうになる。しかしあまり深くかぶると視野が狭くなり,景色自体を堪能できない。とにかく吊り橋を渡り、ハイキングコースへと入る。当初,少し舗装されて道が開けているとお思ったらさにあらん。道のそこかしこに,うねうねとした木の根が土の中からでたり入ったりしており,峨峨たる岩の一部だろうか.とんがった岩が道のそこかしこに頭を出している。これがハイキングというものかと思い,少しずつ歩き出した。左側に広がる海の絶景に気をとられているとつまずきそうになるし,鳥打ち帽は片手で押さえていないと、風の力で飛ばされそうになる。絶景をちらちら見ながら,風に翻弄され,デコボコの道を進んで行く。道の行程には,柵もしていない絶壁が何度も姿を現し,岸壁の上の木に寄っかかって激しい海の潮流などをぼーっと眺めた。我が国は,当然のことながら島国なのだなと思った。
30分も歩いたろうか。段々道が平坦になり,植物公園というハイキングコースの終わりにたどり着いた。そこは日本でどこにでもよくある、焼きそばやらラーメン屋を売っている俗な場所であったが,平坦な道を歩けるだけ、ありがたいというものだ。ああ、眺めは良かったが,とんでもない目にあったと、近くの店でソフトクリームを求め,舐めていると,そこはバスのターミナルでもあり,伊東行きのバスも出ている。伊東?そうだ。僕の愛する坂口安吾が一時住んでいたところである。作家,坂口安吾の文学館などあれば是比見に行きたい。早速携帯にて,伊東市の番号を調べ電話をしてみた。電話に出た女性は,観光課につなぐという。胸を高まらせ,観光課の女性と電話で話した。しかし、残念ながら,当時安吾が住んでいた家はもう取り壊され,ゆかりの地もほとんど残っていないという。映画,「カンゾウ先生」の碑はあるが,それならば、案内するという。何を言ってイヤガル!そんなもん見たってしょうがないじゃないか。さほどに今日の日本では,ヨーロッパと違い,いやったらしい資本主義が横行しているということである。安吾の住処一軒残すのに,そんなにカネがかかるのであろうか。いわんや、その建物に,彼の自筆の原稿や,当時の写真など飾れば,伊東市の一つの文化になるではないか。ああ、やめたやめた。こういうことを考えるからイライラするうのだ。僕は今身体を休めに来ているのだ。坂口安吾の言葉は,僕の心の中にしまっとけばいいや。安吾自身,そんな場所は好きではなかろう。その植物公園から,宿に近い停留所を割り出し,一旦宿にもどる。一風呂浴びると,どうしても喉が乾く。宿の冷蔵庫の飲み物は割高だから,コンヴィニエンスに行って,水,お茶,ポカリ、ビールなどを買いに行くこととす。レセプションで道順を聞き、急勾配の道を上がっていったら、案の定,支配人風情が言った「15分で付きますよ。」というのが大嘘と分かってきた。国道を右へと言われたのでので、その通りにしたら,行けども行けどもコンヴィニエンスストアはない。国道135語号線か,信号が少ないだけに、ものすごいスピードで飛ばして行く。いずれにせよ,行けども行けども,コンヴィニエンスストアーなど,道筋にはない。だがしかし,あの支配人風情の言ったことを信じるしかなく,20分近く歩き続けたら,ミニストップの看板んが先の方に見えた。15分どころじゃない。もう30分も歩いている。やっとたどり着いたミニストップで,水,お茶,ポカリ,缶ビールなどを買って帰途につく。今度は荷物の分だけ身体が重い。しかもミニストップの前には,横断歩道なく,道を横切るのに難儀した。こちらが一生懸命手を振っても、止まってくれる車は皆無で,こうなったら,車が途絶えるのを待とうという気になったが,そうなればそうなったで,車のライトの渦が数珠つなぎで、なかなか道を渡れない。もう夜もとっぷりふけて,周りは真っ暗。しょうがないから,車が途絶えるのを10分ばかり待ったが,その兆候無し。しょうがないので,国道の真ん中で大の字となる。しかし、自動車どもは不気味なクラクションを鳴らして通り過ぎるのみ。その内,奇跡的とも言える,両車線の車の列がぷつっとぎれた。いまだと半射程に反対方向へダッシュし,ことなきを得た。国道からそれ,宿の方に曲がってみると,そこは外灯もない漆黒の闇につつまれた急勾配の下り坂で、前が見えない。携帯の明かりで足下を照らし,ゆるゆると歩いていたら,前方に懐中電灯が輪を描いている。そこに向ってそろそろ歩いて行くと,件の支配人風情であった。宿からだいぶ遠いところまで迎えに来てくれている。最初の鼻薬が効いたかなと思いつつ,帰還。部屋でビールを呑んでいたら,夕食の準備が整いましたという電話。階下に下りてみると,やはり密室状態の畳の上で,仲居さんが食事の準備を進めてくれる。しかし、こちとら、慣れないハイキングとやらに行き,水を買うにも小一時間歩いているので,眠くてしょうがない。「これは何々のお造りになっております。これは今日上がった金目の何とかで、何だラカーダラ。」僕は眠気の為に仲居さんお説明する料理のねたなど全然聞いてないで,とにかく目の前にある喰いものからガツガツ喰いだし,デザートが出る時点では,その畳の間に横になってしまった。「あらあらお客さんお疲れのようで」「無作法をお許し願いたい。」「いいんですよ.くつろいで行ってください。」自室に戻り,もう一回入浴す。食事中はあんなに疲れていたのに,風呂に入ったら腹が減って来てしまった。大体,ちまちまとした献立を少しずつ出すから、眠くもなり,後で腹が減るということにもなるのであろうが,やることがないので、無理矢理就寝。ふと気付くと,昨夜とお同じ東雲時に目が覚めた。その日は少し曇り空で,ご光来は見えなかったが,風呂に入る。二泊三日。今日はもう既に帰る日である。二泊三日が調度良い。これ以上ぼんやりしても東京に帰ってからの仕事に支障を来たすであろうから。夜明け中風呂につかってから,朝飯を喰い,簡単な荷造りをして,宿代を精算し,タクシーを呼んでもらう。タクシーは五分でやって来た。行き先は宿の者が既に告げているらしく,タクシーは静かに滑り出した。駅で踊り子号を待つこと20分程度,空いた車内に乗込む。横濱を過ぎた辺りから,以前の仕事モードに、脳内が戻り始めた。最終的に僕を本格的な仕事モードに引っ張り込んだのは,有楽町から銀座を望む晴海通りを車窓から見た時である。西に仕事に行く時はいつもそうだ。この街で生まれだ。というささやかなる展望が僕の身体を突き抜ける。家に帰ってみたら、ポストには書類の山。さあ、どこから手を付けようか。

某月某日
本日新しいトリオの録音を終了しました。正月以後,レッスンも休んで,練習に集中しようと思っていたのですが、道半ば腱鞘炎と成りまして,流石の僕も少し焦りました。腱鞘炎を治すには,手を使わないことが一番の治療法なので,今回録音すると決めた譜面を見ながら,想像と妄想の間を行ったり来たりしていました。手の調子が良くなったのは、録音5日前で,手の動かなかった時の,妄想,想像が鍵盤上に一気に噴き出し,これはこれでジブンでコントロールするのが大変でした。昨日今日と銀座の某所のスタジオに我がメンバー、芳垣安洋氏と鈴木正人氏とこもりまして、ああだこうだ演奏してみました。両者とも,僕の抽象的な欲求を難なく受け入れ,まるでライブ演奏をしているような気分でピアノが弾けました。そして、おお、スタインウエイ。何という楽器でしょうか。ドミソと弾いても,オーヴァートーン、つまり倍音がきれいに響くので,テンション入りヴォイシング等不必要になってしまうような優れた楽器でした。ピアニストはそこにある楽器と折り合いをつけなければならない楽器ですが,僕に取ってスタジオに用意されていた楽器は、折り合いをつけるという範疇の楽器ではなく、古女房がいきなりプレイメートに変身したかのような,そんな違いにみちていました。新しいトリオの情報は逐次報告しますので期待していてください。

