某月某日
本日は横浜にて通常のライブを行った後、渋谷のJZ BRATでの深夜の仕事という、銀座時代以来の掛け持ち演奏の日であった。一時期ぼくは、バブル最盛期のころ、午後8時から12時半までの銀座の仕事のあと、六本木のクラブでピアノを弾くという日々を送っていたことがある。さすがに三ヵ月もすると、からだがガタガタになったので、六本木の方の仕事は辞退させてもらったが。(何しろ、その銀座の仕事自体が掛け持ちだったのであるから。)その当時の記憶がよみがえるような一夜であった。NEWSの欄にも書いたとおり、電脳魔術師、パードン木村氏との初のデュオ共演を成した。菊地クアルテットでピットイン、横浜MOTION BLUEで、名実共に「共演」はしていたが、今回二人だけでやるというのは、まったく新しい試みであった。彼の出すノイズ、彼があらかじめ仕込んでおいたぼくのピアノの音、その場で演奏したぼくのピアノのハーモニーやフレーズを瞬間的にループさせ,その上でぼくが同時に演奏する。これらの条件の上に今回の演奏は成り立っていたのだった。まったく新しい経験だった。予定調和をなるべく避けるように「ジャズ」という音楽を演奏しているぼくだが、この晩のパードン氏との共演は、予定調和を避けるという事さえ意識できないほど、瞬間瞬間に聞いたことのないサウンドが随所に現れ出て、即それに対応するという、なんともはやエキサイティングで面白い出来事の連続だった。演奏時間は三十分、この間に、このデゥオの関係を多彩なものにしようと、打ち合わせもあらかじめしておいた。前半はカオス、つまり渾沌とした、生のピアノの音とノイズとの絡み。中盤はぼくがあらかじめパードン氏宅で録音しておいたジャズバラードにノイズを混ぜて、自分の演奏の上で、自分自身と共演するという趣向。つまり聞こえてくる音は、腕が四本で同時に入り乱れた調べを奏でていることとなる。そして、後半はパードン氏の曲にぼくが合わせて演奏するという三段階システムで演奏にのぞむというお互いの意見の一致が先にあった。前半のカオス的混沌のなかでは、叙情的なピアノを弾いて、ノイズとの対比を際立たせようと試みたが、立錐の余地なく立っているお客さんたちは、何か激しい、脳天を突き抜けるようなサウンドを出してクレーと待ち構えている様子で、そのヴァイブレーションが痛いほどこちらに伝わってくるので、最初からがんがんとピアノを弾き鳴らせてしまった。中盤はバラードを主として展開するので、ここで一端落着いてッとなどと思っていたら、お客さんの方が、場面の展開に気付いて、またもや、何かきついの一発聞かせてクレー状態になったので、思わず、しかも再度、ピアノをがんがん弾いてしまった。残りの十分ほどは、ぼくもパードンさんもデュオをやること自体に慣れてきたところがり、絶妙な間合いをお互いが察知して音楽を組み立てられるようになったのだが、その頃はもうコンサートの終盤であり、二人とも演奏が終わっても微動だにしないという状態で演奏終了した。ジャズクラブとは違い、お客さんの反応が良い意味で演奏者に伝わってくるし、演奏後、色々な人から握手を求められたりで、ある意味この企画は成功だったと思う。いままで行っている通常のジャズサーキットに加え、こういう場所での演奏も増やしたいと思っていた時だったので、大変嬉しかった。ちょっと弾き過ぎたかなと思った所もあるが、電子音、ノイズに対するアコウスティック楽器の対応は、、少し弾き過ぎたかなというぐらいがちょうど良いのかもしれない。パードン木村氏という人物は、思慮深く、静謐で、背の高い、どこかの国立大学の国文学の教授のような容貌の人なのだが、彼の創造する音楽は、この見かけとは程遠い。何はともあれ希有な才人であることに間違いはない。この二人の関係を、もちろんパードンさんが望むのであれば、またぜひ一緒に演奏するというかたちで継続したいと思っている。この演奏形態には、限り無い可能性が含まれている。それは、下手をすると、ジャズでいう即興性を凌駕した、そのミュージシャンが元々持っているセンス、テクニック、アイデアが「ジャズ」以上に剥き出しになる点にある。正直に言っておっかない企画なのだけれど、自分でも気付いていない側面がフッと外に出てくるやもしれず、また、パードン氏にとっても、今現在、瞬間同時アレンジャーという役割に興味を持っていることが幸いだ。できれば回数を重ねて演奏してみたい新しいひとつのジャンルが、ぼくの仕事に加わった。
