霊園

某月某日
12月に入り、少し時間があいたので、両親と墓参りに行くこととす。僕の父親は京都出身で、自然と新幹線に乗ることとなる。父はもう引退の身だが、前の職業が、会議をプロデュースしたり、人と人とを紹介し、その間を取り持つこと、また科学関連の雑誌の編集などをしており、つまりだんどり通りに物事を運ぶことを長年職業としてきた人だ。だから、だんどり通り物事がたち行かないと、きげんが悪くなるのである。にもかかわらず、墓参りの前日、吉祥寺サムタイムで演奏し、帰宅後三日間におよぶ旅の支度をして寝たら、見事に両親と東京駅での集合時間に遅れ、すべり出しから父親の機嫌をそこねてしまった。父親にとっては、午前10時など、僕の体内時計と比較すると午後3時くらいの感覚なのだろうが、寝坊したことには変わりない。墓参りの前に行くはずだった京都の某寿司屋に1時間遅れでなんとか到着。そこの寿司屋は、かの有名な、池波正太郎氏が絶賛したという曰く付きのところであり、おそるおそるその寿司屋の扉をガラガラッと開けてみると、そこの寿司ネタが大いに気に入った様子の父は、大変御満悦で、まずはすくわれた気分。カウンター6席ほどの小さな場所だが、実はこの場所、池波正太郎氏の食味エッセイに書いてあったものを、僕が両親に教えておいたのものである。独りでススッとこういう店に入れるほど、まだ僕には度胸が無いので、ある意味両親をダシに使ったわけである。本当の意味での不肖の息子だ。出てくるネタは近海ものばかりで、その寿司を握る技も驚嘆に値する。江戸前とはまた違う作法と味付けによって、いわゆる「仕事」の施されたネタが絶妙のタイミングで握られて出る。マグロなど、いままで食べたことのない歯触りで、筋がしっかりとマグロの芯の部分を押さえてい、しかもトロッとして噛みにくいということはとはない。絶品の握りである。一通りの寿司ネタに加え、魚のネタは何だか忘れてしまったが、その握りに千枚漬けを巻き付け、昆布で形を整えたオリジナルのものは、またその冷たい千枚漬けの舌触りと、中のネタ、酢飯のヴァランスが新鮮んな驚きをも喚起する味わいで、今年の疲れもこのひとにぎりの寿司によって吹っ飛ぶかと思われたくらいであった。最後に出されたゆで卵の中身を海老のおぼろと黄身をまぜ、ゆで卵のからっぽになった部分に酢飯とともにそれを握りこんだものが出た。口直しにもよし。しかもさっぱりとしており、外側の白身が、ちょうど我々の満腹感にふたをする形となり一巡り終わった。すばらしい食後感である。あまりにもうまかったので、頭がぼーっとして、店に荷物をおいたまま外に出てしまうていたらくであった。後、そのまま京都寺町にあるお寺に墓参りをしに行く。その某寺のまわりは、これはもうなんとも言えずごたごたとしており、ピンクサロンやらキャバレーやらポルノ映画館やらがひしめき合っている場所の中に、ぽつねんと我が先祖の眠る墓がある。お寺自体が、浮き世の喧噪に囲まれて建っているのである。これでは御先祖様方も、死してなお、さぞかし騒がしい思いをなさっておられるのであろうなと罰当たりなことを思った。そのお寺の囲いの向こう側は某デパートの裏の壁で、なんとも圧迫感のあるやるせない雰囲気をもかもし出してもいる。とにかく両親と三人で、お墓にお水をかけて浄め、花を飾り、お線香を立て、三人三様ここは神妙に手を合わせる。お寺の方に挨拶をすませ外に出る。そこから錦、新京極、四条河原町、先斗町と夕暮れの中を三人でふらふらと散歩。あまりの街の風情の変わり様に、この界隈で生まれ育った父は、ただただ目を見張るばかり。これはむちゃくちゃやなーを独り言のように連発しながら、独り先を歩く。齢80才を超し、ステッキをついているにもかかわらず、ちょっと目を離すとあらぬ方向にずんずん歩いていってしまう。父の頭の中には、ちゃんと父なりのだんどりがあるのだろうが、耳も遠くなった父は、こちらの質問にはただ馬耳東風で、僕と母親は、いつもおいてけぼりで、ただただ父の後から追い掛けるようについて行くというのが、今回の散歩の形態である。父の複雑な心境と、せまい路地をくねくねと歩きまわる父の気持ちは、僕でさえ、まあ十分の一ぐらいは分かっているつもりでいる。子供の頃、夏休みといえば、新橋の母方の祖母の家に行くか、京都に行くかしか選択はなかった。