コペンハーゲン紀行完結

デンマーク紀行完結。
後半を書き終えた。バックナンバーから読み始めた方が面白いので、この日記を初めて読む方は前に戻ることをお薦めする。

某月某日
日々の疲れが出て昼過ぎまで寝る。寝られたというべきか。日々これすでにUP SIDE DOWNなので、早起きをしたような気分。だいたい前に書いた通り、午後9時を過ぎないと外が暗くならないので、その影響もあろう。本日はオフであり、コペンハーゲンの街を散策した後、ア-マッド・ジャマル(P)トリオのコンサートに行く。本筋の、本物のプロの、余裕に満ちた、豊かなサウンド。こんな贅沢をしていて良いのかしらとふと思う。東京ではめったにコンサートにも行けぬ。東京で聴くより五分の一の値段で、しかもト-ステンの家には、歩いて帰れる距離である。ローカルなミュージシャンのすばらしい演奏も多々見たが、このコンサートは別物であった。コンサートの場所は、TIVOLIという、なんというか遊園地の中の、グラスガーデンという建物であった。TIVOLIとは、夏季は午前1時まであいている大人も楽しめる遊園地のようなところで、コペンハーゲンの中心部のそのまたど真ん中にある。豊島園が、銀座四丁目にあるようなものだ。不思議な国である。うっすらと白夜の中、コンサート開場を出ると、そこはお伽の国という摩訶不思議な空間であって、大人も子供もはしゃいでいて、しかもバーがそこいら中にあるから、ビールを飲むところに困らない。何度も書くが、コペンハーゲンとはいったいどういうところなのか。先祖の時代から親しまざるをえなかった白夜の夏の夜の時間のすごしかたを、現代に於いて凝縮したのがこのTIVOLIという場所ではないか。ト-ステンの家に帰っても、また誰もおらず、寝坊したのでまた明け方まで眠れず、鳥の声を聴き、段々空が白んでくるその空の色を楽しんでいたら、明け方の静寂をぶちやぶるようなミドルイースタンミュージックが、閑静な住宅街に突然響き渡った。何ごとかと窓を開けてみると、タクシーが停まっており、その中からトーステンが千鳥足でおりてきた。コペンハーゲンのタクシー運転手は、NYの例にもれず、大体がトルコ系などで、トーステンは、それ系の運転手に、ラジオかテープか知らねども、演奏後の帰途、多分音楽をフルヴォリュ-ムでかけろと無理難題を運転手にいったに違いない。白夜の夜明けと中東のサウンド。ミスマッチでクレイジーな瞬間だった。また、最もトーステンらしい御帰還とも言える。ドアを開けて入ってきたトーステンは相当できあがっていた。こういう場合、忍び足で逃げるに限るが、あいにくまだ起きているところをトーステンに目撃されてしまった。「ア~ヒロシ、レッツリッスウントゥ ア グウド ミュジック 」などと言いながら後ろから迫ってきて、僕の眼前でニコッと笑った。何が彼の身に起きたかは推測しかねたが、いま彼は非常に淋しい状態にあるということが一瞬にして察知できた。居候としてこのオファーにノーとは言えぬ。長い明け方となりそうな予感がした。彼は、ジャズ、ロック、民族音楽、クラシック、あらゆる種類の、しかも厳選されたレコードやCDを持っていて、まずこの夜明けにはこれを聴かねばといった調子で、GILL EVANS &STEVE LACYのデゥオアルバム「PARIS BLUES」をターンテーブルにのせた。ものすごくタイミングのあった選曲だった。白々と明けて行く薄いブルーの夜空に、この二人の希代の音楽家の音が溶け込んでいった。鳥も鳴いている。次はデゥーク・エリントン、次は現代音楽のモートン・フェルドマン。あまりにも選曲がその瞬間瞬間の空気にあっているので、僕はもうベッドに辞退すること事体あきらめて、ずっと夜があけるまで、トーステンと無言で、微笑みあいながら、ちょっとクラシックなテーブルとイスをはさんで、止まってしまった時間を共有した。二人とも今までも友人であったが、この瞬間、二人の間にはある共通のシンパシーのようなものが生まれた。つまりダチになったのである。お互いのコミュニケーションは、第二外国語である英語によってなされていた。が、この瞬間、二人の心の中の共通点を、音楽が見事に浮き彫りにした。共通して好きなサウンドにお互いが反応し、微笑みあう。こういう場合嘘はつけない。長い長い夜明けをトーステンと共に過ごした。新しい、真の友達ができた瞬間でもある。彼は真の意味で自分の世界を持った才能ある芸術家で、そこに彼のクレージネスが加味されると(これは僕が他のミュージシャンに送る最大限の賛美の言葉だ。)、その瞬間、コンサート会場の次元がよじれるような演奏をする。この文章で彼を言い表わすのは難しいので、トーステンのウエッブアドレスを紹介しておく。(http://tshoeg.dk/)彼は、菊地成孔氏の「10minutes0older」にも参加している。詳しくは、(http://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=418)

某月某日
明け方まで起きていたにもかかわらず、本日は大切な日である。ホテル、KONGARUTHER(コングアータと発音する。)に於いて、デンマークジャズ協会、コペンハーゲンジャズフェスティヴァルのアートディレクター、その他、海外から演奏に来ているミュージシャンが集まるレセプションがあるのだ。ここに於いて僕は、日本のジャーナリストと共に出席し、取材を手伝い、フェスティヴァルのこと、新しくレコーディングするCDのことなどを、お偉方と話し合わねばならない。アポイントメントはとってある。5つ☆ホテルの清々しい中庭に於いて、そのレセプションは開催されており、もちろんジャムセッションなども角のほうでやっている。くつろいだ中よい意味の緊張感を持って、ディーセントなイングリッシュをしゃべらなくてはならぬ。キャスパーや、他のミュージシャンとしゃべる時など、同類という意識から、あまりきれいな英語はしゃべらないが、今日この場所に於いてはそれは許されない。またもやフリーで飲み物、食事が供される。良い国柄ですな。食事には寿司なども含まれていて、あわやこちとら餓鬼道に陥りそうになったが、ここはぐっと我慢して、コーラなどを飲みながら、日本から来たジャーナリストと、フェスティバルの主要メンバーと歓談。後は日本でこのことが良い雑誌に良い意味で記事になることを期待するのみ。こちらも日本、デンマークの文化交流の未来について話し合う。後、CHRISTIANHAVNという地域にあるBEBOERHUS(ベボーフスと発音する)に、ニルスのリーダーバンドを聴きに行く。数日後、僕もここで演奏する予定だったから、偵察の意味もあった。彼のグループの名前は、JUMPNGGEMINIという。