緊張の三日間

某月某日
ピットイン3 DAYS初日が終わった。なにしろ先週録音を終えたばかりであり、準備するにしても時間がなかった。とはいえ、天下のピットインにおいて3日間親分を張るのである。なまじのことでは許されない。芸達者な面々の良い面を最大に生かしながら、しかも全体の流れに意味あいと変化をつけなければならぬ。ただただ曲のアレンジがうまいというだけでは良いショーにはならないのだ。かといって考えすぎてもこれまた音楽は学問ではないので、余裕のないものになってしまったりする。当日のみのリハーサルである。短時間に最大効率をあげる準備をしてのぞまないともくろみ事体水泡に帰す。今晩の演奏は、この三日間のメニューの中では、上記のようなことがらが、最大限問われる企画であったため、ある意味緊張した。すばらしき仲間のおかげで、演奏事体にもハプニングがあり、幕間のしゃべりもなかなかのものだった。みな菊地氏とのかけあいを漫才だと評するけれども、あれで精一杯しゃべっているのであった。本人としては漫才をしているつもりは全くない。菊地氏のしゃべりのタイミングには何度も救われた。じっさい菊地氏との共演はひさしぶりだった。作曲したバラ-ドを演奏。これは先週行った新しいCDにも入る予定の曲である。菊地氏のジャズに対する夢のようなものがいっぱい詰まったフレージングによって構成された曲である。皆の楽曲に対するアプローチの随所から、思わぬハプニングが生まれでて、すばらしい展開となった。この一曲を含め、初日の演奏は、ひじょうに硬質でソリッドなサウンドに終始したように思う。

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3DAYSの二日目は、大友良英氏率いるONJQとの共演であった。このグループは、いまの日本の音楽界において、ダントツに冴えている。ぼくも一ファンとして、何度か演奏を聞きに行っていた。そしていつも思ったことは、音楽的内容を含め、このグループには、ピアノは必要ないということだった。ピアノのようなコード楽器は、大友氏のコンセプトを疎外すると感じた。だからこそ、今回の3DAYSにおいて、共演を申し込んだのである。自分自身の、無意識下にあるマンネリな部分をぶちこわしてみたかった。だから予定調和は許されない。その瞬間瞬間に聞こえてくるサウンドに反応し、しかもそこには自分独自のテイストがなくてはならぬ。加えて、ピアノが参加することによって、ONJQのサウンドに、新しい何かが生まれねばならない。そういう思いで演奏した。自分自身をぶちこわすだけに大友氏のグループを利用したなどと思われたら、いわゆるそれは名折れである。グループのメンバーにも、できれば新しい刺激を与えたかった。リスキーな挑戦だった。この緊張感こそがぼくにとってはジャズの神髄なのだ。(なんちって)うまくいったかどうかは、聴衆にまかせたい。しかし、満杯のピットインの聴衆が、最後まで帰らず聞いてくれたという事実は、ぼくにある一種の自信をもたらした。

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最終日はチラシにあるとおり、「夏の夜魅惑のスイング」である。銀座界隈のジャズでもなく、中央線沿線のジャズでもない、しかもヴォ-カルのはいった、ただただ楽しくきける演奏がしてみたくて組んだものだ。オーソドックスなスタイルと書くと、何を基準にオーソドックスとするかが問われるところだけれど、ぼくにとっては、この三日目の演奏が、ジャズの中央通りなのであった。無理に盛り上がることを旨とせず、たんたんと演奏をすすめる。凝ったアレンジもなし。そう、こういう演奏をピットインでやるってことが、実はいちばん難しいのであった。いざとなれば、井上氏を支柱にし、そのおまかせ感の中から、新しい展開を待てば、少なくとも間は持つという甘えた気分も少し有った。それにしても、井上氏のヴォ-カルのメロディーにからむオヴリガードはどうであろう。すばらしいの一言に尽きる。田鹿氏のドラミングも、特筆に値する。全体のサウンドを包みつつ、ビートはいつも、音楽が進むべき方向をハッキリ指し示している。音も粒立ち、ピアノの音によくからむ。この三日目にかぎらず、今回協力してくれた仲間達の賛辞を書きはじめると、きりがないのであるが、特に、裏3DAYSとなった盟友水谷浩章氏のサポートはすばらしかった。

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緊張の3日間が終わり、背中と肩がガチガチとなり、最近指摘されはじめた、口呼吸しかできない若年層のような顔になって朝起きた。今日は本当に、強制的に休みをとらねば、脳みそがイカレそうである。

某月某日
昨日は、長いあいだ準備を重ねてきた録音が終わり、行きつけのバーなどに行き痛飲。一仕事終わったあとの酒の味はまた格別である。なんてね、なんだかんだ言って毎日飲んでいるのだが。こういう時は危険だ。演奏後もそうだが、とくに録音のあとというのは、脳みそがなかなか休まらない。からだ事体は疲れているのだが、脳がクルクルと動きっぱなしなので、自分の酔いがつかめない。だから量を飲んでしまう結果となる。普通のクラブでの演奏より、スタジオでは、ヘッドフォーンから共演者の音が全てクリアーに聞こえてくる。人工的に作られたベスト以上の状態が、多くの情報をぼくの耳に運んできて、それだけ集中力も必要となる。音楽をする楽しさで全てを忘れ、ときの流れも意識の中にはない。ふと気がつくと、体が綿のように疲労しているといった具合。昨晩は酒を二杯にとどめ帰宅。しかし眠れぬ。脳内の神経が、まだいままで聞いていたサウンドに反応し、ぴりぴりと痙攣しているかのよう。かといって他の雑事をやるほど体力は残っていない。酔いはまわっている。読書しかあるまい。金子光晴著「ねむれパリ」をゆっくり読む。この本は自分の中での大ヒット作である。良書に出会えた時の喜びは、何にも変えがたい。もちろん、イイ演奏をした時を抜かしてだけど、この夏いちばんの発見であった。40才をすぎるまで、なぜいままで金子光晴に触れる機会がなかったのか、自分でも不思議と思う。氏が戦前パリにての貧乏生活を淡々とかいたものなのだが、もう面白くて仕方ない。この時期には、岡本太郎、ヘンリ-・ミラーなども、パリを彷徨していたはずである。ぼくの聖書的存在であるヘンリ-・ミラーの「北回帰線」も、ミラーが赤貧のパリ時代を文章にしたものだ。だれあろうこのぼくも、 6ヶ月ではあったが、10年ほど前パリでぐうたらを決め込んでいたことがあり、いつもこの「北回帰線」のストーリーが、パリにいる時分、ぼくの頭の底にたよたよと漂っていた。あの時分、金子光晴のこの本を読んでいれば、また違った角度でだらだらできたはずなのにと思うと少し悔しい。ヘンリ-・ミラー、チャールズ・ブコウスキー共々、無頼でパンクな作家であることは誰もが承知をしていることだろう。ぼくとしては、この二人にある一種の羨望がある。体力を含め、この二人のデタラメさとタフさ、これは白人特有のドロップアウトのしかたであり、しかもそれを文章にするという感性が、日本人にはないものと思っていた。日本の私小説は、これらの作家の描く世界とは対極的で、どこか湿っぽいのだ。しかし、金子光晴は、あくまで日本人的感性を保ちながら、この二人のアメリカの作家に負けず劣らずの無頼さ加減とタフネスを持っている。同胞として勇気づけられる。こんな御仁が日本にも作家としていたとはなあ。読書は本当に楽しいものだ。しかしまあ、戦前に、ぼくの想像を上回る数の日本人が、パリに住んでいたことを知ったのも驚きだ。そして誰もが、岡本太郎のように、現地の人々と交わり、その文化を真の意味で吸収することに成功したのではないことをこの本は伝えている。それはそれで、まあ、人の営みなどそんなもんだ、と言えばそんなもんなのだが。本日は久しぶりの休みである。本の続きを読んで脳内をリセットすることとする。

某月某日
菊地氏を交えて、彼の楽曲と供に録音終了。我がバンドのメンバー、菊地氏を含め多大なる協力のうえに、全てが無事に幕を閉じた。真夏という季節も加味して、充実しながらハードな、そして幸せな三日間であった。前の日記にも記したとおり、今回は、まとまりなく色々な要素をCD一枚の中にぶちこんで、自分自身リスクをはらい、メンバー各自のさらなる可能性を開拓するということがおもな狙いなのである。この先を文章で説明するとなると、かなりの時間をくうので割愛するが、全て共演者のストレートな協力があってして実現したことで、皆には、ことばに尽くせない感謝の気持ちでいっぱいだ。少なくとも、CD盤事体ぼくより長生きなはずであり、自分が死んだあと、妙な風評をたてられぬことはないだけの自信は、少なくともある演奏がこの三日間に凝縮されたのだった。まずはめでたし。

某月某日
「GO THERE !」(これが我がクアルテットの新しいバンド名、詳しくは昨日の日記を)の録音二日目である。昨日の取り残しの曲、もう少し良くなりそうな曲を再度演奏。夜7時頃には全て終了した。あとはいくつかのTAKEの中からベストのものを選ぶのみ。明日は菊地成孔氏が参加し、彼の楽曲を録音する。疲れたのである。近所のお好み焼き屋で友人とめしを喰う。後、パンツ一丁の姿になり、今までの出来上がった演奏をDATでき聞く。いくつかある良い感じの演奏が、テークがいくつかある場合、一晩中本番のCDにのせるべく、セレクトしなければならない。

某月某日
GO THERE ! 第二弾レコーディングの日である。昨夜遅くまで練習したり、譜面の整理などで寝るのが遅くなり、あまり時間の余裕もなく東銀座にあるスタジオに30分前に到着。スタジオのあるビルの一階に、喫茶店があり、朝飯抜きであったので、ビーフシチュウかけライスなるものを注文。ひとくち食べて口がカモメのような形になる。煮込みすぎたかなんだかひじょうに塩っぱい。大して期待などしていなかったが、ちょっと朝一発目の食事としては妥当ではなかった。銀座エリアに来たのだから、何かしらもっとうまいものを喰いたかった。もう少し時間に余裕があればの話だが。別に遊びに来てるのではないからこれでよしとする。コーヒーで口内の味をリセットし、いざ7階のスタジオへ。前回のCD「GO THERE !」のときと同じ優秀なスタッフがそろっていた。すでに各自準備万端。とにかく集中してが-っと演る。が-っと。残暑のおり、各自持久力は平均より落ちているのだし、まあ、じっくり演るところはやるけれど、レコーディングの流れ事体のテンポ感をうまくキープしつつ、がーっと、がーっと。と、気付いたら8時間程経過している。バンドメンバー各自、ハラぺーニャ・デ・アロッソとなったので、EWEのとってくれた店屋物を味わって食べる。豪華幕の内弁当。久方ぶりの海老フライ。ケケケ、べろドラム(舌鼓の21世紀的表現だ)を打つ。休憩後、最後にバラードを一発。一日目にして、録音予定曲をほとんど演ってしまう。がーっと。体が綿のように疲労す。

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今回から我がクアルテットの名称事体を「GO THERE !」 とする事に決めた。EWEの中に新しく、「BODY ERECTRIC」というレ-ヴェルができたのである。菊地氏と坪口氏の主催する「東京ザヴィヌルバッハ」のようなバンド名がぼくにも必要だと思ったので、一枚目のアルバムのタイトル事体をバンド名とした。「GO THERE !」,ことば事体に動きを感じるし、自分でも気に入っている。ということで、今回はバンド「GO THERE !」による初の二枚目の録音となる。前回のCD,「GO THERE !」は、全曲4人が一丸となって演奏し、長年のコラヴォレーションの集大成という形となった。今回のCDのコンセプトは、自分自身が先行きを模索していること事体を形にすべくアイデアを練った。加えて前回のものは、イケイケイテコマシタレ~度120%全開であったので、今回のものは、渋くダークに迫ることとした。少しだけ内訳を書いてみると、デンマークツアー時にクアルテットのために書いた曲などが4曲、トリオが2曲、残りの2曲は、「BODY ERECTRIC」の中心人物であり、長年の盟友である菊地成孔氏の楽曲を2曲加えることとした。今日の段階で、菊地氏の楽曲をのぞくほとんどの録音をすませたことに成る。今回のCDの内容に関しては、最初からイメージは強烈であり、やりたいこともハッキリしていた。しかしそれを具体化する準備たるや、相当な時間がかかった。ポップスなどの録音とは違い、1曲の録音に数週間を要するというわけではないが、がーっとやるにはやるで、が-っとやれるようにする準備が必要なのである。まあそれも、各メンバー、水谷浩章、芳垣安洋、竹野昌邦の驚異的なサポートがあってこそ。みな本当にすばらしい音楽を提供してくれたのであった。

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スタジオ内は、楽器のメインテナンスと、多くの機械類が熱を発しているためか、ひじょうに冷房がきつい。ぼく自身冷房はだいだい大好きだが、演奏して汗をかき、プレイバックを聞いているうちに体が冷えるということを何時間もくりかえして外に出ると、湿気と温度差の急激な変化で、脳みそのひだがするりとめくれるような感覚に襲われる。録音終了し、帰りの地下鉄の中でまた中途半端なゆるい冷房に体があたり、なんだかわけが分からなくなったので、隠れ家であるオデン屋にしけこんだ。ここはラジオしかかかっていないところで、殺人的有線や、大騒ぎする泥酔者もまれな店で、とにかく一服。明日の録音に備える。

某月某日
さすがにレコーディングの日が近づくと、練習にも熱がはいる。練習といっても、ただただピアノを弾いているだけでもない。自分が作曲した曲なのだから。うまくいってあたりまえなのだが、マグリット曰く、大切なのはアイデアではなく、イメージなのだ。だから、その不定形なものを、共演者に理解してもらい、CD制作を容認している会社の担当者も含めて、前回にないものを創造し、実際サウンドでその事を示さなければならない。特にサウンドが音楽事体を突き上げているいという状態にする事が優先課題だ。突き上げるとは妙な表現かもしれないが、実際音楽が次の段階のトビラをひらくのは、その突き上げる衝動が必要不可欠である。そして、演奏者がそれに気付いて邁進していたら、リスナーにも、その胎動が、ハッキリと感知できるはずなのだ。これらのことも含め、明日レコーディングにのぞむのだ。リーダーなのだから。今回の企画は、EWEの中に新設されたレ-ヴェル「BODY ERECTRIC」(以下BEと略す)という名称の部門から発売されることとなり、この名称の発案者は誰あろう盟友、菊地成孔氏である。すでに彼のバンド、「TOKYO ZABINUL BACH」が第一弾で、今年1月に出したGO THERE !がその新しいレ-ヴェルの第二弾となる。明日から始まる我が南 博クアルテット改め「HIROSHI MINAMI GO THERE !」が第三弾だ。 BE的要素を我がGO THEREsecondによどみなく組み込む為、菊地氏の楽曲を2曲加える事とした。もちろん前回のような竹野、水谷、芳垣が一丸となって演奏する曲もあるのだが、今回はそれに加えて、トリオ、デゥオなどの曲も演奏予定である。前回のGO THERE!が全曲4人で一丸となって演奏した次のステップのものとして、なんらかの差違を設けることが重要なのではないかと思い、このイメージを明日のリハまでに、準備するのである。やたらめったら譜面をたくさん書くといった行いではない部分での、逡巡が辛い道のりの連続。現場処理のほうが良い結果をもたらす場合もある。どうあれこう演奏するという決めごとと、メンバー各自の持つイメージにゆだねて演奏するべき場所との見切り、この両方をリーダーとして采配をふるえたら、これはもう嬉しさの極みであろう。明日からの三日間、そういうモーメントが少しでも長くスタジオの中に満ちている事を切にのぞむところだ。

某月某日
腰痛をおして吉祥寺サムタイムにて、ヴォ-カルのギラ・ジルカと昨夜は演奏。朝早く目覚める。夜中に近くで一匹ミンミンゼミが鳴りやまなかった。いっそ、散弾銃で音のする方を無闇メッタラ乱射してやろうかと思ったほど気にさわった。蝉って太陽が出ているあいだだけけたたましく鳴く昆虫じゃないのか。ぼくはあらゆる種類の昆虫が大嫌いである。夏になると、東京近辺の子供達が、クワガタ、カブト虫などをお金で買っているようだが、ぼくとしては、ゴキブリもそれらクワガタも同質のものに見えてならない。茶色くて、節々がギザギザしており、触覚が不気味に前後左右に動いていて、逆にいえば、なぜクワガタなどが珍重され、ゴキブリが忌み嫌われるのか、その境界線は何処にあるのか。昆虫はえてしてとんでもない冷血なまなざしを持っている。同じ地球上の生き物として絶対近くにいて欲しくない生き物ではある。家賃も払えないくせして、小汚い出で立ちで、しかも無断で人の家に入ってきて、思いもつかないようなすき間から突然飛び出してきたりする。全生命体がこの地球で生きて行くヴァランスというものを考えれば、彼らもなにがしかの役目をおびて草むらや木の幹などに潜んでいるのだろうが、だからといって気分的にやはり姿形を見るのはいやだ。こう暑いと虫も狂うのであろう。外出は苦行と言い換えるべきで、帰宅も避難と言い換えるべき時期である。津上研太氏によると、最近の東京はシンガポールなどより暑いそうだ。書くだけで不愉快になるネタだ。自分の体をそっとそっと扱いつつ、レコーディングのための準備。もちろん練習も含め。腰痛と昆虫に苛まれつつ。

某月某日
ぎっくり腰になった。このクソ暑いなか急に骨盤あたりにイナズマがはしり、脳髄にわっか状の激痛がず~んと染みわたった。なんと夜中、自前でサラダを調理している時に突然その痛みは襲ってきて、しばし台所の流しの縁に両手をついてひざまずき、心の中でビートルズのLET IT BEを口ずさんだ。なるようにしかなるまい。しずかーに立ち上がり、とにかく飯は喰う。ビールだって飲んでしまう。そして這うように寝床へ。痛みで眠れぬ。ただでさえよく眠れないっちゅうのに。ウトウトするとズキズキして、ウトウトズキズキウトウトズキズキの連続。バッファリンを飲んだのに、痛みが消えぬ。おまけに胃までいたくなってきた。いきつけの医者は朝9:30分開業。一年ほどまえに読んだ村上春樹の小説などひっぱりだしてきて無理に読む。活字トリップによって痛みを押さえるという悲しい手段。目ンたましばしばウトウトズキズキ。ウトウトズキズキが、少しウトウトウトウトと、ズキズキが遠のいたと思ったら、むっちゃクちゃ恐ろしい悪夢を見て飛び起きる。夢の中でツアーしている。気がついたら誰一人として今晩どこで演奏するかを知らない。車の中でバンドのメンバーと談義する。ああでもないこうでもないと言っているうちに、まわりが真っ暗となり、何処にいるのかもさだかでなくなる。がばっと起きると、汗だくだ。腰も痛い。寝てても立ってても、体を横にしても、どういう姿勢をとっても不愉快なので、とにかくソファーに移動。じっと座っているだけでも、あごの下や背中に汗がにじみ出る。ふっと横を見ると、台所のマットの上にゴキブリがいやがった。このクソったら猛暑と湿気でどこかから迷いこんだのだ。何年か前、害虫対策として家中目貼りをして以来、ゴキブリはでなかったのに。換気扇のフエルトのカヴァーをとめているガムテープの端が微妙にはがれていたのがいけなかったか。くっそ~ふざけやがって、よりにもよってこんな時にオレの目の前に大嫌いなゴキブリが出てくるなんて。四苦八苦しつつとなりの和室に這って行き、殺虫剤を握りしめ、台所に戻った時点でゴキブリの姿が見えぬ。半狂乱となってそこいら中の床に殺虫剤を散布。死ネシネしね!!!横の方でかさっと音がしたので、オノレコノ野郎と腰をひねった瞬間に、また激痛。歯をくいしばりゴキブリにこれでもかと液体を散布。腰はがくがく、ゴキブリ野郎もがくがくしてらあ。しばらくして一件落着。ゴキブリをゴミ箱にポイして気がついたら、全身汗だく。ポカリ一気飲み。まんじりともせずソファーの上で静止状態となる。やっと9時近くとなり、綱渡りのような歩行で町医者へ。普通10分の距離なのに、20分以上かかる。症状を説明したら、痛み止めの注射を腰にニ本打たれた。薬などもらい、超微速歩行で家に帰り、とにかく薬を飲んで寝床へ入って爆睡。