父には、キャンプに行ったり、ドライブ、ゴルフといった趣味はなく、休暇といえば京都の親戚に会いに行くことであった。小学生にもならない時分から、この界隈は、ぼく自身も、もうこの世にはいない叔母やら叔父やらにつれられて歩いた場所であり、高瀬川は、枝垂れ柳が微妙なる木屋町の提灯の明かりがおぼろげに写し出されるかわいらしい水の流れを呈した川だった。歴史と大人が同居する界隈でもあった。今はまあ、何というか、ギンギンギラギラの新宿と大差がないような気がしてならぬ。まあ、たまに来て文句をつけられたら、その界隈で商売をしている人達に失礼というものだろう。皆必死に時代の流れとともに変化を余儀なくされているわけだから。しかし、その考え方を包容しつつも、父の複雑な心境とある意味での落胆は、親子だからこそわかる何かしらのテレパシーのように僕に伝わってくるのであった。前にも書いたように、せっかちでだんどり優先の父であるから、歩くとなると、自然父の後ろ姿を見る機会の方が多い。僕などよりも健脚なのはけっこうだが、その後ろ姿に一抹の淋しさを漂わせていたのを、僕は忘れることはできない。人間にとって故郷というものは、理屈抜きで大切なものなのであろう。

某月某日
京都二日め、朝8時起床という異常事態。既に父はホテルのロビーにて、本日のだんどりを敢行する体勢。早起きにも、午前中歩くということ事態にも慣れぬ不肖の息子は、ただただ棒立ちの状態。ホテルを出て、だんどり通り、有名な京都のEカフェにて朝食。ここもかの池波正太郎氏が愛でた場所なり。京都人なら知らぬもの無しの場所。本日これからのだんどりは、最後の紅葉シーズンを逃さぬという主題の中に、なるべく多くの紅葉スポットを日没までできる限り歩き回るという副題が縦走する。縦走といっても歩くのだが。とにかくEカフェを後に出発。まずは清水寺へ。父の知る秘密の坂道から本流の坂道へと合流する。秘密の坂道には、修学旅行や、おばさんの団体が居ないのである。しかし最後にはその本流に流れ込まないと、清水寺にはたどり着けない。昨日と同じく、父は、ステッキをふりながら我々の遥か先を歩いて行く。父の頭の中には、ぼくの想像し得ぬあまたなる思い出や感慨があるだろうから、それを邪魔しないように、後ろからそっとついて行くことにする。しかし母の方は、何かと土産物屋の方にも目が行き立ち止まることが多く、ぼくは両親のつなぎ目役として、二人の間がはぐれぬよう手をふったり、止まれの合図を父の方に送ってみたり、何だかわけのわからぬ役回りが自然にできあがってしまった。母が不定期的に土産物屋をのぞくという行為は、父のだんどりの中には無かったと見えて、ぼくはとにかく、父のだんどりと、母の購買意欲に挟まれつつ、景色を見、紅葉を楽しむことも忘れないように歩いた。たまの休日もやることは忙しい。清水寺の坂の途中にあったお菓子屋だったか布地を扱う店だったかが消えてなくなっており、そこがまた古くからその場所で商いをしていたこともあって、父の悲観の種がまたひとつ増えてしまった。ああ、やっぱりなくなっとるわい。この場所に間違いないんや。どうしたのかなあと父は淋し気な目つきで、その影も形もなくなってしまった過去の記憶の像と現実の店とを頭の中で見比べて、目を細め、なぜか薄笑いを浮かべている。人間は、ほろっと悲しくなった時は苦笑せざるを得ないのかもしれぬ。とにかく清水の舞台へ上がる。最後の紅葉シーズンである。もうほんとにギリギリの。木々にはまだ葉っぱはぶら下がってはいるが、その地面も既に赤い絨毯だ。しかし天気には恵まれて、この時期の京都にしては暖かい気温でもある。しかし、だからといって、気ままに休日を過ごすという気分には成れない。とにかく父の頭の中に描くだんどりにそって行動していかなければならぬ。清水寺を後にし、坂を下りて八坂神社を通り抜け、平安神宮前に移動。これはさすがにタクシーを使う。父の姪、ぼくの従姉妹にあたるひとが、この神宮前でレストランをやっている。そこで昼食と休憩をするというのが父のだんどりである。その従姉妹は、東京の女学校に通うため、一時ぼくが小学生の時、東京のアパートで同居したことがある人である。ばりばりの京都弁が、父とその従姉妹の間を飛び交った日々でもあった。