ニルスらしいグループ名と演奏であった。ぶっ飛んでいそうで、ジャズの伝統には充分配慮しつつ、またそれをぶち壊して前に進むといった,ニルスの分身のようなグループで、長年彼を知っているから微笑ましかった。前にも書いたがデンマーク人はロウソクフェチである。絶妙な箇所に、細工の良いキャンドルスタンドにロウソクの火がともったそのクラブは、暮れなずむ午後10時の空の色と相まって、居心地が良い。残念ながら客の数が少ない。僕がメインの客のように成ってしまっているところもあり、ステージの真ん前で、声援を送って仲間を鼓舞した。客数はなぜか少なかったけれど、それなりに僕は贅沢な時間を過ごした。貸し切り状態に近かったから。その後僕は、街中にさまよい出ることにした。時々東京にいる時でも、ふとどこか見知らぬ路地などを探索したくなる。コペンハーゲンはそういう欲求を満たすのにもってこいの街である。あらゆる看板や、店先のメニューなど、読める字は読めるし、読めない字は読めない。読めない通りの名前もあるし、読める通りの名前もある。方角がぜんぜん分からなくなる時もあるし、ふと見覚えのある通りなどに行き当たると方角が分かる時もある。そんな時間を当て所もなく歩くことの爽快さ。見知らぬ街が永遠に続いていたらどんなに楽しいか。僕はヨーロッパの街並が大好きだ。CHRISTIANHAVNから運河を橋でわたり、CITYの方に歩んで行く。某日某日 今日は、STUDENTERHUSET(スチュ-デンターフゼット)というところで演奏。「MORTIMERHOUSE」で共演した仲間と瞬時にサウンドを作り上げる。ある程度の時間いっしょに演奏していなかったが、長年何度もいっしょにやっていることも事実で、第一音目から、さっとバンドサウンドに変化する。お互い体のどこかに何度も共演した時のヴァイブレーションが残っており、それが即表面化するのだろう。加えて、いままで彼らが演奏してきた様々な音楽的要素が新たにに加わって、我々の演奏は天井知らずと言ったところだ、特にキャスパーの音楽に対するアプローチの斬新さがよりスケールの大きなものとなっており、さすが隊長格。バンドを制御しながら、その場その場でソロイストを状況によって振り分けて行く。一曲一曲も、長過ぎず短すぎず、どんどん前に進んで行く。ピアノはグランドだったが、あまり良いコンディションとは言えない代物だったが、とにかく空気が乾燥しているのでよく楽器が鳴る。スチュ-デンターフゼットは、クラブの名前を見れば分かるように、近くにある大学の学生のたまり場だ。キャスパーの絶妙なアナウンスによって、客がぐんぐん引き付けられる。といっても、僕には彼が何を言っているのか分からないけれど。我々の演奏の後、比較的若い世代のミュージシャンがジャムセッションをすることとなっており、彼らにピアニストはいるのかと聞いたらノーと言う返事だったので、ジャムセッションに僕も参加した。非常に楽しい経験だった。ジャムセッションなど何年ぶりだろうか。曲が終わるごとに、前列の客席から、「アリガトー、アリガトー」という声援を何度もうけた。有り難い限りである。他国に於いて母国語で声援を送られるなど、なんともミュージシャン冥利に尽きる。後、初日に演奏したSTENGAREにキャスパーの参加するバンドを見に行く。演奏後も、前にいた通りのFUNKYPUNKYで、後深夜帰宅。7月2日から11日のあいだ、コペンハーゲンの各クラブ、バー、コンサートホール、野外ステージで、同時に色々な音楽が演奏されている。キャスパーなどこの間、28もの違ったグループでの演奏をこなしている。僕だけが、へたれることは許されない。

某月某日
先日、ニルスのバンドを聞きに行ったBEBOERHUSというクラブで演奏。今日はなぜか客が満員御礼である。BEBOERHUSというクラブはCHRISTIANSHAVN(クリスティアンズハウンと発音する)という地域にあって、位置としては、港に近いお台場的ロケーションだ。古くから人が住んでいる落着いた感じの地区だ。BEBORHUSも古いカフェであり、この近辺に住んでいるあらゆる階層の人々が、何げなく立ち寄り、話をしたり、情報を交換したりする場所らしい。どうも客層が今までとは違ったと思ったら、そういう理由があるのかもしれぬ。毎週ジャンルは異なるが色々な音楽をやっていて、その中には演劇も含まれるという、つまり地域に人に愛されるべく存在する空間なのであろう。マイク、モニタースピーカー類がない場所なので、自然と、まあ演奏の内容は別にして、元々ジャズが演奏されていた状態と同じ条件となる。一曲目を始める。何もないのだからサウンドチェックなどしなかった。しかし幸運なことに、ステージか店の入り口に面した窓側を背にしており、もちろん天井は高い。ナチュラルなりヴァ-ブ効果が、我々の演奏に加味された。こういう場合どれだけ楽器を鳴らせるか、どれだけダイナミクスをコントロールできるかが、我々演奏者に要求される。その分の緊張感が音楽に良い効果をもたらすと、演奏は次々と飛躍して行く。僕もその中にいた。ピアノはアップライトの非常に古いものであったが、とにかく空気が乾燥しているので楽器が鳴る。グループ全員一体となって、キャスパーの出すキューや指示を待つ。窓の外が段々暗くなって行き、店のそこかしこにあるキャンドルの光が、主な光源となってきて、まあ、これ以上の雰囲気は望めないなと思っているうちに、客にも演奏者側にも適度なビールの心地よい酔いがまわってきて、全体の雰囲気がぴたりと一丸となった。僕はこの場でピアノを弾いていることに非常なる満足を覚えた。機械的操作の入らない演奏とは言え、意外と奥のほうの客席まで音は響く。時間がゆっくりと流れて行く。

某月某日
身繕ろいに時間がかかる。朝起きた時がその良い例である。トーステンの住まいの風呂場には、なぜかシャワーカーテンがない。しやがって、どう工夫しても、バスタブの外の床に水が飛び散る。長年そのまま使っていたのか、排水口に向かう水の流れの線の中は、何かしらぬるぬるしているので、上手くまたがったり、タオルなど落とさぬように気をつけなければならない。床には水たまりのようなところもあって、そこは水分に含まれている石灰かカルキかなんだかしらないけど変色している。階下に水がもれないのだろうか。ある日、トーステンがシャワーを浴びた後、そっとのぞいてみると、僕より水が床に飛び散っていた。家主のやることを見習うのが居候の礼儀である。後々、盛大にシャワーを浴びることとした。気兼ねなしである。朝飯もまた、準備まで一苦労である。最初はデンマーク名物のオープンサンドなど外に買いに出ていたが、毎日が同じ店だとつまらぬし、かといっていろいろと試す金もそうないから、自分で作ってみることにした。外国のスーパーマーケットに行くのは、旅の楽しみのひとつで、デンマークの場合、ばかでかい肉やソーセージがすぐ目に着くが、他にもいろいろと見たことのないものが並んでいる。何かの魚の酢漬けの缶詰めや瓶詰め、パンにぬるペイストなどの種類がやたらと多い。まけずにチーズもいろんな種類がある。これらを適当に見繕ってきて、茶褐色のパンにのっけて食べる。パン事体、麦とか何かの種とかが豊富に含まれていて、酸味が強く、これだけでも何枚も食えるほど気に入った。この上に、好きにトッピングをして食べると、自然外で売っているオープンサンドに近いものができあがる。日に一度は暖かい飯が喰いたいと思ったこともあったが、節約のため、ほとんど毎日三食これでしのいだ。何度も書くが、パンが旨すぎる。

