時は淡々と流れすぎてゆく

某月某日
前回の日記に書いたごとく、時は淡々とながれ過ぎてゆく。本日は風が強く、ピアノを教え終わった後、菊地氏に紹介された某レストランへ行く。道中が冷え込む。月に一二度の贅沢は自分の、まあ名実共に肥やしである。居心地よく、料理もよく神経が行き届いた場所で、客層も悪くない。久しぶりに美味を堪能。過日、愛用のジッポーのライターをなくす。新しいものを買うため、用事を終えシブ地下にある喫煙道具店に行くと、もう半分シャターを閉めはじめていた。週末の人込みが地下道にワ~ンといった妙な反響音を出していて、どちらにしても長居は無用。無理やり店内に入ると、むかしは何か粋筋の仕事をしていたらしい店長が、もう閉店まぎわだというのに、ゆっくり選べといって、ひとつひとつ、ジッポーの形状や、特徴などを説明してくれた。これには買わないわけにも行かなくなり、前回持っていたものとは違い、全体が銀色ですべすべした、角に二本斜めに線をあしらったデザインの物を購入した。最近二回ほど連続してジッポーをなくしているので以後気をつけるつもり。ふたをあける時の音が、種類によって違うのは知っていたが、今回のものは、手ごたえとよい音とよい、いままで持ったもののなかではベストのものだ。過日、一日中ピアノを弾き作曲していたら、夜10時を過ぎに、近くに住む友人から焼き鳥を食べに行こうとの誘いの電話を受ける。練習ももう潮時かと思い誘いに応じる。頭のなかが思いっきり世間離れしている感じがしたので、熱い風呂に入ってからそのなじみの焼き鳥屋に行くこととす。焼酎お湯割り2杯めあたりから入浴効果抜群で、とにかく燃費よく酔って、その友人と夜道を帰る。少し足がふらついた。こんな経験は学生時代以来である。過日、朝早くからの用事をすませ、雑務をこなしながらその合間を見て、練習や作曲をしていたら、夜11頃になって、近来稀に見る健康的な睡魔に襲われた。導入剤を飲んで眠くなるとか、そういう人工的な眠気ではなく、快い疲労感からくる眠気である。何と充実した一日だったかとベッドに入り熟睡。どのくらい経ったのか、いきなり真っ暗闇でパチリと目が醒めた。窓の外が少し明るければ幸と思いつつカーテンをあけてみたが、まだ夜のようである。おそるおそる時間を見ると深夜午前3時前とわかった。週に何度かあるこの状態には辟易とする。こういう場合、なぜだか部屋のかたずけをするとか、仕事の先を進めるとか、そういった方向に頭が動かない。ぼんやりしているのに、どこかの箇所の脳みそがだけが猛烈に回転しているようなアンバランスさに襲われる。これはこういう状態になった人にしかわからないものだと思う。しかたなく、平成枯れすすきではないが、酒を売っている近所のコンヴィニエンスまで、鼻をすすりながら、徘徊するようにたどり着き、安酒を買う。こんなにひどい悪循環はまず無かろうと分かっていても、何か飲まなければ、脳内の、ある一部の猛烈なる回転のようなものはおさまらない。坂口安吾の妻ではないから、深夜薬局のシャッターをがんがん叩き、開けて下さーい、眠れないんですというわけにも行くまい。何しろ時代が違う。とにかく酒とともに家に帰り一息つく。ここで、深夜の静寂を利用して、人生だの、音楽の事だの考えはじめると、またさらなる悪循環に陥るのは経験上分かっているので、手近にある文芸春秋などを読む。社会面などで面白い記事もないではないが、経済の特集となるとお手上げである。それでもわからないながら読み進める。

某月某日
会う人ごとに、次の新作はいつ出るのかと聞かれる。例の、オラシオ「エルネグロ」エルナンデス(DS)とカーロス・デル・プエルトとのピアノトリオに、ストリングスオーケストラをかぶせるという趣向のものだ。このWEBのニュースの欄にも情報を載せている。しかし、これがどうもアレンジャーの方が、四苦八苦しているようで、まだアレンジが完成しておらず。当初5月には新作発売の予定が、5月以降に遅れることになりそうである。このアレンジャーの方は大変優秀な人であり、仕事がであるからこそ時間がかかっていると思うのだが。今年9月には我が盟友、デンマーク人のキャスパー・トランバーグ(COR)を日本に呼んでツアーする計画もたてている。ほとんどの仕込みは終わり、後は先方の方で、ぼくの与えた情報を元に、スケジュールやらなんやらの調整をしているところである。ということで、色々なことを待っている身となってしまった。忍の一字というところか。急いては事を仕損じる。これらの事と同時進行で、次回のGOTHERE!ダブルコンサートに向けて曲も書いているが、これも、音が出るまでは、海の物とも山の物ともつかぬ。自信無気な言い方だが、だからこそ演奏自体が面白くなるのであって、あとはその新曲の割り振りを考慮するのみ。待つのも忙しさの内なのか。いずれにせよ、これら待っている事柄が、3月後半あたりから答えが出始めると、怒濤のような忙しさが襲ってくるのは間違いなし。どう切り抜けるか。じっと待つ身には想像もつかない。