某月某日
えーみなさん、ただいま色々なことが同時進行中であり、これら多種のことがその色々なことに少しずつ、または大きく関わってきて、一枚岩とはいかず。こちらの都合、相手の都合、それらもからみあって、ただピアノが弾けるだけじゃ何にも出来ないということを思い知りつつ、この何年か懲りずもせず、面白そうなことを準備してきました。まず、順番を追ってこれからの活動の説明をしましょう。
一:井上淑彦氏と初めて中目黒のクラブ楽屋に出演のため、フライアーを製作す。
ここのアジアンフードはかなりうまい。もちろん井上氏の演奏もうまい。俺がお客で行きたいぐらいだ。
詳しくは
楽屋 http://www.rakuya.net/
電脳フライアー http://www.shinya.comm.to/live.html
二:ジプシー系ドイツ人のヴォーカリスト、MELANIE BONGと都内近辺にて短いツアーを企画した。知り合いの日本に住むドイツ人から紹介されたのだが、ブラジリアンのようなものも軽くうたいこなす、ちょっといい女である。(送られてきた写真を見ただけだけど。)声質がぼくの好みだったので、仕事をとってみた。
詳しくは、
MELANIE BONG http://www.melaniebong.de/
電脳フライアー http://www.shinya.comm.to/minami.html
三:ぼくがメンバーであるデンマークのQUINTETのリーダー,キャスパー・トランバーグと、演奏すべく、来る7月にデンマークに行き演奏する。
詳しくは、
COPENHAGEN JAZZ FESTIVAL http://festival.jazz.dk/start.asp?l=2
CDに関しては、http://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=118
尚、現地コペンハーゲンで、我々の二枚目のCDを製作も企画中。EWEがスポンサーとなる。
四:かえす刀でデンマーク軍勢を日本に呼んでツアーを企画中。
詳細は5月連休中にはっきりする予定。
一、二、三、四の項目の合間をぬって、7月発売予定の新しいアルバム、(仮題)「HIROSHI MINAMI TRIO WITH STRINGS/TOUCHES & VELVETS」のアレンジメントの成りゆき等、プロデューサー菊地氏と、今後のプロモーションの仕方などで、定期的に連絡を取り合っている。うーむ、改めてこう書き出してみると、劣等生であったぼくが、よくここまでなんやらかんやらやっているということが良く分かる。もうこうなったら俺、誰が何と言おうと、行くとこまで行かしてもらいやす。ぺぺぺんぺんっぺんのぺん~♪ぼくのいちばん好きな川柳をひとつ。「人の世は 地獄の上の 花見かな」(作者不明)お後がよろしいようで。
某月某日
本日は強制的に休日にすることとす。1月からまいてきた仕事の種が芽をふきだして、進むことは進む、進めなければならないことは強制的にも進める。どうしても進められない事柄はその時期を待つといった状態で、自分がやりたいことを実現するにはいろいろと大変である。これらの事柄にずっと張り付いていると、則ちそれらのことが実現するまで休みがないということに成り、だからこそ今日は、演奏の仕事も何もなかったので、休むことと決めた。休むと決めても、なかなか頭の切り替えがうまく出来ない。まず朝寝坊をし、新聞を買い、近間のカフェにてそれを読みながら朝から家から出ることにする。