某月某日
PIERREDORGEという人物に会う。なぜこの名前をアルファベットで記するかというと、いまだに苗字の表記がカタカナでは不可能だからだ。Oに斜め線/が入るので、母音が5つしかない言語には表記不能だ。これからはピエールと呼ぶことにする。彼は、NEWJUNGLEORCHESTRAという10人編成のビッグバンドを運営しており、キャスパーもそのメンバーの一人である。今年11月にデンマーク嬢王が来日されるそうで、このNEWJUNGLEORCHESTRAも、レセプション、パーティーなどで演奏するため、嬢王と共に日本に来るということが決まった。僕がデンマークに行く前、ピエールから直々に電話がかかってきて、どこかこの人数で演奏できる場所を紹介してくれという。キャスパー経由でここに連絡先が来たのだろう。いくつか紹介してメールを送ったら大変喜ばれ、コペンハーゲンに来たらぜひ会いたいということになっていた。ある日の午後直に彼と会ったら、いっしょにディナーでもと誘われた。今回のこのフェスティバルを取材しているジャーナリストといっしょに、モルドヴァ料理を御馳走となる。彼らの来日は11月。

某月某日
友人のピアニスト、ミヶの家で練習させてもらうことにした。レコーディングまで2日空いた。演奏はもう終わった。フェスティバルの他のグループを聴きに行くというのもやめて、予定を入れず、この2日間で、レコーディングにたえるフィジカルな部分を取り戻さないといけない。ミケの家は大金持ちで、日本の国会議事堂にあたるCHRISTIANBORGPALACEという名の建物の裏の通りに居を構えている。ミケからこれは裏側だと説明されたが、僕にはどうも表にしか見えず、実際表側も見たことはあるが、いずれにしろゴジラが思いっきりぶっ壊したくなるような代物ではない。ヨーロッパの一国の政治をになう建物としての威風堂々たるものである。ミケの家の建物に入ると、中庭に私設のスタジオがある。住まいはCHRISTIANBORGPALACEに面した一室を所有しているということだ。スタジオにはグランドピアノであり、斜めの屋根に窓をはめ込んだそのスタジオは、曇り空ながら自然に明るい。夢のような環境である。このスタジオには何度も来たことがある。たぶんコペンハーゲンに最初に来た時も、ここに遊びに来たのではなかったか。我がバンド、GOTHERE!がデンマークツアーを敢行した時にも、デンマークのミューシャンンと、日本のミュージシャンでどんちゃん騒ぎをした。しかし今日は僕一人である。ゆったりソファーなどに座っていると、そのまま動きたくなくなる。ここでも鳥の声が昼間でも聞こえる。議事堂の裏でである。窓から外をのぞくと、中庭に面したその場所からは、三方の壁に、きれいな草が絡まっていて、なんとも良い眺めであり、なんとも心地よくもあり、そこに来た目的を忘れてしまうに充分な環境が、そこにはあった。誰も邪魔しない空間であるので、5時間ほどぶっとうしでトレイニングをしたら、使ってない筋肉が悲鳴をあげはじめ、午後7時頃GAVEUPして、母屋のほうに入るミケに電話をかけ「OKIGAVEUP」と言ったら、こっちに遊びにこないかと誘われた。このオファーにもノーとは言えまい。スタジオは、昔馬や牛を飼っていた時のものを改装して建てたものだそうだが、こんど始めて行くミケのアパートを見て、さすがの僕も飛び上がった。まさしく窓の真ん前にはCHRISTIANBORG PALACEがパノラマのように窓をすかして見え、その左側には運河と、その端に建つ古いパートのコペンハーゲンの街並が一望できる。ここら辺は観光客も少なく、僕の格好の散歩道だが、この眺めは散歩では得られない。ここまでロケーションの良いホテルもなかなかないであろう。ミケの住まいは4階だ。19世紀の舞台装置のような階段を上がった。階段の手すり、壁の模様、全てが優美である。ドアをノックするとミケがニコニコ顔で迎え入れてくれた。部屋は優に12畳ほどのものが三部屋あり、その他に、広いキッチン。かっこいい間接照明がそこいら中に趣味良く置いたり天井から釣ってあったりする。暮れなずむ空の向こうを、窓を通してみてみると、街の尖塔などが、曇り空にふっと浮いているのが見える。ミケはワインを運んできてくれ、かけた音楽が、マイルス・デイヴィスの「INASILENTWAY」であった。ここまで気分が良いと、自然とだらしなく微笑んでしまう、ミケのほうを見たら、彼も大差なし。国会議事堂のすぐ裏で、しかも高級アパートメントで、マイルスのサウンドをスエーデン製の高級スピーカーで聴いている僕は、いったいだアれ?僕はコペンハーゲンと、ミケが住んでいる地域を誉めると、昔はもっと良かったんだという返事が帰ってきた。子供の頃はCHRISTIANBORGの外堀で釣りもできたし泳ぎもした。いまでは水質が少し汚くなりそれが出来なくなった。と、ふっと淋しい顔になった。こんど東京の川を見に来いよ。と言ってやったら少し二コッとして、白ワインも開けちゃおうぜ、な、ヒロシなどと言ってキッチンのほうに消える。彼はあらゆるゲームが好きだと言う話をキャスパーから聴いていたので、考えた末、矢の先がマグネットになっているダーツをプレゼントした。これにはミケも幸い御満悦で、プレゼントしたその日から矢の持ち方、距離や投げ方、自分だけの秘策について研究を始めている。白ワインをのみ終えた頃、完全に日が暮れた。11時すぎである。ダーツとこの歓待では、さすがに交換条件がこちらに負が生じるような気がした。いくら友達とは言え、ここまでの親切にどう礼を言えばいいのか。最初はそんなことばかり考えていたが、ワインを飲むにつれ、ミヶも楽しそうだし、もうどうでもいいやという気分になった。国会議事堂の裏の高級アパートメントで、ジャズを聴いてミケとはしゃいだ。世の中なるようにしかならないと、いつも少しペシミスティックな僕だが、今日、今晩は、こういうふうになるようになった。たまにはいいだろう?