某月某日
3月9(火)10日(水)と、我がメインのグループであるGO THERE が、見てのとおり連日演奏することとなった。9日は横浜DOLPHY,10日は、新宿PIT INNである。普通仕事をとる時は、ある意味で日にちのヴァランスを考えるようにしているが、今回はなぜか、ダブルコンサートとなってしまった。関東平野をツアーしているような感がある。違うのは、ホテルに泊まらないということと、終電を気にしなければならないとうことだ。DOLPHY, PIT INN共々、色々な思い入れや思い出のある場所である。ということは、双方とも長いあいだ新宿と横浜という場所で、頑として動かざる空間をミュージシャンに提供してきたということである。最近の横浜は、みなとみらい線が開通したこともあって、横浜湾側の方がいっそう華美に見えるようになってしまったが、ぼくが駆出しのころ、横浜という街は、いまよりももっと、一種独特な雰囲気を持っていて、その空気が残っているのは、じつはDOLPHYのある宮川町方面である。東京とは違う猥雑さのなかに、なにかしらどうしても横浜の地にしか持ち得ない息吹のようなものが、まだDOLPHYのまわりには残っている。ジャズクラブDOLPHYは板張りで、少なくともぼくが共演したことのあるサックス奏者は、マイクを通さずとも得られるアコウスティックな響きに、みな好感をよせている。サックスにかぎらず、他の楽器の音もよく通るスペースである。食べ物も美味しい。同じ曲をDOLPHY,PIT INN とも演奏することになるだろうが、ぼくの曲がある種の雰囲気をかもし出せても、ジャズクラブDOLPHY自体、またそのまわりの本当の「ヨコハマ」が持つ雰囲気は、創造し得ない。いわんや、その独特な雰囲気に包まれて、どう演奏が変化するか、当事者ながら、楽しみなぐらいである。連日同じ曲を演奏することになるとしても、演奏する場所、ピアノのコンディションなどなどで、当然我々の音楽に対するアプローチは自然に変化をする。ピットインといえば新宿と、一種季語のように、少なくともぼくの頭のなかでは自然と反響してしまうほど、この場所に対しての思い入れは深い。このクラブの住所は新宿区新宿であり、新宿という、この語感が示すジュクという響きが二つも入っている。自然と、新宿の奥の方のジュクジュクした粘った雰囲気が、このクラブに何かしらの影響をおよぼさないはずはない。極端なことをいえば、PIT INNが田園調布にあっては困るのである。新宿PIT INNの入り口にさしかかるまで、我々プレイヤーは、充分と、この新宿のジュクジュクした外周を目の当たりにしなければならず、田園調布駅からクラブの入り口をくぐるのとはまた違い、何かしら総身が無意識の内に毛羽だっていたりする。少なくともぼくはそうで、このジュクジュクの突端というところがまた、かっこいい音楽をやるには最高のロケーションなのではないだろうか。新宿PIT INNでのステージ、もしくは音響のことに今さら触れることもなかろう。日本のミュージシャンのみならず、あらゆる国のビッグスターが、このステージの上で名演をくり広げ、不肖南ヒロシもその一端を担っている、と言うか担わせてもらっている。うれしいことではないか。我がグループ、GO THEREも変革の時をむかえつつある。今回のダブルコンサートでは、できるだけ新曲でのぞみたいと思っている。偶発した連日の演奏の機会を、充実したものとしたい。

某月某日
先日、ピットインにおいて行われた「佐藤充彦トリオ」を聞きにいった。共演にはもう既にぼくの次回作のレコーディングにつきあってくれた、ドラマーのオラシオ・エルネグロ・エルナンデス、べーシストのカーロス・デル・プエルトと、斯界の達人佐藤氏の組み合わせである。これはぼくがいかに出無精でも、ドアのカギをそっとかけて外出するしかない組み合わせであろう。演奏は意外に落着いた雰囲気で行われていた。何も特別ぼかすかやらなくても、音楽は成立する、と前から思っていたが、その典型のような演奏だった。しかし締めるところはちゃんと締め、良いコンサートだった。やはりドラムのダイナミックスが音楽の要だと思った。世界は広いな大きいな。突然気が狂ったようなコメントだが、彼らの音のなかには、太陽を思いっきり浴びて育った光の栄養素のようなものがピカピカ光って見えるようなサウンドで、それは曲調がマイナーであろうがメージャーであろうが変わらない。