某月某日
今晩の僕はヤケッパチです。1960年代の高度成長期から今に至るまで,どうして日本は借金まみれなんでしょうか。何故本当の豊かさを得られないのか。一般の方々が馬車馬のように戦後働いてきたのに,何故我が国の借金は減らないんでしょうか。人口600万程度のデンマークは,税金は高いけれど,生まれてから死ぬまで一銭もかかりません。プラス,色々な種類の芸術基金があって,アーティストの暮らしを支えている。資源も喰いものもない我が国ですが,衣食住以外のこと、つまり芸術の分野で何が起きているか知るべきことが,本当の豊かさなのではないでしょうか。音楽もその一部であり、耳の肥えたお客さんが大勢いることは、こちらの励みに成ります。ボヤイてしまいました。

某月某日
皆様,明けましておめでとうございます。今年が皆様に取って良い年になりますよう。自分としては,やっと新年まで漕ぎ着けたというところでしょうか。去年の師走の時期から,僕はセンセイではないから走らないぞと心に決めていたのですが,雑用,演奏多々あり、気がついたら風邪をひいていたりで,気がつけば師走の波に足を取られ、もがいている状態になってしまいました。12月18日に横濱のクラブ,ドルフィーで、ヴォーカルの与世山澄子さんと一緒に演奏して、音楽による信じられないようなパワーを頂けたことが,そのあと,年末に僕が踏ん張れた一因だと信じて疑いません。偶然帰りの車が一緒だったので,少し酔っていた僕は、与世山さんに対し,車中にて,素人みたいな音楽の質問を連発してしまい,恥ずかしい限りです。曰く,そのお年まで,どうやって音楽に対してそんなに真摯で,前向きでいられるのか,とか,そういうたぐいのアホな質問です。しかしエレガントな与世山さんは,嫌な顔一つせず,真っ正直にこちらの質問に答えてくれました。僕が一目会ったときから,この人はエンジェルだと思ったことが間違いではなかったと知った夜でした。そのパワーの余波が消え入らぬうちに,青山スパイラルで,24,25日の両日,ピアノソロの仕事をしました。ピアノが非常に良かった為,音響とか,ダイナミクス,普段自分の家でも練習できないそれらの音を中心に即興演奏をしました。たまにクリスマスソングを挟んだりしましたが,天上高く,倍音は鳴り,微妙なタッチで音のコントロールができるピアノなんて,早々ジャズクラブでは,お目にかかれません。楽しき二日間でした。そして年末迫る27日,「晴れたら空に豆まいて」というクラブで,ダブルトリオにて,ピアノを弾きました。対バンは昔の生徒。ずいぶん上手くなったなあと思うと共に,こちらも、鈴木正人,芳垣安洋という布陣で,仕事納めをバシッと決めて,後は打ち合せだの来年の仕事の準備などしていたら、新年に成ったという次第。さあ,話は今年に入ります。1月はそう演奏の仕事は多くありませんが,13日,中目黒、楽屋に於いて,HIROSHI MINAMI TRIOで演奏します。実は,このトリオの二枚目のレコーディングが決定しており、レコーディングは,このライブの後すぐ行われます。ですから、かっこよく言えば楽屋の演奏は,肩ならしであり,おカネをもらっていることを承知で実行する、レコーディングに於いての可能性を探す壮大なるゲネプロでもあるのです。その緊張感を如何に演出できるかが,このライブの醍醐味と言えましょう。近日中に,スケジュールの欄も更新します。なんだかんだ活動していると、なんだかんだ形になって行くもので,今でさえ不思議に思いますが,この不況の折、僕は音楽活動を始めたときから,ズッと不況です。自著「白鍵と黒鍵の間に」(小学館)に詳しく書いた,バブルの頃の銀座の時期は差し引いて、ずっと不況なので,金銭のことに関しては,あまり大騒ぎをしていません。いわんや、今までミュージシャンをやっていて,知りあい,仲間,噂を含めてミュージシャンが飢え似んだという話は一回も聞いたことがありません。脈絡のない文章になってしまいましたが,要するに,今年もどうかよろしくお願い致します。

某月某日
昨夜は明け方まで文章を書いており,気がついたら雀チュンチュンの時間になったので寝て,午後大切なミーティングに行ったのですが,目は半開き,ロクな会話もできず,しかも相手の言っていることを一生懸命聞いているのがやっとで,アメリカ映画のような,スカッとした出で立ちで,ナイスなスマイルをたたえ、こちらを売り込みつつジョークをはなつという、資本主義本来の姿からほど遠い僕でした。なにやってんだイッタイ!と自分を責めてみても事既に遅し。僕なんかの仕事は,自分で仕事のネタを作り,売り込みやら何やらに奔走し,やっと生きているという種族ですが,そこに亀裂が入っては元も子もない。ですからそのバランスが崩れること自体に気をつけなければいけないのに,本日の体たらくは,あまり褒められたものではありません。明け方までなにを書いていたのかというと,「ぴあクラシック」という雑誌に連載を持ちました。短い文章ですが,だからこそ書くのが難しい。興味のある方は読んでみてください。季刊誌で,CDショップや楽器店、音楽大学などで手に取ることができます、もう一つは,リトルモアの発行している季刊誌,「真夜中」に,夢に関して書きました。発売は,来年1月22日ということです。勿論扶桑社刊「EN-TAXI」に六本線の五線紙というタイトルで,何やら書いております。二足のわらじとはよく言ったもので,これは渦中の人間しかわからないと思いますが.文章を書くのも楽しく,また。ピアノの練習,作曲、クラブギグなども楽しく,要するに自分自身ワケが分かりません。客観的な違いを言えば,ピアノを演奏するということは,今日明日練習したからといってできることではありません。ある程度弾けるようになるには長い年月がかかります。翻って文筆というものは,小学校でアイウエオを習えば,少なくとも,手紙やラブレター、その他にも書くということは誰もができることなのです。余談ですが,先進国で文盲率が極めて少ないのはニホンだそうです。楽器を演奏すること,文章を書くことには,確たる違いがあるのです。よろしければ,僕の文章を読んで,感想なり送ってください.こちらの世界ではまだペーペーなので。最近肌寒いですね。

某月某日
僕の冬眠中に、政権交代やら、例によって目を覆いたくなるような残虐な事件が多発しておりまして,以前は,まあ、一億三千万もこの狭い島国に住んでいるんだから,色々な性癖,又は生い立ちの人も居るだろうと,静観していましたが,昨今の事件は,そこいらを歩いている,兄ちゃん,姉ちゃん,オジさん,おばさんによって引き起こされてい,段々他人事としてボーッとしている段階ではなくなっている模様。かといってこの国では個人が武装することは禁じられているので、わけの分からん奴とは知り合いにならないのが得策としておきましょう。日記を書かず,冬眠しているあいだに世も変わりました。まあ,政権交代しても相変わらず金の問題が耳目を集めているようです。僕は鳩山首相をかばうつもりもありませんし,いわんやこのサイトで何を書こうが,政界にはなんの影響もないと思うのですが,いいじゃないか,貧乏人が,金集めだけで政治をやっていることにくらべれば。ついでに妾の三人ぐらいかこって、私生活がデタラメだって,決断と実行力が備わっていれば,少なくとも僕は納得します。あのトシで女三人ぐらい面倒を見るということは,知力,体力ともに抜群の素養があるということだから。あまりこまいことでマスコミも騒がずにほっといてあげればいいのに。まあそうなるとマスコミもメシの食上げですな。ということで、師走が近付いてきました.先生も走り回るからこの言葉がデキタのでしょうが、多分全国の小学校に、廊下を走るのはやめましょう,という標語が掲げられているような気がします。先生も走れずじまいで,さぞや大変でしょう。僕は今,年末を忙しくしないという計画を立てております。いずれにえよボウフラの身,外食だのみの僕には,年末から新年にかけて、店が全てしまるという難儀もありますが、食いつなぐことは容易で,周りの人が右往左往しているのを見ながら,まあ、オレなりの師走,年末を過ごそうと思う次第。察するに,ニホン人は年末を忙しくすることが好きなのではないかと思います。ということは,全ての会社,その他組織と呼ばれる団体は,多分年末迄仕事を繰り越しているのでしょう。決算ということもあるでしょうが。忘年会シーズンといわれますが,本当に,今年のことが忘れられるのでしょうか。イスラエルは,元ナチのアイヒマンをつかまえる為,あらゆる情報を網羅して,1960年代に彼をつかまえました。イスラエルに忘年会がないことは少なくとも確かです。
さて,音楽に話題を戻せば,12月18日(金)我が尊敬する与世山澄子(VO)さんが,横濱DOLPHYで歌います、布陣は、安ヶ川大樹(B)津上研太(SAX)松山修(DS)という現在のジャズを語る上での重鎮を集めてみました。与世山さのお場合,出演という言葉より,降臨されるという言葉の方が似合っている気がします。沖縄在住の彼女,あまり聴く機会がないと思いますが,是比ドルフィーへ。店の周りの雰囲気も,港未来駅周辺からくらべると,とても昭和な雰囲気です。場所自体,老舗のクラブだけあって,独特の雰囲気です。ご来場をお待ちしております。また,12月27日に,自己のトリオで演奏します。場所は,代官山「晴れたら空に豆まいて」に於いて,元生徒のトリオとタイマンならぬ対バンで演奏しますので,http://www.mameromantic.com/こちらも、大入りを期待しています。