某月某日
トーステンの家で洗濯しようと思ったら、洗濯機の扱いを教わっていないことを思い出した。しまった、聞いておくのだった。洗濯機は中のドラムが横に回転するもので、ダイアルにkとかIとかCとか書いてある。なぜか説明書が洗濯機の上に置いてあった。持っている本人もたまに分からないことが有るのだろう。そんなものが扱えるのか。しかもその説明書は、デンマーク語、スエーデン語、フィンランド語で書いてあり、英語の表記がない。後は、たまに出てくる図解などを参考に適当にやるしかない。ダイアルに、オレンジ色の線が入っていたので、ここが終着点と目星をつけ、そのオレンジ色の線から一番遠いところにダイアルをひねり、スイッチを入れてみた。はたして給水が始まり、ドラムも回転を始めた。30分ぐらい経ってからのぞきに行くと、洗濯のプロセスは最初のままである。また三十分ぐらいして見に行くと、なんだか永遠に中のドラムがまわっているように感じた。早く脱水に行きついてほしい。適当にダイアルをオレンジの線の方までひねった。途端に洗濯機の動きがぴたりと止まり、一瞬後、排水して給水を始めた。コレハなんだか最初のスタートラインに戻ってしまったようだ。そういう最悪のことだけは良く分かる。とにかくほっておいたら、洗濯機はずっと僕のパンツをグルグルまわしていた。外国に来ると、一時が万事こういった調子である。

某月某日
翌日もまた、ミケの家にピアノを借りに行く。本日は都合上、ミケのスタジオではなく、彼のお兄さんの部屋で練習させてくれるという。ミケのお兄さんもピアニストとは知らなかった。ミケのお兄さんはミケのアパートメントの階下に住んでおり、家の間取りもまったく同じだが、屋内の装飾はそれぞれ個性があってまったく違う。やはり部屋は三つ有ったが、ピアノの置いてある部屋がクリーム色、次の部屋が、黄色、白、寝室が淡いブルー と壁の色をぬり分けている。遠近法をうまく取り入れたおしゃれな場所であった。これは洋画の伝統を取り入れているのか、もともとこういう家の中で絵を書いていたのか。とにかく、広い場所が更に広く見える。もちろん窓の外にはCHRISTIANBORGPALACEが一望できる。議事堂の裏で練習するなんて一生のうち最初で最後だろう。しかもピアノはスタインウエイであった。こんな親切をダーツのおもちゃひとつで享受していいのかと思ったが、とにかく今は練習しなくてはならない。しかし、おお、スタインウエイ!天井の高い、本当の意味の洋間で弾くピアノは、部屋中に鳴り響いた。いつも防音の部屋で練習しているので、この聴覚の格差は大きく僕の気持ちを揺り動かした。元々こういう場所で弾くべくできあがった楽器なんだなあとつくずく思った。畳の上に絨毯をひいて、その上で無理に弾いたってな。しかし、昨今のピアノコンクールで、日本人や韓国人が上位に入るのは、何かしら涙ぐましい訓練をしているのに相違ない。この音色で、音の強弱や、モーツアルトや、ベ-トーべンが生気をよみがえらすのだろう。しかもこのタッチ、他のピアノとはぜんぜん違うしっかりとして柔らかなこの感触。楽器を持ち運べないというハンデを考える閑など、ピアノを習い始める時に考えるべくもない。ピアニスト以外の楽器奏者は、ピアニストの苦しみを知らない。特にジャズの場合、どんなコンディションのピアノに対しても、折り合いをつけなくてはならない。スタインウエイは、スケールを弾いても音楽的に聞こえる、魔法の楽器である。原節子から恋文をもらった時のような優雅さも兼ね備えている。僕はミケに、このピアノと結婚していいかと聞いたら、兄貴がゆるさないだろうと笑ってこたえた。この瞬間こそ、日本に帰りたくないなあと思った。デンマーク嬢王の住まいの近くでも、鳥の声が聞こえる。なんたる静けさか。強力な軍隊も国教も持たぬこの国を支えているのは、このゆったりとしたゆとりであろう。後100年経つと、統計的に見れば、日本人はこの世からいなくなってしまうのだという。50年ほど先に、人口が500万人ぐらいになって、日本も自給自足できるデンマークのような国になるのは不可能なのか。そういう具合に国に人口が減っても、そうぼやぼやしていられないのが現状であろう。無理だろうな。右肩上にはロシアが、右腰下には中国があり、ウエストの横には北朝鮮で、これが国状だ。対象的に、デンマークは、ノルウエイ、スエーデンにはさまれたNATO加盟国である。お互いの国の文化言語は似通っており、スエーデン語の番組を見ても、デンマーク人でも理解できる範囲だ。ハングルと日本語ほどの差はない。少し天気がよいと、海の向こうにうっすらとスエーデンが見える。距離は30キロほど。これらのことも彼らに余計なストレスを与えないひとつの理由であろう。外国かぶれと言われようが、これが事実である。いずれにせよ、僕には年齢的に関係無いことである。生きいている間に、東京に大地震がこないことを望むぐらいが精々だ。練習を始めると、脳と指先が分裂を起こしていることに気付く。まずどのくらい分裂しているか、自分で計測しながら練習を進める。練習するにはあまりにも恵まれた環境と、時間の流れと、優れた楽器、この三拍子が揃って、気がついたら6時間ぐらい経っていた。もうひとふんばりして、上の階に住むミケに電話をする。「OK,IGAVEUP」昨日と同じ台詞だった。上に上がってこいということに再度なった。今日はこのあとキャスパーの家で、レコーディングのこと、その他のことで会う約束をしていた。そう言おうと思ってドアをノックすると、ミケのびっくりしたような顔が目に飛び込んできた。お前、大丈夫か、あんなに長く休みなく機械的な練習ばかりして。俺はここでコンピューターで作業をしていたんだけど、君の音が止まないから、心配してたんだ。腹は減ってないか?何かいっしょに飲もうか?僕は途端に恥ずかしくなってしまった。豊かさの違いは彼との経済的格差だけではないらしい。