父は東京の大学に入るため若くして京都を離れたため、ぼくが生まれてからこの方、いわゆる東京の言葉を家庭の中では使っていた。例外は、まず京都の親戚から電話がかかってきた時と、阪神タイガースをテレビ観戦する時だけであった。しかし従姉妹が同居するようになり、京都弁を使う頻度が格段に増し、ぼくは小さいながら目を白黒させた思い出がある。表現が相手に直に突き刺さるような言い回しがあるかと思えば、何か思わせぶりな、裏になにか魂胆ありげな表現を微妙な頻度で織りまぜてしゃべるのが京都弁の特徴のような気がする。しかし、音声が全体的にソフトなため、耳触りが良いし、美しくもある。京都弁を女性に例えれば、実際女性的な言葉でもあるが、ファム・ファタールそのものだ。なんだかんだ言って言葉の歴史の長さが違うのである。加えて、四季折々の楽しみがこれだけ多様な街も珍しい。食べ物も、長い間の叡智により磨きがかかったものが多くある。妙な自負心など必要のない文化が京都にはあるのではないだろうか。そういった四季折々の出来事や味覚を、すべて直な言葉で表現するのは不可能だし格好が悪い。京都弁はそういったことを絶妙に表現するために練り上げられたひとつの日本語の姿のような気がする。従姉妹と父の会話をそのレストランで聞いていてそういったことを思い出したり考えたりした。楽しいひとときであった。後、さすがに再度タクシーにて、真如堂というお寺に移動。紅葉の名所らしい。ここからが父のだんどりというより、行軍と言った方が適切な紅葉めぐりがはじまった。真如堂から会津藩士のお墓がたくさんある細い山道を抜け、黒谷金戒光明寺へ、最後の紅葉を左右に見ながら歩く。京都は何度行っても、知らないお寺や場所がひしめいていて、歴史的風景の褪せない場所だ。先斗町界隈は変わっても、このあたりの山すそにある寺社は長い間変わっていないのであろうし、これからも変わらないのであろう。司馬遼太郎の本をいくつも読んではいるが、この会津藩士の墓が、いつどういう戦いによって死した者達を葬ったものかが、かいもく見当がつかない。いずれにせよ、その場所は静かで、100%日本的で、120%京都的で、150%の哀愁を漂わせる霊妙なる地であった。両親ともなにかしらを感じているらしく、さすがの父も、もう名前など読めなくなっている墓標をまんじりともせずに眺め入ったりしている。父のだんどり行軍を差し止める何かがその地には在ったと言うことだ。三者三様なぜだかしんみりとしたまま、哲学の道を目指す。ここで父の記憶が曖昧になってくる。長年訪れていない故郷の道筋は、父の記憶に在るものとは違って見えるようで、途中、人に道を聞きながら歩く。光明寺からかなりの距離を歩いて、やっと哲学の道なる場所にたどり着いた。ここもギリギリだが紅葉がすばらしくきれいで、まあ、年に一回こういう時間があっても良いなという気分となる。ぼくの仕事は、東京を離れること即ツアーという職業である。実際、前の晩は、早々にホテルに引き上げて午後10時ぐらいに風呂には入ったりしたのだが、何だか落着かない。自分の家以外の場所で、午後のこの時間に風呂に入っているということはめったにない。体がもうそうできあがってしまっているのであろうか。午後10時で東京に居ないとなれば、それは演奏をしている時間を意味する。という意味で昨晩はあまりくつろげなかったが、さすがに京都二日めの午後になってから、体が休暇モードに入ってきたもようだ。身銭をきって新幹線に乗るのも久しい。とにかく、哲学の道から永観堂というこれまた紅葉で有名なお寺に行くというのが父のだんどりであり、ぼくと母親はその父の後をついて行く。かなり長く歩いた。この時点で父のだんどりが少し崩れた。というのも、哲学の道に行くのに時間をくったため、永観堂は閉まっていた。来るのが遅過ぎた。ぼくはもうじゅうぶん紅葉を楽しんでいたので、永観堂だかなんだかが閉まっていても別段何も感じなかったが、父は残念そうである。母は足が痛いと言出し、父は最初のだんどりが外れたので次のだんどりを模索中。三人で道ばたに突っ立ってああでもないこうでもないと言い合う。らちがあかないので、ぼくがかってに偶然通りかかったタクシーをとめ、両親をその中に押し込んでしまった。