実にステキな演奏だった。佐藤さんもうれしそうであった。我が血には、ワビサビとか、谷崎潤一郎の言うところの陰影礼讃とか、梅雨の時期の湿気とか、この国土に育った土壌から受けた何がしかの影響があり、怨念、恨み、心中、といった感情は、歌舞伎の土台で、我が祖先が、ほんの一世紀ほど前まで持っていた独特の感覚である。オラシオ、カルロスのあっけないぐらいに明るいサウンドに、ぼくの神経はぴりぴりとした。しかし、彼らのそのあっけない明るさの裏には、とてつもない郷愁がこもっていることも事実である。この共通点なくして、少なくとも、ぼくは彼らと共演することは無理だと思う。しかし、この郷愁は、日本のじめじめした風土がもたらす左記のような感覚とは対照的だ。「ヴエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」という映画で、初めてキューバという国の街並などを見た。オラシオ、カルロス共に元々キューバ出身だ。映画のなかに出てきた高齢のピアニスト、ルベーン・ゴンザレスの演奏や言動にも感動したが、いちばんぼくをひきつけたものは、キューバの街並と、その街路に短パンで立っている若い衆から子供、老人が、みな余裕の表情を見せ、何とはなしに一人云々に存在感があるというその事実だった。彼らのようなプレイヤーが母国を出て帰らないということは、それなりの事情があるのだろうが、基本的に、空気を吸って、この地球に生きているという観点からものを見れば、日本とキューバは、いったいどっちが豊かなんだろうか。のんびりするという観点と、物事の厳しさという観点が、まったく逆の世界なのではないだろうか。その観点から音楽を始めると、ピカピカサウンドの裏に郷愁を含んだ、誰をも感動させ納得させるサウンドができあがるのかもしれない。キューバに行ったことがないから、これはすべて憶測でしかないけれど。でもみ~んなジャズが好きということには変わりない。第三時世界大戦をおこす土台をつくりかねなかった国でもあったにもかかわらず。

某月某日
忙しく一日を終え、何とはなく菊地成孔氏のサイトを見たら、僕の好物が、テンプラ蕎麦というふうに書かれていた。そういう会話をいつかしたかなあと彼とのつきあいの長さをを思った。然もあれ、まさに好物のひとつはテンプラ蕎麦でである。注文が入ってからテンプラを揚げてだす店は高級店である.天麩羅をどんぶりに入れ、その場ではいよとだされたテンプラ蕎麦はさすがにころももがさくさくとしている。そばつゆにひたっていない部分とひたっている部分を競ぶれば、ちょっと汁につかっている部分から、口のなかに半分海老の天麩羅などをくわえこみ、もしゃもしゃと味わう。もちろん最初につゆをぐびっと口に含んで味わってから後の行ないである。つゆにひたっていた部分とそうでない部分が陶然と口のなかで混ざりあう。これがテンプラ蕎麦の第一の醍醐味。後七色を少しかけ、つゆ、蕎麦、つゆ、天麩羅の変型二拍子をかたくなに守らず連動させ、すかっと席を立った時の汗の状態により、季節感も肌で感じることができる。浅草某庵では、海老のしっぽがどんぶりから飛び出すぐらいでかく、また注文されてから天麩羅を揚げるのがうりの場所がある。ちょっと前まではわざわざそんなところまで足をのばしたものだが、最近は極度の出無精と多忙のため、食味紀行などというオツなことする時間すらない。ふたたび然もありなん、近所の蕎麦やでのベストワンを探す結果となる。海老の天麩羅意外に、ワカメなど添えてだす店があるが好きにはなれぬ。茄子の天麩羅がそえてあるぐらいなら許せる範囲だ。ひどいところになると、ころもばかりがばかにでかくて、なかの海老が四分の一に切られていたという蕎麦やもあった。ちゃんと海老のしっぽはついている。じゃあどうやって四等分するのか。しっぽも四で割ってンのかなあア、あいうソバヤは。やはりずぶとい海老が一本、かりかりのころもに包まれて出てくるのが理想である。僕が天麩羅好きとのたまった菊地成孔氏と、来る2月14日、横浜の老舗ジャズクラブ、AIREGINにてDUOで演奏する。テンプラ蕎麦好きと、正真正銘の味覚通の対決である。

某月某日
