飲酒を止めて八年強、煙草を止めて一年と四ヶ月。朝は六時時過ぎにサッと目が覚め、最近始めたクラシック和声の勉強をするウチに午前八時ころ、特に腹は減らないので珈琲を三杯ほど飲みピアノの練習、防音室に閉じ籠もるのみで太陽光線を浴びたい気分になると、外へ散歩に出る。最近は冬晴れの日が多いが、小雨くらいであれば帽子のみで傘などささず、ずんずんと進み歩く。のち家に帰ってからヨガを20分ほど。酒煙草を止めたあと、禁煙外来の医者に、禁煙をこころみる者は逆に身体に良い習慣を身に付けようとすると聞いた覚えがある。そのほとんどがランナーになったりジョギング、水泳を始めるとも聞いた。私も色々と試してみたが長く続かず、一年とちょっとしてヨガと出会った。私がやっている流派?はアイアンガーというらしいが、詳しくは意識的に調べない。唯々先生の言うことを聞いて身体を動かすのみである。ヨガの利点は場所をとらない、雨の日でも屋内でできる、マット一枚あればかなり過激なポーズまで許容する。YOU TUBEなど見れば画像は腐るほどあり、流派にかかわらずポーズを真似ていればそれ相応の効果、即効性を伴った血流が全身を流れわたるのが分かる。これは禁煙しないと得られない感覚だろうと察知できる。つまりヨガ教室に教わりに行くポイント制のティーチング・フィーを抜かせばいつでもどこでも全部がタダ、いつどこでどのくらいの時間妙なポーズをとっていようが全部タダ。ヨガの良さはこの即効性と臨機応変性、海パン買う必要無しの、時を選ばぬという所にある。重複するがYOU TUBEなどのヨガ画像を見てかなり過激なポーズをゆっくりとやっているが、これは本当に即効性がある。こうでもしていなければインド人も暑くてやりきれなかったのだろう。禅とはまた違う心と体への自らの、自らに対する「攻撃」である。犬のポーズ、ウサギのポーズ、ヨガスタジオでぶっ通し二時間ヒモなどを使ってゆっくり動いているつもりであっても、土砂降りに遭ったような汗が体から吹き出し、筋肉、骨、その両者の間や隙間を通る筋の具合が、つまり体の内面、体幹がヨガをやっていると手に取るように分かる。そしてこのヨガの最大のヤバイところ、二時間ブっ通しスタジオでやったあとなど特に、酒煙草を止めたせいもあるのか、真の意味で本当に脳みそがブううううゥうっっっっっっ飛ぶのである。コレはグラヴィティボングで何やら怪しい煙を吸うのとは比較にならない。私が言うのだから保証しよう。桜田門の方々のコトを気にしてこそこそせずにブううううゥうっっっっっっ飛びたいあなた、ヨガです。飛びます跳びますトビマス。鶴太郎氏が家族捨てても五時間ぶっ通しでヨガをやる意味がなにげに分かる。彼は分かっちゃったんだな。ああ、これトベるって。某野球選手はヨガに出会う前にヤバイものに出会ってハマッちゃったのだろう。順番が悪いと言うことは運が悪い。払わなければいけないカネと、払ってもしょうがないカネの見分け方は相当難しい。
一昔前の私なら、ヨガ?何だそれは。オレはレインボーマンじゃネエしインドの乞食じゃネエ!でお終いだっただろう。こんな世の中長生きしてどうする。酒をガンガン気を失うまで飲みまくり、タバコは一日何本吸われますか?なんて医者に訊かれていた頃は、「吸えるだけ吸うし本数は数えないし、一日という単位もわかんないし、、」なんて医者にうそぶいていました。煙草を止めてから確実に肺活量が増え、歩くことがとにかく楽になり、ヨガを始めてすぐ、更に胸を反らさずとも肩を落としたまま自然に胸が開くようになり、更に更に、息を吐くとき、肺の中の空気のみならず内臓、腸の奥からゆっくりねじり出す呼吸法が自然と身につき、歩くことが更に快適になり、散歩、太陽、空気、深呼吸、ヨガと全部がタダで、しかも気分が良くなることばかり。脳という器官も、胃や腸と同じく人体の一つの機能、内臓と捉えられる様に成り、意識無意識、サブコンシャスがどうたらとか、要するに腸内細菌が億単位であることと同じく、生きている、という状態自体が医学で証明されていないのだから、無理したら休む。休めなかったら寝る。それが許されないほど忙しい、ということは、私という身体を過剰なまでの貨幣価値に曝しているという事に等しい、と、つまり食い過ぎによる腸の不快感と下痢、資本主義社会で生き残ることばかり考えすぎて抑鬱状態になる脳。要するに使いすぎなのだから、休むに越したことは無い。生き残るために病気の元を作ってもしょうがない。早死に長生き双方せずに、うまくこの世からおさらばする方法を、音楽理論より深く考えているのだが、その考えが行き詰まると、ヨガだヨガだヨガだ。身体を伸ばし拗り畳み込んでギリギリやれば脳に血流がおびただしく流れゆき、ブうううっっっトベルのでその勢いで、目の前の問題をかたづけていれば、そのうちおむかえもくるってことさ。あはははは。幸い私自身がこの浮世で何かやっても、テレビなどに出ているなんだか有象無象よりも貨幣価値はそんなに高くも無いようだし、貨幣価値を上げるために無理して調子悪くなって医療費がかかったらナニやっているんだかよく分からない。どうして生きているのかさえまだ人間は哲学的に答えを出しているとは言いがたいのだから、これ以上生に対する話を複雑にしなくても、もう良かろう。