気持ちの上ででも、こんな機会はめったにネエや、などと思いながら、弾き続けてしまったのだった。気分が貧乏性のちょこまかしたジャパニーズである。こんなに豊かな環境に居ても、効率とか、時間配分とか、要領よくとか、そんなことしか頭にない。ヨーロッパの人と同じパンツをはいて、同じシャツを着て、同じ楽器を弾いていても、頭の中はぜんぜん違う。豊かな環境の中では、その豊かな時の流れに身を任せればいいものを。これは音楽性の中にも確実に影響をおよぼすな。自分自身を反面教師と考えねば。さっきまで、スタインウエイを自由に弾けて、本当に気分が良かったのに。豊かさとは何か?話はそれるが、ぼくは作家の曾野綾子氏のエッセイが好きである。キリスト教者として、どんな僻地までも踏み込み、我々日本人が想像できないような貧困、人種差別などに体当たりしていらっしゃる。そういう観点から見れば、僕は恵まれているのだろう。しかし、コペンハーゲンの街のそこかしこにかかげられたデンマークの国旗などを見ていると、どうしても自分の国と比較せざるをえなくなる瞬間がある。日本の観点からいえば、この街は右翼結社の集まりでできあがっているということになる。ケーキの上にも楊子でできた国旗が刺さって出てくる国である。どちらが精神的に健康と言えるのか。僕などは、一介のミュージシャンだから、その基準を定める資格はぜんぜんない。そんなことは百も承知だ。しかし、豊かさの本質はどうもこういうあたり、ここらへんのメンタリティーにあるのではないだろうか。至極当然なことを当然としない事、すなわち真の豊かさから遠のくのではないか。ミケには、重ね重ね礼を言い、三拍子揃うことなんてなかなかないんだ。練習という場にはもったいない、いい経験をさせてもらった。ダーツ以上だと言うと、俺もピアニストだから君の気持ちが良く分かるよと、二人で握手した。また友達ができたなあと思った。いまの僕にミケにしてあげられることは何もない。でもこのカリは忘れない。ミヶよ、ありがとう。腹も減ってないし喉もかわいていていないよ、と嘘を言ってその場を辞した。そこで飲み食いすることは、あまりにも礼儀違反だし、キャスパーの家に行く時間に遅れてしまう。外はなぜか冷たい風がびゅーびゅー吹いていて、あまり観光客などの姿もない。キャスパーの家の方角に行くバスの停留所をあらかじめ調べてあったが、それがうまく見つからない。腹減った。CHRISTIANBORGPALACEを横に見て、運河沿いを、簡易コートに身を包み、首をすくめてとにかくも、バス停どこかとうろたえた。しかしこのとき見たCHRISTIANBORG沿いの運河の眺めの美しさは、いままでデンマークで見てきたどの眺めよりも優ったものだった。灰色の雲の下にたたずむ運河も、空の色を反射し、強い風にさざなみを立て、決して絵葉書になる景色ではない。その時の僕の個人的な気分と、天気と、時間と状況が、偶然同じ方向に重なりあったのだろう。何とかバス停を探し出し、キャスパーの家についてみると、キャスパー自身も疲弊しきった様子で、疲れた声で、TAKEOUTのタイ料理を食べてから話し合おうと言うことになって、僕はビールを飲み始めた。腹に染みた。タイ料理のTAKEOUTがまた、日本で言う3人前ぐらいのヴォリュ-ムがあり、食べ終わった二人は、もう、金の換算とか、レコーディングのコンセプトについて語るような血液が、脳みそには廻っていなかった。10日間で30箇所の仕事をこなしているキャスパーは、僕なんかよりずっと疲れていたのであろう。今日はとりあえず帰るよ、と言うと、キャスパーは、「Goodidea,Hiroshi」と言ってウインクした。   

某月某日
本日は、キャスパー達と、EWEから発売予定のに二枚目のレコーディングをする日である。コペンハーゲンジャズフェスティバルは昨日でそのお祭り騒ぎはおさまった。街中から音楽が消えた。ちいさいとは言えども、ヨーロッパの一国の首都で、あらゆるところでジャズ演奏を許可し、それをスマートに執り行うということ事体、僕には驚異だったが、祭りの後のうら寂しさなど風流なことを考えている余裕はない。

某月某日
と書いたが、今日は7月13日であり、14日午後の飛行機に乗らねばばらない。スタジオセッションがはじまるのが、13日の午後6時からである。スタジオのスケジュール、メンバーのスケジュールを考えても、この13日夕方から14日明け方、下手すると昼までという時間しか取れなかったのだ。とにかくすべてが一発勝負である。帰国延期という手もあるが、それはそれなりに事務上の手続きが難しい。なんとか終了まで漕ぎ着けなくては。スタジオの名はグラニ-スタジオ。機械オンチの僕でも、ありとあらゆる機材で充実していることぐらいは分かる。案の定、時間どおりにいってみると、キャスパーしか来ておらず、譜面の手直しなどしている。こういう時に、日本人的なイライラ感がつのると、場所はどこであれ自分が一番損をすることは、彼らとのデンマークツアー及び日本ツアーの時でいやというほど経験している。これは皆適当に三々五々集まってくるとふんで、近くの中華屋にTAKEOUTをたのむ。これを喰い終わるまで全員は揃わないだろうという判断である。ゆっくりと流れるコペンハーゲンの時間。なんと今回の共演者は、我がキャスパー・トランバーグ・セプテットのメンバーに、新たに4人が加わり10人という編成だ。だからといって皆が全員演奏するという曲はない。ちらちらと集まったメンツで演奏できることは先にしてしまうという方式で、やっと録音がはじまった。最初は、僕が参加する曲が主だったが、すべて1stTAKEにてOKがでる。一曲一曲どんどん進める。だが、うかうかしてはいられない。キャスパーの用意した曲は11曲。今回キャスパーがこの企画のプロデューサーであり、演奏者を集め、曲を書いて準備した。僕の場合は、このプロジェクトを日本から持ってきたということで、COPRODUCERという位置にある。