これは僕が銀座でピアノを弾いていた頃の話だ。銀座でピアノを弾き初めて1年ぐらいたつと,立ち振る舞いがその界隈の男達のそれと同じになって来る。クラブのユニフォームであるダブルのスーツも,入店が決まった時バンマスと近くのテーラーにいって新調したものだが,最初は全然似合わなかった。鏡に写った自分の姿を見て笑いをこらえていると,鏡の後ろでついて来たバンマスが爆笑していたほどだ。しかし一年もたつと,黒いエナメルの靴から,キンピカぼたんのダブルのスーツまで,体の一部のように着こなしている自分を見て唖然としてしまう。銀座通りから,日航ホテルの裏あたりにかけての一帯を,そのカッコでタバコを吸いながら,少しつま先を投げ出すようにして歩くと,もう立派な銀座のバンドマンである。話す言葉の語尾もはすっぱになり,太陽光線をあびているより,銀座界隈のネオンの明りをあびている時間の方が長くなる。誰もが僕を,近所のクラブのママを含めて,クラブRのピアノの先生として認知するようになっており,どこへ行っても「ハヨーゴザイマース」と一言いえば,大方の事はゆるされる状況が,その銀座一帯には用意されていた。その当時,ちょうど86’年から89’年頃,俗に言うバブルの絶頂期であり,銀座界隈は,それまでにまして大勢の人達で賑わっており,僕が後年住むことになるNYなどよりも,はるかにある種の活気に満ちていた。僕がピアノを弾いていたクラブRは,その中でもダントツに女の子の質がよく,料金も最高だった。最初は腰かけのつもりで銀座の世界に入った僕だったが,無意識の内に,妙なプライドが芽をだしていて,僕はこの界隈で最高の場所で演奏してるんだなどと思うこともしばしばあった。実際その界隈でしのいでいるミュージシャン達は,戦後はやったハワイアンからこの世界に入った人達が多く,音大出身で,少し深く音楽理論に長けているというだけの僕でさえ,ちやほやされてしまう土壌がそこにはもともとあったのだ。銀座の店で演奏する機会をえたのも,もう今は忘れてしまったが,誰かのサブで出かけて行ったのが最初であった。そのときに,その場所のバンマスにいたく気に入られて,ハコにはいる話が持ちあがったのだった。その当時僕は印刷やでバイトをしていたので,ピアノを弾いてお金をもらえるならと,二つ返事でOKをだしたのだが,半年ばかり後,同僚のべーシストがかけ持ちしている先の店のピアニストが倒れて,僕の所にもかけ持ちの話が舞い込んだのだった。そしてそのあたりから,僕の生活が180°変わりだした。実際普通のサラリーマンの月給の3倍稼ぐように成ると,いかにミュージシャンとは言え,最初のうちは目の色が変わる。しかし,マトモな神経の持ち主ならば,俺は本当にこのままでいいのかという,根本的な問題に突き当たる。逆に見て,銀座でかけ持ちをするようになると,これは外国に留学する資金をためるのも不可能では無いと言うことも見えてくる。だが,留学するためだという名目で日夜ピアノを弾いていても,鏡に写る自分の姿を見ていると,ユニフォームがやたらいたについてきて,タバコの吸い方まで,ミズっぽくなっている自分を見てまた唖然としてしまう。銀座一年目という時期は,そういう時期でもあったのだ。けっきょく銀座では,3年ばかりピアノを弾いていたのだが,時間がたつにつれて,自分の変化と現実の谷間での葛藤が増してくるのである。実際,我々の心の中には天使と悪魔が共存しているものだが,その当時,その二人が同時に僕自身に囁くのである。悪魔がこう言う。「なあ,もういいじゃんか,難しいこと考えなくてヨウ,好きなことやって,いっぱいお金がもらえて,毎週末普通の勤め人が食えないようなウマイもの食ってサア,何が問題あるんだよ。人生気楽に行こうぜ。」別に悪魔の声といっても,ある意味では真実なのである。思い悩んでいると、同時に天使の声も聞こえてくる。「あのね,音楽高校を半分放校のような形で追い出されて,小岩や松戸のキャバレーでしごかれて,六本木のスナックで弾くようになって,やっとここまで来たんじゃないの?ジャズが好きで,本物を見てみたい。アメリカの連中とセッションしたい。それには金がいる。そうして今までがんばってきたんじゃない?そうだからこそ,かけ持ちすることにOKして,ライブの仕事も自由に出来ない状況を自ら選んだのでしょう?ここでへこたれてはダメだよ。最後まで自分の目標を貫かないと。」僕はかろうじで,本当にぎりぎりのところで天使の言葉に耳を傾ける状態で,銀座の演奏仲間には秘密で,留学の準備をこつこつと進めて行った。申込書を送り,学生ヴィザの申請をし,身体検査を受け,アメリカ大使館に学生ヴィザのスタンプをもらいに行った。ボストンにあるバークリーから,入学の許可証が届いた時は,ポストの前で飛び上がって涙がでた。もう少しだ。もう少しだ。そんな日々が半年ばかり続いた。幸いにも,全ての準備が整った。飛行機のチケットも買い,渡米の日まで決定した。銀座でピアノを弾く後釜も探した。後は,銀座の人々に告白するのみと言う日がやってきた。僕の仕事の全般を,バンマスの内縁の妻の兄貴が仕切っていた。彼はとある団体の幹部であった。