某月某日
久しぶりの休みの日だった。午後一時まで寝る。自分としても不思議になるくらい眠れる。ツアーやその他のことで疲れがたまっていたのだろう。真性の不眠症であれば、こういうときも眠れないのであろうから、多分ぼくのものは軽度なのかもしれない。変な夢ばかり見る。午後おそくなってから、ピットインの3daysの準備にかかる。8月には我がクアルテットにてレコーディングもひかえている。が、双方暑さのため遅々として進まず。たぶん気温湿気ともに東南アジアとさほど変わらないのであろう。こういう気候では、木陰でじっとうずくまっているのが正しい過ごし方である。東京ではそうはいかない。経済効率を追いかけて、気候がどうあれ世の中は目まぐるしく動き続けている。異常な事体ではあるが、これに乗り損なったものは怠け者となるシステムだ。ミュージシャンはどうであろうか。少なくとも、ピアノという楽器の性質上、このような高温多湿でいい音が出るはずがない。空気の乾いたヨーロッパ産である。いかにクラブが楽器に気をくばっても、閉店後は戸締まりののちエアーコンディションを切るだろう。楽器にとっては難儀な時期である。

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銀行に行き、買い物をすませただけで疲弊する。吸っている大気は空気とは呼べぬ。何かぬめっとしたガスのごとし。夜になっても気温下がらず。幸い食欲だけはいまだ落ちない。ただでさえよく眠れないのに、少し寝入ると大汗をかいて目覚める。再度うとうとすると、悪夢しかみない。いったいどうしろというのか。あと何年かすると、東京の夏は40°を超えるという。こうなったら、少なくとも、音楽にかぎらず、才能もセンスも、いろいろな資格その他すべて無意味である。体力のあるものだけが生き残る。これは原始時代と同じということだろう。近代化をめざしたがゆえの原始化である。人間はいったいなにをやっているのであろうか。

某月某日
渋谷文化村にマグリットを見に行く。とにかく外は蒸し暑い。マグリット、マグリットと口の中で念仏のように唱えながら電車に乗る。そうでもしなければ、途中で引き返しそうになるくらい不快な暑さ。それと人の多さ。マグリット、マグリット。この展覧会は的中だ。たまにメインになる絵以外、どうでもいいようなものが壁に架かっている展覧会もある。今回はマグリットのみ。しかも有名なもの、いままで見たこともないもの混ざっており、興奮。以前ウイーンのセセッションというミュージアムにクリムトを見に行ったことがある。そこで巨大な絵画群を見て腰を抜かした。それからと言うもの、画集は買わない。好きな絵は、はがきで集めている。解釈は人さまざまだろうが、とにかくこの色彩の上品さはどうだろう。ベルギーはトランジットしたことしかない。いつか必ず訪れてみたい国のひとつである。絵画と絵画の間に、マグリットの公演かなにかにおける言葉の抜粋が、プレートに刻印され、壁に架かっている。深遠な言葉にふかく感動した。これら短い文章は、フランス語と日本語で書かれており、残念ながらフランス語は読めないので日本文の方をゆっくり読む。フランス語の特製であろうか、はたまたマグリットのIQが星の高さほどあるのか、最初のセンテンスの意味合いが、後半になって逆説的になるものが多い。難解だが、不思議とその意味事体を、ぐんぐんとぼくの脳に裏側に焼きつける。ことばの重要性を、ぼくの心の奥までも差し込んでくるようだ。ノートの紙の隅に、めぼしいものを書き写していった。のち家に帰り、雑事をこなし、部屋の掃除。少なくとも、自分の住んでいる場所だけは心地よくしたい。

某月某日
今度はクアルテットのメンバーと、富山県富山市と魚津市へのツアーに出かけた。津上研太 BOZOのツアーから通算すると、3000キロもの道のりを車で移動している。お昼に竹野の家の近くである和光市にメンバー集合。一路富山へ。渋滞もなく、前回のように台風等の悪条件もなく、すいすいと走ったが、車内でのバカ話しに熱中するあまり、高速道路の降り口を見失い、砺波の方まで走ってしまう。富山インターで待っていてくれたコンサートの主催者の方に多大なる待ちぼうけを喰わせた。出だしからこうである。先が思いやられる。富山の演奏場所、日出町小劇場に5時きっかりに到着。なんだかんだいっても、時間どおりついたのには変わりない。さっそくサウンドチェックをし、速攻でホテルにチェックインし、シャワーなどを浴び、タバコを一本吸って、演奏時間となる。実に慌ただしいが、初日ということもあり、体力に余裕あり。実際今回のツアーは二回のみである。油断をするとひどいメにあうが、順当に物事がはこべば、前回のツアーよりはらくなはずだ。といっても演奏はもちろん全力をつくす。富山でのコンサートを企画してくれたのは、2年ほど前に行って演奏したクラブ木馬のオーナーS氏と、だいどころ屋という料理屋さんのオーナーN氏のお二方で、小劇場は、だいどころ屋の持ち物である。お客さんは満杯、クーラをつけていても人いきれと熱気でひじょうに暑い。みなまんじりともせず演奏をきいてくれる。劇場であるので、ライティングの関係でお客さんの顔がよく見えない。しかし、我々の音楽の中にある緊張感がダイレクトに客席に伝わっているということは、見えなくても自然に分かる。遠くまできてよかったと思う瞬間である。好評のうちに演奏終了し、クラブ木馬にて打ち上げ。何度も書くようだが、この日本独特の打ち上げという習慣、本当に感謝感激痛み入る。東京ではお目にかかれないような酒と食べ物にありつけるからだ。ここで前回も披露した我が密室芸を再演することを要求され、またまた流れにまかせ熱演。我が芸は、20代前半の頃から、キャバレーその他、いろいろなところで演奏した後のアフタアワーズに見聞きしたものと、その場の最年少者として、場を盛り上げねばならなくて、必死に開発したものがないまぜになって今にいたっている。オーナーS氏は、これを3rd stageとよぶ。ここでは詳しい内容は書かないが、みなさん腹をよじって笑う。S氏には、少なくともあと3回は富山に呼んでやるというお言葉をいただく。小劇場の方の演奏が評価されたのか、密室芸が評価されたのか、複雑な心境。まあ、どちらも評価に値するものであってほしい。何れにせよ、富山の皆様と楽しい時をすごす。

某月某日
翌朝、ホテルをチェックアウトし、S氏とだいどころ屋であう。S氏、朝からいきなりビールなど飲みはじめた。だいどころ屋のオーナーが朝市にてしこんだとれたてのイカなどを御馳走してくれる。朝から日本酒の古酒などもでた。それで捕れたてのイカを喰う。なんという贅沢か。禁治産者的快楽。そのイカ、半端なネタではなかった。半透明の堂々たるものをきざんで、生姜醤油で食べるのだが、口当たり良く、ぴんぴんしているが、噛むほどになんともいわれぬ滋味をだし、口の中で溶けて行く。このイカにかぎらず、我々は東京で一体なにを食べているのかという気になる。朝からほろ酔いとなり、そのままみなで別の割烹料理屋で昼食をとる。この定食もイカであった。イカ三昧の半日。コンサートの関係者に重々礼を述べ魚津に向かって出発。国道を海沿いに1時間で着くという。道すがら、わざと国道を外れて、海沿いの道を走行。静かなたたずまい。相当古い蔵のようなものが家の中に組み込まれた造りもあり、車窓から見ていて飽きない。人が少なく、おばあさんが玄関前に椅子を出して涼んでいたりする。ある意味二度と来ないような場所ではある。それだけに街全体の雰囲気がぼくには感慨深い。そして日本海。生まれ育ちも東京で、縁も所縁もないこの場所が、なぜかひじょうに懐かしく感じるのは、日本人のDNAのなせるわざか。太平洋側にある広大な雰囲気はないけれど、なぜかすごく深みを感じる日本海。区々の路地をはしりぬける。時々ペンキのはげかかった看板に「~~時計店」と書いてある。こういう地域の時計屋さんには、東京のマニアックな時計屋で高額で出回るプレミア付きの古い腕時計が、発売当時の値段のまま、ぽつねんとショーウインドーの中におさまっていたりする。じつはこのぼく、腕時計が大好きで、見るだけでも楽しい。高価なものはもっていないけれど。何ともいえない雰囲気の路地を、我々の4駆は進む。本日の演奏は、魚津にある当覚寺というお寺の広間で演奏する算段となっている。カンで走っていたら偶然お寺の前にでた。古い門をくぐると、左側に釣り鐘があり、本堂を支える円柱に、我々のポスターが貼ってあった。納涼ジャズとある。どうも我々の使命は、今晩のお客さんを涼しい気分にさせることのようだ。当覚寺の住職さんであるU氏と、今回の企画を実現してくださったK氏(この方も住職さん)と握手をかわす。さっそく本堂に楽器を搬入。天井高く、奥にはなにやら霊験あらたかな御本尊というかなんというか、ブッダ仏様がすくっと鎮座ましましている。隅にアップライトピアノが置かれている。みなでこれを本堂の真ん中に移動させさっそくサウンドチェックとなる。窓などすべて全開のナチュラルな環境。汗だくとなる。このお寺、日本海まで300メートルくらいか。海からの風が、塩気をふくんだ濃密な湿気をはこんでくる。汗がだらだら出るが、重ねて皮膚にじとっと皮膜ができたような感じも加わる。もともと空気の中にはお線香の香りもただよう。なんだか静かな心持ちとなる。良いコンディションのアップライトピアノであった。ひじょうに良く鳴る楽器である。こういう特殊な環境にかぎらず、お客さまが入ると、ステージ上の音の環境が微妙に変化するものだ。特にお寺のコンサートはぼくにとって初めてで、本番でのおとの環境がどうなるかはあまり予測できない。あとは状況に応じてメンバーとバランスを取り合うのみ。7時開演まで休憩。今晩の宿泊もこのお寺だ。檀家さんの集まりに使うのか、お寺の横の住居には、広い部屋がいくつもある。修学旅行みたいだ。前回の東北ツアーに続けて,CDを売り歩いている。今回が一応最後の演奏場所である。昨日の富山で思いのほか枚数が出て、もう4枚ほどしか残っていない。これから会社に連絡しても間に合いはしないだろう。CDのことはもう考えないこととする。

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そこはかとない眠気に襲われる。ここで寝るとぼけた脳がさらに使い物にならなくなりそうなので、魚津の街に散策に出る。商店街があり、思ったとおり古い時計屋が何軒かみつかった。すかさず中に入り腕時計をチェック。あまりめぼしいものはなし。農家の壁にかかっているような、でっかい壁掛け時計がたくさんある。古いデザインのもの。しかしさすがにこれらはもって帰れまい。商店街を過ぎ、海沿いの古い町並みに方向を転じ、路地裏などを歩く。ここは漁師街であるはずで、昔は色街もあったはずである。偶然そういう名のこりのあたりにでないかなあと思って歩いていたが、街並みはただただ静かであり、それはそれで面白い。耳の静養になる。海岸に出た。小さな神社がある。空は曇りとも晴れともつかぬ、日の光が空の向こうで乱反射をしているような天気で、とにかく暑い。しばらく日本海を眺める。頭の中が真空になる。何だか、暑いのにもかかわらずよい気分。気の向くままジグザグに歩いたので道に迷う。オフの日ならそれはそれで楽しめるが、もうそろそろ帰らねばならぬ時間。なんとかお寺の近くへ方向を定め歩き出す。ふとふりかえると、街並の向こうに日本海が見えた。手前の十字路のわきに、温泉の看板が立っている。夕闇に変わりはじめた空の色に、電柱をつたうケーブルがくっきりと見える。現実的に考えれば絶対にあり得ないことだけれど、なんだか昔この風景を見たような気分に襲われる。ひっそりとした街並。雨が降り始めた。さいわいお寺の前の道に出て、門をくぐった瞬間土砂降りとなる。間一髪。

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/演奏開始。お客さんには檀家さんが多いと聞いていたが、老若男女さまざまな人が、うちわを片手にビールを飲んでいる。お寺の本堂は満杯だ。ただでさえ暑いのにすごい熱気。演奏が進むにつれて、水を浴びたように汗が吹き出す。これだけ出ると、不快を通り越して陶然となってくる。メンバーも御本尊の真ん前で汗を吹き出しながら熱演。相手が誰であろうが、ぼくが感じていること、伝えたいことを真摯な態度でピアノの音にして、相手に提示するしかできることはなし。さいわいよい感じの拍手が曲間にはさまる。夕立ちで地面が冷やされ、少しは気温が下がるかと思いきや、大気中の湿気がさらに増した感があり。しかし、お寺の本堂という場所がもつオーラのようなものが、その場をある意味静謐な雰囲気にしている。1時間以上を二回、たっぷりと演奏した。頭の中が真空となった。通常、シャワーを浴びてビールを飲むのが順序だが、この夜ばかりはそんな悠長なことを言ってられない。カンビール一本一気に飲み干す。喉のあたりから水分を吸収して行くような感覚。胃の腑にはアワしか落ちない。消耗した。お寺の方々のすすめで、先程目にとまった近くの温泉へ汗を流しに行く。まずシャワー、湯舟、そしてサウナ、先程のビールががあーーっと体の外ににじみ出てきて動悸がする。空腹でもある。短時間の入浴で限界点。速攻で着替えて、打ち上げへ。とれたてのトウモロコシときゅうり、山海の珍味ナドナド。そして特筆すべきは、岩魚(であったと思う)を焼き魚にして、それを大きめの鉢によこたえ、上から熱めの日本酒を注いだもの。これにはまいった。河豚のひれ酒も好きだけど、これにはちょっとかなわない。辛めの酒に、岩魚の旨味成分、アミノ酸だかグルタミン酸だかがブレンドされて、飲むごとに味が変わる。これを皆で回し飲み。空腹と疲労感と入浴のあとにこの酒が効いた。何しろすいすいと入る飲み口。メンバーでいちばん早く沈没。寝床へ這って行く。

某月某日
早朝に目覚める。昨晩早く寝すぎた。遠くでお経の合唱が聞こえる。まんじりともせず布団の中ですごし、みなが起きだしたのに合わせ、隣の和室に行ってみると、朝食の用意がされていた。つみれの味噌汁、ヒラメの煮つけ、とろろ、温泉卵、サラダ。あまりにもすばらしい朝飯。デンマークをツアーしていた時、こんな朝食を夢見ていた。朝食後、歯磨き→ソーク→洗顔→楽器搬入→行水→着替え→忘れ物点検→住職さんとその奥様にわかれの御挨拶→車のエンジンスタート→高速道路→たまにトイレ休憩→で、東京着。家で荷物をほどき、お土産に買ってきた螢イカで日本酒を飲んで寝た。

某月某日
東北ツアーから帰り、その翌日、つまり昨日もピアノを教え、本日久しぶりの休日。疲れ過ぎてあまりよく眠れずといった感じで起床。長い間休日らしい休日をすごしていない。 STAR WARS EPISODE2など見に行こうと思い、念のため映画館に電話すると立ち見だという返答。そこまでして見たくないので、MIBを東急文化会館へ見に行く。映画なら何でもいいやと思って何の期待もせずに見に行ったのだが、それにしてもつまらなかった。場面転換がはやすぎて理解に苦しむ。僕にとっての渋谷は、この東急文化会館に代表される、今となってはこのような古い建物になってしまった。高校時代からの思い出の詰まった場所でもある。その感慨のみが暗闇のなかで僕の心に広がった。何れにせよ、気分転換した気分になれず。床屋に行き、マッサージを受け、そうめんを茹で、一日が終わる。

某月某日
本日、南博クアルテットのメンバーと供に東北方面へ。今年1月に発売された我がクアルテットのCD「GO THERE !」発売記念ツアーに出かけるのである。メンバーはおなじみ、竹野昌邦(SAX)芳垣安洋(DS)水谷浩章(B)の面々。移動は竹野の車。新宿ピットインに集合。前回の津上研太BOZOのツアーにもっていったバッグが使用不能となった為、小さめのフライトケースに荷物をつめ、なんとか荷物と楽器をうまく配置を考え積み込んでみたが、ぼくのフライトケースだけが入らないことが判明。急いで新宿丸井にポリエチレン性のバッグを買いに行く。30分以上かかってしまった。よってピットイン前で待つメンバーのひんしゅくを買う。出だしから不好調。しかもメンバーからは、暑いから冷たいお茶をコンヴィニエンスで買ってこいとの命令までされてしまった。リーダー形なしである。小一時間予定の時間をオーヴァーし新宿を出発。一路最初の演奏地である宮城県気仙沼のクラブ、ヴァンガードをめざす。東北自動車道に乗るまでの渋滞で、予定時間をさらに遅れ、気仙沼に到着したのは夜の10時を過ぎたころであった。途中大形台風の影響か、強い雨風にさらされることが多く、またさらに時間をくったのも災いした。気仙沼は、過去もうすでに4回ほど演奏のため訪れた場所である。静かな静かなしずかーな町であり、漁港からすぐ届けられる海産物は新鮮。車をおり手足をのばす。たとえ東京から7時間かかるとは言え、同じ日のうちに、全く違う環境にすっと降り立ってみると、緑濃く、台風は接近、磯の香りがほのかに臭う街角、古い料亭のようなかまえの割烹料理屋、あまり人気のいない商店街、などがまわりにあって、ある意味陶然とする。気仙沼には仙台方面から国道でアクセスするしか道はない。しかしそれだけこのあたりは静かであり、高速沿いの各地域が失ってしまった平穏さがまだ残っているように思う。日本全国高速でかためる必要もあるまい。僕は気仙沼のこういう平穏さが、いまとなっては貴重なものではないかと思うのだが。さっそくメンバーと供にヴァンガードに挨拶に行く。閉店後まってくれていたオーナーのK氏に御挨拶。そのまま近所の居酒屋へと招かれる。東京の三分の一の値段でカツオ、まぐろ、などなどをさっそく御馳走になり、焼酎を飲む頃にはすべて終了のサインが頭にチカチカとする。K氏はといえば、まだビールが飲みたらなそうなようす。居酒屋閉店後、K氏行きつけのスナックに同行。3~4年前、デンマークのコルネット奏者、キャスパー・トランバーグ以下デンマーク人 4人でツアーした時にもつれてきてもらったスナックである。その時キャスパーは、何とふるまわれた寿司を肴に、ニ合徳利12本を飲み干すという荒技をこの大平洋岸の町でやってのけた。さすがヴァイキングの末裔である。そしてそれが、いまだに気仙沼界隈で伝説となっていることを、そのスナックで知った。漁師がメインの客層であるこういったスナックで、酒の量を語り継がれるということは、名誉なのか不名誉なのか。何れにせよ、僕がそんなデンマーク人をこの町につれてきたのが発端だ。感慨深くなっていると、横にすわっている水谷の酒量がぐんぐん上がっていくのに気がついた。彼は仕事柄,都内で演奏する時は、楽器を運ぶため車で仕事に向かわざるをえず、大好きな焼酎が飲めない。しかしこういうツアーの時は、終電や検問の心配もなく、大いに酒が楽しめる。日頃の条件への敵討ちの意味もあるのかもしれぬ。さも楽しそうに飲んでいる。しばらくしてホテルに帰る。疲れているのにまた眠れず。じっと台風状況をテレビにてチェック。明日の客の入りが心配だ。