EWEに頼んでこのCD製作をまかされているので、下手なことは出来ない。しかしみるみるうちに帰る日は今日となる。あっという間に午前12時を過ぎたからだ。さすがにこの頃になると、出演者全員が集まっており、皆それぞれ好き勝手なことをやって自分の出番を待っている。出前の中華を喰ったりビールを飲んだり、それぞれ気ままだ。自然とまとまりがない。皆、今晩僕が、つつがなくレコーディングを終わらせて帰らなければならないなどということには、おかまいなしといった様子である。これも豊かさの発露なのか、と思いイライラしないようにする。ちょこまかしたジャパニーズにはもうなりたくない。だから、じっとキャスパーの采配に目を配っていた。だらだらと時が流れているように一見見えたが、良く皆の動向を観察していると、やることはちゃんとやっている。皆楽器がめちゃくちゃうまい。改めて書くようなことではないが、改めて書きたくなるようなつわもの揃いだ。その中に混じって、いっしょにジョークを言ったり、演奏者に歓声を送ったり、僕はとても幸せだった。こんな遠い国に仲間が大勢いる。いっしょに音楽を創っている。お金のことさえ考えなければこれほどオモロイことはない。東大でたってできることじゃない。劣等生だった俺だからこそできることなのかもしれない。自分でレール敷いてるんだからな。おり番(曲によって演奏しないプレイヤー)の皆と、スタジオ内の演奏に歓声をあげたり声援を送ったり、またこちらがそれを受ける側にまわったりする。実際モノスゲ~!音楽が次々と録音されていった。モノスゲ~!としか書き表せない。興味がある方はぜひCDを買って下さい。モノスゲ~!から。プロデゥ-サーとして曲の進み具合をチェックし、キャスパーと終了時間を暗算しつつ、ビール飲んでピアノ弾いて、タバコを吸ってビール飲んでピアノ弾いて、歓声をあげ、皆とハグしあって、ビール飲んでピアノ弾いて、タバコ吸っていたら、また更にモノスゲー!演奏が録音されて、ビール飲んでタバコ吸っていたら午前3時をまわっていて、少なくとも飛行機には間に合う時間にすべて録音が終了する目安がたってきた。外はまだ透明なブルーの空に星がチカチカと瞬いており、前に書いたように、空の裏側までもが見通せるようなその濃さが、興奮した気分を少し静めてくれた。空が段々明るくなるにつれ、我々の創造的作業も最終段階に入る。デンマーク人は、ロウソクフェチであり、このスタジオとて例外ではない。照明はもちろん間接照明だし、ランプシェードから光の影まで生まれでる。あらゆる照明が重なって影を織りなすからだ。各奏者が三々五々帰った後、キャスパーとベストテイクを選ぶ作業をす。これはあまり時間がかからずに終わる。全てほとんどが1stTAKEでOKだったから。くり返し書くようだが、これは2年前に東京で録音した、日本のレーベルからの第一弾、キャスパーの「MORYIMOREHOUSE」の第二弾として今回こんどはコペンハーゲンで録音したものである。今回の録音で、この二年間の各々のレギュラーミュージシャンの音楽的ひろがりには目を見張るものがある。付加的に書けば、後はミュージシャンが音楽に対して、すごくリラックスした状態でものすごいことを連発するようになった、というところが、前回のアルバムとの大きな格差を生み出している。このレギュラーセプテットを含めた十人編成の今回の録音は、「MORTIMORHOUSE」のCDの帯びにある、ユーロジャズの最先端という、光栄な表現を更にぶち抜くものであった。叙情性はECMのそれではなく、ヨーロッパフリーの過激な側面、たとえばチェーンでピアノの弦をブンナグルといった猛禽獣的過激さとも違う。後は僕らの音楽を聞いてもらい、このことをあきらかにするしかない。とにかく、三管からなるホーンセクションのアンサンブルは、他に類を見ない。しかし、どんな過激な展開になっても、そこにはヨーロッパ人としての根底的な気品が漂う。このことは、やはりヨーロッパ発という土台をしっかり持った音楽であるということが言える。そこに日本人の僕が加わるのであるから、概念のみならず、先入観が入る余地さえも無くなっている。これはインターナショナルとかいう使い古された言葉では定義できぬ、何かの予兆である。このレコーディングがいつCDになるかは、今までのEWEの動向を見ていると、今年の冬か、来年にわたって、皆様の手元に届くこととなるであろう。後は、僕らの演奏に生で触れて、ジャズという音楽の限り無い広がりを感じて頂くしかない。我々は一体となって。お互いがお互いの国で仕事を取り合い、すでに10年弱が過ぎた。今年もかえす刀で、9月、彼らを日本に招いて、新しくレコーディングした曲も含め、日本ツアーが確定した。NEWSの欄には情報を載せたが、再度ここでも、宣伝したいと思う。KASPERTRANBERGSEPTET 9月 日本上陸 ツアー決定!   9月(11)土(12)日 MOTIONBLUEYOKOHAMAhttp://www.motionblue.co.jp/13(月) NAGOYABLUENOTEhttp://www.nagoya-bluenote.com/14(火)15(水)新宿 PITINNhttp://www.pit-inn.com/     電脳チラシ:http://www.shinya.comm.to/minami.html    帰りはキャスパーと二人でタクシーに乗る。9月のツアーの打ち合わせもしたかったが果たせなかった。だいたいレコーディングの打ち合わせもろくにやってなかったんだから。二人とも言うべき事は沢山あるが、二人ともものすごく疲れており、酔っぱらってもいる。「SeeyousooninJapan,Kasper.」「IlikeyourgreetingHiroshi.」かたい握手をかわして僕はタクシーを降りた。トーステンの住んでいるホテルのネオンが、明け方の空の下チカチカと目に眩しい。なんだか映画のバクダッドカフェのワンシーンみたいだ。