ジャズは「難しい」のでしょうか。

本日は「素」の休日とでも呼びたいほどの、朝から妙にしんと静かな一日で、世間は相変わらず騒がしいけれど、しなければいけないことが一段落した先の、後は各方面から答えを待つのみという頭の回転と様々な進行状況が膠着するという日であり、自分が「素」に戻れる貴重な一日であった。

幸いにも本日は晴れ渡り、四月中旬より何故か肌寒くはあるけれど、身軽な私にはその空気がとても心地よく、散歩する街々の表情もひじょうに澄み渡って見える。こんな日には新しいスケールの練習でもとも思うが、本日は楽器の演習も休むことにし、Sound cloudなる新しいメディアにも、何やらちょっかいを出しているのだが、今ひとつ使い方と用途が分からない。更に最近始めたInstagramも,何をどう宣伝で使って良いものやら、まずは使いあぐねているというのが現状だろう。FBやtwitterのみでは追いつかぬ世になってきたようだ。

朝、規定の散歩から帰り、部屋を掃除し、軽く瞑想をしてから自分の時間をゆっくりと過ごすこととする。明日は下北沢Apolloにて斉藤#社長#良一Gトリオでの演奏である。明日(もう今日になってしまった)のみならず作曲ももっと頻繁に毎日続けなければいけないのだが、ある意味神は人間を自らに対する完全なる奴隷としておつくりにはならなかったのではないかと最近思う。つまり、観点を変えて言えばどんな奴隷にも余暇は有ったはずで、そうでなければブルーズも育たなかったろうし、イソップ童話に出てくる人物達も、あのような物語を創造するヒマさえなかったであろう。

さて話は飛ぶが、ジャズは難しいといわれて久しい。では簡単な芸事とは何でどのような形態のものを指すのだろうか。例として、歌舞伎観劇こそ芝居にかよってかよってかよいとおした者しか分からぬ面白みと、他の演者との差異を楽しめる最も粋な道楽の一つと言えよう。落語も映画もまたしかりである。しかるに音楽は、クラシック、ジャズ、ロックとジャンル分けが過ぎるきらいがあるが、同じ事が言える部分と、私の祖母さえ感動させうる何かしらの力を音楽自体は有している。一歩思考を深めると、音楽の場合は、その演奏に対して何の先入観、予備知識がなくとも、直接サウンドとして人間の胸中に響くからこそ、そこに大いなる神秘を聞き手は直感できる。

「ジャズ」が難しい、のであれば、それは聴く体勢がすでにナマ音として胸中に響く空気の振動を拒否している、または、難しいから聴かないという先入観が邪魔をしている時もあるのでしょう。芝居等はその物語、時代背景、作者の生きた時代等知ることにより更に解釈は広がり、より観劇の醍醐味を味わうことの助けになる。音楽にもジャンルを超えて同じことが言えるが、歌曲、歌詞を伴うものを抜かして、音楽そのものがサウンドで出来ている以上、芝居、歌舞伎、落語等ほど観賞に際して要求される基礎知識を必要とせず楽しめる要素は音楽の方が他に勝ると思う。何しろ私が始めてジャズという音楽を聴いたとき、何の予備知識もその歴史さえ知らなかった。多くの人に良い音楽を聴くきっかけさえめぐって来る回数がもっと増えればと願う。

音楽の理論さえ、天才の掟破りによって構築されたものの集大成であるし、一言でジャズと言っても、斯界の中でさえ、コレはジャズではない、コレこそジャズだと、謎の喧々諤々が繰り広げられているのであるから、なにも「難しそう」だからと言って恐れることもない。音楽に限らず芸事は最終的に好き嫌いに行き着くと私は思っているが、まずはあらゆる芸術形態に触れる時と同じく、ジャズってこうだという先入観をもみほぐしてから生演奏を聴く機会を持ってもらえればと思う。

人は社会的動物と充分分かりつつ、本日は誰とも口をきかなかった。唯々以上のようなことをつらつら考えながら歩き通した。

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