ぼくはある意味居職だから、家にいたら、これもやらなきゃいかん、あれもやらなきゃいかんと、休みではなくなってしまう。だから家の外に出るのだ。なぜか今日は朝からカラスが沢山カーカー鳴いていて、生暖かい空気がドロッと吹く感じの天気で、なにやら不穏な雰囲気が漂っている。消防車やパトカーのサイレンの音もひっきりなしに響いてくる。いったいどういう春の一日なのだろう。新聞はイラク戦争の記事でいっぱいだ。ぼくより信心深い人が戦争をしているということが、いまいち解せない。神様というものは本当にいるのだろうか。もし全人類が消滅した後にも神様が存在するのだったら、神様は悪ふざけが過ぎるし、全人類滅亡と同時に神という存在が消えてなくなるのであれば、なんだ、その程度のものだったのかと見くびってしまいそうだ。お巡りさんと同じに、肝心な時に神様はいないようだ。戦争をなくすには、全人類が死に絶えるしかあるまい。これが一番シンプルで、難しい答えだろう。だから止まないとも言える。どちらにしてもろくなもんじゃない。一日中新聞を読んでいるわけにもいかず、カフェを出る。こういう日ほど、無趣味であることが身にしみる。映画を見に行くことにした。つまらない映画だった。まず映画館のなかの空気がひじょうに濁っていて、居心地が悪かった。映画の内容も、期待したほどのものではなかった。後はどう過ごせばいいのだろうと思いながら渋谷の街を徘徊。気がついたらビールを呑んでいた。戦争もろくなもんじゃないが、ぼく自身もろくなもんじゃない。休日というものをまともに受け止められない。だからビールを呑むぐらいしかやることがない。別にビ-ルを呑むことがことさら低級なことなのではない。他にやることがなくて、ぼーっとしながら呑んでいる所に、何か満たされない気分があることが、問題だなあと思いながら呑んでいることが問題なような気がする。映画は、中年男の淡い恋を描いたものであった。共感もできたが、できない所も同時にあり、ナンダ、こんなことだったら日々充分感じておるわいという内様だった。というか、普段感じていること以上に映画の内容のフィクション指数が高かったから、あんまり楽しめなかったという感じだ。前回見た映画、「ラストサムライ」も面白くなかった。要するに、インディアンが侍にすり変わった西部劇ジャンかと思った。明治政府に対抗する侍の隠れ家である山奥の村も、どうも日本の地形ではないと思いつつプログラムを買わずして盗み読んだら、オーストラリアでロケしたと書いてあった。もうこうなると、好き嫌い面白い面白くない以前に、しらけた気分となる。これいじょう渋谷にいてもしょうがないというしょうもない理由で東横線に乗る。明るいうちから呑んだので、電車に乗っていること自体になんとなく違和感あり。呑んで電車に乗るのは普段、暗くなってからだから。家で自分で調理する。夕飯を終えた後、近くの数少ない友人が来た。こちらはワインを呑んでおり、友人は焼酎を持ち込んだ。酔っぱらった上での世界情勢談義がはじまり、ああでもないこうでもないとしゃべっていたら、午前1時となった。友人も酔っぱらって帰っていった。一人残り何かしら悲しくなってきた。こんな所で世界情勢について自己の意見を述べても何も変わらんじゃないか。況んや、今日一日の過ごしかたはいったいなんなんだ。使ったお金5千円程度。精神的にも肉体的にも有意義という観点からは程遠いような気がしてきたら、やるせなくなってきて、映画鑑賞の後買った色川武大著「いずれ我が身も」(中央文庫)を読み始めたら、やっと気分が落着いてきた。雨がふってきた。
某月某日
タワーレコードへCDを買いにいったら、ちょうど本日が、菊地成孔氏の新譜、「デギュスタシオン・ア・ジャズ」の発売日であった。ぼくも参加しているから、大変うれしい。(詳しくはhttp://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=441)5階のジャズコーナーは菊地氏の宣伝一色で、良い徴候である。タワーレコ-ドの出している小冊子、museeに菊地氏のインタヴュ-が載っていて、ぼくの言いたいこと、考えていることを、彼はいともたやすく、しかも理論的合理的かつおもしろおかしく言い当てているので、今日の日記は書くことがない。ぼくの言いたかったことを、菊地氏はmuseeに全部しゃべってしまった。胸の空く思いである。目出度いこと目出度いことこのうえない。