某月某日
あー皆さん,ずいぶん長い間日記を書きませんでした。冬眠から目覚めた気分です.多分八月の上旬からでしょう。こういう日記は毎日書いてこそ意味性、連続性の中に何かしらの価値があるということは充分承知しておりますが,思いと行動は別物であって,怠けてしまいました。まあ、演奏の仕事と,文章を書く仕事は、滞りなくこなしているので,そこら辺を鑑みて許して頂きたく思います。扶桑社刊、「EN-TAXI」という雑誌,季刊ながらも文字数が多いので,書くことは楽しいのですが,以前のように,ふと日記を書くという気になるという頻度で書けるようなものではないのです。悪い言い訳ですが。今発売されている「EN-TAXI」には、僕がアメリカから日本に帰って来た後のスッタモンダをあれやこれやを書き記しています。興味のある方は読んでみてください。その他,本を二冊出しただけにも関わらず,単発で,色々な雑誌からエッセイの依頼などあり,嬉しいことです.今迄の文章がなかったら他人に僕の筆の癖は伝わらなかったでしょうから。それだからこそ逆に,日記という自由な空間に文字を書くきっかけが掴めなかったのも,様々なところに文章を載せる機会があったここと自体が影響していたのかも知れません.ご了承ください。音楽の方面では,大先輩である松風鉱一(sax)吉野弘志(B)と,「ZEKATSUMAAKUSTIK TRIO LINDENBAUM SESSHON]」TSUDIO WEE ,SW409が、発売されております。乞うご期待。

某月某日
前回の日記にも,ニュース番組では、ろくでもない事を採り上げていると書いた。これはニュース番組が悪いのではなく,起る事件の民度が低すぎる為,こちらが辟易としてテレビのスイッチを切ってしまうのが理由である。なにも,ニュース番組自体が悪いわけではない。ただ、目を覆いたくなるような、アホな出来事が,政治,社会に多い事は否めない事実だろう。アナウンサーの人達も,表情ひとつ変えずに,人間の杜撰な行いを報じているが,あれも一つのテクニックが必要な気がする。僕だったら,「血だらけで、倒れていました。」なんていうこと一言いうのに相当時間がかかってしまう筈だからだ。そういうニュースの中で,宇宙開発に関する情報は,何とかこの地上で一息抜ける話題だろう。ニホン人の宇宙飛行士が閉鎖された空間でがんばっているのだから大したものだ。しかし、無重力という世界で,我々の煩悩の元である、食慾、睡眠慾,性慾などが,化学実験に比べて、基本的におろそかになってしまっているような気がしてしょうがない。新薬の開発。新しい食べ物の模索といった事はそれなりに重要だが,禅の坊主を無重力状態で無の境地にしたら脳波がどう変化するのかとか,そういう事を調べる余裕は無いのだろうか。特に無重力状態で、男女が、「目合(マグハヒ)」したらいったいどうなるかという事も,堂々と研究してはどうか。「今晩は。エヌ・ハー・カー、七時のニュースです。ニホン時間今夜六時,老田さんが、同宇宙船勤務の24歳の金髪美人,リー・アンダーソンさんと,人類初めての無重力状態でのマグハヒに成功しました。今,お二人は四十八手の中の一手である「帆掛け茶臼」という状態で,微妙な角度で360度マグハヒながら無重力の中,まわっているようです。これは宇宙史上初めての事として、モザイク無くお届けします。ウ~ン、老田さん、気持ち良さそうですねえ。ア,失礼しました。今日は解説委員に、この手の事に詳しい鬼団七さんに来て頂きました。鬼さん,二人のマグハヒ状態はいかがですかねえ。」「うむ、無重力の中で回転しておって,さぞかし気もちええ筈じゃ。あや?白人女が上になりおったわ。これは「騎乗位」じゃ。さすがアングロサクソン,攻撃心が強い。しかし「騎乗位」といっても、どっちが上でどっちが下なんじゃろうか。宇宙では。しかしなあ、宇宙船の中は,ロウソクは真っすぐ垂れるんじゃろうか。」「無重力の場合,真っすぐというのは難しい意見ですね。しかし、裸の火は、他のものに燃え移って、危険なんじゃないでしょうか。」「それはエヌ・ハー・カーのお人よ。人間のエロスを知らぬ上の意見じゃ。どんなに危険であろうとも、男女というものは,快楽(ケラク)の為には命もいらなくなるものでのう。人間というものは業が深いものよ。」「ア,老田さん、ロープを出して,アンダーソンさんを縛り始めましたねえ。」「あの縛り方はまったくの素人じゃが,重力が無いところで,どうやって女を吊るすのじゃ。吊るすには重力が必要な筈じゃろう。」「私にも分かりません。」「おっ、一応白人女をつり下げたヨウじゃな。な,何と,船内ロボットアームで女を嬲リ初めおったわ。」「老田さんはロボットアームの操作にかけてはピカイチですからね。」「う~む、すごいのう,細かいところによく手が届いておる,ウオッ、画像が切れた。どうしたんじゃ!」「何かアクシデントが起ったようです。」こんなニュース番組見られれば,ゆっくり寝られるんだけどなあ。

某月某日
過日,僕の連載を載せて頂いている雑誌,「EN-TAXI」のVOL 4の原稿を書き終えたばかりである。この雑誌,恐ろしいことに,主筆が文藝評論家の福田和也氏であり,責任編集が,坪口祐三氏,リリー・フランキー氏である。下手な事は書けまい。季刊ながら内容充実し,読む人にとっては読みがいのある内容満載である。特に,今回の号は,「特集」江藤淳、没後十年,『批判の明滅、批評家の命脈』が主なタイトルであって,こんな事,僕に分かるわけない。分かるわけないクセして,「六本線の五線紙」というエッセイを連載させて頂いている。福田氏から,アメリカから我が国に帰った後の事を文章にせよという命を受け,とにかく何だか書きまくっている次第。大丈夫かミナミヒロシ?特に,今月号の表紙を見ると,石原慎太郎氏の上に僕の名がある。再度、大丈夫なのか?ミナミヒシ?実は,拙書「鍵盤上のU.S.A.」を書くにあたって,いつも頭から離れなかったのは,江藤淳先生の名著の一つ,「アメリカと私」だった。こんな事を書いては怒る方もあろうかと思うが本当なんだからしょうがない。拙書を書いているとき,いつも意識していた。だが、前回の日記の南博先生と同じく、江藤淳先生も碩学の士である。慶応義塾大学文学科を卒業後,ロックフェラー財団の研究員として米国プリンストン大学に留学。プリンストン大学東洋学科で日本史を教えた。めくるめく英語力と言わざるを得ない。とにかく,半端ではない。銀行で口座が開けなかった僕とは比べものにならないが,時代は違えど,やはり,江藤先生の吸っていた空気が、本で読んだ通り僕にとってもアメリのそれであった。それは僕がアメリかに始めて行って分かった事だが。著書によれば,生活になじむまでの四苦八苦が記されている。碩学の士でも,アメリカに行けば,四苦八苦するのである。いわんや僕もがな。勿論格は違えど。それだけアメリカの社会というものが,ニホン人の感性に,特出して違っているいると言うことだけはいえよう。次号の「EN-TAXI」のネタは,1998年,北京国際ジャズフェスティバルに参加した時のあれやこれやを書きまくった。今は只ただ,次号のメインのイシューが、とんでもなく高級でない事を望むのみである。