彼を裏切ることに成ることは百も承知で,ある日,銀座のミュージシャンのたまり場に成っているその名もボストンという喫茶店で,やめさせて下さいといった。兄貴は表情一つ変えず,「ギャラが少ないっていうんなら,はっきりいえよ。俺が店にかけやってやる。」と,思わずこちらが涙を流すような台詞をはいた。世話になって来たのは分かっている。留学できるのは全部この人達のおかげだというのも事実だ。僕にできることは,自分の気持ちを正直に相手に伝えることだけだった。「長い間,大枚のお金をいもらっておいて,こういうのもなんですが,僕は本物の音楽を,どうしても勉強したいんです。そのためにはアメリカにいって勉強してみたいのです。この場所で稼がせてもらったからこそこんなことを言えるということは,充分承知です。お願いです。僕にチャンスを下さい。」兄貴は,この世のものとは思われない,ものすごく恐い顔をした。周りの空気が凍りつきそうだった。僕は美味しそうなケーキが陳列されているショーウインドウに視線を落とした。そこにあるケーキは,全種類何度も食べたものばかりだった。しかも店につけて食べたものばかり。その当時はそういうことがゆるされていた。俺は本当に,どっぷりとこの世界に浸って生きて来たんだ,と瞬間的に思った。嫌なヤツにならなければ。「僕は,もう一度,自分の可能性を試してみたいんです。ここ銀座では,それができません。ぼくはやめます。代わりのピアノの人も探してあります。べーシストも彼の事は気に入っています。お願いです。アメリカに行かせて下さい。」新しいピアノの人が来るまで後一週間あった。針のむしろだった。最終日に喫茶店ボストンに呼び出された。顔見知りのミュージシャンが全員集まっていた。僕は,ぼこぼこにされることを覚悟していた。指だけは勘弁して下さいと言うつもりだった。兄貴がその真ん中に座っていた。「まあ座れよ。」と兄貴は言った。僕が座ると,懐から茶封筒を出して,テーブルの上においた。「何かの足しにしてくれよな。アメリカから帰って来たら,顔を出せ。」封筒の中を見ると,一万円札が10枚はいってた。とたんに涙がでてきた。銀座の皆様,お世話に成りました。10年以上前の話。

某月某日
先日、新宿ピットインにて演奏す。平日にもかかわらず、客席は8割方埋まった。うれしかった。すでに我がバンド、GO THERE !のレパートリーも半分は新しいものとなった。もっともっと作曲しなければならない。曲をつくるということ事体、練習や、人前で演奏するといった行為よりも、もっともっと深い部分で難しい行いである。イメージさえ明瞭ならば、あとは、それを譜面に書き表わすのみで事足りる。イメージがあるけれど、いざ書き出してみると、それが元のイメージと如実に異なったフィーリングのものになってしまうといったことも多々ある。元のイメージの原形を感知しているのは、全世界でぼくだけだから、これがぼくのイメージだ、というそぶりで自作を披露することも不可能ではない。しかし、そういう曲は、自然とある段階から演奏しなくなってきてしまう。逆にいえば、そのそぶりで事足りるようになることが、良いのか悪いのかぼくには判断しかねる課題でもある。なぜかといえば、そういう曲のほうが、お客さんの受けが良かったりする時もままあるからである。これは不思議なもので、このギャップの秘密を押さえることが、芸道に勤しむものの生き残りの術かもしれぬ。しかし作曲したぼく自身が、その状態に心から納得していないとすれば、それはそれでまたある意味問題であろう。これは音楽が好きとか嫌いとかそういう次元の話ではなく、ぼくの存在意義にかかわる問題だから、軽々しく考えたり演奏したりすることは少なくとも控えたいと思う。また。あまりまじめに考えすぎてもいけないというのもまた真理であって、こう考えてくると、音楽をすること事体が恐ろしくもなってくる。まあ、音楽を演奏すること以外にも、この世の中には恐ろしい物、出来事だらけで、それにくらべれば、ぼくの作曲に対する悩みなど、取るに足らぬママゴトめいたものであるのも事実で、実際ぼくの曲を聞いていきなり嘔吐したり、即死したりする者がいないのだから、自分を肯定するしかないのかもしれない、、、、、、閑話休題、落語が好きである。日本人に生まれて良かったと思えるのは、落語が楽しめることと、好きなテンプラ蕎麦が電話一本で出前可能というこの2点のみである。後は廃棄物がいずれこの国土を充満させ、にっちもさっちもいかなくなる時を待つのみになりそうでとても悲しい。アメリカに留学時、何とはなしのに持って行った落語のテープが大いにぼくの心を慰めてくれた。外は-20度にもなるボストンの冬は厳しく、練習を終わり部屋に帰ると、まず落語のテープを聞いた。