某月某日
しばらく人前で演奏する機会がなかったが、今週の日曜と月曜、二日間続けざまにに新宿ピットインで演奏することになっている。日曜がサックス奏者、井上淑彦氏のグループのメンバーとして。そして月曜が同じくサックス奏者の津上研太氏のメンバーとして。双方同じサックス奏者だが、下世話にいえば芸風その他、これまたまったく内容を異にする。しかし同時に双方ともやっている音楽がジャズなのであるから、メンバーとしてこの二人の音楽を理解し、サウンドを抜群なものにもって行く醍醐味は、内容を異にするからこそ楽しい。井上氏との出合いは、もうかれこれ4~5年前に遡るだろうか。どういうわけか、井上氏がぼくがリーダーとしてやっているグループ「GO THERE !」のおっかけをしていた時期が一時あった。学生時代からそれこさ新宿ピットイン等で井上氏の演奏を聞いていたぼくとしてはとても嬉しいことだった。少なくとも、ぼくのやっていることが好きでなければ何度も聞きにはこないだろう。そうこうしている内に、ぼくの方から一緒にやりませんかと持ちかけたわけである。この持ちかけは良い結果をもたらせた。まずこの国に於いて五指に入るすばらしいサックス奏者の後ろでピアノをひく機会を得られたのである。もうこの国のジャズの中で風化しようとしているエレガンスとダンディズムを体現している人である。音楽のみならず人間性に於いても。ぼくなど想像だにできない数多のグループで演奏し、いろいろな経験もし、この業界の酸いも甘いも噛み分けてけているはずなのに、そういう長老的態度はまったくぼくのような若年者には見せない。クールである。カッコいいなと思うのである。演奏中に於いていちばん触発されるのは、井上氏の音楽に向き合う方角とでも言おうか。ぼくにはそれが直線的に見える。もうこのコーラスで井上氏のソロは終わりダナなどと思っていると、また次の波が、彼のサックスから放射される。一ッ直線である。前にも書いたとおり、井上氏は長老的態度は微塵も見せない。ただ一言だけポロッとぼくに言ったことがある。ジャズは全身で聴くもんだ、と井上氏は言った。その時はぼくと二人だけで向き合っていた時か、楽屋かなんかで、他のメンバーもいて雑談などしている時だったか、その一言を聴いた状況はまるっきり忘れてしまったが、その一言だけが、いまだに楔のごとく、ぼくの心の中に埋まってしまっているのである。深く考えてみれば、ひじょうに形而上的な言葉であるが、そこには理屈抜き、掛け値なしの真実がある。なぜならあの井上氏が普段言わないようなことをその時ポロッと言ったからだ。全身で聴く。全身で聴く。全身で聴く。といつもぼくはお題目のように唱えている。自分の調子が悪い時など特にである。バカの一つ覚えかもしれないけれど、その一言に凝縮した智恵と概念の広がりは良い意味で重く、逆に言えば、全身で聴いている人と共演していると言うことでもある。井上氏のエレガンスの上にこの言葉が成り立っている、ということが、この言葉の重みを更に意味深いものにしているとぼくは思っている。津上研太氏のことも書こう。彼との出合いは井上氏と個人的に知り合うよりもっと前で、ぼくがアメリカ留学前からの顔見知りであった。ピットインの昼の部にぼくのグループが昇格した時など、知り合いの竹野を通じて遊びに来て、何曲か一緒に演奏したりしたこともある。その後、ぼくはアメリカ方面に6年ほど消えるので、彼との親交も自然となくなった。3~4年前のことだったか、とあるクラブでセッションを組むこととなり、ベースに水谷氏、ドラムに外山明氏、そしてサックスに津上氏を呼んだ。このメンバーが揃えば面白いに違いないと思ったからだ。