某月某日
早朝に目覚める。夕方のサウンドチェックまで優に9時間ほどの時間がある。朝食をとりに階下へ。JR気仙沼駅の真ん前にある、こじんまりとした居心地のいいホテル。朝飯を喰ったとて、ある意味午後まで手持ち無沙汰である。何か有効に時をすごす方法はないかと考え、マッサージを受けることにした。午後2時に予約を入れ、昨晩寝れなかった分をとりもどす為、少し横になる。テレビで再度台風情報を見る。状況はよくない。今晩東北方面は相当荒れるとの予報。客の入りがいよいよ心配になってきたところでマッサージ師登場。50過ぎのきょとんとした、ジャージをはいたオジサン。さっそく背中に指をあてる。首も方も背中もガチガチだとのこと。指が通らないのだそうだ。ということで最初に整体治療を受けることとなった。ベッドのわきに立たされ、首をおもいきり引っ張られた。ボキガキボキキキ。引っ張られた瞬間背骨がこのように音をたて、頭の中がいきなりスッキリした感じとなる。しばらくして、うつ伏せで首をひねられる。ガキキキゴキ。不眠は首の筋肉がかたいことによって起こるといわれる。なるほど、首をひねられた時の音から判断するに、相当かたくなっていたようだ。交感神経の矯正にもなる。考えてみれば、生まれて初めての整体治療だ。僕の頭の中は爽やかになりつつあるのに、窓の外の風雨はだんだんと激しくなってゆく。

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後ヴァンガードにてサウンドチェック。ピアノにはマイクの類をいっさい使わず、今晩はアコウスティックな演奏だ。クラブが入っているビルが古いので、床がかたく、天井もちょっと高いので、いい響きが期待できる。みなで寄り添うようにセッティング。演奏前にちょっと何か食べようと町にでたら、火の見やぐらのようなところから、崖崩れ、大雨に注意という放送が町中に響いていた。これはどう見てもイイ徴候とは言えない。クラブに戻りじっと開演を待つ。開演30分前ぐらいから雨風が少し弱まってきた。ぽつりぽつりとお客さんがヴァンガードに入ってくる。いいぞいいぞ。きけばこんな天気の中、隣町や、かなり遠いところからの人も混じっているとのこと。ひじょうに嬉しい。よい演奏をせねば。演奏中は、雨風のことを気にするヒマはない。各楽器のバランスひじょうに良し。芳垣氏のドラムが、よくダイナミクスをコントロールした上で、すばらしいひらめきを演奏に与える。こんな天気なのに店内は満員、みなモノスゴイ緊張感と集中力で演奏に耳を傾けている。終演後CDを売る。みな嬉しそうだ。K氏も大喜び。音楽をやっていなければ会うことはなかったであろう人たち。丁重に礼を述べつつCDにみなでサインをする。演奏終了と同時に雨足が強まる。運がよかった。ずぶぬれになりながら楽器を車に積む。オーナーのK氏が寿司をふるまってくれた。シャリより大きいネタがのった寿司である。みごとという他なし。目と鼻の先が漁港である。僕のいちばん好きな食べ物、雲丹がすごい。醤油をつけなくても、海そのものの塩分がまだ生きており、えも言われぬ食感である。しばらくして、K氏のもてなしに礼を述べ、ホテルに帰る。台風は遠ざかって行く。

某月某日
気仙沼のホテルを午後出発。ヴァンガードのオーナーK氏に挨拶の後、本日の演奏場所、山形県山形市をめざす。僕は地図を読むのがひじょうに苦手で、いつもみなにバカにされる。例えば、車が地図上では上から下に走っている場合、僕は地図を逆さにしないと、右折左折の判断ができなくなってしまう。このように、上下がはっきりしていればまだいいのだが、上下の感覚も曖昧な場合、地面と平行にした地図帳をぐるぐるまわさないと、自分がどこにいるのかさえ分からなくなってしまう。よって、助手席に僕がすわっていると、どちらがハンドルをまわしているのか分からないと、メンバーから揶揄されるはめとなる。ということで、今回僕は後ろの席にでただぽつねんと座っているしかない。役立たずのリーダーである。運転は竹野、水谷が担当。いつも車を運転しているので慣れたものである。芳垣アニキが助手席でナヴィゲーターとなり、運転手に指示を出す。一旦気仙沼を離れると、すごい光景が我々の前に立ちはだかっていた。川はあふれかえり、道路わきには小さな土砂崩れがいたるところに起きている。一見沼かなと思うと水田だったり、台風被害はかなりなものだ。まず最短距離のルートを行く。途中で通行止めとなっている。一旦山間部を気仙沼方向に戻りつ、別ルートを行くと、消防団風の男が道の真ん中に立っており、ここも通行止めだという。東北自動車道までたどり着きたい、道を教えてくれと言っても、ここには今情報がないと言う。慣れぬ土地で地図とカンを頼りにいろいろと試したが、軒並み通行止め。結局いちばん遠回りの海沿いのルートを行くこととする。ここが通行止めになっていればもう山形に行く方法はない。長い時間をかけて、やっと仙台の南側に到着。どうやらこの先は流れているらしい。一路高速道路で山形へ。通常3時間ほどの距離なのに、6時間以上かかって山形の会場に到着。そのまま速攻でサウンドチェックをし、着替えたら演奏時間となる。ここ山形でいつもお世話になっているA氏、かなり我々のことを心配していたようだが、演奏が始まり、ほっとしたようす。A氏には過去何度もコンサートを企画してもらい、そのつどひじょうに世話になっている。いつも僕のことを「ミナミしぇんしぇ-」と、親しみをこめて呼んで下さる。僕は山形に来ると、なぜだかいきなり「せんせー」になってしまうようだ。山形駅の裏に新しくできた建物の中にある新しい小ホールでのコンサートである。山形はすでに天気もよく、客の入りも上々で、CDもかなりの枚数が売れる。終演後、ホテル近くの居酒屋にて打ち上げ。明日は移動のみであるので、僕も少し酒量をあげる。水谷は、両側にきれいな女性にはさまれて座る状態となり、絶好調といったようす。少し酒が入ると、非常に疲れていたことが体感される。しかしまあ、いつものことだが、ホテルの部屋に帰っても、すぐには眠れない。まんじりともせず天井を見つめる。

某月某日
朝11時に山形のホテルをチェックアウト。A氏の経営するカフェに挨拶がてらコーヒーを飲みに行く。今日は山形から、宮城県角田市までの移動のみ。経費節約のため今日明日とも、角田のクラブ、エヴァンス89’のオーナーの家に泊めてもらう算段となっている。何れにせよ、あまりはやく行っては迷惑と思い、観光がてら夕方過ぎに角田に到着するよう、地元の人によいルートを教えてもらう。蔵王からお釜という休火山にある湖を見て、一山超えて宮城県入りするルートに決定。A氏に礼をのベ出発。山形市の中心からどんどん山の上に登って行く道を走り、蔵王の温泉街にて蕎麦を食べる。角田のオーナーへのお土産など買った後、露天風呂に入る。硫黄のきつい温泉で、眼鏡をかけて入ると金属部分が腐食するとのことだが、なにしろ露天風呂で足場が悪く、ころんで怪我でもしたら洒落にもならぬ。眼鏡着用のまま入浴。木漏れ日の下で川のせせらぎをききながら体をのばした。昨日とはちがいひじょうに贅沢な時間をすごしている。東京では得られない時間の流れだ。僕はアメリカにいるあいだ、ほとんど湯舟につからず、シャワーのみの生活をした結果、あまり長時間風呂の中にいることができなくなってしまった。みなより早く露天風呂をでて、小川の横にある休憩所でポカリなどを飲みながらタバコを一服。マッサージによってのばされた背中の筋肉が、より柔軟になった気分。ピアノ演奏とは、僕にとっては、全て腰で受けとめる運動であり、その疲労度もまた激しい。去年は一回ぎっくり腰になった。ゆっくり休んで温泉にでも入る時間を、なんとかこれからも見つけなければならないのかもしれない。しばらく休憩後、休火山の噴火口の中にある湖を見に行く。車でしばらく走った後、山頂をめざすリフトに乗り換える。登るにつれて、涼しいのを通り越して寒くなってくる。風も強い。ふだん絶対来ないようなところに、しかも仕事仲間であるクアルテットのメンバーがリフトにのっているという図は、なんだか滑稽。いや、いちばん滑稽で様になっていないのがこの僕であったろう。竹野の趣味は釣りであり、水谷の趣味はキャンプだ。両者とも、アウトドアに身をおくというそのこと事体に慣れているのである。実際、山の上のリフトなど、小学校低学年以来のった記憶がない。休火山の火口部は神秘的なグリーンであった。不思議となんの感慨もなし。その火口部そのものよりも、荒涼とした山頂や、広い空、雲の下に切れ切れに見える山間部の平野などの眺めそのものによって、気持ちと心が広々とする。後リフトの乗り場で休憩。簡単なお土産のようなものもおいている鄙びた場所。みな各自暖かいものを口にする。僕はカンコーヒー。甘さと苦味が体にしみる。

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角田に到着したのは午後6時頃であった。お土産は用意していたが、何しろ別名ハイエナ軍団である。途中マーケットにより、つまみの材料などを購入。クラブ、エヴァンス89’のオーナーT氏の家になだれ込む。まわりは真っ暗。家の前は畑であり、そのまた向こうは木々に覆われた丘陵地。家の裏手はなだらかな山の中腹という環境。ひじょうに静かである。家のつくりは、天井が高く、いたるところに木目を配置したモダンなもので、居心地がいい。オーナー夫妻とゆっくりとした晩さん。T氏のクラブも、過去何度もお世話になっており、昔話をしたりして和やかにすごす。星がものすごくきれい。室内は禁煙なので、広い広いベランダにて喫煙。その度に空を見上げる。これでも最近明るくなって見えなくなってきたほうだという。前の畑からか、ものすごい数のカエルのなき声がきこえてくる。よくきいていると、何やらたまに、ものすごくでかくて低いなき声混ざってもくる。別の種類のカエルらしい。じっときいていると、脳内にα波がだらだらと出てきそうな気分だ。両耳にきこえてくるカエルのなき声は、ステレオという概念を超えて、360度四方から渦巻くようにきこえてくる。と同時に、ある一定のなき声との距離感も客観的に感知できる。T氏によると、カエルの泣き声は、求愛の声とのこと。うーん、知らなかったなあ。そう考えて再度カエルの声に耳をすますと、きれいなお星様とその声が合体して、何か天体的事象にまで感覚が及びそうになる。大袈裟だけどそう感じたんだなあ。ずっときいていると、ある意味平衡感覚が失われて行くような感覚になる。しかしそれは、乗り物酔いのような不快な状態ではなく、なんだかあぐらをかいているベランダの桟事体がゆらゆらとなってくるような心地よさである。夕方この家についた時には、カエル君達の合唱はまだそんなに大きくなかった。みな一体どこに居たのだろう。などと贅沢な夜をすごさせて頂いているうち、猛然と眠くなってきた。長い夜を和やかにすごさせて頂き就寝。

某月某日
さすがの僕も、昨晩はよく眠れた。短いあいだだが、昨日は登山めいたことまでしたからか、逆に体が軽い。日中猛然と暑くなってくる。天井が高く居心地の良い家なので、不快感はなし。T氏のお母さんがお昼御飯を作ってくれる。目つきの優しいお母さんで、何気なく我々のことを気づかってくれる。広い台所で、どこからかもぎたてのインゲンなどを茹でて出してくれた。日本経済が崩壊しようがなんだろうが、こういう環境が一番強いのだろうなあ。時間の流れもゆっくりしていて、コンピューターもファックスもないから、ただぼーっと居間のソファーに座っていた。普段では得難い時間ではある。

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午後6時にクラブ、エヴァンス89’に行きサウンドチェック。今日もお客さんの入りは上々。そして嬉しいことに、エヴァンスのピアノはいつも状態がよい。タッチも爽やかで調律もばっちり。やっぱり良い楽器を演奏できるとこちらもハリキリ度数が上がるのである。演奏は非常に好調。毎回聴きににきてくれるお客さんもとても嬉しそうだ。このクラブはコテージ風のつくりであり、天井が三角形で高い。それが自然のリヴァーブとなって演奏をさらに彩る。度を越した手前味噌は、この国では御法度であること、重々承知で書かせてもらうと、我がクアルテット、メンバー全員が掛け値なくすばらしい。特に、水谷、芳垣両リズムセクションの安定度と堅実さ、ファンキーな雰囲気は無二のものと自負できる。その土俵の上で、竹野が嬉々として大好きなサックスを鳴らすのである。面白くなってあたりまえだ。演奏終了後、T氏亭で打ち上げとなる。僕自身なぜだか酒が進まず、みなより早くふとんに入る。ふと目がさめると午前4時であった。昨晩ぐっすりと寝たせいか、またまた変な時間に目がぱっちりと開いてしまう。再び眠ろうと悶える。しばらくしてタバコが吸いたくなってきたので、さしあし忍び足、昨晩カエルの声をきいたベランダに向かう。網戸をあけると同時に雨が降り出した。明け方前の時間、カエルの声はもうあまり聞こえぬ。サ-っと雨が降り出すと、まだ熱があまっていたのか、地面が雨を吸い取るようなジュンジュンという音がきこえてきた。しばらくすると、広い庭も湿ってきて、雨の音が瑞々しい音に変化した。こんな静けさの中で、独り雨の音をきくなど久しぶりだった。カエルの声をきいた時とおなじく、ベランダにあぐらをかいてゆっくりとタバコに火をつけ、耳をそばだてた。とてもきれいな音だ。カエルの声より変化に富んでいる。何万粒もの水滴が、一瞬一瞬大地に降り注ぐのだが、それぞれの音がまた不思議なことに強弱を伴って、僕の耳に届いてくるのだ。こういう音があるなんて。こういう音を感知するには、まず基本的にまわりの環境が本当の意味で静かでないと聞こえないのであろう。ベランダの上の庇から、水滴がたれてきた。それが雨音と混ざる。ものすごいサラウンド効果である。カエルの声と違い、遠近感も感じない。時には、左側の雨量が、微妙に右側より多くなったり、またその逆もあり。雨量も一定ではない。雨樋をつたう水の音が、この雨のサラウンドにまた別の効果を加える。ずっと雨音に耳を傾けていると、だんだん雨音がしているという状態が普通となってきて、何やらひじょうによい気分となった。首を少し右に向けたり左に向けたりすると、また微妙なる音の変化が楽しめたりもする。東京にいては、この音をきくことはできまい。そうやって、しばらくベランダに座っていた。

某月某日
今日は、ここ角田から、福島県いわき市へ行って演奏予定。T氏とその家族の方々に重々お礼を述べて1時頃出発。4時いわき市のクラブ、シャンテ・ハウス着。ホテルにチェックインする前に、楽器を搬入の後サウンドチェック。演奏時間まで各自ホテルの部屋で休憩という、絵にかいたような手順。ここシャンテのオーナーY氏にも、過去なみなみならぬ世話になった。前回、岩瀬立飛(DS)安カ川大樹(B)というメンバーで東北をツアーした。CD 「3×1」の発売記念でまわったのだ。じつはその時、僕のブッキングミスで、ここいわきに前ノリしなければならなくなった。(つまり一日早く着いてしまった)Y氏は快く、我々のためにホテルを用意してくれ、そしてなみなみならぬ歓待で我々を受け入れてくれたのだ。それがどういう歓待かは詳しくは書けない。企業秘密といっても過言ではない。しかしこの僕がべろべろに酔っぱらって、カラオケで「くちなしの花」を歌うところまでいったと告白すれば、だいたいどういう状況だったかは、分かっていただけるだろう。僕の秘密を全て知っているY氏には、だからなあ、頭が上がらないのである。シャンテ・ハウスは、JRいわき駅の真ん前にあって、なかなかイイ雰囲気のクラブで、高そうなワインなども置いてある。照明も僕好みで、お客できたらどっぷりと時間をかけて遊んでしまいそうな場所ではある。この日もおかげさまで店内の椅子はほぼ埋まり、演奏も好調。曲が終わるごとにたくさんのかけ声が入る。お客さんもさることながら、オーナーのY氏、ことのほか我々の演奏に喜んでくれて、CD「GO THERE!」に入っているORACIONという曲を、再度リクエストするというハプニングまで起きた。作曲し、演奏する側にとって、すでに1st setで演奏した曲をアンコ-ルで求められるということは、ことのほか嬉しい。演奏後、Y氏に南極の氷で作ったウイスキーのロックを御馳走になる。初めての体験。氷事体が、淡い気泡の集合体でできている。何でもその気泡の中の空気は2万年前のものだそうで、今回のツアーは、何やら神秘体験めいたものが多い。2万年前の気体を鼻で嗅ぎつつゆっくりとウイスキーを味わう。氷を明かりで透かしてみると、えも言われぬ乱反射をおこして、なんだかものすごくきれいに輝いて見えたりもする。Y氏に、またまたよい気分にさせてもらったのであった。メンバー一同ツアーの無事終了を祝い乾杯。