ジャズのCDでもなく、いち早く選ぶのは落語のテープであった。三遊亭圓生、金馬、古今亭志ん生、林家三平、春風亭柳朝などがぼくの好きな落語家で、とくに春風亭柳朝の、端切れの良いテンポ感のある江戸前で生っ粋な語り口調には、ものすごく憧れた。どんな芸でも、うまい人は独特のグルーヴ感を持っており、落語も例外ではない。夜、仕事で疲れきっているような時は、落語のテープやCDを聞くのにかぎる。今年初めの三ヶ日のある日、新宿の末広亭に落語を聞きに出かけた。ぼくはあの建物が大好きで、新宿ピットインに行く道すがらでもあり、たまに演目を見るだけで通り過ぎてしまうのだが、三ヶ日ぐらいは生の落語を聞きたくなり出かけたのである。トリは重鎮、桂文治師匠の高座であった。題目は失念したが、梅毒になった殿様が鼻がもげ、しゃべりが鼻から空気がぬけてしまうので、滑稽きわまりない。だが、家臣に対しては、高圧的で無理な命令を出したりしていまだ家来を困らせる。しかもみな、殿様の語り口があまりにもこっけいなので、笑いをこらえての謁見である。ある意味当時の権力者を揶揄した内容で、我々のような現代人には古いネタのように思われがちだが、さにあらず。ぼくなどは笑い過ぎて涙が止まらなくて、三ケ日の最後の日を楽しませてくれたと
いう満足感でいっぱいであった。しかもこのネタはテレビでは放送禁止だろう。しかし悲しいかな2月に入って、桂文治師匠の訃報を新聞で知った。おどろいた。あの1月の高座の時は元気に所作をまじえ、江戸落語の本道をおもしろおかしく語っていたあの人が急に亡くなるなんて。思えば、あの時の高座も、これが最後と必死だったのかもしれない。自分の病状を知りつつ、高座に上がられたのかもしれない。しかし、そういう不安げな態度はみじんも見せなかった。僕はただ客席でげたげた笑っていたのである。今から考えると、貴重な瞬間に立ち会わせてもらったんだなあという感慨もひとしおである。またひとつ、東京のかっこ良さを体現できる者がいなくなってしまった。前向きにものを考えるってったって、これから先、電化製品などの性能は良くなるかもしれないが、それは殺伐として茫漠な空間を暗に目に見えないなんらかの方法で、人と人の間に立ちはだかりるものとなるであろう。そこには梅毒で鼻のもげた殿様の入りこむ余地はないけれど、僕の肌に合う好きなものが、歯が一本一本抜けるがごとく過去のものになって行くというのは、まったく淋しいかぎりである。こんなことを思っている時点ですでに歳をとった証拠といわれればそれまでだが。曲づくりの困難さなど、あの文治師匠の話にくらべれば、何のことはない。少なくとも、息絶える一月前までは、本物であり続けたのだから。僕がやっている音楽は伝統芸能ではないが、文治師匠から見習うことは多々ある。客席にいるお客さんの全員を巻き込み、染み入るような話っぷりであった。すごいと思った。

某月某日
あっという間に1月も半ばを過ぎ、昨年から計画していた、2004年,HIROSHI MINAMI 大飛躍計画を練るという計画が遅々として進まず。風邪をひいたりだらだらしていたのがその原因だが、それがなぜ進まないかを考える計画をたてたら、その計画も計画倒れとなり、何か歯車のあわない感じ。誇大妄想にならずにすんだ代わりに、昨年まで積み上げてきた色々なことを、新鮮さを加味して再起動することもできなくなった。一年の計は元旦にありというが、もう中旬すぎであり、今からでも遅くはないと自分に言い聞かせて、何かまわりの人全員にべネフィットが行き渡るような良い計画はないかと、考えられるようになったのがごく最近だ。しかし、深夜、運動不足のために毎日散歩をしていたら、それが元で2回目の風邪をひき、近くの街医者に行くと、その医者は、南さんは運が悪いようだねえ、とにやにやしながら見覚えのある薬を白い袋にいれつつ、安静にね、安静に、といった。だが、その日の晩はちょうど吉祥寺サムタイムで演奏する日であり、安静もヘッタクレもない。しかもサムタイムは3sets,つまり3回演奏しなければならない。薬を飲むためのような食事をして吉祥寺にて演奏。これが不思議なのだが、演奏中ハナが垂れたり、咳が出たりしないのだ。元来不器用だから、何かに集中しだすと、風邪の症状はいったん体内のどこなんだか奥の方に引っ込んでしまうのか。演奏後、かなり汗をかいていたりして、ああ、これで風邪の毒素もでたでた。はな垂れ、咳の症状もなく頭も重くない。よしナオッタと思って明日目覚めると、また風邪ひきの症状にもどっている。ひつこい風邪だ。この新種の風邪が、治ったんだか治らないのかさっぱり良くわからないという状態が続いた後、やっとどうにか体が軽くなってきたと思ったら、YOKOHAMA MOTION BLUE で2DAYSの仕事がはじまった。