部屋に上がって気付いた事、それは僕がものすごく酔っぱらっているという事だった。二日酔いは睡眠の後に、ああ、まだ気分が悪いとなる。しかし今の状態は、まだ酔い状態で、床がぐらぐら見える。こんな事になるだろうと、あらかじめ、しらふの午後4時頃、基本的なパッキングは終わらせておいた。飛行機の離陸時間は午後3時45分。いまの時間は午前五時過ぎ。寝てしまえば飛行機を逃すのは必須。しかし寝ずに何をして時間を潰せばよいのか。中途半端な時間である。ソファーに腰をかけて酔いがさめるのをじっと待つ事にした。今までも、彼らの狂乱に巻き込まれて、さんざん痛い思いをしてきた。自然と巻き込まれない術を身に付けていたが、最期にしてやられた。あれだけモノスゲ-!音楽が目の前でどんどん展開されれば興奮せざるをえない。ここで冷静さを保てるか保てないかの境目が、もしかしたらPRODUCERの資質なのかもしれない。やる事は全部終わらせた。PRODUCERとしても。しかしとんでもないおつりを背負い込んだ。気が抜けると共に酔いは増すばかり。とにかく空港に行きさえすれば、別に俺が飛行機を運転するんじゃないんだし、全身オコノミヤキ人間になろうが、それはフライトアテンダントが、学校で習った通りの処置を俺にするまでだ。ゆっくりと忘れ物がないかチェック。トーステンの家の中をゾンビのごとく徘徊する。泊まらせてもらった部屋を少しかたずけきれいにしたり、台所の汚れ物を洗ってきれいにしたり、なんだカンダ思い付く限りのことをしたが、時間はまだ6時過ぎ。段々日が昇ってきた。帰る日にお天気なんて皮肉なものだ。後、バスルームの便器に二度ほどお世話になり、体の中はカラとなる。カラとなっても酔いはさめぬ。そこへトーステンが帰ってきた。彼もどこかで明け方まで飲んでいたのだろう。相当できあがっている。藁をもすがる気分で訴えた。昼になったら起こしてくれないか?目覚まし時計を貸してくれ。トーステンは人の話など聞きもせず、レコーディングはどうだったとか、いろいろと質問してくる。昼過ぎまで質問事項があるなら答えていてもよいが、おたがい酔っ払ているので、SECUREな事柄はひとつもないし望めない。いずれにせよ、今日彼は12時に家を出て、デンマーク第二の都市、ア-フスに仕事で出かけなければならない。だから寝ないという。だいじょぶかなーと思ったが、トーステンを信用して仮眠する事にした。起こされたのは12時であった。トーステンはすでに出立の準備を終え、ニコニコと僕の部屋の入り口に立っていた。ヒロシがいたおかげで毎日が楽しかった。いつでも遊びに来てくれ。君は出発までここにいてよろしい。カギはドアのポストから投げ入れてくれれば万事OKだ。僕は寝ぼけまなこでトーステンと抱き合った。言葉が出なかった。トーステンのみならず、沢山の人の援助があってこそ、ここまで色々な事が可能になったのだ。デンマーク人のミュージシャンシップに乾杯と言いたいところだが、こちとらまだ二日酔いである。仮眠したので二日酔いに成れたといったところだ。名残惜しさは共に人一倍であったが、彼もすぐ出発せねばならない。最期は手を降って別れた。トーステンは颯爽と住まいであるホテルの階段をかけ降りて行く。なんだかよく分からない手続きを終え、空港内に入った。予定の時間より2時間も早く来てしまった。あのままトーステンの家にいたら寝てしまいそうだったので、僕も家を飛び出してきたのだ。TAXREFOUNDというのがあって、300KR(クローナ)以上の買い物をした観光客は、その値段の内に含まれる税金を、空港の事務所で返すしくみとなっている。冷夏だったので、僕もジャケットとジーンズを買った。いくら戻ってくるかは知らねども、一応その事務所の前に行ったら何人か並んでおり、日本人と思しきネイチャンんが、なんかもめている。近くには、土産だかなんだか、買ったものがいっぱい積んである。何をあんなに買う必用があるんだ。そのネエチャンのおかげでずいぶん待たされた。たまにふらっとした。俺はゾンビに近い存在なんだぞ、もうタックスどうのこうのは忘れてどっかに座ろうかと思ったら、ネイチャンが消えて、順番のめぐりが早くなり、僕の番でも五秒ぐらいで済んだ。レシートみたいのにスタンプをもらった。こんなハンコもらうのに、なんでこんなに時間がかかるんだ。まあ、逆にいえば、体調は最悪なのに自分自身せこい奴だということだ。いくらかでも現金が欲しいからこそ吐き気をこらえて列に並んでるんだから。あのネイチャンをバカにはできまい。そのハンコ紙を別の窓口に持っていったら3000円くれた。高いんだか安いんだかよく分からん。どういうしくみで何%税金が戻ったのか。この状況で俺はどういう得をしたのか、ぜんぜん分からない。まあ、成田から東京に帰る電車賃は確保されたということだ。出発ゲートには、あらゆる種類の土産物屋が軒を並べ、牙を剥いて、観光客を待ち構えている。外国のお札は、何かの札(ふだ)か、時々子供銀行券のように見える。100$が620KR前後である。算数が苦手な僕は、売っているものが高いのか安いのかよく分からない。ドル表示があると大方価格が推測できるが。日本銀行発行の1000円券で3日暮らせといわれれば、策を講ずる事はできる。経験上1000円で何ができて何が出来ないか、どこに行けば何を売っているか知っているからである。では1000KRで何ができるかというふうになると、頭の中がうすぼんやりしてしまう。何度もデンマークに来ているが、やはりまだ感覚的にクローナの価値を掴んでいないのだろう。そこを見て取った商人が、空港内にパラダイス的空間を演出し、あらゆる国の人々の、旅の浮かれ気分プラス、まあいいや的気分に便乗して、いらっしゃいませをしている。かく言う僕も、これらの商人に何回かつけこまれ失敗している。別に莫大な散財をしたわけではないが、つまンない物を買って、そのまま日本ではぜんぜん使わなかったりとか。