某月某日
東京に向け出発。成果の多いツアーであった。高速を走り東京が近付いてくるにつれ、当然ながらごみごみとしてくる。湿気も多いし空気もよくない。しかし、見なれた風景と環境が近付くにつれ、一種の安堵感が体に広がる。ここには、気仙沼のような温かみもないし、じっと雨音に耳を傾ける静けさや時間もない。カエルの声も聞こえない。こういう環境に安堵してしまう僕は、やはり不自然なのだろうな。家に帰り荷物の整理。外に何か食べに行く気力無し。レトルトカレーを食べて就寝。

某月某日
今年の1月に行われた南ヒロシクアルテットのデンマークツアーの日記が見当たらないことに気付いた。新しくこのWEBをチェックする方もあるかと思い、サイド掲載することにする。日時は前後するけれども。尚、新しい日記はこのツアー日記の下にいくつかあり。御一読を。 HIROSHI MINAMI QUARTET & 板橋文夫(P)デンマークツアー日記 1月18日 NARITA TAKE OFF 実はデンマークにツアーに行ってきたのであった。横浜ジャズプロムナードの抜粋メンバーとして10月に来日したデンマークのバンドとの文化交流の日本勢はタイトルにある通り、この二組となり、日本ジャズピアノ界の鬼才、板橋氏はソロピアノでの参加だ。早朝この個性溢れる面々、板橋文夫、水谷浩章、竹野昌邦、芳垣安洋、南博が成田に集合。SASにてダイレクトにコペンハーゲンへと向かった。飛行機は少し苦手。だいたいあんなものが空高く飛んでいるという状態事体まだ信じられない。良く考えれば考えるほど気分が悪くなってくるので、ふだん読めないような本を持ち込む。今回は司馬遼太郎。ちょっとした安定剤もお友達。だいたい大勢の人が狭いところに隔離状態となり、窓も開かないなんて、飛行機の換気はどうなっているのだろうか。人々の草いきれのようなもの、げっぷ、口臭、放屁、たまにはげろ、脱糞、こういううものの臭気はどう処理されるのか。まあぼくもそういうガスを発する人間の一人ではあるのだが。100年前の人間が見たこともないような景色を鑑賞できるというポジティブな面もあるけれど。人類の歴史上、科学の力で生活しはじめたのはごく最近といってよく、もともと人間の体はあんな空高いところに長時間いるようには、いままで発達してこなかった筈なのだ。大気圏に近付けば近付くほど、電磁波とか、太陽から発射される有害電波などの影響を受けやすくなる。しかしヨーロッパに船で向かうこともできない。現代は時間との戦いだ。タバコも吸えず、長時間同じ体勢というのもつらい。一年前同じくSASでコペンハーゲンにいったとき、禁断症状が起きた。読んでいる本の行間がまえに進まず、同じ行間を何度も何度も読むのだが、脳みそに意味が入ってこない。字は読めるのに意味が分からない。フライトアテンダントと仲良しになって、一本だけ吸わせてくれと嘆願する作戦に出た。成田を出て8時間ぐらいたったころ。ちょうど他の乗客は寝静まって、食事等もひとだんらくしたあたり。乗務員が後ろの方で世間話をしてうだうだしていた。まずにこやかに挨拶。ヴァイキングの末裔の女達。碧い目の虹彩に窓からの太陽光線がキラキラ。コペンハーゲンに演奏に行く、現地に友達がたくさんいる、ジャズハウス知っていますか、そうそう、ストロイエというメインストリートの裏にある、ああ、行ったことあるんですか、云々。なごんだところで、すかさずきいてみる。あの~実は今強烈にタバコが吸いたい。まあ気分が悪いとも言える。ここで一本吸わせてもらえないか?誰にも迷惑はかからないと思う。8時間以上タバコを吸わないなんて、なんか人間性を否定されているような感にで、、、、、、とにかくフライトアテンダントがイエスというまで言葉を区切らずまくしたてた。彼女らの顔に職業的な笑顔がファーッと浮かんで、そのうちの一人が壁にある引き出しから、なにやらガムのようなものを出してぼくに渡す。禁煙ガムです、噛んでると落ち着きます。こちらはニコチンを吸い込むパイプ、どうぞお持ちください、、、、最近日本でも売り出されたニコレットだった。早速コペンハーゲンの薬局でこれを大量に入手。今回の旅でももちろん携帯している。これで今回はなんとか読書ができるのだ。ナサケナインダカナンナンダカ。

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コペンハーゲンでは雨がしとしととふっていた。空港はデザインが秀逸。細かいところにこだわりがあり、しかもごてごてしていない。ヨーロッパの空気を吸うと、いままでのヨーロッパでの記憶がよみがえる。同時に凄くのどもかわく。雨模様にもかかわらず乾燥しており、カールスバーグ、ツボールグなどのビールがうまいはず。危険な徴候でもある。空港には今回のプロジェクトのデンマーク側の責任者、デンマークジャズ協会のD氏と、今回一緒にツアーしてまわることとなるツアーマネージャーのステファン・ガーヒルド君が迎えにきていた。ステファン君、すごく若い。大丈夫だろうか。

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一行とコペンハーゲンのホテルに向かう。1年ぶりの街は冬だった。この前きた時は5月の中旬で、気候もよく、お天気の日が多く、快適だった。今回は、天気予報によると曇り雨の日々がほとんどだ。最初にコペンハーゲンにきたのが冬で、こんな天気だった。重い雲が街を覆っていて、それはそれで風情があるのだが、情緒的なことは抜きにして、天気の加減で道路状況が悪くなると、いろいろと支障がでてくる。でもなあ、街々の建物の屋根の色と、その屋根にはまっている屋根裏部屋の窓と、この薄かっ色の空の色とのコントラストがなあ、おれはたまらなく好きなんだなあ。ホテルのロビー横にある応接室でD氏とミーティング、これからの事について話し合う。時差ぼけの頭をふる回転させて応対。日本との交流に事の他先方は積極的である。デンマークとの関係を築くきっかけとなったコルネット奏者、キゃスパー・トランバーグをまぜての打ち合わせを22日のコペンハーゲンでの休日にまた話し合うことをきめる。今年春にはEWEからキャスパーのクインテットで「MORTIMER HOUSE」というCDが発売される予定だ。これにからめて双方なんらかのプロモーションをするということで次回のミーティングでの話題が決まった。ぼくが難しい話をしている間、他のメンバーは早速コペンハーゲンの街を徘徊。その後D氏とステファン君と供にホテルの中にあるイタリアンレストランで夕食。水谷が飲みはじめた。デンマーク特産のアクアヴィットという酒だ。ポテトからつくってあるそうで、かなり強い酒。ぼくも最初にこちらで飲まされたときは、ひどいめにあった。まず乾杯する時に一息に飲み干すのが流儀。その飲み会に新しい参加者があらわれるとグラスの残りを飲み干し、また新しくついで乾杯してさらにまたそれを飲み干す。それをくり返していたら、腰が立たなくなり、外では歩けなくなり、凍死しそうになってしまった。その失敗談を、何度も水谷に伝えてあるにもかかわらず、これぼく好きですよ、全然へっちゃらといいつつ、七杯も飲んでしまった。まあ、すぐ病気で倒れるメンバーより心強いけれど、彼の肝臓はいったいどうなっているのだろう。他のヨーロッパの国々と同じく、料理の量がひと皿ひと皿ものすごく多くて、喰って飲んだら疲れが体から吹き出しそうになり、部屋に帰って就寝。目まぐるしい一日。 1月19日 ODENSE CLUB DEXTER 早朝に目がさめてしまった。5時だった。時差ぼけの典型的な徴候。窓をあけると夜明けとも夜ともつかぬあの独特なヨーロッパの空の色。空気が乾燥していて、木々の葉もしわしわに見える。マグリットの絵に出てくる不思議な風景の空の色。まあ、マグリットはベルギーの人だけど、なんとも言えない雲の質量と透明感。今日の仕事はオーデンセという街のクラブ「デクスター」にて演奏。11時にホテルのロビーに集合後出発。運転はステファン君。眼鏡をかあけてちょっとお坊っちゃん顔の青年。しかし話をきいてみると、この仕事についてから結構キャリアが長い。少し安心した。いずれにせよ今回の日本勢は国際免許もなし、道も分からず、ハンドル、道など全て反対で、どうあれ彼に全て任せるしかない。彼は運転の他、楽器運搬、演奏場所にエンジニアーがいない場合のPA操作、通訳をかねた雑用もろもろ、全てこなすこととなる。昨晩プレゼントしておいた我がCD「GO THERE」をさっそく聴いたらしく、いろいろと意見をいう。こちらの音楽に興味を持ってくれたようだ。日本から来たジャズミュージシャンって、多分仕事を受けた後、彼はイメージしずらかったのだろう。少し嬉しそうだった。まあということで、滑り出しは好調。田園風景の中をオーデンセに向かって走る。

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オーデンセは彼の有名なアンデルセンの生まれた街として有名だ。お城のようなホテルにまず荷物をおろす。長い廊下を歩いて各自自分の部屋へ。窓から中庭の見える部屋。建物事体が中庭を中心に輪を描くようにできており、窓の向こう側に別の部屋の窓がまじかに見える。コペンハーゲンからここ迄約4時間、クラブに入るまでつかの間の休憩。ここで眠ってはまた夜が眠れなくなる。しかし時差ぼけ。眠らないように休むのが無理と分かり、外に出る。演奏直前に食べると眠くなるので、オーデンセの街を散策しつつ簡単に食べられるものをさがす。メインストリートにチャイナのテイクアウトを発見。デンマークに来てそうそうすぐこれだ。しかし週末でもあり、他の店はしまっているか、開いているのは本式のレストラン。焼そばの「ようなもの」を持ち帰り部屋で食べる。演奏場所のデクスターは以前キャスパーのバンドで演奏したことがあり、ピアノの状態、クラブの雰囲気等分かっていたのだが、前回来たのは5月であり、今回クラブの中にも冬の雰囲気がただよっている。サウンドチェックの後演奏が10時からだということを知らされる。てっきり8時からと思っていた我々は昼を喰わなかったメンバーと一緒に、食い物を再度さがしに行くはめとなった。契約には、各クラブがhot mealを出すとあるにもかかわらず、デクスターは用意がないという。このことは後また解決するとして夜のオーデンセを徘徊。さっきとはまた違うチャイナのテイクアウトを見つける。土曜の夜は、見事なほどどこも開いていない。しかし中国の人が良く働くおかげで、こんな北の果てでさえ、何かしら口にあうものが食えるのだ。なんだかんだ時間がかかって、日本の中華の量の三倍はある焼そばだの炒めものだのを喰い終えたら、板橋氏の演奏時間がまじかに迫ってしまっていた。食い過ぎた、ねむいを連発する板橋氏。店の人が呼びにくる。最初に書いたとおり、今回は横浜ジャズプロムナードの抜粋メンバーとしてデンマークに演奏に来た。ダブルコンサート形式で各地をツアーする。板橋氏のピアノソロが1SET,HIROSHI MINAMI QUARTETが 2SETという趣向。先輩ピアニストに引導を渡して道を開いてもらう形となった。二階にある楽屋に盛大な拍手が聞こえてきた。板橋氏の演奏が受け入れられている模様。よかったよかった。膨張した腹を抱え、じっと観客の反応に耳をこらす。そうでもしていないと、こっちも眠りそうだから。板橋氏の演奏が進むにつれて眠気が増してくる。これではイカン、せっかく先輩ミュージシャンが死ぬ気でがんばっておるのに、こんなテイタラクでは。自分の番がまわってきた時には、相当な眠気とだるさに体が痺れてきていた。とにかくステージにあがる。まだ前回の板橋氏の音楽の余韻が残っている。クラブに集まるお客さんの顔が、テーブルの上のロウソクの明かりでゆらゆら。バーンとバンドで音を出した瞬間眠気が吹っ飛んだ。やっとここまで来たんだ。ただでは帰るか。でもカミカゼ日本ジャズは嫌だからリラックスするところはしてッと。ものすごい集中力でお客さん達はきいている。何とか上野動物園のパンダ状態からは抜けだしたい。日本から来たジャズバンドなどなかなか見る機会はないだろう、この北の果てで。そう、そういう珍しさの上にのっかって演奏するのだけは嫌だった。それがきっかけでお客さんがたくさん集まることは第一歩目としてかまわない。でも音楽事体は、それを演奏するものが何ジンだろうと、音楽事体が評価され喜ばれるものでありたいと思った。嬉しいことに、バンド事体が良い局面を迎えたり、良いソロをとったりすると、タイミングの良い拍手が自然と客席から沸き上がった。いい感じだ。ちゃんと聴いてくれている。

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その夜は打ち上げもなくさっさとホテルに帰り終了。音楽的にも良い滑り出し。 1月20日 CONCERT AT LYNGBY KULTURHUS LYNGBY 翌日、なんと朝4時頃目がさめてしまった。疲れている筈なのにである。何とかまた睡眠を取ろうとこころみたが果たせず、テレビをつける。デンマークの放送の他、スエーデン、ドイツ、フランス、スペイン、トルコなどの番組が見れる。それにCNNとNBCだ。日本の話題が少し。小泉首相とアフガニスタン暫定政府議長カルザイ氏の東京での話題。すごく遠いところの出来事に感じる。この前までいた場所なのに。荷物を詰めかえ丁重にシャワーを浴びても時間があまる。朝食の時間は7時から。早くに目がさめたのと時差の関係で異常な空腹。下のレストランに7時きっかりにおりていったら誰もいなかった。いろんな種類のパンに、ハム、チーズ、ゆで卵、少しの野菜、各種のバターの朝食。酪農国だけあってうまい。特に卵や肉の味が濃い。人によっては臭く感じるかもしれないが、ぼくは好きだ。逆に日本のものがまがい物に思える。天井の高いレストランで、朝からともされているロウソクの火を前にこういう朝食をとるのも楽しからずや。ロビーに11時半に集合し、次の演奏場所へ。今日はコペンハーゲンの郊外のリュンビーという街での演奏。4時間のドライブ。もと来た道を首都の方に戻るかたちとなる。ステファン君のはなしだと、リュンビーはお金持ちや、各種の仕事の要職につく人の住む場所だということだ。演奏場所についてみると、そこはさながら日本でいう公民館のようなところだった。その建物の中のスペースがコンサートホールのようになっており、ベーゼンドルファーが置かれている。建物は新しく近代的。しかしそこかしこにロウソクの火がともっており、北の国に住む人々の何かしらこだわりを感じる。サウンドチェックの後、4時間ほど4階にある部屋をあてがわれ、演奏時間まで待つこととなる。ここでは契約どおり、食事が出るという。ツナサンドをたのんだ。演奏まで4時間、ゆっくり喰ってゆっくり休もうと思った。窓の外はあいかわらず曇り模様。不定期的に霧雨のようなものが舞う。休み時間が長すぎても疲れるものだ。今日の夜は再びコペンハーゲンの初日にとまったホテルに帰るのである。デンマークの公民館の会場の上の部屋でとぐろを捲くしかない。運ばれてきたツナサンドは巨大なもので、パンの間にツナペーストがオテンコモリ、ドカ~~ンという感じではさまっていて、竹野とシェアーしてたのんだイタリアンサラダもけっこうな量。いくら時間をかけて喰ったってまた眠くなりそうだ。主催者には悪いが半分のこすことにする。会場は1階で控え室は4階、エレベーターが壊れていて、主催者側の若者がわざわざ飲み物食い物などを階段で届けてくれる。お湯をたのむのを忘れた。日本から持参のほうじ茶パックを飲みたかったのだが、またいったり来たりさせるのが悪く思いたのむことを自重。なかなか暖かいものが飲めない。こちらの人は薄ら寒い日でもコーラをガブガブ飲んでいたりする。

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演奏は4時から。いつもより早い時間。椅子を並べて横になる。4階まではさすがに板橋氏のピアノは聞こえてこない。芳垣アニキが階下に偵察に行く。順調とのこと。今日も良い感じ。板橋氏が汗だくでもどってくる。入れ代わり階下に行って演奏。なるほど言われたとおり、服装がハイセンスな中高年が客席に多い。若い人は最前列を占拠し我々の演奏に動じて体を動かす。小ホールのような場所。ステージのような段落なく聴衆と平行。スポットライトも用意され、そのため汗だくの演奏となる。非常に良い手ごたえ。初めて会う人々に初めての場所での演奏して音楽が喜ばれるということ事体が喜ばしい。

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終了後、公民館のスタッフに挨拶の後、コペンハーゲンに帰る。ホテルにはキャスパーが彼のガールフレンドと生まれたての娘、COCOとロビーで我々を待っていた。2年ほど前、新宿ピットインにおいてHIROSHI MINAMI QUARTETとLASPER TRANBERGQUINTETのダブルコンサートをして以来、双方のメンバーがお互い顔見知りだ。我がメンバーとキャスパーしっかりと抱き合う。北の国での会合。

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仕事が早く終わったのでキャスパーの家族とメンバーで食事に行くことにした。場所はキャスパーに任せる。ついた場所は良い雰囲気のレストラン。ついて席についた瞬間、猛烈な眠気がおそう。時差ぼけの最初の大きな山場だ。何にも抗しがたいこの感覚。歯をくいしばったが眠気は退散しない。眼鏡をはずしキャスパーの彼女の前では失礼だとは思ったがテーブルに顔を埋める。ぼけていたせいで、サーモンのソテーのようなものをたのんでしまった。昼飯がツナサンドだったから、別種のものをたのみたかったのに、メニューをよく見る気力さえ失せていた。キャスパーと、何とか会話を成り立たせようと試みる。初日にデンマークジャズ協会のD氏に会って話した内容を伝え、23日のOFF DAYに行われるミーティングに備えようと思ったのだが、キャスパー君、生まれたばかりのココちゃんのがよほど可愛いらしくあやしたりだっこしたりこちらの話には上の空。まあいいや。こちらも時差ぼけ。11時頃までむりやり起きてその後就寝。今日も長い一日だった。