某月某日
時々,自分に関しての数多の人々のブログをチェックしているが,中に,僕を心理学者であり,一橋大学社会学部教授であらせられた同姓同名の南博氏と勘違いしておられる方がたまに居ますので,ここに訂正しておきます。心理学者である南博氏は、1940年、京都帝国大学文学部哲学科を卒業され,後、アメリカのコーネル大学大学院に留学された戦前からの碩学であり,僕との共通点は,名前が同じ事,アメリカ留学した事のみである。アメリカ留学といっても,僕はTOIFLなど何の試験も受けずにアメリカに出立した事は,拙書「白鍵と黒鍵の間に」に書き記した。だいたい,戦前とはいえ,オレナンカに,京都大学に入る学力も教養も無いし,しかも戦前に於いて、コーネル大学大学院に於いてPh.D取得と彼の履歴には書いてある。だが僕は,Ph.Dの意味さえ分からない。何かの健康食品の、ゴマだか魚の良い成分なのかなぐらいにしか思えない。氏は以後戦中塗炭の苦しみを舐め、帰国後は多くの本を著した大先生である。僕が同姓同名だからといって混同されては,南博先生は草葉の陰から涙している事だろう。僕はいまだ同性同名の人間には一人しか会った事は無いが,どうか皆さん,心理学者の南博先生と混同するのはやめてください。オレは一介のミュージシャンにすぎません。しかし、オレのオヤジは一体なにを考えてたんだか、、、、、、。

某月某日
ニホン人である事がイヤになる事ばかり世の中で起っている。特に政治の世界がそうだが,この事に触れると,気が狂いそうになるので書く事は自粛。また、なぜか理由は分からねど,親殺しのニュースがテレビを見ると必ずといっていいほど報道されているので,テレビのニュースを見るのもイヤだ。極端な意見かもしれないが,ニホン人で良かったと思えるのは,歌舞伎を鑑賞する事と,落語を聴く事だけなのではないだろうか。この二つの文化は,如何に日本語が堪能な外国人でも分からぬ我々ニホン人のみに理解できる素晴らしい芸術、そして特権だと思う。近日中、三遊亭圓生のDVDが発売される。47、880円という高値だが,ディスク12枚という大盤振る舞いの内容。勿論僕は,新宿紀伊国屋に予約をしているので,発売日である9月2日が楽しみでしょうがない。圓生の落語は,その語りも一流である事は言うまでもないが,その噺に付随する所作が,何とも魅力的だ。これはDVDでしか見られない貴重な記録であると思う。そう、所作である。明治から真にニホン人であった圓生は,ニホン人の所作,驚きの表現,もみ手をして相手にものを頼むときの笑顔,女を演じる時必ず着物の裾を少し持ち上げる色っぽさ,今までそれはCDでは分かりかねた事ばかりなので,映像にて,圓生の噺しを見聞きできる事は,我々が戦争によって忘れ去った、市井の江戸,東京の人々の生活というものを,その所作から感じ取る事ができるだろう。特に,DVDの中の演目の中で映像着きで見てみたいのが,「妾馬」「浮き世床」「鰍沢」「中村仲蔵」「らくだ」などである。噺は知っていても,その高座の中での彼の所作をじっくりと見て,僕もニホン人として、何か忘れてはならない事を取り戻そうという、何やら切羽詰まった心情が,このDVDの中にうごめいているのではないか。落語は、ただ単に面白い噺を聴き,笑うというそんなビールの泡のみを呑むような代物ではないと僕は信じている。羽織を脱ぐタイミング,喉を湿す為に呑む茶碗の持ち方,全てが魅力に満ちあふれている。早く9月2日が来ないかな。

某月某日
あまりの暑さに倦怠感が続く。皆同じ条件でこの夏を生きているのであろうが,それこさ、体力気力,人それぞれである。肉体労働者が,熱波にやられないこともあれば,冷房のきいた病院で亡くなる方もある。千差万別、老少不定。こんな季節に,8月9日,渋谷公園通りにある「公園通りクラシックス」に於いて,久しぶりに我がバンド,「GO THERE!」の演奏をする。詳しくは以下の通り。http://www.radio-zipangu.com/koendori/メンバーはおなじみの,水谷浩章(B)竹野昌邦(SAX)芳垣安洋(DS)という、自分で言うのもなんだが,贅沢極まりない布陣だ。特に,水谷,芳垣氏共々,大友良英氏のグループで、ヨーロッパを何度も巡回した仲であり,竹野氏に至っては,スタジオミュージシャンとして,ビッグバンドのメンバーとして,その他数々の、いわゆる場数を踏んだ強者であるし,こう書いてくると,リーダーの僕が一番ひ弱に見えてしまうのが哀しいい限りだが、場所は違えど,新宿ピットインに於いて,ほぼ十年の間,このメンバーで造り上げてきたサウンドであるから,聴く人に何かは届けられるバンドだと自負している。特に今回は,いつものピットインではなく,「公園通りクラシックス」という場所である。アコウスティックなジャズというものは、その演奏する場所の音の反響,つまりは天井の高さや床の材料、建てつけまでもがサウンドに影響してくるものであるから,普段と違う場所で演奏される「GO THERE!」は、更に我々ヴェテランの強者の耳と技を、普段とまったく違うものにしてしまうのではないか,という意味で聴き所いっぱいである。芳垣氏がドラムを叩けば,そこがどこであろうと,こちらはとにかく良い意味で全力投球をしいられること必須。クラブのサイズも大きからず狭からずで,新宿ピットインの常連の方々を含め,あそことはまた別な「何か」を間近で見られるという得点が、今回の我々の使命であり,聴く側の醍醐味でもある。また更に、「GO THERE!」というバンドの魅力を引き立てるよいチャンスと、メンバー共々,虎視眈々と、8月9日を睨んでいる。曜日は日曜日,開演は19時30分。さあ、来れかし我がバンドの祭典へ。真夏の夜の夢はシェークスピアのみではないことを、視覚ではなく,聴覚をもって体験されたし、、、、、、ああ、オレも暑さでだんだん頭が狂ってきたな。

某月某日
相変わらず雑務多く,おまけに毎日暑いので辟易としている。昨日も、あまりの雑務の多さに音をあげ,たまには旨いものでも喰おうと、我が住まいから少し離れたうまい蕎麦屋に行く。蕎麦屋に入れば,まず精進揚げでも肴に日本酒が呑みたくなるのが人情というものである。特にこの蕎麦屋は揚げ物も格別に旨い。酒はぬる燗でと思ったが,あまりにも世間が暑いので,あまり好きではない冷酒と精進揚げをまず頼む。さくさくという歯触りと冷酒を楽しんでから,その店の看板メニュー、ぶっかけ蕎麦をあっという間に食べてしまった。蕎麦とは何と偉大な喰いものなのか。空きっ腹だったゆえ、そんなに量は呑まなかったが,酒が僕の頭を直撃し,少しふらついた。いわゆる,良い加減という奴だ。蕎麦屋に長居は無用。さっと喰ってさっと外に出るのがまた蕎麦の味のうちであるから,早々に勘定を済ませ,外に出た。エアコンの効いた蕎麦屋にいたせいか、また、冷酒を呑んだという身体がそう感じさせるのか、夕時なのに、蕎麦屋に来る時より外気をより暑く感じた。うまい蕎麦を食った満足感までもが浸食されるようなその湿気の多さに、更に辟易としながら我が住まいの方角に向って歩いていたら、なにやらそこら中に人だかりができており,各自思い思いに,携帯で空の写真を取っている。何ごとかと思い僕も空を見上げてみたら,何とそこには,今まで見たこともない美しい虹が空に架かっていた。酔眼の我がマナコに,溶け入るような透明な色々。思わず僕も立ち止まってその虹に見入ってしまった。まさに、The arch of the rainbowという表現がぴったりの,くっきりと美しく,優美なその姿は,この下界の不快な湿気をよそに,ものすごく神々しくさえもあった。東京で虹が見られるなんてなあ。僕は自分の携帯で写真を撮る方法が,機械音痴で分からぬゆえ,他の人のように写真を撮るのはやめにして,我が家の方向に向かって歩き出した。幸い,ビルの間から,我が家への道すがら,ずっと虹を見ながら歩くことができた。虹にも寿命がある筈で,消え入る前に我が家にたどり着こうと思い立ち,少し早足に歩いた。部屋のソファーにもたれかかった後も,目の中の残像に,美しい虹の姿がくっきりと残っていた。俗に,地震、雷,火事、オヤジという。火事、オヤジは人災だが、地震,雷は天災である。いくら都会に住んでいたって,否,都会に住んでいるからこそ,そういった自然の脅威には脆弱であるといえよう。しかし、たまには,一銭も払わずとも、自然の素晴らしさを都会の中で味わえる瞬間もあるのだなと、雑務で疲労した脳が少し緩んだ気がした。