とにかくまた四条河原町の方にと運転手にいう。この界隈に戻れば、だんどりがつかずとも、何かしらの方策は立つとみたからだ。思ったとおり、祇園を散策の後、父の良く知る京都風居酒屋に入る。今晩は昨晩のごとく午後10時にホテルにて入浴する気はない。やはりそわそわしてしまうだろうことは予測していたからだ。ちょうどその日の夜は、大阪に住むトランぺッターのM君が京都の音楽学校に教えに来ている日であることを、携帯電話にて確認済みであった。両親は午後10時頃寝てしまう。いくら朝から歩き通しとは言え昨晩のようにホテルでそわそわするのはごめん被りたい。両親と少し飲んで食事をした後、M君の教えている学校に行く手筈をしていたのであった。その旨両親に伝え単独行動。なんとM君が教えているその学校は、お墓参りをしたお寺の真ん前の道を30メートルほど行ったポルノ映画館の真ん前にあった。これには御先祖様もびっくりであろう。久しぶりに会うM君とその学校が経営する喫茶店にて談笑。お互いの情報交換をする。喫茶店にはヴォ-カルの先生とその生徒の女の子もくつろいでおり、M君の進言でセッションをすることになる。音楽から離れていたのは一日半であった。やはりこういう成りゆきの人生の過ごし方、時間の過ごし方しかぼくはできないようになっているようである。御先祖様が眠るお寺から30メートル離れた場所で、ヴォ-カル、ピアノ、トランペットによる演奏がはじまった。スタンダードなどたくさん弾き、大汗をかいたら、酔いがいっぺんに醒めてしまった。またまたM君の進言で、皆で近くのジャズクラブに遊びに行こうということになった。このパターンは、もう既に休暇でも墓参りでもなく、東京や、色々な区々の夜にくりひろげてきた百鬼夜行の日々の再開である。そのジャズクラブは、ビルの地下の駐車場わきにあり、なんだか秘密の隠れ家を思わせるかっこいいところで、中ではピアノトリオがシブイ演奏を繰りひろげていた。大汗をかいて生酔い状態だったので、ハイボールをがんがん飲んだら、急に酔いがまわり、いつもの夜の、いつもの調子になり、そわそわしなくなり、トリオの演奏が終わればイエーといいつつ拍手をし、しかも遊んでいって下さいなどといわれて一曲弾かせてもらって、良い気分になって、またウイスキーを飲んで、へらへらしていたら夜も12時近くになっていた。京都弁で言うところのアホである。この先はもう全国区的、全世界的規模でぼくがしてきたことと同じことを京都でしたまでである。つまり飲んだのである。飲みながら考えた。こんなにたくさんの寺社があるこの地で、何で俺は他の場所でしてきた事と同じ事しかできないのであろうかと。そしてさらに考えた。こんなにたくさん寺社があっても、結局それらが建てられた後々、我々人間はちっとも変わっていないじゃないかと。ではあの寺社は何のために存在するのか。我々親子は墓参りと言う、美しい行ないをした。しかる後、色々な寺社を訪れたが、それは紅葉を見るためであり、それら寺社が建てられた意義、その後もそれらが大切に残されているという存在意義さえ考えなかった。少なくとも俺は考えなかった。これは人間として自堕落なやはりアホな行いなんだと思うと、酒をおかわりしたくなって、何だかわけがわからなくなってきて、ホテルに帰り寝た。翌朝も父のだんどりは朝食をEカフェで三人で再度食べるということであった。もちろんぼくはその朝ひどい二日酔いであり、8時どころか11時のチェックアウトもギリギリというテイタラクで、ロビーにて再会した父の目は逆三角形になっていた。だんどりどころか、それ以前の父の意志をもめちゃめちゃにした、しかも自分の分身である息子という存在に対する怒りで、ロビーの温度さえ上がりそうな怒気が、父からは立ち上っていた。ぼくはアホである。と同時に、11時までになんとか荷物をまとめてロビーに現れたのだから、いいではないかという言い訳がましい発想が頭の中によぎったが、父には目でごめんねというつもりでもう一度顔を見たら、父はもう冷静になっており、次のだんどりを模索中のようであった。さすがに大人だ。とにかく最低の気分を引きずりつつ、地下鉄に乗って東福寺の紅葉を見に行く。とにかく無理に歩いて水を飲んでいたら、気分もだんだん良くなってきた。父も冷静である。