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1月21日 CONCERT AT CLUB BENT -J AARHUS また明け方に目覚めてしまった。昨夜無理に起きていたのにもかかわらずである。もともと不眠症ぎみに加えて時差ぼけであり、肉体精神とも、なんだかわけが分からない状態となる。9時頃朝食に階下におりると、水谷が朝飯を喰っていた。風邪ぎみとのこと。あれだけ酒を飲んで何をいっておるのだ、と思いつつ少し心配。ロビーに11時集合、デンマーク第2の都市オーフスに向かう。田園地帯を一般道をはしりフェリーに乗る。ものすごく格好のいい流線形のデザイン。階上の客室になだれ込むなりCAFEでビュッフェスタイルの昼飯。パン、バター、ハム、肉類、サラダ、etc,とりほうだいで1200円前後。エくセレントではないが、今回のツアーで始めてのデニッシュスタイルの食事。ピラフのようなものがあったから、それをメインにして皿に盛る。快適なフェリーの旅だ、と思っていたらことのほか揺れ気持ちが悪くなってきた。まけずと食い物を食べ続けなんとかしのぐ。空も海も灰色だ。モダンなデザインのキャビンには、ビジネスマン風、親戚に会いに行くおばさん風様々な人々がいた。皆それぞれよい雰囲気を持った人たちだ。せこせこしていない。デンマークの人口は500万人強。半分社会主義的民主主義国家で税金が高い。生まれてから死ぬまで政府がほとんどのものの面倒を見る。幼稚園、学校、病院、すべてタダ。キャスパー以下ミュージシャンにも手厚い保護が施される。各種の芸術基金その他諸々、日本では考えられないシステムがいっぱい。同時に、ツアーマネージャーのステファン君の話によると、手厚い保護からくる弊害もあるという。曰く、高校を出てそのまま失業手当てをもらいに行き、その後ぶらぶらしている若者が多いということ。失業後真剣に将来を考えなくても良いおじさんも多いということ。世の中ままならない。しかしこのフェリーに乗っている人々を見る限り、こういうヨーロッパの小国に生まれれて、その現実と自分の立場をしっかり考えた大人の人々がそれぞれつかの間の休息をとっているようにしか見えない。少なくとも、日本のように走って騒ぐガキは一人もいない。子供達でさえ、デンマークのシステムの中で、せこせこせずに生きている様に見える。船酔いさえなければ完璧な時間だった。

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オーフスの街は霧に曇って見えた。フェリーの舳先からだんだん街が近付いて見えてくる。倉庫や教会がうっすらと姿をあらわすと、カモメがたくさん飛んでいるのが見えた。遠くへ来たな。車ごとフェリーをおりて駅前のスカンディックプラザホテルへ。真ん前にバーガーキングがある。荷物をおろししばし休息。その後クラブBENT-Jへ楽器のセッティングに向かう。仲に入って驚いた。狭い店ながら壁中にポスターが貼ってあって奥にカウンターがある。この造りは僕らが日本をツアーして訪れる地方の小都市によくあるクラブの造りにそっくりだ。デジャブーである。デンマークにもこんな場所があるのか。きくところによると、スカンジナヴィアで初めて開業したジャズクラブとのこと。店の雰囲気まで日本の地方にあるクラブと同じ。違うのは、店の中のものがデンマーク人だということだけ。BGMにかかっている音楽も、チェット・ベーカーなどのCD, 何からないまでそっくり似ている。サウンドチェックをしていたら、今回デンマークへ来て一番背の小さいやつがぼくがピアノを離れたすきにぱっとピアノの椅子を占拠してブルースを弾きはじめた。芳垣アニキと水谷がその後をおう。NYのクラブみたいだ。今夜は面白くなりそうだ。

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この街には初めてデンマークへ来た5年ほど前にも訪れたことがある。友人のサックス奏者、クリスチャン・ヴーストに会うためだ。彼はぼくがボストンにいる時に出会って仲良くなったデンマーク人の一人である。他のデンマーク人と違い、デタラメに酒を飲んだり大騒ぎしたりすることのない静かな男で、いつもゆったりとしたほほえみを浮かべる細みの長身からは想像もつかないような激しいサックスを吹くことがあるような人物。演奏までの時間を利用してまた一目会おうということになっていた。ここまでなかなか来られたものではない。クリスチャンにも最近息子が生まれた。名をルイという。ルイ・アームストロングにちなんでつけたそうだ。ぼくの知る限り、デンマークはベビーブームである。荷物を部屋に起き、バーガーキングで腹ごしらえの後、さっそくタクシーにてクリスチャンの家に向かう。見覚えのある、しかしぼくの覚えているよりちょっと痩せたヒゲ面の友人が、ヨーロッパ式のドアから顔を出した。無言で抱き合う。五年ぶり。ボストン時代、彼とはずっと仲が良くて、ぼくの卒業演奏の主役をつとめたのも彼だ。クリスチャンと何度もリハーサルしたっけなあ。当時の思い出話し、新しい息子の事、話題は尽きない。お互いちょっと年をとった感じだけど、クリスチャンのちょっとした笑顔は昔のまま。演奏時間の都合で20分ほどしか彼の家にいられなかった。可愛い赤ん坊を抱いて玄関まで見送るクリスチャン。もう少し近くに住んでいたらなあ。

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ホテルからタクシーで我がクアルテットのメンバーと供にクラブ、BENT-Jに向かう。ホテルとクラブが近いので、板橋氏は先に行って演奏している。クラブの前でタクシーをおりる。スリガラスの向こうの板橋氏の演奏が透けて見えた。ものすごいパフォーマンス。壁越しだから音量はそうでもないが、彼の発する音楽的エネルギーが、壁を通り越してこちらまで伝わるがごとく。曲が終わるごとに拍手の中に歓声が混じる。またまた吉兆。その歓声はアルコールを多分に摂取した者の発するものと分かる。これも日本の地方のクラブと同じ。板橋氏の演奏後クラブの中にはいる。ステージは狭く、客との距離が近い。お客さんは満杯。ぼくのすぐ後ろが芳垣アニキのドラムセットで、斜め後ろが水谷のベース、グランドピアノの彎曲した部分が竹野の立ち位置となる。特にドラムとの距離が狭い。アニキの発するビートが、モニターからのものとは違い、直に伝わってくる。聴衆の熱気も同様。ピアノの前の席、竹野の斜め前に可愛い女の子が三人並んで座っていた。ピアノソロの後ちらりとそちらに目を移すと、竹野のサックスソロにうっとりとした表情をしている。竹野がそれに気付かぬはずはない。いつもより長めのソロをとる。ぼくのソロの裏でなにがしかピロピロとやたら吹きまくる。こら、竹野、可愛い子がいるからってよけいに吹くんじゃない。と思いつつ、自分だってよけいに弾いてしまっている。男なんてこんなもの。一人は金髪、一人はブルーネット、不思議なものでコペンハーゲンの女の子とどこか違う。と、そのうち一人に彼氏のようなものが現れ同席。一同がっくり。

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こういう場所ではなれている。お客がすぐそこで、日本で何度も演奏しているような場所。密なアンサンブルの上に初めての場所の緊張感も加味して上出来な演奏。昨日に加えアンコールだ。外は小雨まじりの天気で薄ら寒い。時々雪のようなものも舞う。しかしクラブの中は熱気でいっぱい。奥のテーブルに常連がかたまって座り、がんがん飲みながら、演奏に気勢をあげる。ここらへんも日本の地方のクラブとそっくり。終演後CDがけっこう売れた。みな喜んでくれたのだ。可愛い子の一人が話しかけてきた。ピアノをやっているという。モンクが好きだそうだ。今度東京に行く機会があったらピアノを教えてくれといわれた。レッスン代高くつくねといったら笑っていた。こういう雰囲気は危険である。居心地が良いことに加え日本のクラブみたいだからついつい長居の体勢になる。重い腰を無理に上げて退散。クラブのドアを開けたら、中の熱気がバーッと外の空気に流れ出ていった。

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1月22日 DAY OFF COPENHAGEN またも朝早く目覚めた。集合時間におくれるのでないからよしとして9時頃朝食。本日はコペンハーゲンにもどり仕事は休みである。5時間程かけてオーフスから帰る。車中デンマークの風景をぼーっと眺めていた。この国には山がない。なだらかな平地に、畑や牧草地がどこまでも続いていて、ところどころに風力発電のプロペラがまわっている。ステファン君に聞いたところ、食料の自給率は100%を超えているとのこと。一つの巨大プロペラで小さな村の電力はまかなえる。余りはスエーデンなど他の国や他の場所に売るそうだ。国民がこの風力発電事体に投資をしており、電力を売ったお金で投資分から儲けまで生み出しているそうである。なぜ日本もこうしないのであろうか。海外に来て、突然自国に対して批判的になる人物がよくいる。そうは成りたくない。しかしあまりの国状の違いにどうしても、なぜなんだろうなあ、どうしてなんだろうなあ、という疑問がわいてきてしまう。キンチョウノ蚊取り線香みたいな看板類がないのも美しくて良い。単純にいって人口が500万人強で、高い税金を取っていれば自給自足できるということなのかな。日本人だってバカじゃないのになあ。 100キロ程のスピードでハイウエーを走る。ハイウエーも、橋などの使用料金を抜かせばタダだ。渋滞もしない。夢のような環境。コペンハーゲンの市街に入るまで、まわりは田園風景が続いている。東京から名古屋に行く間、あまりこういった風景は目にしない。ぼくはやはりものすごいところに住んでいるということか。

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少し晴れたと思ったらまた曇った。コペンハーゲンのホテルに到着。今日はキャスパーと、そのバンドのメンバー、ベーシストのニルス・デヴィッドセン、トロンボーンのマース・ヒューネなどと夜の街にくり出す計画である。みなでホテルで落ち合い、ポルノショップの乱立する一角にあるタイレストランへと皆で移動。ひさしぶりの会合に何度も皆で乾杯。タイ米とは言え、米は米。皆大量に食べる。水谷などは残りの米をテイクアウトした。朝おにぎりをつくるそうだ。ぼくは冬の、しかも夜のコペンハーゲンが大好きだ。何とはなしにただよう街の雰囲気と冷気が一緒になって、頭の芯からぼーっとなれるから。街の中心にはチヴォリという遊園地がある。冬は閉まっているのだけれど、暖かくなると、短い夏を楽しむため、大人も子供のように遊ぶ。日本人の感覚からすると、コペンハーゲン事体が多きなチヴォリのように見える時がある。半分社会主義的民主主義っていわれてもピンと来ないけれど、要するに経済効率最優先じゃないって事なのだろう。人々のたちふるまい、街の成り立ちの隅々に余裕が感じられるのだ。つまりセコセコしていない。つまりぼくもボーッとできる。行程のきついツアーの最中にもかかわらずリラックスできるのは、そういったこの国の成り立ちのおかげであろうか。

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夕飯の後、ピアニストのマイケル・ハイセの家に皆でいって騒ごうということになった。ミケはぼくの友人でもある。彼の家族はちょっとしたお金持ちで、なんと国会議事堂のような建物の真ん前の通りにある、ロフトのような家に住んでいる。そこにはグランドピアノやドラムセット、パーカッションや録音施設までそろっていて、アパートでないから騒いでも問題がない。キャスパー以下皆の恰好のたまり場だ。ぼくも何度も過去ここに来ていて、一度はキャスパーとデゥオで録音までしたことがある。

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水谷が焼酎を持ってあらわれた。なんとこの男、紙パックの焼酎を何本かスーツケースに入れて持ち歩いていたのだ。パーティー用に一本進呈するという。お湯割りにしてデンマーク人達と一緒に飲む。やたらにうまい。その後、ミケの友人のミュージシャン達が続々とあらわれ、ハンキーパンキーと成る。我がメンバーもリラックス。最初にコペンハーゲンに遊びに来たのがもう5年程前の冬だった。日本での仕事が忙しかったので、行ったことのない北欧に遊びに行くことにした。ボストン時代仲の良かったキャスパーに電話したら、こっちは毎晩大騒ぎしているから遊びにこいという。それがすべてのはじまりだった。実際彼らは、曇り空の下で毎晩大騒ぎのパーティーを繰り広げていた。しかもキャスパーはぼくのためにレコーディングセッションも用意してくれていたのだ。かえす刀でこちらも日本でツアーを組んだ。そういう活動がまわりまわって今の状況に繋がっている。今晩のパーティーはぼくが最初に遊びに来た時と全く同じ雰囲気のなかで、しかもぼくのクアルテットのメンバーを含めて盛り上がっている。なんだかステキな夜だなと思った。いままでがんばってきて良かったな。しかし今回は遊びに来ているわけではない。仕事も後4回残っている。程々に切り上げホテルに帰り就寝。

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1月23日 COPENHAGEN JAZZ HOUSE 昨晩はめずらしく8時間寝られた。体がこちらの時間にあってきたのか。しかし危ないところだった。あの雰囲気で焼酎が出たら、飲み過ぎてしまうことうけあいである。なんとかグラス一杯におさめたのが功をなし二日酔いもなく快適な目覚め。吉兆。午後3時からデンマークジャズ協会のオフィスでミーティング。クリアーな頭で望まなくては。昼過ぎまでをコペンハーゲンの中心を散策しつつお土産などを買う時間にあてる。何度も歩いたことのあるストロイエという中心街。ぼくはここが大好きだ。建物の屋根の向こうにすっと教会の尖塔が見えたり、微妙にカーヴを描く石畳の道をゆっくり歩くいていると、パノラマの中に自分が入ったような気分になったりする。お昼になるとどこかしらか教会の鐘の音が聞こえてくる。ヨーロッパにいていちばん好きな瞬間。陶然となる。

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街のいちばん真ん中あたりをぶらぶら歩いていたら竹野に偶然あった。同じくお土産をさがしているという。二人で昼飯を喰うことになり、またしてもチャイナレストランへ。なんだかもうサンドイッチ形式のめしは飽きてきたのも事実だけど、よく行くよなあ、チャイナレストラン。いかにも観光客目当てというたてつけの一件にしけ込む。店内、楊貴妃の別荘状態。ラーメンのお椀の縁にあるとぐろマークの巨大なのが天井や壁につたのように描かれていて、何やら漢詩のようなものがごてごてそこいら中に架かっている。こういう店は経験上、逆にいい加減なものが出てくる確率が高い。ぼくも本物の中華が何かと問われれば口をもぐもぐするしかないけど、これはねーンじゃねーのという料理が出てくるところがあるのも事実だ。だいたいこちらの食べ物は塩がきつい。チャーハンに混ざっているハムや、いためものの中の鶏肉など、調理前からすでに塩ッからいのである。んで味付けが塩ッからいから塩味三倍マンだ。昔から肉そのものを、多分保存するために塩を大量に使う習慣が今に残っているのかも知れない。しかし肉本来の味は臭いほどする。特に牛肉の味はワイルドの一言に尽きる。と何だかんだ講釈をたれたって、むさぼり喰ってることには変わりない。たのんだものを二人できれいに喰ってしまった。

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ジャズ協会でのミーティングに、キャスパーと連れ立って向かった。ホテルに迎えに来てくれたキャスパーとまた中心街の方へ歩く。これからの事について話し合うののである。この国のように我が国では、スポンサーを探すのが容易ではない。かといって双方条件を半々にしてやらないと不公平となる。思案のしどころ。D氏も混ざり3人で和やかに会談。もちろん英語で。双方代二外国語というところは条件が同じだが、もともとのアイウエオが同じ人の方がやはり英語の使い方になれている。話の運びは非常に合理的で民主的。こういう点がぼくは大好きだ。というかもともと話し合いとはこういうスタンスで行われるべきものだろう。有意義な時間。ギャラももらった。首から下げている巾着に収納。大金だ。帰国後やらねばならないメドもはっきりしてきた。

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今晩の演奏はコペンハーゲンジャズハウスで行われる。コペンハーゲンの新宿ピットインのような場所だ。昨晩のパーティーに来ていたミュージシャン、新聞記者、音楽評論家なども今晩聞きにくるのである。ステージが長方形の四隅の一角に設けられていて、音づくりが難しい。丁重にサウンドチェック。以前キャスパーのバンドで何度か演奏したことがある。その時もドラムが遠く、バランスを取るのが難しかった。日本のクラブより天井も高い。連続で演奏してきて演奏事体の調子は上がってきているから、まあ何がおきても大丈夫なんだけどね。サウンドチェック終了後軽く食べる。街のそこかしこにあるトルコ人の経営するシシカカブーのサンドイッチ屋だ。演奏の前にギャラの分配計算をすることとなる。数学の得意な水谷に計算をたのむ。ジャズハウスの薄暗い楽屋で電卓をたたく水谷。やらねばならない事はつきない。円とドルとの変換に加え、板橋氏とクアルテットに分配するわけだ。ギャラ10万でクアルテット一人2万5千円づつといった計算ならぼくにもできるが、それ以上込み入ると算数はからきしダメだ。算数や数学はぼくにとっていまだに謎の領域で、真剣になぜ1+1=2になるのかが分からない。3になる時があるようなキがどうしてもしてしまうから。中学三年の時、担任が数学の教師だった。ぼくは数学を理解したくていろいろな質問を先生にぶつけた。その先生は最後には円形脱毛症になってしまった。ぼくの質問があまりにも奇々怪々だったからだ。

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板橋氏の演奏が始まり、聴衆は皆氏の演奏に熱中。楽屋にいてもその拍手の状態で音楽と聴衆がどういう状態かがよくわかる。がらにもなく少し興奮してきた。ここで芳垣アニキの事に触れよう。なぜアニキかというと、バンドの中でいちばん年が上という事と、その落ち着きで自然みながそう呼びはじめた。アニキはすでにヨーロッパツアーの達人の域に達している。いままで演奏にいった場所だけでも、ポーランド、ドイツ、フランス、イタリア、バルト三国、ユーゴスラヴィアなどなど数えたらきりがない。このツアーよりきつい行程を何度も経ている。今回のツアーでも始終落ち着いていて、メンバーにも優しい。楽屋でのアニキは、ジッと優し気な表情で、まわりの状況をうかがっている様子。いかんなあ、リーダーである自分が浮き足立ってては。アニキが落ち着いてンだからこっちもビシッとしてなきゃアなあ。別に妙に興奮する事もあるまいという気になってきた。もともとヨーロッパでもゼッタイイケルと思ったからこそつれてきたメンバーであり、音楽である。何をうだうだ考える事があるものか。というテンションのもとに演奏開始。よい瞬間が何度もあった。お互いのコミュニケーションも密にとれている。水谷も絶好調。竹野も吠える。わ~オモシロイ。聴衆の反応も上々だ。カミカゼジャズ状態にならずとも汗だけは大量にかく。ピアニッシモで弾くときってエネルギーがいるんだよ。もちろん肉体は最高にリラックスさせなければならないけれど。でも汗は吹き出る。一曲ごとに汗で目が見えなくなった。眼鏡もズブズブ。聴衆の顔はよく見えないけど、一体感はあるのであまりしゃべりははさまず連続して曲を続ける。最後のバラード。偶然歯切れのいいエンディングで演奏を終わることができた。またアンコール。成功といっていいだろう。楽屋にもどると、キャスパー以下昨夜のパーティーの連中その他諸々集まってきて、大騒ぎとなる。コペンの夜はふける。

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1月24日  CONCERT AT SKIVE THEATER FOYER なぜかまた不眠症となり明け方目が覚める。居直って早朝から寝ころんでテレビ鑑賞。日本のテレビの音声、周波数が高音域である事が逆に分かる。ニュースアナウンサー、コマーシャルを含めて、ヨーロッパの番組の音、声みな低音域が多い。キンキン声の叫び声、日本のヴァラエティー番組によくある、みなが同時に叫ぶように話す瞬間もない。石の家に住んでいるからか、文化の違いか。英語番組意外なにを言ってるのかよく分からないが、耳に心地よい。今日が最後のコペンハーゲンの日である。昨日もらったギャラをみなに分配後、最後の散策。

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今日はスキーヴという街での演奏。移動距離がいちばん長い日。またオーフスに向かってフェリーに乗り、そこから陸路3時間。フェリーではまたデンマーク形式の昼飯となる。ツアーマネージャーのステファン君が不満げにいう。これはあまりよい部類のデンマーク料理ではない。明日のアールボーの街にいったら、もっとちゃんとしたデンマーク料理を出すレストランに皆をつれて行きたい。こちらはあまり食いもののことにこだわらないようにしている。こだわりだしたら何も食べられない。その場に屋根と食い物と寝る場所があればよしとしないときりがない。でもステファン君のひとことが嬉しかった。フェリーをおりさらに北へ北へと向かう。小雨まじりの天気が曇りになったり、またさらに強い雨に変わったりという天気。こういう日は意外と寒くない。寒いのは雲一つなく晴れ渡ったお天気の日だ。そういう時は風もものすごく強い。ボストンの冬と同じ。北上するにしたがって雨が霧となってきた。その霧がだんだん濃くなり、一寸先も見えない状態となった。ステファン君道に迷う。もうすでにハイウエーは走っていない。牧草地の真ん中を一本通ったまっすぐな道をひた走ってきた。ところどころにロータリーのようなものがあり、いろんな方向に道が分かれている。そこのどこかを反対の方向にまがってしまったらしい。路肩に車を止めて地図を確認。やはり反対だったらしくUターンすべく車を発信させるも車が動かない。泥濘に車輪が空回りしている。路肩といってもすぐ農水路の横にある芝生上の場所だ。雨でぬかるんでいて、しかも車には6人とドラムセットなどが積んであって重い。皆で降りて車を押す事にした。まわりは人家もない牧草地の真ん中で霧が立ちこめている。UFOなどが出てもおかしくない環境だ。そこにどやどやと降り立った日本のバンドマンが車を前方から押す。誰かがふざけて言った。カ~ちゃんのためならエ~ンやコ~ら!!