某月某日
はたまた雑用多く,長い間日記の更新まで手が回らなかった。昨夜,やっとのことで一段落、なんてしてないのだが,大ファンである中村吉右衛門演ずる「鬼平犯科帳」をフジテレビでやっていたので,無理矢理色んなことを停止状態にして見た。うむ、やはり歌舞伎役者がテレビの時代劇に出ると,画面が引き締まるなあ。僕は勿論のこと,池波正太郎先生のファンでもあるから,もう本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。しかし、吉右衛門,いいなああ,男惚れをするほどいい。演技がうまいなんてもんじゃない。やはり歌舞伎で養った所作は画面を通り越してこちらの感性を撃つ。厳しくも情あり,頭よく誰からも尊敬され,男のカガミではないか。番組が終わったので素早くテレビを消す。その後のがちゃがちゃした番組に余韻を持ってかれるのがイヤだったから。久しぶりに,いい時代劇を見たという思いの後から,そうか、東銀座の歌舞伎座も,もうそろそろ姿を消すんだなあと思いつき、哀しき気分となり,そのあと仕事が手につかなくなった。ここで,あの銀座の歌舞伎座にまつわる思い出を書き連ねると,長くなるので却下。元々銀座とは僕にとって思いで深き土地であり,拙書「白鍵と黒鍵の間に」(小学館刊)に書いたごとく,一時は毎日のように行っていた場所だ。しかし銀座の思い出は,僕の三歳ぐらいの記憶にまつわるものから始まるものであり、そういった記憶の総体の中に,歌舞伎座も含まれるのだから,あの建物が無くなる事自体,脳味噌の縮む思いだ。元々オヤジの事務所も銀座にあったし,銀座は僕にとっての特等席であり,そこには歌舞伎座は無くてはならないものなのだが。あの建物は,空襲によて一旦焼け,昭和24年頃立て替えられたものであるにしても,やはり銀座のシンボルとして残してもらえないものだろうか。正しく世の趨勢には逆らえないのかな。

某月某日
またも、わけの分からない夏がやってきそうだ。どうもこのところ,僕が子供の頃過ごした夏という季節とは,なんだか塩梅が違うのは,やはり温暖化というもののせいなのだろうか。しかし、どんな夏の季節でも、我が街代官山にウタを歌いに,7月15日,「晴れたら空に豆まいて」というクラブに於いて,わざわざ沖縄からウタを歌いにいらっしゃるお方がおられる。その名も与世山澄子さん。沖縄のみならず,日本を代表する歌姫様である。2005年8月,僕は初めて沖縄の地を踏み,彼女とレコーディングした。「インターリュード」(Tuff Beats)というCDを制作するためだ。那覇にある与世山さんの店,「インターリュード」で始めて彼女に会ったとき,瞬間的に,あっ、この人は天使だと思った。理屈なんかない。無理矢理理屈を述べるとするならば,たとえどんなに良い人間にも,その人物が持つ独特の臭みや,弱点があるものだが,与世山さんには少なくとも,そういうものを僕に感じさせない何かがあった。瞬間的に天使だと思ったのは、その人物像のみならず,もちろん彼女のウタう歌の中にも充分感じ取れるものだったからだ。その思いは,演奏する機会が多くなればなるほど,確信になり,積み重なってゆき,それだからこそ、CD,「INTERLUDE」に彼女のことを天使だと書き記した。その歌声は,良い意味で,常規を逸している。天使が舞い降りるとき,それは日々の日常とは決定的に違う違う何か素晴らしいことが起きることを意味しているのだろうが,与世山さんの歌声は,まさにそのとおり良い意味で常規を逸しており,彼女はその場に居るというよりも,ウタを歌うため,どこかしら,僕の知らない場所から降臨してきたとしか思えない、そんな気さえしてくる、なんだかものすごいウタを歌う方である。天使に履歴書など有る筈もないが,生身の与世山さんの生きてきた過程を見るに,これも半端ではない。1940年、八重山小浜島に生まれ,16歳でプロデビューし,1957年,ボブ・ホープとレス・ブラウン楽団と共演とある。ボブ・ホープとの共演は別の意味での賞賛に値するが,彼女は,ドリス・デイの大ヒット曲,「センチメンタルジャーニー」を伴奏した楽団をバックに17歳にしてウタ歌っていたことになる。モンスーン気候の,湿気の多いあの沖縄列島から,なぜあのようなジャズヴォーカルの天使が降臨したのであろうか。いずれにせよ尋常ではない。沖縄には,与世山さんのような存在が生まいでる何かがあるに違いない。元々,琉球王国は,女性が神官として登用されていたらしい。カンダーリ、つまり「神がかり」となった女性は,修行を積み,神と交信できるウタという、一種イタコのような存在になるという。普段天使のような,そしてまるで少女のような与世山さんが、一旦ウタを歌いだすと,大袈裟ではなく,その神との交信を,音楽を通して我々に伝えようとしている瞬間を,僕は彼女の後で伴奏しながら何度も経験した。彼女はジャズという音楽を通して,歌っているその音楽の中で,トランス状態となり,普段ボクラには感じられない大切な何かを伝えようとしているのではないだろうか。また,彼女は1940年、八重山小浜島で生まれたと書いた。終戦の年は5歳だったということだ。それからの与世山さんは、よく考えて見れば,アメリカ人だったのである。沖縄が日本に返還される1972年5月15日(奇しくも僕の誕生日)まで。そのとき彼女は32歳だった筈で,国籍上,いきなりニホン人となった。しかし,僕が訪れた彼女の店の壁には、アメリカ人のビッグバンドの前で熱唱する与世山さんの写真が沢山飾ってあった。ということは,彼女は,その感性や才能を花開かせた時期とは,やはり、「アメリカ人」としての時ではなかったのではないだろうか。その後与世山さんは,1984年,1985年と続けて,かのビリー・ホリデーの長年の伴奏者であったピアニスト,マル・ウヲルドロンとの共演を果たしている。天使の所行でる。今年の夏はまた,ある意味残酷で,節操のない世の流れと汗にまみれ,過ぎていくことになるのだろう。そんなこの東京の夏の7月15日,与世山さんはわざわざ沖縄から,天使の身のこなしで、我々に沖縄の神の声を,ジャズという語法に依って届けにきてくれる。共演するミュージシャンも,僕を含め、安ヵ川大樹(B),津上研太(SAX),松山修(ds)という文句無しのメンバーである。世瀬山さんの歌を聴く時,僕の頭の中のイメージには,何か壮大なる星空が浮かんでくることが多々ある。夏の夜に,皆さん、与世山さんと僕のピアノを聴きにきませんか。お問い合わせは,代官山「晴れたら空に豆まいて」http://www.mameromantic.com/まで。ご来場をお待ちしております。