実際一曲目から、この4人は、あたかも何年も演奏してきたバンドのように、サウンドナイスでグルーヴしやがった。その場で津上氏はこの4人でバンドをつくると宣言した。グループの名前はBOZO。有名な野球選手だった彼の祖父のあだ名をそのままバンド名にしたと言う次第。いままで色々なミュージシャンと演奏したり出会ってきたりしたが、津上氏はある意味でひじょうに、そして良い意味で異色である。ミュージシャンと言うものは、これは多分にぼくの偏見も混じっているかもしれないけれど、一種独特の影があると思う。ぼくが影だらけだからそういう独断と偏見に満ちた意見を言えるのかもしれないが、とにかく、津上氏は良い意味で明るい。性格というものがものすごく輝いている。もちろんそれには彼の生い立ち、両親の影響などもあるはずだが、それにしてもだ。この明るさはこの業界の中で、良い意味をもってして稀有である。自然と、彼の書く曲も明るい。別にダークな部分がぜんぜん無いと言っているのではない。彼の性格、音楽の明るさの比率が、他のものを圧倒していると言うことだ。少なくともぼくには彼の音楽がそうであるように思える。もちろんのこと、音楽はちゃんとしたジャズであり、ぼくに、音楽の新しい側面を披露した大切な仲間である。このまま彼の音楽性が発展をとげ続ければ、ひとつの新しい日本のジャズの側面足りうるとぼくは思っている。と、こう書いてみれば、この二人がいかに、そして良い意味で芸風を異にしているかと言うことがお分かりかと思う。異にしているという言い方もあてはまるが、これはジャズという音楽の間口が広いとも解釈できる。この二日間のピットインでの興業、扱う楽器は一緒だが、音楽の内容はおびただしく違う 二人と共演する。しかしぼくはぼくで、二人の後ろで、ぼくのピアノを弾くのみである。それが彼らにとっていちばん好ましいことだと信じつつ。
某月某日
雑事をこなしてから、散歩の後練習しようと、中目黒川に桜の咲き具合を見に行った。ぶらぶらと坂をおりて中目黒方面に行ってみたら、平日の午後というのにもかかわらず、大勢の人が桜見物をしていてびっくりした。なかには、サラリーマン風の家族連れが記念写真などを撮っている。この時間、自由にできるのが我が職業の特権である。にもかかわらず、その特権を乱用している一般人のあまりの多さに辟易として散歩は急遽中止とす。暗くなるまで鍵盤の前で苦行をして後、夜10時過ぎに友人と再度目黒川沿いをそぞろ歩きした。薄暗いので人出はあまり気にならず。みなそこいらにビニールシートなどを敷いてかってに酒をのみ盛り上がっている。桜の方は七分咲きといったところか。もう少し鍵盤の前に居座っていたかったのだが、いかんせん耳が疲れてしまった。目黒川沿いの居酒屋及びレストランは大変な盛況で、なので大変うるさく、その中で食事をする気力はもう残ってはいない。しかし、新しい曲のアレンジのアイデアがどうしても頭から離れず、耳が疲れているとは言え、そぞろ歩きも気もそぞろといったところで、夜桜の枝を見上げても、頭の中では音楽のことばかり考えている。先日風邪をひいた時、行きつけの町医者が、運動する時間がないのだったらせめて散歩だけでもしなさいといった。こちとらそんなこたあ百も承知である。だからこうして夜桜を見たり、最近なるべく散歩するようにしているのだが、別にこれといった体調の変化は無し。夜も眠れず。2時間も歩けばくたびれて練習そのものがおろそかになるおそれもあるので、そんなに長くも歩かない。健康のため歩くというのもなんだか間が抜けているような気がする。余談だが、僕の祖母は何と1900年生まれで、今年で104歳になる。御多分にもれず、祖母の脳はあたかも、8次元の世界を万華鏡で眺めて、それをフィリップ・K・ディック的観点で言語化しているようである。歩いて健康を保ち、長生きして何になるかとも思うし、実際、いま死ねといわれても、ヘエ、そんじゃここいらでと、それこさ目黒川に頭から落下することもできない。すべて何もかも無駄で無意味に思える。