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なんとか四苦八苦して泥濘の中から抜け出し、ホテルを目指す。今日の宿泊先は、スキーブの街から車で10分ほど離れた郊外にある。まあ郊外と言ってもスキーブの街事体非常に小さいのだが。ホテルのロビーに入って気がついた。板橋氏が泥だらけだ。車を押した時ちょうど車輪の前にいて泥をかぶってしまった様である。しかし今はとにかく荷物を部屋に起き、一刻も早く演奏場所に行かなければならない。迷った分遅れているからだ。演奏場所は街の中心部にある劇場のロビーで、PAシステム無しに行われる事が現場で判明。サウンドチェックする。モニター等ないので、簡単にすませる。お客さんが入るとまた演奏者間の音の質が変わるから、だいたい状況が分かればよい。

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今回のツアーで演奏してた曲順は以下のとおりだ。すべて新しいCD「GO THERE」に納められている 1:#1 2:ORACION 3:DEEP THOUGHTS BETWEEN THE THOUGHTS or M 4:ONE KAT 5:FOUR DISTINCTION 6:HOPE まあ、まず#1でドカンとやって聴衆の耳を捕らえる。こちらの体もほぐれるっていうおまけ付きで、ORACIONでシブめにグイグイ演奏してイエ~てな状態を不動のものにして、すっとDEEP THOUGHTSかMにうつる、両方バラードだからピアノのコンディションとか客の雰囲気とか場所柄をみてどっちか選んで、ONE KATで今度はインプロっぽくやって若い聴衆にもインパクト与えて、FOUR DISTINCTIONでちょっと趣向をかえて、でも盛り上げて泣きを入れ、HOPEで美しく終わって憂愁の美を飾るっていうのがぼくのねらいだった。最後にHOPEというのもシブすぎるかなあーと思ったけれど、どかーんと終わってアンコールを期待するっていうのもありがちだから、日本人的男はつらいよ方式をとった。何だかんだ起承転結あるが、最後はほろっとさせて終わる。今日の劇場のロビーでの演奏は生音だったので、バラードはMを選び演奏。作戦的中。お客さん達はまんじりともせず聞き入っている。その後ONE KATでがーッとやった後なんだかんだ有ってHOPEで演奏終了。寅さん方式のねらいが当たり、アンコール。なまだったからシブめの演奏となったが、できは上々。ふと外を見ると雪がふっていた。

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帰ってきてホテルの用意した遅めの夕飯を食べる。ナマハムとチーズと茹でた海老のマリネ、パン。それと日本から来たというお客をもてなすためか、笹にくるまれた妙な蒸し物。すごく小さい。贅沢をいえば何か暖かいものが食いたく思ったが、夜も遅い。ここはすごい田舎の街なのだ。しんとした空気の中で、スチームのカラカラという音がかすかに聞こえるほどの静謐な空間。東京はうるさいな。どこもかしこもがちゃがちゃしてて、最近ぼくは渋谷なんて用事がないかぎり絶対行かない。しかしこの田舎町も三日居れば気が狂うだろう。しかしこの静けさは今は貴重だ。演奏に疲れた体にはその晩の静けさは心地よかった。皆黙々と食べ、各自解散。 1月25日 CONCERT AT GUG KIRKE AALBORG また明け方目覚めて窓の外をふと見ると、雪吹雪になっていた。あまりの恐ろしさに目をつぶったらもう一度寝られた。朝食前後の時間にまた目がさめた。窓の外を見るとお天気である。空気が乾燥しているせいか気温に反して日ざしが強い。階下に降りて朝御飯を食べだすとまた雪が降ってきた。いったいどういう天気なんだ。外を歩く人は皆傘をささない。空気が乾燥してるから、体や衣服が濡れてもすぐに乾いてしまうからかも知れない。車やバスも普通に走っているので、移動には支障なさそう。食堂で竹野にあった。しかしこの男、本当によく食う。朝から、パンにハムチーズなどをおてんこもりにはさんでバクバク食っている。こちらの人々は、体が大きいわりに朝はあまり量を食べないようだ。竹野など、そのサンドイッチの後、コーンフレークやら何やらも食ってニコニコしている。頼もしいことはいい事だ。静かな静かな街の、静かな静かなホテルを後にする。1年分の耳の休養もとった気分。スキーブからデンマーク第三の都市アールボーまで2時間ばかりだ。今回のツアー最北端の都市。なだらかな田園風景があいもかわらず360°広がる。雨も雪も上がって日ざしが強くなる。始めてみる太陽の下の大地。

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街についた。昼過ぎだ。まずホテルに荷物をおろす。演奏場所に行くまで時間があるので皆で昼飯を食いに行くこととなった。ステファン君がフェリーで言っていたことを実現しようとしている。我々がデンマークにいる間、オーセンティックなデンマーク料理を皆に食べさせたいと言うことである。若いのに経験豊富で、アールボーにも何度も仕事で来ていて、我々をつれてゆくべきもっとも相応しいレストランを知っているようだ。しかしこちらは、今まで書いてきたごとく、チャイナだタイだとなんとかアジア系の飯にありついてきたが、朝飯はホテルのパンとハムチーズ、昼飯はハイウエーのサーヴィスエリアでホットドックなどの回数多く、何だかんだ言って、暖かい米と、炒めたり煮たりした何かを求めていた。体も疲れていたのである。メンバーからの欲求もあった。チャイナレストランに行きたい。とにかく今日は演奏する街に昼過ぎについた。いつもは演奏直前で思いっきり食えないから、今日はしこたま食った後ホテルで休憩して演奏に望みたい。まあ、ステファン君とバンド側の意思疎通係はぼくがしていたから、彼にそう伝えざるを得なかった。少し口をぽかんとあけて残念そうな表情をするステファン君。口では言わないが、せっかく良きデンマークの伝統料理を紹介したかったのになあと言う残念そうな表情をしている。ゆるせステファン、俺らにはチャイナが必要なのだ。うううう~~!!ステファンもチャイニーズは好きだということで話は即決。チャイナレストランはホテルにあった街のガイドブックを見てみたら簡単に見つかった。また楊貴妃の別荘系の写真が載っている。変なランタンだか提灯だかもいっぱいぶら下がった店に入ると、色の浅黒いオヤジが出てきた。ベトナム系か、チャイニーズにしても南方系だろう。客は我々のみ。がらんとした中の席に通され、まずジャスミンティー。ランチメニューがあったので、他を選ぶのがめんどうくさくそれをオーダー。コーンのチャイニーズスタイルのスープ。春巻き海老の空揚げ椎茸とタケノコとビーフの炒めものデザートというラインアップで1200円ぐらい。まずコーンスープ、しょっぱいのを抜けば、鶏ガラダシがきき腹にしみる。しばらくして運ばれた春巻きは日本で通常見る太さの三倍の棍棒状のもの。レタスの上にどかんとのっている。春巻きの中身は春巻きの中身ではなく、ロールキャベツやオムレツの中身のようなものがはいっていた。なんだか良く分からない味。ステファン君に半分あげて様子を見る。またどうせメインディッシュも日本の3倍オテンコモリ状態で出てくるにちげえねえ。次の海老の空揚げ、ころもがホットケーキと同じ、小麦粉を揚げただけというシロモノ。それにオレンジ色のソースがついてきた。かけて食べてびっくり仰天。なんだかオレンジジャムを空揚げにかけて食べているような趣向。すかさず空揚げに醤油をドバッとかけて食べる。これならおやつだと思えば良い。炒めものはまあまあ日本のスタンダードに近い。しかしまえに書いたとおり、牛肉からは肉々しい獣の香りが充満している。精気みなぎる時ならうけつけるが、今のような状況ではちょっとなあという味。とまたまた講釈をたれつつも、むさぼり食うことには変わりない。あったかい飯が食えるって幸せ~~とメンバー全員ががっついた。複雑な表情のステファン君は焼そばをパスタのように食っている。パスタのように焼そばを食うステファン君から注意事項が我々に下される。街に出て、コペンハーゲンという名を口にしない方がいいというのが第一点。夜バーに行って、ブーツを履いた男を見たら黙ってその店を出ること。ブーツを履いているのはファーマーで、人種差別以前に飲むと気が荒い、近付かぬことというのが第二点。ぼくも大阪で東京便をしゃべっていたらからまれたことがある。アニキの意見では、民族そのものが、イギリスのごとく違うのではないかという。どっちにしたってデンマークの内部調査に来たのではないから、トラブルはごめんだ。気をつけよう。

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店のオヤジの立ち振る舞いが、挙動不振である。ステファン君にその旨伝えると、オーダーする時も何か妙なヴァイブレーションを感じたという。きっとこの最北端の街には、あまり日本人とか中国人とか来ないのではないか。だから料理のインチキがばれるのを恐れて店のオヤジの立ち振る舞いがおかしいのではないかと推理してみた。まさか前の戦争でおじさん、日本軍にイヤなめにあったりしてないだろうなあ。そういうことは、こんな最北端の土地で蒸し返したくはないのだよ。デザートは三色のアイスクリームに揚げたパイナップルとバナナ。謎である。手を付けずにアイスクリームだけを食べてさっさと外に出る。南、芳垣、竹野組はアールボーの街を散策。他は休養のためにホテルへ。外は気温が今までいったどこよりも低い。港がすぐ横に見えるような小さな街。何となく大洗とか、気仙沼とか、大平洋に面した日本の小都市のたたずまいに似ていなくもない。アニキはすかさず楽器屋を見つけだし、どんなパーカッション類を売っているかチェックしてみたいという。三人で店にはいった。街でロックをやってそうなニイちゃん達がギターをいじっている。我々が店に入って行くと、全員がこっちを見た。なんとなく嫌な雰囲気。アニキがカウンターのおじさんに向かってパーカッション類を見せてくれと英語で伝える。するとこのおじさん、三白眼で顔を下向きにして我々をにらみ何ごとかデンマーク語でいった。歓迎されてはいないな。ボストンに住んでいた時に、何度か自分がアジア人だからこその嫌な思いの数々が記憶の彼方からよみがえる。しかしこのおじさんの目の中には、少しなにかに恐れているような、とまどっているような感情が見えかくれしている。ボストンでいやなめにあった時にはない感覚。ヤイおやじ、この方を誰と心得るか。おめえらアニキのドラミング見たら肝冷やすぞ、とまくしたてようかと思ったけれど、無駄なエネルギーの放出は避け、さっと店を出た。あとは街のメインストリートをそぞろ歩きの後ホテルに帰る。

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その晩の演奏場所は教会であった。教会といっても、超近代的な建物だ。屋根にガラスがはまったりしており、多重構造で、中は一件迷路のような造りである。演奏は礼拝堂のようなところですることとなっており、現地のオーガナイザーが準備をしていた。ステージの横手にはパイプオルガンがある。天井からは幾多ものモダンなデザインの電球が垂れ下がっており、何やらSF映画のセットのような趣向。猿の惑星のシリーズの最後のものだったか、核爆弾を崇拝する生き残りの人類集団が、核爆弾を礼拝堂のようなところにすえてお祈りするシーンがでてくる。建物の形状その他、その映画のものとは全然似ていないのだけれど、なぜかそのシーンを思い出さずに入られない。背の高い女性が出てきて挨拶。服装は普通だが、この教会でただひとりの牧師様であるという。ひじょうに優しそうな人でナイスな感じ。猿の惑星をイメージしているなんて夢にも思ってないだろうな。

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場所が教会ということもあって、出す音が天井に響き渡り、わんわんと反響する。音響効果は良いが、演奏しやすい場所ではない。なんとかサウンドチェックを終えて控え室へ。控え室の天井にはミラーボールがぶら下がっていた。テーブルの上のパンフレットを見ると、子供を集めてダンスパーティーのような催しがあるらしいことがわかる。信者獲得のために苦労してんのかなあ。以前キャスパーと雑談をしていた時、デンマークの宗教の事が話題にのぼった。基本的にはルーテル派という部類に属するという。しかしほとんどの人が教会など行かず無信教の人も多いとはなしてくれた。ダンパで子供を集めているような場所に、今晩客はくるのだろうか。いくら造りがモダンだからといって、ミラーボールのある教会というのもなあ。

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案の定お客さんの入りは良くなかった。しかしそんなことは関係ない。板橋氏の演奏の後、どんどん演奏を始める。今日もアコウスティックな部分を生かして、バラードはMを演奏。残響の心地よさが吉とでる。人数は少なくとも、客の心はこちらのものだ。件の女性牧師様以下全員しーんとして我々の演奏に聞き入る。ファンクっぽいビートでONE KATを演奏。しかしなあ、教会でこんな激しい感じの演奏しても良いんだろうか。この場所を冒涜してることにはならないのか。ふと客席に目をやると、前列を占拠したティーンたちが体を揺らして聴いている。一人などは、横のガールフレンドそっちのけで立ち上がらんばかり。いいじゃんいいじゃん、お客がこうなら、天罰で死なばモロトモ。がんがんやる。一回空気を変えるためにしゃべりを入れた。なぜだか分からんが、英語でしゃべった方が日本語で日本の聴衆に話すよりスムーズに行くし、しゃべれなくなってしまったりしない。こんなことを書くとキザなようだけど、事実なのだ。昔「日本人の脳」という本を読んだことがある。右脳と左脳の機能は今失念したが、どちらかが合理的なものをつかさどり、どちらかが情緒的なものをつかさどる。音楽は情緒的な分野に属し、言語は合理的な分野に属する。しかし日本語だけは情緒的な分野に属するとその本には書いてあった。日本語に擬態語が多いのも、(ゆらゆら、ぽとぽと、など)そのせいなのだそうだ。多分演奏中は音楽をつかさどる右脳だか左脳だかを酷使しているのだろう。日本語を同じところから発する余裕がないのではないか。しかしそれが英語だと合理的なことを考える側の脳が必要なわけだ。演奏中はそちら側が比較的使われていないので、すんなりと言葉を発することができるのかも知れない。メンバー紹介の後、 FOUR DISTINCTION, HOPEと続けてやった。またもアンコール。手ごたえはよし。ブルースを弾きはじめたら板橋氏がピアニカで乱入してきた。最初はフレーズを吹いていたが、だんだん頭を激しくふりながらフリーフォームなものになってゆく。お客さん大喜び。冒涜もへったくれもない状況となる。まあ、神様は太っ腹であろうから、この迷える我々日本のバンドマンにはひどいことをすまい。

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演奏後教会の中で、コンサートのオーガナイザーなどを含め夕食を食べる。これは教会で働いている人が用意したもので、初めての手料理を賞味した。茹でたじゃがいもとインゲンとにんじん、それに牛のひれステーキ。これらを皿に盛り、アスパラガスのソースをかけて食べる。初めて塩ッからくないものが食べられた。というか、塩は各自後から好みによってたすようになっている。みな自然な味で、肉も外食の時と違い臭くない。ステファン君もちょっと御満悦。その後関係者に礼をいい解散、就寝。 1月26日 CONCERT AT PARAPLYEN VEJLE 昨夜はホテルに帰っても寝付かれず、ぼーっとしていた。今日が最後の演奏。移動時間は3時間弱。田園風景を再びつっきり少し南へと向かう。今日の演奏場所ヴェイレは、以前キャスパーのバンドでツアーした時演奏したことのある場所だ。スタインウエイのひじょうに古いピアノがおいてある。茶色い木目の外装でピアノの足に彫刻が施されており、譜面立てもシックな模様がはいっている。一見バロック調のそのピアノ、弾き方が正しいととても良い音が出る。最初にこのピアノを弾いた時、ちょっととまどった。プレイメイトのネエちゃんとふだんチャラチャラ遊んでいたら、ある日いきなり原節子と恋に落ちたような感じだ。どうあつかっていいか分からない。しかし答えは簡単だった。なんとかしようと力んだり無理をすればするほど、この楽器は自分から遠のいてしまう。すべて楽器にゆだねてタリラリラ~ンという気分で弾けばものすごくいい音が出るのだ。今までコンサートホールにあるような、黒塗りのでーんとしたスタインウエイは何度も弾いた。しかしこのクラブにある古ものの楽器には、そういう最高級の楽器さえ出すことのできないなんだか、なんと言ったらいいか、古式豊かな味わいと言うか、とにかくピアノを弾くというそのこと事体を楽しませてくれる何かがあるのだ。コンディション等ホールにあるスタインウエイにには劣るにもかかわらず。遠い北国の、そうそい頻繁に来れない場所にあるお気に入りのピアノとの再会に少しセンチになる。サウンドチェックには時間をかけた。他の楽器のバランスよりも、この楽器が最大限よい音で演奏できる環境をまずつくりたかった。クラブは長方形に長い立て付けで、ステージが高い。どうあれ生では演奏できない。モニターなどにたよることとなる。その状況でこのピアノの音を最大限生かしたいと思った。良い楽器の音は、スピーカやモニターを通しても、そのよい音の成分は不思議と失われることがない。つまり電気的に変換されても、もともとの良い音がちゃんと生き残るということだ。不思議だけどね。今日は最後の演奏でもある。何かがおこりそう。