某月某日
昨今の政治のニュースをテレビで見ていると,さすがの僕も感情的になる。頭にくる。今まで極力,この公の場で政治と宗教の話は書かないよう努めてきたが,もう限界である。日本の政治家は根本的に使い物にならぬ。まあ、これ以上のことを書くことは差し控えるが,たとえば100件のメールに依る要求があるならば,しかもその全員が,僕のCDか本を買った方のみに(苦笑)、こちらの怒りの矛先を文章にし、間近に迫った総選挙について,こちらの意見を滔々と述べることとする。もうこのままじゃ日本はダメだ。メシ喰う事に心配がない奴が政治やってもダメだ!なあんてね,冗談ですよ。江戸庶民は御上のやることを笑い話にして,川柳で遊んだりして,本気で腹を立てる奴をバカにしたそうだ。粋じゃないってね。僕もその心境を見習いたいですな。着流しで朝風呂なんか入って,その足でちょっとした飲み屋で昼から酒飲んで,二階の席から行き交う江戸庶民をぼんやり眺めながら,「よ、オツな柳腰の女がいるじゃあねえか。あんな女としっぽりと濡れたいもんだね。しかしまあ、御上も何を考えているんだか。皆目見当がつかねえ世の中だな。まあ、こっちはこっちで,好きにやるさね。」なんて態度で,昼から湯豆腐つついたりして。「よう、源公ジャねえか。昼からオツに湯豆腐とは一本とられたね。大工仕事の方はどうなっちまったんだ。」「どうもこうもあるかよ,こんな世の中,真面目に働けって方が無理な相談だあね。どうだい熊公、おめえも一杯やんねえか。」「ありがてえ。それでは一杯ゴチになるか。」「おうおう入った入った。こちとら一人でさっきからチビチビやってはいたんだが,ダチ公がいれば、はなしに花が咲くってモンさ。」「なんだかどうやらイナカ侍が公方様に近づいて、なんだかやらかそうって話じゃねえか。その裏には上方のえれえ侍が,後から,糸を引いてるとか何とか、江戸中その話でもちきりだぜ。」「まあまあ、いいじゃねえか、御上のやることにいちいち腹立ててちゃあ,こっちの身がもたねえよお。おーい、おチョウシのおかわり持ってきておくれ!」「源公まだ呑むのかよ,まだお天道様は真上だぜ。」「けっ、知ったことかよ。こんな世の中で,メシのタネに困らねえ奴らが、庶民のことも忘れていきり立ってるんだぜ。」「ちげえねえ。」「だからさあ,たまにはこうして朝風呂でも浴びて,ちびりちびりヤルってえのも,まあ,お天道様のバチは当たるメエ、とな。」「源公よう,もしかしたら,バチが当たるのは,御上の方だったりして,な。」「あははははは、チゲエネエ,チゲエネエ、しかしあの顔のひんまがった殿様にはもううんざりだあね。」「そのことなんだがよ,どうも近々とんでもないことが起るって噂だぜ。」「ほう。」「どうも殿中ではギョロ目の老中と呼ばれてるオサムレエが、なんだか謀反を起こす気なんだって。」「まあまあいいじゃねえか,勝手にやらしときゃあ。こちとらたまにこうしてほれ,昼から湯豆腐つついて酒飲んで,へらへらやってたって,なんのオトガメも無いんだから,こちとらそれで、おっと、だんだんいい塩梅になってきやがった。こう来なくっちゃいけねえ、熊公、おめえももっと呑め。」「へへ、呑むなと言われたって,アタシャ呑みますよ。」「どうでいこれから,コッチの方,冷やかしにいってみるか。」「よう、熊サン、そう来なくっちゃいけねえよ,別にそんなにピンと小指を立てる必要はねえ。」ペリーが来る20年ぐらい前の江戸時代に生まれるというのも,あながち悪いことではなかったであろう。虫歯になっては大変だが。

某月某日
友人の持っているカメラ,RICOH,GR,DIGITAL をいじっているあいだに無性に欲しくなってきて,通販にて購入してしまった。またも余計な散財であるが,説明書を読みながら,ああでもない,こうでもないといじっていると、日々の喧騒を忘れ,気がまぎれる。ダッチワイフならぬ,大人のオモチャである。このカメラによって良い写真を撮りたいという気持ちは充分あるが,一昔前,CONTAXのカメラを二台持っていたが,ろくな写真が撮れなかったので,売っぱらってしまった。今回も同じく,あまり期待せず,ただ撮りたい時に撮りたいものを撮れるようになればいいと思う次第だ。問題は,説明書という文体が、僕の頭に入ってこないことで,これもいじりながら何とかするしかない。まあ、忙しい中,このぐらいの遊びがあってもよいだろう。

某月某日
雑用や,日々の生活をコントロールできぬことを、また書いてみたところで,今まで散々この日記
に於いて,そのような状態を書き記してきたので,今が午前4時半であり,眠気はあるが睡眠状態になれないといったことは,珍しくもないであろう。ご存知のとおり,一日は24時間だが,まずいことに,この時間、つまり午前3時から5時の間は,とても過ごしやすい。僕は吸血鬼ではないが,心情的には近いものがあるのかもしれない。この無茶苦茶な世の中で,生きていること自体不思議なのに,この午前の時間帯には,携帯電話もかかってこない。電話もかけられない。つまり全てが静かな時間なのだ。意外と思われるかもしれぬが,「静かな時間」とは非常に得難いモーメントであって,誰ひとり僕をかまうでもない。つまり,一人暮らしの効能と,弱点が同時に表出するのがこの時間帯なのである。孤独に,一人でものを考えていれば,大方、心配事の方が頭の中を一杯にする。誰かに相談できるわけではないので,自分で、そのわけの分からない不安と闘い,あるいは一時,自分自身に停戦を申し入れ,やりくりするし、あるいは,真正面から,その不安の要素を徹底的に自分自身を論破するしかない。この夜中から朝にかけての時間にしか,そのような自己分析の時間は得られない。かといって,毎晩そんなことをしていたら,これまた何らかの脳味噌に於ける障害になるのであろうが。お日様という存在は素晴らしい。だが,この世には,勿論のこと,影の部分が我々の見えるところ,また見えないところで跋扈しているのである。有頂天外になったつもりが,その事象に依って,意気沮喪となってしまう場合もある。美輪明宏氏がおっしゃるように、この世はプラマイゼロに出来上がっているのであろう。
さて、コンヴィニエンスに行って,ビールでも呑もう。

某月某日
昨日は,以下の日記に書いたとおり,下高井戸,BLUE-Tにてトリオで演奏。ありがたいことにフルハウスだった。演奏前,雑多な用事があり、部屋の中を行き来している間にクラブへ行く時間となる。せわしない。結局,起きてから一口もなにも食べずにBLUE-Tに向う。こういった事は間々あるので胃の腑が慣れてしまったせいか、あまり食欲というものがわかぬ。しかし、クラブに到着した後,体を動かしたせいか、空腹を感ず。だが,サウンドチェックがてらトリオのメンバーと合わせたい曲がいくつかあり,それをこなしているうちに演奏時間となってしまう。さあ、胃の腑の底になにも入っていないミュージシャンが,どんな演奏をするのか,聴いてもらおうではないかという勢いにて演奏開始。演奏が始まってしまえば,空腹感など感じている暇なく,鈴木氏,芳垣氏の繰り出すサウンドに耳を傾けつつ,頭のてっぺんから足の先までをくにゃくにゃにしながら鍵盤と対峙。しかし腰だけは,びしっと決まっていなければ良い演奏ができず,御多分にもれず,腰痛は僕の持病だ。自画自賛ながら演奏はすこぶる調子が良かった。自分の心臓の心拍数と、ドラマーのビートが合うとき,不思議な一体感が生まれる。BLUE-Tのピアノは生音なので,モニターからの音ではなく,ピアノの生音を聴きながら演奏する仕儀となる。ベースもドラムも同じ環境で演奏するので,お互いが聴きあうという観点が、モニターなどがあるクラブとは違ったものになるのはあたりまえである。いずれにせよ,久しぶりに思いの丈を鍵盤を通して表現する事ができた。元々ジャズは,こういうこじんまりした場所で発生したものなのではないかと,つくずくと思ったりもした。メンバーが、もうワシこのバンドヤーンピと宣うまで,この3人でトリオを続けるつもりだ。演奏が終わったら,さすがに空腹でふらふらだった。

某月某日
とあるつてがありまして,歴史ある雑誌「暮らしの手帖」に随筆を書くこととなりました。6-7月号40です。何と僕の随筆の前のページは,週刊文春5月28日号の書評欄で,「今週の必読」に、僕の拙書「鍵盤上のU.S.A.」を採り上げてくださった川本三郎氏です。暮らしの手帖に随筆を書いている時,週間文春に、このような記事が載るとは夢にも思っておらず,何やら恐縮する次第なのですが,困ったことに,何をどうやって恐縮すればいいのか分からない,というのが、今の僕の正直な感想です。音楽の世界も,人間関係に於いて,気を使わざるざを得ないことが多いですが,文藝の世界に於いて,僕はまだぺーぺーです。どうなることやら。