散歩にしても、家を中心として四方八方歩いてみたが、もう歩きつくしてしまった感もあり。何も新鮮な感慨もなくただぶらぶら歩くのみ。ただこの時期は桜が咲くというだけで中目黒の方に足を運ぶことが多くなっただけである。だからまあ、残念ながらというか、天の邪鬼というか、ビニールシートを抱えて川沿いに行く気もしない。坂口安吾の小説に、「桜の木の森の満開の下」という名作がある。これを読めば花見など逆に僕にとっては無用な気がする。といいつつ、往来の中の一人がこの僕である。何も起きない夜の、気の抜けた、締りのない、そしてだらしのないなんとはなしの夜桜見物であった。
某月某日
本日はパーティーの仕事で横浜のさる高級ホテルでピアノを弾いてきたのであった。窓からみごとな横浜湾の景観を眺めつつ30分の演奏を二回でけっこういいギャラが出た。まあ、こういう日良き日もあってもいいと思うしかない。みなとみらい線ができたおかげで、横浜のウオーターフロントも、近づいたか感あり。みなとみらい駅も何だか巨大で、ホテルに向かう間のショッピングモールもアメリカ並みで、あらゆる種類の店がひしめいており、これはいくら金を持っていても散財せずにはいられないというしくみになっているようだ。ショッピングモールの天上が高いのは良しとしても、どこに何があるんだか分からないほどの店鋪の多さに、まるでオノボリサンさながらの気分であった。桜木町の駅がなくなり、横浜湾側の開発及び人出が激しくなったのであろう。大勢の人達が、案内図をのぞきつつぞろぞろと歩いていた。数々の高級ホテルと、ショッピングモールに精通するには、かなり時間がかかりそうだ。しかし、横浜の良いところは、東京のようにだだっ広くなく、地域を限定して楽しめるところにあるのだろう。これからの発展が楽しみな場所でもある。こういう場所や建物を見え入ると、何がどう不況なのかしらと思わざるを得ない。人が大勢いたって、あれだけの店鋪に金を落とす人が何人いるのだろうか。パーティー開場では普段食べられないメニュウを少しつまんだ。それだけではたりなかったらしく、帰宅後夜中に腹が減ってふと外に出てみたが、日曜日ということもあって、どこも空いてりゃしない。カラスの声が空の向こうから聞こえるのみである。不眠症がまた顔をだし、薬を飲んでも寝られない。中目黒方面に行けば何かあるかと思って歩いていったが、僕の嫌いなチェーンの居酒屋までしまっていた。まあ、しょうがない。午前4時を過ぎているのだから。いかにこの国が便利だとしても、この時間に飲み家が朝方まで繁昌していれば、それはそれ、全ての終わりが近いことを意味する。明け方にはまずカラスが鳴いてから、雀のチュンチュンという鳴き声がはじまる。その声を聞かぬ内に睡眠にはいらなければ、翌日の脳の動きは活発とは言えない状態となる。急いで家に帰る。
某月某日
また夜中に目覚める。午前4時である。3時でなくて良かったと思うしかない。昨日は日がな一日ピアノを弾いていた。なんと練習しなければならないことの多さよ。楽しいながらも苦行である。雨のため散歩も中途半端となり、中目黒の桜並木も、四分咲きといったところか。いつもの散歩コースを雨のためスキップすることにして家に帰る。運動不足である。気鬱でもある。次回のCDの件でEWEの担当者と先日会った。ストリングスアレンジメントが遅々として進まず、たぶん発売は6月に繰り越されるであろう、ただ待つだけの毎日というのも疲れるものだ。ぼくが物書きだったら、途端に放浪の旅にでるであろう。原稿はファックスなどで送れば良い。家のまわりの風景にも見飽きたが、かといって東京の中心部の雑踏へ行き先もなく足を踏み入れるのも気が引ける。こういう時期はじっとしているのが得策と思い、実際じっとしている。じっとしていられるということ自体豊かな社会だとも言えるかもしれないが、心は何か満たされないものでいっぱいである。もっと演奏がしたい。
某月某日
