休日

今日は全くの休みだったので、まあこういう日も珍しいのだが、いつも休みの時に身体を伸ばしに行く、江ノ島の先の海岸に向けて、朝の7時半頃に家を出た。しかし、横浜で乗りかえて廻りの風景を見ているうちに、段々と気が変わって来た。いつもの風景とちょっとだけ違う景色が見たいな。プラットフォームを見上げてみれば、そこには小田原、熱海の電光掲示板が見えた。天気も良いし、藤沢より少し足を伸ばして今日はもっと遠くに行ってみるかな。

目的らしい目的は無い、ただの休日のちょっとした遠出だが、やはり海と風とその空気を感じたいことははっきりとしていた。どこか天井も壁もない広々としたところに行きたかったのだ。そう言えば熱海の先にちいさな島があったな。なんでこんなことを覚えているかということさえ覚えていなかったが、携帯電話で地図を見てみると、確かに沖合に初島という島がある。熱海からの行き帰りのフェリーのデッキで海原を眺め、風にあたり、良い空気が吸えれば、江ノ島の崎より爽快かもしれない。先ずは熱海を目指すことにした。

どうともない景色が電車の窓の先に広がっている。家、家、工場、マンション、マンション、アパート、家、家、多分ニホンの原風景は、既に全国この様になってしまっているのかなと思わせるほど、その眺めは味気なく、時々見える低い山々に、少し東京を離れたかなという感慨が湧いた。

意外と早く熱海に到着。フランス国崩壊瓦解の後のニースの様な温泉街にこじんまりとしたホテルが建ち並ぶ。今はここにゲイシャ遊びをしに来る、例えばフランキー堺や森繁久弥みたいな昭和の金持ちは居なさそうな空気だ。別に熱海自体に観光に来たのではないので、さっさと熱海港行きのバス停を探し出し、時間表を見たら、だいたい15分に一本間隔。これが多いのやら少ないのか分からないが、別に仕事に遅れるわけでもないのでバスを待つことにし、ベンチに腰掛け、足を投げ出した。あ~あ、なんだか最近くたびれてたんだよなあ。足を伸ばしながら周りの景色を見ると、なんだか往年の熱海の熱気は何処へやら。何やら廃墟と化した建物もまばらに目に入る。まあ私の知ったこっちゃないので、バスが来るまで空を見上げていた。

バスに乗り、料金を払おうとすると、熱海港で降りる時で良いという。都下2時間先で既にバスの料金の支払いシステムまでもが変わってくるとは、何だか本当に小旅行をしている気分となる。曲がりくねった下り坂をダラダラとバスは進む。程なく熱海港に到着。

フェリーの券を買う場所は、思いっきり昭和の雰囲気で、券を売っているお姉さんまでもが、何だか昭和っぽい髪型と化粧の女性で、往復の券、初島からの帰りは好きに時間が選べるのかというこちらの質問に、愛想がいいのか悪いのか分からない、妙な微笑みを浮かべ、視線は宙を飛んだまま、そうでございます、という。先にも書いたが、私にとって初島行きが第一の関心ごとでは無い。短い間でもいい。私は船に乗りたかったのだ。

熱海の全景が対岸に見えるくらいまで来て、やっと私の気に入った海風と空気がフェリーのデッキを突き抜けてゆく様になった。広々とした海原は凪いでいる。このまま島など行かずに、3時間程海の上をただ目的もなく海遊してくれないものだろうか。荒いブラッシュでサッと描いた様な真っ白な雲に、太陽光が山並みの向こうから照りつける。この瞬間だけを求めて、休日の半分を費やすのだな。本当に自分自身、趣味の無い男だと思う。何か熱中できる趣味があれば、今頃ゴルフの棒を振り回したりしながら、パーとかピーとか言っているのだろうし、庭いじりが趣味ならば、おっとTTPで庭いじりもダメか。

少し前までは読書こそ我が趣味の最たるものだったが、最近の本屋の棚を見回すと、真剣にニホン人が劣化したことがまざまざと分かるので、本屋には行きたくないのである。自己啓発に嫌韓の本の数々、表紙の文字がやたらとでかいレイアウトの本など。本だって先ず見た目が大切なのに、前期の様な本ではなくても、最近の本のデザインは本当に困る。興味が湧かないからだ。古本屋が最後の救いだが、去年本棚とも全ての本を断捨離してしまった。大切な本もなきにしもあらずであったが、捨てた後部屋が広くなりスッキリしたので、着ない服、聞かないCD、家具などをごっそり放り投げる様に捨ててみたら、心も軽く身も軽く、掃除しやすく、物が片付く。奥さんはお金で買った物を捨てるのは逆に無駄だと怒るのだが、私は快適千万、もうものを所蔵する欲求も失せてしまった。