某月某日
さあ,今日から,ライブ三連チャン。と言いつつも,今晩鎌倉ダフネでヴォーカルのギラ・ジルカと演奏してしまったので、明日から二連チャンと書く方が正しいのかもしれない。明日、6月19日は、新宿ピットインで,津上研太(SAX)率いるBOZOでの演奏だ。このバンド,止まるところなく音楽的に発展し続けている。簡単に理由を述べれば,ドラムの外山氏があらゆるシチュエーションを音楽的なサウンドとして,我々が出した音を処理するということに加え,他のメンバー、南(P),水谷(B),津上(SAX)が、日本のジャズ界でも稀にみるキチガ○であるというところに理由があるのではないか。まあ 、一般の方々からすれば,楽器を演奏して好きなことをやってメシを喰っているという時点で,何かがおかしいと思われているのだろうが,我々は既にその観点をも凌駕している。その理由を懇切丁寧に書き起せば,とんでもなく長い文章になってしまうこと必須であるため,ここでは割愛するが,長いバンドマン生活で、同業者が飢え死んだという話はまだ聞かない。もっと究極に考えれば,生まれてから,しばらく経って死ぬという、この荘厳なる生の根本は,職業がどうあれ変わらない。話がそれた。とにかく,天才ドラマーと,三匹のキチガ○が織りなす音楽を聴きたければ,新宿ピットインに聴きにきてください。少なくとも,損はさせません。
さて,その後にひかえるのが,6月20日,下高井戸、BLUE-Tにて,我がトリオの演奏である。京王線下高井戸駅の出口からすぐの場所だが,一応,お店のウエッブのアドレスをここに載せておくこととする。http://www.blue-t.jp/数多の中国茶と共に、中華のビュッフェを楽しみながら、演奏を聴くという趣向。ピアノのコンディションが良いので,この店で何度か演奏させてもらった。また,世田谷育ちの僕にとって,下高井戸という場所は,えも言われぬ親近感を享受できる場所である。狭い商店街に,いまだ昭和の時代の名残を残す商店街や、遮断機の音。これら全てが,僕の心的原風景であるから、そういう場所でピアノトリオで演奏すること自体,演奏前から,僕の気持ちの中に,妙な郷愁が入り乱れ,奏者にとっては,不思議な場所であるのだ。我がピアノトリオのCD「LIKE SOMEONE IN LOVE」をリリースしたのが,もはや2008年4月のこととなってしまった。CD発売から今日まで,だいたい月一回のペースで,色々な場所で演奏してきたが,現在,特にベーシストの鈴木氏のプレイを聴いて頂きたい。勿論,一緒にレコーディングする時点で,彼は優れたベーシストであったが,その後,演奏を重ねるごとに,音楽に対するアプローチ、フレーズの滑らかさ,ドラムと噛み合うビートの良さは、既にCDのクオリティーを大きく凌駕している。加えて,ドラムのアニキ(芳垣さんのこと)の参加しているバンドを見れば、どうもアヴァンギャルドなことばかりしている印象を持つ方もいらっしゃるのであろうが,我がトリオでは,極めつけのジャズドラマーとして演奏してくれている。ありがたいと思うと共に、アニキのそういったプレイは他では聴けないというメリットもある。昭和の商店街と,質の良いグランドピアノで,ジャズスタンダードが聴きたければ,ぜひ聴きにきてください。季節は梅雨となり,何事もじめじめしていて、世の中も何か不安定で,あああー、と思っているあなた。クリーンで乾いたピアノトリオの音楽をお届けしますよ。

某月某日
今週の始めから,いま連載をしている扶桑社刊,「EN-TAXI」の原稿の締め切りと,先日水曜日に新宿ピットインで演奏した我がカルテット「GO THERE!」の準備とが重なり,てんてこまいであった。本日やっと,この二つのことから解放され,人心地ついたところである。忙しさの後というものも,贅沢な観点から見れば,これはこれで間延びした時間を過ごすこととなる。ほっと一息つくのには、たまにはテレビでも見るのもよいかと、スイッチを入れてみた。和室の畳に寝そべりながら,普段あまり見ないテレビの番組をいくつか見た。その結果,テレビを見たことを最初はすぐ後悔した。テレビを見るという,ある意味リラックスした時間を得ようとしたのだが,まず耳が疲れてしまう。コマーシャルも,ニュースの事件の場面でも,ヴァラエティー番組でも,誰かがしゃべっているバックにも,妙な音楽が使われていて,番組自体の成り立ちを追って楽しむ前に,使われているバックグラウンドミュージックに嫌気がさしてきてしまった。しょうがないので,アナウンサーが,しゃべるということだけをしているニュース番組のみを努めて選んで見た。そうしたら,とんでもない音楽が、そのニュース番組から流れてきた。雑音だらけのデレビの番組の中で,それはまるで、天使の奏でるようなピアノの音だった。それは、辻井伸行君というピアニストのピアノの音であった。ニュースの内容は,彼が,ヴァンクライバーン国際ピアノコンクールで一位を勝ち取ったという内容であったが、一瞬テレビに写った彼のピアノのタッチと音楽自体に,僕は鳥肌が立ってしまった。素晴らしい。何と清浄な。汚濁にまみれきったこの世の中に,突然、天から降ってくるようなピアノの音に,僕は度肝を抜かれた。こんなピアニストがいるのか。コンクールで一位になることは,チャンスが増えることだから,良いニュースだが,僕の耳は,そういう世の中の仕組みをとおりこして,自然と彼のピアノの音自体に耳を澄ませていた。彼がテレビの画面に写っていたのは、ニュース番組ということもあり,10秒かそこらだったと思う。しかしその時の僕には,それで充分だった。彼の内面が、重複するが、清浄で,真の意味で平和で,伸び伸びと,しかも芯から音楽を音楽そのものとして捉えていることが,理屈抜きで楽しめる演奏だったからだ。最近の僕は、CDなどあまり買わなかったし,他のミュージシャンの演奏を聴きに行くという意欲もなえていた。そういう,ある意味疲れきった僕の鼓膜に,辻井君のピアノの音は,なぜか必要以上にすんなりと,僕の脳味噌や感情を刺激した。早速彼のウエッブサイトを探してみたら,彼が盲目であることを知り,驚くというよりも,うーんと考え込んでしまった。僕は辻井君は真の天才ピアニストであると思う。しかし,彼の御両親やまわりの方々のご苦労を考えると、気が遠くなってしまう部分もあったのである。生まれつき目が見えないという事実。僕と彼とを同列に考えるほど,僕はバカではないが,小岩のキャバレーでピアノを弾いていたとき,見聞きしたこの世の垢みたいなものを,彼は知らずにすんでいるという面があることも否めない。自称プロデューサーと称する嘘つき人間に翻弄され,大切な音楽そのものを演奏するということをダイナシにされこともある。しかし、辻井君の演奏には,そのような世の汚濁がないからこそ尊い音が出せるという面もあるだろう。僕の苦労をここでグチったってしょうがないが,辻井君の苦労、苦しみには,やはり,僕の経験したことに比べれば,及びもつかないものもあるに違いない。しかし大切なことは,彼は盲目だからこそ,自分のイメージをキープすることができたのではないか、という思いが残る。辻井君の素晴らしいところ,僕が思うに,それは,作曲家が最初に得たインスピレーションに依って作曲した音楽を,そのインスピレーションを得た瞬間の,まさに宝石の原石のような部分を、軽々とイメージし,演奏できるというそのこと自体にあると思う。よって,彼の奏でる音楽は,まるで即興のようだ。ご存知のとおり,バッハの時代から,元々音楽は即興で創造されていた。それをノーテーションしたのがクラシッック音楽である。特にショパンなどは,数々の即興を演奏した筈だ。辻井君は,それら作曲家の核心部分までいとも容易く迫り,演奏しているということだ。これは文章で書くのは容易いが,いざ実行してみようと思えば大変なことなのだ。全盲の彼のイメージの中には,数多の素晴らしい作曲家のメロディーで満ちているのであろう。再度重複するが,彼の御両親,周りの人のご苦労は、僕の想像を絶するものがあるに違いない。しかし、辻井君のイメージの中には,これもまた重複するが,世の汚濁,汚いもの,汚れた風景,飛躍して,クソ,ゲロ、ブス女、これらのイメージが皆無だということである。そういうイメージの持ち主が演奏するピアノの音の中には,クラシックやジャズを超えた,音楽そのものが表出するのであろう。何と素晴らしいことか。そして,何と残酷なことか,とも思う。とにかく,彼のウエッブのみならず,YOU-TUBEの彼の演奏を聴く日々が続いた。全てが素晴らしかった。安易で,あたりまえで,クサいことを書くようだが,やはり音楽に人種は関係ないと思わせる彼の演奏に,僕はとても勇気づけられた。あたりまえのことだが,抜群のニュアンスとリズム感を,彼はどんな音楽でも発揮している。そして彼のタッチ。一瞬で分かる辻井君のタッチ。
さて,僕も及ばずがな,少し彼のタッチを盗んでみようかな。とにかく,音楽のジャンルを超えて,彼の和音の中に表出するマジックは,僕に,新たな可能性を教えてくれたことは確かだ。再度また重複するが,辻井君と僕を同列に思うほど僕はバカじゃないけれど,少なくとも,ピアノという楽器の持つ新たなる可能性を教えてくれたのは、辻井君なのである。ワンダフル!末席ながらも,僕は辻井伸行ファンの一人であることを宣言しよう。いやあ、しかし、彼がジャズピアノに興味を持たなくてよかった。もし持っていたらとんでもないことになっていたであろうし,いわんや,多分彼はその場で聴いいた音楽を即再現する能力を持っている筈である。ジャズができぬ筈はない。恐ろしや。恐ろしや。