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ホテルはクラブの真裏にあった。徒歩1分。サウンドチェック後部屋で休憩。今日も午後ついたからたっぷり休める。ぼくの演奏開始時間は約9時頃だから、5時頃飯が食えると都合がいい。もう演奏直前には食べたくない。早めの夕飯に水谷と竹野が参加することになり、ロビーで落ち合って街に出た。ヴァイレも小さな街である。メインストリートもすぐ近く。このツアーが始まって、水谷は酔ってるんだか酔ってないんだか、始終ゴキゲンである。三人で人通りの少ないメインストリートをだらだら歩く。商店など皆シャッターをおろしている。週末だからだ。レストランも見当たらない。前方にマクドナルドの看板が見えた。しかしあれは最後のチョイスにするとしてもう少し徘徊。うろうろしていたらまたチャイナレストランを見つけた。人が休んでいる時に働いて世界中に基盤を築いてきた人々がまたここにも居たのである。サンドイッチはまた明日の朝飯に出るのである。本式のレストランに入れば値もはるし時間がかかる。メニューの解読にもエネルギーが必要だ。三人で風塵のごとくチャイナレストランへ。ツアーでデンマークへ来てから何度もお世話になってきたチャイニーズ。しかしその一品一品の量の多さはさすがに学習済みだ。三人で二品たのんでたりなかったらまたもう一品追加しようときめた。麺とヌードルたのみましょうよ、と水谷がいった。この男、もうすでに脳内が混乱しているようである。あまりにも日本を遠く離れ、あまりにもいろんなところを巡り巡って、あまりにも毎回毎回いろんな所で酒を飲んだことによって、脳内で変種の革命が起きているらしい。麺とヌードルって同じものじゃないか。いつも笑えるネタとハプニングを求める体質の竹野はニコニコニコニコ。それにこの俺。どう考えたってマトモな客じゃない。選ぶのが面倒なので焼そばとチャーハンをたのむ。納得の味。思ったとおりオテンコモリの皿が二枚テーブルに置かれた。

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部屋にもどりベッドに横になる。少しうとうとした。

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うとうとしたせいで集合時間に遅れてしまった。急いでクラブの控え室へ。皆そろっていた。ステファン君がぼくの部屋に電話をかえようとしていた。テーブルの上にはロウソク。外は曇りのち晴れ。闇夜に月が浮かんで見える。ヨーロッパ式の窓からきれいなブルーの夜空が広がる。ロウソクの火が壁を照らす。板橋氏が演奏を終えて控え室にもどってきた。出番が来た。皆でステージに上がる。クラブ全体よい雰囲気。演奏開始。ピアノいい音がする。皆の音もよく聞こえる。よい局面を迎えるとすっと客との距離が縮まる。しゃべりをはさまずどんどんやる。テーブルのロウソクがいい感じで客を照らし出す。水谷絶好調。竹野斬新。アニキ音楽のボトムを支えつつ咆哮。その上で古めのスタインウエイが古式豊かなサウンドでファンキーな音を奏でる。拍手。かけ声。演奏。時間の流れを忘れた。良い徴候。短いようにも長いようにも感じる。長くとったと思うソロも一瞬のうちに次の局面を迎えてどこかに消えてなくなる。そういうことをくり返すうちまわりのものが見えなくなってくる。気づいたらアンコールで、また板橋氏が乱入していた。そしてすべてが終了。腕の関節が外れたような感覚になる。控え室にもどり沈没。ロウソクの火はまだついていた。

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クラブの階下にあるバーで皆で軽く飲む。ステファン君がジントニックをあおる。今まであまり飲む姿を見たことがなかったが、彼も緊張がほぐれたのであろう。バーには可愛いコがいっぱい。ここが東京だったらただじゃすまさないが、明日は飛行機に乗らねばならぬ。飲み明かすという竹野と水谷を置いてホテルへ。

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1月27日 COPENHAGEN AIRPORT さあ帰るぞ。本当はこちらにもう少しいたい気もするけど、東京でやりかけの仕事も多々ある。また時間の余裕のある時にゆっくり遊びにくることとしよう。なんて、時間の余裕のあるときって、仕事の無いときっていうことじゃないか。とにかくメンバーと板橋氏を無事成田に生還させるのもぼくの今回のオブリゲーションの一つだ。朝9時ロビー集合。一路コペンハーゲン空港を目指す。途中オーでンセの近くに住む、ドラマーのアナス・モーンセンの家による。彼に今回ドラムセットを借りていたのだ。彼はキャスパー・トランバーグ.クインテットのドラマーであり、ぼくの手引きでもうすでに日本には4回ほど来てプレイしている。アニキともその時に知り合う仲となり、良いドラムセットを我々のために提供してくれたのだ。アナスにはすでにもう3人の子供がいるというのに、今年4人目の娘が生まれた。クララという。本当にぼくにとってデンマークは今ベビーブームである。上の三人の息子たちが、5人の日本バンドマンの襲来に上を下への大騒ぎ。こんなに大勢のアジア人が、しかもその中でも相当味の濃い連中が、いきなり我が家にどやどやと入ってきたのだからたまらない。アナスに、日本から持ち帰ったという緑茶を御馳走になる。ステファン君は、アナスのコンピューターを利用してフライトスケジュールの再確認をしている。また今年もキャスパーのバンドで日本ツアーを組もうと思っていることなどアナスと話し合う。D氏とのミーティングの内容も彼に伝えた。定刻通りの出発を確かめてアナスの家を出る。曇り空を空港へと走る。車内でしきりに水谷が、カツカレーが食いたいという。竹野は讃岐うどんが食いたいという。またまたキザなようだけれど、ぼくは日本食に関してあまりこだわりがない。アメリカで生活していた時に鍛えられたのかも知れない。ボストンにいって最初の冬のある日、テンプラ蕎麦が食べたくなってどうしようもなくなったことがあった。夢にまででてきた。いまテンプラ蕎麦を食べられれば100万円払っても良いと思う所まで自分自身テンパってしまった。それから何日か悶々とし、ある日、その欲求が体からす~ッと抜けてゆくのを感じた。日本食禁断症状に勝った瞬間。いずれにせよないものは無い。食べられぬものは食べられぬ。コペンハーゲンはちょっとした寿司ブームで、日本食レストランの数もここ最近増えたそうだ。以前キャスパー達とそのうちの一件にいったことがあるが、禁断症状を妙に刺激するだけで、納得できる味ではなかったし、しかも高くつく。車は矢のようにハイウエーを走っている。カツカレーと讃岐うどんへの距離が少しづつ縮んでゆく。

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空港に無事到着。まず重い荷物からの解放をと、スーツケースをカウンターに持って行ったところで、大変なニュースが舞い込んだ。2:40PM発成田行きのSASが、新しい機体に変更せざるを得なくなり、出発が7:45PM延期になった旨知らされる。理由を問いただしても、機体を変更する必要が生じた、というのが理由だといわれ、カウンターに集まる我が一行にそうダイレクトに伝えるしかなくなる。分かるような分からぬような理由だ。これはぼくの英語力の問題ではなく、カウンターのねーちゃんがそう言っているということ、彼女も理由は知らないのだ。知ったところで5時間待つことには変わりない。先程アナスの家でスケジュールをチェックした後に何かおこったのだろう。いいよ、それじゃア俺ら電車使うからとも言えない。5時間の延期。カツカレーと讃岐うどんが少し遠のいた。いくら空港がデザインがカッチョ良くて、お土産を買う時間が必要だとしても、こんなに長く何をして待てというのか。とりあえず何か食べられてその後とぐろをまける場所を探す。みな無念無想状態となった。というか、人間の根源的なところからくる苦しい状態への防衛器官のようなものが、我々の脳をぼんやりした状態へと誘ってくれていたのかも知れない。またサンドイッチやハンバーガーを食って、その後はみな微動だにもせず一点を見つめてカフェの席に身をしずめる。ステファン君もまだ一緒だ。みなをゲートまで送りだすまでがぼくの務めだと帰ろうとしない。水谷がステファンにカフェのナプキンで折り紙なぞおって見せている。こういう場合、退行できるというのもうらやましい。防御器官の発達した人間だ。退行して時の流れを忘れるしかないという防衛機能が順調に働く人間だということだ。嫌いな飛行機に早く乗りたいと思うのも皮肉なものである。あんな状態でも早く飛行機の席に尽きたいと思うのはもっと皮肉なものである。ここで5時間待つより、少なくとも飛行機に乗っていれば、前へは進んでいる。カフェで時間を潰すことにさえ飽きてきた。ゲートをくぐる所でステファン君とはお別れである。何となくみな、この身を粉にして働いてくれたツアーマネージャーとの別れが惜しいのである。ツアーの中盤から我々はとても彼の事が好きになっていた。かなりお互いの個人的なことも話すようにもなっていて、前からずっと一緒にツアーしているような感じでもあった。しかしいずれは別れなければならない。 4時半頃ゲートをくぐる。ステファン君とかたい握手。

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飛行機は知らされていたとおり7:45分に出発。ある意味で定刻通り。席でぼーっとしていると食事が運ばれてくる。ワインを飲んだらとたんに意識を失った。司馬遼太郎も安定剤も必要なかった。いままで飛行機の中で眠れたためしがない。いずれにしても嬉しいことである。気がついたら飛行機は日本海へとアクセスしていた。目がさめたら飛行機の中だったというのも、寝覚めの良いものではないが、もういいかげん悶々と時を過ごすという行いだけは避けたかった。前に進んでいるとしても。いちばん退屈な時間を睡眠によって避けられたことは嬉しい。もうすぐだ。

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てこういうツアーの旅日記のようなものは、どこまでを記述するべきなのだろうか。自分の家のドアをあけるまでを記述すべきなのか、それとも成田空港でみな解散となったところまでであろうか。成田エクスプレスの中での事を書いてもさしたる面白みがないことも確かである。しかし他の先進国の国際空港は、その首都から遠くても1時間弱の距離にあるのが普通で、成田から東京までというのも、これはまた一つの旅行ととらえてもいいのではないだろうか。メンバーで軽くでビールを飲み解散した。ひとりJR成田エクスプレスに乗る。ネオンの谷間を電車が走る。エクスプレスと平行に山手線が走っている。サラリーマンのおじさん達、ケバイネエちゃん、学生、皆表情無くつり革につかまり、移動している。持ち帰ったギャラはドルで支払われており、円が安くなり、日本経済がヤバくなればヤバくなる程こちらには有利となる。どう考えても因果な商売だ。疲れたな。ぼくも格好をつけていないで、今晩カツカレーと讃岐うどんでも食べることとしよう。

某月某日
昨日から疲れが抜けず。買いすぎないよう注意しながらマーケットにて食材をいくつかもとめ、銀行へいき諸々の手続き。プチ引きこもりは終わりだ。しかし、少し外出しただけなのにとてもとても身体的に不快である。湿気湿気湿気湿気湿気湿気湿気湿気湿気と大気中にこの2文字の漢字が浮遊しているのが見えるような気分。されど呼吸しなければもっと苦しそうなので、やむを得ずこれら2文字の漢字を鼻から吸って、皮膚呼吸とやらも自律神経かなんかが取り込むべく体が自然に動いている。作曲を試みるも脳内まで件の2文字が侵入しているような感があり、どうにもこうにも、まるで顔面の全ての筋肉がふやけたような気分が続く。お気に入りのCDを聴く気にも成れぬ。稀に、ピアノを教えるでもない、夜演奏するでもない、全く自由な一日が月何回かあって、今日はそういう非常に貴重な日なのにもかかわらず、天候のさえないことをいいことに、グーたらぐ-たらしているのである。日本には四季があり、台風があり、地震があって、よって日本人は気候の変化で文芸芸術を発達させ、衣服も様々な工夫をこらし、天災によって壊れたものを根気よく立て直すという行いを長年続けた結果、勤勉で創意工夫に富んだ生活様式を文化の土台とした。と、これはある本の受け売りだが、だから僕もなんだかんだ言ってもだ、梅雨と言う一過性の気候にある意味感謝順応せねばならないのかも知れない。しかし、それら先人の築いた智恵をないがしろにせねば、いまの現代的快適さもなかったかと思うと、なんだかやたらパラドキシカルな土台の上で、我々は生活しているともいえる。日々もう少しお天道様を拝めれば、僕の発想も少しは変わってくるのであろうが、何れにせよ、お天道様も照り過ぎると困るのだ。今年の夏はまた灼熱地獄となって、我々の体を照りつけるのだろうか。まいりますなあ。

某月某日
昨日近畿方面のツアーから帰って一夜明け、少し部屋をかたずけたら、何もする気力がなくなってしまった。よく中学生の頃こういう気分に陥った。今日は午後からピアノを教えるのだが、それまで体を休めることとする。もとより冷蔵庫はツアー前に空にすべくうまいこと自炊していたのでなにもない。昼飯は近所の蕎麦やに注文す。起き上がって小便に行くのも面倒くさい。考えをまとめねばならぬこと、どうしてもやらなければならない仕事上の雑事、数えきれないほどあるのだが、体が動かねえんだからショーガネー。外に散歩に行くのもおっくうである。プチ家出ならぬプチ引きこもり状態となった。テレビを見ても、もう本当にロクデモナイ事ばかりが起こっているような気がして悲しくなったので見ない事にした。泉鏡花作、高野聖が読みかけだったので読む事とする。文体が美しくて、気持ち悪い怪奇な場面が多々物語のなかに登場するのだが、この何ともいえない奥ゆかしい文体の深みはどうだ。嵐山光三郎作、文人悪食に泉鏡花も登場する。彼は非常に神経質で、ナマものは絶対口にしなかったそうだ。鍋物の肉も煮すぎて縮んだようなものしか食べなかったそうだ。そして相当の恐がり。酔うと乱れて、彼の美しい物語とは正反対の言動をくりひろげた旨書いてある。プチ引きこもりでちょっとした古典などをじっと読んでいると、さすがに体がむずむずしてきたので、散歩に出るも、外のあまりの湿気にすぐ退散。行くところ無し。激務の後の疲労であれば熟睡もできよう。意外とツアー中は運動不足である。ただただ車の椅子にまんじりともせず長時間すわっている。しかし体は別の意味で疲労する。しかしそれは、熟睡をさそう爽快な疲労感ではないのである。今日は一日、プチ引きこもりを続けるしかあるまい。

某月某日
旅から帰り、鞄の中の荷物を解体。よく、家につくまでが遠足だといわれるが、僕の場合は、汚れた下着類を洗濯機にぶち込み、鞄事体をからにして陰干しにし、短いあいだに届いていたメール、ポストの中の書類などをテキパキと分類するまでが遠足となる。後はとにかく酒を飲むしかすることがない。ツアー出発前、なるべく空にしておいた冷蔵庫を恐る恐るあけてみると、いくつかのものが少量のこっている。お土産に買ってきたイカの塩辛と日本酒で、ちびちび飲む。昨日までのツアーは約1000キロ移動したこととなる。いくらちびちび飲んでも、頭の中が岩石にでもなったような違和感が抜けない。酒の小ビンを飲んでしまって、さあどうするかなあということで部屋の掃除を始める。頭がハイパーだからテキパキと意外に作業がはかどった。しかし肉体は慢性疲労症候群一歩手前という状態である。大きく考えたら、もしかしてかたずいたような気になっていて、実際なんら変わりないのかもしれない。明け方に就寝。遠足は終わった。

某月某日
津上研太(SAX)ひきいるBOZOのツアーが始まった。梅雨のある日、新宿ピットインに集合し最初の目的地、山梨県甲府をめざす。ピットインにいってみると、ベースの水谷の車がピットインの前にある。彼の車に、楽器、機材、それと4人のメンバーがすべてぎゅうぎゅう詰めになって行くのである。空は曇り、雨とも霧雨ともつかぬじとじとしたものが空中をただよっている。みなで荷物を積み出発。梅雨時期のツアーは久しぶり。新しく着替えたパンツとTシャツがすでに皮膚にはり付いている。これもまた、ひとつの日本的情緒とあきらめる。一生砂漠地帯に暮らす人を思えばなんのその。今回のツアーのメンバーはリーダーの津上研太(SAX)、水谷浩章(B),外山明(DS)、そして僕自身。甲州街道にていきなり渋滞にまきこまれる。雨はしとしと。にもかかわらず、大気中がみょうにまぶしい。サングラスをかけ狭い車内に鎮座。渋滞を抜け出し中央高速を走り出すと、車の流れは順調。久しぶりに、自分の家から半径30キロ以上のところにでた気分。車に長距離乗るということも久しくなかったので、眼球が外の景色を追いきれず、目がチカチカとした。やっと外の風景に成れてきたところで一端サービスエリアにて休憩。超ウルトラジャンクな食い物やお土産の総合体のような場所にてうどんを喰う。その後ヨーグルトドリンク。胃腸を最初の段階でいたわっておかないと、のちのち苦しいはめとなるから。クラブでの演奏後の打ち上げは、内輪で催される演芸親睦会の様相を呈す。参加すること事体にはやぶさかでない。しかし内臓のキャパシティーには合理的な意味での限界があるのも事実。ツアー出発直後にカツカレーなど喰おうものなら、これが意外と全行程にわたって体調を左右する。久しぶりのサイドマンとしてのツアーでもある。交通費、クラブとの連絡、ホテルのチェックイン、チェックアウトの時間の確認。各クラブのオーナーとのギャラなどの交渉。これら僕がリーダーとしてやらざるをえなかった諸々の雑事すべてから解放される。またさらに、学ぶべき点も多い。津上氏、ツアーの日程表から、交通運賃の細かい額から、移動にかかるおおよその時間から、マピオンを合成して作った地図から、全部きれいにファイルしていちいち高速の料金所で運賃をチェックしている。頭が下がった。午後4時頃、最初の演奏場所である甲府到着。1月にデンマークから帰って以来、都下の自分の部屋でしこしこと仕事を続けていた。演奏範囲も東京横浜近辺とかぎられていた。人ごみがなく、車の量が少ない環境にほっとする。エレヴェーターのないビルの三階のクラブ、KIPSにて演奏。KIPSのオーナー、N氏はひじょうに紳士的で優しいお人柄。奥さんはクラブの近くでブティックを経営されている。お似合いのカップルである。楽器搬入に難儀する。エレベーターのない急坂の階段を一歩一歩上がって行く。ふだん運動不足なのでちょうどよいとも言える。後ホテルにて少し休憩。あれよあれよという間に外は暗くなり、演奏時間となる。お客さんは満杯、以前甲府に来た時に聴きにきてくれた人も何人かきてくれる。今回の仕事は、元ピットインマネージャーであるT氏の紹介を通して実現したもので、下手なことはできない。幸いお客さんは大変喜んでくれたようで、BOZOのCD がよく売れた。演奏後そのままT氏の現在経営する焼肉やへ。ツアーの初日からトバスまいと思いつつ、久しぶりの会合と懐かしい話題でもりあがる。いつもながら、T氏のなみなみならぬ音楽への愛情と、長年ピットインで培ってきた確かな耳と音楽に対する審美眼に敬服しつつ絶妙にうまい焼肉をいただく。初日からこんなにトバシテ大丈夫だろうか。ホテルに帰ったのは午前4時近くであった。摂生しようと思いつつ、初日からはしゃいでしまったのであった。