昨日の夕方までと同じ休暇モードのまた体が変身す。二日酔いで何も食べておらず、頭もぼーっとしているので、昨晩考えた、寺社の存在意義云々はもうイイじゃないかという気分になっていた。あ~きれいきれい、紅葉がきれい。ああ~今日もお天気で良かった。両親も機嫌がなおった様子。ああよかったよかったと、こんどはまた徒歩で東福寺から三十三間堂へと移動。ここの場所ではものすごい衝撃を受けた。ものすごい衝撃、ものすごい衝撃、ものすごい衝撃!!クレイジーである。ファンキーである。SF的である。人間捨てたもんじゃないと思わせてくれるヴァイブレーションがいっぱい。それがぼくにとっての三十三間堂だった。あらゆる寺社の中でもここは格別にヤバい。昨夜のネガティブな発想が全部吹っ飛んだ。手作りの怨念のこもった3D、なんでこんなにいっぱい手が生えてンだ!パンフレットによると、40本の手と11コの顔を持った観音立像が1001体並んでいるのだという。手が40本あったらどんなピアノが弾けるっていうんだ?そう考えると気が狂いそうだ。ファンキーさも極めを知らずといったところだ。最高に最高にかっこいい空間だ。しかもその観音立像の前に、28体の仏像が並んでいて、その中にはドラマーとギタリストまでいやがる!!けへースゲエ、日本人万歳、人間万歳だ。各々仏像の詳しい名前は難しいから今は忘れてしまったが、それぞれインドのゾロアスター教などの言葉を漢字に無理やりあてはめたものが多くあった。とにかくだ、すげえインターナショナルじゃないか。すごい発想の広がりじゃないか!俺は三十三間堂を二週した。二週目はもっとこまごまとしたところも見えた。その細かいところは文章にできない。文字では著せない、とにかく脳みそとハートを直撃するスーパーキックのような力がぼくの体を刺しつらぬいた。とにかくクレージーな物事が究極となると静謐な空間が生まれるということだ。物凄いのに静謐。対極の一致。ぼくも音楽をやるんだったらここまで狂って静謐になってみたいもんだ。でも多分そう成るには、40本の手が生えてこないとできないだろう。いまから、この俺の体から、40本の手が生えてきたら多分演奏する前に発狂してしまうだろうけれど。まあそれもよかろう。//帰りの新幹線でも、三十三間堂の衝撃は消えず。ショックをやわらげるという名目でビールを飲む。となりの席では父も飲んでいる。さすがに両親とも疲れた様子だ。東京から京都へ行くのに要する時間は2時間半前後である。便利だなと思うと同時に、早すぎるなとも思う。父の帰郷の際、そう、ぼくが小学生のころから新幹線で京都へ行っていた。あの頃は4時間ぐらいかかったような記憶がある。ビュッフェと称するレストランが、ちょうど列車のまん中あたりにあって、窓の外の風景を見ながら、チキンライスのようなものを父と食べたような思いでもある。各列車には、速度計がついていたような記憶もある。小学生低学年のぼくにとって、当時新幹線に乗るということは、夢のような出来事だったのである。そしてその速度計が200キロを超えるのを見て、ひじょうに興奮したような記憶まである。子供ながらに、自分は今、250キロで移動しているのだという夢のような実感があったのである。今は、残念ながら、新幹線に乗っていても、何の感慨もわかない。この東京から京都までの所要時間が、近い将来2時間半前後より短くなると、京都に行くという心の準備ができないうちに京都に着いてしまうような気がしてならない。京都というところは、ぼくにとって、心の異次元であって欲しいのだ。異次元に行くには、ある程度の物理的時間差と、そこへ行く心構えをする時間も必要だ。東京から鎌倉まで横須賀線で遊びに行くのとはまた違った時間差がぼくには必要だということだ。贅沢な発想であることは百も承知ではあるが。いずれにせよ、時は進む。これは誰にも止められないし、どうしようもない事だ。回顧主義的発想で物事をとらえるにも、限度というものをしっかり設定していなくては、悲しくなるばかりである。善し悪しは未来の人々が決めることと発想を転換しひろげなければならぬ。いずれにせよ、また近い将来、ぼくは京都に墓参りに行くのである。

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