某月某日
床屋に行くと,なぜかビールが呑みたくなる。あの散髪屋特有の少しミントが入ったようなシャンプーで、頭皮が,そよ風さえも感じることができるようになるあの一瞬のせいだろうか。幸い,床屋のそばには,夕方から開いている飲み屋があって,軽くなった頭とともに顔を出すと、おや早いね、という表情で、飲み屋のオヤジが顔を出す。特段腹が減っているわけでもない。ビールが一杯飲みたいだけだ。簡単なツマミと共に、生ビールが運ばれてくる。ぐっと呑むと,店内まで春の薫りが満ちてゆくような気分となる。散髪とビールは夕方に限る。

某月某日
前回の日記にて,CD「花と水」ツアーのことに触れたが,ツアーはなにも,地方公演のみで終わったわけではない。最終回の演奏場所、そこは,六本木ミッドタウン内のビルボード東京である。地方公演から東京に帰って来て,二日間の間が空いていたが,間が空いていようとも,やはり、有終の美はきっちりと飾らねばならなかった。今回のビルボード,六本木というロケーションゆえ,我が家から地下鉄等で三十分の道程である。だが、着替えやステージで履く靴など,なにかと持ち物が多く,ツアー用のケースに入れるのも大袈裟であるため,タクシーにてミッドタウンに向うことと決めた。さながら一流ミュージシャンのような行いである。ラクチンな体勢で、タクシーの車窓から東京の景色を楽しむ。連休中ではあったが,都内の道路はすいており,しかも、我が家から六本木の間に展開した景色にちらちらと目に入る木々の緑が,色濃く清冽であり,何やら本物の春の到来を感じた次第。最終日は雨だったゆえ,それらの木々の緑は霞んで見えたが,自分の目に映るそれらの緑は,場所が東京であるにも関わらず,自然のサイクルをまざまざと見せつけているようであった。ミッドタウン入り口付近でマネージャーの長沼氏,菊地氏と落ち合い、複雑な行程の関係者用通路を、ビルボードの人に誘導されながら,楽屋に到着。大人数のバンドでも,ゆったりできる空間を有したその楽屋は,我々デュオコンサートをするものにとっては,あまりにも茫漠としたものだった。でっかい黒人もこの楽屋を利用するために作ったのであろう。楽屋まで到着するあいだに見た様々な店舗も、何だかバブルの残映を見ているようで,加えて僕自身,ミッドタウンの中は極めて不案内。東京育ちの筈なのに,自分がいなかっぺになったような気分に陥った。まあ、繁栄してしかるべき場所はバブルの頃の華やかさを体現していても良かろうが,このデフレスパイラル寸前の世相に,この場所はどう対処していくのかと少し疑問に思った。まあ、華々しく,豪華で,リッチな気分にさせてくれる場所がなければ,逆にやりきれないという部分もあると思うが。サウンドチェック,着替え,簡単なる演奏の打ち合せ、喫煙,リラックス,菊地氏とのバカ話という要素をグルグルとくり返していたら、演奏時間になる。今回は入れ替え制なので,二度演奏しなければならぬ。そのまず一回目。今後菊地氏との「花と水」でのデゥオの仕事は決まっていないゆえ,この最終日で全部を出し切るというスタンスで演奏するという気分に自然となってゆく。最初のセット、演奏すこぶる好調で,またしてもピアノはスタインウエイ。しかもこれがまた良く鳴る楽器で,こちらが体を柔らかくすればするほど,それに反応するという代物。言うこと無し。即興と曲を交えて一時間,あっという間に過ぎる。菊地氏のしゃべりも冴え渡り,お客さんも満足していることが手に取るように分かる最初のセットだった。後,セカンドセットまで一時間半の間が空いた。ビルボードの決まりなのか,食事が運ばれて来た。僕は演奏前に食べない。今だ体が子供と一緒なのかどうなのか,とにかく何か食べると眠くなる。不眠症の僕としては,演奏時以外、これは吉兆なのだが,残念ながら,眠くなるだけで,睡眠という次の段階に行ったことはない。とにかく、この時は,眠くなるのが嫌なので,運ばれて来たおいしそうな食事には手をつけなかった。菊地氏とバカ話をしていたら,セカンドセット開始時間、午後九時となる。再びステージへ。二度目のステージは目が慣れてきたせいか、客席がぼんやりではあるが,視界に入ってきた。なにやらコロセウムのような造りだ。四段階に客席が別れているように見えた。特に最高列の客席は,何やらお客さん自身が陪審員のように見える。このようなクラブにも陪審員制度が導入されたのかと錯覚するに充分な四階席の高さ。まず菊地氏が,今まで通り,まず共演者である僕をお客さんに対して紹介する。僕はいつもどおり、お辞儀をしたが,高い席にいる方々には,手を振るとか,お辞儀以外のアクションが必要なような気がして,よって単なるお辞儀自体も不自然な行いのようになってしまい,自分自身なさけなかった。なれない手つきで手を振ってみたところで,金正日みたいになっては元も子もないしなあ。などとよけいなことを頭の隅で考えてしまった。ここは裁判所ではなく,音楽を聴かせる場所なのであるから,ここに居る方々は,音楽を裁くためにいるわけではなく,楽しむためにいる筈なのだ,などと周りを見回していたら,菊地氏がサックスを吹き出した。雑念たちまち頭からはなれる。また再び,スタインウエイを弾ける機会もそう近々ない筈だろうという思いと,一応ではあるが,最後のデュオ演奏であるという気分も手伝って,ピアニッシモからフォルテッシモまでを駆使し,臨機応変,歓天喜地、あらゆる技を駆使して,菊地氏の演奏と絡まることを念頭におき鍵盤に対峙した。縦横無尽、破顔一笑,これほど楽しいことはないという思いと,最後の演奏であるという何かしらの哀しみと共に、最終回を終えた。その時点で,僕の中にはもう,なにも残ってはいなかった。二回のセットとも,非常に良いリアクションとともに拍手が起った。ありがたい限りである。そして同時に,この「花と水」プロジェクトが人々に受け入れられたという喜びも同時に感じることができ,感慨深かった。これ皆,お客さんの声援その他によるものであり,それなればこそ,こちらも全力で演奏できたのだが。実際,最後の曲、「LUSHLIFE」演奏中に,僕は,演奏という行為の中に深く入りすぎ,これは吉兆なのだが,指、体が自然と菊地氏のサウンドに反応するという,ベストの状態にあった。こういう体験自体が,ジャズを演奏するという行為を支えている喜ばしい心的体験であり,次回はもっとすごい体験を目指して,という新たなる目標設定にも影響してくる。総じて,今回聴きにきてくださった方々には,感謝の念が絶えない。演奏後,菊地氏のシマである新宿に流れつき、氏の行きつけのイタリアンにて,ツアーの成功を喜びあった。夜更けまで菊地氏と騒ぎ,この先のことは,文章で表現できないのでフェードアウト。

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