ドリフタ-ズのリーダー、いかりや長介氏が亡くなった。とても悲しい事実である。否、悲しいというより、侘しいといったほうが今のぼくの気持ちには近い。小学生のころ、「8時だヨ、全員集合」を毎週見ていた。その頃は、世田谷の団地住まいで、典型的な高度成長期でもあって、なんだか世の中がいい意味でワサワサしていた。そのワサワサ感に輪をかけて、基本的な意味でテレビ番組というものを楽しんだのが、この「8時だヨ、全員集合」だった。今ある番組では考えられないほど凝った趣向が毎週披露され、テレビ画面から、ドリフタ-ズの動きが飛び出さんばかりの勢いであった。小学生だったぼくは、それをあたりまえのように見ていたのであるが、いまこうして大人になって番組を思いかえすと、あの番組を毎週作るということについて、並み尋常でない準備が必要だったということがわかる。いかりや長介氏の著書「だめだこりゃ(新潮社)」は、何度も読み返した。ドリフターズも元々ミュージシャンであって、時代こそ違え、みな四苦八苦して生き残る道を探ってきた先達である。話は前後するかもしれないが、毎週土曜日の夜くりひろげられるメッチャクチャなアクションに、ある意味一週間というのサイクルの句読点をこの番組によって感じていたのも事実で、偉大なショウであり番組であったと思う。何しろ面白かった。本物のビッグバンドを使っているところも子供ながらに豪華に見えた。何もかもが活き活きとしていた。ぼくの家はくだけていたのか、家族全員で「全員集合」を見て笑っていた。良き時代である。シニシズムとか、テロリズムとか、オゾン層とか、温暖化とか、戦争とか、核の問題など考えなくても良い時代に、いかりや氏は、我々に最高の娯楽を提供したのである。これはぼくにとって、とてもとても重要で感謝すべきことである。いかりや氏のおかげで、良き子供時代の一端を過ごせたのであるから。いかりや氏のおかげで、楽しい子供時代を過ごすことができたのでもあるから。むかしは良かったと言ってばかりいては、先に進むこともできまい。しかし、人はいずれ死ぬというこが痛いほど分かっていても、やはり一時代、何かが終わり、何かがはじまるのだろうというところへ来たようだ。そう考えなければやりきれないほど、いかりや長介氏の死は、ぼくにとって悲しく、侘びしい出来事である。もう一度、子供の心で全員集合が見たい。
某月某日
菊地氏、我が家に訪ねる。遠方より友来る、また楽しからずや。と気どりたいところだが、彼の住まいは自由が丘なので遠方とは言えまい。ただ、お互いの住まいの距離とは別に、彼の多忙さを考えれば、遠方より来た感あり。この夜は、菊地氏プロデュースである我が新譜のタイトルについての打ち合わせであったが、まだトリオ演奏にかぶせるストリングスのアレンジが完成しておらず、タイトルはそれらが完成し試聴した後、新たに考え直すということになった。その後はぼくも参加している菊地氏の新譜、 「デギュスタシオン・ア・ジャズ」「シャンソン・エクストレット・デ・デギュスタシオン・ア・ジャズ」を聴きつつ、男同士の楽しい夜ふけとなってしまった。このアルバム、名作という前に、(もちろん名作には違いないが、)力作であり、彼の横溢たるイマジネーションと、彼の思う「ジャズ」への、あたかも野口晴哉著作の、整体入門にうたわれている人体の自由さと不思議さを模作するようなエナジーが全編を覆っているという、とてつもない内容でできあがったアルバムである。日本のジャズへのアンチテーゼというには、あまりにも比較の比重が軽過ぎ、軟弱に見えるほどの充実感と豊富さもそなえている。これが世に出た後、何がどう変わるかはいまのところ分からないが、菊地氏はこのアルバムによって、ひとつの新しい、日本のジャズシーンに対する岐路を指し示したということは確かな事実として残るであろう。また、そうでなくては、我々の求めていることに対する居場所がなくなること必須である。我々と書いたが、もし賛同するものなくしても、少なくともぼくにはそうだ。(詳しくはhttp://www.ewe.co.jp/titles/detail.php?tid=441)