仕事の質と興奮度数30%、新しい試み、そしてそれによって生じるほんとの意味での一発勝負度数40%、この40+残りの30%は、まったく違う環境で自分をどう出すか、どうするのか考察するエネルギー度数という割り振りで、2DAYSの演奏をのりきった。初日はパードン木村、水谷浩章、藤井信雄菊地成孔の5人編成で、我々の演奏を瞬間瞬間パードン氏が音をDUBして行くという趣向。我々ステージで演奏している者には、モニタースピーカーの音しか聞こえない。客席に向いたスピーカーから、我々の演奏をDUBしたものが流れ出る。ということは、演奏者と観客が同時に同じ音を聞いていないことを意味する。この試みに参加するのは二回目で、一回目はこのアイデアと趣向をまったく理解しておらず、戸惑いのうちに演奏が終わってしまった感が強かったが、今回は、逆にさらなるこの試みの可能性さえ予感してしまうほどだった。もちろんこの音楽をプロデュースしたのは菊地成孔氏であり、演奏曲目、またそのアレンジも彼の手によるものだ。アコウスティックな音を総括して機械類がそれを変化させる。これはバンドのなかにキーボ-ドを導入して新しいサウンドを想像しようという試みとは大きく違う。今までぼくが携わってきた音楽のやり方に風穴をあけられた感じだ。菊地君の頭脳に乾杯といいたいところだ。変わって2日めは、菊地氏とぼくのサック&ピアノのでのデュオである。前日と打って変わってかぎりなくアコウスティックに近い状態でサウンドチェックをし、演奏に臨んだ。またこれがMOTIONBLUEに置いてあるピアノがスタインウエイの極上もンで、普段からあまりよいピアノに恵まれていないぼくにとっては、夢のような幸せ。しかし、菊地氏がデュオ用に用意してきた曲がこれまた何と、エリントン、ストレイホーン、ミンガスなどの曲ばかりで、あまりにもいい曲なばかりに、あまりにもコード進行その他が難しく、一瞬あっと思った。愛するメロディーばかりであるが、しかしやるしかあるまい。幸せは、つらいこととの裏返しにできてるもんなんだなあ。とつくづく思っていたら演奏時間だ。鍵盤に触れてみるとさすがに上物の気配、音を出すときれいに倍音が中を舞い、この楽器でできないことなんかあるはずないと、菊地氏と二人で、お互いをよく聞きあったり、わざと無視して違う方向にいってみたり、曲とぜんぜん関係ないコードをはさんだり、一番単純なハーモニーを提示してみたり。そういうことがうまくからみ合ってくると、あまり曲の難易差なんて関係がなくなってきてしまう。1時間をたっぷり過ぎるSETを2回、クールダウンのため演奏終了後、バーコーナーにてハイボールを作ってもらう。横浜でハイボールなんてちょっとスカシテンな。帰途はワリカンでタクシーにて。我々の住居は、近所である。タクシー運転手さんのぜんぜん分からない業界の話など菊地氏としゃべりながら第3京浜を突っ走り帰る。

某月某日
冬の一日。不思議にこれといってやることのない日であった。一日中ピアノを弾いたりしていた。良い曲が一曲できた。部屋にこもりっぱなしでは体に悪かろうと駅前の本屋に行き、田中小実昌著「田中小実昌エッセイコレクション6、自伝」を購入。缶詰カレーの夕食を終え、早速読んだらコレがまたひっくり返るほど面白い本で、気分良し。食後少し練習し、夜、いろんなところに電話をかけて仕事の算段をつける。時計を見ると12時をまわっていたが散歩に出ることとす。このままでは本当に運動不足だ。外の新鮮な空気を吸いながら歩く。ふと空を見上げると星が綺麗だ。「 TURN OUT THE STARS」という曲がある。不世出のピアニスト、ビル・エヴァンスの曲だ。そのメロディーを思い出しながら、東京の星空を眺めつつ散歩する。そういえば、「TURN OUT」とはどういう熟語なのだろうか。思った途端意味が知りたくなり、近道をして散歩を終了。辞書でしらべてみた。とある辞書にはこうある。「TURN OUT」 (せん・スイッチをひねって)止める, 消す; 裏返す, からにする, あける; (大挙して)出る, 集まる, 外出[出勤]する; 繰り出す; 結果が…となる, …だと判明する ((to be; that)); 追出す, 解雇する; 暴露する; 造り出す, 生産する; 盛装させる. 色々と想像できて楽しい。正しい意味など不要だ。

某月某日

某月某日