しかし、このコペンハーゲン空港の商人達は、この空港のあまりにも優美なデザインに、無償の益を得ているといっても過言ではなかろう。ふと疲れて座る椅子なども、ポール・ケアホルム、ヤコブセンなどのものであり、待ち時間ということ事体が楽しめる。他の空港の殺伐とした印象に比べ、コペンハーゲン空港は、くつろげる空間である。採光を考えつくした窓のデザイン、機能的だが不思議と冷たい感じがしない椅子やテーブル類。これが贅をつくしたごてごてのものなら成り金趣味となってしまうが、高価ながら、これらのものは調度品の範疇におさまる品の良さをまわりに醸しだしている。憎たらしく思うほどの居心地の良さ。空港という機能第一主義の場所におけるこの心配り、則ちデンマークの豊かさと直結しているように思う。土産物はのもっぱらタバコしか買わ?。免税店で売っているタバコのパッケージには、「SMOKINGCANKILL」だの「SMOKERDIEYOUNGER」などとでかでかと表示してある。興醒めである。全ての無駄を無くし、全ての事が健全に行われる世界、そんなところ、タバコを吸をずとも息がつまるであろう、人間だったら。2時間も早く出発ゲートにたどり着いてしまった。近くのSMOKINGAREAに行き、出発までタバコでも吸いながらのんびりしようと思い、ある席に腰をおろした。2時間は長いが、ぼーっとしてればいずれ出発時間は来る。二日酔いも少し醒めてきた。SMOKINGAREAにいると、あらゆる人種の人々が、それぞれの国のタバコを吸い、それぞれのスタイルでくつろいでいる。最初に僕の前に座ったのが、イギリス人らしいおばあさんで、ミステリーの本を読みながら、ゆっくりとタバコをくゆらせていた。そのおばあさんのタバコのパッケージにも、「SMOKINGDIEYOUNGER」と書いてあった。おばあさんにそんな事知らせたってしょうがないじゃないか。そのおばあさんのタバコの吸い方は堂に入っていた。まず唇の端にちょこッとタバコをはさみ、さっと鼻から煙りを出す。ページをめくるごとにその動作はくりかえされ、多分このおばあさんは、本を読む時にはこういうふうに吸っているのだろうなあと思った。空港のスモーキングエリアでも、イングリッシュガーデンのまん中で、お茶の時間でも彼女の所作は変わらないだろう。ひとつの型があった。スモーキングエリアでの2時間は、このイギリス人風のおばあさんに限らず、世界中の人のタバコを吸う所作の展覧会のようであった。あるスカンジナヴィア系の中年過ぎの男性は、ゆっくりと、紙巻たばこを吸っていた。煙りを口のまわりに漂わすような吸い方で、目を細め、窓の外のあらぬ方向をじっと見つめていた。その目つきは、いやに黄昏れていて、生気も覇気もないその体からは、逆にタバコを吸う時間というものが、いかに貴重なモーメントであるかを指し示すがごとく、顔の真ん前を煙りだらけにしていた。イワン大帝みたいなロシア人が前に座った。タバコのパッケージの文字がロシア語だったから、かってにそう判断したのみで、もしかしたら、モスクワに商用に行った別の国の人かもしれない。品のいい手さばきで、タバコをすぽっと唇のまん中にくわえ、慣れた手付きでライターで火をつけてすっと煙りを吸い込んだ後、なかなか煙りを吐き出さない。しばらくして、口の端から上に向けて、濃い紫煙をすっと吐き出す。顎ヒゲをさすりながら、ゆっくりその動作をくり返していた。スモーカーの観察をしていたら出発時間となった。帰りたくないという思いと、帰りたいという思いが交錯する、なぜだろうか。ふと財布を開けると、コインで50KR残っている。50KRはお札に変えられるから、片っ端からそこいらの人に交換条件を持ち出した。「Ihaveabigfavorforyou」なんて言いながら作り笑いで、空港関係者にも聞いたが、誰も50KR紙幣は持っていなかった。前にも書いた通り、50KRが何円になるかはわからぬ、が、換金所でコインは受け付けぬ。金とはいったい何か?機内にて、かっこいいデザインのデンマーク製温度計を購入。全てコインで払ったから、これで差引ゼロとなる。東京が暑い暑いと、国際電話の向こうで皆が言うので、この目で確かめてやろうと思ったのである。

某月某日
帰国。温度が倍ある。湿度は倍以上であろう。昔の人は、暑さ寒さを感じないところを極楽と定義したが、日本はいったいなんなのでしょう。成田からJR鴬谷駅に降り立つ。成田からの車内で短パンとサンダルに着替える。デンマークでクールな事を成し遂げてきても、帰国すれば裸の大将だ。やはり帰ってくるのではなかった。家に帰らば15日分の雑用が待っている。一日の雑用を一日でこなすのも難儀だというのに。まず全てのスーツケース類を開け、洗濯するものは洗濯、電話をかけなければいけないところには電話をかけ、つまりとにかく何かやっていないと、気が狂いそうに暑い。逆に狂うことができればしめたものだ。パンツをずり落とし、小指を口の端にはさんで、そこいらをいざりとして徘徊すればよろしい。その方がなんぼか楽だ。どうあれ失うものはない。会社の課長がそれをすれば、会社をクビになるのみならず、社会的に放逐されるだろう。僕は平気さ。その体験でイイ曲を書いて皆に披露すれば喜ばれるという利点もある。日本人は自らの「型」を失って久しいので、俺は俺流に、俺に合った型をつくるのみである。後の事は大方知らんことにしていないと、ますますストレスが溜まる。投票は海外に行く前にちゃんと済ましたけれど、どこかの政治家が四国遍路の旅に出立したというニュースがいやでも目に入った。今は21世紀じゃないのか。これから何を精神のよりどころとして暮らしをたてたらいいんだ?この暑さは、そういう疑問を浄化する自然の力かもしれない。思考力が落ちるから。とでも思わなければ、帰国したという事実を受け入れる事も難しい。

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