某月某日
甲府をあとに、名古屋に向かう。JAZZ IN LOVELYでの演奏。有名な名古屋のテレビ塔のそばのクラブ。東名の車内でうだうだとしていると、研太の携帯に連絡があり、奥さんからの伝言で、KIPSのマスターからわざわざお礼の電話がかかってきたとのこと。嬉しいかぎり。湿気が高いがそよ風が吹き曇り。クラブでサウンドチェック後、ホテルで休憩。テレビを見ていたら、東京ではあまり見かけぬ番組がいくつかある。最近見なくなったタレントがそういう番組をもり立てていたりする。みな生きるのは大変なんだなあと、自分の事を棚にあげて思う。夜8時すぎから演奏開始。日を追うごとによくなるバンドのサウンド。津上氏、初のリーダーバンドのツアーとあって、意気込みがすごい。畢竟我々の方の演奏にも熱がこもる。名古屋でもたくさんの拍手をいただいた。演奏後、 LOVELYが食事を出してくれる。そのハンバーグが絶品であった。夜遅く巨大なハンバーグを食べながら、LOVELYにはいつも聞きにきて下さる臨床心理士のSさんと河合隼雄やユングなどの話をする。このSさんという女性、そそとしたおとなしい感じの大人の女性である。ニ言三言僕の身体的変調や、私生活の中で起こる嫌いなものに対する拒否反応などをsさんにしゃべると、彼女が身体的精神的観点からすぱっと問題点を言い当ててくれる。僕も一回カウンセリングにかかるべきかもしれぬ。盟友菊地成孔が言うところによると、神経症になった猿が人間に進化したということだ。頭でなく体で実感納得できる話題である。ということは、一般に医者の方も神経症ということになり、なにがなんだか分からなくなってしまう。何れにせよ人間は独りである。その一人の中に二人の自分が存在しているように思う。考えている自分を見つめるもう一人の自分だ。演奏中でさえ、このもう一人の自分は存在する。善し悪しは判断できないが、僕の場合、この2つの自分を操作して今までなんとかやってきたのである。しかしそのバランスの取り方、コントロールのしかたなど、まず一度専門科に相談した方が良いかも知れぬ。もっと飲みたいという水谷、津上をクラブに残し、外山とホテルに帰る。昨晩は夜更かししたので早めに床につくこととする。

某月某日
今日は名古屋から、京都郊外の精華町というところにあるクラブ、ナ-ダムに行く。早くホテルに帰っても、眠れなければしょうがない。昨晩も床についてもまんじりともせず天井を見つめていた。疲れているのに眠りにつけぬ。やっとうとうとしたら朝8時頃目覚めてしまう。通常チェックアウト10分前までぼーっとしている。残りの10分で、荷物整理、パッキング、入浴、ヒゲそり、その他を済ませる。他人が僕の部屋をのぞいていたら、気が狂った伊賀忍者が、へたなMr.ビーンの物まねをしていると思うに違いない。何れにせよ10分ですべてきっちりとかたをつけることができる。なぜ時間の余裕を見て退出の用意をしないかと言うと、僕はなぜかゆっくりと荷物をつめることができないのだ。同時進行で2~3のことを、こうパパパッとかたずけないと気がすまない。ツアーの夜のホテルの中では、何かそこはかとない愁訴感にとらわれることがある。部屋もいい部屋で、清潔である。なにが僕をこういう鬱な気分にさせるのだろうか、朝11時、名古屋を出発。目的地は奈良と京都にはさまれた学園都市の精華町。高速道路から後半一般道を通って行く。そして精華町へ。林の中に突然モダンな建物があらわれる。筑波に少し感じが似ている。ナーダムは以前きたことがあり、オーナーとその奥さんも顔見知りである。その奥さんの作る料理が非常に美味しい。ナーダムでサウンドチェック後、軽くチキンカレーを御馳走になる。とても美味しい。なんでも、まずとり肉を軽く揚げてから煮込むと煮崩れしないとのこと。見えないところに手間ひまかかっている。ナーダムでもお客さんは満杯で、非常に良い感じのヴァイブレ-ションで演奏を聴いて頂いた。日本のどこのクラブでも恒例でひらかれる演奏あとの打ち上げ親睦会。非常にありがたいことである。外国のクラブなど、絶対こういうことはあり得ない。契約書にホットミールを用意するという項目があっても、何だかつまらないサンドイッチ程度のものが出るのみで、日本に初めて演奏にきた外国のプレイヤー達は、まずこの日本式の歓待に目を見張る。この日の料理も、カレーに続いて非常に美味しいものであった。程よい時間にお開きとなりホテルへ帰る。

某月某日
今日は、京都郊外から鈴鹿のドジハウスへ向かう。行程は全て一般道を使い、紀伊半島の根元を横切るようにして走る。途中からとんでもない山奥の国道をくねくねと進む。道に平行して川が流れており、吊り橋などかかっている。まず一生来ないような場所ではある。どこもかしこも山々の緑濃く、国道沿いの道も名も知らぬ草や雑草が生い茂っている。梅雨の霧雨をしとしとと浴びて、むんむんとにおいたつようだ。車内から見ていてもそう感じるのだから、外はものすごい湿気なのだろう。当然僕はカーエアコンを最強にし、窓を密閉し、ジッとこのような景色が過ぎ去るのを待つ。湿気と害虫が大嫌いなのだ。車内はいつもそうであるように、我々四人のミュージシャンの四次元的ジョークとだじゃれが飛び交っている。ふだん生活する場所を離れ、毎日違う場所に移動して演奏していると、だんだん精神的脳軟化症に侵されるのである。逆に疲労感はあるのに妙に体はハイであり、狭い空間に男4人がぎゅうぎゅ詰めになって移動している。足も伸ばせぬ、姿勢もそんなに変えられぬ。余すところだらだらとクダラナイ話をしてお互いがゲタゲタ笑いながら目的地に向かうしか方法はない。公にはできない非常に秀逸なシモネタも飛び出してくる。しかし不思議なことに、そういうネタはその時かぎりすぐ忘れてしまう。そのシモネタを言った瞬間その場の空気ががらりとクダラナイ空気に染まればそれで良いのである。クダラナケレバクダラナイほど効果がある。さて、鈴鹿到着。ここは非常におっとりとした優しい町並みの地で、ドジハウスのオーナーYさんもその町並みを体現したかのような方だ。すぐに機材を車からおろさず小休止。Yさんから美味しいお茶を御馳走になる。何やら飲んだこともない美味しい紅茶で、器も秀逸。この他、大小の器、骨董家具などが店内にごろりと置かれており、いい意味でオシャレな空間である。ピアノの調子も非常によろしい。簡単なサウンドチェックの後、ホテルにて休憩。昼寝をすると、また夜眠れなくなるので、テレビを見る。どこもかしこもサッカーの番組だらけだ。今晩はブラジル、ドイツの決勝戦ということであった。すっかり忘れていた。客の入りは大丈夫であろうか。サッカーがこれほどメディアを席巻してしまっては、もはや避けては通れまい。ブラジルチームに関する番組を見ることとする。得点王ロナウド、彼は、怪我の克服のため2年半の歳月を費やし、あらゆる努力を重ねてきたことを画面が伝えている。サッカーの文句を以前日記に書いたことを少し反省。次はロベルトカルロスの豪邸が画面に写った。もうすでにミリオネア-なのである。貧しい生い立ちからブラジル代表となった。大金持ちになってもサッカーをやるモーティヴェーション、それがこの番組で見ていていちばん面白い瞬間だった。それはセレソン、ブラジルの代表である誇りと、子供達のためだと語った。僕はちょっと腕を組んで唸ってしまった。偉いものだ。稼ぐ額のゼロが10コ以上違うとは言え、これは僕にも当てはまることではある。MOTIVATION,なぜ僕は音楽をやるのかと言うこと。億万長者になる心配は逆に悲しいかなしなくていい相談だが、僕にももっとストロングなMOTIVATIONが今必要なのかもしれない。サッカーもまんざらではないな。こういう番組をたくさんやればいいのに。川に飛び込む若者は映さんでよろしい。ドジハウスへ行ってみると、なんとお客さんが満杯で我々を待っていた。サッカー決勝戦の日だというのに、何とありがたいことか。ツアー最終日でもあり、これは残る余力を全て出しきって、最高のパーフォーマンスをお目にかけなければ成るまい。言わずもがな、他のメンバーにも同種の気力が満ち満ちているように見受けた。ステージ上の音のバランスもよく、特に外山氏のドラミングには共演者ながらしびれビレビレ状態で演奏す。音楽がどういう状況にあろうと、観客の集中力が、我々の放つサウンドに最大限集中する瞬間がある。それを最大限うまい形で長く保とうとすると、逆にその緊張感がぷつんと切れてしまう時がある。逆に演奏していて気付いてみたら、その観客の最大限集中パワーが思いのほか長い間続いているということがある。いずれにせよ、ドジハウスのお客さんはそれだけ質の高い人々ということである。音楽に呼応するのが早い。全て無事終了し、またまた打ち上げ親睦会となる。Yさんの手料理だ。カツオのたたきが出た。鈴鹿は海が近い。豊穣で贅沢な味。さらにかしわ入りの炊き込み御飯。このあたりでは竹輪を入れるという。その竹輪が隠し味となってなんとも優しい味。最終日ということで、ワインを飲んで、ラムをストレートであおった。急激に細胞の隅々まで酒がまわって、デクノボウ人間になってくる。まあこの時点で緊張が少し緩むことぐらい、オレの親父も勘弁するだろう。不覚にもうとうとしていたら、ドジハウスのものすごいステレオセットとそのスピーカーから、ものすごくいい音で音楽が流れてきた。マイルスだった。ネフェルティティーだ。自前のステレオセットでは聴こえていなかったものがたくさんあることに気付く。とたんに目が醒めた。外山氏によると、グループ全体がアフリカのリズムに精通した上でアンサンブルしているとのこと。それよりなによりも、グループ全体のお互いの距離感と反応のしかたが半端ではない。スピーカーは巨大で、とても一般家庭におけるものではない。少しでも長く音楽を聴いていたかったが、やはり疲労感の方がまさりおいとますることにした。演奏後妙に元気なミュージシャンは信用におけないという持論を内心言い訳にして、スタッフ一同に丁重に礼を述べ、ホテルに帰る。窓からうっすらと海岸線が見える部屋である。もともと深夜であり、曇っているにもかかわらず、窓からうっすらと見える海岸線がとても僕の心を引き付ける。歴史や文化がこの陸地の上で徐々に変わっていても、海はそっとそれを包み込んでいるだけのような気がした。ホテルの窓の向いには、ファミリー・レストランの明かりが煌々と光を放っている。そこだけなにか夜の空間そのものが下世話なものに見えてしょうがない。こういった町並みは、鈴鹿にかぎらず、日本全国どこにでもある風景となった。しかし一端海岸線に目を移せば、もともと日本の国自体がもっていた優しさ、たおやかさがまだそこに残っている。海はすばらしい。

某月某日
本日、鈴鹿から東京へ。鈴鹿から名古屋に行き、東名高速にて静岡をゆるゆるとはしる。途中のサ-ヴィスエリアにて何度かだらだらと休憩。ベースの水谷がなんとその日の夜六本木で仕事があるとのこと。ぐずぐずはしていられないが、急ぐ必要もなし。水谷が週間現代と週間ポストを購入。良いアイデアである。僕もすかさずふだんは絶対買うこともない週間芸能を購入。全てオヤジ雑誌である。微妙な観点から事実とうわさをないまぜにした内容の記事を書き、オジサン達のストレスをやわらげ、同時に刺激する内容が多い。僕も言ってみればすでに年齢的にはオジサンの域に達している。しかし、上場企業だとか、そのボーナス比など世間知らずな為、ぼくにはどうもピンとこない。三つの雑誌を車内で回し読み。エッチな記事とグラビア、政治の事、金融クライシス。オヤジ系の雑誌の話題は豊富だ。ここがうまい店系の記事には、何となく惹かれる。基本的にすべてがものすごくクダラナ内要なんだけど、基本的にこのテのクダラナサが非常に貴重な空間がツアーの帰り道とも言える。揺れる車内で、みなで熟読。水谷は頭に豹柄のタオルなどを巻きつけて、何だかわけの分からない人物となって、車のダッシュボードの両足をのせ、雑誌を読みふける。僕はといえば、靴と靴下を脱いであぐらをかき、オヤジ雑誌に目を通す。こんな光景を、逆にCDのジャケットにしたら面白いかもしれない。パブリックイメージの崩壊だ。まあ、毎回思うことですが、こんな道徳の教科書みたいなことを書くのは柄でないこと百も承知でいいますと、すばらしい人たち、メンバーを含め、クラブの方、そのスタッフの皆様、お客さんによって、僕らは支えらレてるんだなーなんて、あらためて自覚したツアーでした。皆様、ありがとうございました。

某月某日
昨日のレンチャンの演奏で疲れきったので、今日は休むこととする。朝からテレビなど見てすごしてしまう。なぜかは知らねど今さら太陽に吠えろなど放送していて、ジーパン刑事こと松田優作が画面に写っている。外は日の光があふれている。体は疲労からあまり動かしたくない状態だ。ジーパンが叫びながら犯人にケリを入れる。おなじみのテーマソング、なんだかキガクルイソウニなったのだった。つかの間の禁治産者的な瞬間。さぼるというか、グータラすること事体の快楽と、なにかしらの後ろめたさ、そこはかとない自己嫌悪が頭をよぎる。休むというのは、いったい本当は何をどうしたら本当に「休める」のだろうか。太陽に吠えろを見続けていると脳みその血液が紫色になりそうになったので、チャンネルをまわした。どこもかしこもどいつもこいつもサッカーである。サッカーサッカーサッカーサッカーサッカー、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、!!!!?あまり人から見て偏屈なやつとは思われたくはない。しかしこれはどう考えても騒ぎすぎである。大勢の人が動いて莫大な金が動いて大騒ぎである。誰が考え出したスポーツかしらないけれど、うまいこと人間心理をついたルールと体系だ。手を使わない仕事。ぼくの仕事と正反対。手を使わないでいったりきたりしているのを見ていると、みなイライラするのだ。体を鍛え抜いたモノスゴイ人間がいったりきたりいろんなことをしても、3点取るのも大変なのだ。手を使わずに。またみなイライラする。前回のワールドカップのときは、ぼくのなかにも何かしら熱い思いが日本チームに対してあったのはたしかである。しかし今回は、あまりにも全部が全部騒ぎすぎという感があり興醒めだ。顔に日の丸などをぬっている者がいるが、なぜ学校で国歌を歌うことが禁止されるのか。ぼくは右翼じゃないし、基本的にどうでも良いことでもあるけど、なんだかさっぱりわからない。監督も日本人ではない。優勝することに意義があるのか、日本人が海外の選手に勝利することの方に意義があるのか、どっちなのだろうか。優勝することに意義があるのであれば、海外からめぼしい選手を大枚の金でつれてくれば良いのではないか。入国と同時に日本国籍を与え日本選手とすれば優勝する確率はグンとアップするに違いない。この騒ぎがおわれば各々母国に返せばよい。日本人として勝つことに意義があるのなら、監督から変える必要があろう。こう考えて行くと、誰が勝っても負けてももうどうでもいい。ただただ妙な騒ぎにだけは巻き込まれたくない。基本的にぼくには関係ないことだ。まあ、疲れているからちまたの叫喚について行く体力がないというのも理由かもしれない。いずれにせよ、昼寝をすると、また夜眠れなくなるので、無理をして起き上がり、ちょっと贅沢をすることとする。何のことはない、近所の寿司やに昼飯を喰いに行くのである。顔なじみの店主。いつもの握り寿司1.5人前。寿司はいいなあ。これぞ日本人に生まれてよかったと思えるアイテムのひとつ。寿司と落語。ネタに醤油をつけようか、シャリに醤油をつけようか、ワサビとの相性で逡巡するのである。逡巡なんておおげさな言葉を使っているようだが、楽しいことがらのなかでの「逡巡」は心の栄養でもある。この近所の寿司やは、シジミ汁が付いてでてくるのだが、この「逡巡」の楽しみの間合いにずずずとそれをすすると、またこれが旨かった。この寿司やの店主から近所の旨い魚屋の話となり、一件めぼしいところを教わる。体を「休める」にはそれこさもってこいの「ネタ」である。寿司を喰いおわってさっそく探索に行く。もう昼過ぎなのになぜだかやっと市場からトラックが到着し品物を並べている最中であった。魚屋の女将はなぜ色っぽく見えるのかなあなどとアホなことを考えつつ、無難なところで塩鮭をかった。色つやがよかったから。夕飯にそれを焼いて食べたら近所のマーケットの魚より旨かった。良い「休み」の日となったような気がした。

某月某日
横浜ジャズプロムナードで演奏。初日の昼から井上淑彦氏のクアルテット。アワくって急いで家に戻りピアノを教える。二日目のプロムナードは昼から津上研太BOZO,夜はクラブドルフィーにて再び井上氏と演奏。両バンドともレギュラーのベースは水谷浩章だが、ヨーロッパに行っていて不在のため我が盟友安カ川大樹が演奏してくれた。安カ川氏、ほとんど両バンドのオリジナルを瞬時に理解し、しかもひじょうに、そしていつもの男らしいエレガンスにあふれたサウンドを聴かせてくれた。あらためて言うのも変かもしれぬが、すばらしいベーシストである。田鹿、井上のコンビネーションも抜群の相性で、しかも音楽は清爽である。ふだんは昼の12時から演奏するということはまずない。今回また昼間から演奏して分かったことだが、ぼく自身の体事体がとことん演奏するという行為によって成立っているということがよく分かった。どういうことかというと、昼演奏が終わると、脳内や、思考パターン、行動様式その他すべてが夜12時以降のものとすり変わってしまうからだ。ただ単に眠くなってしまうといったハッキリとわかる症状ではなく、簡単にいうと腹時計の具合、舶来の言葉で書きあらわせばバイオリズムの変化といったところ。とにかく日が照っていてもぼくの精神を含め体の内部は夜の動きとなった。ということでクラブドルフィーで夜7時過ぎから演奏を始めた時、ぼくの脳や体内は時計の文字盤にある24個の数字以外の場所にあったのだった。場所というか、観念的にそういう次元にいたとしか書きあらわせない。別に発狂して制御不能になるといった妙な状態ではない。そうなれば、時計の文字盤のなかにいない自分をこのように客観視はできなかろう。しかしひとつだけハッキリ自覚できることは、文字盤の外にいるような感覚を、これから通常の夜の演奏時間にも呼び覚ますことができるだろうということだ。これには、この日記にも書いたように、BOZO,井上淑彦氏のクアルテットのバンドを構成するすばらしい共演者がいてこそ可能なことなのである。面白い体験だった。

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