などという雑念とぼんやりした頭と共に船のデッキでかぶってきたハンチングが海風で飛ばない様に片手で押さえながら、伊豆半島の根っこ辺りを熱海を中心に遠目に山並みのを逆光から眺めていると、本当に目的地が初島ではなく、マルセーユあたりに到着してくれないかなあ、という気になってきた。多分、初島に限らず日本の観光地は、竿の旗がいっぱい立っていて、海沿いなら魚料理の店がいっぱい並んでいて、一番高い場所に商工会議所のコンクリート打ちっぱなしの四角い建物が有って、と思いながら下船してみたらその通りの場所が目の前に現れ出た。私は何とへそ曲がりなんだろう。何もこの島で私の興味をひくものがない。日曜日だったこともあり、集団のおばさんや、ダイバーの格好をした人達などで、船着場は意外に人が多いが、おばさん達のように島一周のハイキングをするつもりもさらさら無いし、ダイビングなど下手にすれば、大勢の人に迷惑がかかるだけである。ようこそ初島へ、というゲートをくぐった後、何だかコーヒーが飲みたくなったので、喫茶店ぐらいはあろうと周りを見廻してみたら、どこもかしこも魚料理のお店ばかりで、こうなったら意地でも魚料理は食わず、コーヒー一杯初島でゴックンして帰りのフェリーのデッキで、天気が曇らないうちにもう一度楽しむ事にしよう。だがまあ一応、港の近辺を放浪。普通だったら立ち並ぶ魚料理屋でイカ丼なり、ナントカのあら汁など食したくなるのが普通なのだろうが、私は朝飯も食わずに家を出てきたのに、それ程腹も減ってはおらず、まずコーヒーを飲む事を初島ミッションインポッシブルと定めた。こういう時は裏路地作戦に限るので、ハイキングおばさん達と反対の方向に歩いて行ってみると急勾配の坂が有り、その途中に、コーヒー、アイスクリームと書いてある小さい店を発見。私にはこれで充分である。何も瀬戸内海の小島に来たわけではあるまいし、まあ中目黒のスーパーで買う魚よりはうまいかもしれないが、昼飯に1600円以上出すのは嫌だ。

店に入ると、一見して漁師とわかる顔つきのおじさんが、カウンターの中で、トイ面にある窓から見える船着場をボーっと眺めていた。チワッス、と言いながら私は椅子に腰掛け、あの、コーヒーを、と言うと、はいはい、と厳つい面構えからは意外と小声で返事が返ってきた。なんだか腹も減っていなかったがついでに何気なくポテトフライも頼んでしまった。計750円なり。高いんだか安いんだか分からなかったし、うまいのかまずいのか良く分からないコーヒーを飲み、熱すぎて味の分からないポテトフライを食べながら自分を客観視した。オレはここで何をやってるんだ?何で初島でコーヒーを飲んでいるんだ?

漁師らしきおじさんは、私にコーヒーを配り終えると、何の愛想もなく、再びただボーッとトイ面の船着場を眺めている。客は私だけだ。漁師風情なのにこの店には、魚料理が置いていない。メニューにはウインナー、ホットドッグとある。どうして魚料理を出さないのだろうか。おじさんは日がな一日船着場をぼーっと見ながら、何も考えていないのであろうか。頭にねじり鉢巻をしているまでは威勢が良いが、何んとなく目がトロンとしている。人生100年と言われるこのご時勢で、おじさんの生涯とは、この小さな島で、コーヒーを出しながら日がな一日船着場をじっと見ているだけなのかな。後ろ姿も何気に弱々しい。海の男ではないのかな。否、決めつけはいけない。このおじさんにも、漁船の魚群探知機のローンだとか、奥さんと仲が悪いとか、親戚と揉めているとか、何かしらの屈託は、人間なら持っている筈である。しかし、仕事を作りメンバーを集め作曲し練習してギャラ配ってということを私もかれこれ35年以上やっているという事になる。同じニホン人でも、何だか立場が全然違う。このおじさんにも何か心の中でうごめく不条理みたいなものがあるんだろうな。

店の中に初島から熱海行きのフェリー運行表があり、ちょうど午後1時に出発するであろうフェリーが、船着場に近づきつつあるのを、海上の白波に認めたので、「あのう、すみません。あの船が1時に出る、、」「ああ。そうだ。そんなに焦ることもあるまいけど」

そうか。焦っていると疲れてしまって、今日の様な休日が必要になってくるんだな。休日の船の運行ぐらいおおめにみて段取りなど忘れ、もう少しコーヒーをゆっくり飲み、窓から差し込む日の光でもぼーっと眺めていればよかった。ついつい癖で、つまりツアーばっかりしていたからなのか、帰る段取り、交通機関の運行状況が先ず気になってしまう。この漁師風情のおじさんに、そこのところを見透かされたな、とむいしきに思った。初島、最高じゃないか。焦らない事だな。

帰りのフェリーではデッキに人手が少なく、思う存分海の空気と風、全方向的な開放感を味わった。ある程度空腹である方がこの様な五感に訴えてくる自然の事象は、捕らえやすいし身も軽い。風が吹き、カモメが舟の周りを風に乗って行き交う様は、まさしく何かしらの自然の摂理に全てが包み込まれている。この場においての人工的音は、フェリーのエンジンの音のみで、そのエンジン音も何やらリズミカルである。ずっとこうしていたいという願いをよそに、熱海の街の風景が段々と大きくなってくる。突然、ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」を思い出した。意識の流れ、と評する人が数多くあれど、小説や音楽全てが意識の流れを表現したものであり、このフェリーのデッキでこの様なことを考えている私も、意識に流されている。

気付くと、かもめたちも船から離れていった。ハンチングを押さえながら、私は反対方向の初島の方にも目をやった。もしかしたら、あのコーヒー一杯はとても贅沢な時間だったのかもしれない。あそこに住んでいる人々と、短い間ながら言葉を交わすことができた。どういう経緯で、あの離れ小島に移住したのか、または生まれたのかは定かではないけれど、大袈裟に言えば、少し日本列島を離れられたわけだ。それがどんなに私の休暇に必要だったか、島の遠景がうっすらとしていくにつれ、その思いは強くなっていった。

帰り道、JR小田原駅の電車発進メロディーはお猿の籠やのホイサッサのチャイム音で、何だか変に悲しくなった。

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