と書いても、正月であることには変わりはない。元旦、新年早々、芳垣安洋、水谷浩章、菊地成孔共々新宿ピットインにて午前二時過ぎから演奏をして、カウントダウンとか、除夜の鐘を静かに聞き入るといった心境ではなく、2004年は訪れた。午前二時に演奏するということに慣れていないせいか、演奏後気分が悪くなり、それが正月中尾をひいて、眠っては起き、起きては寝ての生活を久しぶりにした。というか、そういう状態にあることを、久しぶりに許された。関係者共々みな休みである。こちらも何の準備のしようがない。導入剤を飲まずとも14時間も寝た日もあり、我ながらおかしいなと思っていたところに、風邪の徴候が出始め、これがなかなかひつこくて治らず、三ヶ日を超しても体力的にも停滞気味である。今の時期から1月18日まで演奏の仕事はないので、気が抜けたのかなんなのか、体というものは存外うまくできているものかもしれぬ。体力が弱ると、気力にも影響をおよぼし、何やら悪いことばかり発想したり考えたりして、実際睡眠中に見る夢もろくなもんじゃない。自分だけ四苦八苦して何もうまく行かぬというストーリーが、我が夢のベースのようで、あまり夢に深入りするなという信頼できる友人の忠告を守り、起きたら忘れることにしているのだが、起き抜けはやたらに後味が悪い。朝の起き抜けの後味が悪いと、その一日の動向も何か締りのない投げやりなものになってしまい、悪循環である。西洋の占星術でも、日本の暦占いでも、今年はぼくにとって絶頂期であるらしいことは、本屋での立ち読みで知っているのだが、どうも出だしはあまりぱっとせぬようである。喰って寝るという原始的な部分が生活の大半を占めているのだから、洋の東西を問わず、占いは当たらぬものなのかもしれない。新年からまた考えたり計画をたてたりしなければならぬ案件がいくつも有るというのに、この分では本格的に活動を開始するには、まだ脳みそも体もうまく整わない。まあ、大病を患っているわけではないので、そのうち抜けだせる程度の風邪だろう。朝起きたとき、ナオッタ!と体が感じられるのが風邪というもので、朝からなんだかはっきりしない神経と体をひきずっているようでは、まだまだである。

某月某日
本日、菊地成孔氏と進めているプロジェクト、TRIO PLUS STRINGSにはいる予定になっている、クロージング・テーマを録音した。たった一曲をとるために今日は東銀座のスタジオにいった。普段であれば、5~6曲を2TAKE以上演奏しても、体力的にも精神的にもへっちゃらなのに、今回はこの一曲だけに集中したからか、今まで感じたことのない疲労を感じた。これをもって、収録曲全部が揃ったこととなる。後は、その音源をもとに、アレンジャーのN氏が、ストリングス、またはオーケストラを含めたアレンジをすれば完成だ。この新しいCDの発売予定は来年の春頃となる。仮題は「南博トリオ・ウイズ・ストリングス/タッチェズ&ヴェルベッツ」。この日記から読みだした人用に少し注釈を加えることとすると、今年の夏に、DEEP RUMBAなどでお馴染みのドラマー、オラシオ”エルネグロ”フェルナンデスと、カルロス・デル・プエルト(B)と共に、4曲トリオで録音した。(詳しくは、http://www.ewe.co.jp/artists/detail.php?id=17)本日のこのクロージングテーマは、この企画のプロデゥーサーでもある菊地氏の作曲したもので、左記のトリオの最後の曲となるべく演奏した。ひじょうにシンプルなメロディーを何度もくり返すというベーシックなアレンジが成されている。しかもひじょうにスローなテンポで演奏しなければならない。基本的にソロパート、つまりアドリブは無し。同じテーマを3回ほどくり返す。ソロパートが無いということは、その同じメロディーの繰り返しのなかで、ハーモニーやらニュアンスやらを微妙に変化させて演奏する必要がある。そうでないと、英語でいうところの、演奏がPLANEなものとなってしまうからだ。意外に思う方もいるかと思うが、ゆっくりした曲を、丁寧に、相手の意向にそって演奏すること程難しいことはない。スローなテンポを演奏することすなわち、こちらのセンス、ピアノに対するタッチ、感性など、すべてが剥き出しになってしまう。今回の共演者は水谷浩章氏(B)であり、低音部を優しくささえてもらった。何度も演奏していくうちに完成度が高くなると言うのも、いままで我々がレコーディングに際して経験してきたことと逆であった。ソロ、つまりアドリブの部分がこの曲には無いというのがその理由かもしれない。 たった一曲をとるために四苦八苦をしたというのも新しい経験だった。まだ修行が足りないとも言える。とにかく、この演奏にオーケストレーショんが施されれば、演奏者自身にも想像もつかないなにものかに変身すること必須である。

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