ダブルに幸いな事に、私はフリーランスのミュージシャンであり、借金が無いのではなく、借金ができない。子供がいない。自動車も、株も、社会的地位?も、まとまったカネも、何も持っていない。妻はカタギであり、育ち盛りではないので最近は一日一食半程度食べれば眠れる。音楽なんかやったって喰えない、ジャズなんてやったって喰える筈ないと、何度も、様々な人から何回聞かされてきたことだろうか。それが、禁煙一年後に体重が十キロ増え、その後の四ヶ月で五キロほど落とした。どういうイヤミな理不尽、不条理なんだ?この禁煙による体重増減は。少なくとも何か喰ってなきゃ体重は増えないだろう。だがそんな大食いしているわけでもない。少なくとも何か喰えているという、不条理な証である
もう一度書く。飲酒を止めて八年強、煙草を止めて一年と四ヶ月。加えてテレビを見るのを止めて六年、ニュースを見なくなって二年強、一人で散歩をしているだけでも、だいたいの世の出来ごとは耳に入ることを知った。細かく知ってもどうせ忘れる。政治も、時勢も、人心も、経済社会世の中も、これから光り輝く希望に満ちた未来に向かうはずはなく、我々は減衰破滅の時代を生きている。残念ながら、希望という概念はもろいが、絶望は現実的で、皆その絶望の中に希望を見いだそうとしているが、そんな行いこそ笑い飛ばしてしまう、虚無的、デカダンな明るさ、つまりいずれ死ぬまでをどう無理に面白く生きるかを覚悟するしか、今のこの時を一瞬々々やり過ごすことはできまい。ある意味の居直り、ケツまくり、あっかんべーである。こんなにカネが無くても禁煙すると太る世とは、稀に見る飽和社会であるに違いなく、それと同時に貧困がはびこり、この前蕎麦屋に行って、たぬき蕎麦喰いながら久しぶりにテレビを見ていたら、誰かが貧困の末餓死したとのニュースの後に、ダイエット食品のコマーシャルをやっているので、喰っていた蕎麦を吐き出しそうになった。絶対的不条理、理不尽は、突然妙なスラップスティック的ユーモアと共に眼前に突然現れ出る。こんな罰当たりなことを、ちっこい島国の中だけでやっていたら、今に絶対、天変地異、経済崩壊、社会秩序の乱れによりガラガラポンが起こるなと、そのニュースとはまったく関係ない妄想を、現実と結びつけて想像してしまう。まったくワタシを含め人間は本当に御しがたい。嫌になるほど欲深く愚かでもある。それを諫めるのは津波や地震、自然の力で、つい最近それで痛い目にあっているのに、我々は忘れやすいんだろう。最近は原発の事なんて微塵もニュースになっていないはずだ。政治も国際情勢も、全て罰当たりなことだらけだ。あ〜あ。
本来こういう「ジャズピアニスト」のブログにおいては、どういう練習をすればアドリブが上手くなる、ペンタトニック云々、ハーモニーのこと、グルーヴがナンチャラ、などもっと書くべきなのだろうけれど、誰かこの文中に五線を挿入する術をご伝授ください。そうしたら面白いこといっぱい書きますよ。面白い演奏話しと共に。さて、もう師走か。私も一応教えているからジョギングでもするか。あ、アレは続かなかったんだ。ヨガだヨガヨガ。ガ〜〜〜〜〜。あ、明日はこれだから皆様よろしく願いします。
晴れたら空に豆まいて http://mameromantic.com/?p=54888
2017.12.7.木.
『インタリュード』 与世山澄子 with南博 / 安ヵ川大樹 / 菊地成孔
ビリー・ホリデイの伴奏者だったピアニスト、マル・ウォルドロンが愛した、沖縄が生んだ伝説のジャズシンガー与世山澄子。
彼女が30年以上に渡り守り続けてきた自身のお店『インタリュード』の歴史を残すべく、東京から南 博、安ヵ川大樹、菊地成孔、またZAK、パードン木村などそうそうたるメンバーが集まって2005年に録音されたアルバム、その名も『インタリュード』。(発売:タフビーツ)
2005年に発売されてから、根強いファンも多いこの作品。
その当時録音のために集まったミュージシャン、南 博、安ヵ川大樹、菊地成孔が12年の時を経て再びここに集結。
インタリュードの収録曲を中心に、感動の瞬間がここに蘇る。
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与世山澄子 (vocal)
南博 (piano)
安ヵ川大樹 (bass)
菊地成孔 (sax)
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開 18:30 演 19:30 ・ 前 4,500 当 5,000 +1D 600
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整理番号順入場
(店予約、イープラスの並列入場)
協力:タフビーツ
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南 博
安ヵ川大樹
菊地成孔
インタリュード
エンジェル
沖縄に行ったら、エンジェルと出会った。
その人は都合上、与世山澄子という日本人の名前を持っていた。
しかし、言葉が何語だろうが、彼女がエンジェルである事に変わりはない。
そのエンジェルは、エンジェルらしくなく、西洋画に出てくるような、
派手なポーズもとらず、自分から我が身をエンジェルだと主張する事もなく、
静かな居住まいを持っている。
一生のうちエンジェルに会える機会など、そうやたらにない事は僕にも分かっていた。まさか沖縄の街中でエンジェルに会うことができるとは。
僕はラッキーな男なのだ。エンジェルと過ごした夜の数々、
その暗闇に、彼女の頭のうえのシンボルが、僕らを隅々まで照らしていた。
たくさんの流れ星、天に向かう歌声、エンジェルの査証はこれで十分だ。
text by 南 博